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2019-05-10

anond:20190510210113

だよねえ

天照大神の子孫の癖して、菩提寺をもって仏教帰依していた皇族歴史枚挙にいとまはないし、天皇=神道、というのは短絡的すぎる

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2017-09-06

寺で始まる名字はクソダサなのに寺で終わる名字はかっこいい:寺終わり一覧

秋篠寺 あきしのでら

芦峅寺 あしくらじ

飛鳥寺 あすかでら

安寺 あてら

阿寺 あてら

天寺 あまでら

尼寺 あまでら

阿弥陀寺 あみだ

阿見寺 あみでら

荒寺 あれでら

安岡寺 あんこう

安国寺 あんこくじ

安全寺 あんぜんじ

安用寺 あんようじ

安養寺 あんようじ

安楽寺 あんらくじ

石寺 いしてら

石山寺 いしやまでら

板寺 いたでら

猪名寺 いたでら

一乗寺 いちじょうじ

一条寺 いちじょうじ

一寺 いちでら

一坊寺 いっぽうじ

井寺 いてら

威徳寺 いとくじ

伊堂寺 いどうじ

稲寺 いなでら

今寺 いまでら

岩峅寺 いわくらじ

岩寺 いわでら

巌寺 いわでら

巖寺 いわでら

上寺 うえでら

氏寺 うじでら

永源寺 えいげんじ

英勝寺 えいしょうじ

永徳寺 えいとくじ

永平寺 えいへいじ

永保寺 えいほうじ

永満寺 えいまんじ

永養寺 えいようじ

江寺 えてら

慧日寺 えにちじ

家原寺 えばらじ

円覚寺 えんがくじ

円行寺 えんぎょうじ

円光寺 えんこうじ

圓光寺 えんこうじ

円護寺 えんごじ

円勝寺 えんしょうじ

円正寺 えんしょうじ

延勝寺 えんしょうじ

延壽寺 えんじゅじ

延寿寺 えんじゅじ

円城寺 えんじょうじ

円成寺 えんじょうじ

圓城寺 えんじょうじ

圓成寺 えんじょうじ

延対寺 えんたいじ

円通寺 えんつうじ

円道寺 えんどうじ

圓道寺 えんどうじ

円頓寺 えんどんじ

円応寺 えんのうじ

円能寺 えんのうじ

円福寺 えんふくじ

圓福寺 えんふくじ

円満寺 えんまんじ

円明寺 えんみょうじ

延命寺 えんめいじ

延暦寺 えんりゃくじ

王寺 おうじ

王禅寺 おうぜんじ

押領寺 おうりょう

大谷寺 おおたにじ

大寺 おおでら

大野寺 おおのじ

大庭寺 おおばでら

岡寺 おかでら

海印寺 おくかいいんじ

奥寺 おくてら

奧寺 おくてら

小倉寺 おぐらじ

長寺 おさでら

尾寺 おてら

御寺 おてら

小埜寺 おのでら

小野寺 おのでら

小見寺 おみでら

表慈恩寺 おもてじおんじ

音光寺 おんこうじ

園城寺 おんじょうじ

遠城寺 おんじょうじ

温泉寺 おんせんじ

隠明寺 おんみょうじ

園林寺 おんりんじ

海印寺 かいいんじ

海応寺 かいおう

海音寺 かいおんじ

皆尺寺 かいしゃくじ

海蔵寺 かいぞうじ

海藏寺 かいぞうじ

覚王寺 かくおうじ

覚寺 かくじ

覚満寺 かくまんじ

駆け込み寺 かけこみでら

駆込み寺 かけこみでら

笠寺 かさでら

嘉祥寺 かしょうじ

勧修寺 かじゅうじ

門寺 かどでら

金森寺 かなもり

上古寺 かみふるてら

川寺 かわでら

寛永寺 かんえいじ

観音寺 かんおんじ

観海寺 かんかいじ

観喜寺 かんきじ

舘山寺 かんざんじ

観修寺 かんしゅうじ

官寺 かんじ

観世音寺 かんぜおんじ

神大寺 かんだいじ

神道寺 かんどうじ

感応寺 かんのうじ

感應寺 かんのうじ

観音正寺 かんのんしょうじ

甘露寺 かんろじ

願海寺 がんかいじ

元興寺 がんごうじ

願興寺 がんごうじ

願成寺 がんじょう

北久宝寺 きたきゅうほうじ

北寺 きたでら

城田寺 きだいじ

吉城寺 きちじょうじ

吉祥寺 きちじょうじ

木寺 きでら

紀寺 きでら

木佛寺 きぶでら

紀三井寺 きみいでら

久宝寺 きゅうほうじ

久本寺 きゅうほんじ

清水寺 きよみずでら

金閣寺 きんかくじ

金山寺 きんざん

金勝寺 きんしょうじ

金仙寺 きんせんじ

金泉寺 きんせんじ

金熊寺 きんゆうじ

金楽寺 きんらくじ

祇園寺 ぎおんじ

行願寺 ぎょうがんじ

玉泉寺 ぎょくせんじ

銀閣寺 ぎんかくじ

久遠寺 くおんじ

久能寺 くのうじ

九品寺 くほんじ

久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら

窪寺 くぼでら

鞍馬寺 くらまでら

弘法寺 ぐほうじ

弘明寺 ぐみょうじ

恵林寺 けいりんじ

敬礼寺 けいれいじ

華蔵寺 けぞうじ

顕聖寺 けんしょうじ

建長寺 けんちょうじ

建仁寺 けんにんじ

源法寺 げんぼうじ

高安寺 こうあんじ

光悦寺 こうえつじ

高円寺 こうえんじ

光音寺 こうおんじ

光源寺 こうげんじ

高源寺 こうげんじ

興国寺 こうこくじ

広済寺 こうさいじ

耕三寺 こうさんじ

高山寺 こうさんじ

興聖寺 こうしょうじ

光寺 こうじ

国府寺 こうじ

國府寺 こうじ

高水寺 こうすい

高専寺 こうせんじ

高專寺 こうせんじ

光善寺 こうぜんじ

高蔵寺 こうぞうじ

高台寺 こうたいじ

香寺 こうでら

皇徳寺 こうとくじ

高徳寺 こうとくじ

光同寺 こうどうじ

興福寺 こうふくじ

光明寺 こうみょうじ

広隆寺 こうりゅうじ

粉河寺 こかわでら

国済寺 こくさいじ

国泰寺 こくたいじ

國分寺 こくぶじ

国分寺 こくぶんじ

国分尼寺 こくぶんにじ

苔寺 こけでら

古正寺 こしょうじ

