はてなキーワード: 理想主義とは
それでも、決して到達できない「理想」として普遍を目指すのが知性というものではないですか?
例えば、「中立報道」なるものがリアルワールドに実在しないからといって、
「結局は個人の感想じゃん。プロの記者が取材して悩みながら書いた記事とオレの感想は同等だ」と結論しちゃったら、
ネットde真実とか陰謀論方面に落ちていくのは容易に想像できますよね?
「そんなのウソじゃん。強い奴が威張ってるのが現実じゃん」と言ってしまったら
国連で議論されてるようなことはタテマエであって、現実はチカラが支配する世界なのだから
防衛力を強化して、なんなら攻められる前に攻める(積極的防衛)のが正解という主張は
一見「リアリスト」のように見えますが、実際はプーチンと同じ「脳筋」ですよね?
オバマ大統領が「理想主義」という言葉を多用したのはそういうことです。
決して到達できない理想を目指しつつ、現実と折り合いをつけようと悩み続けるのがまっとうな「リベラル」で、
ネット上でリベラルの人気がないのはそのせいですね。死ぬまでずっと修行を続けようなものだから…
「あなたの感想ですね」「お気持ち表明」みたいな言葉で冷笑してると、
悩んでる人より賢くなったような気分になるかもしれませんが、それこそがマボロシです。
ここ数日ブクマでも増田でも散々掘られているように、ソ連に端を発する共産党体制は「科学的」であり、党中枢が決定した具体的な仕様は「真実」とされ、その「真実」を下部組織が現実として社会実装する、観念論を奉じた完全な上意下達体制である。ニャこれはソ連も崩壊後のロシアも、今の中国でも日本共産党でも変わらない。下部構造で行われる議論は上部構造で尽くされた議論に完全に内包される。もちろん全ての議論は科学的であるから、建前で内包していることにして支離滅裂な呪文を書いてお茶を濁すにも限度がある。そして最高指導部だか書記長だかは知らんが、その人間組織のトップは共産党の御立派な理想に恐らく本気で忠誠を誓っている。
なれば普く共産党のやることなすことその御立派な理想と大枠で一貫性を持つ、ということになる。
しかし客観的に言って50年前100年前の御立派な理想など、そもそも生まれた当初は正しかったとて現実とは乖離してくる、いや人間社会の現実は露出度の低いセパレート型スクール水着を新しくフェチズムとして取り込むように意図を持ち明確であり科学的であり硬直したあらゆるものに適応しその意味を失わせるのである。しばし社会や競争環境について適応しないものは生き残れないと言われるのは単に一般的に言って競争は常に激化すると言っているのみならず、多項式の取る値を論じる上での定数項のように意味が薄いということも意味するのである。つまり共産党の科学的であり一貫性があり上意下達を旨とするその体制、その原理、その思想そのものが畢竟、時間とともに存在を失うことを決定されているのである。つまり共産党は真の共産党である限り滅ぶことが定まっているのだ。
余談だがこの硬直した理想主義体制の欠陥はソ連赤軍とその血を引くロシア連邦やウクライナ軍の弱さ、グダグダ感にも現れている。アメリカ実用主義は過程の正しさを重視しないから、末端が「反逆」しようが、上層部が現場に阿ろうが、官軍が敵方を虐殺する不公平な優位性を持つ戦闘を行おうが、勝てば官軍は勝つのである。明らかにその方が正しい。
理想社会の実現に向けて、神の視点を究めようと日々努力研鑽を惜しまない人。
そもそも、祥子さんがレイプを訴えた時、まず第三者委員会で調べるべきとだけ言っていて、
「祥子さんがレイプを訴えた」までを事実と考え、実際に何があったのか?までは判断を保留している。
神の視点でモノを言うから、やれ、上から目線だ、他人事だ、と非難されがちだけども、実は物凄くフェアな見方をしている。
草津温泉を好むか、嫌うかは個人個人が決めるべきだし、個人が風評に流されること自体あってはならないのだという、
被害者救済のためなら、どんな犠牲をも払う覚悟のある人道主義者。
隠岐さんが、司法で決着がついたら全てという立場に対して、郡司さんは、司法が完全ではないことを指摘していて、
証拠が無くて立証不可能な性犯罪被害に対しても、最後まで被害者側の立場に立ち続ける強靭な意思がある。
本人から聞いたわけじゃないけど、祥子さんがウソつきの異常者に変貌してしまったのも、
祥子さんへの周りの長年にわたる酷い扱いに原因があると考えているんじゃないかなと勝手に想像してる。
良くも悪くも文学少女。
フットワークの軽さから、フェミニズム問題にもいっちょかみしてるけど、本当は死ぬまで本を読んでいたいだけの人。
『所詮は人間、いかに優れた者でも時には我を忘れます(シェイクスピア)』
『悪口を言われて我が身を正すことの出来る人間は幸せと言うべきだ。(シェイクスピア)』
シェークスピアを学んだ彼女は、どんな人でも過ちを犯すことがあるし、
本人自身も含めて過ちに気づけば謝罪して正すべきだと信じてる。
『天は自ら行動しない者に救いの手をさしのべない。(シェイクスピア)』
(個人の感想です)
現代においてその代表例とされるのが世界平和だの人種民族の共存だの反差別とか
だから結果的に冷笑系の嘲笑の対象は左翼リベラル派の類になりやすい
つまり冷笑系は「俺は現実主義者の大人だぜ」というスタンスを取りたがるわけだが
一方で右派的な主張にもお花畑的な理想主義や嘘くさい過去の美化もある
明治から戦前の日本は教育勅語があったから理想的な聖人君子しかいなかったとか
戦国時代に残酷なことをしたのは織田信長一人だけで庶民はみな非暴力だったとか
自分は「人間はずるいし汚い(俺もな!)」という前提で生きてるから
「人間はずるいし汚いからこそ、せめてタテマエ上の正義や理想ぐらい必要」
ぐらいに思っておくべきではないか
大勲位菊花大綬章が授与されていたらしい。なんで。
戦後以降は没後叙勲のみのようだ。「総理大臣経験者のうち若くして亡くなると受勲」らしい。若いってなんだろう、ということはさておき、関係なくない? と思う。
一時期は新聞の影響で首相が降ろせることを面白がっているかのように、ものすごくどうでもいいことですぐ降ろされていた。今それを行われない理由は知らない。けれど、当時の誰かがすぐ成ってすぐ降ろされ別のが上がる感じは馬鹿馬鹿しかった。あの中でも総理大臣経験者なのだろう。
