はてなキーワード: アスレチックスとは
WBCフィーバーはいまだ冷めやらぬ中、どこかしこも大谷くん、大谷さん、大谷選手、メディアでは大谷翔平……と彼を称賛する文言の多さが日本を席巻している。
そんな中あの大谷翔平を「オオタニ」と呼ぶ一人の日本人野球選手の逆襲を期待したい。
彼の名は藤浪晋太郎、198cm82kg。大谷翔平より10kgは軽いが上背はほとんど変わらない。
大谷翔平と同い年で高校生時代は大阪桐蔭で甲子園を制覇。愛工大名電の左腕浜田と3人並んで高校生BIG3と言われてNPBへ。
そして今季からはオークランドアスレチックスで腕を振るたった1人の日本人選手だ。
オープン戦ここまでの成績は3勝0敗3.86、まずまずの数字が並ぶがNPB時代から相変わらずの四死球率は変わっていない。
特筆するのは被安打率ではあるが、全ての投球内容やニュースを追っていないので、数字上この投球を大谷級と呼ぶには少し遠いことは間違いない。
野球に詳しくない人からしたらそもそも「藤浪? だれ?」の世界ではあるが、そもそも藤浪はデビューして3年はあの大谷翔平を彼方へ置いていく活躍だったことは間違いない。
10勝6敗して新人特別賞獲得、様々な記録に「高卒初」の文字が紙面に踊り、3年目にはシーズン200奪三振。松坂を超えるスピードで成績を積み重ね200勝も狙えるポテンシャルであったことは間違いない。
大きなケガも無く、その将来は大谷より先にメジャーへ到達することが約束されていたようだった。
しかし結局それはかなうことはなく、大谷翔平という名前が世界で認知された後、ひっそりと今年阪神をポスティングで放出されこのオークランドへとたどり着くことになった。
その藤浪を獲得したアスレチックスはかつてマネーボールと呼ばれた運営の本質は変わらず、2022年シーズンは年俸総額約64億円で日本の球団でいうとソフトバンクと変わらないコストで運営されている。
2023シーズンに限って言えば想定額約42億円なので、楽天~巨人~ヤクルトあたりのコスト感になっている。
短縮シーズンの2020年に優勝したもののファイヤーセールで選手を大量放出し、2022年は100敗を経験して凋落。
阪神タイガースの4,5,6番手を争っていた藤浪を獲得して先発2番手に据えるほどには選手に困窮していることは見て取れる。
藤浪は一方で大谷を超える選手とされ、一方では終わった選手とされ、一方ではアスレチックスを救う救世主とされ、また一方では思い上がりのメジャー挑戦とされた。
お互いの立場は違えど、世界のヒーロー大谷翔平と相まみえる日がおそらく来る。
ただ言いたいのはいつだってスポーツはジャイアントキリングが待っていてもおかしくないということだ。
かつて自分を置き去ったライバルがいる地へ、道は違えど彼もまたたどり着いたのだ。
かつては肩を並べ、時には自分の後塵に拝していた大谷に遠慮なんていらない、同級生なんだ。そんな彼の自然なプライドがあの大谷翔平をオオタニと呼ばせるのだ。
腐らず飄々として、何年たっても垢抜けず、大谷翔平とはまた違った野球小僧のような風貌の彼が、アメリカの地で再び大谷翔平と対峙する日を心待ちにしたい。
藤浪頑張れ! 俺は応援してるぞ!
