はてなキーワード: 菩提寺とは
菩提寺の住職(同世代)にこの間のエントリーを見せた結果、みなさん面白がってくれてうれしいので張り切って書く、と言っていた。
そうして送られてきた日記が、要約すると「猫に網戸を破られたので、網戸を張り替えようと思ってホームセンターに行ったところ、蚊帳が売っていた。そういえば蚊帳を吊れば良いと気がついて、猫のご飯だけを買って、押し入れから蚊帳を出して吊った」で、蚊帳の上でハンモック状態の猫が寝ている写真だったので、彼は天才だと改めて思う。
しかし、異議申し立て(?)されたのは「仏教画」の件である。仏画とは言うが、仏教画というのは正式な呼び方ではないのだそうだ。
曰く、仏画というのは「道具」なのだそう。単なる美術品ではなく、布教のためだったり、信者に考え方を示したりするときに使ったり、法事の時に使ったりするための「道具」なんだって。で、住職が書いている仏画は、そういったもので、色々なお寺なりから依頼を受けて書いているのだそう。
だから、お寺にある仏画の多くは作者不詳で、古くなって、すすけたり破れたりして、使われてきた仏画にこそ価値があると。自分が描いたものもそうやってしっかり使われてほしいと思うんだそうな。額装して飾るもんじゃないんだって。
なるほど?
だから、おしえているのは基本、仏画じゃなくて日本が寄りの美術だと。
そうなのか。熱く語っていたのでここに記す。
なんかさ国会図書館のデジタルコレクションで先祖の名前調べるとヒットするよ!!とかTwitterで話題だから調べてみたけど。
私のじーさんひーじーさん全くヒットしなかった。だって代々名もなき市民だもん。
え、みんな知ってるの?
ひーじーさん以降は、その辺の町営墓地に埋葬されてるし、葬儀の時は適当な派遣のお坊さんが来てくれる。それより前のご先祖は知らない…
格差だなぁと思いましたよ。下流一族には歴史がない…私も「おじいちゃんが本を出してる!」とか言いたかった。
タイムトラベルして、ひーじーさんに、「あんたのボンクラ息子のそのまたボンクラ末息子の娘は東京師範学校(※明治生まれにも分かりやすいよう変換済み)出て官吏になってますよ」って伝えたら腰抜かしそう。
いやそもそムカデしか出ないような山の中の暮らしだから師範学校とかいっても分からんか?
https://anond.hatelabo.jp/20221121085518
あっというまに、2週間が経ってしまった。
忌引で仕事を休んだりしたのでまあ周りも知っていることなんだけど、あんまり気を遣われたくなくて、でも誰かに聞いてほしいのでつらつらと書く。おじいちゃんは本当に最後までマイペースだったし、面白い人だった話を、どうか暇な人は読んでいってほしい。
突然つれあいをなくしたおばあちゃんは、久々に孫であるわたしの顔を見て笑ってくれだけど、足取りがおぼつかなくて、ただでさえちっちゃい(身長、145センチしかない)身体がますます小さくみえた。「おじいちゃん、座敷にいるから会ってあげて」と言われたので向かう。布団に、顔にかけられた白い布。それを見たらぐっと目が熱くなった。布を取ると、眠ってるみたいなおじいちゃんの顔。この家で夕ご飯を食べると、おじいちゃんはお酒を飲んで、その後一緒にテレビを見てるといびきをかきながらうたた寝をしてしまう。そんな時の顔だった。声をかけたら起きてくれそうなのに冷たかった。
その日の夜、おじいちゃんの家でお通夜をした。数人だけど親戚も来るということで、玄関を掃いておこうと、箒を探しに納屋に入ると、使いかけの肥料や、明らかに「まあどうせ明日も使うしここら辺に置いておくか」って感じで適当に置いたらしい鍬、何日に白菜を収穫するとか来年の作付をメモしていたホワイトボードがあって、ああ、おじいちゃんにとってもこれは急なことだったんだなとぼんやりと思った。
枕経に来た菩提寺の住職さんは、わたしとそう歳の変わらない、若いひとだった。お経をあげてもらい、納棺をする。旅支度をさせて、花をいれて、孫全員(私含め6人いる)の手紙をいれ、お気に入りだったシャツをいれ……その過程で、ずっとぼんやりしていた祖母が棺に取り縋って泣き出した。まだ祖父が死んだ実感が薄かったわたしも、さすがにその姿を直視できなくて目を逸らしたとき、視界の端で住職さんがしきりに鼻をすすったり、マスクを直すふりをして目元を拭ってるのが見えた。なんでも、婿養子として今の寺に来た時に、ちょうど祖父が檀家の総代をしていて、祖父はそれこそ孫と歳の変わらない若い彼のことを気にかけて可愛がっていたらしい(親戚談)。きっと仏門に入った人にとって、通夜も葬儀も日常茶飯事だろうに、その人がそんな感情に呑まれるくらい、祖父は面倒見のいい人だったらしい。妹や従妹もその住職さんが泣いているのを見たらしく、後々孫の間で「もしかしたら他所にも孫みたいな人が他にもいるのかもね」なんて話した。