小寺 こでら、こてら

駒寺野 こまでらの

金戒光明寺 こんかいこうみょうじ

金剛寺 こんごう

金剛峯寺 こんごうぶじ

金剛峰寺 こんごうぶじ

権寺 こんじ

金蔵寺 こんぞうじ

金胎寺 こんたいじ

豪炎寺 ごうえんじ

豪徳寺 ごうとくじ

五雲寺 ごうんじ

獄寺 ごくでら

極楽寺 ごくらくじ

極樂寺 ごくらくじ

護国寺 ごこくじ

後藤寺 ごとうじ

権正寺 ごんしょうじ

権常寺 ごんじょうじ

西安寺 さいあんじ

西円寺 さいえんじ

西園寺 さいおんじ

西園寺公望 さいおんじきんもち

西教寺 さいきょうじ

西元寺 さいげんじ

西光寺 さいこうじ

最勝寺 さいしょうじ

西照寺 さいしょうじ

西寺 さいじ

最乗寺 さいじょうじ

西大寺 さいだいじ

西大寺上 さいだいじかみ

西大寺中 さいだいじなか

佐井寺 さいでら

才寺 さいでら

西徳寺 さいとくじ

西方寺 さいほうじ

西法寺 さいほうじ

西芳寺 さいほうじ

斉明寺 さいみょうじ

斎明寺 さいみょうじ

最明寺 さいみょうじ

齋明寺 さいみょうじ

西明寺 さいみょうじ、さいめいじ

西來寺 さいらいじ

西蓮寺 さいれんじ

西連寺 さいれんじ

境寺 さかいでら

讃州寺 さんしゅうじ

三世寺 さんぜじ

三代寺 さんだいじ

三大寺 さんだいじ

三福寺 さんふくじ

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財光寺 ざいこうじ

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在國寺 ざいこくじ

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紫雲寺 しうんじ

四王寺 しおうじ

塩寺 しおでら

志観寺 しかんじ

下寺 したでら、しもでら

四天王寺 してんのうじ

志堂寺 しどうじ

嶋寺 しまでら

海印寺 しもかいいんじ

下法軍寺 しもほうぐんじ

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舎利寺 しゃりじ

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修禅寺 しゅぜんじ

朱膳寺 しゅぜんじ

祥雲寺 しょううんじ

正円寺 しょうえんじ

正観寺 しょうかんじ

正覚寺 しょうがくじ

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承元寺 しょうげんじ

正源寺 しょうげんじ

生源寺 しょうげんじ

勝興寺 しょうこうじ

相国寺 しょうこくじ

正権寺 しょうごんじ

荘厳寺 しょうごんじ

清浄光寺 しょうじょうこうじ

諸徳寺 しょうとくじ

正道寺 しょうどうじ

正福寺 しょうふくじ

正法寺 しょうほうじ

淨法寺 しょうほうじ

昌明寺 しょうみょうじ

正明寺 しょうみょうじ

称名寺 しょうみょうじ

勝楽寺 しょうらくじ

正楽寺 しょうらくじ

正暦寺 しょうりゃくじ

勝竜寺 しょうりゅうじ

青龍寺 しょうりゅうじ

少林寺 しょうりんじ

松林寺 しょうりんじ

正蓮寺 しょうれんじ

青蓮寺 しょうれんじ

城寺 しろてら

眞行寺 しんぎょうじ

真行寺 しんぎょうじ

真光寺 しんこうじ

神護寺 しんごじ

新勝寺 しんしょうじ

神松寺 しんしょうじ

神清寺 しんせい

新寺 しんてら

真如寺 しんにょじ

真福寺 しんふくじ

新福寺 しんぷくじ

真綾寺 しんりょう

慈恩寺 じおんじ

慈眼寺 じがんじ

慈光寺 じこうじ

持光寺 じこうじ

慈照寺 じしょうじ

地蔵寺 じぞうじ

実相寺 じっしょうじ

實相寺 じっしょうじ

実法寺 じほうじ

慈明寺 じみょうじ

神明寺 じみょうじ

甚目寺 じもくじ

十楽寺 じゅうがくじ

十樂寺 じゅうがくじ

十禅寺 じゅうぜんじ

十蔵寺 じゅうぞうじ

十藏寺 じゅうぞうじ

鷲林寺 じゅうりんじ

十貫寺 じゅっかんじ

寿福寺 じゅふくじ

順教寺 じゅんきようじ

浄圓寺 じょうえんじ

淨円寺 じょうえんじ

常願寺 じょうがんじ

成願寺 じょうがんじ

城光寺 じょうこうじ

定光寺 じょうこうじ

常光寺 じょうこうじ

常称寺 じょうしょうじ

定禅寺 じょうぜんじ

浄智寺 じょうちじ

浄土寺 じょうどじ

城南寺 じょうなんてら

浄法寺 じょうほうじ

上坊寺 じょうぼうじ

浄明寺 じょうみょうじ

常楽寺 じょうらくじ

常樂寺 じょうらくじ

定林寺 じょうりんじ

神宮寺 じんぐうじ

神向寺 じんこうじ

秦泉寺 じんせんじ

深大寺 じんだいじ

神武寺 じんむじ

水前寺 すいぜんじ

周船寺 すせんじ

須磨寺 すまでら

随応寺 ずいおうじ

瑞巌寺 ずいがんじ

瑞泉寺 ずいせんじ

頭陀寺 ずだじ

清閑寺 せいかんじ

清岸寺 せいがんじ

清河寺 せいがんじ

誓願寺 せいがんじ

青岸渡寺 せいがんとじ

清玄寺 せいげんじ

成勝寺 せいしょうじ

西伝寺 せいでんじ

青明寺 せいみょうじ

清涼寺 せいりょう

関寺 せきでら

泉岳寺 せんがく

泉正寺 せんしょうじ

浅草寺 せんそうじ

千提寺 せんだいじ

泉涌寺 せんにゅうじ

泉湧寺 せんにゅうじ

千音寺 せんのんじ

善応寺 ぜんおうじ

善久寺 ぜんきゅうじ

善慶寺 ぜんけいじ

善源寺 ぜんげんじ

善光寺 ぜんこうじ

善根寺 ぜんこんじ

禅昌寺 ぜんしょうじ

善通寺 ぜんつうじ

禅寺 ぜんでら

善導寺 ぜんどうじ

善如寺 ぜんにょじ

善能寺 ぜんのうじ

善福寺 ぜんぷくじ

