はてなキーワード: 村上雅則とは
メジャーリーグベースボールのボストン・レッドソックス等で活躍した田澤純一投手が13日、日本の独立リーグ BCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団した。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200713/k10012512801000.html
日本人歴代3位のメジャーリーグ388試合登板というリリーフ投手としてメジャーリーグで積み上げた数字の割には、日本では知名度が低いだろう。
それは通常、日本でスター選手になり満を持してアメリカに渡る選手が多い中、田澤選手は日本プロ野球に所属した経験が無いからである。
「日本のドラフトを拒否して直接海外挑戦した場合、日本に戻っても高校出身選手は3年間、大学・社会人出身選手は2年間、ドラフトで指名できない」
というものだ。
プロ野球12球団の申し合わせ事項となっており、通称で田澤ルールと呼ばれる。
これはまさに田澤選手が引き金となって作られたルールであり、本人が希望したとしても、巨人や阪神などのいわゆるプロ野球の球団にはすぐに入団できないということである。
田澤選手は、高校を卒業後、社会人野球のJX-ENEOSに進んだ。
JX-ENEOSで活躍して評価を高め、複数球団からドラフト1位候補として名を挙げられるようになった。
しかし、ドラフト指名が確実視されていた2008年、メジャーリーグ(MLB)挑戦を打ち出した。アマチュア有望株のMLB挑戦について、当時の球界には一大騒動が巻き起こった。
田澤選手はNPBの全球団にドラフト指名を見合わせるよう文書を送付し、バッシングを受けながらも最終的にMLBの球団と契約した。
これを受けて、NPBの球団は事後的に上述のルールを定めたのである。
1995年の野茂英雄氏をパイオニアとして(ただし、日本人初のメジャーリーガーは1960年代の村上雅則氏)、その後数々のプロ野球選手がアメリカに渡ったが、ルールは問題が発生するたびにその都度整備されてきた。
野茂氏のMLB移籍も複雑な話だった訳であるが、長くなるためここでは割愛する。
NPBを経ずにMLBに行こうとする日本人選手が現れるのはどんな背景があるのか。
海外移籍のためのフリーエージェントの権利を得るのに9年の1軍登録が必要だからだ。2軍暮らしが長ければもっと時間がかかる。
原則と書いたのは、ポスティング制度を利用すればそれより短い期間で移籍できるからである。
しかし球団が認めなければポスティングでは移籍できないので、海外フリーエージェント権を得ない限り移籍の自由は保証されない。
MLBに挑戦するのが30歳近くなれば、選手によっては全盛期を過ぎていることもある。
数年間日本で実績を積んでMLBにステップアップしよう等ということはできないのである。
日本人選手が自由に海外球団と契約できることは、NPBのレベル低下につながる。
しかしながら、「NPBからオファーがあったにも関わらず、それを蹴って海外球団と契約されてはNPBの面子が立たない。面子を立てなかった選手の面倒は見ない」という裏の声が聞こえてしまうように思えてならない。
一方で日本の球団は、チェン・ウェイン、リン・イーハウなどといった台湾の有望選手を獲得している。
また、昨年には異例中の異例で、2018年にMLBドラフト1巡目指名を受けたが契約に至らず、2019年にも再度の1巡目指名確実と言われたカーター・スチュワートがMLBを経ずにNPB入りしている。
ここ数年の田澤選手はアメリカでもマイナー暮らしで、力は落ちてきていると見られる。
したがって、田澤ルールが無かったとしても今の実力でNPBで投げれるかは未知数だ。まして2年後、3年後にNPBの球団が獲得する保証はない。
とは言うものの、インタビュー記事からすると、田澤選手自身もこのルールには従っている。
しかし、将来の選手のためにも、このようなルールが少しでも変わっていくことを願っていることも事実のようだ。
https://full-count.jp/2020/07/14/post829635/
田澤ルールは田澤選手が渡米した事後にできたルールだから、田澤選手には適用されないのではという説もある。
もっとも、NPBの球団が田澤選手をドラフトで指名する動きが無いため表面化していないが。
レベルや報酬の面でNPBがMLBに敵わない以上、アマチュア・プロ問わず今後も多くの選手がMLBを志望するだろう。
しかし、この田澤ルールについては、大物アマチュア選手がMLB志望を口にすると、たびたび話題にはなったものの、深い議論には至らず置き去りになっているように思える。
この年数はアマチュア選手にとってどんな心理的影響を与えるのか。年数を変えたらどうなるのか。
同じ目的を達成するのに、他の手段ではダメなのか。どうしてもこのルールである必要があるのか。
議論を重ねた上で、最終的に結論は変わらないかもしれない。しかし今はまだその議論がなされていない。選手の契約、移籍に関する問題は発展途上だ。
野茂英雄がメジャーリーグデビューして以来、多くの日本人投手が海を渡ったわけだけれど、誰がどのくらい登板してきたのか集計してみたら感覚と違っていたので公開してみる。下記のリストは1995年以降2016年までデータである。
上原、田澤はいつの間にか日本人トップクラスの登板数に達しようとしていた。
などなど
選手名 | 登板数 |
Shigetoshi Hasegawa | 517 |
Koji Uehara | 387 |
Takashi Saito | 338 |
Hideo Nomo | 323 |
