はてなキーワード: 第一次大戦とは
まあ個人的には必修でなくてもいいよなというのは同意で。「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話は後づけされた理由じゃないのかなあ……と。
ブコメでも書いたけど、20世紀初頭あたりまでは自然科学系でドイツ語やフランス語(特にドイツ語)が強くて、理系でも第二外国語としてこれらを抑えておかないと最新の動向を追うのがきつかった時代というのはあった(はず)なのだよな。"pH"の読み方が長らくドイツ語寄りだったあたりとか医師用語のドイツ語由来が多かったりとかもその名残り。
で、第一次大戦・ヒトラーによるユダヤ人迫害・第二次大戦という流れの中で欧州大陸から米国へ研究者が大量に流出し、さらに冷戦期のアメリカで学術振興策が当たった結果、現在のような「研究論文は英語で書くのが当然」な時代になった。
このあたりを定量的に検証しているデータは無いものかなと思って探していて見つけたのがこれ。化学での使用言語推移。
1961年からのデータなので上の流れがある程度定まったあとの情報ではあるものの、1961年時点でも英語の割合が43%程度なのだよな。あと冷戦期なのでロシア語割合が18%と高いものの、20世紀初頭のドイツ語圏のような「その分野での圧倒的な強さ」みたいな印象はあんまり無い(おそらく、東欧の研究者が論文書いたときに「まずロシア語誌に投稿」」みたいな感じの仕組みがあったんじゃないかな)。
そして1980年には英語割合が60%超え、1985年には70%超え、1995年には80%となり、「研究論文は英語で書くのが当然」 「研究動向を追いかけるには英語読めれば十分」が確立された(元のデータはあくまで化学だけど自然科学や工学系一般でも多分同じことが言えそう)。
話を第二外国語に戻すと、必修なのは、制度ができた当時(旧制大学時代?)に必要があったからでしか無いんじゃないかなと。これで思い出すのが「履歴書は手書き」問題で。
https://nordot.app/961097046650388480
戦前の履歴書は毛筆が当たり前だったのを「事務処理に必要とされるのは毛筆ではなくてペン字だろ!」という合理的な理由で改革したものの、手書きよりワープロなりPCなりでの書類作成能力が必要とされる時代になっても「ペン字でなければならない」という後づけ理由が発生した。第二外国語を必修する理由としての「英語以外の言語を通じて英語を相対視することが大事」的な話にも同じような印象を感じてしまうんだよな。
あと、「研究論文は英語で書くのが当然」 時代が将来的にいつまで続くかは分からないけど、この時代が終わったときの研究者サバイバルに第二外国語が効くか?というと微妙な。
いや、戦争でオスが大量死すると、メスは庇護者を増やすために大量出産するんで、人口は急激に伸びるんだよ。これは第一次大戦後の欧州でも明らか。
連合国が巧妙なのは、ララ物資を嚆矢として、日本人に過剰な餌を与えて人口を爆発増加させつつ、サンフランシスコ条約で日本の領土拡張を防いで人口の内部崩壊を企んだわけ。
閉鎖空間で爆発的に増殖した哺乳類が、自発的に交配・生殖をやめて絶滅するのは、すでにネズミなどで何度も実験・検証されている。
日本人はまさにその状態で、限られた土地や職を奪い合う受験地獄・通勤地獄を経て、やがて出産をやめてしまったわけだ。
他にも皇太子誕生日での戦犯死刑執行から著作権の戦時加算、国連憲章での敵性国家の名指しなど、連合国が日本に仕掛けた罠はたくさんあるので、もう少し歴史を勉強すると良いと思うよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240427031516
gryphon 面白く読んだが2点。「…付託されたが、その後本格的な審査…ない」は議会が駆引と日程で動く以上あり得る話で「付託」時点で一定水準の議論と推定可能か/米上院(各州2議席)等「平等選挙原則」は前提にせずとも可
平等選挙原則の話はあとに回す。議会が駆け引きと日程で動くのであれば、付託は政治的取引の結果と解することもできるような気がするというのはともかくとして、確かに議会の駆け引きの結果たなざらしにされているという可能性はある。そこで、先の2008年提案をもう少し細かく読んで見た。
https://dserver.bundestag.de/btd/16/098/1609868.pdf
よく読むと、この提案は、基本法や関連法規の改正を連邦政府に促すべきだという「決議」の提案であり、基本法改正の条文を並び立てる案ではない。条文も具体的な制度設計も伴わない提案を一定水準の議論と言って良いのか。だから賛否も問われずにたなざらしにされたのではないだろうか。以下の文章以外は、提案の理由(いわゆる「世代間正義」の実現が主のようだ)が長々述べられているに過ぎない。
II. Der Deutsche Bundestag fordert die Bundesregierung auf, einen Gesetzentwurf zur Einführung eines Wahlrechts von Geburt an durch Än- derung des Artikels 38 des Grundgesetzes und erforderliche weitere gesetzliche Änderungen, insbesondere im Bundeswahlgesetz, vorzulegen. Für den Fall, dass die Eltern sich in der Ausübung ihrer Stellvertreterposition in Bezug auf das Kindeswahlrecht nicht einigen können, wird die Bundesregierung aufgefor- dert, eine einfache und beide Eltern möglichst gleichberechtigende Regelung zu schaffen.
