はてなキーワード: 1949年とは
—北宋(960年 - 1127年)
—南宋(1127年 - 1279年)
—五胡十六国時代(304年 - 439年)
—新(8年 - 23年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国の歴史
たとえば岐阜県の上戸村(じょうごむら)は実際にそういう由来らしい、
市町村制施行前後において、当地区は大浦とともに戸町村であった。大浦郷、浪ノ平郷(以上大浦地区)、下郷、上郷、蓑尾郷の5郷があった。1898年、大浦・浪ノ平・下郷が長崎市に編入され、同時に上郷・蓑尾は小ヶ倉村に編入され、戸町村は消滅した。のちに、1938年に小ヶ倉村は長崎市に編入され、旧戸町村が全域長崎市になった。
下郷は1913年に戸町1丁目-3丁目、国分町、小菅町に分割された。また、上郷・蓑尾郷は小ヶ倉村を経て1949年にそれぞれ上戸町・新戸町となった。以降、住居表示の実施により丁目が増設されるなどして現在に至る。
この書き方だと「戸町」に対する「上戸町」っぽいよなあ。
ちなみに「戸町」自体の由来については、
古くは「とはち」ともいい、古地図には“戸八”とも記されているエリア。この「とはち」には、船の停泊地を意味する「門泊(とはち)」に由来する、また、中世(鎌倉~戦国時代)にこの辺り一帯を所領していた戸町氏(戸八氏)に由来するなど諸説あるようだ。
とのことらしい。
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
一条ゆかり、ながやす巧、萩尾望都、聖悠紀、諸星大二郎、弓月光……同年代にレジェンドクラスがごろごろいるじゃん。
前後で言えば植田まさし、弘兼憲史、本宮ひろ志、安彦良和、かわぐちかいじ、小山ゆう、里中満智子、柳沢きみお/
あだち充、能條純一、美内すずえ、村上もとか……とまだまだ第一線張ってる人らがいる。選択肢なんてナンボでもあるだろう。
敢えて挙げるなら『Dr.クマひげ(ながやす巧)』『妖怪ハンター(諸星大二郎)』『ハロー張りネズミ(弘兼憲史)』
『虹色のトロツキー(安彦良和)』『沈黙の艦隊(かわぐちかいじ)』『がんばれ元気(小山ゆう)』
『虹色とうがらし(あだち充)』『月下の棋士(能條純一)』『JIN-仁-(村上もとか)』
……あたりは入りやすいんじゃない。
あえてマジレス的に考察比較してみる(★印は主観だが、世界的観点のつもり)
世界:帝国主義の絶頂期。飛行機が実用化、ドレッドノート級軍艦が登場。
世界:清・独・露・オーストリア・トルコが革命で帝政やめる。第一次世界大戦で陸海空の技術レベルが激変。男が兵隊に取られた分を埋めるため女性の社会進出が拡大。
世界:基本的に2つの大戦間の平穏な時期。アメリカは大戦後の好景気で急成長。自動車産業が発達。あと各国でラジオと映画が普及して大衆文化が拡大。
日本:大正デモクラシーの時期。藩閥政治家が高齢化して影響力を失う。
世界:第二次世界大戦の勃発と終結と冷戦体制の到来。核兵器とロケット兵器の実用化。戦勝国の多くも植民地を手放す。
日本:敗戦で大日本帝国は一度滅亡。新憲法が制定。社会制度は激変したが、日本人の大部分は引き続き貧乏農民で、生活の風景は昭和初期とそれほど変わってないはず。
世界:冷戦体制から緊張緩和。東南アジアとかアフリカ諸国とか次々と独立。カウンターカルチャーとか出てくる。新左翼運動が激化。汎用コンピュータと月ロケットが登場。
日本:高度経済成長が本格化。農家や個人商店からサラリーマン世帯が激増し、家電製品や自家用車が一気に普及テレビが普及してエンタメも変化
世界:ベトナム戦争は失敗。米中が国交樹立。米ソ両陣営とも停滞。
日本:オイルショックで高度経済成長が終了。新左翼運動が失速。
世界:前半は停滞の冷戦体制。後半急に米ソ冷戦は雪解け、ソ連より中国のほうが危険視されるようになる。イランイラク戦争を契機にイスラム原理主義が台頭。
日本:一億中流とかポストモダンとか言ってたおめでたい時代。後半はバブル突入。
世界:冷戦体制が終結。世界はアメリカ一人勝ち……と思ってたんだよこの頃は。インターネットの普及、といってもまだダイヤルアップ時代。
日本:バブル崩壊。だんだんみんな貧乏になる。ネットはまだどちらかといえばオタクのアイテム。宮崎勤という男のせいでオタは日陰者だった黒歴史時代。
世界:テロ戦争の時代。中国経済が急成長。最後のほうはリーマンショック。ネットの高速・常時接続化とともに電子商取引が普及。後半にスマホが登場。
日本:失われた10年だか20年だか。新自由主義と構造改革で活性化するつもりで失敗。宮崎駿だの押井守だの庵野秀明だのの商業的成功のせいか、いつの間にか「ジャパニメーションは日本が誇る文化」になった。
