はてなキーワード: 平成生まれとは
うちの職場にはプライベートで一緒に旅行に行くほど仲のいいアラフォー独身女、アラフォー既婚子無し男、アラフォーバツイチ子無し男の3人組が職場にいる。
頻繁に3人でスポーツしたり、職場の若者を引き連れて飲みに行っている。職場の他のアラフォーの人は家庭を持って子育てをしているため、青春を楽しむ子供のように見えてしまう。
仲良しなのは結構なことだが困ったことに仲良しさを仕事に持ち出している。必要な業務上の情報共有はしないし、仕事中にチャットで業務外の話をしている。さらに困ったことに上司達はそういった行動を指摘せずに見逃している。仲良し3人組は仕事ができるため、上司は何も言えないのだと思う。自分が平成生まれの20代のため昭和生まれの考えや文化の理解ができていないだけかもしれないが、出会った時からものすごく痛いおじさんおばさんだと思ってしまっている。
仕事でなにかあっても自分が責任を負う立場ではないため、これまで通り好きにしててもいいとは思うが仲良し3人組が自分の上司になるのは絶対に嫌だ。そうなる前に転職しようと思っているが、どこの職場でも拗らせてしまった大人ってみんなこんな感じになってしまうのだろうか。老後のことを考えて結婚したり子供を作ったりしないのが不思議でたまらない。
※この記事の趣旨は決して「昔こんないじめに遭った、ひどい」ではありません(世の中にはもっともっと凄絶で深刻ないじめが蔓延しているのだから、大昔のこの程度のことを訴えるために書いたのでは当然ない)。
しいて要約すれば「男性の優しさを厳しく見極めようとしてしまう変な癖がついてしまった人生」の話です。
私はアラサーになった今でも「子どもの頃スポーツが得意だった」「明るくて優しい」男性のことを一切信用できない。それゆえ、好意を打ち明けてくる男性がいると必ず変な尋問にかけてしまう。
小学生の頃、一日だけいじめにあったことがある。原因は私にもほかの誰にも、おそらくいじめてきた男子本人にすらわからない。ただある日突然、クラスのひとりの男子がこう宣言したのだ。「俺は今すごくイライラしているから、今日一日だけ、誰か一人をターゲットにしていじめる」と。その標的になったのが私だった。その男子は普段いじめっ子ではないし、また私も普段いじめられっ子ではなかった。たしか「だれにしようかな」とかでランダムに選ばれたのが私だったけど、その男子は足が速くて、私はめちゃくちゃ足が遅かったので、小学校でありがちな強者と弱者の構図にぴたりとはまっていた。
それで何をされたかというと、かなり記憶が薄れてはいるが、覚えているのは体育館でひたすら一対一でドッジボールか何かの硬いボールを繰り返し投げつけられて私が逃げまわるという光景だ。あれが体育の時間だったのか休み時間だったのか、私がそこに行かない/そこから逃げ出すという選択肢はなかったのか、同級生や先生たちはそのとき何をしていたのか、その場面に至るまでの状況は残念ながらもうまったく思い出せない。
普段問題児でもない子が、普段からいじめに悩んでいるわけでもない子に、一回限りだと宣言してやったことだから、周りの人たちもまあ反応に困っただろう。ボール遊びをしていて(同時に罵倒もされていたが)私が一方的にボールを当てられてしまうのは、単にその子の運動神経がよくて私がどんくさいから、とも言えるかもしれなかった。
このほかにも、たぶん私がトロいせいで、小学生男子の有り余るエネルギーを暴力として喰らってしまったことはある。掃除の時間に床の雑巾掛けをしていたら男子がいきなり頭の上に座ってきて、床に顔面を強打したことがあった。どうもその男の子は、雑巾掛けをしている子たちの上に次から次へのしかかろうとして、雑巾係はその股の下を潜って避けたらセーフみたいな遊びになっていたらしかった。でも私はトロいから避けられなかった。床にぶつかった衝撃で鼻の付け根がツンとして涙がぽろぽろ出たが、目の辺りを打った生理的反応だと思われたのだろう(実際そうではある)、周りの子たちに「目、大丈夫⁈」と聞かれたのに対して咄嗟に「うん大丈夫だよ」と答えてしまったらそれ以上はなんの騒ぎにもならなかった。
上記の男子の二人とも、もし小学生の頃の様子を友だちとか親とかに語らせれば、「スポーツが得意で明るくて優しい男の子でした」という具合になるんだろうと思う(知らんけど)。でも、私はそうじゃないことを知っている。だから私はいまだに信用できないでいる。「子どもの頃スポーツが得意だった」「明るくて優しい」男性のことを。
