はてなキーワード: 昭和40年とは
「洗濯機の調子が悪くなり始めたので、試しに洗濯板を使ってみた→イメージしてた使い方と全然違って驚いた」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2188096
要するに洗濯板に擦り付けるのではなくて、波板の上で布同士を擦り合わせ揉み洗いするのが正しいという主張だ。
それに対して「ゴシゴシするものだと勘違いしてました」とのコメントが並ぶ。
いやいや、擦り付けで正しいのではないか?
というのも、昭和の2槽式洗濯機には小さい洗濯板が付いていたものがあったからだ。
脱水槽の蓋が閉まっててチラとしか見えないのが残念だが、これを見て欲しい。
https://www.kajitaku.com/column/dry-cleaning/3331
洗濯槽と脱水槽の間にギザギザが見えるだろう。これは洗濯板で、がんこ汚れをここでゴシゴシするためのものだ。ここで揉み洗いというのはナンセンスという事が判るかと思う。
これは上から下まで全面に凹凸が入っているが、もっと多かったのは洗濯槽右下の隅切り部分に斜めにチョットだけ凸凹が入っている形式だ。靴下とか襟とかを擦り洗いするのに適していた。
厨房などでは未だに2槽式洗濯機の方が人気がある。どのみちそばにずっと人がいるから移し替えも気にならないし洗濯水を使いまわせて融通も利く。更に水場においても壊れにくい。
更に昭和の日本製家電というのは耐久性が今から見ると異常でオーバークオリティなほどで、水場に置いて家庭の使用頻度の10倍くらい酷使してるのに30年以上持つというタフさである。
折れたダイヤルが平成デザインのものに交換されていたりする。これは平成洗濯機が先に壊れて昭和機の部品取りにされたという事を意味する。
だから厨房や事業所などでは洗濯板が付いた洗濯機が平成中期でも残っていた。そしてそれらの洗濯板部分は摩耗して穴も開いていた。これはこすり洗いされまくったという事だ。
因みに昭和40年代までの洗濯機は1槽式+ローラー付きだが、これにも洗濯板が付いているものがあった。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61877998
これも、この上で揉み洗いするという動機はなくて、ここでゴシゴシとこすり洗いする為のものというのが判るかと思う。
こういう補助的洗濯板が消えたのは洗剤の進化による。固形石鹸から合成石鹸へ、そして洗濯機のメインストリームが2槽式→縦型全自動→ドラム式と進化してそれに合わせた洗剤が開発されて「いちいち部分的に手洗いする」という必要がなくなったのだ。
今の時代にこういう事をわざわざやるのが金になるのがYoutubeのDIY界隈で、DIYの裾野が広大なのが英語圏なので、こういう時は英語で検索するのがいい。
https://www.youtube.com/shorts/W1KKCwEUVJc
これなども擦り付け洗いしているだろう。ほかにも沢山動画があるので「how to use washboard」で検索してみるといいと思う。だれも揉み洗いとかはしていない。
ただ、後述するが一枚づつこすり洗いしてるのは下手だと思う。
米をとぐときに水はどれぐらい入れるだろうか?米が浸るヒタヒタぐらいでといで、すすぎの時は水を沢山使うだろう?
