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2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2017-04-30

[]

岡崎城に行ってまいりましたわ。

城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。

わたしくの行ったことのあるお城では博多城に似ていますわね。

展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります

三河武士のやかた家康館は、増田先駆者である家康公と

彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています

ところが目玉的な展示は、ジオラマ映像関ヶ原の戦いを描くものですの。

東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・

井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。

長篠なら大久保兄弟酒井が、姉川なら榊原康政活躍しますのに--

三河武士全員が活躍する合戦を探すのは難しいですわね。

あえて言えば三河一向一揆でしょうか。

家康が陣を前に押し出して全軍の士気を高めたことが

強調されていたのは展示側にもその自覚があるからでしょうか。

あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。

本来は壊滅して盤面上から消えるはずのシーンで、

やっと回転しきって残っていましたわ。

復興天守の方では刀剣甲冑の展示が目立ちました。

甲冑レプリカも含めて三河武士のやかたにも多数あり、

甲冑好きには良いところだと思います

フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣武蔵藤原永道が気に入りました。

鞘に緑のラメが入っていましたの。

加茂一揆ジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を

岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。

おそろしいおそろしいですわ。

城下町の一日というジオラマシアターもあって、

江戸時代宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。

女性がやっていても強盗誘拐との区別がつきませんわ。

家康生誕の岡崎城最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、

幕末には最終的に徳川家を裏切っています

ただし、それを決断した藩主養子だったとか。

三河武士のやかたと謳いながら、ちょっと後味の悪い話ですわ。

陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。

追記

id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ

http://anond.hatelabo.jp/20161217235117

2017-01-28

[]

安城市歴史博物館本多正信展に行ってきましたわ。

弥八郎にはいじわる爺さんのイメージがありますが、大久保忠教の方がいじわる爺さんに思えてきました。

感情のこもった歴史史料を遺すと裏目に出ることもあるのですね。

多少は自覚があったから外に出すなと言っていたのかしら……。

やはり本多正信関連の史料書状が多く、甲冑は弟の本多正重関係の二領でした。

次男の政重の活躍を考えても、正信も怪我さえしなければ猛将として名を馳せるポテンシャル

あったのかもしれません。

三河一向一揆酒井忠尚が下克上成功していたら?と並んで思い描いた歴史IFです。

上杉景勝書状が興味深く、彼は半分に折った紙の上半分だけに文章をしたためています

(いつも紙の真ん中あたりで墨をついでいることが分かる書状にはつい笑みが零れてしまいましたわ)

他の武将は折った紙の下半分にも文章花押を書いている例があるのですが、

上杉景勝はかならずきっちり下は真っ白にしていらっしゃいます

部下の直江兼続はやや縦が拾い紙の全体に文章を書いており、

主君と部下で公文書とやや非公式文書の分担をしていたのでは?と感じましたわ。

武将おみくじ末吉本多忠勝でしたわ。

できれば榊原康政がよかったですわ。

2016-08-03

加藤清正ってキャラ立ってないよな

三国志戦国ものって大体この武将ならこう言う性格ルックスみたいなイメージがあるけど、加藤清正にそのイメージあんまりなくてフヤフヤしている気がする。

有名な大物で虎とか城とか色々キャラが立っているのに不思議だ。

軽く本多忠勝キャラが被ってる気がする。

2016-07-15

[] 股肱の臣

(ここうのしん)

意味】「股肱」は、「もも」と「ひじ」。転じて、主君の手足となって働く、最も頼りとなる家臣。

【用例】●彼を子飼いの部下で股肱の臣と信頼していただけに、裏切られた時のK氏の失望ぶりは見ていられないくらいだった。

     本多忠勝井伊直政榊原康政など、徳川家康には忠実で勇猛な股肱の臣が多くいた。

【出典】『史記太史公自序

【類語】側近・懐刀・右腕

http://www.jlogos.com/d007/5560417.html

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121002161425

これもう間違いなくゲームから入った子だから

最近本多忠勝を1人で無茶苦茶強い化け物みたいにいじってる人気ゲームがあるのよ。

悪乗りしてほとんどロボットみたいにしたりさ。

そういうゆとりゲーム知識から入れば勘違いする。

本多忠勝はすごく強い武将だった」とか

そこまで酷くなくとも「本多忠勝世間一般にとても人気のある超メジャー武将だ」とか。

「個人的武勇」なんていうほとんど意味が無い上に測り辛いことで順位付けしようとするのも多分ゆとりゲームのせい。

あの手のゲーム武将が単騎で突っ込んでって敵軍の兵士武将をバタバタ切り倒すのばっかり。

まさに武将個人の武勇で合戦勝敗が決まるっていう少年漫画世界よ。

http://anond.hatelabo.jp/20121002161425

名乗っただけで引いたとは書いてないよ。

じゃあ忠勝の個人的武勇を示す逸話ではないじゃん

何度も同じやりとりさせんなよ

ここで言う「知名度」はもちろん「武勇の士としての知名度」なんだけど、

そういう文脈が分からないわけじゃないよね?

