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2024-07-04

父が亡くなった

どこに書いていいのかわからんので増田に書いておこうと思う。

今朝父が亡くなった。朝8時過ぎぐらいに病院から電話がきて、母と弟を連れて病院に着いたのは9時過ぎぐらい。その時点で既に心臓が止まっていた。

蘇生処置は行わないとしていたため、私たちの到着後すぐに死亡確認となった。眠っているような顔で、それでも体は少し冷たくなりかけていた。

昨日お見舞いに行った際にはこちらの声や周りの音は聞こえている様子だったが、喋ることはできず時折うめいているような状況だった。ここ数日は痛み止めの薬がかなりキマっており、夢と現実の間を反復横跳びしているように見えた。私たちがお見舞いに行ったときには、白目を剥きかけながら現実に戻ってこようと頑張ってくれていたように思う。

父の病状は基本的には容赦なく悪化して行ったが、その進行にはある程度の時間がかかったと言うのが唯一慈悲深かったところだと思う。3年近くの時間を稼ぐことができた。私も最後半年は父と過ごすことができた。父にとっては苦しみがいたずらに長く続いただけだったのかもしれないが。亡くなる数日前に食べたいものはあるか、何か買ってくるものはあるか、と母が父に尋ねたところ、父は「命を買うてきてくれえ」と言っていたらしい。父ももっと長く生きたかったと今際の際まで思っていたのだと信じたい。

父が入院する前、夕食後に毎回ハグしていた。最近はずっと管がついててできなかったか今日は久しぶりにハグできた。もうできなくなってしまうと思うと本当に悲しい。

私はたくさん泣いたけど、ひとつも泣かなかった弟は大丈夫なんだろうか。いつもと同じ調子で虚空を見つめていたけど、泣いていないことで後々辛くなったりしないのかな。個人的には泣くと涙と一緒に悲しい気持ちとか記憶を流せるような気がする。

10:00 葬儀屋地域の縁戚の中で顔役的な人に連絡した。葬儀屋病院への到着は正午ごろの予定。顔役の人は昼ご飯を食べたら自宅に来るとのこと。

10:30 私と弟は先に自宅へ戻ることになった。病院に置いてあった父の荷物もまとめて持ち帰った。お客さんに配るためのお茶を道中買った。自宅で作るって選択をしなかったのは正解。

11:00 帰って座敷に布団敷く。頭は西向きまたは北向き。来客用スリッパは出したが結局ひとつも使われなかった。四歩ぐらいやしなー。玄関に出しっぱなしの靴は一旦片付ける必要がある。来客ラッシュが予想されるためお茶を冷やし来客用のコップを洗

11:30 おうとしたところ、顔役の人が自宅にきた。昼ご飯食べたらって言うたやーん。葬儀屋病院到着予定時刻を伝えたところ、「ほな13時には着くからみんな呼ぶ時間早めるわー」と仰り各所に電話し始める。ここから怒涛の展開なので時間がよくわからない。

11:45? サブ顔役みたいな人がくる。何か式次第チャートみたいな表を何部も印刷して持ってきててビビる

12:30? 続々と縁戚の人が来訪する。

13:00? 葬儀屋さんと母と父が到着する。ドライアイス処置とか化粧をしてもらう。今の時期虫が発生しやすいので蚊取り線香とかあるといいとのこと。

13:30~14:00? 菩提寺住職さん(女性)と坊守さん(住職さんのお母さん)がきた。お経をあげてもらう。住職さんも代替わりしたばかりで、今回の父への読経デビュー戦とのこと。坊守さんが住職さんへ船場吉兆みたいな指示の仕方をしていた。

14:30~15:30? 田舎葬式は怖い。縁戚の人たちがどんどん式次第を決めていく。家族葬にして後のおかえしの負担を減らすのが父と母の意向だったが、真反対の方向に話は進んでいった。私はぬるっと喪主になった。決裁権者は母だし、そもそも私と母の頭上で色々なことが決まっていくため途中からは流れに身を任せていた。

15:30~16:30 役場に死亡届を出しに行く。様々な書類を書いた。喪主(私)と新世帯主(母)が別人でしか世帯分離してると相当めんどい火葬許可証をもらう。これ火葬場に持って行き忘れるとえらいことになるらしいよ。戸籍の変更の関係上2週間経たないとできない手続きが色々あるらしく、時間をおいてまたいらっしゃいと言われた。

16:45 役場から帰ってきたら勝手口に野菜が大量に置かれていた。顔役の人たちが家にいたけど誰が届けたのかは全然からないらしい。だれぇ……?

17:45 エアコン設置の下見を頼んでいた業者さんがくる。今日キャンセルしたらいよいよエアコン設置が今夏中に行えない可能性があるから実施できてよかった。もっと日中訪問だったら終わってた可能性ある。

17:00~18:00 家に残ってた顔役の人の自慢話を聞く。

今日はこんな感じ。ねむい。

https://youtube.com/live/kNNKxg7TO3Y

2024-05-21

anond:20240521221155

>③ 菩提寺過去帳を見せてもらう

これは檀家でも坊さんとよほど仲がよくないと難しいと思うよ

あと子供自由研究でこれやると内申書に影響するかもしれないのでよくないね

同和問題センシティブから

正常独身青年先祖戸籍を取り寄せる

アブスト

 結婚の見込みがない29歳正常独身青年が、ご先祖様に申し訳ないという気持ちから先祖戸籍請求した。6市町から31通の戸籍謄本を取り寄せ、Excelにまとめた。戸籍制度の変遷や行政区画歴史を知ることができ、何故か海外移民歴史にも繋がり、祖父母との会話のきっかけにもなった。独身暇つぶしにはもちろん、子供自由研究にもおすすめであるかわいいの子と新戸籍編製したい。助けて。

背景・目的

俺が末代だ(誤用)→ ご先祖様に申し訳ないにゃあ → そもそも先祖って具体的に誰やねん → そうだ、戸籍、取ろう

 ワイ、29歳素人童貞自分は子孫を残せないかもしれないというぼんやりした不安がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃。親にも祖父母にもご先祖様にも顔向けがきぬと思った時、はて自分先祖ってどんな人たちだったんだらうという疑問が湧いてきた。祖父母に聞いてみても、こんな先祖がいたという話は出てくるがそれが自分にとって何にあたる人なのか(曾祖父?曾祖母?高祖父?)が分からない。墓石や位牌を見てみても名前戒名と行年が分かるだけ。家系図なんて高尚なものもなし。というわけで、先祖戸籍、取り寄せてみました。

僕はどこから来たのか、僕は何者か

 僕は埼玉まれ埼玉育ち、岐阜県在住29歳素人童貞工場勤務現場労働限界サラリーマン父親次男地元山口県母親は次女で地元栃木県、そんな2人が地元を捨てて東京大学出会い埼玉で僕が爆誕したってわけ。親の背中を見てすくすく育った僕は当然のように親元を離れ、縁もゆかりもなかった岐阜で働き、親に会うのも年1回、これが因果ってやつです。