善法寺 ぜんぽうじ

善養寺 ぜんようじ

善立寺 ぜんりゅうじ

禅林寺 ぜんりんじ

総持寺 そうじじ

崇禅寺 そうぜんじ

崇福寺 そうふくじ

造寺 ぞうじ

増上寺 ぞうじょうじ

太岡寺 たいこうじ

躰光寺 たいこうじ

大山寺 たいさんじ

大石寺 たいせきじ

泰泉寺 たいせんじ

太寺 たいでら

大寧寺 たいねいじ

太平寺 たいへいじ

当麻寺 たいまでら

太融寺 たいゆうじ

太陽寺 たいようじ

高田寺 たかだじ

高寺 たかでら

髙寺 たかでら

宝寺 たからでら

滝寺 たきでら

瀧寺 たきでら

橘寺 たちばなでら

舘寺 たてでら

館寺 たてでら

田寺 たでら

多門寺 たもんじ

誕生寺 たんじょうじ

大安寺 だいあんじ

大雲寺 だいうんじ

大雄寺 だいおうじ

大覚寺いかく

大巌寺 だいがんじ

大願寺 だいがんじ

大京寺 だいきょうじ

題経寺 だいきょうじ

大宮寺 だいぐうじ

大源寺 だいげんじ

大光寺 だいこうじ

醍醐寺 だいごじ

大師寺 だいしじ

大正寺 だいしょうじ

大聖寺 だいしょうじ

大慈寺 だいじじ

大樹寺 だいじゅうじ

大乗寺 だいじょうじ

大泉寺 だいせん

大善寺 だいぜんじ

大通寺 だいつうじ

大徳寺 だいとくじ

大導寺 だいどうじ

大道寺 だいどうじ

大日寺 だいにちじ

大宝寺 だいほうじ

大楽寺 だいらくじ

大琳寺 だいりんじ

達磨寺 だるま

檀那寺 だんなでら

旦那寺 だんなでら、だんなじ

智恩寺 ちおんじ

知恩寺 ちおんじ

竹林寺 ちくりんじ

千見寺 ちけんじ

知見寺 ちけんじ

千葉寺 ちばでら

中元寺 ちゅうがんじ

中願寺 ちゅうがんじ

中宮寺 ちゅうぐうじ

仲元寺 ちゅうげんじ

中権寺 ちゅうごんじ

中在寺 ちゅうざいじ

中善寺 ちゅうぜんじ

中禅寺 ちゅうぜんじ

中尊寺 ちゅうそんじ

中堂寺 ちゅうどうじ

長安寺 ちょうあんじ

長栄寺 ちょうえいじ

潮音寺 ちょうおんじ

長久寺 ちょうきゅうじ

長慶寺 ちょうけいじ

長源寺 ちょうげんじ

長興寺 ちょうこうじ

長勝寺 ちょうしょうじ

長松寺 ちょうしょうじ

長泉寺 ちょうせんじ

重染寺 ちょうぜんじ

長徳寺 ちょうとくじ

長坂寺 ちょうはんじ

長峰寺 ちょうほうじ

長命寺 ちょうめいじ

長楽寺 ちょうらくじ

通元寺 つうげんじ

通法寺 つうほうじ

津寺 つでら

貞永寺 ていえいじ

天花寺 てんげえじ、てんかじ

天現寺 てんげんじ

天性寺 てんしょうじ

天正寺 てんしょうじ

天寧寺 てんねいじ

天王寺 てんのうじ

天籟寺 てんらいじ

天竜寺 てんりゅうじ

天龍寺 てんりゅうじ

伝法寺 でんぼうじ

傳法寺 でんぼうじ

東慶寺 とうけいじ

東光寺 とうこうじ

唐招提寺 とうしょうだいじ

当寺 とうじ

東寺 とうじ

東泉寺 とうせんじ

東禅寺 とうぜんじ

東大寺 とうだいじ

東長寺 とうちょうじ

塔寺 とうでら

東福寺 とうふくじ

灯明寺 とうみょうじ

徳大寺 とくだいじ

道光寺 どうこうじ

道寺 どうじ

道場寺 どうじょうじ

道成寺 どうじょうじ

導寺 どうでら

道明寺 どうみょうじ

道明寺粉 どうみょうじこ

中秦泉寺 なかじんぜんじ

中寺 なかでら

中山寺 なかやまでら

若王寺 なこうじ

那谷寺 なたでら

成相寺 なりあいじ

南禅寺 なんぜんじ

南蛮寺 なんばんじ

南林寺 なんりんじ

飯寺 にいでら

西秦泉寺 にしじんぜんじ

西寺尾 にしてらお

西寺方 にしてらかた

西本願寺 にしほんがんじ

西本成寺 にしほんじょうじ

仁頂寺 にじょうじ

日東寺 にっとうじ

如法寺 にょほうじ

忍頂寺 にんじょうじ

仁和寺 にんなじ

念仏寺 ねんぶつじ

能仁寺 のうにんじ

野寺 のでら

廃寺 はいじ

長谷寺 はせでら

畑寺 はたでら

鉢ヶ峯寺 はちがみねじ

八九寺 はちくじ

幅寺 はばでら

浜寺 はまでら

林寺 はやしじ

原寺 はらでら

般若寺 はんにゃ

梅津寺 ばいしんじ

梅林寺 ばいりんじ

番生寺 ばんしょうじ

日向寺 ひうがじ

東本願寺 ひがしほんがんじ

東山寺 ひがしやまてら

引寺 ひきじ

百済寺 ひゃくさいじ

白毫寺 びゃくごうじ

平等寺 びょうどうじ

富貴寺 ふきでら

福王寺 ふくおうじ

福音寺 ふくおんじ

福成寺 ふくじょうじ

福禅寺 ふくぜんじ

福寺 ふくでら

福田寺 ふくでんじ

普賢寺 ふげん

普済寺 ふさいじ

普正寺 ふしょうじ

藤井寺 ふじいでら

二ツ寺 ふたつてら

不動寺 ふどうじ

舩寺 ふなでら

船寺 ふなでら

古寺 ふるでら、こでら

峰定寺 ぶじょうじ

仏光寺 ぶっこうじ

仏国寺 ぶっこくじ

仏生寺 ぶっしょうじ

仏寺 ぶつじ

平安寺 へいあんじ

平泉寺 へいせんじ

平林寺 へいりんじ

報恩寺 ほうおんじ

方広寺 ほうこうじ

宝厳寺 ほうごんじ

宝山寺 ほうざんじ

宝積寺 ほうしゃくじ

寳積寺 ほうしゃくじ

法勝寺 ほうしょうじ

放寺 ほうじ

法寺岡 ほうじおか

芳寺戸 ほうじど

宝仙寺 ほうせんじ

宝泉寺 ほうせんじ

法泉寺 ほうせんじ

法善寺 ほうぜんじ

宝蔵寺 ほうぞうじ

宝藏寺 ほうぞうじ

寳蔵寺 ほうぞうじ

寳藏寺 ほうぞうじ

寶蔵寺 ほうぞうじ

寶藏寺 ほうぞうじ

法蔵寺 ほうぞうじ

法伝寺 ほうでんじ

法傳寺 ほうでんじ

宝塔寺 ほうとう

法道寺 ほうどうじ

鳳来寺 ほうらいじ

法隆寺 ほうりゅうじ

法輪寺 ほうりんじ

法起寺 ほっきじ

法華寺 ほっけじ

法興寺 ほつこうじ