結局のところ団塊の時代は出生率が高かったんだから、その時代の制度に戻せばいいんじゃないかな。
"1948年(昭和23年)までは、一部の例外(強姦・姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊・中絶・不妊手術などの行為は、刑法で堕胎罪となり禁止されていた。1948年(昭和23年)に優生保護法によって限定的に容認して、さらに翌年の1949年(昭和24年)に同法は改正されて、「経済的な理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり、1950年(昭和25年)以降は出生率が低下していった。さらに戦後、結核など伝染病の予防法・治療法が確立されたことで青少年期における死亡リスクが低下し多産の必要性がなくなったことも、1950年代以降に出生率が低下した要因の一つであった。団塊の世代の母親までは、産婆による出産が主流であったが、昭和30年代には産婦人科医療による出産が主流となった[8]。"
ということは、
1, 産婦人科での避妊・中絶・不妊手術を堕胎罪として、刑法で禁ずる。あるいはなんらかの処罰規定を設ける。
2. 産婆による出産を復活させる。より具体的には、助産師のみでの出産介助を前提とした産科診療とする。産婦人科医師への負担軽減にもつながる。
でいいんじゃないの?
30~40年前は高等教育の費用はただ同然だった https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5531872.html
昔と今の貨幣価値が違うので何とも言えませんが、
1949年当時(60年前)は3600円でした。(ちなみにこのころ、上級国家公務員の初任給約3000円)学費が現在の貨幣価値に直すと、26万円くらい。
1963年には1万2000円。(現在の貨幣価値になおすと16万くらい)
そこから9年後にいきなり
1972年に3万6000円になりました。3倍のUP。当初からは10倍です。
そして、年々値上げされ、
2004年には各大学の判断で基準額に上下するようになった。・・・が、
妙なルールでみな横並び。今は53万5800円かな。
おや、昔は1か月の給料以下くらいだったのが、今では2カ月分の給料
ですね。
1/3.36 三分の一以下ですね。
ということで、事実です。
【4368153】昔の大学授業料はタダ同然であった!!! https://www.inter-edu.com/forum/read.php?1254,4368153
昔と言っても1978年ぐらいのことだが、
連座 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%BA%A7
連座(れんざ、連坐とも)とは刑罰の一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである。
なお、江戸時代までは家族などの親族に対する連座は縁座(えんざ、縁坐)と呼称され、主従関係やその他特殊な関係にある者に適用される一般の連座とは区別して扱われていた。
英語の"Collective Punishment"の訳語として、「集団罰(しゅうだんばつ)」「集団懲罰(しゅうだんちょうばつ)」「集団的懲罰(しゅうだんてきちょうばつ)」などの語も使われる。
国際法における制限
ジュネーヴ諸条約の第4条約(戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約、Geneva Convention relative to the Protection of Civilian Persons in Time of War of August 12, 1949)第三十三条では、紛争当事者が被保護者(当事国・占領国の国民以外。すなわち他国・地域の占領下にある人間)に対して集団罰を科すことを禁じている。
歴史を振り返ると、過去には日本でも連座の時代も確かにありました。
個人的には、心情として連座を望む気持ちも分かるが、実務としては連座を採用するのは反対の立場です。
山路という海苔屋のおっさんの仕掛けらしい。詳しくはここにある。
https://core.ac.uk/download/pdf/56643945.pdf
それでは実際の資料からはどうか。恵方巻は、その由来を鋭明するチラシや新聞記事では「江戸時代の末期から明治にかけて」の時期に誕生したと記述される場合が多い。これは、岩崎がまとめた由来からも分かるが、実際のところ、江戸~明治期にこの行事が存在したとする資料は今のところ見つかっていない。