私は男性に好意を打ち明けられると真っ先にする質問がある。「小学生の頃、女の子にボールをぶつけたことはある?」だ。平成生まれのわれわれの多くはドッジボールというきわめて暴力的かつ非人道的な競技を強いられていたはずだから、「ない」と即答されるとむしろ変だなとか思ったりしつつ、まあその後もいろんな質問をしてみる。これはべつに答えだけのドボンクイズじゃなくて、表情とか言葉の選び方から私は相手が「件の男子」からどれだけ遠いかを必死に見定めようとする。そんなことは不可能で無謀だとも思うし、「本当の優しさとは何なのか」なんて私にもわからないけれど、どうしても探らずにはいられないのだ。
(ないと思うけどもし万が一この尋問に覚えのある人がこの記事を読んでいたら、どうか私の身元はバラさないでそっとしておいてください。)
大人になった今考えると、当時のそういった男子たちは有り余るエネルギーだけではなくて中学受験勉強のストレスなんかも抱えていたのかもしれない。私が通った公立小学校の学区域は地価の高いエリアが含まれていて、ハイレベルな中学受験をする子が非常に多かった。エネルギーにせよ親からのプレッシャーにせよ、それを正しく言語化できずに誤った仕方で発散してしまう子どもはきっと少なくないのだろう。
過ちという点で言えば、私だってその後の女子校時代や大学時代には、性格が弱々しいタイプでもなかったから(運動神経が悪い=弱者という動物的慣習は小学校で終わるのが世の常だ)、言動を誤って他人を傷付けてしまったことは何度もある。だから「小学校時代の」「男子の女子に対する」「身体的暴力による」いじめだけをあげつらうつもりはない。言葉による暴力がどれだけ深く他人を傷付けうるか知っているつもりだし、自分がやってしまったそれは一生後悔し続けると思う。
私がここで語りたいのはもっと軽薄なことで、ようするに、結婚式の回想ムービーだかスピーチだかで「スポーツが得意な、明るくて優しい男の子でした」とか形容されてニコニコしているけれど実際は猿から人間に進化しきれていない野蛮な小学生だった過去のある男性がそのイメージを保ったまま幸せな結婚をして平凡な家庭を築いているケースは日本全国そこらじゅうにわんさか転がっていると思っていて、ただ私だけは絶対にその類の男性にだけは引っかかりたくないし、そんな男に抱かれた日には死んでやるという気持ちで生きているということだ。
私が今のところ最も「優しい」と思えるのは、「自分の優しくなさや社会の優しくなさ(政府とか入管とか)に対して厳しく在ることのできる人」だ。いつでも穏やかにニコニコしていることとか、横にいる人の荷物を持ってあげることなんて、誰でも思いつくし誰にでもできる(下心があれば尚のこと)。「優しいは作れる」のだ。そんな小手先の優しい行為からは、その人が他者の痛みにどれだけ鋭敏で、自他の暴力性にどれだけ怒れるかなんて窺い知ることはできない。だから、私が無駄な問答を通して知ろうとしているのはおそらく、その人が自分の無意識の暴力の可能性をどれだけきちんと検討できるのか、みたいなことだと思う。
ワーママがわりと多いこともあり、もともと飲み会が盛んな職場ではないが、歓迎会送別会やら、ちょっとした打ち上げなど、小規模で行うやつはそこそこある。
この数年「いやー飲み会とかパスな人なんで…サーセン!」という新人もやはりいて、別に角が立つ感じの断りかたでもなく、また気が向いたら来てねーで終わる。
そんな子たちが1、2年経つと飲む飲まないにかかわらず飲み会に来るようになるのは、その職場のおっさんの力である。なんというか、このまま家に帰るのもしんどいなというタイミングで絶妙に「メシ食ってかない?」と声をかけるのだ。この力をプライベートで発揮したら女の子に事欠かないと思うんだけど、普通に結婚しておとなしくしている。
俺もそうして誘われたクチで、全然大した内容の話もアドバイスもないのに、ふたりで美味いメシ食って飲むだけで、なんか救われた。マジックである。
平成生まれでアニメは後追いで途中まで、映画は見た記憶はあるけど、どの作品だったかもわからず、記憶も曖昧。
ただ、あまりにも有名だしネタバレもネットで目にしてなんとなく知ってる気になってた。
こんな作品だったとは。
繊細チンピラなオタクが抱えるコンプレックスや欲望を、ここまで曝け出して、それを力技で正統なジュブナイルものに昇華するとは。
ちょっと、「君たちはどう生きるか?」に似てるよね。
あとシン仮面ライダーはこの長尺だから描けるテーマを2時間に取り込もうとしたんだからそら無理があるわな、とか。
でもこれって、みんなの知ってるエヴァンゲリオンで合ってるんでしょうか?