これはヒタヒタぐらいでとぐのが一番効率がいいからだ。水が多いと米が動いてしまってとぎにくい。水が少ないと米表面がこすり合って良くとげるのである。
容器の中を洗浄するのに小石などを使う場合も然りで水は少ない方が洗浄力が上がる。
洗濯板の上で揉むというのも同じで、水の中で動くよりも布同士がこすり合い、同時に潤滑材として機能して滑りやすい、水ヒタヒタの状態が一番洗浄力が強い。このヒタヒタを維持しやすいように凹凸はカーブしている。真ん中に水が集まり易いからだ。
この状態で一番下に布の一部を敷き、その上を滑らせる形で他の部分を動かすとこすり合わせれて汚れが落ちる。これが一般的な使い方と思われる。
なお、洗濯板を使う場合は最近主流の液体洗剤は適さないと思われる。というのも最近の洗剤はドラム式に最適化されていて泡を殆ど出さない。
だが洗濯板では泡が潤沢に出ないと滑りが悪くなってダメなのだ。下に敷いた布がめくれてしまう。布も痛みやすい。
もとスレのtogetterではマンガの描写からこすり洗いでなく両手で揉み洗いが正解と導き出されているが、マンガの描写が正確、精密になったのは劇画の流行を経てその手法が吸収された1970年代以降なのだ。
劇画の嚆矢は昭和30年らしいが、これが一般化したのは団塊世代が青年であった昭和40年代/1965年~70年代である。
団塊は「大人になってもマンガを読んでる世代」の走りだったが、それは「大人の鑑賞にも耐える」を志向するマンガが流行したためでもあった。
初期の劇画は『カムイ伝』のようにコマ割や表現が映画的/ハードボイルドで人物画は「劇画チック」というだけだったが、やがて描写が緻密になっていく。例えば最初期のゴルゴ13は背も低くマンガテイストが残っていて今見ると滑稽だ。だが巻を下るとその描写は緻密で正確になっていく。
70年代末には劇画はやがて下火になっていくが、今度は青年漫画などに劇画の手法が輸入されるようになっていった。
有名なのは手塚治虫の『ブラック・ジャック』で、「マンガの神様」手塚は、しかし昭和40年頃になると丸っこい子供向けマンガしか描けない前世代の遺物のような扱いになっていった。
そこで手塚は医学書や解剖図を読み漁って人物は丸っこい細部が緻密な描写のフィクションを作り上げ、復活を果たした。これはさいとうたかおが後に極めることになった劇画の手法である。
三種の神器と呼ばれた洗濯機が低価格化して多くの家庭に導入されたのは昭和40年前後である。
つまりマンガで緻密に作画がなされるようになった頃には洗濯板が一掃されていたのだ。
「作画崩壊」は昔は無かった。劇画の手法が輸入される1970年代末まで人物が走る時は弓線と足二本で表現された。
洗濯板も然りで板と石鹸と手と泡描いたら洗濯が表現された。劇画ではこれの表現はNGだ。そして現在のマンガは劇画ルールが導入されているのである。
こういう訳で「洗濯板の上でゴシゴシ」が正解と思われる。但し、一枚だけを凹凸に擦り付けるのではなく十分に泡立てて凹凸の上の布の上で布を滑らせて布同士を擦り合わせる。
一番まずいのは、ノンフィクションマンガなどの描写に難癖をつけて「擦り洗いはしない、揉み洗いが正解」とネットで聞いた事との相違のクレームを入れてしまう事だ。
ノンフィクションでは資料を揃えて居る事が多い。その執筆態度は劇画に始まるものであり、洗濯板が現役だった頃にはその影響がまだなかったというのが今回の誤解の原因である。
Midas先生が相変わらずキレキレのコメントをしていてすごいなと眺めている
https://b.hatena.ne.jp/entry/4739219734844955237/comment/Midas
近代化の過程で(本土だと昭和40年代あたりを最後に)男が結婚し相手に子供が生まれたのをトリガーに『父親である』責務に耐えれず分裂病を併発し「私は女」と主張しだし自死する症例が多く報告されてるが典型的なそれ
りゅうちぇるは若い時から若者らしからぬ正論をまっすぐ発信する好青年で、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言える人だったと記憶している
そして妻と子をまっすぐ深く愛していたことに疑いはない
それなのに、自分の存在や立ち位置がわからなくなってしまって離婚した時点で、何か深い悩みというか苦しみがあったのだと思う
ブコメにも