これらの事実から推論を試みるならば、少なくとも大正期、戦前にはすでに存在し、大阪のごく限られた地域で行われていた風習であること、寿司屋がそれを利用して、古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動を当時から行っていた、ということはいえるだろう。
その後、太平洋戦争の激化に伴い行われなくなったこの行事は、1949年、大阪府鮨商協同組合によって、「土用丑の日のウナギのかば焼」に対抗する販売促進手段として復活している。そして、戦後復興が進む1950年代に入ると、戦中の配給統制によって解散を余儀なくされていた海苔問屋の組合が統制の解除をもって再結成され、その販売促進の手段として、節分の巻きずし行事の宣伝に参加するようになる。宮下牽の『海苔の歴史』には、大阪海苔問屋協同組合が1951年の結成と同時に「巻きずしの丸かぶり」の宣伝を行い、大きな成果をおさめたという記述がある。この「大きな成果」がどれほどのものだったのかは分からないが、海苔業界復興の旗印として、巻きずしは喧伝されていたようだ。
その後海苔問屋協同親告は、すし組合とも連携してこの行事の普及に努める。昭和40年代前半には、協同で飛行機をチャーターしてビラを撒いたりもしたようだ。しかし、この試みは経費がかかりすぎたために1度で終わっている。
海苔組合の取り組みがより積極的になるのは、岩崎の聞き書きによれば1977年(昭和52)になってからだという。そもそも、1974年頃までは海苔の国内生産は需要に追いついておらず、韓国産で不足分を補う状況だった。それが、国内生産が増大によって韓国産への依存が減り、1977年にはついに国内産で需要が賄えるようになったのである。これから先、さらに生産が増加すれば今度は余剰分が発生する。そこで、これ以降海苔組合は毎年大量のビラを印刷して各地に配布し、さらなる普及へと乗り出すようになった。
そしてこの海苔組合の動きと前後して1976年(昭和51)に、「節分チャリティーセール」なるイベントが開始されている。このイベントのメインは、大阪ミナミの道頓堀で巻きずしの早食いを競うという「巻きずしの丸かぶり早食い競争」。一見馬鹿らしいこの競争が、この行事を関西における節分の定番行事へと押し上げるきっかけとなった。
仕掛けたのは「昭和会」という、大阪で商売をしている昭和生まれの海苔販売業者たちで組織された団体だ。その中心人物の一人であった宝海苔(本社・大阪市中央区)創業者の三男、山路昌彦氏によれば、海苔がたくさん取れるようになって何とか消費を増やそうと思って考え付いたアイデアなのだと言う。「食いだおれの街で早食い競争なんて、いかにも大阪らしくて絵になるし、黙々と巻きずしにかぶりつく姿がオモロイやんか」という彼らの発想は見事に当たり、マスコミを引き込んでの一大イベントヘと成長する。海苔組合によるビラでの周知と、マスコミに取り上げられた早食い競争。この相乗効果により、節分の巻きずしは関西の伝統文化として認知されるに到ったのである。
また、山路氏は取材に釆たマスコミに丸かぶりの由来をたずねられると、「ずっと昔からやっていたものだ」と答え続けたのだという。「それこそ風習なんてこうやってできていくもんやないの」と語る彼の見解からは、大阪商人が持ち得た巧みな伝統利用の視点を伺うことが出来る。
ということで、商売人の「オモロイやんか」が伝統ということではたしかに大阪の伝統なのだけれど、そこまで古風なものかというとそうでもなさそうだ。花街に由来することとかその後の伝統としての受け入れられ方とか、原論文はかなり面白いので、増田、ブクマカ諸氏にはぜひ読んでほしいと思う。
「サボタージュ」、「間諜最後の日」、「平原児」、「西部戦線異状なし」、「祇園囃子(1934年)」、「祇園囃子(1953年)」、「雨月物語」、「東京物語」、「地獄門」、「青い山脈 」(1949年版)、「おかあさん」など
「ローマの休日」※、「戦争と平和」※、「シャレード」(1963年版)、「風と共に去りぬ」、「アフリカの女王」、「荒野のガンマン」、「ガンヒルの決斗」、「キリマンジャロの雪」、「エンブリヨ」、「ルーシー・ショー」、「ボナンザ」など
「セカンド・サイト光と影の中で(英語版)」、「ハングマン(英語版)
「カサブランカ」、「紳士は金髪がお好き」、「カンサス騎兵隊」、「片目のジャック」、「マクリントック」、「バリ島珍道中」、「雲流るるはてに」、「恋愛準決勝戦」、「白雪姫」
「岩窟の野獣」、「ガリバー旅行記」、「スーパーマン」(フライシャー・スタジオ製作分)、「ポパイ」(フライシャー・スタジオ製作分)、「まぼろし探偵」