How to 戸籍請求(※2023年版)

 さて、いざ戸籍請求しようと思っても、やり方もようわからん。こういう時はとりあえずググる。ふむふむ、直系尊属戸籍なら請求できる、と。まずは自分とか親の戸籍を取って、そこに親の名前と前の戸籍本籍地が書いてあるから、親、その親、そのまた親って遡っていけばいいわけか。同じ市町村内なら先祖戸籍をある分だけまとめて請求も出来るんだな。自分本籍地父親実家にあることは以前に住民票取った時にわかってたから、山口県役所まで行かなきゃいけないのかなと思ってたけど、どうやら郵送でも請求できるらしい。これはありがたいね。で、必要ものは、と……、まず請求書か、これはあとでコンビニプリントだな(プリンターなんて持っていない限界独身青年)。本人確認書類免許証でいいな、これも後でコンビニコピー。返信用封筒切手は買ってこなきゃ。あとは手数料を、定額小為替?、何だこれ、ていがくしょうかわせって読むのか?郵便局しか入手できないし、貯金窓口って平日16時までしか空いてないのか、これは面倒だな……。

 実際の手続き市区町村サイトにやり方書いてあるんで、それを見れば誰でもできます。面倒だったり時間がなかったりする人は司法書士とか行政書士かに依頼したらやってくれるらしいよ。僕はコミュ障からそっちの方が面倒なので1人でやった。手続き関連で意味わからんのは定額小為替。読み方もわからんくて、僕は最初郵便局の窓口で「ていがくしょうかわせください」って言って小恥かいた(ていがくこがわせ)。これは要するに戸籍の発行代を、現金は郵送できないから代わりに為替で送るってことなんだけど、小為替の額面にかかわらず1枚の発行に200円の手数料がかかる(2022年までは100円だったらしい)。200円の定額小為替1枚にも200円かかるし、750円定額小為替5枚で1,000円の手数料だよ⁉ 平日の昼間になんとか時間作ってるのにこんな手数料取られるの、ほんとアホらしい。オンライン決済に対応してくれ。社会人時間と金を返せー。北方領土も返せー。

 まあそんなことは置いといて、戸籍請求の時に用意しとくと便利なもの挙げときます。①プリンター: これがないと請求書の印刷とか本人確認書類コピーとかでいちいちコンビニに行かなければいけなくなる。行った。必要項目さえ書いてあれば手書きの書面でもいいらしいんだけど、今時そんな人なかなかいないよね。②角形2号封筒: 請求書発送と返信用として同封する分で結構使う。③A4クリアファイル: 封筒に入れる書類クリアファイルに入れる、これ社会人常識ね。え?ギリギリ働けているだけの無能社会人面してんじゃねえ?いいいいイキってすみません

戸籍の、種類

 戸籍には、3つ種類がありまして、戸籍に除籍に改製原戸籍、この3つなんですが、まあ大雑把に言ってしまえば生きている戸籍と死んだ戸籍旧版戸籍って感じです。先祖のことを知りたいのなら、とりあえず全部1通ずつ請求すればオケ現存している先祖戸籍は全部手に入れてやるくらいの気持ちでいきましょう。請求理由家系図作成のためって書いておけば、まとめて請求もできます

 戸籍はこれまで法改正によって6種類の様式が作られていて(明治5年式・明治19年式・明治31年式・大正4年式・昭和23年式・平成6年式)、現在入手可能で最古のもの明治19年式。ここまで遡れれば、だいたい江戸後期生まれ先祖がわかります。そして、さらに遡りたくなります、なるんです。ところが、明治5年はいわゆる壬申戸籍ってやつで、新平民とか元穢多とかの表記があるらしく、昔の差別ガーって五月蠅かった奴らのせいで見ることができない。これ、完全に国民知る権利侵害じゃね?今の法律だと直系尊属戸籍しか請求できないんだし、見せてくれたって何の問題もないよね。まあそもそも部落差別がどうとかいう話がまず胡散臭すぎるし(職業差別なんか?地域差別なんか?血統差別なんか?)、そんなもん現代存在しないやろ。解放同盟とか、差別反対って叫んでる連中が日本を歪めてるって、こんなとこでもわかんだね。みんなも部落探訪、もとい曲輪クエスト©鳥取ループ)してこ♪ 楽しいよ!

この本籍地はどこなんだ?

 で、戸籍請求して特に不備がなければ、1週間程度で返送されてくる。僕は最初戸籍をまとめて請求した時、想定よりも枚数が多かったので小為替が足りず、追加で小為替を送ることになった。小為替は多めに用意しとくのがヨシ。

 ここから自分先祖戸籍の話。父方の実家山口県田舎で、江戸時代からそこに住んでいたと聞いていたので、1回の請求で割と簡単明治19年戸籍まで入手することができた。しかし、よく見ると本籍地表記現在のものと違っている。もちろん市町村合併が何度かあって〇〇郡〇〇村とかが今と違うのはわかるんだけど、番地が全然違うのだ。今の番地が「〇〇番地」なのに対し、明治19年式では「第△□番屋敷」になっていて数字も違う。調べてみると、現在本籍地地番記載しているが、明治19年式の段階では地番とは別の壬申戸籍編製時に家ごとにつけた屋敷番号というものを載せているらしい、ということが分かった。そしてややこしいのが、地番屋敷番号は全く対応していないようなのだ。その辺は地域差もあるみたいで、近代化の過渡期って感じのカオス面白いですね。まあ現代でも住所表記は複雑で統一されてないし、そんなもんか。もしこの明治19年式の期間に先祖転籍していたら、以前の本籍地現在でいうどの場所にあったのか、地番対応していないのでちょっとやそっとじゃわからないらしい。僕も詳しくはないから、知りたい方はググってみてくれ。そう思うと、父方の家が江戸時代からずっとそこにあるというのは、運がよかったのかもしれん。

 他にも、高祖母家系明治19年戸籍で、「〇〇郡〇〇浦」という、「町」でも「村」でもない表記のものがあった。町村制明治22年施行から、それ以前の藩政時代表記が残っていたのだろう。これまた過渡期って感じでたまらぬ。こうなると郡制とか府県制とか市制町村制とか、行政区画歴史についても、わたし、気になります状態。心の中のえるたそが犬みたいに瞳を輝かせて迫ってくる。やれやれ、僕の頭脳はほうたるだからね、手短にね、やっちゃいましょうかね(Wikiを読む)。

