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2023-08-13

毒親で良かった

母親アルコール依存父親ギャンブル依存で時々暴力行為もあった。

虐待を受ける事はなかったし、むしろモンペとして俺を守ってくれたが、なにしろ貧乏だった

小学生の時、俺が軽い交通事故に遭った時は褒められた

相手商用車で点数がどうとかで警察通さず示談を依頼してきたから、沢山慰謝料ふんだくったらしいよ

からと言ってまともな食事もできないままだったけどな

工業高校を出て就職した頃から、どうやら家庭環境普通じゃない事に気が付いた

親は借金まみれで俺が稼いだ金をすべて取り上げた。なので20才で家出同然に自立した。結婚して子供もできて、生活は苦しかったが、なんとか暮らしてきた

父親は60で死んだらしい。年金を掛けていたらさぞ悔やんだことだろう。母は仕事したことがないし父親の遺族年金もない

それで母親生活保護申請したようで、俺に扶養義務者のなんちゃらって通知が来て父の死を知った。扶養は当然お断りした

でも母とはその頃からたまに会うようになった。アル中の人って、酒を飲まなきゃ臆病で良い人なんよ。酒を飲んで暴れるのも体力がいるようで、70過ぎてからは酒ものまず引きこもりのような生活をしていた

でも保護課の人が運動しないからって保護費を通帳振り込みから現金支給に替えたらしく、そうしたら役所に行かなくなって、そのまま餓死しかけたらしく警察病院の世話になった

一命はとりとめたらしいが半年ほど入院していた。保護課の人からその時再度扶養してくれと言われた。申し訳ないが断った。養える経済力がないから。

保護費で借りてる賃貸住宅は住まずに半年過ぎたら解約しなきゃならないらしい。そこで入院半年タイミングで数日間退院し、すぐにリハビリ病院に転院し、そこも3か月しかいられず施設ケアマネ?に探して貰った。

今は有料老人ホームに入っているが、生活保護なしでは叶わなかった。入居敷金が25万。引っ越し費用家財撤去費用が20万ほどかかるらしい。申し訳ないが自分には出せない。

しか生活保護を受けたままだと公費負担にしてもらえるらしい。そして月々の生活費として、手作り食事つき看護師常駐の施設賃貸資料とか込々で月に15万。介護保険負担金が3万ほど。これが公費にしてもらえる。

医療費も全額公費施設必要消耗品や衣類や雑費は毎月2万程度いただけるらしい。毎月20万とか、毎月そんなに年金貰おうと思まったら、どれだけ稼いでなくてはならなかったんだろう。

もしも毒親でなかったら、あの時親を見捨てる事はしなかっただろう。そうなれば今頃は共倒れになってたと思う。

父が死んでもなんとも思わなかった。母がホームに引っ越す時の荷物の整理も何の躊躇もなく全部捨てる事が出来た。今は親に関するストレス事が全くない。

今は自分の両親が毒親で良かったと感謝している

2023-08-10

anond:20230810222526

介護士ケアマネの違いがわかんないひとに言われてもねえ。介護士が大変なのはわかるけど、看護師ディスるのはお門違いですよ。

2023-07-29

anond:20230729111352

今後どうすれば良いかなのだが、増田がどうしたいのかがよくワカラン。母親安全を確保したい、兄の面倒も見て欲しい、ってあたりだろうか。

書いてあることの限りでは、母親に対する高齢者虐待の疑いもあるので、まず母親と兄を切り離し、お互いに独立して生活できる状態にする、ということになるかな。

母親を兄から切り離す、ここがまず困難を伴う。一番手っ取り早いのは兄が警察逮捕された隙に引っ越しちゃうことだろう。

警察をかませないなら、高齢者虐待防止法に基づく通報市町村に行いつつ、地域包括支援センター相談しよう。

包括のケアマネ接触し、母と兄を説得して、施設入所を決めて施設に逃がせれば、あとは一人暮らしの兄をどうやって支援していきましょうねという問題になる。

だが、母親が「この子は私の子から」とか言いながら嫌がる場合もある。そうなると強制力のある介入をしないと無理ということになる。

その場合とれるのは母を医療保護入院させてしまうか、兄を医療保護入院措置入院させるか、兄を逮捕させるかあたりではないかと。

警察は嫌だ、強制入院もかわいそうだ、だと手詰まりになるおそれがある。

まあ結論的には母親に対する高齢者虐待観点から相談してみてはどうだろうか。

2023-07-12

父が死んだ。葬式もした。

喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。

父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである

 

父は1940年代まれ日本人男性である出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎である

6番目の息子である工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。

 (おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライであるいじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)

工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学メーカー就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。

職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学化学科に進学した。

学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である

趣味登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生もっともイケイケだった時代かもしれない)

そこで一学年年上にあたる女性出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人笑顔が気さくだった。

怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。

話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。

1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。

父は卒業化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社腰かけ事務職」をして寿退社初任給洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。