全然、尊敬できないのだ。彼らが総理大臣になったのは政治家や実業家の内輪でネゴが内輪の中で比較的上手かっただけとしか見えない。企業では通用しない方言のようなものに巧みだったのだろう。そして色々な苦難がある総理大臣に成るのは、経験しておくとその後の評価がまるで違うからのように見える。あの無能の極みのように見える M 氏があれだけ力を持つのだから。
それが見て取れる国際イベントは最悪だった。観測範囲では全員が似た印象を抱いているのに、どうやら政界では発言力があるらしい。それは、「偉い立場についたら発言力が保証される」ということが「偉い立場につく」メリットとして共有されているからだと思う。そうでなければ苦労して総理大臣など引き受けない、とでもいうような。
民主主義ってもっと合理的だと思っていたかった。客観的な事実を基にして合理的な判断を行う人がハンドルするものだと思っていた。
現在、民主主義国家は資本主義的合理主義に基づいている。儲けさえすれば法律も変えられるということをやってのけた企業があった。それでも保っていられるのは憲法があるからで、首長が変わってもなんとかやっていけるのは憲法があるからだ。
でもそれは憲法を変えようとした。私欲、というか、お仲間たちのために。それは民主主義を破壊する行為であるようにしか思えない。
昨今、資本主義的合理性に基づく判断が、社会主義国家の理想主義的行動を非道と叫ぶ。多数派だから。私としても縄張り争いの戦争は前世紀のものと思いたい。
でも、民主主義国家でまかり通っているよく分からない慣習が民主主義的であるとも思えない。だから彼らの行動を思想が異なるからこその違いとして咎める気が怒らない。何なんだろうこれは。主義で分けるべき問題なのだろうか。主義を全うしない人が元首になって、章まで受けるのに。
学者も役人も普通の人からしたら「高潔すぎて最短距離で利益のために動くのが苦手」な人だからそこが弱点
暇な空白さん(となるさんも?)ゲーマーでありビジネスマンだから
「そこまでクリーンじゃなくてもいい」
役人や学者って政治ニュース見てても庶民から見てすっとんきょうなこと言うでしょ?彼のズレはそれかな
でも、青識さんは議論好きもあるだろうけど、それ以上に彼の学者っぽさ役人っぽさが「損得より平等性」に走って、開かれてる状態を大事にしちゃう気がします
買いかぶり過ぎかな?
実際に、青識亜論さんは
と言ってまして、この辺は学者寄りの役人らしい発想だと感じました。
彼的なちゃんと対等な議論によって道を開かないとダメは、損得から言えば遠回りだけど学者役人発想では手続きを軽んじると汚い報復が来ますし
動画で言及されていた「差別する自由」も本人のコンプレックスと言うよりは、もっとリバタリアン的な自由を求める思考から来てるように見えるんですよね。
学者役人思考で自由で愚行が許される状態を求めると、フルオープン、全肯定なリバタリアン的な発想にたどり着くのかなと…いう感想
逆に民間的な発想なら
と思うし、私自身も青識亜論さんにはいささか理想主義すぎて遠回りまたは実現困難だと感じることもいくつかあります。
ただその部分を本人のコンプレックスや人格的欠点と解釈するのは、私はあまり好きではない
最短距離で不正と向き合う人も必要だし、理想論的であってもべき論や長い目で見て正しいプロセスを説く人も必要だと私は思います。むしろ両方選べるのが理想かと
暇な空白さんほど調査力もないし、青識亜論さんほど知識も広くないから同じ道は無理
要は「ネットにすごい人はいっぱいいるけど、それはその人の特殊能力だから、後ろにピッタリ張り付いて真似しなくてもいいし、一致しなくてもいい。自分の正解を見つけて孤独に歩め」ってことです。
好きなものを好きに発表できて、好きに楽しめたら、別にポリティカルな議論や問題周知する必要ないし
https://twitter.com/tm2501/status/1563204585182728193
(ぼくのかんそう)
ただツイッターで無責任な立場から無責任に語ってるだけの行為を
「私は文化的に素晴らしい作品やクリエイターをブログや裏垢で応援しながら、表では強硬的すぎない範囲で議論という「経済合理性と、周知」の二段構えになるように努力してる感じ」って表現できるのしゅごい。
西原理恵子について、思っていたことを適当に書く。ちなみに私は1985年生まれで東京の僻地でぬくぬく生まれ育った軟弱な人間。
今手元に本がなくて時系列は間違ってると思うからその辺はいい感じに脳内保管してくれると助かる…。
西原理恵子との出会いはもうよくおぼえていない。多分ダヴィンチとかカルチャー誌に載っていたのを読んで興味を持ったんじゃないかと推測している。
私はいろいろあって学校に行けない子供だったので、午前中に図書館に逃避し、そこで西原理恵子の本を借りたり、その帰りのブックオフでお小遣いで買ったりしていた。なので、売り上げに貢献していない読者だと思う。本当にそれは申し訳ない。
話を戻すと、最初に買ったのは「まあじゃんほうろうき」だったと思う。何故これだったかというと、単純にブックオフで全部100円で買えたから。
中学生くらいの私(今から22年前だ…時間の流れ怖っ)にはめくるめく世界だった。一気に西原の漫画に夢中になったし、彼女が大物とも臆せず交流する人間的魅力にも惹かれ、私も大人になったら雀荘で夜通し麻雀をする大人になろうと思っていた。
尚、36歳現在、麻雀はできるが雀荘には一度も行ったことがない。
その次は「鳥頭紀行」に衝撃を受けた。なんだこれ。大人になったらこんなジャングルとかにも行けるのか。幼少期から旅行記好きの私の心はがっちり掴まれた。
私も大人になったら世界中を飛び回りたい。しかもお酒が美味しそう。西原は良い仲間に恵まれてて羨ましい。でも、それは本人に魅力があるからだろう。私も西原みたいな大人になって、楽しい仲間とさまざまな国でお酒を飲んでみたい。心底そう思った。
尚、36歳現在、海外には一度も行ったことはない上に体質で酒は一滴も飲めない。
病気で高校には行けなかったが、年齢が上がったことでネット環境を与えられ、もう時効だと思うから白状するが私は体調の良い日はブックオフで「せどり」をして小遣いを稼いでいた。そのお金で、西原の本を揃えられる限り揃えはじめた。
「ちくろ幼稚園」にはじまり「ゆんぼくん」「ぼくんち」などの叙情系を読み、「あの破天荒な西原がこんなに繊細な漫画も描けるのか!!」と素直に才能に感心したし、それまでの彼女の人生に思いを馳せたりもした。
