はてなキーワード: 媒介とは
おいィ? どうして流行らないのかと言うと、例えば新しく作られたアニメが古株イラストレーターとの折衝で揉めてグダグダなスタートを切った辺りで既に炎上してたりしたこととか、むべなるかな、その後のアニメの展開もイマイチブギーポップの魅力を伝えているとは考えられない展開が続いて、あんまりインパクトを与えずに実質的なアニメ二期が終了してしまったこととかに問題があった気がする。とは言え十話を筆頭に面白い回もなくはなかったんだけどね……アニメ陣営の努力は認めるんだけど。
でもとりあえず第一作の『ブギーポップは笑わない』から第十作の『ジンクスショップへようこそ!』までは個人的に安心しておすすめできる作品である。是非皆さんも読んでほしいんだけど、個人的に特にオススメなのは第二作の『vsイマジネーター』と第五作の『夜明けのブギーポップ』。第六作の『ペパーミントの魔術師』それから第七作『エンブリオ侵食・炎生』辺りかな。繰り返すように第十作まではどれも満遍なくオススメできるクオリティではあるんだけれど、個人的にはこの辺りがオススメです。あと旧作アニメは個人的に好きなんだけどマジで人を選ぶので一旦忘れて下さい。
基本的にブギーポップシリーズにおいて重要になってくるのは、「人の痛み」です。
とは言え、現代においてはその主張は弱いのかなあ。
増田において、「痛み」が主題になっている記事って結構多いんだけれど、しかしそれは基本的に相手とのコミュニケーションを前提とした提示じゃなくて、「オラァ! 俺の痛みオラァ!」「何の! 私の痛みオープン!」みたいなある種のバトルの媒介として「痛み」が用いられている気がするんだよなあ。例えば、その痛みを媒介に他の痛みと繋がったり、あるいはお互いに痛みを癒やし合ったりといった、本来の「痛みの提示」の役割からはズレた役割において、増田の「痛みの提示」が行われているようでならないんだよなあ。
いや勿論ある程度本来の意味で痛みの提示が行われている部分もあるんだけれど、結局その痛みの提示は、大局としてのバトルの構造に包摂されちゃうんだよね。痛みがラベリングされて、そして戦いの場へと引きずりだされてしまう。例えば、「フェミニズムと反フェミニズム」みたいな対立構図に包摂されちゃう感じで、結局個人的だったはずの痛みが戦いのための尖兵として利用されてしまう。なんかラノベの世界設定みたいですね。そんなこんなで、人は本来癒やしを目的として痛みを語るべきところで、むしろその傷を、痛みを与えそして自らを傷つける為に用いてしまっているんですね。というかブギーの話はどこにいったのか俺。
というわけで、こんな時代だからこそブギーポップが効力を発揮するんじゃないかと思う。ブギーポップ。ブギーポップで主張される「痛み」は、人と人との距離を縮めるための「痛み」なんですね。人と人とがお互いを理解するために「痛み」が提示され、そして、他人の痛みを直視した途端に自分の痛みの存在に気付いたりとかする。とかくブギーにおける「痛みの提示」のプロセスは「痛み」の治療に集中しています。痛みって本来そういう風に使うのであって、特に現代においてソフィスティケートされた痛みを、我々は効率よく使っていかなければならない。少なくとも、その痛みは事態を悪化させるためではなく、改善するために、痛み自体を癒やすために、使われなくてはならない。
そう、現代はブギーポップの(必要な)時代と言ってもいいんじゃないかと。
いやしかしアニメ二期が思いのほかインパクトを残せなかったことが辛いなあ。面白いアニメを作る作業って凄い難しくて、何せアニメは一人で作ってるわけじゃなくて無数の動画マン・動画ウーマンと原画と絵コンテ切る人と監督とかの緊密な連携が必要なんだけど、それを高レベルで実現した作品と殆どないよね。カウボーイ・ビバップとかエヴァンゲリオンは面白かったなあ。個人的にはブギーポップとかと同じような意味合いで輪るピングドラムが好きです。それはそれとして、あああああもうちょっとブギーポップは流行っていてもおかしくないんだよなああああ、現代の潮流にも大枠で一致してるのにいいいい。なんで?