イチローさんの記録ね
1 通算3089安打、生涯打率3割1分1厘
イチローのメジャー通算3089安打は歴代22位の記録であり、生涯打率3割1分1厘は歴代13位、そして3000本安打を達成した32人では最高の打率だった。イチローは3000本安打を10333打席、2452試合で達成したが、これはそれぞれ13番目と14番目の早さだった。
2 日米通算安打4367本
メジャーへ来る前の日本パ・リーグでの9年間に記録した1278安打を含めると、イチローの通算安打記録は4367本となり、これはピート・ローズよりも111本多い。
3 歴史的なデビューイヤー
イチローはメジャー1年目の2001年に歴史的快挙でリーグを席巻。MLB史上初の日本人野手となったことに加え、イチローは同年、安打(242)と盗塁(56)でその年のメジャー最多を記録し、メジャー記録の116勝を達成したシアトルで主に1番打者として貢献した。
4 史上最高のルーキー
イチローは2001年にア・リーグ最多安打、新人王、そし年間MVPを獲得。MLB史上、現在に至るまで最初のシーズンでこの3タイトルを獲得したのはイチロー唯一人である(新人王と年間MVPの2タイトルを初年度で獲得したのでさえ、イチロー以外には1975年にレッドソックスで達成したフレッド・リンのみである)。
5 年間最多安打記録
両リーグの年間試合数が公式に162試合となった1962年以降、イチローは年間最多安打数のトップ2を独占しており(2004年の262本と2002年の242本)、トップ6に3回、トップ18に5回ランクインしている。イチローは2004年にジョージ・シスラーの持っていた年間最多安打記録(257本)を更新したが、シスラーが1920年に記録を達成した際の試合数は154試合だった。
6 通算7回の20試合以上連続安打
イチローは20試合以上連続安打をキャリア通算7回記録しているが、1900年以降、イチロー以外でこれを達成したのはピート・ローズ、シスラー、そしてタイ・カッブ(8回)のみである。
7 生涯打率が3割を切ったのは1度だけ
イチローはそのキャリアにおいて、一度のみ、試合後の生涯打率が3割を切ったことがあった。それはルーキーイヤーの2試合目に4打数無安打とし、通算9打数2安打の2割2分2厘としたときであり、続く3試合目を4打数2安打とすると、その後は生涯打率が3割を切ることはなかった。
8 デビューから10年連続200本安打
イチローは最初10シーズンで10年連続200本安打を達成し、その間の年間平均安打数を224本とした。200本安打を達成した年数で、イチローはローズと並んでいるが、ローズは10年連続ではこれを達成していない。
9 三塁打で3000本安打達成
イチローは2016年8月7日にクアーズフィールドで通算3000本安打を達成。この際、イチローは三塁打でこの大台に乗せた選手として、ポール・モリターに次ぐ史上2人目の選手となった。
10 27歳のデビューで3000本安打達成
イチローは日本での長く成功を収めたキャリアにより、メジャーデビューは27歳のときだった。3000本安打達成者で、ここまで遅い段階でメジャーでのキャリアをスタートさせた選手は他にいない。これまでは、1982年に24歳でキャリアをスタートさせたウェイド・ボッグスがこの記録を持っていた。
11 27歳以降の安打数は2位
27歳以上で記録した安打数として、イチローの3089本はローズの3357本に次ぐメジャー史上2位の記録である。1947年以降で見ると、イチローに次ぐ記録はスタン・ミュージアルの2635本となっている。
12 史上2番目の高齢で3000本達成
イチローは42歳9ヶ月16日で通算3000本安打を達成。これは19世紀の選手であるカップ・アンソンに次ぐ史上2番目の高齢記録である。
13 ホーム、ビジター問わず安定した成績
イチローは驚異的に安定していた。中立地の東京での2試合を迎えるにあたり、彼のホーム通算打率は3割1分2厘、ビジター通算打率は3割1分、そして各月の平均打率を最低でも2割9分5厘としていた。
14 左打者の対左腕で最高打率
実のところ、イチローは右投げ投手(打率3割4厘)よりも左投げ投手(打率3割2分9厘)を得意としていた。データのある1974年以降、イチローは左打者として対左腕の最高打率を記録。また、74年以降、対左腕で1500打席以上ある選手で、イチローを上回る右打者はカービー・パケット、マニー・ラミレス、デレク・ジーター、そしてモイゼス・アルーの4人のみ。