Excelにまとめたよ

 そんなこんなで、クソ労働により病みそうで病まない少し病んでいる状態になりつつも請求粛々と進め、とりあえず6市町から31通の戸籍を入手した。ある程度集めたところでExcelにまとめる作業に入り、そちらの作業の方に時間がかかってしまってまだ先祖戸籍すべては請求できていない。単純に高祖父母の代まででも2^4=16家系あるからね、というのは言い訳ですごめんなさい。今のところ、一番遡れた人が高祖母祖母にあたる人で文政3年(1820)生まれさらにその1代前の両親まで生年月日は不明ながらも名前は判明した。やろうと思えば200年くらい遡れるんやな。

 戸籍には生年月日や出生地婚姻などによる入籍・除籍日、死亡日、死亡地などが載っているので、ひとまずExcelでまとめてみた。眺めてみると、子供が早くに亡くなっていたり、夫と死別して出戻りしていたり、養子を迎えたり、韓国京城で死んでたり樺太真岡で死んでたりアメリカで死んでたり、戸籍から見えてくるものなんてその人の人生のごくごくわずかな部分にすぎないけれど、だからこそいろんな人生があったんだなと想像ちゃう。それに対して僕の人生……。もうずっと静止期、Stationary phase。Log phaseが一瞬すぎたんよ。いや、まだ長すぎるLag phaseの途中って可能性もないことも……ないか

戸籍から見えてきたこと①

 戸籍で父方の方を辿っていくと、長男がずっと(途中養子を挟んでいたが)家を継いでいて、一方母方の方を辿ると四男の四男の長男みたいな感じで家を継ぐという感じではなく、そこは対照的だなという感想をまず持った。自分アイデンティティはやっぱり父方の方にあるけれど、自分自身の境遇次男長男です)を思うと、母方の方にも親近感が湧く。故郷を離れる、離れざるをえない人生というものに。特に母方の方は、一度栃木県を離れて北海道に渡ってからまた栃木に戻ってきており、中には樺太に渡って真岡で死んでいる親族もいて、これはおそらく長男家系じゃなかったか移住したのだろうと思う。真岡なんて真岡郵便電信事件しか知らなかった地名だよ。こんなところで樺太と繋がるとは思わなかった。戸籍だと直系しか辿れないから、祖父母兄弟とか曾祖父母兄弟とかの傍系がその後どうなっていったのかまではわからないんだけど、自分自身が親元を離れていて昔の次男三男みたいな生き方をしているので、そっちの方も気になってしまう。それでも、おそらく当時の人たちには生まれ故郷という感覚はあったんだろうなと思ってて、自分なんかはもはや故郷存在しなくていつか故郷に戻るみたいな感覚が全くないので、故郷が欲しい帰る場所が欲しいと思ってしまうんだけど、これはないものねだりだよね……。強く生きていくしか、ないね……。

戸籍から見えてきたこと②

 父方の方は父方の方で、明治から大正時代アメリカに渡ってアメリカで死んだ親族が2人もいた。で、調べてみると山口県は全国でも5指に入る移民送出県らしい。有名なのは周防大島屋代島)からハワイ移民で、島には日本ハワイ移民資料館もあるよ。行ってみたいね海外移民歴史については、詳しくはググればWikiとかも出てくるし(Wikiの「広島県人の移民」の項目は読み応えあった)、興味ある方は調べてみてほしい。実際、父方の実家から瀬戸内海を挟んで周防大島がよく見える。でかい。一時期周防大島出身民俗学者宮本常一の本を読んでいたことがあって、そこに宮本常一父親明治27年にフィジー出稼ぎに行く話が出ていたので、まあ島と本土の違いはあるとは言え、あの辺一帯に外に出ていく気風みたいなものがあったのかなと想像してる。こんな感じで、家系っていう私的ものから歴史に繋がるのも面白いですな。

祖父母に報告です

 ここまで調べたことを表にまとめて、父方の祖父母に見せてみた。よお調べたのおって言われました。

  「この人はアメリカに渡って、稼いだから家を建てちゃるけぇって言っちょったけど、向こうで喧嘩を止めに入って死んじゃったんよ」

  「このおばあさんは酒造の娘でのぉ、気位が高い人じゃった」

  「このおじいさんは働かん人だったみたいでねぇ、田んぼを売っちゃって大変じゃったんを○○さん(息子)が頑張って立て直したんよ」

 (方言ネイティブじゃないのでうろ覚えで書いています

 あとは祖父が実は山口ではなく東京で生まれて幼少期は東京暮らしていたり(当時は東京東京市)、祖母京都で生まれていてそれが実は自分大学時代下宿していた場所の近くだったり、なんてことも初めて知って、いろいろと話せて楽しかったです。

今後の展望

① 引き続き戸籍請求:多分まだ結構取り寄せられる戸籍が残っているので、続けていこうと思う。古い戸籍は廃棄している自治体もあって(実際にもう無いですって3件ほど言われた・昔は除籍後80年経過したら廃棄してもよかったらしい・今は150年)、あれはとても悲しい。1回広島市請求した時に無いですって言われたので、もしや原爆のせいか⁉と思って調べてみたんだけど、戸籍疎開させていて無事で、単純に大正3年以前に除籍された戸籍を廃棄してだけでした。貴重な資料なんだし、廃棄せずに何とか残せんかったんかな。

② 昔の住宅地図を見る:せっかく先祖本籍地を集めたので、古い住宅地図本籍地がどういうところだったのかを見てみたい。複写したい。でも住宅地図図書館でも禁帯出で、地域図書館とか国会図書館とかの現地に行かないと見ることができないからな……。やるか――住宅地図複写旅――。

菩提寺過去帳を見せてもらう:これもいつかやってみたいね

終わりに

 実際にやってみて思ったけど、これ、中学生自由研究かにいいんじゃないかな。役所手続きして、資料集めて、整理して、発表用にまとめる。広げようと思えば家制度とか行政区画とかの歴史にまで広げてレポートにもできる。祖父母との会話のきっかけにもなる。お子さんがいる方、おすすめですよ!もちろん子供もつ見込みのない独身暇つぶしとしてもかなり面白いと思う。まあ、休日に何してるの?って職場で聞かれたとき先祖戸籍集めてまとめてますって答えたらちょっと引かれたけどね。そもそも休日が少なすぎて疲弊して遊びにも行けんのじゃこのクソ会社がコラ。でも一人、この話に食いついてくれた女の子もいたので、あわよくばお近づきになりたいよ。一緒に新戸籍編製しませんか?住宅地図複写デートとかどうですか?もちろんオシャレなカフェとか映画館とか夢の国かにも行きますから。高いご飯も奢りますから自分、やれますやらせてください。使うあてもないのにNISAで順調に積み立てられていく資産、何も積み上らない人生、虚しい。寂しい。一発やるまで死ねるか!!!