法性寺 ほつしょうじ

本願寺 ほんがんじ

本興寺 ほんこうじ

本寺 ほんじ、ほんでら

本成寺 ほんじょうじ

本能寺 ほんのうじ

本遠寺 ほんのんじ

本法寺 ほんぽうじ

本妙寺 ほんみょうじ

本門寺 ほんもんじ

坊寺 ぼうじ

鳳凰寺 ぼうじ

菩提寺 ぼだいじ

前寺 まえでら

牧寺 まきでら

松尾寺 まつおじ

末寺 まつじ

松寺 まつでら

眞寺 までら

真寺 までら

万願寺 まんがんじ

満願寺 まんがんじ

万寿寺 まんじゅじ

万造寺 まんぞうじ

萬造寺 まんぞうじ

万代寺 まんたいじ

万納寺 まんのうじ

萬納寺 まんのうじ

万福寺 まんぷくじ

三井寺 みいでら

美江寺 みえじ

右寺 みぎてら

三田寺 みたでら

御田寺 みだてら

三ツ寺 みつでら

三寺 みつでら

味寺 みでら

見寺 みでら

南久宝寺 みなみきゅうほうじ

南寺 みなみてら

峰寺 みねでら

壬生寺 みぶでら

宮寺 みやでら

妙円寺 みょうえんじ

明王寺 みょうおうじ

妙顕寺 みょうけんじ

妙光寺 みょうこう

妙興寺 みょうこう

妙国寺 みょうこくじ

妙心寺 みょうしんじ

妙寺 みょうじ

妙成寺 みょうじょうじ

明善寺 みょうぜんじ

明大寺 みょうだいじ

明徳寺 みょうとくじ

妙法寺 みょうほうじ

明法寺 みょうほうじ

妙楽寺 みょうらくじ

妙蓮寺 みょうれんじ

弥勒寺 みろくじ

彌勒寺 みろくじ

向寺 むかいでら

無量寺りょう

室生寺 むろうじ

室寺 むろじ

毛越寺 もうつじ

元寺 もとてら

森寺 もりでら

茂林寺 もりんじ

文珠寺 もんじゅ

薬王寺 やくおうじ

薬師寺 やくしじ

藥師寺 やくしじ

薬勝寺 やくしょうじ

薬眞寺 やくしんじ

薬真寺 やくしんじ

藥眞寺 やくしんじ

矢寺 やてら

柳寺 やなぎでら

山寺 やまでら

祐天寺 ゆうてんじ

幸寺 ゆきてら、こうでら

楊谷寺 ようこくじ

養福寺 ようふくじ

要法寺 ようほうじ

横寺 よこてら

善峰寺 よしみねでら

雷音寺 らいおんじ

来迎寺 らいこうじ

楽巌寺 らくがんじ

理寛寺 りかんじ

立石寺 りっしゃくじ

龍安寺 りゅうあんじ

竜角寺台 りゅうかくじだい

竜宮寺 りゅうぐうじ

龍宮寺 りゅうぐうじ

立花寺 りゅうげじ

龍源寺 りゅうげんじ

竜光寺 りゅうこうじ

龍光寺 りゅうこうじ

龍寺 りゅうじ

竜泉寺 りゅうせんじ

竜禅寺 りゅうぜんじ

竜造寺 りゅうぞうじ

龍造寺 りゅうぞうじ

龍胆寺 りゅうどうじ

竜安寺 りょうあんじ

陵厳寺 りょうげんじ

了仙寺 りょうせんじ

霊仙寺 りょうせんじ

霊山寺 りょうぜんじ

了徳寺 りょうとくじ

良福寺 りょうふくじ

了法寺 りょうほうじ

臨済寺 りんざいじ

輪王寺 りんのうじ

瑠璃光寺 るりこうじ

蓮覚寺 れんがくじ

蓮花寺 れんげじ

蓮光寺 れんこうじ

連光寺 れんこうじ

蓮正寺 れんしょうじ

蓮台寺 れんだいじ

楞巌寺 ろうごんじ

鹿園寺 ろくおんじ

鹿苑寺 ろくおんじ

六泉寺 ろくせんじ

六湛寺 ろくたんじ

六波羅蜜寺 ろくはらみつじ

和寺 わでら

2017-05-19

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

2016-08-21

日本仏教ひどい

何回忌だとか盆供養だとか月の供養だとか何かにつけて高齢者から搾取している様子、少しも仏教的じゃないよなー。

葬式も、仏教的な部分が形骸化しすぎていて、なんのためにやっているのかわからない。

仏の教えを広める気があるのか?勿体ぶってわけのわからんお経を読むだけ読み散らかされても、有り難みなんてない。

でも田舎の爺さん婆さんにとっては菩提寺というのは共同体を牛耳る大きな権力で、なぜか尊敬対象らしいので逆らえずに寺のいいなりになってしまうようだ。

その息子世代にはそういう自由意志無視されるような状態おかしいという感覚があるため、世代交代に伴い寺は減退していっているのだと思う。

絶好のカモの今の後期高齢者世代が死に絶えたら、寺はどうやっていくんだろうね。

まぁ変化に取り残された結果だから仕方ないね。南無〜

2016-04-02

DIY葬儀は無理、と言うあなたに、お寺に相談や、行政の規格葬儀の勧め

http://anond.hatelabo.jp/20160331150720

お坊さんをお呼びした家族葬(D.I.Y.葬)が総額42,360円で完璧に出来たお話

人によっては非常に役立つ、と言う話の一方で、批判もあるこの記事

人の生き死にについては宗教観が付いてくるのでそれをどうこう言うつもりはないけれど、ブコメには「すごいけど、できそうにない」という声が多いみたい。

そこで、おじさんを2人看取ることになった田舎貧乏農家長男の俺がどうやって費用を抑えたか書こうと思う。

こちらの方が、比較的やりやすいのではないかなと思う。

具体的に書かないと意味が無いので具体的に書く。表ブログの読者の方は誰だかわかるかもしれないけど、できたら黙っていてくれるとうれしい。

前提条件

親父は8人兄弟で、そのうち3人は田舎にいるが、残りは都会に出て行った。

そのうち1人は早々になくなり、もう一人は癌で死亡、その時点で存命は6人、1人のおじさんは生涯独身を貫き、もう1人のおじさんは子どももいないままに早いうちに奥さんを亡くして、独り身だった。

俺の親父は次男だったが長男が都会に出てしまったので跡継ぎである。ただ長男が継ぐつもりだったので結婚が遅く、自分の歳の割には高齢だ。さらに俺はその長男なので、跡継ぎである。と言うことで、小さい頃から「親戚が困ったら、本家のうちが助けてやるんだぞ」と言われて育った。