15 メジャー全チームから安打を記録
イチローはメジャーリーグ全チームから安打を記録し、アスレチックスに対して最も多くの安打を記録した(320本)。またホーム以外の球場では、オークランドで最も多くの安打を記録した(168本)。
16 1番打者での史上最高打率
イチローは彼の世代では間違いなく最高の1番打者であり、1番打者として2529安打を記録している。これは、トップバッターとしてリッキー・ヘンダーソン(3020安打)とローズ(2924安打)に次ぐ記録であるが、イチローの1番打者としての打率3割2分3厘は、ローズの3割8厘とヘンダーソンの2割8分を遥かに上回っている。
17 史上唯一、オールスターでのランニングHR
イチローはオールスターに通算10回出場しており、サンフランシスコで行われた2007年の試合では、史上初にして現在も唯一となるオールスターでのランニングホームランを記録した。彼はその年のオールスターでMVPを受賞している。
18 500盗塁&3000本安打を達成
イチローは塁上でも大きな脅威となってきた選手であり、キャリア通算509盗塁を記録している。彼は500盗塁と3000本安打の両方を達成した7人のうちの1人であり、ヘンダーソン以降でこれを達成したのは彼が初めてだった。イチローは42歳まで毎年2桁盗塁を記録しており、1920年以降、イチロー以外で40歳を超えて年間2桁盗塁を3回以上記録したのはヘンダーソンのみである。
19 盗塁成功率81.3%
1950年以降、通算500盗塁を達成した20人中、イチローの成功率81.3%はヘンダーソンを凌ぐ4位の記録であり、成功率で彼を上回ったのはティム・レインズ、ウィリー・ウィルソン、そしてデイビー・ロープスの3人のみである。
20 10年連続ゴールデングラブ賞
イチローはメジャー最初の10年連続でゴールデングラブ賞を受賞。イチロー以外で10年連続ゴールデングラブ賞に輝いたのは殿堂入りしたレッズの捕手ジョニー・ベンチのみである。彼によるゴールデングラブ賞10回は、外野手として(ケン・グリフィーJr.、アンドリュー・ジョーンズ、アル・ケーラインと並ぶ)歴代3位タイの記録であり、外野手歴代最多はロベルト・クレメンテとウィリー・メイズの12回となっている。
ただ、移籍先のアスレチックスはクソ貧乏球団で総年俸が約4500万ドルで全球団中ブービー
300万ドルって言うのがメジャーだとどれくらいのランクなのかというとだいたい全現役選手の上から300位くらい
日本だと300位っていうと大体2000万くらいなので評価としてはめちゃくちゃ高いというわけではない
1軍でローテ入りしてくれよな!くらいの感じだと思うので、藤浪の評価としては妥当な金額ともいえる
それでもクソザコ球団アスレチックスが完全に崩壊した投手陣を立て直すために
チーム5位の年俸を払ってでも欲しいと思ったからこそ取ったわけだし
1880年、アメリカ・カンザス州に住むドイツ移民の家庭に生まれた。
1911年にMLBのニューヨーク・ジャイアンツを訪ね、
監督のジョン・マグローに「自分がジャイアンツの優勝に貢献する投手になると占い師に予言された」と話した。
マグローは冗談で彼に入団試験を受けさせたが、その日からジャイアンツが連勝しはじめたため、ファウストは入団を許可された。
当初、ビジターの試合にはファウストを連れて行かなかったが、なぜかジャイアンツは苦戦した。
ファウストを帯同した場合、ジャイアンツは36勝2敗という驚異的な成績を収めた。
ファウストは地元の新聞紙に取り上げられて人気者となり、ベンチ内ではジョークを飛ばしてチームの士気を高めた。
ただしワールドシリーズではその神通力は発揮されず、ジャイアンツはアスレチックスに敗れた。
優勝決定後、ファウストは2試合で9回を任されて1失点に抑えた。
しかし、もちろんファウストに野球の才能はなく、その投球はへろへろだったという。
翌年もファウストはチームに帯同し、ジャイアンツは最高のスタートを切った。
ファウストがいた時期のジャイアンツの勝率は8割を超えたという。
だがファウストがあまりにも「投手をやらせろ」とうるさかったので、マグローはとうとう彼を解雇してしまった。
チームの連勝は止まったものの、最終的にジャイアンツは優勝した。
冬至冬中冬始め!
冬至!
今年の冬は焼きリンゴ作りに暖簾に腕押し腕まくりで精を出すわよ!
なんでも火でこんがり焼いちゃおうって、
調子に乗って焼きキノコも作ろうとしたら焼きすぎて灰になって天に舞ってしまいました。
私の雪国まいたけがー!