2023-10-31

コスプレイベント名誉毀損女性レイヤー罰金10万円の略式命令 

https://news.nicovideo.jp/watch/nw13680404

菩提寺さんが損害賠償をもとめた民事裁判では、投稿した女性2人と、参加者通報してSNS晒す考えを示した男性1人に、計約260万円の支払いが命じられた

男さん「すまん……謝罪する。賠償金も払う」

女さん×2「賠償金払わなきゃいけないんですか?女性なんですけど?」

2023-06-28

×仏教画 ○仏画

菩提寺住職(同世代)にこの間のエントリーを見せた結果、みなさん面白がってくれてうれしいので張り切って書く、と言っていた。

そうして送られてきた日記が、要約すると「猫に網戸を破られたので、網戸を張り替えようと思ってホームセンターに行ったところ、蚊帳が売っていた。そういえば蚊帳を吊れば良いと気がついて、猫のご飯だけを買って、押し入れから蚊帳を出して吊った」で、蚊帳の上でハンモック状態の猫が寝ている写真だったので、彼は天才だと改めて思う。

しかし、異議申し立て(?)されたのは「仏教画」の件である仏画とは言うが、仏教画というのは正式呼び方ではないのだそうだ。

曰く、仏画というのは「道具」なのだそう。単なる美術品ではなく、布教のためだったり、信者に考え方を示したりするときに使ったり、法事の時に使ったりするための「道具」なんだって。で、住職が書いている仏画は、そういったもので、色々なお寺なりから依頼を受けて書いているのだそう。

から、お寺にある仏画の多くは作者不詳で、古くなって、すすけたり破れたりして、使われてきた仏画にこそ価値があると。自分が描いたものもそうやってしっかり使われてほしいと思うんだそうな。額装して飾るもんじゃないんだって

なるほど?

から、おしえているのは基本、仏画じゃなくて日本が寄りの美術だと。

そうなのか。熱く語っていたのでここに記す。

2023-05-19

anond:20230519090056

菩提寺やら位牌やら全部親がやっててワイは何も知らないやで 自分の番が回ってくるのがこわい

2023-04-18

anond:20230418193841

俺はむしろ、「歴史的建物が多い」の方が気になった

自分語りで難だが昔住んでいた杉並区桃井あたりは、鎌倉時代創建された井草八幡宮とか、今川氏菩提寺の観泉寺とか、昭和アニメ史を学べるアニメーションミュージアムとかが徒歩圏にあるのだが(映画館について言えば、西荻窪が一応徒歩圏内で頑張れば吉祥寺にも行ける)、元増田的にはどの程度の水準なら要求を満たすのだろうか

2023-03-28

何で安倍ちゃんが撃たれたところを聖地にしようとしてるんだよw

もう弔われてるんだから菩提寺行け菩提寺

2023-03-15

anond:20230315112636

菩提寺の若和尚(お寺の娘に惚れて坊様になった)、酔っ払ったときに「最初仏教っぽい名前だなーっておもったんですよ。やばいなこれって。でも気がついたら修行僧になってた」って行ってたのを思いだした。

2023-01-13

下流一族歴史なし

なんかさ国会図書館デジタルコレクション先祖名前調べるとヒットするよ!!とかTwitter話題から調べてみたけど。


私のじーさんひーじーさん全くヒットしなかった。だって代々名もなき市民だもん。

そもそも母方のひーじーさんの名前知らんわ。

え、みんな知ってるの?

過去帳?ないよそんなもん。菩提寺ないもん。

ひーじーさん以降は、その辺の町営墓地に埋葬されてるし、葬儀の時は適当派遣のお坊さんが来てくれる。それより前のご先祖は知らない…


格差だなぁと思いましたよ。下流一族には歴史がない…私も「おじいちゃんが本を出してる!」とか言いたかった。


だって私が一族史上初の大卒だもん。

タイムトラベルして、ひーじーさんに、「あんたのボンクラ息子のそのまたボンクラ末息子の娘は東京師範学校(※明治まれにも分かりやすいよう変換済み)出て官吏になってますよ」って伝えたら腰抜かしそう。

いやそもそムカデしか出ないような山の中の暮らしから師範学校かいっても分からんか?


あいいわ、そんなご先祖だって、他家の輝かしいじーさんばーさんと尊さはかわらんよ。

みんな、わしが一族で初めて歴史に名を刻んだるから安心せい!

2022-12-26

もーいくつ寝ると~♪

和尚が二人で、これがほんとの和尚がツーだな」

これは、我が家菩提寺大和尚が述べた、ありがたーい言葉である

正月という言葉を聞くと、このときの大住職の真顔とともにこの台詞脳内流れる

不治の病だと思うので、一生付き合っていくつもりだ。

2022-12-04

おじいちゃんの話。それから

https://anond.hatelabo.jp/20221121085518

 あっというまに、2週間が経ってしまった。

 忌引で仕事を休んだりしたのでまあ周りも知っていることなんだけど、あんまり気を遣われたくなくて、でも誰かに聞いてほしいのでつらつらと書く。おじいちゃんは本当に最後までマイペースだったし、面白い人だった話を、どうか暇な人は読んでいってほしい。

 11/21のお昼前、母方の実家に着いた。

 突然つれあいをなくしたおばあちゃんは、久々に孫であるわたしの顔を見て笑ってくれだけど、足取りがおぼつかなくて、ただでさえちっちゃい(身長、145センチしかない)身体ますます小さくみえた。「おじいちゃん、座敷にいるから会ってあげて」と言われたので向かう。布団に、顔にかけられた白い布。それを見たらぐっと目が熱くなった。布を取ると、眠ってるみたいなおじいちゃんの顔。この家で夕ご飯を食べると、おじいちゃんお酒を飲んで、その後一緒にテレビを見てるといびきをかきながらうたた寝をしてしまう。そんな時の顔だった。声をかけたら起きてくれそうなのに冷たかった。

 その日の夜、おじいちゃんの家でお通夜をした。数人だけど親戚も来るということで、玄関を掃いておこうと、箒を探しに納屋に入ると、使いかけの肥料や、明らかに「まあどうせ明日も使うしここら辺に置いておくか」って感じで適当に置いたらしい鍬、何日に白菜を収穫するとか来年の作付をメモしていたホワイトボードがあって、ああ、おじいちゃんにとってもこれは急なことだったんだなとぼんやりと思った。

 枕経に来た菩提寺住職さんは、わたしとそう歳の変わらない、若いひとだった。お経をあげてもらい、納棺をする。旅支度をさせて、花をいれて、孫全員(私含め6人いる)の手紙をいれ、お気に入りだったシャツをいれ……その過程で、ずっとぼんやりしていた祖母が棺に取り縋って泣き出した。まだ祖父が死んだ実感が薄かったわたしも、さすがにその姿を直視できなくて目を逸らしたとき、視界の端で住職さんがしきりに鼻をすすったり、マスクを直すふりをして目元を拭ってるのが見えた。なんでも、婿養子として今の寺に来た時に、ちょうど祖父檀家の総代をしていて、祖父はそれこそ孫と歳の変わらない若い彼のことを気にかけて可愛がっていたらしい(親戚談)。きっと仏門に入った人にとって、通夜葬儀日常茶飯事だろうに、その人がそんな感情に呑まれるくらい、祖父は面倒見のいい人だったらしい。妹や従妹もその住職さんが泣いているのを見たらしく、後々孫の間で「もしかしたら他所にも孫みたいな人が他にもいるのかもね」なんて話した。