育ったが、本家と言っても、昔なら山を守ってそこから得られる富で支える事ができたのだろうが、今となってはただのワーキングプア貧乏農家であって、お金がない。

それでも、宗教観にあった葬儀をしたかった。

それで、あまり会葬者がいない葬儀を出費としては38万円ちょっとで上げた話をする。これには振る舞いや精進落としを含み、真夏エアコンのない我が家特に必要になったドライアイス代等も含まれるので、そこを省くとたぶん20万円ぐらいでできる。香典を入れると、収支はプラマイゼロでできた。

ポイントはは、お寺との関係だと思う。

上の叔父の時の話。

死亡するまで

上の叔父の時は、叔父から突然「病院からどうしても親類の人に一緒に来てくれと言われた。申し訳ないが、来てくれないか」というのが始まりだった。が、すでに70を超えた親だけをいかせるわけにはいかず、同行、距離にして400キロほど運転して駆けつけると、記憶にあるよりずいぶんとやせた叔父がおり、医師の話を聞くと、やはり癌だった。ステージIII。

叔父はだいたい想像が付いていたようで気丈に振る舞っていたが、こちらは正直、当時22歳だった俺は何のことだかわからない状態だった。

叔父の「今まで1人で暮らしてきたんだから大丈夫」という言葉があったが、ほっとけるわけもなく、とりあえず手術をすることに。手術は後、病理検査が出たのだが、家族だけ医師に呼ばれ話を聞きに行くと、医師曰く、非常に悪性が高く、見えるところは取り切ったはずだが、砂のような癌ですぐに戻ってくる可能性が高いという。本人は癌と闘う気があるので、抗がん剤をやるが聞きづらい可能性もあると言うこと。

みてやりたいという意思はあったが、抗がん剤は周りの支えがカギ、と言うことは一番上の叔母が癌になったことがあったので知っていた。

支える事は、400キロも離れていると難しい。叔父現在の在所に住み込むような金ははっきり言ってない。畜産はやってないにしても仕事はあまりほっとけるわけではない。

持病を持っていた叔父保険にも加入できてなかった。蓄えはあったが、まとまった金と言うほとではなかった。

幸いにして発覚したのが農閑期ではあったのだが…そこで親父と医師相談し、ありのままを告知して、その上で、最後田舎に帰ってこないか、と言う話をした。

それで、最後叔父地元病院で息を引き取った。

葬儀 お寺に相談

このような形で、叔父人生ほとんどを過ごしてきた街ではなく、子ども時代を過ごしたとはいえ、あまり縁のある人のいない田舎でなくなった。そのため、会葬者などはおそらく家関係義理しかかないだろうと想定された。

人生最後引っ越しをしてもらうなど蓄えもほとんど使ってしまっており、実は叔父からは通帳一式預かったのだが、ほとんどお金はなかった。

そこで、親と相談して、お世話になっている菩提寺相談をした。

菩提寺僧侶曰く

  • ここ(お寺)を使って葬儀をすればいい。祭壇は本堂の祭壇をそのまま使いなさい。高い葬儀のものを使う必要は無い。
  • そのようなご事情では、ここへの御布施は最小限で、書き物(卒塔婆や位牌など)等の実費程度でかまいません。他のお寺に頼む伴奏僧侶には出していただきたい。ですが、ここは近隣の若い修行中の僧に依頼しましょう。
  • 地元に済んでいたわけではないので、組合迷惑をかけるのは心苦しいというのはわかるが、彼が幼い頃を知っている年齢の人たちには個別にお願いしても良いのではないか。お手伝いを頼めば葬儀からは最小限で済む

葬儀社は地元農協系を、和尚から依頼をしていただいた。

結果

お寺の場所代
5000円(これは御布施ではなく、総代会の規定で支払う。お寺は和尚さんの持ち物ではなくて、檀家の持ち物)これで祭壇も含まれた。
布施
お寺には10万円。伴奏には3万円2人。若い僧侶で。地元相場だと、本来は寺に30万、伴奏に5万×4人で50万だそう。
お棺など
9万円。本来はかかるが、事情を話して最小限にとどめてもらった。結構かかったのは、真夏ドライアイス代金が3万円近くかかったことが大きい。
遺体搬送
2万円。病院から自宅、自宅から霊柩車も含む。
精進落とし料理その他
10万円
火葬
5万円だが、補助がでて実質無償。(本来は補助がでても1.5万だが、所得が少ないと補助率が上がる)

合計37.5万円。

実際には告知することもなく小さくやったので、あまり人が来ないと思っていたら、叔父と幼い頃一緒だった同窓生などが、どこから知ったのか来てくれたりもした。また、葬儀場が当たり前になっていて、お寺で葬儀を行うことがなくなっていた(お寺はそもそもそんなに大きくないので)のだが、やはり雰囲気が非常に良く、お金がないなりにそれなりにできたと思う。

組合の方々は香典を持ってきてくれたし、また叔父叔母もお金を出してくれたので、当家の出費はほとんど無かった…と言うか、実は少しだがプラスになってしまった。

それはこの後の法事に回す事にした

ポイント 最初にお寺に相談して金がないと率直に言う

実は病院で死亡宣告を受けた後、最初相談したのは葬儀社ではなくお寺だった。地元では葬儀社を手配しても、葬儀からまずお寺のスケジュールを抑えてくれと依頼されるので、先に葬儀社ではなくお寺に連絡をすることが常識だと言われていた。

今まで全部親がやっていたので、自分がかけるのは初めてだった。このとき借金をする覚悟を決めていて値切るつもりはなかったのだが、そのときに率直に「今からお金を借りに行ってくるが、今日日曜日なんで」と言う話をしたら、お寺の方からアドバイスをいただいて、こういう形になった。

これは特別対応なのかと思いきや

最近はお困りの方が非常に多い。実は珍しい話ではない。家族葬という形で小規模にやると後で悔いが残ることや大変なことも多い。なにより、現世との区切りが上手くできない。

これは、仏様にとっても大変だが、後になって自宅にお線香を上げに来る方が絶えず来て困るという事になってしまうので、現世に残された者のためにもこういう形を勧めている」という事だった。

これは、ほぼ同じやり方を下の叔父の時にもやったし、そう言うつもりで注意をしていると、あちこちのお寺でこういう小規模な葬儀をやっている事に気づいた。

余所土地でもできるかどうかはわからないが、宗教家というのは基本的には(あるいは、建前的には、と言ってもいいかもしれないが)困っている人をほっといたりしないので、相談するべきだと思う。

下の叔父の時の話。

死んでから、迎えに行くまで

下の叔父は突然死だった。突然病院のコーディネータという人から電話があって、外出先で倒れて運ばれたが死んだと言う。

叔父も300キロぐらい離れた別の所にいる。が、なさけないこと最初に頭をよぎったのは、300キロ搬送したらどれだけ金がかかるのか、と言うことだった。調べたら下手をすると数十万単位お金がかかるという。当然だがそんな金はない。

