はてなキーワード: 小平邦彦とは
https://www.asahi.com/articles/ASP2D3J6RP21UPQJ00L.html
逆のケースも報道してくれませんかね?国際数学オリンピック金メダルでも消えた数学者とか、パリ音楽院8年いたけど都落ちとか。
私が格差を感じたのは8歳でしたが、これが18歳だと堪えるでしょう。今は10年も幼稚になったということです。8歳で格差を感じて、それなりに努力し、大学や大学卒業後も努力し、ちゃんとCVを開示できるってひとは、かつての昭和生まれの日本人ならゼロではないと思われます。親が両方とも戦死したので大学夜間を余儀なくされた人も、大勢いらっしゃいます。
子供のころからピアノと数学を並行して学べた小平邦彦氏のような人物を、正々堂々と「富裕層!」と批判できるのなら素晴らしい新聞社だと思われますが、そのような新聞社は日本のどこにもありません。このあたりが日本のダメな点なんでしょう。
私見では、いかなる近代社会であろうが、階級や年収にかかわらず、頭角を現わせるのは日本ではせいぜい13%です。本来、国公立大学はこの13%を救う機能がありました。人間が100いれば、87は階級や年収に関係なくただの一般人です。低学歴9割の町に住んだ人は騙されないんですよ。
2020年の日本、日本の音楽大学の教員勢も国際コンクール組が主流となり、学生たちの人権は大いに向上したと思われる。しかし、目に見えないところで、少しづつ知的水準の劣化は進んでいる。
まだNHK-AM第1でアルフレド・デ・アンジェリスのタンゴが放送されていた当時、日本は極貧国家だった。小平邦彦さんは「日本の大学生の質が劣化した」と喝破していた。けれども、彼の世代は大学に行けるのが7%で、喝破当時14%なのだから当たり前である。小平さんはそんな統計データにも気が付かなかったのだが、自分が正しく自分以外はすべて間違いだと錯覚している日本人は珍しくない。今でも日本の田舎と地方は、自分が正しい人たちでいっぱいだ。
その極貧国家で高卒で国際コンクールのグランプリの取得に成功した人物が、武満徹さんであった。彼がグランプリを取得したことで、現代音楽に学歴は関係ないと錯覚する人物が多く出たのだが、そのおかげで注目してくれるスポンサーが大量に見つかったのだから、結果的には好都合であった。ミルトン・バビットさんはピッチクラスセット理論を開発していたが、そんなことに気が付く日本人は今とは比べ物にならないほど少なく、日本人の娯楽は酒と風俗とパチンコとたばこしかなかった。「低学歴で何が悪い!」が、通ったのである。ピッチクラスセット理論といっても、ここにいる増田の何人に通じるだろうか?
そんな日本も新幹線授業や新数学のおかげで教育熱が盛り上がり、教育ママゴンなる単語が出現した日本ではピアノブームが起きたが、相変わらず日本勢は国際コンクールで敗北の日々であった。園田高弘さんは1980年のルービンシュタイン国際ピアノコンクールの審査員席で、怒られたらしい。日本勢は何をやっているのかと。もう少しましに弾けと。それはそのはずで、ピアノをやらせている親はお金のある中卒か高卒なので、教養の質はいきなり向上できないのである。金は持っていても、無教養だよねえ日本人ってという言葉が40年前のヨーロッパではよく飛んだ。
その当時の日本ではピアノブームはあっても作曲ブームなんてものは全く存在しなかったので、作曲専攻は大いに肩身が狭かったと思われる。当時作曲科の受験は和声法、対位法、フーガ、ソナタを18歳で全部完クリしなければならず、そのためのレッスン費用もバカ高くなる。この間世間を騒がせた道央増田には想像もできない世界であるが、それでも片道5時間でレッスンを受けた人物も大勢いたのである。片道5時間程の悲劇ではない普通の家から作曲家としてダッラピッコラ国際作曲賞に輝いたのが西村朗さんであり、片道5時間レッスンを拒否して自称独学の作曲家になったのが、ルトスワフスキ国際作曲賞の江村哲二さんである。独学といっても、彼は各種国際マスタークラスに参加しているので、厳密には違う。