その他、著作は書ききれないほど(この時点で2000年くらいかな)あったが、どれも思春期で学校に行けず友達を作る機会もない私には輝いて見えた。こんな大人もいるんだという、一つのロールモデルとして彼女は私の中に刻まれていた。
もちろん、西原にはなれないのはわかっていた。それでも、世の中にはいろんな人がいる。そう思えるだけで、世界はいくらでも広がっていく。
そんな私が潮目が変わったと感じたのは2001年の「西原理恵子 大ブレークへの道」あたりからだと思う。既刊をあらかた買い読み尽くし、関連人物の書籍も一通り読み終え、とうとう私はリアルタイムで西原を追いはじめた。この頃はまだせどりも可能で毎月一定の額を稼いでいた私は、とうとう西原の本を定価で買うことができるようになる。
少しそれるが、西原の漫画はコミックというより書籍扱いなので一般的な漫画よりページ数が少なく、高い。
なので、いくら稼いでいるとはいえ(体調の良い時しかできないしな)合計しても小遣い程度の私には定価で買うのはまあまあ大変な額ではあった。でも、西原のことは信頼していて、躊躇うことはなかったと思う。
なのに、ちょうどこの頃の新刊あたりから内容がどこに向かっているのかよくわからない本が多くなった気がした。
加えて、2002年で新聞連載をはじめると、必然的に家族の話題が中心になる。
私は西原を作家としては信頼していたが、人間性まで盲信はできなかった。確か、「人生一年生」(1号か2号か忘れた)の中で安野モヨコが「西原の漫画は好きだけど、友人として近づきたいわけではない」という旨のコメントをしていたのがすごく心に残った。
そうなんだ。西原は漫画家としては才能があるけど、だから人間性もすべて素晴らしい人ではない。魅力的ではあるが、何かが欠けている。それが欠けているからこその魅力であり、埋めてしまうと彼女は漫画を描けなくなってしまう気がする。
そういった私の中の西原への印象を、端的に言葉にしたようなコメントだと思った。
そこから新聞連載は興味があまりなかったこともあり、新刊を時々は買うものの「何か違うな…」と思うことが多々あった。おそらく、それは私が目まぐるしく成長していた時期だったからだと思う。
私の西原への熱量は冷めていき、一応情報を追ってはいるが興味が持てなくなっていった。
それは華々しいが、私が西原の魅力と感じていた部分がそれによって表せていたかというと疑問だ。
「大体、絵本とかで良い話描く際に必ず草原に青い空って手抜きじゃね?」
というくらいに、この頃から私の中で西原は「青い空の下草原をバックに良いこと言う作家」というイメージに変わっていった。漫画だと手抜きも笑えるけど、良い話、しかも絵本になると「それでいいのか?」という気持ちになるから不思議。
更にだんだんと文化人枠に入っていくのも不思議なものを見ている感じだった。新聞連載は最初ちょっと読んだくらいなので、「良い母」としてCMに出る西原は不思議な感じがした。だって、西原ってあんなにめちゃくちゃやってる人なのになんでこんな綺麗にコーティングされているんだろう?
無頼派の新刊も、かっちゃんのマネー頼りの内容が多くなり、金で解決するオチが頻発して食傷気味になっていた。
そして20歳を超えた私は、新刊を諦めかつて夢中になっていた既刊を読み返すことにした。
しかし、それを読む私は確実に昔より成長していたらしい。
西原の本に出てくる友達は男性ばかりで、特に仲の良い人はおそらく恋人だ。頻繁に出ていた人が急に出なくなるのは、きっと別れたからだろう。そう思った。そしてあんなに友人が出てくるのに、女性の友人は数えるほどしか出てない、もしくは出てもすぐに出なくなる。
それまでも、西原の本の内容が「嘘」であることは欄外などに語られていた。でもそれは面白くするための嘘であって、自分をよく見せるための嘘ではないんだろうと勝手に思い込んでいた。
しかし私が大人になったのか、女性の友人があまり出てこない事実に気付き、いろんなメッキが剥がれていった。
そして惰性で書店に行くついでに新刊をめくると、息子と娘の扱いに差がある気がする。
親との確執、特に露骨に弟を贔屓し全肯定するのに私を全否定する母親との確執がある私にとって、それが気になった途端、新刊を追うことはできなくなった。
とりあえずかっちゃんとの交際が公になったまではまあ「ふーん」と聞き流していたが、その後のMXテレビでの女性器発言をかっちゃんに解決してもらうところはすごく悲しかった。
なんていうか、それまで強い男に媚びてのし上ってきたんだろうなと気づいてはいたものの、なるべくそこは見ないようにしていたのに、鼻先に思い切り突きつけられた気がして。
それでもまだまだ西原はアル中の鴨ちゃんを看取りシングルで子供2人を育てた良き妻、良き母。かっちゃんとの関係はまだ女を捨てていない素敵な関係。そういうイメージの媒体を見るたびに悲しくなってしまった。そこには、私の好きだった西原が小さくなっていて、よくわからない素敵そうなものが大きな顔をしている。そういうふうに私には見えた。
とどめを刺したのは、「女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと」だった。
私の中で、女性作家が若い女性に向けた提言本を出すと、それはもう終わりの始まりだという謎の思い込みがある。
(男性作家にも一部そういう人はいるが、どういうわけか面白く書く人もいて、この辺はいつも不思議。要するに成功した男性のロールモデルは数種類いるのに対し、成功した女性のロールモデルは種類が少なく画一的だからだろうと思っている)
結婚し子供を産んだ。金も男も手に入れた。確かに、そういう意味で西原に憧れる人もいるんだろう。そして、この本が響く人もいっぱいいるんだろう。
でも私は病気で学校に行けなくて、どんなに頑張っても今の世の中だと普通に働いて結婚して子供産むとかすごくハードなことで…。そんな私のコンプレックスなんて西原にはなんにも関係ない。でも、かつての本には弱者への目線も書かれていて、その人たちを笑わそうと体を張っているすごい人だと幼い私には見えていた。
それだけに、いわゆる「成功した作家」が提言本を出すのが、私には作家として何かを手放しているように思えて仕方なかった。
そんでもって相変わらず「青い空の下草原をバックに」表紙だしな!