とりあえず親を公共交通機関で送り出しつつ、考えた。

実は元増田と同じようにレンタカーを考えたのだが、レンタカー屋になんとなく効いたところ「そのような用途は断っている」とのこと。他にもあるかと聞いたら「まず遺体搬送を許しているレンタカーは無いでしょう」と言うことだった。曰く、遺体を直接禁止しているものではなくても、輸送特別規制があり許可必要ものは断るという規定になっている場合ほとんどではないかと。

きっと元増田のように選択肢が多い都会ならばもう少しなんとかなったかもしれないけれど、やむを得ない。ただ、レンタカー屋の担当の方は「ただし、知らない場合にはお断りしません」と暗に黙認してくれるようなフォローをしてくれてはいたのだが。

そこで、どうしたかというと、自前のトラックで迎えに行った。普段作業に使っているものだ。まず、お寺に連絡をした後、先にお棺を出してもらって、それを荷台に載せ、動かないように詰め物で色々と詰め込んで、緑色カバーを掛けて、トラックで迎えに行った。おじさん、すいません。

から相談したところ、最後の手段として、赤帽的な小規模運送業者を手配するという方法もあると言うことだった。組織としてはリスクがあるので断ることがあるが、個人事業主が多いので、受けてくれる業者もあるらしい。ただその場合でも、荷主が診断書をもって同乗するというイレギュラー対応になる。

故に頼み込むと専門業者場合は数十万円かかるのが常識距離でも、数万円で受けてくれることもあるらしい。ただこの場合は必ず心付けを渡すことを忘れないほうがいいと思う。人間として。

葬儀について

このときも、お寺で上の叔父と同じように葬儀を行った。

ただ、御布施については、前回余ったという事、それからこちらの叔父病気療養でお金を使っていたわけでもなく多少はあると思われたので(確かめ時間はなかったが)、多めに出すことにした。

ただし、このとき叔父が長年暮らしていた家の周辺の人々に何も通知していなかったことが失敗だった。

最終的に叔父の家に片付けに行ったとき、近所の方に声をかけていただき、話をしたら、叔父はきちんと近所づきあいなどもしていたようだった。また、引退して気楽な一人暮らしだ、と言っていたのだが、実は在籍していた会社からちょくちょくアルバイト仕事を受けていたらしく、そちらの方もあった。

その後、暮らしていた街で親しくしていた方や、近所の方、元の会社の部下の方などが遠い距離墓参りに来てくれたりもした。葬式というのは、故人や親戚のためだけにやるものではなく、むしろ周りの人間と現世と区切りをつけるためにやるものだ、と言うことを実感した。

それ以外の方法について「規格葬」という考え方

今回は利用しなかったが、自治体には大抵簡易な葬式のやり方を規格化して、「規格葬儀」あるいは「自治体葬儀」という形で定型化し、安価パッケージにしてあることがある。それを利用すると言う手がある。

この場合自治体相談すれば基本的に利用できる。それが利用できる葬儀社の一覧があるので、そこで申し込みをする。どういった場合でも広く利用でき、規格化されているので交渉も必要が無い。檀家になっている寺院が無い場合ネットでいきなり検索して怪しげな所を選ぶよりは、これの方がいいのではないかと思う。地域性も加味されているし。

ただし多くの場合

地元では遺体搬送が別で28万円。実際には10万円ぐらいでできるさらに簡易なプランもある場合があるらしかった。地元だと、28万のプランは表に出ていたが、10万円のプランについては一般には示していなくて、基本的生活困窮者のためで葬儀社はほとんどボランティアになる、と言うことだった。

エンゼルケア、について

元増田にはエンゼルケア、と言うのが出てくるが、最後病院で亡くなったため、病院側のターミナルケアに含まれていたので、追加でお金がかかることはなかった。

増田自分でやったという事なんだけど、介護保険にはターミナルケア加算制度というのがある。これはいわゆる緩和ケアのことではなくて、患者が亡くなった後の遺体ケア家族フォロー一式の作業のこと。

おそらく施設の人に任せても施設ターミナルケア加算を受けられることもあって、追加で高額なお金を払うことなくやってくれたのではないだろうか。

これが死亡後に施す特別な化粧のことだったら話は違うけれど。

以上、何かの参考になれば幸いです。

【追記】2016年4月3日

反響いただいてどうもありがとう

地域性家族宗教観を大切に そのまま適用しようとしないで!

葬式はすごく地域性が強いはずなので、そのまま適用しようとしないでください。普遍的に言えることは、何事もそうだけど立場的に中立的発言が可能な人に相談すること。

例えば葬儀社に依頼したら、葬儀社の方は立場上、よほどのことが無い限り「うちは高所得者向けの商売から辞めた方がいい」とか言えないので…。

僧侶宗教家の人、自治体担当者や、病院にはコーディネータとか、コミュニケータという患者患者家族フォローを専門にしている人がいるので、そう言う人にお願いするという方法があります

お寺様とのかんけいについて

お寺との関係が肝かな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/aoi-sora

ポイントは、お寺との関係だと思う。」ここで討ち死にのはてなー多そうだな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/atoh

想像の通り、うちではお金がないのはお金がないなりに、お寺様との関係はつないでいるというのはあるとおもいます。総代会には入っていて、負担金は払っているし、施餓鬼など季節によってある行事には必ず参加しているし、何回忌といったものも、和尚様の言われるようにやっています

これは大変じゃないかと思われるかもしれないけど、まずそれが一つの宗教観からというのもあります

ただそれを置いといて言えることは、実はあんまり費用はかかっていません。これは地域ごとの相場があるけれど、施餓鬼料は5000円で、総代会は年間5000円程度。一年で1万点程度。実は毎年必要になるお金はこの程度です。ただし、これは我が家が腐っても本家なので、実際には施餓鬼、総代会の年間負担金は3000円が普通だそうです。これ以外に法事を行う年や、寺院の大規模改装なんかが必要になると色々とありますが…。

ではそれがずいぶん疎遠になっている場合はどうなのか、と言う場合ですが、お寺には過去帳という者があって全部記録があるので疎遠になっていても相談する価値はあるのではないか、と思います。あるいは、うちには菩提寺がない、わからない、と言うケースですが、こういうときはそもそも葬儀などから遠くなっていると思うので、まずは自分だけでやろうとせず誰かに相談した方がいいのではないかな…。ネットでは情報が出てきにくいけど、人は必ず死にますし、逆縁になっていなければ多くの子どもは親を2人見送るから絶対経験談を話してくれる人がいるはずです。

結局寺に負担かけるのな
http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/kvx

もうめんどくさいから適当に書くけど、ちゃんと金払わない屑増やすようなことを次々に書くな。寺に負担かけるのは結局他の檀家負担かけてることに他ならない。http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/dadabreton