「C.C.ライダー」
「シェーン」、「禁じられた遊び」、「オズの魔法使」、「凱旋門」(1948年版)、「イースター・パレード」、「雨に唄えば」、「真昼の決闘」、「ウィンチェスター銃'73」、「ピノキオ」、「バンビ」、「ファンタジア」、「ダンボ」
恐ろしく保守的だし、百年に一度の天才がやってきてエイヤっと条件出すと五十年は変化が無くなる世界。
ブローニングのコルトM1911が正式採用されたのは1911年だし、ストーナーがAR-15/M-16の原型を完成させたのは1956年だし、改良版のAR-18は1963年、CETMEとAK-47は1949年。新参で樹脂部品の劣化がないのかと度々話題になるグロックですら1979年。
これらのデッドコピーで銃器市場の2/3が語れて、米軍では3回か5回くらい代替品や強化版や発展コンセプトが提案されては「重い、壊れる、動かない」と却下されてるくらい、一度固まってノウハウを積み始めた設計が覆せない世界。
だから銃器にフォーカスするより話に集中するべき。漫画版エヴァでは「かっこいいし描くのが楽」というだけの理由で全ての小銃がHK G11だし、特に銃知識披露したいんじゃなければ、今だったら世界中どこでも何の話でもMk18とグロック19とAKMで全て済ませられるし、そうすべき。
国際卓球連盟(ITTF)は昔っから自らの競技の「政治利用」にわりと積極的な組織だ。
国際問題の調停を、競技を通して、かなり踏み込んだ立場でやろうとするとこがある。
ITTFは第一次大戦後、国際的融和ムードが支配的だった1920年代半ばに創設された。
初代会長はコスモポリタン的人物で、「スポーツを通して国の垣根を無くしたい」と公言。
40年以上にわたって在職し、組織の基底的な思想を決定づけた。
たとえば創設以来、世界選手権においては長年にわたって、表彰台での国旗掲揚・国歌演奏は行わないものとされていた
「紳士淑女の友好的遊戯」という競技的ルーツへの自負もまた、融和を尊ぶ姿勢を醸成した。
対日感情の極めて悪かった第二次大戦直後の1949年、いまだ占領下にあった日本の再加盟を、
国際競技団体としていち早く認めている。
「スポーツを通じて世界をつなぐ」積極的行動モデルとして結実させようとしたのが3代目会長の荻村伊智朗。
会長在任中は、91年世界大会に最初の統一コリアチームを実現させた他、
地球ユース選手権にてイスラエル・パレスチナ両国のジュニア選手に共同で宣誓させる等々、
末期がんによる死の一週間前にあってなお、病身を起こして会場に駆けつけた。
その後も国際的緊張の当事者同士を共に組ませて国際親善大会をしたりと言ったことを継続的にやっている。
またたとえ、国際的承認を十分に得られていない地域の協会であっても、
火中の栗を拾うことをあんま恐れない。
たとえばWikipediaの『コソボの国際競技連盟への加盟』の項を見れば、
2011年に当時の会長も「ピンポン外交は次の時代へ入った」とコメントしたように、
「競技の政治利用」すなわち「外交的融和を目指して自らの競技を積極的に活用してく」ことは、
ITTFにとっては継承されたレガシー、自覚的ミッションのおもむきすらある。
そこら辺を踏まえた上で、例の件について言うと、
まず先だって出された板門店宣言にスポーツの合同チームの結成が盛り込まれていた、という背景があり、
競技団体として、こういった特例を認めた場合の今後への弊害を考えることになるんだろうけど、
現実問題、ここまでの歴史的条件が揃って、大会開催期間とタイムリーに重なるということはそうそうあることではない。
前例化したとしてもそれを以ってなし崩しにはなりにくいと思われる。
そしてコソボ承認の件もそうだが、国際問題に先陣切ってコミットすることを恐れない連盟の体質。
むしろ今後に続くであろう統一チームの流れに先鞭をつける機会を、
わざわざこのような特例措置を用いてまで自分たちが最速で提供することに、
使命感とか陶酔とか覚えててもおかしくない。いやまあ偏見だけど。
選手たち当事者には、やっぱりアンフェアじゃないの、という権利は正当にあると思う。
しかし現時点で報じられる限りでは女子日本代表に動揺はないという。
日本卓球協会側も「スポーツを通した世界平和を目指している」「歓迎したい」とか受容的コメント。
本音は、とか言い出したらキリはないが、卓球界に長年育まれてきた感覚ではこんなものかもしれない。
卓球界では過去に複数回、統一コリアチームが結成された前例があり、心理的に受容の土壌もある。
それに実際、日本女子の実力から言えばことさら動揺する必要もない。
んなこと言ってると91年大会の中国みたいに足元すくわれるけどな!
