はてなキーワード: 純潔とは
素晴らしい自己分析だと思う。
後で気が向いたらコメントを書く。
https://anond.hatelabo.jp/20230908213654
幼少の時分から太り気味で運動神経が悪く、頭も知的障害とまではいかなくても平均以下、顔立ちも極端に不細工では無いがお世辞にも褒められたもんでもない。
家族も自分を愛してはくれたが自尊心を高める様なコミュニケーションは取っておらず、寧ろ優れた所は無く何かと不利な目に合う事が多くともそれに負けず生きていけるタフな心を養わなくてはいけない、そういった教育や意識付けを行う人達だった。
そんな出自なので自分は無意識の内に他人に対して劣等感を抱いていると思われる。それ故に自分のアイデンティティーは身体や知性に依らない、純潔な価値観や思想に有ると考えている。
その結果、他人の振る舞いや思想に対して非常に潔癖な性格が身に付いてしまった。それだけが理由ではないが、それが大部分の理由で友達も恋人も居ない。
やたらと卑下する文章を書いてしまったが、自分が嫌いかと言えば全くそんな事は無い。寧ろ愛している。
先述した様に他者に劣等感を抱き、且つ毛嫌いしがちな人生を歩んでいる為、愛したり信頼したりする対象を見つけられておらず、結局自分自身が一番理想とする生き方や思想を実践出来ている存在だと思っている。
井の中の蛙であろうが、それもまた致し方の無い運命だと思いたい。
こんな浅はかな文章を長々と書いて何をしたいのかと言うと、最近の自分は他者を動物の類だと思っているんじゃないかと思ったからその考えを記録に残したい為だ。
さっきから他者への嫌悪感をつらつらと書き連ねている訳だが、人の居る場所が嫌いと言う事も無い。但し、自分に関わる人間が居るのは嫌だ。
つまり、イベント事など知らない他人が集まる場は寧ろ好ましい。連れ合いも居ない癖にお祭りが有るとフラフラと出掛けたりする。自分は誰の眼中にも入っておらず、盛り上がっている人達を観るのは楽しい。
だが、その輪の中に自分が入れられると考えるとゾッとする。グループに入れば他者の価値観に合わせなければいけない、有限である人生の一部を自分自身のアイデンティティを崩した状態で過ごさなければならない。
それが嫌で嫌で堪らないのだ。
恐らく今までの人生において、他者との関係で得られた利益が少な過ぎたのだと思う。だから自分の価値観の中で他者とのコミュニケーションで得られる幸福感が著しく低いランクに位置付けられたのだ。
その結果どうなったか、利益をもたらさない他者の存在は自分の中で自分と同価値とならなくなっている。動物園で動物を観るのは楽しい、だが家の中に動物園の動物が居たらどうだろう?ハッキリ言って邪魔なだけだ。
その上、他の動物よりも権利の主張に喧しいとくる、成すべき義務に関しては素知らぬ振りをする癖に。躾けたり愛玩でも出来れば良いが、愛護団体が五月蠅い。
こんな面倒臭い存在、もう情報だけで良い。まぁ我ながら非常に勿体無い考えではあるが。
そんな中でもどうしても関わらなくてはならないのが同僚や上司。これらに関しては言い方が相当過激になってしまうが、正直言って最早家畜の類に見えているんだと思う。
生活の糧を得るのに必要な仕事をしてくれるだけの動物。相手は畜生だから価値観が合う事など無い。それでもそれ等の存在無しには生きていけない。
だから彼らの習性を理解し、上手く誘導するべく努める。ウンザリするが畜産家の皆様はもっと大変な思いをされている事だろう。自分も我慢しなくてはならない。
そしてココにこそ、自分が業務中は愛想笑いで応対出来るのに飲み会は死んでも行きたくないのかが分かる。なんで家畜と飲まにゃならんのだ。
君達と過ごしているのは生活の為で有って、対等な存在だと思っているからじゃない。
良い商品となって貰う為に日中家畜を愛情込めて世話をし、さぁ家に帰って本来の自分に戻ろうと思った時に家畜から、『有難う!良かった飲みに行こう!』って誘われたどう思う?