Junichi Tazawa | 302 |
Hideki Okajima | 266 |
Akinori Otsuka | 236 |
Kazuhiro Sasaki | 228 |
Hiroki Kuroda | 212 |
Tomo Ohka | 202 |
Hisanori Takahashi | 168 |
Masato Yoshii | 162 |
Daisuke Matsuzaka | 158 |
Hisashi Iwakuma | 144 |
Hideki Irabu | 126 |
Mac Suzuki | 117 |
Jeff McCurry | 111 |
Steve Randolph | 109 |
Kazuhisa Ishii | 105 |
Keiichi Yabu | 100 |
Yu Darvish | 100 |
Shingo Takatsu | 99 |
Ryota Igarashi | 83 |
Masahiro Tanaka | 75 |
Masahide Kobayashi | 67 |
Masao Kida | 65 |
Yoshinori Tateyama | 53 |
Kenshin Kawakami | 50 |
Yasuhiko Yabuta | 43 |
Takashi Kashiwada | 35 |
Kenta Maeda | 32 |
Micheal Nakamura | 31 |
Kyuji Fujikawa | 29 |
Ken Takahashi | 28 |
Satoru Komiyama | 25 |
Takahito Nomura | 21 |
Tsuyoshi Wada | 21 |
Masumi Kuwata | 19 |
Craig House | 16 |
Kei Igawa | 16 |
Kazuhito Tadano | 15 |
Kazuo Fukumori | 4 |
Ichiro Suzuki | 1 |
Toru Murata | 1 |
(1995年以降2016年までhttp://www.baseball-reference.comのデータから。Baseball-Reference.comではスティーブン・ランドルフ(沖縄生まれ、元ベイスターズ)、ジェフ・マッカリー(東京生まれ)、クレイグ・ハウス(沖縄生まれ)も日本人扱いらしい。リストにいない村上雅則は1964〜1965年に54登板、1先発である。)
先発登板に限るとどうなるかも見てみる。
選手名 | 先発登板数 |
Hideo Nomo | 318 |
Hiroki Kuroda | 211 |
Tomo Ohka | 178 |
Daisuke Matsuzaka | 132 |
Hisashi Iwakuma | 130 |
Masato Yoshii | 118 |
Kazuhisa Ishii | 102 |
Yu Darvish | 100 |
Hideki Irabu | 80 |
Masahiro Tanaka | 75 |
Mac Suzuki | 67 |
Kenshin Kawakami | 41 |
Kenta Maeda | 32 |
Tsuyoshi Wada | 20 |
Kei Igawa | 13 |
Hisanori Takahashi | 12 |
Koji Uehara | 12 |
Shigetoshi Hasegawa | 8 |
Steve Randolph | 6 |
Junichi Tazawa | 4 |
Kazuhito Tadano | 4 |
Masao Kida | 2 |
Toru Murata | 1 |
日本人だけの登板数を見てきたが、日本人の登板数はメジャーリーグ全体の中でどれくらいの比率を占めているのかというと1.32%だった。数字は小さいが、カナダとキューバの間というと結構多くも感じる比率である。
国名 | 国別投手登板数 | 比率 |
アメリカ合衆国 | 300,024 | 75.44% |
ドミニカ共和国 | 41,119 | 10.34% |
ベネズエラ・ボリバル共和国 | 14,651 | 3.68% |
メキシコ | 8,354 | 2.10% |
プエルトリコ | 6,515 | 1.64% |
カナダ | 5,596 | 1.41% |
日本 | 5,240 | 1.32% |
キューバ | 3,674 | 0.92% |
パナマ | 2,845 | 0.72% |
オーストラリア | 2,311 | 0.58% |
大韓民国 | 1,508 | 0.38% |
ニカラグア | 1,083 | 0.27% |
ドイツ | 903 | 0.23% |
台湾 | 726 | 0.18% |
コロンビア | 636 | 0.16% |
キュラソー | 566 | 0.14% |
ベトナム | 518 | 0.13% |
アルバ | 367 | 0.09% |
イギリス | 325 | 0.08% |
ジャマイカ | 258 | 0.06% |
サウジアラビア | 165 | 0.04% |
フィリピン | 111 | 0.03% |
インドネシア | 80 | 0.02% |
オランダ | 50 | 0.01% |
ブラジル | 42 | 0.01% |
香港 | 15 | 0.00% |
アフガニスタン | 8 | 0.00% |
スペイン | 7 | 0.00% |
アメリカ領ヴァージン諸島 | 6 | 0.00% |
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。