今回の合同劇が卓球界の受け継いできた流れのひとつの結実だとするなら、
荻村の母国である日本が真向からそれを受けて立つのも、ある種の本望、度量の見せどころ--なんて言うのは
前川喜平・前文部科学事務次官が加計学園の獣医学部に博士課程が設置されていないからけしからん!と怒っているので、
近年の新設された大学において大学院はいつ設置されたか調べてみた。
新設が非常に多いので結論から言うと、非常に数が多いため一部しか調べられなかったが、
調べた限りでは大学新設と同時に大学院が設置されているところはなかった。
新設された4年後に設置されるかといったら、そうでもない大学もあるし、そもも未設置の大学も多い。
また『短期大学』が『4年生大学』に転換したところが多いため、新設大学が多いように感じる。
【参考情報】 新設大学等の情報:文部科学省
■21年度開設
千葉県立保健医療大学 ⇒ 未設置
弘前医療福祉大学 ⇒ 未設置
日本赤十字秋田看護大学 ⇒ 平成23年度設置 ※大学院設置基準第14条特例の実施 (短大卒業者向け?)
東都医療大学 ⇒ 未設置
こども教育宝仙大学 ⇒ 未設置
びわこ学院大学 ⇒ 未設置
■22年度開設
東北文教大学 ⇒ 未設置
横浜美術大学 ⇒ 未設置
■23年度開設
日本映画大学 ⇒ 未設置
京都華頂大学 ⇒ 未設置
宝塚医療大学 ⇒ 未設置
<追記>
指摘を受けて追記。
・北海道医療大学 ⇒同時に設置
2013年 リハビリテーション科学部(理学療法学科/作業療法学科)開設
2013年 大学院リハビリテーション科学研究科リハビリテーション科学専攻修士課程開設
■私立獣医学部に関しての大学院設置状況
同条件である私立大学の獣医学部で確認した所、基本的に大学と院は同時設置されておらず、
博士課程に関しても後年に設置されている。
同時設置しなければならないと言う法律や規則が無い以上、後年に大学院が設置されても問題ないかと思われる
大学は届出設置制度である以上、大学設置時に大学院(修士、博士)もまた設置しなければならない、
という規定が無い以上、前川氏の「博士課程もないのに先端研究ができるわけがない」という発言には
認可してはいけないという根拠は薄いと思われる
・酪農学園大学 ⇒11年後設置
http://www.rakuno.ac.jp/outline/about/development.html
学部 1964年(昭和39年)設置
大学院 1975年(昭和50年)設置
※博士課程 1981年(昭和56年)設置
・北里大学 ⇒4年後設置
https://www.kitasato-u.ac.jp/jp/about/overview/history.html
学部 1966年(昭和41年)設置
大学院 1970年(昭和45年)設置
※博士課程 1972年(昭和47年)設置
・麻布大学 ⇒7年後設置
https://www.azabu-u.ac.jp/about/history.html
学部 1950年(昭和25年)設置
大学院 1957年(昭和32年)設置 (院設置のみ?)