その翌日は友引で、葬儀は次の日に延ばし、火葬だけを行った。この日もおじいちゃんはなかなかやらかしてくれた。おじいちゃんを乗せた霊柩車が家を出る時は、集落中の人(ガチの限界集落である)が見送りにぞろぞろと集まって、見送ってくれた。ちょっと壮観だった。
本来こういう時は霊柩車の後ろに、参列者を乗せたマイクロバスがついてみんなで火葬場に行くものだと思う(というかわたしが経験した葬式ってそういうのしかない)んだけど、コロナ禍だし、あとあんまりにも急すぎて来れる人も少なかった(田舎だし、みんなお年寄りなので、足が確保できないと来れないのだ)ので、うちや叔母の家の車3台に分乗して、火葬場に向かった。
しかし、せいぜいどんなに安全運転しても20分くらいで着くはずの火葬場になかなかつかない。道中の信号がうまいこと全部赤で引っかかるのだ。わたしの母は三姉妹の長女で、まだ心ここに在らずな状態の祖母と連名で喪主をしていたため霊柩車に乗っていたが、わたしが「おじいちゃん、よっぽど行きたくないんだな……」と言うと父は「だろうな……」と深く頷いていた。
30分以上かけて火葬場に着いた。そこからはさすがの祖父にももうどうにもできず(?)あっという間で、その後2時間もしないうちに、祖父は骨になった。若い頃(といってもわたしが見た記憶があるのでめっちゃ若いわけではない)に建築業についていて、屋根から落ちて骨折した時に手術していれたボルトがしっかり焼け残っててびっくりした。手先、足先の細かい骨は、年齢もあってさすがに……だったが、大腿骨や肩の骨はがっちりしていた。祖父はこの年齢では背の高い人だった(たぶん170センチ越えてた。祖母と並ぶと身長差がすごかった)のに、結局のところ、最後には母が抱えられるサイズの骨壷におさまった。「こんなに小さくなっちゃうんだね」と母がつぶやいた時は、なんで言っていいのかわからなかった。
帰りはそんな祖父を抱えた母もうちの車に乗って、また3台の車で祖父の家に帰った。霊柩車で来る時に通った道を避けて帰る、ってのは全国共通の風習なのかな……?だから、来る時よりは少し遠回りになる……はずだった。でも20分で帰れた。なんせ信号、全部青。骨壷を渡された時の母の顔はさすがに見ていられなかったけど、祖父の家の屋根が見えてきた時に母は、「帰りはあっという間だったね……」と困ったような笑みを浮かべていた。おじいちゃん、どんだけおうち好きだったんだよ……。
家族葬だったけど、焼香をしにたくさんの人が来てくれていた。みんな、新聞のお悔やみ欄で見てとるものもとりあえず大慌てで……って感じで来てくれていた。「入院してたのか?!聞いてないぞ!」と言う人もいた。病院には1泊しかしてない、本当に急だったということを何遍も説明する母は、最後のほうはさすがに疲弊していた。ちなみにこの日は大雨だった。無口な従弟がぼそりと「未練あり過ぎだろうが」と言っていた。それな、と返した。
式自体は身内だけで行って、このご時世だから会食は無しで折り詰めを持って帰ってもらい、また骨と、遺影と、白木の位牌と一緒に祖父の家に帰った。
とりあえず自分達も折り詰めを食べながら、母は葬儀屋と四十九日の日程をつめ、その後も墓石屋や位牌の手配、この後家に直接弔問に来てくれる人への対応の打ち合わせを叔母たち(と、まだどこか虚ろな顔をした祖母)がやっている時、まだ細々とやることは残ってはいるがひとまずは一通り終わったね、お疲れ様だったね、という空気が流れつつあった。
でも、ここで終わらないのがおじいちゃんだった。突然この家の固定電話が鳴った。
母が電話を取ると、相手は伯父(父の兄。他県で父方祖母と一緒に住んでいる)だった。葬儀に花を出してくれたり香典も出してくれたから、今日が葬儀だったことはわかっていたはずだし、なんだか様子がおかしい。泣いてるのか笑ってるのかわからない声で喋っていた(母談)らしく、何かあったのか母が(たぶん疲れもあって)少し強い口調で問うた。その返事は、
だそうだ。