連邦議会は、連邦政府に対して、基本法第38条と他の必要な法律の改正、特に連邦選挙法の改正を通じて出生時からの選挙権を導入する法案を提出するよう求める。両親が子の選挙権についての代理権行使[の方法]について一致できない場合のために、連邦政府には、簡単かつ両親双方に可能な限り同権的な規則を作成することを求める。
ちなみに、Wikipediaドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Familienwahlrecht)を見て知ったのだが、2003年にもほぼ同じ提案がされている(https://dserver.bundestag.de/btd/15/015/1501544.pdf)。
こうして経緯を調べてみると、議会の妥協ゆえにたなざらしにされているというよりも、5年経って具体的な案も詰められなかったというのが現実であるように思われる。
「国会で」とか「政府で」という枠を外して学界に目を転じると、確かにドイツ人らしく(?)真面目に議論されているみたいだ。前回の調査局の報告書には、数は少ないながらこの問題を直接的に取り扱った論文がいくつか引用されていた。彼らが議論しているのは基本法の定める民主国家原理に反するのか、それを促進できるのかという点である。問題は、そうした真面目な議論をきちんと踏まえた上でドイツ人ができなかった(ように見える)平等選挙の原則に反しない提案を考案するどころか、子が3人だから私は4票(吉村氏)などと賛成派のドイツ人も避けようとしている発言をしてしまっていることだ。
さて、平等選挙の話に戻る。アメリカの上院は人口にかかわらず一州に2議席である。しかし、このような例があるから平等選挙は必ずしも民主主義の前提ではないというのに私は強い疑問がある。
第一に、合衆国憲法の上院の議席分配については、アメリカ連邦制特有のものである。アメリカのような連邦制をとらない日本でこの例を出すことは不適切だろう。
第二に、アメリカの上院の議席分配が不平等であることは、当のアメリカ人も不満を持っている。たとえば有名な政治学者ロバート・ダールの『アメリカ憲法は民主的か』(邦訳が岩波書店からある)は、上院議員が人口に比例していない「顕著な不平等代表」であると述べる(邦訳58頁以下)。この仕組みは合衆国憲法制定時に諸州の妥協(いわゆるコネティカット妥協)で作られたわけであるが、そもそも、合衆国憲法は民主主義が大事にされる時代に制定されたわけではないというのが時代背景としてある。合衆国憲法が制定された時代には、不平等な選挙制度は普通に見られた。ダールは一例として、19世紀に存在した悪名高いプロイセンの三級選挙法を引き合いに出している。三級選挙法は、平等選挙を求める激しい非難を浴びながらもしぶとく生き残っていたが、第一次大戦の敗北と共に消え去ったのである。選挙権は与えるが露骨にユンカーと資本家の票を優遇するこの仕組みは極めて有名であり、今でも平等選挙の反対概念である差等選挙の一例として三級選挙法はよく言及される。今さら民主主義が大事にされていたわけではない時代にできた妥協として生き残っているものを引き合いに出すのは、民主主義者の行動としてはおかしなものだと思う。ちなみに、ドイツの連邦参議院(上院)は、ある程度の人口比例的に各州に議席が割り振られることになっている(また、そもそも連邦参議院はアメリカの上院ほどの権限はない)。
ケルゼンも言っているが、民主主義は人々の平等をもって本旨とする(古代のギリシアの民主政も突き詰めれば平等に行き着くだろう。民主政を表すもう一つの言葉はイソノミア(平等の法)である)。選挙権の平等は民主主義と切っても切れないのであり、ドイツ人が平等選挙に反しないように「代理」と言っているのは、ドイツ基本法(憲法)20条に抵触するのを避けるためだけではないだろう。もし平等選挙の理念を取っ払うのだとすれば、金持ちが結託して再び三級選挙法のような仕組みを導入されても文句は言えない。むしろ今般の眠たい提案よりも金持ちを守るための露骨な提案の方が議会を通りやすいだろう。平等選挙を引っ込めてはならない。