※修士課程 1960年(昭和35年)設置
※博士課程 1962年(昭和37年)設置
・日本獣医生命科学大学 ⇒歴史が古すぎるため参考。修士/博士同時設置
http://www.nvlu.ac.jp/universityguidance/002.html/
1881年(明治14年)設置 (日本最初の私立獣医学校・獣医学校)
大学 1949年(昭和24年) 設立 大学院 1962年(昭和37年)設置
※博士課程 1962年(昭和37年)設置
・日本大学 ⇒設置時期不明
院設置時期の記載が見当たらない
一、まえがき
今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。
19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動(1860年代初頭から約30年続いた)はうつわの表面の改良(中体西用)を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦で再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。
20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。
二、我々の基本理念
中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。
自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。
人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。
平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。
共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。
民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。
憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。
中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。
三、我々の基本的主張
そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。
1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。
2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分な自治を実施する。
3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。
4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。
5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。
6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。
7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。
8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。
9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。
11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。
12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体〔宗教活動場所を含む〕は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。
13、国民教育:一党統治への奉仕やイデオロギー的色彩の濃厚な政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。
14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。
15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。
16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。
17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。
18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。
19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。
四、結語
中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。
(括弧)内は訳注。
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/8f95023140c18356340ca1d707aa70fe
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/84859dc4e976462d3665d25adcd04987
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/d5a614fa9b98138bb73cd49d3e923b40
(転載自由、出典明示)
元増田じゃないけど、回天の黒島亀人や桜花の大田正一は右左関係なく人間のクズだから
そんな無理して擁護しなくてもええと思うんだが
・黒島亀人
黒島は終戦時に宇垣纏の日記『戦藻録』の一部を勝手に処分している。
黒島は極東国際軍事裁判の証人として出廷するために借りたいと遺族から受け取り、該当部分のみ電車に置き忘れたとしているが、黒島は裁判に出廷していなかった[65]。
連合艦隊通信参謀・市来崎秀丸からも連合艦隊電令作綴を受け取り焼却処分している[66]。
何らかの保身のため、黒島にとって都合の悪い部分が書いてある箇所を処分したのではないのかと指摘されている
・大田正一
8月18日、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に突然乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。
大田は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。
大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し漁船に救助され生還。
行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて別人を装っ た(ただし、生涯無戸籍のままであった
妻時子の入婿になればいいと勧めたが、「実は他に女がいます。子供も一人」と答えた。
三男が生まれる前後の1949年(昭和24年)6月に北海道へ小豆を買いに行くと言って大金を持って消えてからは音信不通になった。
24年組(にじゅうよねんぐみ)は、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群を指す。
「花の24年組」とも呼ばれる。
年齢や作風において彼女らの後輩に当たる女性漫画家たちは「ポスト24年組」と呼ばれている。
青池保子(昭和23年生)、萩尾望都(昭和24年生)、竹宮惠子(昭和25年生)、大島弓子(昭和22年生)、木原敏江(昭和23年生)、山岸凉子(昭和22年生)、樹村みのり(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、山田ミネコ(昭和24年生)、増山法恵(昭和25年生)
水樹和佳(昭和28年生)、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子(昭和28年生)、佐藤史生(昭和27年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
誤用ではありませんでした
謹んでお詫び申し上げます
「恣意的 誤用」で検索すると非常に沢山の記事が出て来ます、もう何年も前から有名な話なんですね
こんな有名な誤用も知らずに自分は今の今まで、ドヤ顔で「恣意的に~」とか使っていたわけです
正しい意味を知っている人たちは誤用を見るたびに内心笑っていたことでしょう
本当に恥ずかしい……
以下正しい使用例です
「恣意的」であるとは一貫した思想に基づかずその場限りの考えに基づいている点で、明確な目的をもった「意図的」とは区別されるべきである
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%D7%F3%B0%D5
『恣意的』という言葉は、文中での登場の仕方が似ているせいか意図的、作為的、故意とという意味で使われることがあるが、恣意的には、無作為や定まった意図がないというニュアンスがあり、正しくない
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%81%A3%E6%84%8F%E7%9A%84
▼「恣意的」を「意図的」と同じ意味で使ってる人は低学歴 「恣意的」は「偶然に」という意味ですよ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1343400752/
自分や誰かの行動の理由が説明できない(と思われる)ときに使います
▼恣意的の読み方は?皆が誤用しているその意味とは?反対語は?
http://rubeusu-trend.com/1709/
▼どうして意図的って書かないの?