(別に丁寧に細密な絵を描いて欲しいわけではない)
これ以降は別に私が書くことではない。
ない、が、娘さんの告発を見て、「やっぱりなあ…」と思ってしまった。
家族のことを部外者がとやかく言うのは下品だと思うので差し控えるが、著作を買っていた私は娘さんを追い詰めた側の人間だと思うので、今後どんな形でもいいから彼女が満たされ幸せに生きていって欲しいと素直に思う。
それはそれとして、西原ならこの騒動もあの手この手でマネーに変え、何故か感動のラストに持っていくのでは…と危惧している。多分、この予想は高確率で当たると思ってしまうのがすごく悲しいことのように私には思えるが、西原には西原なりの大切なものがあるんだろう。今の私にはよくわからないけれども。でも、私は娘さんを追い詰めた加害者なので、その顛末を見届けないといけないと思う。だから、少しでも娘さんが救われる顛末であって欲しい。ここでこんなこと書いてもなんにもならないけどな!
今までお気持ち表明って冷ややかに見ていたが、自分で読んでも気持ち悪い文章になってしまった。
高かった熱が冷めれば冷めるほど、人は気持ち悪い文章を書いてしまうのだろう。
それでも、私は一時期確実に西原の漫画を読んで生活が潤っていたし、その潤いがなければ生きてこられなかったと思う。
なるべくそのことは忘れないよう、これからも生きていけたらいいなと思い、私は明日も行きたくない会社に出社してやりたくない仕事をするだろう。おしまい。
【追記】
男性に伝わるか私にはよくわからないんだけれども、大体の女性にとって「やたらとわかってる風に振る舞う男性の友達ばっかりで同性の友達がいない女性」ってなんか言動とか価値観?とかに違和を感じていて、直接的だったり間接的に嫌な目に遭うことがままある…気がする…あくまで私の周囲の女性の意見だけども。
(そういう女性は男性にはいい顔するので、例の「女の敵は女」という言葉が出てきがちだ。そりゃ被害に遭わなきゃ女性だって高みの見物できるだろうと思う。往々にしてその手の女性は好戦的なのがめんどい)
とりあえず愛ちゃんはアシスタントだし、はせぴょんとか中瀬ゆかりさんはビジネスだろう。「毎日かあさん」のママ友の話はほぼ創作(むぎちゃんだっけ?あの人は多分いない)らしいので、若い頃の同性の友人の話も聞いた話を適当に盛ってほぼ創作なんじゃないかなと思う。
とにかく言いたいのは同性の友人がいないことは悪いことではないと思うけど、同性の友人がいない人が娘の母親としてどう振る舞うかというと…ということを言いたかった。
まあ、ぶっちゃけ私の母親がそういう感じなんだって話でしかないけどな。
【追記2】
作品のファンだったと思うのが健全で、作家のファンだったと思うのはちょっと違うと思った方がいい、みたいな意見はすごく真っ当な意見だと思うし、私もそういう風に考えたいと思う。
でも、西原をはじめとした自分の身の回りのノンフィクションやエッセイとして作品を発表する作家はある程度作者の魅力込みで読者がファンになる特殊なジャンルかなとも思う。
(さすがに盲信するのはどうかなという気がするし、きっと完全フィクションの作家ならみんな簡単に割り切れるかなと)
そういう特殊で業の深いジャンルであるが故に、今回の娘さんの話題で様々な意見が出るというのが問題?の本質かなと私は思ってる。だからこそ、今後また西原が今回の話題も何かしらの作品に昇華してしまいそうで怖いなと思っている。
(作家としてはそれが正解なんだろうけど、それ故に残酷というかあまりに業が深すぎる職業というか)
【追記3】
今ざっくり自分の文章読み返してみて、多分初期の方が弱者への視点が感じられ、更に作者本人が体を張って笑いをとりに行く様が魅力に感じられたように思う。
そして、よくある話ではあるが金や権利を手に入れたあたりでその魅力が感じられなくなったのかなと。
多分その魅力は彼女の中にまだあるはずだけど、今の状況だとそれで作品を作るのは難しそうだ。それはとても困難で手間がかかるし、素敵な女性として楽にいい感じの本出した方が売れるだろうしね。
【追記4】
他の人の西原への感想などが読めてとても嬉しいです。もっと読みたいので書ける人は書いてくれるとすごくすごく嬉しいです。
しかし新聞連載以降の作品のファンがあまりいないので、あの辺の作品を買った層と初期の作品を買っていた層はまったく違う層なのか?と新たな疑問が出てきた…。「上京ものがたり」あたりは私も結構好きでした。特にラストはすごく心に残っている。
【追記5】
追記多いのマジで気持ち悪いな。でも本文から気持ち悪いからなんかもうええわ。
友達の多い少ないは少なくともこの文章においては問題ではない。実際私も学校行ってないから友達少ないし。そしてそこを語りたいわけではない。
では何が私が引っかかったかというと、私がこの文章を書いた発端が彼女の娘さんの文章を読んだこと。
何度か男性の友達は多いのに同性の友達がいない、少ない女性と接した経験から、そういう人々はとても男尊女卑であると思った。要するに、大勢の男性と親しくできる自分は「名誉男性」であり、同性とばかり親しくする女性を格下に見ている。そして、人間を上か下かでしか見られず、他人を自分と等しい存在だと捉えることができない。男尊女卑は対男性には伝わりにくいが、対女性にはすぐ伝わってしまうので対女性とはトラブルが多い。
そういう男尊女卑の内面は奇しくも本人が言う通り、男尊女卑のまかり通る環境で生まれ育ったことも関係あるのかもしれない。
(でも、そういう環境で育った人がみんなそうなるわけではないけれども)
そして重要なのは、ここが問題点なのではなく、本当に重要なのはここから。
本人が自覚あるかないかに関わらず、男尊女卑思想のある女性が男の子と女の子を産んだ場合、女の子にはどう接するだろうか。
ここからは私の知り得るところではないので差し控えるが、自身の母親と照らし合わせると自ずと見えることが無きにしも非ず。
それはそれとて、そういうことを考える私もまたすごく嫌な女だということは間違いないだろう。
自分の周辺にそういう女性に心当たりがないという人はとても良い環境に恵まれた人だと思うので、それは自身の人柄によるもので、すごく誇っていい尊いことだと私は思う。
【追記6】
私がこの文章で書きたかったことは、西原理恵子という作家の業と私という読者の業、そして何より娘さんについて。
なので差別云々というのは私の文章力とか私の考え方に問題があるのは前提として、それを除けばここのコメントで西原理恵子という作家や娘さんのことを触れないのは片手落ちに感じる。
(もちろん、100文字という制限がある以上それは仕方ないとは思う)
そして、私はその業や娘さんに関係ないことはこの文章の中で書く気はないし、責任もとる気がない。
私は誰しもどこかに他人を差別してしまうところがあって、多分そこを言及されていると思うけれども、他人に「絶対差別するな」って押し付けたり、「自分は絶対差別してない」って言い切る人は理想主義過ぎて少し怖い。