これには言い訳のしようがありません。お寺様には大変感謝しています。でも、無い袖は振れないと言うのが正直な所で…。親とかの分はきちんと積み立ててはいるのですが、突発的な事態には借金するぐらいしか手がありませんでした。

そこで手をさしのべてくれたおっさまには本当に感謝しています。ただ、2回目の時は御布施は始めよりはたくさん払っています相場よりは安いですが…。

葬儀社の方について

葬儀屋諸悪の根源なんだろうかな。そっちの言い分も聞きた
http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/hiruhikoando

葬儀社の方がどう動いてくれたかが書いてなかったので追記をします。

葬儀社の方はこんな最小限の動きでも、きちんと葬祭ディレクターの方が付いてくれました。また葬儀当日は、お手伝いとしてお一人女性の方が付いてくれました。また、料理なども葬儀から依頼しています

からない仕事申し訳ない、と葬祭屋さんには言いましたが、少なくとも問題は無いと言ってくださいました。まぁ和尚様に紹介してもらったので、断れないというのも、あるとは思うのですが。でも、費用は全部葬儀社に払っているので、赤字ではないのではないかと…。

個人的感覚では、非常に公共性が高い仕事ですし、最短2日で葬祭道具から返礼品、料理まで全部そろえる態勢にはお金がかかると思うので、それほど暴利とも思ってはいません。

もっと安くするには、宗教無し、散骨なしバージョン

http://anond.hatelabo.jp/20160403011302

まず、宗教を軽視して「ステマ」とか言うのはやめましょうよ。

主語自分にだけおいてください。「私はいらない」だけにして「他人も捨てろ」とか言うのはやめましょう。自分がそうだからといって他人自分と同じだと決めつけるのはやめていただきたいです。多様な価値観があります

その上で、

死亡→診断書死体処理→搬送→保管→火葬散骨

最短距離として、今回私が取れば一番シンプルに済んだのは、病院から連絡があったとき「引き取れません」と断るという方法があります。すると後は行政無縁仏の処理のラインにそって公金で処理がされるはず。

正直、自分もそう言う選択肢が頭をよぎらなかった、といえば嘘になります

宗教を壊そうとしているのでは?

最初記事では行動しない奴らが多くて、日本の寺、仏教日本人精神的な拠り所の1つ)を潰せないな。しょうがねー、もっと簡単なのも紹介しておくか」 「日本人精神を潰すのは楽しいな、生きがいだぜ!」
http://b.hatena.ne.jp/entry/283953281/comment/hayato1999a

煽りマジレスするのもなんなのですが、和尚様がこういう安いやり方で葬儀提案してくださったのは、宗教を壊すとかではなく、全く逆ではないかなと思いますよ…。

私も、葬儀きっかけに、その後のお寺の集まりのなかで、掃除とか このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2015-12-29

自分がオッサンであることに耐えられない

ダメだ。

外見パッとしないし、イマイチな見てくれをネタにするヲタトークもできないし、リア充にも非リアにも転べない。

彼女? いないよ。

童貞? そうだよ。

オッサン? もちろんだよ。

タイで性転換する時間とカネはないし、ノンホル女装できる顔と体格じゃないし、ホルモン投与の辛さには耐えられないだろうし、もうオッサン一択しかない。正月受精レベルの怒りを老父母にぶつけようと思う。

女がダメなら魅力的な男。……素敵なオジサマ。そう、それだよ。無理だよ。

外交的性格とか、センスとか、言葉遣いとか、地頭の良さとか、先天的、あるいは自分では選べない環境に大きく依存する因子ばかりじゃないか。

ヒンドゥー教改宗しよう。来世に期待しよう。菩提寺にある墓は無縁墓に合祀。年明けからクライマックスだ。

でも、私はお腹弱いんだよな。ガンジス川沐浴したら間違いなくコレラ死ぬよ。カルマ落とす前に命落とすよ。

やっぱ魔法少女しかないか(大晦日有明で私と握手!)

2014-10-31

会いにいく

からのそれはひとまえに出るしごとなので、たとえ数時間ていどの遠出でも周囲はわりといやがったけれど、きこえないふりをして電車にのった。駅のホーム特急をまちながら、そういえばこのまえは真冬にいったのだとすこし思いだす。はく息が白かった。手桶と柄杓をもつかの女のゆびもまっかになっていた。

とちゅうの駅で特急をおり、私鉄のうらぶれた車窓をぼんやりとながめる。

どんよりと、いまにもなにか降りだしそうに紫暮れている。

このまえはあんなにはれていたのに。真冬の夕ぐれのすこしまえ、いまよりさらにうっそうと垂れこめた雲や梢のすき間から、ちりちり差しこむひかりが目にしみるほどだった。

あのときは人をつれていた。死んだ人もずっとかの女にあいたくて、あいにきてくれるのをよろこんでいたのかもしれない。

なるほどきょうはひとりだ。歓迎はされていない。

故人とは、とりたててなかがよかったというわけでもない。こちらが一方的にその才にあこがれていた。ほとんど異能といってもいいほどの才だった。

生きているうちにかわすことのできたことばは片手のゆびで足るほどのものだった。それからなん年かたちいろいろと世のなかもかわったけれど、かれが生前なにかにとり憑かれたように愛したものを、深夜思いつめた声色の電話ひとつで――なさけ深いため息とともに――呼びだすことのできる位置におさまったことを、うしろめたく思っていないといえばうそになる。

おそらくはだから、歓迎はされていない。

がたんと音がして当世風の愛らしいデザインの車体がゆれた。あわてて標識をみるとおりるべき駅だったので席をたつ。小さなかばんに持ってきた花をわすれないように。改札にそなえつけれた小箱にきっぷをおとすと、なんとも古式ゆかしい字体看板が目についた。

つくのえでら、と、うたうようにかの女はいった。じっさいには、その駅はもっと無骨でものものしいよみ方をするものだったけれど、かの女ははじめてこの駅におりたったとき、なき恋びとにいったのだそうだ。つきのえでら、つくのえでらか。うちとこのお寺さんやったらきっとそうよむわ。

さめたエメラルドグリーンの文字を背にしてぽつぽつと歩きだす。世界遺産になったばかりの霊峰が厭でも視界のなん割かを占める、すさまじい景観のひどくさびれたまちだ。〝かんたんには理解できないほどの大きさ〟と、これもかのオデットの言によるものである。死んだ男はそうやってものごとをやすやすのみこんだ気にならないかの女の気性をばかばかしいほど愛したものだった。

かばかしい。本当にばかばかしい。男の気持ちは痛いほど理解できる。

人けのないみちをぼそぼそと歩きつづける。あのときはところどころ凍ってすべりやすくなっていた鋪道を、くつの底をひきずるようにして歩いていく。

菩提寺は坂のとちゅうにはりついた苔のようにしてあり、すり硝子の戸板をたたいてみるものの返事がない。あの日、たまたまはめていた手袋いいわけに、ひいていた手をまち針にして、かの女がたちどまった石段の中ほどにひとりたちどまってみる。