祖父は交友関係は広いがそれぞれ相手にマメな人だった。うちの父方の親戚に対しても、季節の果物や特産品なんかを折々に送っていた(向こうからもよくお返しも来ていた)。この時期は林檎(ほぼ出身地がバレるな……)を、他県の親戚や知り合いに毎年毎年手配して贈っていて、それが、葬儀をやって当の本人を極楽浄土に送ろうとしていたっていうのに、それがちょうど終わったタイミングで相手に届いた、ということらしい。……それは普段無口な伯父さんも、反応に困っただろう。「○○さんからの最後の贈り物だから美味しくいただく。冬にはこっちから蜜柑を送るからよろしく」ということで電話が終わり、私たちは大きく溜息をついた。「たぶん、この調子だともう何軒か送ってそうだなぁ……」とみんなで笑い合った。
さすがにちょっとしんどかった。
あまりにも急すぎた。呆然とした祖母を見るのが辛かったし、その祖母の代わりに喪主の仕事を引き受けるためにずっと張り詰めた顔をしていた母を見ているのも胸が痛かった。出来ることしか手伝えなかったけど、母から葬儀が終わった後に「あんたら(私や弟妹)がすぐ飛んできてくれて本当に助かった」と言われた時の弱々しさが心配で、結局今いる自分の家に戻って来れたのは11/25だった。
だけど、そうして過ごす中にも、ふと思い出す祖父の話(孫相手に遊びにムキになったり、高校生の叔母が夜遊びしてぶっ飛ばされた話だったり)や、こうして亡くなった後にもなんだか面白いことをしてくれるおじいちゃんのことを話せる相手は、なかなかいない。
でも、顔を知らなくて、こんな長文をここまで読んでくれる人に、ちょっとでも聞いてもらえたらなんだか心持ちが楽になる気がして、あと、悲しいだけではないって気持ちになれると思ったので、こうして文章にしてみた。
読んでくれて、おじいちゃんのことを知ってくれて、ありがとう。
余談。
わたしが今の家に戻る前日、仏具屋に母と行って、位牌のカタログをもらって祖母の家に行った。その後数日、祖母はカタログを見て、あと母が撮っていった店頭にあった位牌の写真も見て、散々悩んだけど、そのお店で一番よく出回る、スタンダードなものを選んだらしい。「それでいいの?」と母が訊いたら、「わたしが死んだ時は、お父さん(祖父のこと)とお揃いの位牌にしてほしいから。これならすぐお揃い作ってもらえるでしょ」と言ったそうな。お揃いの位牌。ちょっとパワーワードだな、なんて思った。でもさぁおばあちゃん、そんな早くいったらおじいちゃんたぶん額に青筋立ててめっちゃ怒るから、もう少し一緒にいてほしいな。お正月には会いに行くからさ。
昨今、テレビやネットで「宗教」が悪い意味でクローズアップされることが多いので、
多少なりとりも宗教に関わっている人間として思っていることをとりとめもなく書いてみる。
このエントリは「宗教を信じろ」とか言うつもりは無いし、何か提言をするわけでもない。
目的はなんだ、と聞かれたら愚痴や相談に近いのかもしれないし、
ブクマをもらって、ただ承認欲求を満たしたいだけなのかもしれない。
そして自分は俗にいう「寺の後継ぎ」であった。
〇〇平和連合とか××学会とかでは無く、大手宗派のフツーの田舎寺の生まれで、社会人を経てから東北のとある寺を継いでいる。
真面目にやっているつもりではいるが、カツカツ状態でお寺を運営している一応の「宗教の運営サイド」である。
僧侶として不適切な表現があるかも知れないが思うことをリアルに書いてみようと思う。
こういうネット論調に対して、別に否定はしない。実際にそういう人は目立つし、まぁ多いんだろうな、と思う。
たぶんお金のある環境で何不自由なく育ち、社会にも揉まれずに、資格だけ取って親の跡を継いでるのだから。
悪く言ってしまえば、中小企業の無能ボンボン2世社長みたいなイメージなんだろうか。(もちろん厳しい修行は経ている)
一方で、もちろん真面目なお坊さんもいるし、先代住職の後をきちんと継ごうと頑張っている若い子もいる。聖者かよ、ってレベルの住職もいる。
特に、小さいお寺で住職だけじゃ食べていけない比較的若めな人ほど、副業をやりながら、
きちんと社会と関わりを持っているからマトモな感覚を持っていると個人的には感じる。
やはり前者の「クズ」とネットで呼ばれる方はでかい寺のボンボンドラ息子が多いんじゃないかな。
センス悪い真っ赤なBMW乗り回して、キャバクラ行ってるような生臭坊主。そんなネット上で揶揄されるイメージとそこまでかけ離れて無いと思う。