 その翌日は友引で、葬儀は次の日に延ばし、火葬だけを行った。この日もおじいちゃんはなかなかやらかしてくれた。おじいちゃんを乗せた霊柩車が家を出る時は、集落中の人(ガチ限界集落である)が見送りにぞろぞろと集まって、見送ってくれた。ちょっと壮観だった。

 本来こういう時は霊柩車の後ろに、参列者を乗せたマイクロバスがついてみんなで火葬場に行くものだと思う(というかわたし経験した葬式ってそういうのしかない)んだけど、コロナ禍だし、あとあんまりにも急すぎて来れる人も少なかった(田舎だし、みんなお年寄りなので、足が確保できないと来れないのだ)ので、うちや叔母の家の車3台に分乗して、火葬場に向かった。

 しかし、せいぜいどんなに安全運転しても20分くらいで着くはずの火葬場になかなかつかない。道中の信号うまいこと全部赤で引っかかるのだ。わたしの母は三姉妹の長女で、まだ心ここに在らずな状態祖母と連名で喪主をしていたため霊柩車に乗っていたが、わたしが「おじいちゃん、よっぽど行きたくないんだな……」と言うと父は「だろうな……」と深く頷いていた。

 30分以上かけて火葬場に着いた。そこからはさすがの祖父ももうどうにもできず(?)あっという間で、その後2時間もしないうちに、祖父は骨になった。若い頃(といってもわたしが見た記憶があるのでめっちゃ若いわけではない)に建築業についていて、屋根から落ちて骨折した時に手術していれたボルトがしっかり焼け残っててびっくりした。手先、足先の細かい骨は、年齢もあってさすがに……だったが、大腿骨や肩の骨はがっちりしていた。祖父はこの年齢では背の高い人だった(たぶん170センチ越えてた。祖母と並ぶと身長差がすごかった)のに、結局のところ、最後には母が抱えられるサイズの骨壷におさまった。「こんなに小さくなっちゃうんだね」と母がつぶやいた時は、なんで言っていいのかわからなかった。

 帰りはそんな祖父を抱えた母もうちの車に乗って、また3台の車で祖父の家に帰った。霊柩車で来る時に通った道を避けて帰る、ってのは全国共通風習なのかな……?だから、来る時よりは少し遠回りになる……はずだった。でも20分で帰れた。なんせ信号、全部青。骨壷を渡された時の母の顔はさすがに見ていられなかったけど、祖父の家の屋根が見えてきた時に母は、「帰りはあっという間だったね……」と困ったような笑みを浮かべていた。おじいちゃん、どんだけおうち好きだったんだよ……。

 そして11/23菩提寺葬儀をした。

 家族葬だったけど、焼香をしにたくさんの人が来てくれていた。みんな、新聞のお悔やみ欄で見てとるものもとりあえず大慌てで……って感じで来てくれていた。「入院してたのか?!聞いてないぞ!」と言う人もいた。病院には1泊しかしてない、本当に急だったということを何遍も説明する母は、最後のほうはさすがに疲弊していた。ちなみにこの日は大雨だった。無口な従弟がぼそりと「未練あり過ぎだろうが」と言っていた。それな、と返した。

 式自体は身内だけで行って、このご時世だから会食は無しで折り詰めを持って帰ってもらい、また骨と、遺影と、白木の位牌と一緒に祖父の家に帰った。

 とりあえず自分達も折り詰めを食べながら、母は葬儀屋と四十九日の日程をつめ、その後も墓石屋や位牌の手配、この後家に直接弔問に来てくれる人への対応の打ち合わせを叔母たち(と、まだどこか虚ろな顔をした祖母)がやっている時、まだ細々とやることは残ってはいるがひとまずは一通り終わったね、お疲れ様だったね、という空気が流れつつあった。

 でも、ここで終わらないのがおじいちゃんだった。突然この家の固定電話が鳴った。

 母が電話を取ると、相手は伯父(父の兄。他県で父方祖母と一緒に住んでいる)だった。葬儀に花を出してくれたり香典も出してくれたから、今日葬儀だったことはわかっていたはずだし、なんだか様子がおかしい。泣いてるのか笑ってるのかわからない声で喋っていた(母談)らしく、何かあったのか母が(たぶん疲れもあって)少し強い口調で問うた。その返事は、

「○○さん(祖父)からさ、たった今、林檎が届いたんだよ」

 だそうだ。

 祖父は交友関係は広いがそれぞれ相手マメな人だった。うちの父方の親戚に対しても、季節の果物特産品なんかを折々に送っていた(向こうからもよくお返しも来ていた)。この時期は林檎(ほぼ出身地がバレるな……)を、他県の親戚や知り合いに毎年毎年手配して贈っていて、それが、葬儀をやって当の本人極楽浄土に送ろうとしていたっていうのに、それがちょうど終わったタイミング相手に届いた、ということらしい。……それは普段無口な伯父さんも、反応に困っただろう。「○○さんから最後の贈り物だから美味しくいただく。冬にはこっちから蜜柑を送るからよろしく」ということで電話が終わり、私たちは大きく溜息をついた。「たぶん、この調子だともう何軒か送ってそうだなぁ……」とみんなで笑い合った。

 さすがにちょっとしんどかった。

 あまりにも急すぎた。呆然とした祖母を見るのが辛かったし、その祖母の代わりに喪主仕事を引き受けるためにずっと張り詰めた顔をしていた母を見ているのも胸が痛かった。出来ることしか手伝えなかったけど、母から葬儀が終わった後に「あんたら(私や弟妹)がすぐ飛んできてくれて本当に助かった」と言われた時の弱々しさが心配で、結局今いる自分の家に戻って来れたのは11/25だった。

 だけど、そうして過ごす中にも、ふと思い出す祖父の話(孫相手に遊びにムキになったり、高校生の叔母が夜遊びしてぶっ飛ばされた話だったり)や、こうして亡くなった後にもなんだか面白いことをしてくれるおじいちゃんのことを話せる相手は、なかなかいない。

 でも、顔を知らなくて、こんな長文をここまで読んでくれる人に、ちょっとでも聞いてもらえたらなんだか心持ちが楽になる気がして、あと、悲しいだけではないって気持ちになれると思ったので、こうして文章にしてみた。