もういちど声をかける。あさ起きてからいちども声らしい声を発していなかったから、ろくに音にならなかった。

このまえはどうしたのだったか。やはり応えはなかったのか、さっぱり思いだせない。ただ手をひいていた人の――めずらしく――頑是ないような声色だけをおぼえている。お住さんにご挨拶せなね。ご住職意味だと、あとで人にきいた。

あきらめて手水のわきにたてかけた手桶を柄杓を手にとる。墓地はとし老いた高架のすぐそばにある。高架にのろわれたような人生だったのだなと今さらのように思う。

とてつもなく足が重い。こんなところまできて嘔きそうなほど後悔している。

ちゃんとあの人がしたように、新宿駅の小さな花屋で花も買ってきた。墓前にふさわしいとも思えない黄色いばらだ。

友情、愛の告白嫉妬意味するとかの女は笑った。わたしはあの人のともだちだった。いろんな関係であったけれどもさいしょはほんとうに気のいいともだちだった。それだけでよかったという思いばかりいまもあるけれど、あの人はそうじゃないのだろう。だからこの花がふさわしい。そんなようなことを、かの女のくにのきれいなことばでしとしとと話した。一字一句おぼえていたいのに、その文法はもちぬしに似てあまりに浮世ばなれして、一度きいただけでは言いまわしまで頭蓋のなかにとどめておけないのが、ひどく悲しい。

墓参にきたのだか人を恋いにきたのだか、わからぬままずるずると坂をのぼっている。

2014-09-29

http://anond.hatelabo.jp/20140927113327

たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます

当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。

仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、

中世の城跡、つまりかつて戦国時代軍事拠点であった場所地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。

それはなぜか。

私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域小高い山の上にあります

地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります

てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、

どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。

そして現在増田家は、やはり農家江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家

なぜ農家になったのか?

調査してみると、豊臣による小田原征伐が原因らしい。

まず増田家は、地域の駅名に名が残るぐらいの地域の小領主

仮に小寺家しますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在実家近辺の統治を任されていたとの事。

その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、

増田家は赤松下り(前述の低地のお寺は赤松菩提寺末寺)、その赤松

当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。

北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、

増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近拠点統治を続けたとのこと。

そして問題小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。

上杉前田真田に攻められた八王子城惨状や、忍城成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近拠点は簡単に落城

増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。

そして小田原北条家は滅亡し、関東統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。

元々関東のそれぞれの地方統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、

残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。

かくして、関東の大半の武士農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。

この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。

また逆に、「当家は代々武士家系・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。

身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージ漠然と抱いている方に多いのですが、

「単に先祖徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士家系イメージに合わないらしい。

・・まあ元々が漠然としたイメージなので仕方の無い事ですが。

(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐長宗我部と一領具足の結びつきが幕末坂本龍馬時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)

この話を踏まえて、血筋とは何なのか。

「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、

遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。

まり大事なのは家庭内での教育

農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、

失われた歴史ストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。

しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。

ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれ教育環境にあったとのこと。

うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商かいファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。

家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。

また、「武士家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。

千葉県の某所にやはり「武士家系・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。

その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。

何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵約束をしていたという(うろ覚え)。

武士家系物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである

(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)

教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、

教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。

物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。

教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。

貧困理由とした教育機会格差問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。

最後大事になるのが、攻略法教育。つまり受験」というペーパーテスト人材登用システム攻略法を伝授できるか否か。

現代引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビ漫画から植え付けられてきたのに、

攻略法を持たないのでその理想現実ギャップ屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)

そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。

明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。

伝統的な教育方針物語血筋の内と考えるならば、血筋ってのははある所にはあるのかもね。

ウェブサイト来年ぐらいには公開できたらいいなあ。)

2012-08-13

法事で父の実家に行った

段取りの打ち合わせ後、菩提寺住職から

「あんた独身かー、頑張らなきゃいかんよ」と言われた。

要するに「お前もういい歳なんだから早く結婚しろ」ということだが、自分池沼を疑われるレベルコミュ障で終始キョドっていたので、見かねての発言だろう。

あと内向的フリーダム人間の叔父も「嫁さん大事にしろよ」と言われてたっけ。

これまた「(お前みたいな引きこもりキャラのオッサンを愛する女なんてまずいないんだから)嫁さん大事にしろよ」ということだろう。


こういう空気を読みつつ直球勝負でモノを言う人って、普通の人が中々言えないことを言うから、たまに会う程度なら新鮮だと思う。

それに直球勝負といっても、「童貞幼女誘拐する前にソープ行け捗るぞ」と毎週のように絡んできた、自称ロックな元上司とかと比べたら全然控えめで上品(そりゃ僧職だから当たり前だけど)。

あのオヤジ今頃どうしてっかな(遠い目


あーさっさと家に帰って婚活再開するか。

2012-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20120524005424

火葬場で「遺骨は要らない」と言えば持って帰らないで済む

菩提寺がどこかも知らないしあったとしても仏教徒でもないのに何かしようと思わない

親戚に関しても仮に連絡先が分かったとしても一度も会ったことがない人と何かしたいと思わない

親も自分もやらなくていいと思ってることをやるメリットわからん

どのあたりが生きてる人間のためなの?

http://anond.hatelabo.jp/20120524004412

いや、骨を不法投棄できないだろ。

墓は死んだ人間のためにあるものじゃないし。生きてる人間のことを考えないと。

とりあえず、困るだろうから、寺とかに相談しとけ。

家に骨を置いておくわけにもイカンだろ。

住民票手続きとか、いろいろ必要になる。

菩提寺がないわけはないんだから死ぬ準備で親戚に菩提寺がどこかは聞いておけ。死んでからだと面倒だ。

先祖代々で、長男しか墓に入れない家なのか、一族まとめて同じ墓に入るのか、後者ならそこに骨を送るとまでがお前の仕事

そうじゃなくても、墓がないなら、菩提寺にまず相談せんと。

連絡先は聞いておけ、最後の連絡だけはするものだ。

親のためにいってる訳じゃなくて、生きている益田のためにいってるわけだ。

増田は良くても、じゃあおまえ、結婚せんのかと、嫁が困るわ。

 

とにかく、増田じゃいつまでも、フォローしきれないから、だれか、相談できる親戚を見つけるか、

職場などで信頼出来る上司を見つけるか

それもなければ、役所の民生員あたりに、面倒だろうけど何回も通って、そういう家庭で困ってることを発見してもらわんと、手遅れになる。

役所なら戸籍から逆算して親戚を見つけることも不可能じゃないし、相談に乗ってもらうまでが大変だけど、がんばるしかない。

 

とにかく、孤独になるな、つながりをもて。社会的な一般常識がかけると後が痛い。はやめに、周囲とのつながりを持っておけよ。

 
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