それとも、オリジナルのTVアニメ版を見ないといけないんでしょうか?
映画はまた別物なんでしょうか?
慶應と東大の学生達と話していて気づいたが平成生まれにとっての日本は「右肩上がりの希望にあふれた国」なのではないか
岩尾俊兵 @iwaoshumpei
私が講義を持つ慶應と東大の学生達と話していて気づいたが、私含め平成生まれにとっての日本は「右肩上がりの、希望にあふれた国」なのではないか。スタート地点が低かったため、じわじわとではあるが、日本は良くなっている実感がある。実は「日本は終わった」は今の世代にはピンとこない価値観。
んなわけない。ネガティブな事を口に出してると評価が下がるのが世の常なのでとりあえずポジティブなことを言ってるだけだろう。
人口減と高齢化と現役世代の負担増は目に見えていて、年金は返ってくるかわからないし、その全部にこれといった対策はない。
そんなマクロな話じゃなくても、小さいころに身の回りのほとんどを占めていた日本製品はほとんど海外製品に置き換わり、みんな見ていたテレビは誰も見なくなって、スマホで日本なのかなんなのかよくわからないLINE以外は大体海外のサービスで余暇時間を消費するようになって、新しい分野を拓くのは常に中韓台を含む海外企業。
サブカルは局地的に善戦してるけど、一応日本に向いてくれてるK-POPはずいぶん皆に馴染んだなぁと思う。あとトヨタか。がんばれ~。
スキルと先見のある友人は皆外資に就職・転職してる。スキルのない奴らも皆公務員やインフラ系に就職してとりあえずの数十年を食いつなごうとしている。NISAでSP500を買う奴はいても、TOPIXを買う奴は誰もいない。
これ、希望あるか?
でも、「日本」に希望がないからって、日本に住んでるそれぞれの人間に希望がないわけじゃない。日本で外資で働いてiPhone使ってインスタで友人とやりとりしてブラックな飲食で飯食って謎の土地持ちから借りた家で寝て、普通に幸せだし。
経済のことよくわかんないけど日本企業にお金払わなくても、日本企業で働かなくても、日本企業が何か生み出せてなくても日本の国としてはしばらく滅びないんじゃないの?少なくとも、自分が生まれてから日本に起きた変化ってそういうことだった気がする。でも結果として特に問題なく日本に住んでる。滅びるとしてもギリ逃げ切れる気がする。しらんけど。
物語の方は実母を亡くした戦中の少年が謎世界を冒険して、継母を連れて帰る話なんだけど
「君たちはどう生きるか」というタイトルだが俺には何を伝えたいのか読み取るのが難しい
もしかしたら俺に向けて作られた話ではなかったのかもしれない
作中の「老い」は印象的だった、老人が多く出てそして老いと若さを感じさせるシーンがいくつも出てくる
老いて少年についていくのもやっとな老婆も謎世界に行くと若く現役の頃で頼もしい
誰しも若い頃はあるのだ
無くなったはずの実母も少女の姿で出てくる
これは俺にとっては意味深だった
死者と老い先短い老人は若い頃の姿で、まだまだこれからも生き続ける者は今の姿だ
今を生きてるか過去に生きてるのか、それとも老いによって体の年齢と自意識の年齢は乖離していくという話なのか
今の日本は新しい戦前と呼ばれてる事は宮崎駿も知ってそうだしな
実母と継母
何がしたいのかよく分からん
母親がヒロインと増田の感想で見たが、ヒロイン不在で青鷺や老婆たちの方がよほど印象に残った
結局何の映画なのか俺にはよく分からん作品だが、老いる前になんかしてえなと思った
具体的にはアーマードコア6