二人は親へ挨拶をすませ神前式結婚式をあげた。新婚旅行国内)ではパンタロンネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。

1970年代。m市の社宅に二人暮らし妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行出産も一応カラーだ)

夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。

(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)

二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このとき増田も母実家に連れていかれた。

このころ叔父浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父マンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田学研漫画植物百科を買ってくれた。

三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)

というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。

というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。

だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。

(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコ容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)

そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、

そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。

とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。

まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。

1980年代、父はチバラギの片隅に土地を買って家を建てた。

そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。

(このへんで、のこり全部の西にいる親類から東京叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博ディズニーランド成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)

お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。

 

増田と父と電車記載を削除)

 

そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、

母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。

子供が「いやもう自分大人から口出しをするな、するなら人生最後まで口出しする覚悟しろ恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、

父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。

その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。

子供教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである教育となったら教育だけをするのだ。

「もういいか子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。

しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。

庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。

父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。

(ほかにファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らしイメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。

今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。

学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)

母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。

ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。

父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。

幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。

郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。

手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。

そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。

 

ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。

母にとっては子供庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。

母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。

Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。

母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。

「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、

それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当理由がつけられ、反省書となった。

反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。

まるで自首後の犯人動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。

 

この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。

あるときなど増田が呼び出されて母と東京カフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである

どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。

増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。

ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときときょとしながら口をはさむ隙を探す。

まるで楽園のなかの地獄であった。

やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。

カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである

増田遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである

理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。

後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!

父は平謝りするしかなかったらしい。

増田ボケがきたか気がくるっているとしかおもえなかった。

でもその場で諭そうにも耳も悪い。

「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。

もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである

補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。

それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。

子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。

  

でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田子供たちに直接説得も試みた。

ところが増田子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯業務用)に電話をかけることがつづいたのである

運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。

このことは増田子供の送迎がいらなくなりガラケーアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときブロックは解除した)が

ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟増田の伴侶に「増田ちゃんわたしブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。

   

父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。

父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。

酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。

母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである

かにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。

なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。

途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。

父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。

母親認識は古くて「介護認知症施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、

父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。

まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在チバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。

 

母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田ドライに告げたので増田市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。

実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。

父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。

頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。

ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人介護をうけることにして解決となった。

  

他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。

ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。

コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、

ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。

母はユーチューブをおぼえた。

コロナワクチンふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である

 

増田の残りの二人の兄弟子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。

  

そうして2*年の闘病、*年の介護認定酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。

母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。

 

父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式相談のあとにも爆発した。

かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、

はいます資金をすべて自分の口座に動かそうというのである

それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。

今すぐにでもATMにいってお金おろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたか葬式費用ではない。)

なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単からのぞんでいたんでしょう。

anond.hatelabo.jp/20230712024305

2023-06-06

いずれケアマネジャーをやめると思う

表題の通りです。

すぐには辞められないけど、次は更新しないと決めている。

私自世間一般ケアマネジャーからしたら若手になると思う。それでも30代。……30代が若手扱いの業界って何なんだろう。

やめようかなとぼんやり思い始めている。

時間お金ばかり取られる更新研修(これが地味に辛い、お金マン単位

増えない給料と見合わない仕事

増える利用者

罵倒されることもある

他の事業者から家族から利用者から入院先の病院からも何でも屋扱い

休みがなく動いていると思われている。

ケアマネにも人権があるよ、皆が思っているより給与低いし忙しいし時間がないよ、と伝えたい。

周りもどんどんケアマネジャー退職しています

深刻なケアマネ不足、ケアマネ高齢化リアルになっています

どうすんのこれ?って気持ちです。

一人あたりの受け持ち件数を増やせばいいとか思ってるの?

昔に比べて書類関係も厳しくなっているのに?

国がケアマネに求めていることと現実がすごくちぐはぐに感じてしまう。

いずれケアマネ有料化になったら、また色々と大変なことになるんだろうな。

もう何も考えたくなくなる。

2023-04-28

anond:20230428011029

自分がもし介護する側になったとして迅速適切にケアマネとかと連携取れる気がしないんだよな

2023-04-04

anond:20230403161217

35歳なら自分のこれから人生の方が長いんだから自分人生差しさない。

介護は基本親のお金でやる。地域の包括センターケアマネを紹介してもらい、自分がそこにいなくても回る仕組みを作れるよう相談しよう。介護認定取れるまで1ヶ月位かかってしまうかもしれないけれど、その先は介護保険でなんとかなるようケアマネ作戦を立てる。頑張れ。

2023-04-03

anond:20230403161217

お金でどうにかしなさい

下手に帰って祖母介護をすると特養に入りにくくなります(自宅に介護者が居ると順番は後回しになります。当然ですね)