そんな私の心の俳句を詠みたくなるほど。
あと野営しているゴブリンのアジトに口笛を吹いて遠くから火のついた弓矢で奇襲するのにももう慣れました。
最初は可愛そうって思ってたけど、
背に腹は川背られないけど、
ごめんなさいね。
あとさ歩き回ってるんだけど、
まあゼルダの話しなんだけどね。
雪国に行ったら寒くて死んじゃうし、
泳ぎ渡りきれると思って泳いでいったら寸前で息が続かなく息絶えて溺れちゃうし、
あとなかなかこの土地ではもうキノコと植物しか食材がなくてコウモリみたいなモンスターの目玉も焼いてみようと思います。
それはさておき、
本当に寒くなってきたから、
なるべく攻略本の類いは読まないようにしているんだけど、
どうしても読みたくなるのよね。
もうどこに行っていいか詰んでるかんじだわ。
そんなに広くない大地なのに
山がそびえ立っていたり、
小さな湖もあったり、
きっとその向こうには何かがあるはずなんだけど、
本当にこれって人間が私含めて35人で戦っているのかしら?と
ようやく私はデスマッチで1位を取ること達成したのよ!
もう感々無量だわ!
ヒーローインタビューしたいぐらい!
スーパーマリオの1-1と1-2を延々にやり続けるとは思わなかったし、
たまにくる1-3の空中アスレチックステージもなんとか足を踏み外さないようにうまくゴールできるようになったわ。
日々人って成長ね。
そう思う自分が成長したと言う実感を噛みしめまくりつつましく!って思える冬休みにしたいと思わない?
だから私はたぶんこの冬ゼルダとマリオをで走り回る旅に出ると思うから、
でもさー
ググったら負けって言うし、
ここはしかとしばらくはオープンワールドのフィールドを走り回りたいと思うし。
そうあと聞いてよ。
弓矢で鳥を仕留められて鶏肉ゲットよ!
あ!これも火で焼いたら、
美味しいローストビーフが出来るんじゃない?
走って逃げていったので追いかけて行ったけど追いつけなくて、
この時期のこの時期のよ!
あの年賀状書き!どいめんがくさいのよ!
不慣れなことを
日頃あまりしないことをすると絶対に間違えるという黄金パターン。
ああ、
絶対私ゼルダ年賀状印刷クエスト両面裏表間違えて印刷しそうよ。
自信あるわ。
なんでゲームの中で年賀状せっせと印刷するクエストがあるのよ!って
なんとも皮肉ね。
お手紙渡して
うふふ。
具は控えめね。
そんな感じ。
1つにしました。
そう!もう読めたかしら?
私とのお約束よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
3月ごろに「ブックメーカーで生活費稼いでるんだけど質問ある?」という2chのスレを見て以来乗ってみた一人です。
2chのブックメーカースレにはけっこう似たような人がいたらしいけど、なんとか生存しているのでここまできた経緯を淡々と書いていこうと思う。
4ヶ月トータルで賭けた金額は2700ドルくらい。(回収しながら賭けるので元手はもっと少ないです)で、利用ブックメーカーはピナクルスポーツのみ。
サッカーが好きなのでヨーロッパサッカーを中心に賭けていた。時々NBA。
回収率は80%程度。4ヶ月の中では一番損した時期。
損した理由はわりと明白で、レアル対バルサのクラシコに大きく賭けて大敗したり、どれくらいの金額で賭けていけばいいのかがまだよく分からなかった。
賭けた内容と結果を細かくノートに記録していた。
回収率は99%と3月に比べると安定した。
NBAであまり稼げなくなったので、日本のプロ野球とメジャーリーグ、あとJ1やJ2にも賭けるようになった。
普段見ているだけでなく情報が得られやすい競技に賭けるようになったので回収率が安定してきたように思う。
金額も多少幅を出しながらもほぼ一定の金額を賭けるようになったので、もう少しで回収率100%越えというところまできた。
ヤンキースの田中将大が無敗記録を続けていた時期でもあり、彼のおかげでいくつか勝たせてもらった。
回収率は97%で、安定と言えば安定だがトータルでプラスを出せないのが悔しかった。
賭け方は4月とほぼ一緒。平日は野球、週末はそれに加えサッカーといった感じ。
ヨーロッパのサッカーが5月半ばにはほぼシーズンを終えたので、後半は賭ける対象がほぼ野球のみ。
ワールドカップの直前でもあったので代表チーム同士の親善試合にもいくつか賭けたがプラスにはならなかった。
という感じで、比較的安定はしていたが後半に取りこぼしが多くて回収率が97%止まり。
ワールドカップ見ていた人は分かると思うが大国が早々に敗退していく波乱含みの展開が多く、ワールドカップで損を大きく出してしまった。
韓国のグループリーグ敗退、アメリカのグループリーグ通過に賭けていたので多少持ち直したが、ワールドカップで損した分を野球で取り返しということを繰り返す月だった。