「勝手気ままに」「任意に」「ランダムに」「自分勝手に」「無作為に」「その場その場の思いつきで」
http://blogs.yahoo.co.jp/delightful_mikan/60763792.html
▼【誤字等の雑記帳 3】
深く考えず、でたらめに行動している様子
分かりやすく2点書き出すとすると
ということらしいです
つまり「意図的」という言葉に置き換えてもニュアンスこそ違えど意味が十分に伝わる文章や、"偶然に"といった意味が含意されていない文章は誤用ということですね
ではここからは誤用だということも知らずにドヤ顔で「恣意的に~」とか言ってる日本語の下手くそな馬鹿達を見ていきましょう
▼****さんのツイート
まずは個人です、まあ可哀想なので晒さないであげますが、NHK批判の前に自分の言葉を直してほしいですね、思いっきり誤用しています
▼政府、年金運用情報を開示へ…懸念払拭の狙い : 政治 : 読売新聞
次は世界最多の発行部数を誇る読売新聞、なんと振り仮名まで振って誤用しています、これは恥ずかしいですね、情報公開で偶然性を廃するなんて意味不明ですからこれは言い逃れできません
▼フェイスブックのニュース表示 恣意的と指摘で調査 | NHKニュース
フェイスブックが利用者の画面に表示するニュースについて共和党の政治家の話題を避けるなど恣意的(しいてき)に選ばれているとアメリカの一部のメディアが伝え、内部で調査が進められることになりました
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520761000.html
言葉遣いには厳しいはずのNHK、なんと表題で誤用してます、相当恥ずかしいですね、しかもこれは"偶然に"という意味だったとは絶対に言い逃れできない誤用です、NHKしっかりw
▼「哲學研究入門」小石川書房 - 1949(昭和24)年9月30日発行
併しこういう歴史的現實の把握は全く恣意的な直觀に訴えるわけにはいかないから、そこに類型的了解ということが必要になって來る
京大名誉教授、矢田部達郎先生が1949年に上梓した本の一節です、旧字体でカッコつけてる割には普通に誤用してますね
場当たり的な直感っておかしいですし、明らかに「作為的な」という意味で使っています、先生どんまい
全文読めばわかりますが、明らかに偶然性など含んでいませんし、自分の思うままに~という典型的な誤用例と同じ形で使っています
皆さんご存知、坂口安吾の文章です、文意にはまったくもって「ランダム性」など含まれていません、典型的な誤用ですね
▼油脂の浪費は法度監視制を創設 : 帝国油糧重点統制要綱決る : 化学 日本産業経済新聞 1943.4.14
地方割当民需(雑工業油、食料油等)の割当を、地方官吏の低度観点、古めかしい実績主義、業者請託による虞あるが如き恣意的割当等に委せない制度の確立
▼日支政府相呼応す : 社説 - 大阪朝日新聞 1940.3.31
思うに、今般反共和平建国親日政府の樹立の挙たるや、他国家のロボット政権として恣意的に駆使するていの意図によるものでもなくてさりとて戦争相手国政府として講和談判の衝に当っているわけでもない
▼減債基金存廃問題 大阪朝日新聞 1916.11.22(大正5)
経常費とす可しというにあり、乍併這は既にシェフレーの言えるが如く国債償還費は恣意的に定む可き最可動的の臨時費として各年の予算状態に応じ国家余裕を考察し大小有無伸縮的に定めらる可く
大正の新聞記事です、「ほしいままに~」という意味で使っています、偶然やランダム性などという意味は含まれていません誤用ですね
ちなみにこの大正5年の使用例が調べる限りでは最も古い「恣意的」の使用例となっています
つまり「恣意的」という言葉は一番最初に使われた時、生まれた瞬間から誤用されていたんですね
そしてこの大正5年から2000年頃まで、1世紀近くの間、ほぼ全ての使用例が誤用となっています
酷いですね
正しい使い方、本来の意味で使われるのは2000年以降、ネットが普及してからになります
とか
とか言って正しい使い方を普及してくれています
ありがたいですね
皆さんも誤用には気を付けましょう