同居人である父親家事能力ゼロで家庭が崩壊しており、当然介護も出来ない状態ならば特養の順番待ちも少しマシになります

待っている間もケアマネ姑息な手を使って施設に預けてくれます(ショートステイのロング使用老健数ヶ月を繰り返すなど)

というか冒頭に述べた様に、お金があるならば有料の介護施設に入れた方が良いです

ばあさま状態がどんなものか分かりませんが施設から断られるレベルでない限りいけます

お父様に関しても他の方が言っている様に宅配弁当を頼む等、お金をかけてなんとかすべきです

親御さんの生活大事かもしれませんが、増田自身人生大事です

田舎に帰って介護・親の世話をする嫌さより心配憐憫の方が勝り、尚且つ都会暮らしに疲れていて親元に帰りたいのならば帰郷しても良いでしょうが

真逆心理状態なのにやるべきではありません

これから先数十年続く不幸を背負い込みに行く必要はありません

anond:20230403161217

介護保険世界だな

寝たきりでもヘルパー頼んで自宅療養の人もいるという噂は聞くけど

高齢者支援センターに行くともしかしたら、介護保険申請や高額介護合算療養費還付申請を代行してくれるかも

介護サービス業者一覧は、ケアマネはくれなかったけど役所で貰えたけど

というか母上はそれやってたかもね

母が死んで人生が終わった

四国田舎に住んでいた母が突然亡くなった。本当に何の前触れもなかったから悲しみすら湧かなかった。

残されたのは認知症だけど足腰は元気な祖母家事が全くできない父親

母が亡くなって1か月経つが家の中があっという間にゴミ屋敷らしい。

父は生まれて初めてカップラーメンを作るためにお湯を沸かそうしたがコンロの使い方がわからずに断念した。そのレベル火事ができない。

当然35歳独身男の自分と29歳育児中の妹に帰還要請が来る。

両方とも首都圏在住だが、専業主婦の妹は育児を盾に頑なに拒否。そのため自分が帰還して地元仕事を探すことになりそう。

逃げたい。東京いい大学に行っていい仕事についてある程度の収入もあって彼女いたことない以外は順調な生活を送っていたが、ここにきて独身謳歌していたことが仇にになった。

自分人生これで終わるのか。ブロードバンドもなく、楽天電波も通らないレベル田舎でひっそりと死んでいくしかないのか。

どうにかして介護離職を辞めたいが、ケアマネジャー相談してもお金でどうにかするか誰かが帰るしかなさそうだ。





追記 4/4

まさかこんなに反響があるとは思わなかった。

介護離職はどうしょうもなくなったときの最終手段で、父親と妹以外の周りの人はそう望んでる。

GW始まる週から3週間ほど休暇を取って地元に戻ってケアマネ相談しながら介護体制を整えていく予定。

今まで母親に頼りすぎてたことを反省しないとな。

2023-04-01

築50年都内マンション様相 身寄りのない高齢者の補足

身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。

 

 コメントで、築50年、1970年代に作られたマンション様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。

 

 このマンション1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取り3LDK私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。

 小学校入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれ班長レストランせがれが副班長スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋社長理工系技術者保育士共産党員福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋おやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油砂糖がないときは借りに行ったりというつあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域情報を過剰に共有していた。マンション商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったか情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。

 おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者ほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり住民がいぶかしがるような時代だった。独身者アパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民マンションに住むという構造だったのだと思う。商店街コンビニレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しか資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京未来を信じていた時代だったのだと思う。

 その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由暮らし謳歌していた。文化的地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。

 そんな2000年代。わが地元マンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化たからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンション世帯四方にあり、衛星放送アンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたときマンション理事会が開かれるという。私は屋上衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話インターネットに繋いでいた時代の話だ。

 「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンション構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下であるエレベーターマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段けが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人住み込み管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心いたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦住民とは打ち解けている。数年前、管理会社方針住み込みでの雇用は打ち切るとなったときマンション自治会自治会費で管理人室を買い取り、管理人雇用することになったとのことだ。そのとき声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込み管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠管理人介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人裁量判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。

 

 とりとめなくなってしまった。地域先生の話をひとつ

 マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球サッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭大人行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師夫人が、先生師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき野球サッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。

 たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生最近どうなのという話題は常にあがる。先生スーパー下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。

2023-03-29

anond:20230329152826

文章から推測するに、この人はせん妄ではない。あえて症状と言うなら癇癪だろう。

 

成年期から壮年期の発達課題が越えられていないことが問題

昔はお金などの力で、見て見ぬふりをできた。しかし、身体の衰えによってそのコントロールがつかず、目を背けていた現実が目の前に現れて狼狽する人だな。

素直に「助けてください」と言えればよいのだけど、それを良しとしない生き方をし続けてきたわけだからな。今さら無理だろうし、それができるならこんな窮地には陥っていない。