まだ今月は終わってないので現在進行形だが、回収率は114%。ようやく月単体でプラスを出せるようになった。
ワールドカップのドイツ優勝とドイツの決勝進出に、少額だが事前に賭けていたおかげでこの結果がプラス幅の半分に寄与している。
残り半分はほぼメジャーリーグでとっている。開幕からずっと見続けているせいか、選手の名前(特に先発投手陣)も大分覚えてきたのが結果につながっていると思う。
あと、野球はチームのコンディションや勢いがけっこう重要で、戦力はあってもずるずる連敗するときもあれば中堅チームが連勝を続けたりする。今年ならロイヤルズやブレーブスなど。
こういったことも考慮しつつ、組み合わせチームの相性や強弱を見て賭けるようになったので、かなり安定してきた。負けても大きくマイナスを出すことが減った。
あと、タイガースやアスレチックスといった勝率が安定して6割前後のチームに賭け続けるのはけっこうおいしい。チーム状態が悪くなければほぼ毎試合賭けている。
逆に、カブスやレンジャースのような勝率が4割前後のチームには逆張りで賭けている。ただしレンジャースはダルビッシュが投げるときだけ逆張りはしない。
時系列的に書くとこんな感じ。
メジャーをベースにしつつ、合間に日本の野球やJ1、J2、あと来月から始まるヨーロッパサッカーにちまちま賭けていく感じでいく予定。
雑感としては、途中からメジャーに主戦場をしぼったように、ある程度目途をつけながら賭けるほうが安定につながる気はしている。
日によって波乱は起きるから予想が外れることもあるが、重要なのは勝つことよりも大きな負けをしないこと。
オッズがかなり低く設定されていて、いかにも賭けてくださいと言わんばかりの状況でも何が起きるか分からないのがスポーツ(だから面白いわけだが)であって、冷静に、データを見ながら賭けることが大事だ。
データに関しては、たとえばメジャーならMLBのサイトに選手やチームのデータや事前のゲームプレビューなどが載っている。もちろん全て英語だが。
日本の野球やJリーグならヤフースポーツにもデータはそこそこあるが、海外のスポーツだと乏しい。サッカーだとsoccerwayのお世話になってる。
まあ、まだ始めてから4ヶ月程度のアマチュアだが、マイナスを出し続けたあとに安定してプラスが出てきた(かもしれない)ということをとりあえず報告しておこうと思う。
メジャーリーグのワールドシリーズがついに始まりましたね。そこで、5日ほど前のものですが、アメリカ3大ネットワークの1つNBCによる上原の記事を翻訳してみました。誤訳があったらご指摘ください。
ウエハラ・フェノメノン
http://hardballtalk.nbcsports.com/2013/10/18/the-uehara-phenomenon/
さて、君もおそらく、今年のボストン(レッドソックス)の上原浩治が、野球史上の全投手と比べて、最も塁に出るのが難しい投手だったということをご存知だろう。それはとてもいいことだ。ここにWHIP(1イニングあたりの被安打と与四球の合計。少ないほど出塁されていない)の歴代トップ10、少なくとも50イニング以上を投げた投手のリストがある。
2. デニス・エカーズリー, 1989年, 0.607
3. デニス・エカーズリー, 1990年, 0.614
8. J.J.プッツ, 2007年, 0.698
興味深い小ネタを2つほど――リストの11位はまたも上原で、2011年のことだ。12位は? ペドロ(ペドロ・マルチネス)だ。それは2000年のことで、WHIPは0.737であった。彼がほかの選手の3倍のイニングを投げたことを考えると(訳注:ペドロ・マルチネスは先発投手)、彼の三振四球比(K/BB)が284割る……まあ、多くの人々が、ペドロの2000年のシーズンこそ野球史上で最高のシーズンであったと信じるのも、驚きではないだろう。
とにかく、トップ10を見れば君も気づくだろう……クローザー(抑え投手)だ。いや、そのうちの2人――ベノワとメレディス――はセットアップマン(セットアッパー、中抑え)だが、残りは全てクローザーである。歴代のWHIPトップ10のうち8人がクローザーだという事実は「9回はアウトを奪うのが最も難しいイニングだ」という神話に小さな短剣を投げつけるかも知れない。だが、今日のポイントはそこではない。我々が焦点を絞っているのは上原だ。
上原がキャリアをスタートさせたのは日本である――大阪大学(訳注:大阪体育大学の誤り)を出て、ドラフト1位で指名されたのだ。上原は1年目に20勝を挙げて、読売ジャイアンツの先発投手として活躍。また、オリンピックやWBCなどでは、日本代表の先発投手としてめざましい活躍を遂げた。2007年、32歳のときに、上原は読売のクローザーになり、そこでも周囲を圧倒した。2008年のシーズン終了後、上原は先発投手としてボルチモア・オリオールズと契約する。(しかし2009年)彼はもがき苦しんだ。彼は故障した。翌年、オリオールズは上原をブルペンに送った(リリーフに転向させた)。上原は驚くべきコントロールを見せ(44イニングで与四球は5個)、いくつかの試合では実際にボルチモアのクローザーもつとめた。だが、誰も彼に熱狂することはなかった。