一週見逃すと続き見るのがめんどくさくなってしまうのでプリキュア見るの辛い
先々週の敵キャラがプリキュア使ってモンスターを育成した展開が嫌い
展開というよりネットの反応かな
孕ませただとか親子じゃんとかそういった解釈が溢れてて気持ち悪いんだよ
これまで敵キャラとプリキュアの交流的なものは本編でもあったし、二次創作などでカップリングされるのも多々あったけど
親子や孕ませが妙に生々しいからかな
敵は病気がモチーフなんだから人を媒介にして流行るし、別に人間に取り付いて新しい病原体が生まれたしてもおかしくないでしょ
じゃあなんでプリキュアなのかと言ったら自分らが天敵としている相手だとどうなるかな?という好奇心では?
その敵キャラはプリキュアを通して生まれたから、成功体験をくり返しただけともいうか
とにかく生々しい解釈で見たくない
でもTVでその展開を見てあーこれネットで盛り上がるなと考えてしまった自分がいるので、結局自分もそういう解釈を少しでも考えたのが一番最悪
そのうえそれを確認するかのごとく反応を見てやっぱり!となってるのもアホなんだわ
聖書を諳んじられて、音楽技術を把握していて、花言葉を理解できる奴だけが分かるという映画のワンシーンを称賛する人間の浅ましさよ。
そうだな。
「チンチンをシコると気持ちいぞ!これ豆な」
だ。
冷笑的に世界を揶揄するために語った言葉を、彼のシンパが面白がって広めただけに思える。
性器に摩擦を加えると流れる電気信号が神経を介して脳の報酬系と結びついているというのは非常にありがたいことなのだぞ?
擦る場所を性器から肛門に変えればいいだとか、妄想による興奮のみを楽しむにしたって同じだ。
性欲の解消は肉体を消耗していく。
なにより問題があるのは、性欲の最も素朴な解消法である異性性交を行うと妊娠という非常に悩ましい出来事がつきまとうことだ。
また、それは今や社会と混ざり合って単なる性欲の解消がひと目につかない場所で行わない限りは法的な処罰の対象となりうるようになっている。
一部ポルノの単純所持違反も考慮すれば、トイレに籠もっての自己手淫以外に安全と言える方法はないのやもしれぬ。
睡眠は地味に厄介で、たった1日の寝すぎが一週間続く生活リズムの崩壊の始まりとなる。
食欲の解消は、そこまでスピーディーな影響を及ぼすことは少ない……いや歳を取るとわずかな暴飲暴食、いつもよりたった1000kcal多い食事がいつまでも胃腸で処理しきれずに数日ほど不快感が続くことだってある。
肉体的欲求の解消は教養を必要とする度合いが低いのだが、肉体を媒介にするが故にオーバーランによって不快のリバウンドが発生するリスクが大きい。
なんだかんだいって教養を要するのだ。
最も広く用いられるのは大衆音楽の類だろう。
大衆音楽は非常に素晴らしい。
クラシックのようにその技巧への理解も必要としないし、高音質であることすら求めない。
宗教的な背景への理解は不要であり、現代社会的な価値観で紡がれる散文詩を理解するのに必要なのは単にその時代を生きてきたことぐらいだ。
児童文学を読むのが恥ずかしいというならハリーポッターについて語れる老人の数を考えてみればいい。
ハーマイオニーを知らないジジイの多くは単にアルツハイマーが進行しすぎているだけだ。
動画も自分に向いた作品を選ぶことが出来れば楽しむのは難しくない。
ただ、動画は表現の幅が文学よりかなり広がるため、NOT FOR ME問題が起きやすい。
向いてない動画はさっさと消して次に行くのがコツだ。
これはザッピングと呼ばれる技術でテレビ放送が始まった頃に産まれた生活の知恵だ。
漫画は、本当に難しい。
ただし消費のしやすさにおいて文学や動画より上なので、一度文脈を覚えてしまえばかなり人生が楽になる。
これも文脈の理解によって遊びの幅が広がる文化なのだが、それを掴みきれない人間は単に綺麗な絵が動くだけの画面を延々とポチポチして変わりゆく絵を見るぐらいしか出来ない。
絵をザッピングする(これは先程紹介した動画のザッピングを絵に対して行うということだ)のならば、ゲームよりSNSの方がいいだろう。
これには3つの処方がある。
イラスト系SNS(ピクシブ、skeb)と呼ばれるものを使う場合は好きな作品を探すのが容易だし、クオリティが高い作品に出会いやすく、同一作者の別作品にもアクセスしやすい。
スクレイピング系SNS(タンブラー、Instagram等)を使う場合は、同一作者の作品を探すのは難しくなるし、作品の質もばらつきが出るが、ザッピングという行為を楽しむのには理想的だ。
個人的におすすめなのがミニブログ系SNS(ツイッター、マストドン)で好きな絵柄の作者を大量にフォローしてしまうことだ。これを行うことで自分だけの最高のイラスト空間が完成する。
さて、様々な低次元趣味を紹介したが、どれも一定位以上の教養が必要となることが分かっていただけだろうか?
