はてなキーワード: 儒学とは
・多重下請けビジネスは江戸時代の普請奉行のしぐさを基にしている
・江戸時代は、儒学を活用して「お上に逆らうことは人間的倫理に反逆する」と教え込んだ
・そのことで長期にわたり安定政権となり、将軍の権威も失墜しなかった
・同じことは、軍隊+マルクス主義のセットで隣国でも現在進行形で行われている
・江戸時代は町人文化など良い点もあったが、ベースは独裁と暴力・洗脳であった
・精神面における「江戸しぐさ」は、民主主義と対照的であり、精神の停滞と人権弾圧を肯定することになる
・多重下請けビジネスは、日本に根付いた江戸しぐさを悪用し国力を停滞させる目的で電〇によって発明された
当初11%以下だった自民党支持層の岸田支持率が河野に肉薄して来ている。
政策が好感を得ているってのもあるとは思うが、どうやらプロを入れたらしいイメージ戦略が奏功してるのは間違いない。
SNSの活用、インスタライブ、Youtubeのライブでの非政治ジャンルのカジュアルなQAから、こまめな政策発表も良い効果があると思うが
個人的には、細々としたところで感心させられる。例えば、岸田は演説の冒頭で、まず菅政権の実績に敬意を表して成果は成果として公正に評価しているということ。
河野はワクチン大臣としての業績はアピールするが、それを菅政権全体での成果としてはあまり触れない。あなたの成果は立派だが、それは政権あっての事ではないのか?と言いたくなる。
高市は特段菅政権を論う事もないが、かといって賞賛する様な事もない。そもそも後ろ盾の安倍と二階菅は友好的な関係ではないので止む無いのかもしれないが、勿体ないことだ。
枝野は、常に口角に泡飛ばして批判をするばかりだ。経済政策すら発表しないお前らに何が出来たというんだ?という疑問が頭から離れる事がない。
こうなると岸田の、菅首相の実績を評価し努力に賛辞を送りつつ、それでも自分はそれを超えて見せるという態度は頼もしく、好ましく、能力があるように見えてくる。
普段の振る舞いからメディアへの露出の仕方、演説の方法、言葉の選び方に至るまで、プロの目が入ってるんだろうなという事を感じさせる場面が多い。気付いても、気付かなくても、自然な形で岸田の印象はプラスになると思う。
アメリカの大統領選では、PRのプロが指導、アドバイスするのは当たり前の事なんだろうけど、今の岸田を見てその威力の大きさを改めて感じた。
古来、儒教にせよ、小笠原流にせよ、礼儀作法ってのが権力者の嗜みになっていたけれど、それにはそれだけの理由があるのだなと。所作一つで好印象が買えるならば、安いものということだ。
Tmr1984 儒教と小笠原流を並列に並べてるところが引っかかった。多くの人が並列にしないものをわざわざ並列にする理由を考えている。
単に、あなたに知識がないだけ。儒教ってのはかつては礼や楽をも代表するものだった。儒学者の礼が嫌いだった劉邦が、儒学者の冠を取って中に小便して返すような悪態をついていたというのは有名な話で
なわとび:602回
ボクシング:109kcal/21歳
徒歩:110.4kcal/3590歩
体操ザムライ見てて、フィットボクシングやるときも一つ一つの動作を丁寧にやっていこうと思った
少し前から「夜明け前」をちょっとずつ読んでて、この間ようやく1部が終わって折返し地点に来た
島崎藤村が自分のお父さんをモデルにして書いた幕末から維新にかけての歴史小説
1部の前半は木曽街道馬籠宿の庄屋の平穏な暮らしぶりが描かれるばかりなのだけれど、後半に入ると怒涛の勢いで日本の情勢が転変していく様が描かれる
あまりの情報量の多さに幕末素人な自分はめまいがするような心地がした
主人公の半蔵は幕末の青年らしく、自分も日本のためになにかしたいと焦りを募らせるのだけれども、彼が依って立つ平田篤胤の国学の思想というのがどうもちょっと曲者
本居宣長あたりから発するものらしいのだけれども、神の国である特別な日本古来のものを大切にしてそれによって国を作っていこうというもので、中国由来の儒学などの排斥を主張し、神仏習合を廃して純粋な神道を取り戻そうと言っている
これって、詰まるところは日本SUGEEEのネトウヨ思想の先祖なのではないか
半蔵くんは(ローカルな)ネットで真実に目覚めてしまった残念な子なのでは
「『国家の品格』を著した藤原正彦先生の『今こそ武士道を』ていう御意見への反論やけど……まず現実の武士を云々する前に、先生の論説のあり方が理屈としておかしい」
「文藝春秋2019年10月号『日本と韓国「国家の品格」』で、先生はこうおっしゃってます」
朱子学の教えでは、序列が上の人間に対して「礼を尽くす」のが最大の美徳となります。朝鮮はこの教えに徹底的に倣って、中国に対して礼を尽くしていました。〔……〕こうして朝鮮は「主体的国家」であることを放棄していたため〔法や秩序の意識が育たず〕その延長線上で、今でも簡単に国家間の約束事を破ってしまうのです。
「て言うと?」
「上野の学寮、湯島の聖堂、昌平坂学問所……時代は移れど、武士の中の武士であろう旗本御家人の頭に注入されてたんは、その朱子学。徳川時代中期、松平定信以降は朱子学以外の儒学が実質禁じられてさえいた」
「徳川期の武士道の中心には朱子学がある。そして武士道を推す藤原先生の念頭にあるのは、徳川期の武士」