だから、その辺が気になる人は、自分でそういう差別についてのエントリを書く方が満足できるし有意義だと思う。
【追記7】
差別が〜って言う人は西原の漫画読めるのか…?とずっと考えていたが、よく考えたら西原の漫画を読まずにこのエントリだけ読んで「差別が〜」と言っている可能性もあるのか!とはたと気づいた。
知らない人に説明すると、西原理恵子という人の芸風は人種差別、女性差別、弱者差別などあらゆる差別を笑いに昇華していくものである。実際、女性の友人をデブだのブスだのヤリ○ンだと罵ったり、子供を産んでいない女性や専業主婦へのヘイト発言なんて日常茶飯事だ。しかも、この何十倍も汚い言葉でそれを言う。
(改めてこう書くと本当酷いな…)
もう本人の作品自体がミソジニーだのホモソーシャルだのが真っ青になるくらい、差別や問題発言の坩堝なのが西原理恵子の漫画だ。
(今のポリコレではアウトでしかない…だから改めて差別とかホモソーシャルとか言われると「いやもっとアウトな発言いっぱい出てくるから!」ともうどこから突っ込めばいいのかもうよくわからない)
ところが、それがものすごく面白くて笑えるから始末が悪い。そして、それを読んで笑う読者ももれなく下品である。それが、西原理恵子と読者の業の深さの一端だ。
私は西原理恵子という作家について書くにあたって、そういう彼女や読者の中にある「差別」は切り離せないものだと思ってこの文章を書いた。そして、その「差別」がどの程度彼女の娘さんに及んでいたのか(あまり詳細が書かれなかったこともあるが)読者にはよくわからなかったところが例の娘さんの件で露見したように思う。
(更に補足すると、彼女が差別する人間だからこちらも差別していいとかってそういう話ではない)
なので西原理恵子を知らない人は、とりあえず図書館にも置いてあるしブックオフで叩き売りされているので読んでみて欲しい。私のおすすめは、コメントでも人気の高い「鳥頭紀行」とか「ぼくんち」あたり。
実際の西原の漫画を読んで、差別だとかそういうもので頭がクラクラするのにギャグが強烈に面白いという奇怪な感覚に失神するがいい!
(ただし、合わない人には本当に合わない)
結局、何があっても私は西原理恵子の漫画のすべてをきらいになれないし、機会があれば好きな作品を未読の人にも読んでもらいたいのだ。
【 Permalink | 記事への反応(19) | 17:22
現実と向き合うのをサボり、理念とか理想の矛盾を無視した、文系学問人の陥りがちのやつやね。
レトリックを駆使して論文をつくって、全ての結論を「啓発の徹底を図る必要がある」とかいう万能ワードで片付け、実際にどうすればそれができるか……というか、出来ない現実をどう生きるかという話と向き合わずに学問してる。
そういう風になると、相手の論の不備にぴったり対応したレトリックを出力するだけの装置であり、オブザーバーとして呼ばれた会議でやっていること実はレスバでしかない。
オブザーバーのうちは、実は一応役割をはたしているんだけど(オブザーバーごときに揚げ足を取られないために実務者が助言を求めるているからだ)、やることが批判でなく提案になると途端にバグを起こす。より良い方法を考える訓練なんかやってないからだ。
ここに問題点がありますよと指摘したら成果になってしまう社会文系学問において、一部問題があるけどこれがベスト、みたいな実務的答えはむしろ出してはならない。出したことが無い。出したことが無いからどういう反応が返ってくるか考えたことがないし、自分自身に一貫性を求めたこともない。
そういう態度のことを、自分たちでは「理想主義」と呼んでいるが、実際は現実を無視しているだけだ。
学問自体にそういう構造を産む土壌がある。シンクタンク的な現実が大事な就職先もないしね。
かなりどうかと思う。
> はてぶが「弱者男性」を実在しているかのように語っているのが謎
https://anond.hatelabo.jp/20220319181840
トイアンナ氏が語った言説がよかったので、議論の下敷きとして、リンクを貼る。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83163?
ざっくりいうと、男性自身も家父長制度の枠組みの中で求められる役割を達成できないことが、自虐だったり自信のなさ、社会での居場所のなさの原因であり、弱者男性のあり方もフェミニズムが解決すべき課題のひとつだと認識している。
異存はない。ただし、この論説の通りに社会が動いたとしても、今の弱者男性が救われるかどうかは別物だというところが問題として残ってしまう。
弱者男性の問題の原因を紐解いた時に、自己責任論で片付けれる問題はほぼない。社会のせいだ!〇〇のせいだ!と言いたい気持ちの方がよく分かる。努力できることも才能だと思うし、むしろ努力すれば報われる環境があったとは到底思えない。昭和の頃は何をやっても成功体験に結びついていたような時代とは全く違うのだから。
弱者男性が存在する理由は、まず100%本人に責任はない。というところからスタートしなければ、彼らを私達の分身として包摂することはできない。私達が私達として、存在している理由になんらかの責任はない。
彼らは私がそうなり得た一つの答えであり、さまざまな成長過程を経てたどり着いてしまった、もうひとりの自分なのである。お互いにそのことを理解できない限り、社会問題の解決にはつながらない。認識しておかなければならない最初の立ち位置だと思う。
トイアンナ氏の提案は未来に向けた一つの提言だと思うし、都市部では歓迎されるだろう言説だと思う。ただそれで生きづらい人の方が多く出るだろう、今の日本で理想主義を体現しながら生活できるのは、ごく一部の恵まれた人だけである。ただし、そのモデルが広まっていけば、数十年をかけて世の中が変わっていく可能性は十分にあるだろう。この30年で町中に痰が落ちてない世の中に変わったように。
ただ、団塊ジュニア世代を見殺しにして新しい世界に進むという未来でもあるし、そうなるしかない諦念も強い。
自分は団塊ジュニア世代の一回り下だが、団塊ジュニアのいとこらやその友人もいて、その苦労をけっこう見聞きしている。
収入は少ないが、人柄が悪いわけでも、能力がないわけでもない。ただ時代が悪かったとしか言えないし、そのせいでいろいろな経験が省かれているようにも見えたりする。
弱者男性問題が世代間対立の問題として見られやすいのは、上記のとおり団塊ジュニア世代が受けた社会情勢に影響された、努力と収入(社会的地位)のミスマッチの結果なのだろうと思っている。(資料なし)
少子化問題・年金問題・所得低下・国力低下・世代間対立・ナショナリズムの台頭、これらはすべて弱者男性に関連するテーマではある。国家運営という目線に立って一つづつ解決を目指さないと、日本が
ただ、男性弱者の問題に関して、この視点は一切いらない。これまでの結果がすべて社会のせいだったとしても、弱者男性はこれからどうすれば幸せになれるのだろうか?