Midas 近代化の過程で(本土だと昭和40年代あたりを最後に)男が結婚し相手に子供が生まれたのをトリガーに『父親である』責務に耐えれず分裂病を併発し「私は女」と主張しだし自死する症例が多く報告されてるが典型的なそれ
こんなコメントがあって、それが正しいことなのか本当に典型的なことなのかは知らないけど、とても納得できる話だと思う
増田自身も二児の父ではあるのだけど、子供が生まれたときに自分の存在価値がなくなったような、人生の目的は終わってこれから余生なんだなとか、そういう感覚にすごくなった
これは重圧のせいではないのかもしれないから、反対のことかもしれないけど
とにかく子が生まれることで男としての自分のアイデンティティが揺らぐ感覚はめちゃくちゃよくわかる
なので、SNSの誹謗中傷がどんなものだったか、それについて彼自身がどう感じていたかなんて知る由もないわけだけど、別にSNSだけが彼の苦しみではなかったろうと思う
SNSのアンチが増えたのは離婚後からだと思うけど、離婚したときにはすでに彼は戻れないところまで苦しみが進んでいたろうことは想像に難くない
そうでなければあれほど愛していた妻子と離れるはずはないもの
彼のまっすぐな意見表明、まっすぐな生き方が反発を招いたのは理解できるし、だからこそ矛盾をはらんだその生き方を許せない人もいたんだと思う
でもそれが周囲から見えるようになっていた時点で、彼自身の問題は進んでいたのだろう
人は矛盾を持っていて当然で、その矛盾した気持ちに折り合いをつけるのは難しい
彼はその矛盾した気持ちに従って生きてみようとしただけで、自分勝手な振る舞いというより自分が生きるため、自分を守るために必要なことだったのだろう
結局、誰も苦しんだ彼を救えなかった、という話だと思う
ぺこさんも、離婚するのが良いことなのか、離婚後もどういう関係でいればいいのか、彼のことを考えて、彼を救いたいと思って行動してたろう
最終的には救えなくて残念だったけども
樹木を植え替える際に、植え替え後の生育が順調になることを期待して根を整理することを指す
それが関係者に事前にある程度の了承を得ておくことという意味に転じた
いつ頃に意味が転じたのか
交渉の際に用いられる意味に転じた根回しは昭和40年ごろから使われ始めたとのこと
しかし、植木職人くらいしか使わないような言葉がなぜ広まったのだろう
気になるが実際に使用された用例を探し当てないとわからないだろうなあ
だが、現代でも似たような例……専門用語が比喩的に使われて一般用語として広まる……は結構ありそうだ
例えば「解像度」とかそうなんじゃないか?(こういった言葉に何か名前はついているのだろうか?同様の例を探すのはなかなか楽しそうだ)
そこで暴走族の車バイク、通称族車のトンチキなデザインがどっから来てるかを説明しようと思う。
増田は暴走族やヤンキーじゃないがはてなー平均よりはヤンキー文化に近いってくらいだ。
それじゃあ行くぜそこんとこ夜露死苦。
まずは「google:image:族車」で画像検索してくれ。
さて全然速く走る事に頓着が無いというか速く走れない族車デザインだが、元はレースカーや街道レーサーの特徴をコピーしていた。
だがそれらの文脈を考えずに合体され、更に右翼ファッションの流入によってスピードの文脈が無くなって形だけが意味を持つようになった。
でもファッションというのはみんなそうであってWWIの塹壕戦防寒軍服がビジネスシーンでの正装になったり、ゴールドラッシュの作業着が反抗の象徴になってカジュアルで定着したり、警官の防護服がハードゲイシーンで流行してからカジュアルになったり、と元の文脈が無くなるのはヤンキー文化だけじゃない。
新聞社に使役されていたプレスライダーである。プレスは報道の意味で事件現場で報道陣がしてる腕章に書いてあったり新聞輸送のトラックに書いてあるあの「PRESS」だ。
元々、速報性が重視される新聞社で取材記事の迅速な伝達を支えていたのは伝書鳩だった。新聞社では屋上に鳩舎を設置して多数飼育しており、記者は取材の時に鳩を連れて行った。現場で記事を書いてそれを鳩の脚に括りつけて放すのである。鳩は帰巣本能でかなりの高確率で社屋屋上に帰着する。
伝書鳩は1960年代、昭和40年頃には廃れるのだが、代わって登場したのがプレスバイクだった。
ところで何で電話じゃないの?というと、電話も使われていた。だが「市外局番」が出来たのが1965年、昭和40年頃なのだ。