いや…確かにお前が喜んでくれる様には努めたけどそれは業務だからで有って、なんでお前と対等に飲まにゃならんのだ。と思うんじゃなかろうか。
まぁ余り倫理的な考えではないかもしれんが、もう身に付いてしまったものだから仕方ない。
誤解しないで欲しいが自分は決して他者を劣った存在と思っている訳ではない。身体能力や知能指数はきっと相手のが上なんだと思う。
でも自分の価値観は思想に有る、その意味で信頼がおけると感じた相手は殆ど居ないから対等な存在と思えないだけである。
なので逆に他者からしても自分の事を家畜だと思って欲しい。単に生活の糧を得るのに利用する必要のある存在だと考えてくれる相手が自分にとって信頼のおける相手なのだ。
だからこそ、少なくとも最初はお互いの事を家畜だと思い合える相手こそ理想。そこから互いの価値観にシンパシーを抱き、徐々に打ち解けられて初めて信頼がおける。
じゃあ雑に仕事を押し付けてくるだけの同僚や上司が理想なのかと言えば全然違う。先述したが、自分も他人も家畜なのだ。
虐待紛いの振る舞いをする奴が良い畜産家か?愛情を込めて飼育する人こそ良き畜産家だろう。少なくとも家畜にとっては。
そしてヒトなる家畜にとって重要な世話とは礼儀や距離感、相互理解と気遣いなどのグルーミングの事を指すんじゃなかろうか。
何時の日か良き飼育員に出会えた時、初めて他者を人間だと思えるのだろう。まぁこんな偏った思想をしている奴にそんな日は訪れないだろうが。
一度文章を見直すと何だか魯迅の阿Qみたいだ。精神的勝利法とは空しい。それとは違うと信じたいけど…。
まぁそれでも自分は自分が好きだ。だから今こう感じた事も何時か読み返して自分自身を愛でたい。その為に備忘録としてココに残す。
幼少の時分から太り気味で運動神経が悪く、頭も知的障害とまではいかなくても平均以下、顔立ちも極端に不細工では無いがお世辞にも褒められたもんでもない。
家族も自分を愛してはくれたが自尊心を高める様なコミュニケーションは取っておらず、寧ろ優れた所は無く何かと不利な目に合う事が多くともそれに負けず生きていけるタフな心を養わなくてはいけない、そういった教育や意識付けを行う人達だった。
そんな出自なので自分は無意識の内に他人に対して劣等感を抱いていると思われる。それ故に自分のアイデンティティーは身体や知性に依らない、純潔な価値観や思想に有ると考えている。
その結果、他人の振る舞いや思想に対して非常に潔癖な性格が身に付いてしまった。それだけが理由ではないが、それが大部分の理由で友達も恋人も居ない。
やたらと卑下する文章を書いてしまったが、自分が嫌いかと言えば全くそんな事は無い。寧ろ愛している。
先述した様に他者に劣等感を抱き、且つ毛嫌いしがちな人生を歩んでいる為、愛したり信頼したりする対象を見つけられておらず、結局自分自身が一番理想とする生き方や思想を実践出来ている存在だと思っている。
井の中の蛙であろうが、それもまた致し方の無い運命だと思いたい。
こんな浅はかな文章を長々と書いて何をしたいのかと言うと、最近の自分は他者を動物の類だと思っているんじゃないかと思ったからその考えを記録に残したい為だ。
さっきから他者への嫌悪感をつらつらと書き連ねている訳だが、人の居る場所が嫌いと言う事も無い。但し、自分に関わる人間が居るのは嫌だ。
つまり、イベント事など知らない他人が集まる場は寧ろ好ましい。連れ合いも居ない癖にお祭りが有るとフラフラと出掛けたりする。自分は誰の眼中にも入っておらず、盛り上がっている人達を観るのは楽しい。
だが、その輪の中に自分が入れられると考えるとゾッとする。グループに入れば他者の価値観に合わせなければいけない、有限である人生の一部を自分自身のアイデンティティを崩した状態で過ごさなければならない。
それが嫌で嫌で堪らないのだ。
恐らく今までの人生において、他者との関係で得られた利益が少な過ぎたのだと思う。だから自分の価値観の中で他者とのコミュニケーションで得られる幸福感が著しく低いランクに位置付けられたのだ。
その結果どうなったか、利益をもたらさない他者の存在は自分の中で自分と同価値とならなくなっている。動物園で動物を観るのは楽しい、だが家の中に動物園の動物が居たらどうだろう?ハッキリ言って邪魔なだけだ。