選挙権の平等に歪みを加えるような制度改正をしても、政治的影響力を増すのは「代理」する大人であり、子どもではないという現実を見るべきだ。若年者の「世代間平等」とやらを図りたいのであれば、方法は一つである。「代理」などという回りくどいことなどせず、選挙権の年齢を下げることだ。16歳、(オーストリアで検討されている)14歳、あるいはその下でもいいが、子どもが投票の意思表示をすることができるギリギリまで下げてみることを提案されたい(ちなみに私は、14歳くらいまでなら割とすぐにでも引き下げて良いのではないかと思う)。
(ついでに)
意思表示の能力がない子どもは排除されるのになぜ意思表示の能力のない人(たとえば重度な認知症の老人)が選挙権から排除されないのかという疑問を持つ人もいるらしい。理論的にいえば、確かに意思表示の能力のない人は選挙、つまり国家意思の形成に参与する資格はない(実は理論的にいえば子どもか老人かは選挙権の決定に直接関係するわけではない)。そうすると、なぜ2013年の法改正で成年後見人の選挙権が回復されたかという疑問がわきそうだが、後見はあくまで財産管理上の能力があるか否かの問題であり、政治的な意思表示の能力があるかとは厳密にいえば関係ない※。要は、現状、意思表示の能力のない大人を選挙権から排除する仕組みはないと考えなければならない(もっとも、実際には政治的な意思表示が一切できないなら投票所に来られまいし、投票所に来ても何もできないだろうが)。
憲法が成年(ここでいう成年とは民法上の成年をいう)に選挙権を保障するのは、成年であれば政治的意思表示の能力があるだろうという線引きを採用しているからである。こうした年齢によって能力の有無の線引きにするのは、一見すると確かに問題がある。子どもでも賢い子はいるし、大人でも愚鈍な人はいる。思考実験としては、年齢にかかわらずすべて政治的な意思表示の能力がある人をテストで判定し、テストに合格した人にみに選挙権を与えるということも考えられる。ただ、どのような方法でテストを組めば公正に政治的意思表示の能力があると見なせるかという問題が生じる。このようなテストを実際に恣意的に活用して実質的に黒人の投票権を奪っていたのがかつてのアメリカ南部諸州であったことを忘れてはならない。
結局、年齢によって形式的に線引きする方が、ヨリ問題はすくないように思う(年齢よりも問題を起こしにくい線引きの方法があったら教えてくれ)。あとはどこまで下げられるかを真剣に考えることだ。
なお、日本国憲法15条3項は、成年者には選挙権を与えなければならないとだけ言っており(公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する)、未成年者に選挙権を与えることを禁じていない。これは、ドイツ基本法38条2項が、「満18歳の者は、選挙権を有する」と定めていることと対照的である。年齢の引き下げなら日本では憲法改正など必要なくすぐさまやれることなのに、わざわざ憲法改正どころか民主主義の根本原理を改変するような提案をしてくるのは、何かおかしな底意があるのだろう。
※これは思いつきだが、禁治産者が選挙権から排除されていたのは、財産を持つ有徳の者にだけ選挙権は与えられるべきであるという制限選挙時代のBesitz und Bildungの観念に由来するのかな。いずれ調べてみたい。
未だに「マルクをたくさん刷ったからハイパーインフレになった」という説明が成されてると聞いて
第一次世界大戦時のインフレの進行は通貨発行量の増加とあまり関係が無い
資料の引き写しだが
1914−1918(開戦から休戦まで)
貨幣発行:4.4倍
輸入物価:2.1倍
貨幣発行:1.6倍
輸入物価:1.7倍
1919−1920(ベルサイユ条約調印から1920年2月まで)
貨幣発行:2倍
輸入物価:19倍
1920−1921(1920年2月から連合国の賠償金最後通告まで)
貨幣発行:1.5倍
1921−1922(最後通告から1922年7月の賠償金支払い交渉まで)
貨幣発行:2.5倍
輸入物価:9倍
1922−1923(1922年7月ー1923年6月いわゆる天文学的ハイパーインフレの始まりまで)
輸入物価:225倍
レンテンマルク発行、ハイパーインフレ沈静化
とまあ通貨発行とかと物価が直接関係してないのはわかっていただけると思う。端的に言えばみんなが知ってるドイツのハイパーインフレを引き起こしたのは紙幣をたくさん刷ったからというのは原因に対する対応である。ルール進駐による経済ダメージこそがハイパーインフレの源である