えっ

幸村の武勇の士としての知名度が忠勝に劣るっていうの?

日本一の兵なんですけど…

で、一般に思われているほど忠勝の剛勇が示される逸話は少ないので

「一般にそう思われている」の方を否定しないから、

お前の「一般にそう思われている」っていうのはどこ情報なんですか?

お前がそう言い張ってるだけなんだけど。

史実としても講談人気としても本多忠勝って到底トップレベルに並ぶほどの武将じゃないです。

神君の直臣だから身分は高いけど。

結局、反論になってないんじゃん。

「忠勝が日本一レベルの個人的武勇を誇る豪傑だ」っていう”一般認識”がどこで観測されるのか教えてください。

それが示されて無いのにこれ以上どう反論すりゃいいの。

http://anond.hatelabo.jp/20121002153957

名乗っただけで引いたとは書いてないよ。

その「武士の情け」の部分をどう解釈するかの問題で、

武士の情けで兵を引いた方が、

から「いやー本多忠勝はすごいよね」と褒めたから、

酷い目に遭った忠勝の武名がむしろ上がった。

長谷堂城の戦いと同じ構図でしょ。

逸話が乏しくても知名度があればいいんだ!」

ここで言う「知名度」はもちろん「武勇の士としての知名度」なんだけど、

そういう文脈が分からないわけじゃないよね?

で、一般に思われているほど忠勝の剛勇が示される逸話は少ないので代えたほうがいいかも、

というのはこちらが真っ先に書いていることなのに、

増田は「そういう逸話は無い!」と騒ぐだけで、

「一般にそう思われている」の方を否定しないから、

結局、反論になってないんじゃん。

http://anond.hatelabo.jp/20121002092828

それは逆にバイアスかかってる気がするなぁ。

猛将・本多忠勝としてのイメージゲーム以前から定着していたし、

からこそゲームだって本多忠勝を最強キャラとして盛り立ててるんじゃん。

そもそも、KOEIの作為を指摘するより先に、江戸幕府作為を指摘すべきだと思うw

http://anond.hatelabo.jp/20121002091904

本多忠勝をやたら持ち上げる子はゲームから入った子よ

最近ゲーム家康の家臣の中で本多忠勝にだけ変なキャラ付けしまくってフィーチャーしてるので

2012-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20121001164211

「個人の武勇、それを示す逸話」と最初に書いているとおり、

鬼退治も百足退治も「武勇を示す逸話」として採用している。

なぜ論外?

与太話や御伽噺を扱うならなんで桃太郎が居ないの?

畜生の供まわりだけで鬼の軍団を制圧した桃太郎がぶっちぎりじゃん。

知名度もぶっちぎりだ。

暫定で選ぶなら「源為朝」「武蔵坊弁慶」「本多忠勝」。

忠勝なんて「生涯無傷だった」「槍でトンボが切れた」しか逸話がなくて

個人的武勇なんてものをどこで測ったのかすらわからないんだが。

弁慶タイマン義経に負けたチンピラ坊主

為朝は一番超人的だけど所詮メインは対人戦だよね。


要するに君の選出が既に逸話で選んでねーんだもん。

俵藤太や源頼光を出しておいて現実寄りのその3人を選出する時点で。

日本三大「豪傑」選考

「豪傑」にもいろいろあるが、ここでは、個人の武勇、それを示す逸話、そして知名度を鑑みて選考する。

ただし数が多くなるためいわゆる「剣豪」は除いた。あしからず

藤原秀郷

俵藤太。大百足退治。

武勇については問題なし。

知名度でどうか。

源頼光渡辺綱坂田金時

頼光四天王を率いて酒呑童子や土蜘蛛を退治。

対戦相手は最強クラスだが、頼光本人の武勇がよく分からない…。

源為朝

西八郎。保元の乱活躍

一矢で船を沈めたとも。

大蛇退治の逸話もあり。

那須与一

屋島の戦い、扇の的。

為朝と比べれば落ちるか。

武蔵坊弁慶

五条大橋での刀狩。立往生。

知名度は随一。

小島太郎

小島

猿や犬を懲らしめる。

実在が疑われる。

七条兼仲

餅。

薄田兼相

岩見重太郎モデル。狒々退治。

史実では大坂の陣奮戦

本多忠勝

徳川四天王

意外に武勇を示す逸話は少ないが、知名度だけで他の不足を補うレベル

加藤清正

朝鮮での虎退治。

現在では豪傑というよりも名将として評価されていると思われ。

雷電爲右エ門

伝説的な力士

他の候補者と比べて異色ではあるか。

暫定で選ぶなら「源為朝」「武蔵坊弁慶」「本多忠勝」。

こうして見ると昔のほうが逸話スケールが大きいので、

忠勝に代えて源頼光(with四天王)を入れ、

三大怨霊みたいに平安時代で固めてしまってもいいかもしれない。

意見を求む。

南北朝とか思いつかないんだけど誰かいたっけ?

 
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