その上、他の動物よりも権利の主張に喧しいとくる、成すべき義務に関しては素知らぬ振りをする癖に。躾けたり愛玩でも出来れば良いが、愛護団体が五月蠅い。
こんな面倒臭い存在、もう情報だけで良い。まぁ我ながら非常に勿体無い考えではあるが。
そんな中でもどうしても関わらなくてはならないのが同僚や上司。これらに関しては言い方が相当過激になってしまうが、正直言って最早家畜の類に見えているんだと思う。
生活の糧を得るのに必要な仕事をしてくれるだけの動物。相手は畜生だから価値観が合う事など無い。それでもそれ等の存在無しには生きていけない。
だから彼らの習性を理解し、上手く誘導するべく努める。ウンザリするが畜産家の皆様はもっと大変な思いをされている事だろう。自分も我慢しなくてはならない。
そしてココにこそ、自分が業務中は愛想笑いで応対出来るのに飲み会は死んでも行きたくないのかが分かる。なんで家畜と飲まにゃならんのだ。
君達と過ごしているのは生活の為で有って、対等な存在だと思っているからじゃない。
良い商品となって貰う為に日中家畜を愛情込めて世話をし、さぁ家に帰って本来の自分に戻ろうと思った時に家畜から、『有難う!良かった飲みに行こう!』って誘われたどう思う?
いや…確かにお前が喜んでくれる様には努めたけどそれは業務だからで有って、なんでお前と対等に飲まにゃならんのだ。と思うんじゃなかろうか。
まぁ余り倫理的な考えではないかもしれんが、もう身に付いてしまったものだから仕方ない。
誤解しないで欲しいが自分は決して他者を劣った存在と思っている訳ではない。身体能力や知能指数はきっと相手のが上なんだと思う。
でも自分の価値観は思想に有る、その意味で信頼がおけると感じた相手は殆ど居ないから対等な存在と思えないだけである。
なので逆に他者からしても自分の事を家畜だと思って欲しい。単に生活の糧を得るのに利用する必要のある存在だと考えてくれる相手が自分にとって信頼のおける相手なのだ。
だからこそ、少なくとも最初はお互いの事を家畜だと思い合える相手こそ理想。そこから互いの価値観にシンパシーを抱き、徐々に打ち解けられて初めて信頼がおける。
じゃあ雑に仕事を押し付けてくるだけの同僚や上司が理想なのかと言えば全然違う。先述したが、自分も他人も家畜なのだ。
虐待紛いの振る舞いをする奴が良い畜産家か?愛情を込めて飼育する人こそ良き畜産家だろう。少なくとも家畜にとっては。
そしてヒトなる家畜にとって重要な世話とは礼儀や距離感、相互理解と気遣いなどのグルーミングの事を指すんじゃなかろうか。
何時の日か良き飼育員に出会えた時、初めて他者を人間だと思えるのだろう。まぁこんな偏った思想をしている奴にそんな日は訪れないだろうが。
一度文章を見直すと何だか魯迅の阿Qみたいだ。精神的勝利法とは空しい。それとは違うと信じたいけど…。
まぁそれでも自分は自分が好きだ。だから今こう感じた事も何時か読み返して自分自身を愛でたい。その為に備忘録としてココに残す。
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
親が子に純潔でいてほしいと思うのは自然な事だが、子供も男女関係なく1人の人間であり、性欲は健康な人間であれば誰でも持っているもので、極めて私的なものであるが汚いものではないと、親も子も理解しなければいけない。そういう意味で、性産業に従事する先生というのは、(子供にAVを見せろという意味ではなく)そういう人もいる、という理解をする良い機会なのではないかと思っている。
娘と息子を持つ親として、この話題は非常に興味が湧いた。
そもそもなんだけど性産業を語る上で、性産業は賤しいとか、性産業従事者は搾取されてる!と一つのカテゴリとして思考停止してる人が多すぎる。
性産業従事者については、「性を通じて喜びを与える事に誇りや自信を持ってる人」と「経済的に他のチョイスがないから性産業に従事する人」を分けて考えないといけない。
例えば闇金ウシジマくんのように借金があるから風俗に売られたり、パパ活で生活する未成年などの社会的・経済的弱者は性的搾取をされないように救済しなければいけない。性や感情や人間としての誇りというのは本来、金の力で奪われるべきものではない。