その一点に絞るべきだろう。社会が成長すれば全ては解決するのは正しい、ただ十年で解決できる問題ではない。アベノミクスで盛り上がったのに、収入は増えなかった。十年でも解決出来なかった。それが事実だ。
男性の生涯未婚率は、このままいけば20%は超えるだろう。1000万人の団塊ジュニア世代の200万人が結婚しないという計算になる。
https://nayami-sodan.net/dokushin-mikon-ritsu-20-30-40-50/
KKOの母集団を200万人と置いた時(もちろん母集団には、金が有るけど結婚しない人も、KKだけど楽しんで生活している人もいる。)
見つめるべきは、200万人が幸せになれそうな未来を描くための、即効性のある解決策はすでにない。という残念な事実しか残っていない。
社会がなんとかしてくれる・景気が良くなれば雇用が増えて、とかいうレベルで自然と解決することも、諦めるしかない。
200万人分が、家族を養えるだけの高収入な仕事につくウルトラCな法案があるか?社会運動が作れるか?できねーよ。
ただ、考えてみてほしい。日本が戦後あれだけの惨禍から復活したのは、日本政府がすごかったからか?それとも、民間企業が頑張ったからか?どちらも違うだろう。
民間企業ですらなかった人も含めて、個々人がそれぞれレベルでなんとかしようとした人がたくさん居たからだと思っている。
もう一つは、戦争でたくさんの人が亡くなり、既存の仕組みにスキマがたくさんできたからなのだと思う。
これから色んな所に、社会のほころびが出てくる。町内会が動かなかったり、
これから増えていく社会のスキマを埋める人がいれば、必ず重宝される。その懐の深さは、社会の多様性さが生み出すのだろう。まだそれだけの懐の深さは日本社会も持っていると思っている。
人間なんて、だいたい腐ってるんだから、8割腐ってるなら、残りの2割のまともなところでうまいこと行くようにやろうぜ。
◯ーチンだって、まともそうな顔して、あんなことしちゃうんだから。
あれに比べたら弱者男性の言説ぐらい、読める文章を書いてるだけ凄いじゃん。
分断ではなく、共感を。
支援ではなく、協力を。
ちゃんと生きてたら、おはようございます。って声かける。それが社会的包摂じゃないの。
そういう日常の繰り返しをちゃんとすることでしか、救いはないんじゃないか。と思ったり、思わなかったり。
まぁ都会に住んでたら難しいっていう気持ちはめっちゃ分かる。人間扱いされないし。だから田舎もいいよ。珍獣扱いされるけど。上京2世だったら、帰郷するのも一つの手だというのをオススメしたい。偏見のある田舎もあるけど、結構悪くない所も多い。もちろんIターンも。リスクもあるけど、人間というだけで歓迎されるところも多い。ってか地方だとそういう社会的包摂を意識した活動を知ている人は、ちゃんといるし、地方にいるとそういう人ほど目立つから情報も見つけやすかったりする。大学時代の友人が「だれでも来れる畑」というのをやり始めて、交流の場としてまずまずうまく行ってるらしい。人手さえあれば、何かしらの生産活動ができるのが地方の良いところ。
と書いていて、お前はどうなんだと聞かれたら、KKOだけど楽しく暮らしている友人のFBにいいね!するぐらいしか出来ないし。
一軒家の向かいに住んでるひきこもりのにいちゃんにちゃんと挨拶して、なんかあったらちゃんと声掛けようと心積もりをしておく。ぐらいしか出来ないのだが。
> はてぶが「弱者男性」を実在しているかのように語っているのが謎
https://anond.hatelabo.jp/20220319181840
トイアンナ氏が語った言説がよかったので、議論の下敷きとして、リンクを貼る。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83163?
ざっくりいうと、男性自身も家父長制度の枠組みの中で求められる役割を達成できないことが、自虐だったり自信のなさ、社会での居場所のなさの原因であり、弱者男性のあり方もフェミニズムが解決すべき課題のひとつだと認識している。
異存はない。ただし、この論説の通りに社会が動いたとしても、今の弱者男性が救われるかどうかは別物だというところが問題として残ってしまう。
弱者男性の問題の原因を紐解いた時に、自己責任論で片付けれる問題はほぼない。社会のせいだ!〇〇のせいだ!と言いたい気持ちの方がよく分かる。努力できることも才能だと思うし、むしろ努力すれば報われる環境があったとは到底思えない。昭和の頃は何をやっても成功体験に結びついていたような時代とは全く違うのだから。
弱者男性が存在する理由は、まず100%本人に責任はない。というところからスタートしなければ、彼らを私達の分身として包摂することはできない。私達が私達として、存在している理由になんらかの責任はない。
彼らは私がそうなり得た一つの答えであり、さまざまな成長過程を経てたどり着いてしまった、もうひとりの自分なのである。お互いにそのことを理解できない限り、社会問題の解決にはつながらない。認識しておかなければならない最初の立ち位置だと思う。
トイアンナ氏の提案は未来に向けた一つの提言だと思うし、都市部では歓迎されるだろう言説だと思う。ただそれで生きづらい人の方が多く出るだろう、今の日本で理想主義を体現しながら生活できるのは、ごく一部の恵まれた人だけである。ただし、そのモデルが広まっていけば、数十年をかけて世の中が変わっていく可能性は十分にあるだろう。この30年で町中に痰が落ちてない世の中に変わったように。
ただ、団塊ジュニア世代を見殺しにして新しい世界に進むという未来でもあるし、そうなるしかない諦念も強い。
自分は団塊ジュニア世代の一回り下だが、団塊ジュニアのいとこらやその友人もいて、その苦労をけっこう見聞きしている。
収入は少ないが、人柄が悪いわけでも、能力がないわけでもない。ただ時代が悪かったとしか言えないし、そのせいでいろいろな経験が省かれているようにも見えたりする。
弱者男性問題が世代間対立の問題として見られやすいのは、上記のとおり団塊ジュニア世代が受けた社会情勢に影響された、努力と収入(社会的地位)のミスマッチの結果なのだろうと思っている。(資料なし)
少子化問題・年金問題・所得低下・国力低下・世代間対立・ナショナリズムの台頭、これらはすべて弱者男性に関連するテーマではある。国家運営という目線に立って一つづつ解決を目指さないと、日本が
ただ、男性弱者の問題に関して、この視点は一切いらない。これまでの結果がすべて社会のせいだったとしても、弱者男性はこれからどうすれば幸せになれるのだろうか?