そして2011年、当時は誰も驚異とは考えなかった驚異のトレードが行われることになる。
オリオールズは上原と幾ばくかの金銭をテキサス・レンジャーズに送った。レンジャーズはトミー・ハンターという悩める先発投手と、クリス・デービスというマイナーリーグの一塁手を送り返したのである。
私は、彼らが言うことも正しいと思う。将来の50本塁打男(訳注:デービスは今年のアメリカンリーグ本塁打王・打点王)と、年間WHIPの史上最少記録保持投手を、小さなトレードが生むことになるなんて知るよしもない。OK、それがことわざだかどうかは分からない(訳注:ここら辺ちょっと自信なし)。上原はレンジャーズでいい投球をしたが、怪我なしで居続けることはできなかった。テキサスでのWHIPは驚天動地の0.685。純粋に安打を打たれなかったし、四球も出さなかった。だが、1年半でたった54イニングしか投げなかった。そしてともかく、ただ1つ、誰もが本当に注目したのは、上原が2011年のポストシーズンの3試合で苦しんだということだった。それはおおむね1試合のことだ。2011年の地区シリーズ、タンパベイ(レイズ)との一戦で、上原は7対3でリードする7回に登板。すぐさまデズモンド・ジェニングスに四球を与えると、B.J.アップトンにライナー性の安打を打たれ、エバン・ロンゴリアに本塁打を打たれた。そして降板させられた。
上原はまた、デトロイト(タイガース)とのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズにおける、次の二度の出番でも失点を許した。しかし私は、それが酸っぱい後味を残した初めての出番だったのではないかと思う。上原はそれまで、アメリカの野球ファンたちの心に、何一つ印象を残してこなかった。無地のスレート(屋根葺き用の石板)のようなものだったのである。ロンゴリアの惨事のあと、誰もが皆、上原に(悪い)印象を持った。翌年、上原はボルチモア(オリオールズ)とのワイルドカード決定戦に、レンジャーズがすでに3対1で負けている状況で登板。トレード相手のクリス・デービスを三振に仕留めた。アダム・ジョーンズも三振に仕留めた。マット・ウィータースも三振に仕留めた。だが、それは大事な局面ではなかったし、ロンゴリアの記憶を消し去るのに十分ではなかった。
レッドソックスは、425万ドル(約4億2500万円)という以前と同じくらい少額の契約で、上原と1年契約を結んだ(とはいえ、今では2年契約になっている。付与オプションが有効になったからだ。ボストンにとって大変嬉しいことだろう)。上原はクローザーではなく、セットアップマンでもなく、セットアップマンのためのセットアップですらなく、単なるチームの6イニングの選択肢になろうとしていた。レッドソックスの本来のクローザーは剛速球投手のジョエル・ハンラハンであった。ハンラハンは9試合で肘を破裂させ、トミー・ジョン手術を受けた。
そこで全員1つずつ繰り上がった。つまり、今やアンドリュー・ベイリーがクローザーになったということだ。ベイリーはアスレチックスのクローザーとして2009年に新人王を獲得し、翌年もまた周囲を圧倒していたが、その後はあらゆる怪我と辛苦を経験していた。ベイリーはレッドソックスのクローザーを3カ月弱つとめ――そして肩を故障した。6月26日、レッドソックスは上原をクローザーに指名した。
ではここで、上原の残りのシーズン(クローザー指名後)の成績をご紹介していこうと思う。拍手喝采は紹介が終わるまでお待ちいただきたい。
投球回:44 1/3
被安打:14
ふざけてるよな:分かるよ。
失点:3
被本塁打:1
三振:59
与四球:2
待った、今すぐ止めろ:2四球。よく見ろ。
被打率:.094
被長打率:.152
早く言えよ:ちゃんと頼め。
WHIP:0.358
紳士淑女の皆様、ご来場ありがとう。気をつけてお帰りください。
どうやって? OK、これはたった44回1/3でサンプルとして少なすぎるし、クローザーは1試合でたった1イニングしか投げないし……、どうやって?? 上原浩治は剛速球を投げない。Pitch f/xは上原の速球が平均で89.2マイル(143.6キロ)だと示しており、これは彼が日本から来たときとだいたい同じままだ。上原のマネーピッチ(決め球)、スプリットフィンガー・ファーストボールは約81マイル(130.4キロ)。102マイル(164.1キロ)の速球の世界で、一体どうすれば上原は対戦相手に出塁するのが無理だと証明できたのだろうか?