その一方で、性産業に従事する事を誇ってもいい。誰よりもセクシーで、エロさを求められる事に自信ややりがいを持つのは何も悪い事ではない。食欲を満たして人を幸せにするシェフがいるように、性欲を満たして人を幸せにするセックスワーカーがいても良いのだ。
例えばコールセンターのクレーマー対応という職を一つとっても、人から悪意をぶつけられる仕事なんかやりたくないと思う人もいれば、クレーマー対応スキルを磨きそれを誇りに思う人もいる。
コールセンターをやりたくない人が、「あの人は他にスキルがないからあんな仕事しかできないのだ」と勝手に決めつける事もあるが、それは一方的な思い込みでしかない。
そして、コールセンターでうまくクレーマー対応してくれる人は社会にとって必要だから、相応の報酬が発生する。
さて、では子供に教えると言う事に適しているのか?と言うと、まず子供がAVを見える環境が問題であると言うのは言うまでもないとして、10代半ばにもなれば、そういう産業があると言う現実はどこからともなく学ぶ。そしてそういう職業を先生がしているということを知りショックを受ける子供がいるのは確かだと思う。
もちろん、子供を2人抱える私も親として子にそういう職業についてほしくないと思う気持ちは大いに理解できる。だからそういう産業に接点を持って欲しくない、ないものとして生きてほしい気持ちも痛いほどわかる。
しかし、性産業は賤しいというインプットをされたまま育ち、例えば誰かに騙されて何かしら性産業に触れる事になってしまったら、もしくはセクハラに遭い何かの代わりに性を差し出してしまったら、子供は自分を責め続けると思う。
それが一度切りの間違いで、その後忘れて生きていける場合もあるかもしれないが、誰にも相談できない事でより事態が悪化する事もあるだろう。そしてそんな自分を許せない精神状態が健康なわけがない。
性産業全体を賤しいものと認識するのではなく、そういう仕事を誇りを持ってする人もいる。ただそれは強要されるものではない。本来の自分の選択肢を歪めるような状況に陥れられたのであれば、自分を責める必要はない事をメッセージとして伝えてあげなければいけないのではないか。
親が子に純潔でいてほしいと思うのは自然な事だが、子供も男女関係なく1人の人間であり、性欲は健康な人間であれば誰でも持っているもので、極めて私的なものであるが汚いものではないと、親も子も理解しなければいけない。
そういう意味で、性産業に従事する先生というのは、(子供にAVを見せろという意味ではなく)そういう人もいる、という理解をする良い機会なのではないかと思っている。
最後に、このAV女優がバレエ教室が舞台のAVを撮った事を「バレエを性商品化しないで!」と怒っている人もいるようだが、正直学校やオフィスが舞台のAVがこれだけ出回ってて、そっちに従事する人の方が圧倒的に多いのに、何でバレエだけ怒るの?としか思えない。
《沼津“乳児”死体遺棄》「300万円のツケで飛んだホスト狂い…」海水浴場で赤ちゃんを焼いた浅沼かんな容疑者(24)のヤバすぎる奇行「子供を親に預け夜遊び三昧」 | 文春オンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/63352
このブコメ見てて思ったんだけど、ホスト規制に対して、深く考えずに躊躇なく規制しろという論者が多くてビックリする。
もちろん、ホストというビジネスが善なるものとは私だって思わないし、むしろ嫌いだよ。でもだからって、即座に規制みたいな思考は粗雑というか、あまりに頭が悪すぎないか。
クレカや消費者金融と同程度の総量規制を掛けに対して適用するといったレベルであれば、趣旨として近いものであり、消費者保護の観点からの一定の妥当性はありそうだけど、ホストというビジネスそのものを否定して潰すための規制を訴えるやつはアホかと思う。
どう考えたって、成人女性自由意志でが合法的な風俗店で働いてホストに貢ぐことは、愚かかもしれないが、愚行権として擁護されるべきものだろう。
それとも、清く正しいはてなーは、道徳的に完璧に生きてるのか? まあ、お前の道徳心はよくわかったから、そういうのを他人に押し付けるのは統一協会の純潔運動みたいに宗教じみてるクソだからやめてくれ。