その一点に絞るべきだろう。社会が成長すれば全ては解決するのは正しい、ただ十年で解決できる問題ではない。アベノミクスで盛り上がったのに、収入は増えなかった。十年でも解決出来なかった。それが事実だ。
男性の生涯未婚率は、このままいけば20%は超えるだろう。1000万人の団塊ジュニア世代の200万人が結婚しないという計算になる。
https://nayami-sodan.net/dokushin-mikon-ritsu-20-30-40-50/
KKOの母集団を200万人と置いた時(もちろん母集団には、金が有るけど結婚しない人も、KKだけど楽しんで生活している人もいる。)
見つめるべきは、200万人が幸せになれそうな未来を描くための、即効性のある解決策はすでにない。という残念な事実しか残っていない。
社会がなんとかしてくれる・景気が良くなれば雇用が増えて、とかいうレベルで自然と解決することも、諦めるしかない。
200万人分が、家族を養えるだけの高収入な仕事につくウルトラCな法案があるか?社会運動が作れるか?できねーよ。
ただ、考えてみてほしい。日本が戦後あれだけの惨禍から復活したのは、日本政府がすごかったからか?それとも、民間企業が頑張ったからか?どちらも違うだろう。
民間企業ですらなかった人も含めて、個々人がそれぞれレベルでなんとかしようとした人がたくさん居たからだと思っている。
もう一つは、戦争でたくさんの人が亡くなり、既存の仕組みにスキマがたくさんできたからなのだと思う。
これから色んな所に、社会のほころびが出てくる。町内会が動かなかったり、
これから増えていく社会のスキマを埋める人がいれば、必ず重宝される。その懐の深さは、社会の多様性さが生み出すのだろう。まだそれだけの懐の深さは日本社会も持っていると思っている。
人間なんて、だいたい腐ってるんだから、8割腐ってるなら、残りの2割のまともなところでうまいこと行くようにやろうぜ。
◯ーチンだって、まともそうな顔して、あんなことしちゃうんだから。
あれに比べたら弱者男性の言説ぐらい、読める文章を書いてるだけ凄いじゃん。
分断ではなく、共感を。
支援ではなく、協力を。
ちゃんと生きてたら、おはようございます。って声かける。それが社会的包摂じゃないの。
そういう日常の繰り返しをちゃんとすることでしか、救いはないんじゃないか。と思ったり、思わなかったり。
まぁ都会に住んでたら難しいっていう気持ちはめっちゃ分かる。人間扱いされないし。だから田舎もいいよ。珍獣扱いされるけど。上京2世だったら、帰郷するのも一つの手だというのをオススメしたい。偏見のある田舎もあるけど、結構悪くない所も多い。もちろんIターンも。リスクもあるけど、人間というだけで歓迎されるところも多い。ってか地方だとそういう社会的包摂を意識した活動を知ている人は、ちゃんといるし、地方にいるとそういう人ほど目立つから情報も見つけやすかったりする。大学時代の友人が「だれでも来れる畑」というのをやり始めて、交流の場としてまずまずうまく行ってるらしい。人手さえあれば、何かしらの生産活動ができるのが地方の良いところ。
と書いていて、お前はどうなんだと聞かれたら、KKOだけど楽しく暮らしている友人のFBにいいね!するぐらいしか出来ないし。
一軒家の向かいに住んでるひきこもりのにいちゃんにちゃんと挨拶して、なんかあったらちゃんと声掛けようと心積もりをしておく。ぐらいしか出来ないのだが。
僕たちは生まれながらにして不幸だった。
物心がついた時には経済成長など実感できないほどなく、平和のみが幸運にも固定されていた。少子高齢化を無責任に押し付けられ、いつも年金の説明では僕たちが下で、いっぱいの先人が上に伸し掛かる絵を繰り返し見せられた。
小学生のころには阪神淡路大震災があり、生活は不条理に突然破壊されることを知った。
オウム真理教は天災だけでなく人災があることを教え、それを報道するテレビには頭のおかしい人をいじめることの楽しさと正しさを刷り込まれた。
学校ではいじめがあっても誰も救ってくれなかった。子どもも大人も誰も責任を取らずに済んだ。
どう大人を信じようと努めても、彼らの正しさの裏にある保身だけが形を濃くするだけだった。
いじめ、学力低下、キレる十四才、僕たちだけが責められている気がした。勝手に「ゆとり」を与えられ、数年後には「ゆとり」だとバカにされた。
ノストラダムスの大予言も二千年問題も世界を無くしてはくれなかった。変わらないんだ、という陰鬱な気分を虚構ごと生活に仕組まれた。
社会に参加するまでの過程で、どんどんと多様性という理想が叫ばれるようになっていった。でも現実はまだそう出来ていなかった。ゆとり教育でも、AO入試でも、新卒一括採用でも、実験の最前線で僕たちは消費された。
社会の正体に近づくほど、実験の甲斐なく何も変わらずに、大人たちは利権を固定させようと頑張っていることがわかった。かつて多くの若者たちの理想主義が現実主義に敗北し、僕たちの生活には既に革命の「か」の字すらなかった。
センスが良いとされる大人は肌触りの良い冷笑と諦観で、理想からも現実からも逃げているだけだった。
芸術に届くわけではないわずかな詩情の中に逃げ、丁寧な暮らしとやらで現実を隔離しただけだった。雑草も食えるらしいと、何も新しくない発見を雰囲気の良い雑誌で語った。
とにかく真っ当ではなかった。僕たちには老朽化した線路と駅が残された。
いつかみんな死ぬ、くらいしか希望はなかった。僕は、小学校四年、五年と苦労したあとに六年生になったときのような開放感を待っていた。
インターネットは唯一僕たちに与えられた現代的で民主的な革命だった。僕たちは最前線に立つことを初めて喜んだ。僕たちが社会を実験していた。大人の腕の中で揺らされるのではなく、自らが世界を開拓していた。
過去の日本では文学や学生闘争に向いたであろう若者の活力がインターネットで遊ぶことに費やされた。情報の波をサーフィンしていた。
けれどアナーキズムなど思想と呼べるほど突き詰められてはいなかった。脱法とジョーク、たくさんの知識。組織化しない雑多なカオスが世代や日陰者の雰囲気をベースとしてただ在った。
東日本大震災のとき、僕たちは初めて大きな波を感じた。世界ごと変えてしまおうというワクワクがあった。