これがどういう事かというと、市内を超える通話では交換手を通していた。だが事件が起きると記者が押し寄せ、役所や会社でも市外通話が急増するので交換手がパンクして延々と交換待ちになってしまう。つまり通話が困難になるのだ。この為に警察は早くから警察電話という専用線を整備していた。
プレスバイクは原稿や写真フィルムを受け取って現場から新聞社、若しくは駅でリレーして列車経由で社へと迅速、というか猛烈な速度で運んでいた。
そもそも当時のバイク乗りっていうのは不良である。そんな不良が、新聞記者、これも当時はブンヤで柄が悪く反体制的な気骨がないと務まらない職だった、そのブンヤに使役されて街道レーサーのような危険運転でぶっ飛ばしていた訳だ。勿論公道最速である。
こういう公共性と不良的な特性の硬派な組み合わせというのは今でも映画のモチーフになるし、憧れを産む。
という訳で、以下のようなプレスライダーの特徴が族車に取り入れられ、やがてスピードの象徴から遊離していく。
族車バイクはパイプハンドルを思い切り絞って手前側に持ってきたデザインが特徴だが、これはプレスライダーが上向きハンドルにしていたのに由来する。自転車と同じく、パイプハンドルでは固定ネジを緩めるだけでハンドルの角度を変えられる。
プレスライダーは渋滞では足をついて右に左へとすり抜けをするので、上体が起こせて視界が良く、車体を傾けてもハンドルが遠くならないアップハンドルにしていた。
プレスライダーは上記の通り足をついて渋滞すり抜けをするので、足つきが良くなるようにシートの「あんこ抜き」をしていた。着座部分のシートのスポンジを削って取ってしまう加工である。今でも背が低いバイク乗りはこの加工をする。
すると前後方向にも段が出来てニーグリップ(両足でタンクを強く挟むこと)しなくても前後に安定するという効果も出る。
族車はこれを大げさにして後ろに更に段を増やしたシートに交換したり、更にハーレーなどのシシーバーと合体した長い背もたれに繋がるデザインの三段シートになっていった。というか、ヤンキー相手の商材扱う会社が段々過激化していったのが原因だな。
プレスライダーは仕事なので冬でも走る。そこで後付けの風防を付けていた。元々実用品なのでカッコいいもんじゃない。
だがそれが「硬派」の記号となって族車に取り入れられた。
今やってる会社は無いが、昭和後期まで社用車というのは鉄製前部バンパー角に小さな掲揚ポールを付けて社旗を掲げて走るのが多かった。今は歩行者安全の為に前方に突起物を付けるのは車両法で禁止であり、宮内庁の御料車や総理大臣車以外はやっていない。
プレスバイクも新聞社の庸車なので前輪に垂直ポールを立てて「PRESS」のペナント(三角旗)を、更に四角い社旗も併掲するケースもあった。とんでもないスピード違反してても(プレスライダーは常に速度違反)警察はPRESS旗と社旗を認めると取締りしなかった。
暴走族の前身はカミナリ族じゃなくて街道レーサーのチーム(イニDの赤城レッドサンズみたいなの)なのだが、このスタイルが真似されてチームの旗をつけるという形になる。
これが1980年頃から「硬派」の文脈が右翼ファッションに転じた。この右翼とは1960年代の全共闘運動に対抗した新右翼で、80年頃には軍服着て国防色街宣車で軍歌を流し、軍旗である旭日旗を掲揚するという軍国主義憧憬路線が確立されていた。
ところでこの旭日旗は「プレスライダーのまね」路線ですでに族ファッションの中にあった。それは朝日新聞の社章でお馴染みだったのである。
故に既存のプレスバイクの社旗模倣の上に右翼ファッションの軍国標榜が自然な流れで合わさる形となった。
前輪の掲揚竿は大きさが制限されるので、大きい旗を後部に付けたり、二人乗りの後部乗員が手持ちするようになったのである。
この名残で、旗が付いていない棒を前輪から斜め前に突き出している族車もある。
同様の理由でタンクへの塗装や服のプリントへと波及していく形になった。
こんな風に族車デザインに過大な影響を与えたプレスバイクだが、盛者必衰で1980年代になると衰退して報道の現場から消えて行ってしまう。
置き換わったのは出先で使えないFAXじゃなくて無線と自動車電話だった。どっちも大きくて自動車必須で、汽車+バイクから自動車に置き換わったのだ。両方とも無線兵みたいな箱を担いで運用する。