書いてる人はアンフェかつ表現の自由と呼ばれている人です。アホ女が風呂屋に沈むのも、色恋営業やるのも、ロリエロ同人誌出版するのも、おっぱいのデカいイラストの広告を公共の場に陳列するのも自由だというだけです。
ジャニーズ事務所(ジャニーさん)の性的加害の問題についてファンの責任をどう考えるべきか。私はコアなジャニーズファンによる明確な性的加害だと考えています。
私はショタコンという18歳未満の児童(実在・非実在問わず)に性的興奮を覚える人たちのコミュニティに長くいます。知り合いの多くは男性で、以下はその筋からの情報に基づくことをご了承下さい。
ジャニーズのコアなファンには女性だけでなく男性もいます。2010年以降にショタコン仲間で会話をした限り、18歳未満のJr.等(以下、タレント)がジャニーさんから性的被害を受けていたことはみんな知っていました。つまり、男性のジャニーズファンのほとんどは、1999年から2000年にかけての文春報道の内容を知っていると思われます。しかし、そこで出てくる感想はタレントがかわいそうではなく、ジャニーさんが羨ましいというものでした。
2000年以前は児ポ法制定前で、実在する児童に対する性的ビデオ等を商業ベースで買うことができていました。(Wikipediaのショタビデオの項目が詳しい) それが児ポ法制定により徐々に入手困難になりました。一方で、ジャニーズの作品やステージは合法です。タレントが際どい衣装を着用して踊っているのは合法的に見ることができます。きらびやかなステージの裏でタレントが性的虐待を受けているかもしれないという物語は、実在する児童に対する性的ビデオの代わりになるものだったはずです。ショタコン仲間の家に遊びにいった時、熱心にタレントのステージを視聴していたショタコンの知り合いがいます。当時どういう気持で見ていたのでしょうか。
ジャニーズのコアな女性ファンが2000年代に文春報道についてどう考えていたのかは情報がありません。ただ、熱心なファンならファン同士の交流で、1999年から2000年の文春報道を耳にしたことはあったはずです。過激な女性ファンになればなるほど、プロデューサーとタレントの男同士の関係は許せても、タレントと女性の関係が明るみになることは絶対にあってはいけないという感覚があっただろうと思います。たとえタレントがプロデューサーから性的虐待を受けて純潔を汚されたとしても、タレントの周りに女性がいないということをむしろ歓迎していたはずです。
私が思うジャニーズの問題は、ファンによる児童への性的加害欲の「代償」的な要素があり、また女性問題を避けるために要求されて作られた物語であったということです。ジャニーさん自身が児童への性的虐待を率先して行っていた以上、同類のファンの特性を十分理解した上でプロデュースしていたのではないかと疑っています。(今となっては確認する方法がないけれど)
もちろん、
・テレビや新聞が報道しないことでこの性的加害商売をサポートしていたこと
はじめて触ったその子の手は、すこししめっていて、でもすごくやわらかくて、ぬるかった。でも、確かに熱を帯びていた。わたしはその時、わたしではないものが、わたしの中に入り込んでくるのを感じた。はじめての感覚。これが他者を知るということなのだろうか。甘美で、それでいて、刹那の味。乳酸飲料とは言い得て妙なのだ。そういう青春が誰にでもあって、今は誰もが忘れているだけで、ふとした瞬間に思い出して、失われた純潔に思いを馳せる。情熱を思い出す。だけど、失われたものを想起することと、失われたものを取り返すことは違う。そういうわけで、恋と結婚が生まれるのだ。前者には美しさと儚さがあり、後者には信頼と恐怖がある。どちらが優れているとかいないではなくて、単に両者は全く異なっているだけである。
たとえばもし、この星に夜がなかったとしたならば、人間は死に絶えていただろう。陰鬱な人間は、夜無くして生きられない。健康な人間もまた、夜無くして生きられない。眠れないからである。その上で、私は、夜がもっとも嫌いなのだ。だが、そういう夜もまた、あっていいと思う。