 読んでくれて、おじいちゃんのことを知ってくれて、ありがとう

余談。

 わたしが今の家に戻る前日、仏具屋に母と行って、位牌のカタログをもらって祖母の家に行った。その後数日、祖母カタログを見て、あと母が撮っていった店頭にあった位牌の写真も見て、散々悩んだけど、そのお店で一番よく出回る、スタンダードものを選んだらしい。「それでいいの?」と母が訊いたら、「わたしが死んだ時は、お父さん(祖父のこと)とお揃いの位牌にしてほしいから。これならすぐお揃い作ってもらえるでしょ」と言ったそうな。お揃いの位牌。ちょっとパワーワードだな、なんて思った。でもさぁおばあちゃん、そんな早くいったらおじいちゃんたぶん額に青筋立ててめっちゃ怒るから、もう少し一緒にいてほしいな。お正月には会いに行くからさ。

2022-10-04

anond:20221004111826

こう言っちゃあれだけど葬儀で一番しきたりに細かいのって実はそんなに付き合いがないけど墓が置いてある…っていう逃げられない菩提寺が多くてね(個人の感想だけど)

菩提寺にアンタの家どうなってんの?これ?って言われたらまた精神疲労が増えちゃうんだ

しょうもない事が積み重なっていつか爆発するんだ

anond:20221004111245

元増田だけど

例えば義理の嫁が送ってるのに実の娘の夫が送ってないのはどうなのとか始まるかもしれない、近親者だけの葬儀から家族が気にしない?でも菩提寺は?とかまた始まるんだよ

葬儀屋がちゃんアドバイスしないから ってのは本当にそう いつもごめんね

2022-08-30

クソ坊主リアル

当方、現役の住職で、初増田です。

昨今、テレビネットで「宗教」が悪い意味クローズアップされることが多いので、

多少なりとりも宗教に関わっている人間として思っていることをとりとめもなく書いてみる。

このエントリは「宗教信じろ」とか言うつもりは無いし、何か提言をするわけでもない。

目的はなんだ、と聞かれたら愚痴相談に近いのかもしれないし、

ブクマをもらって、ただ承認欲求を満たしたいだけなのかもしれない。

そして自分は俗にいう「寺の後継ぎ」であった。

〇〇平和連合とか××学会とかでは無く、大手宗派のフツーの田舎寺の生まれで、社会人を経てから東北とある寺を継いでいる。

真面目にやっているつもりではいるが、カツカツ状態でお寺を運営している一応の「宗教運営サイド」である

僧侶として不適切表現があるかも知れないが思うことをリアルに書いてみようと思う。


ネットのよくある論調に対して思うこと~

「坊さんて生臭坊主クズばっかだよな、潰れろよwww


こういうネット論調に対して、別に否定はしない。実際にそういう人は目立つし、まぁ多いんだろうな、と思う。

たぶんお金のある環境で何不自由なく育ち、社会にも揉まれずに、資格だけ取って親の跡を継いでるのだから

悪く言ってしまえば、中小企業無能ボンボン2世社長みたいなイメージなんだろうか。(もちろん厳しい修行は経ている)

一方で、もちろん真面目なお坊さんもいるし、先代住職の後をきちんと継ごうと頑張っている若い子もいる。聖者かよ、ってレベル住職もいる。

特に、小さいお寺で住職だけじゃ食べていけない比較的若めな人ほど、副業をやりながら、

きちんと社会と関わりを持っているからマトモな感覚を持っていると個人的には感じる。

やはり前者の「クズ」とネットで呼ばれる方はでかい寺のボンボンドラ息子が多いんじゃないかな。

センス悪い真っ赤なBMW乗り回して、キャバクラ行ってるような生臭坊主。そんなネット上で揶揄されるイメージとそこまでかけ離れて無いと思う。

ただ宗教法人本部側、もしくはお檀家さん側から見て、1番ヤバいのはこういうタイプがやっている寺ではないと思う。

彼らにはまだ、人とコミニュケーションを取れる、という立派な能力があるからだ。


~1番やばいタイプ~


結論から言えば、前述のようなテンプレ的なクソ坊主(以下テク坊とする)よりヤバいのは、

発達障害の方が継いでいる寺なんじゃないか個人的に思っている。

発達障害の方自体をどうこう言うつもりは全くないし、彼らに社会ケア必要だと思うし、本題から逸れるので置いておく。

そもそも「寺の跡を継ぐ」だいたいのパターンとして寺生まれの子高校卒業後に専門の大学に入って資格を取り、寺に戻るルートが多い。

発達障害の彼らもテク坊も同じルートを辿ってお坊さんになる。

しかし彼らは陽キャテク坊とは違う。大学時代テク坊が親の金クラブで遊び呆けている一方で、

人とマトモなコミュニケーショが取れない、文字がすらすら読めない、簡単なことが覚えられない、優先順位がつけられない、何度同じことを注意されてもできない、大学に来なくなりがち等、

見ているとこんな子がいるのかとびっくりしてしまう程だ。

発達障害エピソードなんかは他のエントリでも言及されている通り。

別に彼らを馬鹿にしたりとか、彼らのやばいエピソードを列挙・紹介したりとか、そういう目的では無いので詳細は省く。

そして、もちろん彼らは悪い子ではない。

高校を出たての18歳で、地方から単身、大学のある都市に出てきて彼らなりに努力しているのだと思う。

本来なら「彼らにもできること」を職業として、何かしらのケア気遣いを受けながら生きていくのだと思う。

しかし彼らは(親の意思であれ)お坊さんになる道を選んでしまったのである


~何がやばいか~


お坊さんという仕事は、言ってみればイチ法人社長みたいなものだ。

檀家さんや地域の方とコミュニケーションは必須だし、当然一定タスク処理能力もいる。

人の生き死ににも関わる仕事なのでイレギュラー対応も多々起きる、体力のいる仕事だ。

テク坊は生臭坊主かもしれないけど、寺が回っているなら一応やることはやっているはずなのだ

また、ひと昔はお坊さんになるのにも、一定の選別は行われていたのではないか、と思う。

長男が無理なら次男が継ぐってパターンもあったろうし。

しかし今は少子化も進み、在家から出家する人も減ったろうし、そもそも職業として倍率が減っている。

なので、どんな子であろうと、なんとかして跡を継いでもらわないと、田舎なんかだと寺自体が潰れてしまうかもしれないのだ。

宗教法人本部からしてもそれは避けたいし、何より坊さんを養成する大学側も継いでくれる彼らを見捨てるわけにはいかない。

昔と比べて志望者は減り、入試の倍率はほぼ1倍に近い、いわゆるFランで、入学後も彼らを(大学とは思えないほどに)サポートする。

優しく、とても優しくお坊さんになるまで見守ってあげるのだ。

一般的職業であれば選考過程でふるい落とされる彼らは、

そうして見事生き残ってしまうのである。(もちろん修行から逃げてしまう子もいる)