それで職にあぶれたプレスライダーが流れた先は2つあって、一つは競馬/競艇新聞の運搬。予想欄の関係でレース当日に入稿されるので印刷所の前に多数のバイクを並べて待つ。刷り上がった新聞をバイクの後ろに括りつけて馬券売り場や競馬場の売店に急いで持って行くのである。
ただこれはレースが日曜しかやってないから臨時バイトの面が強い。
もう一つがバイク便で、オフィスを回って営業する。NYの自転車メッセンジャー便のバイク版だ。
こういう経緯なので初期のバイク便はプレスライダーと呼ばれていた。FAXが普及してもサンプル品の急送とか木型(鋳造で使う型)とか需要は多くあったが、白ナンバーの違法操業のところが多かった。
中にはちゃんと法人成りして営業免許を取り緑ナンバーにして特殊分野でのニッチを獲得したり、後に医薬検体輸送→検査会社と進化して自治体の出資を受けて三セク化したところなどもある。街道レーサー崩れからの地道なステップアップ人生であるな。
これは画像を見てもらった方が早い。こういうの暴走族で走ってるやろ? https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/26/Nissan_Silvia_Silhouette_Formula_001.JPG
量産車のガワだけを使って、中はエンジンも足回りもフレームも全部変えていいよという規定のレース車区分だ。シルエットだけ市販車で中は純粋レースカーなので「シルエットフォーミュラ」という。
これは日本では御殿場の富士スピードウェイと筑波サーキットでレースが開催されていた。
特に富士スピードウェイでは「富士グランチャンピオンレース」というシリーズレース(全戦富士SWでの開催)が人気を博していた。走っていたのはルマン24時間みたいな形のレースカーだった。
このレースの前座としてシルエットフォーミュラが開催されていて、こっちは街で見かける市販車ベースで無茶な改造がされているのでこっちも大人気、更に自分の車を同じように改造するのが流行したのだ。
族車で出っ歯にするのはこのシルエットフォーミュラの真似を大げさにしたものなんである。
更に初日の出暴走を「グラチャン」という理由も判ったかと思う。シルエットフォーミュラ風の改造をして富士山の方、即ち富士スピードウェイがある御殿場方面に東名高速を走っていくからグラチャンなんであるな。
因みにあの出っ歯は貧乏暴走族などではベニヤ等で手作りしてあり、強度が低いのでボンネット辺りから針金で吊ってある。
そんなヤワな造りのものが走行風に耐えられる訳もなく、ほぼ必ず途中ではがれて取れてしまう。または出発地近所の踏切でぶつけて引っかかってしまい、電車が来たら危ないので周りのおじさんや善男善女に助けてもらって出っ歯を踏切から撤去してもらい、「危ないよ~」とか言われてるのである。出っ歯も手作りで温かみがある上に重ねて温かみのあるエピソードである。ハリボテエレジーの如き侘び寂びの趣きだ。
で、出っ歯が無い普通の車として他の族車と一緒に東名を走っていくと、途中で交通機動隊が集中取締りをやっていてFRPの高級出っ歯車は皆とっ捕まってしまうが、手作りシルエットの方はなにしろ普通車に戻ってるからそのままスルー。
これは他の出走馬が前部倒れた後にハリボテエレジーが壊れた馬体というかダンボールを引き摺り走ってきて完走するのを彷彿とさせる。大穴である。
日本のビールの歴史年表 昭和24年〜昭和45年(1949〜1970)
https://museum.kirinholdings.com/history/nenpyo/bn_06.html
> 1963年(昭和38年) 日本麦酒、「サッポロ生特大びん」(通称「サッポロジャイアンツ」)発売。[4月1日]
> 1965年(昭和40年) ビール各社、プルトップ缶ビールを発売。缶を開けるのに缶切りを使う必要がなくなった。[3月]
> サッポロビール、「サッポロストライク」発売。びんの王冠を手で開けられる「栓抜きのいらないびんビール」。[3月]
> 1967年(昭和42年) サントリー、フィルターで濾過した生ビール「サントリービール〈純生〉」発売。[4月20日]
> 「(「父の日」)帰りがけに近くでウイスキーやカン入りビールを買ってもらうパパが結構多かったようですよ(新宿の伊勢丹従業員の談話)」(『読売新聞』6月19日)。
> ビアガーデンやビアホールは夕方ともなると若い男女、中年のサラリーマンであふれる。ビールはすっかり生活にとけこんだ(『朝日新聞』7月13日)。
君たちは何歳なんだ?