近道はなく、ゆっくり時間をかけて関係を築くしかないけど、普通ケアマネには荷が重いだろうな。

身寄りのない高齢者

 都内の話。私が住む築50年のマンションの向かいの部屋に93歳のおばあちゃんが住んでいる。小学校先生で、生涯独身。頑固でプライドが高く孤高の人だった。私は彼女には子供のころからかわいがってもらったのだが、他の近隣住民には気を許さず、いわゆる嫌われ者だ。近所では「先生」と呼ばれている。

 先生プライドが高く、下町の住人を下に見ている。教養生活レベルが違うのだろう。そんな態度で何十年もこの地域暮らしてきた。おのれの金と生活力で生きていけるうちはさしたる問題はなかった。近隣と騒音やなんかでもめるくらいのものだった。しかし昨年くらいから、足腰も弱くなり、自力生活するのは難しくなってきた。そうなると先生は知り合いや近所の者に片っ端から電話をかけ、おまえは年寄りの面倒を見るべきだと呼び出し、買い物やらなんやらをいいつけ小遣いを渡していたのだが、そんな生活が成り立つわけはなく、高齢者公的介護を利用することになった。ケアマネを見つけ、ヘルパー派遣されることになった。先生にとってヘルパーというのは下賤の者らしく、接する態度は酷いものだったようで、次々に事業者に断られ、もう区内には先生相手をする事業者はいなくなった。そんな先生を受け入れたのは隣の区の良心的な零細事業者ケアマネだった。ケアマネ献身的に寄り添い、ヘルパーを手配し、なんとか先生生活を成り立たせていた。

 そんな折、今年に入り、先生蜂窩織炎だか脊柱管狭窄症だかが悪くなって、入院することになった。リンパのガンを乗り越えた先生にとっては大した病気ではないのだが、立てないのはこたえた。先生東大病院しか信じておらず、ずっとかかりつけにしていたのだが、東大病院入院を受け付けない(過去にさんざんもめていた)ので、しぶしぶ紹介された関係病院入院することになった。二か月ほど入院していた。入院弱気になった先生ケアマネの勧めに従い、有料の施設に入所をする決心をし、退院した足で施設に向かった。

 しか先生の態度は施設に着いた途端に急変した。医者ケアマネが画策して非人道的機関監禁されるのだと激高した。先生は耄碌はしているものの、認知症ではない。入院から心に貯めていたせん妄が爆発したようだ。まだ正式契約していない施設側はなすすべがなく、帰宅することに。施設良心的にも先生の自宅まで自社の車で送ってくれたらしい。とにかく先生は立てない状態で私の家の向かいに帰ってきた。

 先生は知人や近隣住民電話をかけて呼び出そうとするが、もう先生相手をするものはあまり残っていない。なにしろ善意で世話をしにきたマンション管理人を怒鳴りつけるような人だ。しかたなく先生は私に電話をしてきた。先生は私の幼少を知っており、なにか強い思い入れがあるらしく、私だけは気を許せる優しい人間だと思い込んでいる。私の両親が学者だったことも大きな要素のようで、しがない零細障害者福祉事業を営む私をなにか福祉世界の大きな存在だと思い込んでいるようなことを言う。いままでもたまに私も家にいて呼ばれれば徒歩2メートルの向かいの部屋にいき、水を汲んで出したり何か買い物をしたり、おむつを替えるくらいのことは職業柄たやすことなので、助けを求められたら応じていた。先生は私にはとてもしおらしい態度で接する。申し訳ないと思うと1万円だか3万円だか買ってきたおにぎりだかおせんべいだかを渡してくる。気が済むならと私も受け取る。だが、今は施設を断った先生にはヘルパーもおらず、私も仕事があるので行ける時間は限られており先生の全生活を支えるのは無理だし、そんな気は毛頭ない。どうしたものかと思っていると、先生ケアマネと話す機会を得た。

 ケアマネが言うには、先生ヘルパーの使い方はめちゃくちゃで、自社のヘルパーは全員泣かされてもう使い物にならず、無理を言って大手派遣を頼んでいたがそこも苦戦し、入院施設行きが決定した折にすべて白紙になってしまったらしい。地域の同業に悪名が轟いている先生に今からヘルパーをそろえるのはかなり難しいらしい。しか先生をひとりで置いておくわけにはいかないので、疎遠になっている姪に施設入所の契約書にサインをもらい、半ば強制的連行ししばらくは拘束することが先生安全を考えても最良と判断している、とのことだった。話を聞くと施設もそれほど悪辣でない大手で、その言い分には同意できるところもあった。姪は医者で週に一度しか休みがなく、契約書にサインはしても先生との直接の対話絶対拒否するという姿勢らしい。ちなみに保証人になるわけではなく、保証会社が間に入るそうだ。