「『国家の品格』が2005年に出版されベストセラーになってから今まで、藤原先生が徳川幕府における朱子学の地位について知ることがなかったなど、考えにくいんやけど」
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
武家は、統治のために中国の儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教は社会構造を維持するための宗教だ。日本史の教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教は社会の本質を担う物凄く重要なものだった。
そして例えば、長幼の序(年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制が典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。
さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教の教義を信奉している当人に儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人は無宗教」という言説が定説になっている。
日中戦争や太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教は身分差別・階級差別の宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本が東アジアの盟主(親分)たらんとしたものだ。
日本では、少なくとも戦時中までは公然とアイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人や中国人は未だに事実上の差別を受けている。戦前の政府は日本社会のシステムを押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本の論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人と同化せざるをえなくなった。
「国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別、階級差別の宗教だ。
日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争を反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから、謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人や韓国人も儒教徒だから、問題の本質が解決する可能性がない。
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
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1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
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1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
面接とかで取る入試制度を取ってる大学もあるよ。全部が完全にペーパーテストな大学はかなり少ない。勿論難関大学でも私立はそうだ。
まあ、ほぼ合否に関係ない名目上の書類提出とかは勿論そういう入試形式でも有りうるけど。
むしろ今の入試制度は、ペーパーテストがだんだん軽視されつつある。
一般入試こそペーパーテストだけど、他の形式の占める割合が大きくなってきている。
僕も昨日今出川の大学を受けてきたけど、私立入試は何回設けれるから「一発勝負」じゃないし。
地元で受けれるから負担も昔より減ってるし。まあ僕もちょっとあとにはW大受けるため新幹線を使わないといけないわけだけど……。
ただ、学問を学ぶ意義もないのに最難関大学に就職のために行くってのが問題だってのはとても良く解る。
例えば論文を高校生のうちに、仮に稚拙なものであっても「意欲」が図れるようなもを書く風習があったほうが良い気はしたし僕もそれを活用して大学を目指しただろう。
あとまあ国公立だとチャンスが限られてくるってのもアレかもしれん。
しかし、面接などで「意欲」を図るのは、ペーパーテストなどよりもよっぽど真の力が図りにくい。
数時間に渡る試験でも図れないようなパワーを、数十分の面接でどうこうできるとは思えない。所謂「コミュニケーション」出来るだけで、学ぶことの適性なき人間が有利になりかねない。
就職予備校は十分かもしれんが、学問を学ぶ場所としてのにそれはまずい。現状はペーパーテストが一番「マシ」なのだと思う。それを、推薦、AO、特殊科目入試などで補っているのが現状だと思う。
なお、科挙が廃止されたのは、アヘン戦争敗北から洋務運動・戊戌の政変などで「西洋近代化」が推し進められる中で、
科挙の出題科目は「儒学」であったことが、守旧的とみなされてなくなっただけのようにも思える。「古典を暗記して、解釈をする」だけが入試範囲だった。