もう一度言うが、発達障害の彼らをどうこう言う気は無い。

ただ彼らの能力的におそらく無理であろう、さらに寺の住職という少し特殊職業に就いてしまう、就かされてしまうそんな構造ヤバいと思う。

想像してみてほしい。自分家族や親戚が亡くなった時に来たお坊さんが、ほぼコミュニケーションが取れず、小さな声でボソボソと下手くそなお経を読んでいる光景を。

いや、そもそも予定を覚えられず来ないかもしれない。彼らにとっても、ご遺族にとっても最悪だと思う。

言い過ぎだろうと思う人もいるかもしれないが、彼らを見ると本当にあり得ると思う。

一般的仕事であれば、当然そんな人に需要はなくなるし、潰れて当然だろう。

この時代宗教なんて要らなくなるのかもしれない。

から冒頭のネット論調のように、坊主が嫌われてるのも分かるし、自分在家の生まれだったら不要と思うかもしれない。

でも自分は寺の生まれで、亡くなった先代に反抗してた時期はありつつも、結局継ぐことを選んでしまった。

まとまりも無く、長いこと書いたけど特に結論も無い。

これから宗教法人の行く末を不安に思っているだけで無力な一僧侶だ。

あえて言いたいことがあるとすれば、

住職としゃべってみてやばいと思ったら菩提寺を変えてみた方がいいかもしれない。

仏教のありかたをとして必要なことは現代でもきちんとあるし、それがきちんとこなせる方へ。


さて、自分世間からどういうお坊さんに映っているのだろうか。

2022-07-27

郅都

郅都(?) -?) 前漢時代河東郡楊県(現在山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。

内容

1 バイオグラフィー

1.1 生まれから最初の数年間

1.2 強力なもの抑制する

1.3 強者に挑む

1.4 皇太子妃の不興を買う

1.5 閻魔大王総督

1.6 イーグルの死

2 評価

3 関連項目

4 参考文献

バイオグラフィー

最初の数年間

漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。

ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡トイレを使っていると、突然イノシシトイレ突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。

強者への抑圧

前漢の初め、宮廷黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。

強力なものを避けるのではなく

その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律王族親族貴族執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行比喩とされた[3]。

皇太后陛下のご不興を買う

紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。

紀元前148年、劉栄が勅令違反して菩提寺土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵現在湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。

都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフペンを渡した。 長男の死を知った皇太后激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。

燕門総督

漢の景帝の時代匈奴鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。

匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。

イーグルの死

景行が再び財津を利用したことを知った道太后激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。

評価

彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。

司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。

漢の成帝の時代大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。

唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝時代に、右補奇人陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。

上記名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国武将国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%85%E9%83%BD

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

2022-02-08

anond:20220208145326

23歳で初めて藤澤清造作品出会った時は「ピンと来なかった」というが、29歳の時、酒に酔って人を殴り、留置場に入った経験から清造に共鳴するようになり[3]、以来、清造の没後弟子自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けている。

清造の墓標を貰い受けて自宅に保存している他、1997年ごろから[3] 清造の月命日の毎月29日には清造の菩提寺浄土宗西光寺(石川県七尾市)に墓参を欠かさない。2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、清造の墓の隣に自身生前墓を建ててもいる。

 

藤澤清造に心酔していたこから石川県七尾市にある藤澤の墓の隣に自身生前墓を建てていた。



安らかに眠れ

2021-10-14

anond:20211014155259

墓碑銘って言うの❓横に石板があって歴史を彫り足していく板があるお墓もあるよね。菩提寺があれば過去帳もある。

一族歴史だ。

2021-08-28

Yahooニューストップ見出し

8/28(土) 17:00更新

東京都 新たに3581人が感染 730

接種後感染し母重症化 娘の訴え 1736

信長愛した女性菩提寺 解体へ 1165

介護10年 でも辞めなかった仕事 47

米AppleCEO 825億円相当の賞与 907

五輪代表 MF相馬勇紀が結婚 130

結婚直後に右腕切断 パラ銀で涙 619

丸山桂里奈 結婚生活で妊活意識 217

昨日https://anond.hatelabo.jp/20210827173355

2021-07-08

大阪柴島という地名がある

猫の相島うさぎ大久野島のように柴犬がたくさんいる島だと思って行ってみると浄水場があるただの陸地なのでがっかりする。「しばじま」ではなく「くにじま」。

柴島の近くに淡路という地名があるがこちらも淡路島ではない。菅原道真が「ここが淡路島か!」と勘違いしたので、淡路。まさに日本西インド諸島

淡路の近くには崇禅寺という細川ガラシャ菩提寺として知られる寺がある。崇拝の崇だが「すうぜんじ」ではなく「そうぜんじ」である。「ソーセージに似ている」と覚える。

2021-01-01

ぼくには、菩提寺もないし

お墓もない

とられちゃったし

冗談を言うお寺とは付き合いにくい

冠婚葬祭冗談にはなりにくい

 

親族のだれかがやるだろうし

僕は結婚もできないだろうから

無縁仏のお墓に入れてほしいと

生前にいっていたと伝えてほしい

 

でもどっちでもいい

しょせん骨

 

笑えない冗談を言うからつきあにくい

それでも

わらっていないといけないのが辛いお寺だった

 

1年経って やっと当番が終わって 息がつける

冗談をわらえなかった。冗談じゃないならしょうがないし、冗談ならわらえなかった。

2020-12-29

[]110日目 『夜明け前』を読んだ

なわとび:602回

ボクシング:126kcal

年末で忙しくて疲れてたら前回から一週間以上経過していた

『夜明け前』読みおわった

まあ、実は読み終わったのは結構前なんだけど、せっかく読んだからなんか書いておきたいなと思ってから実際に書くまで結構時間がかかった

最初の巻を読んだのは実は結構前で、もう15年以上昔のこと。以来続きの巻をそのうち読もうと思いつつなんだかんだで今まで来てしまった

kindleを導入したときに、手持ちの本をいくつか電子書籍と置き換えようと思って、青空文庫に入っている本をいくら処分したのだけれど、その時ついでに続刊を持っていなかった『夜明け前』を全部揃えてあとで読むリストに放り込んでおいた

まあ、それからも1年以上放置したわけだが

一度、どうにか読んでしまおうと思って自動読み上げ機能に読ませてみたこともあるのだけれど、漢字の読みがぐっちゃぐっちゃで、たとえば「金兵衛」を「きんひょうえ」と読んだりする

これを聞きながらちゃん理解しようとするよりは、自分で読んだほうがまだ脳みそリソース消費が少ないなと思って断念した

あとで読むリストに入れて毎日目にしているとなんとなく爪のささくれのように気になるもので、今年とうとう一念発起して読んでしまうことにした

実はこのあとにまだ20年積んである破戒』というのも控えているのだけれど、まあこれは来年あたりに読んでしまおうか

こっちは一冊で終わるし

さて読み終わってみると、まず第一になぜ藤村父親の一代記とも言うべきこの本を書こうとしたのかということを考えるわけだけれども、これはやはり父親精神を病んだからというよりも、その過程で家の菩提寺でもあり、代々深い付き合いのあった万福寺放火しようとしたことの原因を探ろうという意味合いがあったのではないかという気がする