新しい朝ドラ観るチャンスなので、
なんでも時代設定が
昭和40年後半で
まだその当時沖縄ってドル使っててまだ日本に返還されてなかったのね。
知らなかったわ。
物語の中のそれらが本当かどうか簡単には視聴者が検証できないぐらいの時代設定の方がファンタジーで面白いのかも知れないわね。
そう思ったわ。
だからサーターアンダギーとシークワーサーはこれから爆流行すると思うので、
「半分、青い。」とか「おかえりモネ」は時代設定がわりと最近なので、
変にリアリティーあって、
そう言った要素が排除できるファンタジーな時代設定の方が見ていても案外すんなり観れるような気がするわ。
でも早速、
1話目の子ども達が走ってるところをドローンから空撮撮ってるんだと思うんだけど
きっと誰かがあの時代にあんな側溝はなかった!って言ってるかも知れないし、
まあ私の好きな食の話題だし、
面白そうよ!
でさ、
朝ドラの序盤に出てくる主人公と拮抗する敵の人の役とか憎まれ役の人って
ドラマを通じて終盤なんか一番大事な仲間になってたりするじゃない。
それは知らないことにして楽しもうと思うわ。
サーターアンダギーとシークワーサーが街中から消える日もすぐよ。
うふふ。
カフェオレね。
カフェオレの牛乳の割合が100パーセントって意味じゃなくて、
うふふ、
朝ドラにちなんでみたわ。
でもあんまりデトックスウォーターにしちゃうと酸っぱさの良さが水になっちゃうわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
映画「男はつらいよ」シリーズには笠智衆演じる「御前様」なるキャラクターが出てくる。〇〇上人と呼ばれる僧侶で、幼稚園経営者だ。
「御前様にお話を伺ってみよう」
となる。
昭和40年代くらいまでは、下町のような「非ニュータウン社会」では、そういう賢人畏敬文化があったわけだ。「キテレツ大百科」におけるベンゾウさんみたいなものである。
三重県伊勢市において、地元団体、ボランティアが地元の農業河川に鯉200匹を放流すると言う暴挙を行った。
「鯉のいる川が自然豊かな川だ」
と思い込んでの愚行である。映像を見るに、20人くらいはいる。それを好意的に報じる地元メディアによる映像もあるわけだから、メディアスタッフも最低2人はそこにいたのだろう。
それだけの人数がいて、誰1人、遺伝子汚染や外来種放出の危険性を知らなかったわけである。
こう言ってはなんだが、相当に偏差値が低い集団である、とみなして差し支えないだろう。
むかしは、そう言う人たちも、事前に「御前様に聞いておくか」とやっていたからそう大過なく過ごせていたのではないだろうか。
一流とされるような大学を出た人なら「絶対に」と言っていいほど常識の知識の水準であるから、鯉放流団体の人たちに自分たちの無知蒙昧さの自覚と謙譲があり、市井の知識人のサポートがあれば、こう言うことにはならないはずなのである。
この一件は、三重県伊勢市と言うごりごりの「田舎」においても、伝統社会が完全に崩壊していることを示した。既に御前様はいなくなり、寅さんたちには自信満々の無知の無知だけが残った。
山崎猛 - 第38代衆議院議長、運輸大臣、自民党幹事長、経済審議庁長官、水戸市長 明治39年卒
佐野学 - 戦前の日本共産党委員長、元早稲田大学教授 明治43年卒
与謝野馨 - 元通商産業大臣、元自民党政調会長、元経済財政担当大臣、元官房長官、元財務・金融担当大臣 昭和33年卒
佐藤観樹 - 元自治相、元国家公安委員会委員長 昭和35年卒
谷垣禎一 - 元自由民主党総裁、元金融再生委員会委員長、元国家公安委員会委員長・食品安全担当相、元財務相 昭和38年卒
丹羽雄哉 - 衆議院議員(自由民主党)、元厚生相 昭和38年卒
中川雅治 - 参議院議員(自由民主党)、元環境相、元環境事務次官 昭和40年卒
中川昭一 - 元経産相、元農水相、元財務・金融担当相 昭和47年卒
鈴木俊一 - 衆議院議員(自由民主党)、元五輪担当相、元環境相 昭和47年卒