ネットから始まる民主化が現実世界にも網目を伸ばし、キレイな情報を伝播させることを夢見ていた。
実際のところ我々には思想がなかった。正確には思想が育っていなかった。長い間の自己否定とカオスたちの団結は思想を形成させなかった。
論壇はインテリっぽい動きに酔っているままで、ほとんどの人間が責任を背負おうとしなかった。
大衆は十分なリテラシーを持っていなかった。目の前の文字が自分を騙そうとしているかだけを考えていた。
もちろん先行者と同様に誰も責任を取りたがらなかった。波は結果的に芸術の一部分だけに還元された。
僕たちの革命は、革命という皮すら被れずに失敗した。あの頃目立った人間たちのどれだけがまだ実際に社会に有効なことをしているのだろう。
僕たちは生まれてから今までずっと負け続けている。逃げ続けている。立ち向かう人間を冷たい視線で嘲笑っている。かつて"カッコイイ大人たち"がしていたように。
拗ねた子どものままで皮肉とセンチメンタルを捏ねくり回している。
最近は「多様性の尊重」がブームになっている。拡がり分化する人間の在り方を認めようとするのは正しいことだと思う。
だが、それは欺瞞だ。多様性は排外主義への攻撃だ。多様性を求める社会は多様性をもたらさないものを排除する。
最大限の寛容ではなく、この時代この社会における妥協点でしかない。
ただそれよりも深刻なのは、多様性未満の僕たちだ。多様性で救われるのは国籍、性指向、いくつかの快い思想である。いわば十分に形作られたアイデンティティーのうち、現代社会に適応するものだ。そして主張に成功したものだ。
僕たちの苦しみはアイデンティティーの未発達である。差別をされたり、大事に築き上げたものが喪失したわけではない。時代により幾度となく無意味化された結果、育たなかったのだ。
社会の複雑さへの想像力、ありのままの他者の受容、明確な善への地図が無かった。
今までのシステムは近いうちに崩壊すると言われつつも、なかなか崩壊しない。仮に崩壊したとしてもサバイバルを生き抜く知恵が無い。広大な大地に丸腰で放たれるのだ。
「ちゃんとしなきゃ死ぬ」とトリプルファイヤーの吉田靖直は歌った。「ちゃんとしなきゃ」という要請だけが社会にある。
なんとなく、どこか生きにくい僕たちの行き場はどこだろう。ちゃんとした職があればいいのか?ちゃんとした病名がつけばいいのか?ちゃんとした人になれればいいのか?ちゃんとした人ってなんだ?
今になってようやく哲学や文学などの人文学に解答を求めることができるだろうことに気づいた。それは人間として真っ当な足掻きに思えた。
まだ遅くはないと信じて、攻略サイトには無く、ビジネス書より直接的な、人間思索の旅に出ようと思う。良い哲学の書を教えてくれ。
iPhoneの話題でAndroidとの比較を、日本のケータイの歴史も絡めた増田がホッテントリしていたけど、
個人的には、むしろAndroidがここまで普及したことのほうがにわかに信じがたい話だったりする。
自分は、大学で覚えたパソコンで2ちゃんどっぷりだったキモオタ系ということもあり、
すでにJK~20代の女性とっては当たり前になっていたガラケーも、仕事するようになって数年後、渋々持ち始めたくらいの代物。
だからそもそも、ガラケーの文字入力からして使いにくかったし、iモードに至ってはなにそれおいしいの?という感じ。
だからW-ZERO3とかBlackBerryといった、液晶画面+qwertyのハードウェアキーボードという当時のスマートフォンは、文字通り垂涎の的だった。
「本物のネットはパソコンの世界にあるもんだ、スマホはそこらへんをよくわかってる」
と胸踊らせたものだった。
しかし自分がいたキャリアはあくまでガラケー一辺倒=そういう機種は一切ラインナップに加えないので、本当に歯がゆかった。
そんな自分がアラサーのとき日本に上陸したiPhoneには、そりゃもう興奮した。
しかしまたしても「スマートフォンはまだ早い」とか言ってたキャリアが…。
さて、そんなiPhoneの後塵を拝す形でひっそり登場したのがAndroidなわけだが、これがモノになるなんて正直思えなかった。
海外ではすでにハードウェアキーボードのスマホが一定のシェアを持っていたことはなんとなく知っていたし、そういう従来のスマホとiPhoneの一騎打ちになると予想していた。
だってBlackBerryもNokiaもめっちゃ強かったから、まさかソイツらがブランドイメージ皆無なAndroidに全て駆逐されるなんて、ありえないと思うじゃん。
何よりAndroidがLinuxのスマホ向けディストリビューション、要は中身がLinuxということが、以下の理由でパっとしない感を更に強めていた。
あと全面液晶の「iPhoneクローン」なスマホだったら、Windowsのモバイル版が伸びるだろうと思ってたこともある。
Windowsはそこそこの値段でそこそこの使い勝手のデスクトップPC向けOSとして、当時はもちろん今もデファクトなわけだし、その実績からLinuxというCLIメインのOSよりも、ずっとスマホに近い場所にいると思ってたし。
それにスタープログラマのカトラーが文字通り人生を賭けて作ったOSなんだから、少なくとも院生のお遊びから始まったLinuxなんかよりは、モバイルでも上手くやるだろうと。
そういう当時を空気感を知っていて、かつ、ほぼXperiaしか触っていないとはいえ5年以上Androidスマホを買い替えつつ過ごした人間として、正直Androidなんて…と思っているわけで。
そして去年ようやく念願のiPhoneに乗り換え1年ちょっと経ち、「別にAndroidでいいじゃん」が「もうAndroidには戻れねえ」となった結果、更にその思いが強くなったと。
だから、AndroidとiPhoneをガチで比較してなお「Androidでいい」とか、ましてや「Androidがいい」という人は、一体何を見てそう思ったのか、心底理解できない。
PixelやGalaxyや中華スマホは触ったことないけど、Xperiaは国産スマホでは最高レベルに優れていると聞くし、そんな高級スマホと比較してもiPhoneのほうが全然使いやすいのだが。