ただ宗教法人の本部側、もしくはお檀家さん側から見て、1番ヤバいのはこういうタイプがやっている寺ではないと思う。
彼らにはまだ、人とコミニュケーションを取れる、という立派な能力があるからだ。
結論から言えば、前述のようなテンプレ的なクソ坊主(以下テク坊とする)よりヤバいのは、
発達障害の方が継いでいる寺なんじゃないかと個人的に思っている。
※発達障害の方自体をどうこう言うつもりは全くないし、彼らに社会のケアは必要だと思うし、本題から逸れるので置いておく。
そもそも「寺の跡を継ぐ」だいたいのパターンとして寺生まれの子が高校卒業後に専門の大学に入って資格を取り、寺に戻るルートが多い。
しかし彼らは陽キャなテク坊とは違う。大学時代にテク坊が親の金でクラブで遊び呆けている一方で、
人とマトモなコミュニケーショが取れない、文字がすらすら読めない、簡単なことが覚えられない、優先順位がつけられない、何度同じことを注意されてもできない、大学に来なくなりがち等、
見ているとこんな子がいるのかとびっくりしてしまう程だ。
発達障害のエピソードなんかは他のエントリでも言及されている通り。
別に彼らを馬鹿にしたりとか、彼らのやばいエピソードを列挙・紹介したりとか、そういう目的では無いので詳細は省く。
そして、もちろん彼らは悪い子ではない。
高校を出たての18歳で、地方から単身、大学のある都市に出てきて彼らなりに努力しているのだと思う。
本来なら「彼らにもできること」を職業として、何かしらのケアや気遣いを受けながら生きていくのだと思う。
しかし彼らは(親の意思であれ)お坊さんになる道を選んでしまったのである。
お坊さんという仕事は、言ってみればイチ法人の社長みたいなものだ。
お檀家さんや地域の方とコミュニケーションは必須だし、当然一定のタスク処理能力もいる。
人の生き死ににも関わる仕事なのでイレギュラーな対応も多々起きる、体力のいる仕事だ。
テク坊は生臭坊主かもしれないけど、寺が回っているなら一応やることはやっているはずなのだ。
また、ひと昔はお坊さんになるのにも、一定の選別は行われていたのではないか、と思う。
しかし今は少子化も進み、在家から出家する人も減ったろうし、そもそも職業として倍率が減っている。
なので、どんな子であろうと、なんとかして跡を継いでもらわないと、田舎なんかだと寺自体が潰れてしまうかもしれないのだ。
宗教法人の本部側からしてもそれは避けたいし、何より坊さんを養成する大学側も継いでくれる彼らを見捨てるわけにはいかない。
昔と比べて志望者は減り、入試の倍率はほぼ1倍に近い、いわゆるFランで、入学後も彼らを(大学とは思えないほどに)サポートする。
優しく、とても優しくお坊さんになるまで見守ってあげるのだ。
そうして見事生き残ってしまうのである。(もちろん修行から逃げてしまう子もいる)
もう一度言うが、発達障害の彼らをどうこう言う気は無い。
ただ彼らの能力的におそらく無理であろう、さらに寺の住職という少し特殊な職業に就いてしまう、就かされてしまうそんな構造がヤバいと思う。
想像してみてほしい。自分の家族や親戚が亡くなった時に来たお坊さんが、ほぼコミュニケーションが取れず、小さな声でボソボソと下手くそなお経を読んでいる光景を。
いや、そもそも予定を覚えられず来ないかもしれない。彼らにとっても、ご遺族にとっても最悪だと思う。
言い過ぎだろうと思う人もいるかもしれないが、彼らを見ると本当にあり得ると思う。
一般的な仕事であれば、当然そんな人に需要はなくなるし、潰れて当然だろう。
だから冒頭のネットの論調のように、坊主が嫌われてるのも分かるし、自分が在家の生まれだったら不要と思うかもしれない。
でも自分は寺の生まれで、亡くなった先代に反抗してた時期はありつつも、結局継ぐことを選んでしまった。
これからの宗教法人の行く末を不安に思っているだけで無力な一僧侶だ。
あえて言いたいことがあるとすれば、
住職としゃべってみてやばいと思ったら菩提寺を変えてみた方がいいかもしれない。
郅都(?) -?) 前漢時代の河東郡楊県(現在の山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代、法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。
内容
1 バイオグラフィー