ルトスワフスキ国際作曲賞の江村さんの受賞作とダッラピッコラ国際作曲賞の西村さんの受賞作を、お聴きの増田はいるだろうか?おそらくいないはずだ。日本の知的水準の劣化はもうこの時に始まっていた。劣化が始まると、始めた人物が急に偉そうな態度をとるようになり、それが多数決になった瞬間に文化は崩壊する。
現代音楽の様変わりが始まったのは日本に関する限り1990年代で間違いがないが、二極化が進行していた。東京藝術大学を出ても調性音楽しか書けない連中から、高校と大学を飛ばしてヨーロッパ在住10年組になってまで国際コンクールのタイトル奪取を心掛ける者とに、分化が始まっていた。なぜこのような分化が始まったのかはわかっていないが、1980年代のフリードリヒ・ホンメルさん時代のダルムシュタット講習会がもうジェイムズ・ディロンさんやクリス・デンクさんやリチャード・バーレットさんやカイヤ・サーリアホさんやアレッサンドロ・メルキオーレさんを擁するレヴェルであったため、日本人の知的水準では理解できないところにまで遠くなってしまったのが大きかったのではないだろうか。
長髪のディロンおじさんがクラーニヒシュタイナー音楽賞を獲った曲ってなんだったっけ?Parjanya-Vataだよね。これを弾けるアジア人のチェリストは2020年の現在、まだ存在していない。もう40年前のチェロ独奏曲だが、もう日本人では弾けないだろう。40年前の音楽すら消化できないのが、日本のチェロ業界である。
2000年代に入ると、日本は現代音楽の報道をほとんどしなくなり、藤倉大さんや望月京さんのようなヨーロッパ在住10年組の応援だけはNHKとTBSでやる、いびつな国家になった。武満徹さんがもしも生きていたら、このような偏向報道に異を唱えたであろうが、もう遅かった。日本人はいくら知的水準が劣化しようが、自分の頭だけが大事で、他はもうどうでもよいのだ。私は「それは仕方がない」という立場に立つことはできない。日本人が今のロシア人のように、すべての領域で国際コンクールを制覇する程の教育の底力があるのであれば私は折れるが、今の日本人はガチで勝負して来いといわれると一発で刎ねられるのだ。
そのガチ勝負の典型例が今年のブゾーニ国際の予備審査とロシアのNew Classics国際の譜面審査ではないだろうか。私の想定の範囲内だったが、日本人は全員落ちた。これに危機感を持てないようでは、どこの分野でも日本人は早晩通用しなくなるだろう。そして、2030年代は、落ちる人も通る人も、すべてが中国勢にとってかわるのである。
落ちてもいいという増田もいるだろう。しかし、落ちてもいいが多数派になったとき、日本の知的水準は1960年代に逆戻りし、だれが何をやってもうまくいかないという未来が待っているはずである。まだ日本はヨーロッパ在住10年組でかろうじて最先端についていけているが、10年後はこれができなくなるはずである。今の日本の大学生はMusik-Konzepteも読まないし、Perspectives of New Musicも読めない。鬼滅の刃は読めるらしいが、いったん劣化した知性は、元に戻ることがないのである。道央増田のような人材を放置し続けた結果が、日本の今の現代音楽である。東京が腐ると地方も腐り、田舎も腐る。
小平邦彦さんの受け売りで初等教育から国語と算数/数学(線引きはどこにあるのでしょうね)を重視するとよいと思っています.計算機についての技術水準が十分発達すれば,地球上生態系において,人間の地位をもう少し適正化してよいものを食えるようになったりあるいは人類が機械に置換され陳腐化したりするのではないかと思っています.いわゆる理科系の数学・科学・工学というのはある種の特権的な実効性を持っているのです.もちろん倫理や政治や芸術,経済や産業や実業的な技術や,もろもろの人材の多様性と卓越性を損なうのも得策ではありませんので,数学・科学・技術の教育への偏執を主張するものでなく,日本国の現状の海外への投資が盛んで国内に比較的大きな市場とやや老朽化しつつあるしかしながら全般的に高度なインフラストラクチャが維持されているような様子を鑑みても,ある種の高度な専門家や人工知能は政治・行政における問題解決能力の向上のために必要と思っています.