https://www.yomiuri.co.jp/column/history/20220921-OYT8T50046/
ユダヤ人のパレスチナ帰還が始まったのはオスマントルコ統治の時代
オスマントルコは宗教に寛大で、税金さえ払えば信教の自由はあった
レバノンのあたりはキリスト教徒も多い(カルロスゴーンはその子孫)
パレスチナにもイスラム教徒、ユダヤ教徒が混住し、新規にやってきたユダヤ人は土地をイスラム教徒から買い取って住み着いた
決して暴力で奪い取ったわけではないし、そんな武力は持っていなかった
第一次大戦に負けたオスマントルコが解体されて、パレスチナはイギリスの信託統治領になった(ユダヤ教徒とイスラム教徒は混住)
第二次大戦後にイスラエル建国に伴い、イスラエルとパレスチナの領域が国連により分割された
これに不服をもってイスラエルを消滅させるべく攻め込んで、返り討ちにあったのが第一次中東戦争
自国の存在を抹殺しようとして攻撃してくる連中に反撃して勝ち得た占領地を、無償で返すだなんてお花畑は九条信者の日本人くらい
当時のドイツは地勢的に西にフランス、東にロシアと挟まれており、
そのような状況は絶対に避けねばならなかった。
さらに西側のポーランドなりハンガリーなりとことを構えるようなものである
その作戦の骨子とした。
かなり無理のある計画のように思えるが
しかし普仏戦争では実際にパリを陥落させてフランスを降伏させた結果として
ただ実際の第一次大戦では、
このシェリーフェンプランをもとに修正された少モルトケの作戦計画で持って
フランス侵攻が行われたが戦前には予測できてなかった様々な障害により
またロシアの予想以上に早い動員によりドイツ帝国は東西に長大な戦線を抱えることになる。
このような極めて困難な状況である両正面作戦を主人公が属する国家が意図的につくりだしたものである
あれはどういう設定によるものだったのだろうか?)
そうじゃないよね?
「戦争反対」っていう人の中には「いざ攻められたら戦うけど、戦争反対」の人も多いと思う。
だって、戦争って勝っても負けても庶民は大損じゃん。戦中はみんなが大嫌いな共産主義みたいな方法で暮らすことになるし、今の超勝ち組みたいな抜け目ない連中しか得しないよ。今の弱者はもっと弱者になる。
…若い頃は自分も「戦争みたいな緊急事態になったら、おれ、本領発揮できちゃうかな」とか思ってたけど、多分まあ無理だわ。リアルに考えたら、ゴミみたいに扱われるだけだと思う。
もう、今の暮らしが嫌で破れかぶれで「戦争来てほしいな」とか思ってるなら、
大岡昇平『野火』とか、井伏鱒二『黒い雨』とか読んだ方がいいよ。
って書くとあれは負け戦だろって言う人がいるから勝った側のも書いてみると、『悪童日記』、『戦争は女の顔をしていない』とかでもいい。
だいたい第一次大戦時の日本の庶民は、今の庶民みたいに戦争の煽りを受けて生活苦しくなってたんだよね。富裕層は儲かってたけど。
んで、戦争で負けたら、富裕層もみんな損する。国の立て直しのために財産取られるからね。うちの一族、大損したクチ。ほんと、戦争は嫌だよ。
日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。
私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。
淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。
君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。
君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。
「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。
語り継ぎね。
第一次世界大戦の反省からきた、第二次大戦以降のとりくみやね。
第一次大戦はマシンガンやら航空機の実践投入のせいで、ヨーロッパにおいてそれはもうすごい死人がでたから、これはもう戦争とかやめようって空気になった。これだけの空気になったらもう戦争はおこらんやろ、と皆おもってた。国連の前身みたいなやつもできたし。