 退院直後はせん妄ケアマネ病院グルになって私を牢屋のようなところに引き渡したと言っていた先生も、すこし落ち着き、また一人で暮らす不便さに弱り、今日面談ではしおらしくなっていたが、だからといって施設に行く気はまだない。ケアマネヘルパーの手配を懇願していた。立ち会った私は先生のためにも一時的施設に行った方がいいのではと進言したが、人の言うことを聞く人ではない。先生の家を出たあと、ケアマネと、もうすこし弱気になるのを待とうということになった。

 私が気がかりだったのは、せん妄はあっても認知症ということではない当事者を、疎遠な家族サインだけで強制的高齢者施設に連れて行き拘束して薬で大人しくさせるという方法は法的に問題があるはずだが、そういうケースはあるものなのかということだ。ケアマネに尋ねると、あまりないと。確かに法的には問題があるし、先生は恨みを忘れる人ではないし、弁護士を使う人脈や資力もあるのでリスクがあることを認識していた。それでもそれが本人のためと考えたとのこと。そして法的にも問題ない方法は、訪問医師を一度入れて、精神科に繋げ、医療保護入院という形でまずは精神科収容することだということも理解していた。それを聞いてすこし安心した。

 さて姪のサインは来週の月曜日にもらえる手筈だそうだ。どうなることやら。

補足書きました https://anond.hatelabo.jp/20230401032524

2023-03-27

anond:20230326133216

役所介護保険利用申請をすると、元気でも要支援から認定されて、老人用制度ケアマネ相談や、いざというときショートステイなど)が利用できるようになる

ただ介護機材や施設利用の売り込み圧力もないとは言えないので(ケアマネ会社支援センターと機材会社介護施設の癒着など)、そのあたりのお付き合いはこなす必要があります

70だと、体の不調をお酒で誤魔化していることも考えられるので、そのあたりは聞いてみましょう

anond:20230326133216

介護家族簡単退院できない精神病院入院にまで持ってく方法

ブコメコメント文言の間違いに言及いただきありがとうございました。医療措置入院医療保護入院です。訂正いたします。プロや詳しい方の説明もあるので困ってる方ぜひその辺りもチェックしてほしい。痴呆認知症修正素人ゆえお許しをすまん。

認知症などで暴言のような問題行動が発生し家族が大変な場合普通病院介護施設では介護される家族意志尊重しないといけない為ごねると入所入院させれないけど、医療保護入院医者許可がないと退院できない)制度を使って負担を軽減できる。

基本こっちは書かない主義なんだがお困りの様子なので私が父を精神科保護入院まで持ってきた過程晒す。参考にしてほしい。

私の父は80代後半で要介護1がついてた(これがめちゃくちゃ効いた。すぐ介護医療プロに繋がれた。申請してくれてた母に大感謝)だが、母が持病の悪化きっかけに認知症の初期に入ったための介護まり、それををきっかけに父も一人暮らしになったので介護サービスの開始検討始めたが元々元記事のお父様の様な孤独ヒキこもり老人でコミュニケーションスキル皆無の上物忘れが進んで暴言炸裂のため(それでも元記事のお父様よりはマシな状態担当ケアマネージャさんに母の介護プランも含め相談始めた。これがまず良かった。

担当ケアマネさん優秀な方で初めててで介護の右も左もわからん、もち精神科入院まだ考えてない状態の私に今までの経緯はもちろん

*早めのかかりつけ医への相談と父への説明と説得をお願いする事(精神科入院にはかかりつけ医紹介状必要なため、この相談実績がいる。家族状態がマシな場合はこれだけで家族の言うことを聞く時もある。この手の暴言吐くタイプ認知症の人は権威に弱くえらい人や医者には比較的素直)

市役所介護施設の申請方法役所申請主義のためとにかく早め早めの申請問題解決スピードを上げる)

医療介護は別分野なので職務責任サービスが違うこと、できることとできないことをはっきり説明

上記を的確に指示してくれたので、かなり入院までの事務申請や他病院への相談の手間や時間を省くことができた。ケアマネージャは介護サービス運用責任者で介護キーパーソンなので大事なお付き合いである(但しハズレのケアマネさんもいるとわ聞いたわ・・)

上記のようにプロへの相談はとっても大事なのでなるべく相談先は確保

地元担当地域包括センター市役所介護窓口、相談することで困ってる度合いを自治体アピールしていざって時の援助をスムーズに。もち情報市役所部門にも共有するので相談実績積む方がいい。元記事の方地域包括センター職員さんの訪問あるっぽいのでバッチリ記録残ってると思うぞ。市独自介護サービス教えてくれたり暴言暴力振るう患者も運んでくれるタクシーの紹介もしてくれたぞ!