1.3 強者に挑む
1.4 皇太子妃の不興を買う
1.6 イーグルの死
2 評価
3 関連項目
4 参考文献
漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから、将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。
ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡がトイレを使っていると、突然イノシシがトイレに突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身の安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。
前漢の初め、宮廷は黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族の悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。
その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆の搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律は王族の親族や貴族が執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行の比喩とされた[3]。
紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。
紀元前148年、劉栄が勅令に違反して菩提寺の土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵(現在の湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。
都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフとペンを渡した。 長男の死を知った皇太后は激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷に罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。
漢の景帝の時代、匈奴の鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。
匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴の騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴の騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。
景行が再び財津を利用したことを知った道太后は激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女の仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴の騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。
彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国の侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。
司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。
漢の成帝の時代、大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。
唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝の時代に、右補奇人の陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴は国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。
上記の名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国の武将、国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。
なわとび:602回
ボクシング:126kcal
『夜明け前』読みおわった
まあ、実は読み終わったのは結構前なんだけど、せっかく読んだからなんか書いておきたいなと思ってから実際に書くまで結構時間がかかった
最初の巻を読んだのは実は結構前で、もう15年以上昔のこと。以来続きの巻をそのうち読もうと思いつつなんだかんだで今まで来てしまった
kindleを導入したときに、手持ちの本をいくつか電子書籍と置き換えようと思って、青空文庫に入っている本をいくらか処分したのだけれど、その時ついでに続刊を持っていなかった『夜明け前』を全部揃えてあとで読むリストに放り込んでおいた
一度、どうにか読んでしまおうと思って自動読み上げ機能に読ませてみたこともあるのだけれど、漢字の読みがぐっちゃぐっちゃで、たとえば「金兵衛」を「きんひょうえ」と読んだりする
これを聞きながらちゃんと理解しようとするよりは、自分で読んだほうがまだ脳みそのリソース消費が少ないなと思って断念した
あとで読むリストに入れて毎日目にしているとなんとなく爪のささくれのように気になるもので、今年とうとう一念発起して読んでしまうことにした
実はこのあとにまだ20年積んである『破戒』というのも控えているのだけれど、まあこれは来年あたりに読んでしまおうか
こっちは一冊で終わるし
さて読み終わってみると、まず第一になぜ藤村は父親の一代記とも言うべきこの本を書こうとしたのかということを考えるわけだけれども、これはやはり父親が精神を病んだからというよりも、その過程で家の菩提寺でもあり、代々深い付き合いのあった万福寺に放火しようとしたことの原因を探ろうという意味合いがあったのではないかという気がする
物語はすべてこの放火事件へ向かって流れていき、この事件のあとはすべてエピローグであるように自分には読めた
ところで、物語は半蔵の父親の吉右衛門の時代は万事が概ね順調で、半蔵の世代に移ってからは半蔵自身の才覚のなさもあって波乱万丈なように見えるが、これはたぶん作者自身が実際に見たのが半蔵の時代だったから祖父に当たる吉右衛門の時代が理想的に見えているだけで、実際には吉右衛門の時代は吉右衛門なりの苦労があったのはもちろん、彼なりの不手際や軋轢もたくさんあったのではなかろうかと想像する
半蔵は半蔵なりに精一杯その時代を生きたし、それは彼の父親の吉右衛門も変わらなかったろうと思うから
いつの時代もどんな人であっても安気に暮らしている人はそうそういないもので、その人なり、その時代なりの苦労をそれぞれ背負って生きているものだろうと思う
これはまあ4冊も通して付き合った半蔵に対する同情でもあるけれど
個人的な興味関心との関連でいうと、一つは、最近登山をするようになって各地の山にある神社仏閣を訪れる機会が増えて、その由来などを調べるにつれ、明治の廃仏毀釈がいかに激しかったかを知り、なぜあのようなことが起きたのか興味があったので、その思想的背景の一端を知れたことは良かった
とはいえ平田国学から廃仏毀釈へと至る背景にはさらに江戸時代の寺院がかなりの権力を持っていて、その弊害が大きかったらしいこともうかがえるので、むしろ平田派の思想はきっかけに過ぎなかったのかもしれない
このへんはまた機会があったらちゃんと調べたいところ
もう一つ、この前恵那山にも登ってきて正直面白みの薄い山だなと思っていたのだけれど、木曽路から見る恵那山の描写を読むとこの山はむしろ麓から眺めることにこそ面白さがあるのかもしれないと思ったりした
前回の日記 → 結婚して妻の姓になり7年がたった
僕は前回が初増田だったのですが、予想以上にバズってびっくりしてます。今見たらトラバもまたすごいブコメ数だし……。
生天目(ナバタメ)家の長男だった増田は靏岡(ツルオカ)姓の女性と結婚し、増田の方が名字を変えてツルオカになりました。養子縁組はまだなので、純粋に名字だけです。例によって固有名詞は全て仮名です。
今回は前回の続編と言えばそうですが、名字やら手続きマニアとは関係ないつまらない話です。こういう他でできない自分語りができるのが増田の醍醐味ですよね? 使い方あってる?