物語はすべてこの放火事件へ向かって流れていき、この事件のあとはすべてエピローグであるように自分には読めた

ところで、物語は半蔵の父親吉右衛門時代は万事が概ね順調で、半蔵の世代に移ってからは半蔵自身の才覚のなさもあって波乱万丈なように見えるが、これはたぶん作者自身が実際に見たのが半蔵の時代だったか祖父に当たる吉右衛門時代理想的に見えているだけで、実際には吉右衛門時代吉右衛門なりの苦労があったのはもちろん、彼なりの不手際軋轢もたくさんあったのではなかろうかと想像する

半蔵は半蔵なりに精一杯その時代を生きたし、それは彼の父親吉右衛門も変わらなかったろうと思うから

つの時代もどんな人であっても安気に暮らしている人はそうそういないもので、その人なり、その時代なりの苦労をそれぞれ背負って生きているものだろうと思う

これはまあ4冊も通して付き合った半蔵に対する同情でもあるけれど

個人的な興味関心との関連でいうと、一つは、最近登山をするようになって各地の山にある神社仏閣を訪れる機会が増えて、その由来などを調べるにつれ、明治廃仏毀釈いかに激しかたかを知り、なぜあのようなことが起きたのか興味があったので、その思想的背景の一端を知れたことは良かった

とはいえ平田国学から廃仏毀釈へと至る背景にはさら江戸時代寺院がかなりの権力を持っていて、その弊害が大きかったらしいこともうかがえるので、むしろ平田派の思想きっかけに過ぎなかったのかもしれない

このへんはまた機会があったらちゃんと調べたいところ

もう一つ、この前恵那山にも登ってきて正直面白みの薄い山だなと思っていたのだけれど、木曽路から見る恵那山描写を読むとこの山はむしろから眺めることにこそ面白さがあるのかもしれないと思ったりした

2020-10-08

バタメ家には墓がない

前回の日記結婚して妻の姓になり7年がたった

僕は前回が初増田だったのですが、予想以上にバズってびっくりしてます。今見たらトラバもまたすごいブコメ数だし……。

前回のおさら

生天目(ナバタメ)家の長男だった増田は靏岡(ツルオカ)姓の女性結婚し、増田の方が名字を変えてツルオカになりました。養子縁組はまだなので、純粋名字だけです。例によって固有名詞は全て仮名です。

今回は前回の続編と言えばそうですが、名字やら手続きマニアとは関係ないつまらない話です。こういう他でできない自分語りができるのが増田醍醐味ですよね? 使い方あってる?

母の葬式

なんやかんやあってその後母も亡くなりました(父はこの10年以上前他界)。これはその時起きたエピソード。父が死んだ時には茫然自失で何も記憶がない僕ですが、母が死んだ時にもやはりだいぶ参っていたようで、以下の話は後から聞いて知ったのでした。

通夜の席でのことです。母は近隣の八木(ヤギ)家の出身でしたのでその場にはヤギ家の面々が勢揃い。遠方のナバタメ家はちらほら。妻のツルオカ家はもっと遠方でしたのでその時には妻以外おりません。そこでナバタメ家のミキコ叔母さん(父のすぐ下の妹。長女)が発言したのです。

「ショウコさん(僕の母)はナバタメのお墓に入るのだけど、私の代はともかく、息子の代になってもお墓がきちんと管理できるかわからないの。だからしばらくしたらキョウイチ兄さん(僕の父)共々別にお墓を作って移って欲しいわね」

その場で僕は生来の暢気な気質からなのかあるいは精神が参ってどうでもよくなっていたのか「へえ。それは大変ですね。そうしましょう」と答えたのです。

しかしこれにはヤギ家の面々が激昂。「ふざけるな!葬式から墓を出ろとはなんという言い草だ!」いやあ、これはもっともですね。ミキコ叔母さんも流石に空気が読めなさすぎです。

お墓を移る

バタメ家は結構大きく、正月には一族女性が作ったおせち大広間で食べ、子供たちは当主である祖父から順にお屠蘇お年玉ををもらうような家でした。僕の父は当主である祖父長男だったのです。でもなぜか父は家を出て若くして死に、祖父が死んだ時には僕は母に相続放棄をさせられました。何があったんでしょうね? 母はナバタメ家に隔意を抱いていたみたいだし、僕の改姓にあんなに反対しなくっても、ねえ?

さて、その通夜の場は無事に終わった(らしい)のですが、結局お墓は移ることになりました。とはいえ、昨今そんな簡単墓地は買えませんし、墓石を建てるお金もありません。

ここで非常に運が良かったのは、ナバタメ家とヤギ家のそれぞれの菩提寺、大妙寺と寂光寺は宗派が同じであることでした。寂光寺にはヤギ家の納骨堂があり、そこに骨壷を移すことを両寺の和尚様に了承していただけたのです。

大妙寺の和尚様の立会いでナバタメ家の墓から父と母の骨壷を取り出しました。墓石の下部には蓋のついた空間があり、そこに骨壷を入れることができるのです。知ってました? 僕はてっきりスコップで土から掘り出すのかと思ってましたよ。

そして骨壷を抱えて母の地元にある寂光寺に向かいました。人生経験豊富はてなー諸氏におかれましても、両親の骨壺を持って旅をした人はなかなかおりますまい。割れたらえらいことになりますからね。緊張しました。

後日談

この後も納骨堂追い出され未遂やら遺産相続争いなどの面白イベントがあるのですがそれはまた別稿に譲りましょう。最終的には、数年後にナバタメの叔父から連絡があり、この問題解決しました。

ミキコ姉さんがそんなことを言ったのだとは知らなかった(叔父通夜の席におりませんでした)。ナバタメ家の墓はこれを機に姉さんではなく自分管理するようにしたか問題ない。もしそちらが望むなら、キョウイチ兄さんもショウコさんも戻ってきて構わないよ。」

一体姉弟間で何があったんでしょうね? 僕はあんなこと言われましたが、ミキコ叔母さんのことはさっぱりして好きなんですよね。空気の読めないところとか僕も似てますし。まあ母はそういうところが苦手だったんだろうな、とは思いますが。

骨壺どうしましょうかね? とりあえず、いざというときに行き場がないということだけは避けられたようです。よかったよかった。

まとめ

  • 通夜の場では当事者より周りの方が神経質になっている。迂闊な発言は慎もう。
  • 菩提寺和尚様とは昵懇な方が良い。せめて宗派くらいは把握しとこうね。

特殊な家の特殊な話なので、あんまり参考にならないと思うよ!

2019-08-16

anond:20190816231401

ネトウヨくん早く実家にお電話してお袋さんに留袖の背中と袖についてる紋と菩提寺とお宮参りどこ行ったかぐらいは聞いとき

オモニだったら無理だろうけどwwww

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