病院医療相談員。入退院できる病院は基本ずっと患者に居てられると儲からないんで退院支援するんだけどこちらの担当がこの方々。でも病院内の介護福祉専門家なんでこちらでも相談できる。上記ケアマネージャさんと事務上の連携もいるし、退院相談する事になるんで先にこちらも声がけしといた方がいい。

*もち家族担当してくれたお医者さんや看護師さんには医療内容を報連相

てな感じでガリガリプロを巻き込む。手間も時間もかかるけど結果ある程度の解決まではスピードアップできる。(但しこちらも当たり外れがあるといるとわ聞いたわ・・)

こんな感じで介護医療は登場するプレイヤーが多いので

家族が今まで起こした暴言や困った行動などの経過をなるべく日付つきで記録しておく。メモでもいいと思うけど私はGoogleドキュメントにまとめてメール使える医療機関さんには共有URL教えたり、共有URLQRコードにしたり、コピペメールに貼ったり、FAXしかない病院でも印刷してコンビニから送ったりしてなるべく家族の訴えをスムーズにした。口頭だけだとここでも時間取られて大変。

介護申請してもサービス受けるの難しそう(介護申請して要支援1〜2、要介護1〜5認定降りるとサービス受けれることになる)なら元記事の方のお父様素人目には認知症っぽいので精神科の「物忘れ外来」って名前地元病院探して(地域包括センターでも紹介してくれる可能性あり)受診認知症の診断できるの精神科なので、こっち先に受診してもいいと思う。元記事のお父様酒多いのでアル中依存症で診断出る可能性もあり。うちの場合医者にはまだ行く人だったけど精神科は嫌がる可能性あったんで「前の病院診断書でた」と言ってそれ以外何も説明しないで精神科連れてった。バレないよ、どうせ認知機能落ちてるもん。

こんな感じで先にケアマネさんから紹介いただいた精神科に事前面会して、かかりつけ医&他の病院紹介状添え医療保護入院となりました。入院したら早めに

*看取り(ぶっちゃけ死ぬまで)病院で面倒見ていただけるか?できないならそれに対応できる病院を紹介してほしい

病院相談員さんには伝えた方がいいと思う。

まあ上記の様な経過で私の場合は一旦落ち着く状態には持って行けた。プレイヤー多いしいっぱい申請あるけど、ここまで持って行けたらだいぶ負担減るので元記事の方の参考になったら幸いです。なお

暴言暴力家族精神科のお医者様や看護師さんなどスタッフの方々に迷惑かけるんじゃないか心配されると思います。私もしたんでスタッフの皆様に頭下げました。経過報告いただいたがちゃんと投薬調整していただいて大人しくしてる様です。それきいた私&旦那&息子's「プロすッゲーー!まじスッゲーー!!」

*「暴言暴力行うとはいえ家族の世話できないなんて」って悩むとても良い性格の方もいると思う。優しいなえらい!でも下手に素人が介入してっ事態ややこしくするよりプロに適切な介入してもらった方が暴言暴力家族本人のQOLも上がると思う。

現場からは以上です。皆様の参考になれば幸いです。

  • ここより追記 -----------------------

結構ブコメコメントついてて同じような立場の人が多いなとは思った。「姥捨山」と言われる件については私個人としては「はいそうです」と答えます

父の暴言については親子関係がガッタガタになる程度の言葉は吐かれたので、ぶっちゃけ父のQOLがあがろうが下がろうがどーでもいいと言うのが正直な話。何より父の暴言から家族を守りたかったので。ただ世の中私の様な薄情もんばかりではなく親御さんの介護問題について悩むめっちゃ良いお子さん方がいっぱいいると思うので、そうゆう人には「暴言暴力家族本人のQOLも上がる」と言いたい。実際問題私の父は認知機能落ちて飲まなければいけない薬の管理はできてなかったし、当然昔の人なんで家事一切できない、実家は荒れ放題で不衛生この上なく娘の私、介護プロの介入も一切受け付けなかったので法的に申請できる私が対応した次第。

あと、医療保護入院利用して思ったのがちゃん医師紹介状病院相談員の介入がないと難しい仕組みになってること。上記記事に登場する専門家みなさん介護福祉士、医師社会福祉士精神保健福祉士など皆さん見事に国家資格持ちの方々で、こちらの皆様は法律に則った運用しないと法律違反なっちゃ立場と思うので、患者家族患者人権無視した行動したらそれなりの対応は取られると思いますよ。そこで患者人権守るための仕組みを担保されてるのではないかな?とは思いました。

あとプロや詳しい方コメント解説や補足ありがとうございます。助かります


あともう少し補足

介護保険被保険者証と後期高齢国民保険証は必ずチェック

医療介護受ける際この書類は必ずいるので必ず実家から探して念の為写真撮ってクラウド上げてスマホで持ち歩くと各種申請書類作成時便利。とにかくプレイヤーが多いのでケアマネさんや相談員の方の名刺や名札も失礼のない範囲写真撮影してスマホ入れとくと連絡とりやすい。