ところが第二次大戦だよ。沢山死んだし戦争やだ~~~って思ってたジジババが死んで居なくなったら、空気も消え去っちゃて、案の定普通にまた戦争しちゃったというわけ。
それを防ぎたい、という試みが語り継ぎ運動やね。
爺ちゃん婆ちゃんに口をつぐませてたら、戦争いやだ~~って空気が伝わらない。
そういう話を積極的にしてもらおうという訳だ。
元増田は無理やりやらせたとか言うけど、戦争しないためだったらジジババも協力したよ。だって戦争嫌だったから。
今、こうしてまた第二次大戦のジジババが死んでいなくなる時代を迎えてみると、まあ効果はなくはなかった、でも十分とはとても言えないというところか。
ビートルズのイマジンが代表的だけど、20世紀のリベラルたちには「戦争は戦争好きな戦争をしたい人たちが起こすもの」という前提があったんだよね。でもどうやらそうじゃなかったと思う。大多数が戦争をしたかろうがしなかろうが、起こるものは起こる。
欧米がナチスをことさら悪に描くのは、欧米の悪を隠すのに都合がいいからだよ
そもそも論だけど第一次大戦前のドイツは、あの時代にしては欧州の中ではましな国だったわけ
世界中で植民地しまくってたのはイギリスとかフランスとかでドイツは大航海(植民地)時代に乗り遅れた組なんだよね
それでいろいろあっての第二次大戦後ですよ
価値観がひっくり返った
帝国主義は悪いとか言い出した(もちろんそんなのは戦前にもあったんだけどね)
あいつらを倒した俺らはマシだよねっていう逃げをしたのよ
問題を相対化して自分たちの正当性を確保する、ナチスを批判することで自国への批判をごまかそうってなるわけよ
アメリカが原爆は悪の日本を倒すためにしたことで正義だって逃げるようにね
世界で散々なことやったのってドイツというよりはイギリスですよねみたいなツッコみは勉強してれば当然出てくるよね
ベルギーのアフリカ植民地政策がやばいとか、いくらでもいえるんだけど結局それらをぜんぶドイツにぶつけて逃げてたのが戦後の欧米なんだよ
最近イギリスでは大学に植民地支配の象徴であるイギリス女王の肖像画を飾るなとかでもめたり、ナチスドイツ以外の欧米への姿勢が批判されるようになったのは最近だよね
70年前に枢軸国にさせてたことを、連合国が今頃になって謝罪してるわけ
そんなナチスウォッシングを今盛んにやってるのがロシアなんだよね
ナチスって自分たちの悪を正当化するアイコンとして便利なんだよ
>かつては新聞紙上でも戦前は溢れんばかりに決闘の報道が行われており、イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。が第一次大戦は大量殺戮戦となり、決闘文化は衰退し、戦後は死者が出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている
ウィル・スミスの事件は平手打ちだったが、メディアのはやし立ては変わっておらず、現代の決闘は同情票の多少で勝敗を決めるがごとくだ
しかしダニエル・デフォーやウォルター・リップマンの存在は組織的言論操作は可能であることを示しているし、イギリスのタヴィストック人間関係研究所(ロックフェラー系)などの関与も考えられなくはない
さておきクリス・ロックを擁護すれば差別ジョークが助長されかねないが、あのジョークは差別解消という公共の福祉に反する罪にあたるだろうか
一方「将来起こりうる危険のリスク判断」は行政や議会の研究所の役割で、司法は「具体的な被害実態」や数字がなければリスク判断をしない
昔は「カトリック神父」が倫理を説いて被害リスクを低減しようとしていた(ただ性的虐待や農地独占などの腐敗はあったらしい)
「ユダヤ・プロテスタント」が復権し聖書原理主義になってからは善悪判断は法律に基づき法曹が行うようになったものの、魔女裁判や四番崩れが発生した(ポピュリズム行政司法)
さて日本国憲法などは官吏や裁判官の地位を相当に保護しているが、それが正しいだろうか
また、司法権という武器を持つ法曹は、法律を作る議員になれる「文民」であると言えるだろうか
四番崩れを合憲化しうる、独立の憲法裁判所をもたない司法制度は正しいだろうか