もちろん、コントロールの話から口火を切ることができるだろう。これはマリアノ・リベラの栄光の輝きの中で、常に最も過小評価されてきた部分の1つである――そう、リベラは対戦したみんなのバットをへし折ってきたし、同じ球を繰り返し繰り返し投げ続けてきたが、四球で自滅することはまずあり得なかった。リベラの最高のシーズンはおそらく2008年だ。彼は70回2/3で6人の打者にしか四球を出さなかった。
上原は、大リーグでのキャリアを通じて常に、気が狂うほどコントロールが良かった。2012年のレンジャーズでは、わずか36イニングしか投げなかったが、四球を出したのはたった3人だ。我々は、キンブレルの代名詞である剛速球を投げるようなクローザーと恋に落ちている(訳注:ここら辺自信なし)。しかし、剛速球を投げない代わりに、ピンポイントコントロールと多くの惑わし(投球術)で成功した名クローザーたちは、これまでにも多数――デニス・エカーズリーを筆頭とするが、偉大なるダン・クイゼンベリーとダグ・ジョーンズも含まれる――存在した。上原も明確にそれらを備えている。
2つめはこれだ:上原の投球――特に、ツーシーム・ファーストボールとスプリッター――が非常に鋭く動き、メジャーリーグの打者たちはしばしば当てるのに失敗しているということ。それがストライクゾーン内であったとしても。これは重大だ。大リーグの打者はストライクゾーン内のボールにバットを振るとき、一般に大成功を収めるものである。今年、打者がストライクゾーン内でスイングした上原のボールは、31.1%が空振りだった。これはいうまでもなく球界で最高のパーセンテージだ。
ストライクゾーン内のボールで打者を空振りさせた投手のトップ5は:
2. エルネスト・フリエリ, 26.9%
3. アロルディス・チャップマン, 25.6%
さて、同じトップ5の速球の平均急速は:
ああ、そうだ。君にも違いが分かるだろう。彼らは打者のバットを吹き飛ばす。上原は打者のバットの上下を通り抜けるのだ。上原には、大きく違う方向に動く2つの球種がある。ツーシーム・ファーストボールは右打者に向かって突っ込んでくるかのように見えるし、左打者を引き剥がす――リベラの代名詞カッターの逆バージョンのようなものだ。そして、スプリットフィンガー・ファーストボールはチェンジアップのように機能する傾向がある(速球より8マイル遅い。これは理想的な差に近い)上、遅くになって急降下する。打者の観点からすると、これは見たところ(飛び回る)スズメバチと、地中から現れるゾンビの手に、攻撃されるかすら定かではないまま、草原に踏み入れるようなものらしい。打者はどこを見ればいいのか分からないのだ。
全力の上原を前にしては、今や逃げ場などどこにも存在しないのだ。
特に、上原は今38歳で、レッドソックスは上原をクローザーとする前に2人の男たちを試していたということを考慮すると、これは極めて異例な才能の行列である。ここまでのポストシーズンで上原は7試合に登板し、そのうちの1試合でタンパベイのホセ・ロバトンにサヨナラホームランを許した。ほかには、落ち着く前にタイガースの2人から安打を打たれたが、失点は許さずにイニングを終わらせた。木曜日、上原は1回2/3をパーフェクトに抑えた。
全体として、このポストシーズン、上原は8イニングを投げて安打を4本で抑えた。WHIPは0.500。ここまで、一人の打者にも四球を出していない。