お金について

私と夫はフルタイムで働いてるのでまだ費用面についてはマシな方なんでこの辺りは調査甘いけど、病院も取りっぱぐれたくないのでパンフレットにたいてい治療費相談窓口を掲載して各種医療費の補助相談乗ってくれる。介護ケアマネ相談できるんで諦める前にやっぱりまずプロ相談だ。

この記事は私が親の介護医療に関わって役たつなってことを紹介する目的なんで、父と人間関係上何起こったかを詳しく書く気はない。読んでいただいた方もそこは読みたくないと思うし、胸糞悪いよ。ただ母に関してはプロに頼りつつ腹括って介護する気ではいる。同じ認知症でも今までの生き様含め周りの対応に差は出るとは思うよ。独身でも周りに信頼されてる人も入れば元増田の親御さんみたいに認知症発症から家族からの信頼0の人もいるし死に様はそれまでの生き様でるわ。

2023-03-06

anond:20230306001833

産みましょうじゃなくて、社会ちゃんと女が1人でも普通に産んで育てられる環境を作りましょうだろ

子育て舐めてんのかよ

女の給料ガッツリ上げて、出産堕胎費用無料育児支援金配布、シングルペアレント医療費給食費授業料教科書代保育費、全額大学まで無料

ケアマネ国営ナニー訪問介護に来る

これで解決

2022-11-25

シニア向け電動スクーターのススメ

二輪でブイブイ言わせていた祖母親族総出で説得して、電動スクーター(こういうやつ→ https://www.abilities.jp/fukushi_kaigo_kiki/fukusiyougu/wheelchair/810800 )を導入したらいい感じだったので紹介

祖母について

膝が悪く、歩いてスーパーバス停に行くのは難しかった。祖母の足代わりは二輪で、私はあまり詳しくないのでよくわからないが、他の親族年寄りが乗るような二輪じゃないと言っていた。あんまりよくわからんけど。

電動スクーター導入のきっか

大きく二つ、ニュースでみる高齢者事故と、祖母が軽めの自損事故を起こしたことだ。自損事故は二輪もそこまで傷付かず、祖母怪我はなかったが、ぶつかったのが電柱ではなく信号待ちの人だったらと思ったら背筋が凍った。また、事故を起こしたあとの対応のできなさに、祖母認知能力の低下を感じ、ニュースでみる事故を起こしたことをよくわかっていないような老人の姿に重なった。

このことをきっかけに、親戚一同免許返納をさせることを誓った

導入方法

うちは早い段階で地域ケアマネさんに入ってもらった。身内には強気だが外の人には弱気祖母性格のおかげで、一時期の嵐が嘘のようにあっという間に決まった

今のところ

購入ではなくリース活用してる。カゴが大きいしたくさん入るから牛乳とかトイレットペーパーとか、80後半のお年寄りが運ぶのは大変なものもたくさん買える。運転面でも最高時速が6キロなので、とても安心。バックのときも大きな音が鳴るので、周りの人が気づいてくれる気がするし、バックの最高時速は3キロ大人の歩く速度より遅いのでそれも安心

登り坂で段差越えて一度減速してしまうと、進まず止まってしまうことがあるらしい。スクーター辞めたいというかなと思ったかだ、祖母が暮らすのは都営団地で色々人が助けてくれて、そこから挨拶する仲になったりと人のあたたかさを感じて嬉しいとポジティブ感情がまさっているらしい。東京も捨てたもんじゃないな、郊外地域だけどね

まとめ

田舎は無理だけど、スーパーとか駅とかが家から3.4キロ以内にある郊外くらいに住んでる年配の親、孫を持つ方は電動スクーター検討してもいいんじゃないかなと思います

2022-10-24

89と87の義両親がいる。いよいよ弱ってきて、介護施設を探さないといけなくなってきた。お金いくらかかるんだろう。ケアマネさんはご両親の貯金で、とおっしゃるが、貯金どころかこないだようやく借金キレイにしたところで葬式代くらいしか残っていないはず

2022-10-20

anond:20221020011014

賛同できないな

じゃあもし彼女平穏理解ある彼くんによってもたらされたものでなく、地域ケアマネによる生活支援だったとして同じようにムカつかれ叩かれてたと思う?