16世紀:ポーランド「なんや荒野に『コサック』っていう連中が住み着いてオスマン帝国を襲撃して略奪しとるわ…怖…」
→ポーランド「自治を認めたるからワイらのためにオスマン帝国と戦ってくれや」
1648年:フメリニツキー「ポーランドの貴族どもが横暴やからコサックのみんなを集めて独立するで!」
1654年:フメリニツキー「同盟しとったクリミア国に裏切られたから、ポーランドに対抗するにはロシアの保護下に入るしか無いわ…」
→ロシア「共通の先祖から分かれた兄弟がまた元通りひとつになれたんやね(にっこり)」
→ロシアとウクライナの共通の源流にキエフ大公国があり、ロシア的には「生き別れの弟が兄を慕ってやってきた」みたいに受け取ったらしい
1656年:フメリニツキー「スウェーデンに対抗するためにポーランドとロシアが同盟結んだんやて! ほならスウェーデンと同盟してまた独立や!」
1657年:フメリニツキー「と思ったけどワイはこれまでや…ほな…」→死去
1667年:ヘーチマン国家「フメリニツキーが死んだら内戦続き、結局はポーランドとロシアに分割されてしまったやないけ…こらあかんわ…」
→以降、ポーランド側は「右岸ウクライナ」、ロシア側は「左岸ウクライナ」として統治され、徐々に自治権を奪われて滅亡。
1783年:ロシア帝国「ワイら上り調子で『ロシア帝国』名乗らせてもらってます。そんでオスマン帝国に勝ってクリミア半島も併合したったで!」
→オスマン帝国支配下にあったクリミア・ハン国がロシア帝国に併合される
1793年:ロシア帝国「かつての強国・ポーランドも虫の息や。戦争に勝って右岸ウクライナをもろたで!」
1853年:ロシア帝国「オスマン帝国と戦争してたら何故かイギリス・フランスとも戦うはめになってしまったで!」
→ロシア帝国「クリミア戦争はほとんど負けやった…ワイらは遅れとるわ…」
19世紀:ウクライナ「周りの国は民族主義とか国民国家とか盛り上がっとるみたいやで…ワイらもそろそろ『コサック国家』の復活を目指すべきちゃうか?」
1917年:ロシア帝国「第一次大戦では敗色濃厚…何もかもうまくいかんまま共産主義者どもにやられてもうたわ…ほな…」
1918年:ウクライナ「うおおおお!!! これを機にワイらは独立するで!!!」
1922年:ソビエトロシア「ソビエト連邦っちゅうのをつくるんでウクライナくんも参加してくれや」
1932年:ウクライナ「作った小麦がぜんぶロシアに奪われて飢饉がヤバいねんけんど…」
1941年:ウクライナ「ワイらの国が戦場になって国民が死にまくっとんのやけど…」
1986年:ウクライナ「ワイらの国に建設された原子力発電所が爆発したんやけど…」
1991年:ウクライナ「ソ連が崩壊した! ついにワイらが独立するときが来たんや!」
2004年:ウクライナ「独立したとはいえ未だロシアの影響は大きい…EUに加入すべきやないか?」
→親ロシア派が当選した大統領選への抗議運動が盛り上がり再選挙で親EU派が当選(オレンジ革命)
2010年:ウクライナ「あれから親EU派は内部抗争でグダグダしとるで…今回の大統領選はどうなるんや…」
2014年:ウクライナ大統領「マジで経済がヤバいんや! EUよりも今はロシアから融資をもらっとこうや!」
→ロシア「親ロシア派が多いクリミア半島は『もうロシアに入りたい』言うてまっせ」
→クリミア「ワイらはウクライナから独立してロシアのお世話になりますわ」
第一次大戦の終結でハンガリーからハプスブルクが消え、ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国が出来た
するとルーマニア軍が首都を占領したが、撤退後はハンガリー共和国臨時政府が出来た
ところがハンガリー海軍軍人が臨時政府を倒して、王位空位のままハンガリー王国を復活させた
親独親伊政権として大戦に参加したが、大戦末期に極右革命が起きナチス傀儡の矢十字党政権になる
そこでソ連軍が首都を包囲し矢十字党政権が崩壊し、ハンガリー第二共和国になった
のちソ連と共産勢力の影響が強まり、ハンガリー人民共和国になる
反スターリン主義運動が起きるとソ連軍が介入し25万人が亡命して難民化
ペレストロイカ政策の影響で脱共産化し、1989年に現在のハンガリー(第三共和国)となる