今の入試は違う。どの科目も、なんだかんだ行って大学で学問をやるには役に立つ。あと、科挙はあくまでも「官僚採用試験」であり、官僚の適性を見るのが役目だった。それに古典しかないというのも問題だった。大学入試とは訳が違う。
まとめると、ペーパーテストはそれなりに合理的。回数を増やすことで、一発勝負の不安定感も一応軽減している。
別形式で、ペーパーテストで図れない力をみる入試もやっている。
それでもやはり、大学を就職予備校とみなして、学問を学ぶためでないのに入ろうとする人達は困りものだしそういうのと学びたい人を分けることのできる仕組みはやっぱり存在したほうが理想ではあると思う。ただ、現実にはそれはとても難しい。
「国語力を高めよう」
たまに聞く言葉だが、このフレーズのなかでの国語力とはなんだろう。
日本語力ではない。
基本は解釈論で、それを通じて国家や人間の在り方といったところも考えさせる。
もちろん、程度の大小はあれど。
(「ふーん、あっそう」では済まさせないなにかがある)
国語という科目がよくわかってない。
「国語」の授業は単純に「日本語」の授業だけではないことは明らかだし、「国学」とも違う。
内田樹のいう国語力とは、ethicsなのか、japaneseなのか、rhetoricなのか。
明治時代に国語という科目を作ったとき、なにを目的にどういう設計をして作ったカリキュラムなのか気になる。
推論だけど、自由七学芸のうちの修辞学、論理学、文法を輸入して、まとめて1つの科目にしたんじゃないなかと思う。
修辞学のうち、弁論術が大きく省かれて、文章においての修辞だけに特化したのは、それまでの儒学教育からの流れか。
人は自分が有能であることの証明は容易に行なうが、無能であるという証明は難しい。
今現在の人間は過去の可能性の発露である、君は君の可能性の発露を今生きている。
まあ大雑把に言えば、生きるということは生物が保持している遺伝情報の最適化であるのである。
要するに自分に発露しうる可能性がこれ以上無いという証明は、そのまま死刑宣告であるからである。
故に、我々は価値観の多様化という安全弁を設けた、世界に一つだけの花であり一人ひとり違う種を持っていいのだよ、君は君のままでいいのだよ。
こういった価値観の多様化は1と2の間に無限の値をとる哲学であり、理性的に両者の差異を自覚しにくくすることに成功したのである。
しかし、この哲学は多くの1を土台にしたものであることは2である我々には本質的には理解されていなかった。
我々は結局2であることを自覚することもなく1である人々の犠牲の上に漫然と社会を運営していたのである。
ここでの1とは発展途上国を指す。
物質面で言うならば、それはつまり国際競争力であり技術力である。
この世界では金が無ければ物は手に入らないのである。
つまり物資を得ようとするなら方法は二つだ、安いものを高く売って差益を得るか、武力で奪うかの二択である。
我々は価値観の多様化という一種の欺瞞によって、この美しい世界の理屈を間違ったまま認識した。
世界の様相は全く変わっていないのに、我々は自ら産み出した新しい認識によって世界の構造が変わっていったかのように振る舞い、誤って学習した。
古代→中世→近代→現代という古典的歴史認識は我々を誤った結論に導き、これを信じる宗教を育んでいる。
しかし、現実はどうであろうか?
1と2は決定的な違いがあり、1という数字はどれだけ優秀な観察眼をもってしても2より少ないのである。
特異な君はそれだけでは無価値である。
たったこれだけの当たり前の現実すら歪んだ我々の視点からは認識できない「タブー」となっている。
かつてタブーだったものは何か?
古代→中世→近代→現代という古典的歴史認識とは全く別の意味で世界は多様な価値観に満ちている。
そこには1と2という単純な違いがあるだけである。
野生的直感が勝利する時代が来ているのだ。
野生的直感は1と2を理性によらず選別することができる。
人権の時代は終わった。
万物に平等な人権などはなから存在しえないのだ。これからは(というか世界はいつもそうだが)人間は生きているだけで価値があるわけではないのである。
中国を見よ、インドを見よ、あるいは道を踏み外しかけているがアメリカでもいいだろう、人権なぞ存在しなくとも国が発展すればそれで良いのだ。
彼らは我々がやったのと同じように、安価な労働力と確かな技術力で他国の経済を壊滅させ己の利益を得ているのである。
一般的に生物は自らより多くの子をなす、生き残るにはそれらと戦う、生きるという本質は奪うことであり、それしか無いのである。
弱ったもの、劣ったもの、本質的に無気力なもの、無産者、これらを不要なものとして切り捨てる時がきた。
我々は2であらねばならない、あまねく万物は生きるために2であろうとしそのために死力を尽くして戦っているのでありそれが正しい姿だ。
不能者を抱えて弱りきった我々の国家は野生的にあくまで合理的に、不要なものを捨て去り社会を形成する必要がある。
いや、国家の枠が無かったとしても我々が生きるために無能なものはいらないのである。というより、そのような余裕のある国家ではなくなったのだ。
この新しい野生的で至極当然な価値観は若い世代に確実に浸透している。