なんやかんやあってその後母も亡くなりました(父はこの10年以上前に他界)。これはその時起きたエピソード。父が死んだ時には茫然自失で何も記憶がない僕ですが、母が死んだ時にもやはりだいぶ参っていたようで、以下の話は後から聞いて知ったのでした。
通夜の席でのことです。母は近隣の八木(ヤギ)家の出身でしたのでその場にはヤギ家の面々が勢揃い。遠方のナバタメ家はちらほら。妻のツルオカ家はもっと遠方でしたのでその時には妻以外おりません。そこでナバタメ家のミキコ叔母さん(父のすぐ下の妹。長女)が発言したのです。
「ショウコさん(僕の母)はナバタメのお墓に入るのだけど、私の代はともかく、息子の代になってもお墓がきちんと管理できるかわからないの。だからしばらくしたらキョウイチ兄さん(僕の父)共々別にお墓を作って移って欲しいわね」
その場で僕は生来の暢気な気質からなのかあるいは精神が参ってどうでもよくなっていたのか「へえ。それは大変ですね。そうしましょう」と答えたのです。
しかしこれにはヤギ家の面々が激昂。「ふざけるな!葬式前から墓を出ろとはなんという言い草だ!」いやあ、これはもっともですね。ミキコ叔母さんも流石に空気が読めなさすぎです。
ナバタメ家は結構大きく、正月には一族の女性が作ったおせちを大広間で食べ、子供たちは当主である祖父から順にお屠蘇とお年玉ををもらうような家でした。僕の父は当主である祖父の長男だったのです。でもなぜか父は家を出て若くして死に、祖父が死んだ時には僕は母に相続放棄をさせられました。何があったんでしょうね? 母はナバタメ家に隔意を抱いていたみたいだし、僕の改姓にあんなに反対しなくっても、ねえ?
さて、その通夜の場は無事に終わった(らしい)のですが、結局お墓は移ることになりました。とはいえ、昨今そんな簡単に墓地は買えませんし、墓石を建てるお金もありません。
ここで非常に運が良かったのは、ナバタメ家とヤギ家のそれぞれの菩提寺、大妙寺と寂光寺は宗派が同じであることでした。寂光寺にはヤギ家の納骨堂があり、そこに骨壷を移すことを両寺の和尚様に了承していただけたのです。
大妙寺の和尚様の立会いでナバタメ家の墓から父と母の骨壷を取り出しました。墓石の下部には蓋のついた空間があり、そこに骨壷を入れることができるのです。知ってました? 僕はてっきりスコップで土から掘り出すのかと思ってましたよ。
そして骨壷を抱えて母の地元にある寂光寺に向かいました。人生経験豊富なはてなー諸氏におかれましても、両親の骨壺を持って旅をした人はなかなかおりますまい。割れたらえらいことになりますからね。緊張しました。
この後も納骨堂追い出され未遂やら遺産相続争いなどの面白イベントがあるのですがそれはまた別稿に譲りましょう。最終的には、数年後にナバタメの叔父から連絡があり、この問題は解決しました。
「ミキコ姉さんがそんなことを言ったのだとは知らなかった(叔父は通夜の席におりませんでした)。ナバタメ家の墓はこれを機に姉さんではなく自分が管理するようにしたから問題ない。もしそちらが望むなら、キョウイチ兄さんもショウコさんも戻ってきて構わないよ。」
一体姉弟間で何があったんでしょうね? 僕はあんなこと言われましたが、ミキコ叔母さんのことはさっぱりして好きなんですよね。空気の読めないところとか僕も似てますし。まあ母はそういうところが苦手だったんだろうな、とは思いますが。
骨壺どうしましょうかね? とりあえず、いざというときに行き場がないということだけは避けられたようです。よかったよかった。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。