あなたが言う問題点である、どうやってケアマネにたどり着きどう支えられたかという「面白い所」を書かなかったとして、つまらなく独りよがり作品にはなっただろうが「ムカつかれ」はしなかったと私は考える

この増田で書かれていることは作品がつまらない理由・楽しめない理由であり、ムカつかれる理由にはなっていない

結局、理解ある彼くんを得て子供を設けるという「模範的幸せを得ている」という要素を抜きにムカつかれを説明することはできないと思う

2022-07-10

anond:20220710000301

息子・娘のように見えてケアマネさんのパターンあるぞ

買い物の付き添いとかもやってくれる

介護保険制度の利用方法を調べておくんだ

増田が使う頃には内容も変わってると思うけど、こんなサービスがあるんだな程度でいいからさ

2022-06-28

anond:20220627170852

ケアマネが何とかしてくれるから大丈夫だが

それでも完全にサービスに丸投げは難しいし可也頑張って自分介護しないといかんな

脳血管とかやっていきなり介護度高く付けば色々違うけど

(一番きついのは介護度1、2程度で認知だけエグい場合だな。家でも施設でも手に負えねえし、サービス受けられる日数も少ない。

認知エグいと利用を断りやがる施設があったりするから。最悪さね。断らない施設に皺寄せが行き、家族も勿論介護疲れの地獄絵図)

つーか、同居してるとやばい

介護する人間が居る場合だと特養とか難しいからね。4桁人とか平気で待ってたりするから順番こねーわ

どうしようかね

自分他人事じゃあねえわ

宝くじでも買って夢でも見るしか手がねえわ(金があれば有料へgo。あ、有料でも断られる場合あるけどね!)

後は親がずっと元気で居てくれる様、神にでも祈るしか

もしくは親が元気じゃなくなる前に自分が…

2021-12-24

認知症介護大喜利じゃねんだよ

八十六歳の祖母認知症になる。

毎日のように掛かってくる鬼電and鬼電。出れば「お前らは冷たい」「死にたい」「忙しいって言うけどそんな事よりあたしの生き死にがかかってるんだ」「ここのオーナーケアマネが結託してあたしを追い出そうとしているかあんたたちの所に行くしかない」出なければこれにプラス「誰ひとり電話に出やしない」である

大前提認知症は本人が一番苦しんでいる。不安感、孤独感に苛まれ、一人の時間は一分が一時間にも感じる程長い。正論反論される程被害妄想悪化する。何か本人の中に強い「トリガー」のようなものがあり、あらゆる感情でそこに執着してしまう。本人に自覚がある時もない時もある。OK。その上で言わせて欲しい。

○○という対応をしたら死にたいと言わなくなりました?此方から電話をかけてあげましょう?愛されていると安心させてあげましょう?○○な時は○○と言って気を逸らせてあげると機嫌が戻ります

ねーーーーーーーーよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

認知症侮んじゃないわよ。アイツらボケて何も出来ず被害妄想膨らませて家族呪詛の鬼電かますだけのルーティン生活してるクセにめちゃくちゃトリッキーに揚げ足取ったり言質取ったりこちらが答えに困るクエスチョンを選んで投げてきたりする頭あるから!!!!!!!!誰にでも攻撃的なんじゃないのよ!家族を選んで罵詈雑言吐いてんの!その時点で我々がどんな対応をしても無意味なの!

私に出来ることは心を殺してウンウンソウダネソウダヨネワカッタヨと相槌を打つことだけ。話題を逸らしても無駄ループするから。その内話を逸らされている事に気が付いて発狂度が増すから。壁打ちさせてあげる事しか出来ない。私たち貴女を楽にしてあげる事は出来ない。祖母だってそれが分かっているから、一度だって愛情を抱いた事なんかない、血が繋がっているというだけの「家族」をそんなにも責めるのだから

年末の忙しい仕事帰り、祖母の家へ寄って。機嫌がよく、一生懸命作ったのだろうユリ根炊き込みご飯を持って行けと言うからおにぎりにして持って帰った。べちょべちょである。私はお米はもっと固めが好きだなあと思いながら食べる。普通に美味い。べちょべちょだけど。

ユリ根ご飯美味しかったよって、伝えたいだけだった。電話したら、そんな事はどうでもいいといつもの罵詈雑言ループだった。久しぶりにガッカリして荒い声で反論をしてしまった。その後、泣いた。

何でこんなにも何をしても無駄なんだ。認知症から病気からネットに落ちてる認知症への対応例なんかアテにならん。お腹の中でズンと重くなったユリ根ご飯もそう言ってる気がした。

2021-12-08

人生の岐路に立つ

今の会社施設長を目指すか、ケアマネ転職するか迷っている。

私、介護10年目、施設候補として主任業を行うも、激務で心を壊しうつ傾向に。

働きながら薬物療法を行い、良い感じに寛解してきたね!と主治医とキャッキャしてたら、くも膜下出血にて緊急入院

幸い軽症で社会復帰できたけど、出血原因と思われたうつ内服薬を止めてたら再度うつ傾向に。

中小企業なのでうつ休職すればイコール退職になりそうだし、今の所働けない訳では無い。

今の会社は忙しいけど仕事内容がすき。ただ施設長のプレッシャーに耐えられるか不安

ケアマネとして先輩に教えを請いながら仕事をした方が良いのか非常に迷い中。

40も手前で人生の岐路に立ち中

このくらいで転職した人、残った人、アドバイスください!

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