特に最後のイラストザッピングなどまさにそうで、単に綺麗な絵をペラペラ見たいという未就学児童レベルの娯楽ですら効率化を目指すにはある程度知恵を絞って情報収集する必要があるし、日々自分の生活を向上させる意欲を要求される。
悲しいことだ。
もしも、明日の朝、君が猛烈な頭皮神経痛に襲われ、次に目覚めたベッドの上で知能指数が下限を超えて測定不能になっていたとしたとき、君は何を楽しみに生きればいいのだろう?
食事を楽しもうにも、食べ過ぎればお腹が痛くなるという当たり前のことを理解する知性さえ失っていれば、それは満たされぬ精神的苦痛と満たされたのちの肉体的な苦痛に挟み込まれた苦悶の儀となるだろう。
ならば、何がある?
祈ることだ。
ただ、心を無心にし、無心を目指すことだけを目的に祈る。
なにもしないことを目指す。
それも、神へ祈るのではなく、いわゆる禅、瞑想のたぐいだ。
禅を高尚だと崇めるものよ、瞑想こそが格調高い儀式だと宣う者共、恥を知れ。
それは、三大欲求にさえ見捨てられた物に残された最後の娯楽、この世界の底辺だ。
そこから、そのふてぶてしい脚をどけよ。
なんて書くと格好良い気がする。でも残念ながらそんなに高尚なことではない。今から書くのは私の短い人生の中での経験とそれに伴う思考なのでオナニーにすぎない増田を書くよ。長いよ。忠告したから「長い」は書かないでね。長くてもいいよってやつだけ20代女のオナニー見てくれ。出来れば助言をくれると嬉しい。
長いのは読むの面倒!でも助言はしてやる!みたいな奇怪な人がいるなら、ラスト1画面分くらいのところまで飛ばしてくれてもいい。その助けようとしてくれたのが有り難い。
あと、これを読んで(あいつか?)と思った私の友人はそっと見なかったことにしてくれると嬉しいな。
オナニー開始
私が死を感じたのは小学生低学年くらいの時。いつからか自分は長く生きられないと思った。それは(最初はたぶん違ったけれど)具体的には18で死ぬと思ってた。誰かの死に触れたとかのようなきっかけも特になく、ただ漫然とそう思って、確信していた。私は18に左側から来た車に追突されて死ぬ。
死ぬのは怖かった。幼稚園くらいの私は『お母さん』になって、こどもが3人いて、休みの日はみんなでゲームをするような家族に憧れたけれど、流石に18ではそんなこと出来ないから少し悲しかった。でも生き物はいつかは死ぬものだからと次第に諦めて、今を楽しむことを決めた。
それからは色々なことをやった。何も知らずに死ぬのは嫌だったから本を沢山読んだ。具体的には小学校の図書館にある絵本や漫画じゃない本で、「未来」に役に立つもの以外の思想系や哲学系の本はほぼ全部読んだ。あとは「やりたい」と思ったことが出来たら積極的にやるようになった。
中学生になるとますますその『死』に近づいたから今のうちに!という意識は加速した。ちなみに中学校の隣に図書館があったからものすごく沢山の本を読んだ。それに伴って自分で文字を書くようにもなった。とても拙いものではあったが、楽しかった。
恋愛をしたかった。小学校では気になる子はいたけれど、彼は人気者だったし、ただ話しているだけで楽しかったから告白はしなかった。それをすごく後悔した。だから中学校では恋をしようと思った。
彼女に想いを寄せたのは中学1年生。入学式直後のクラスで、一番初めの自己紹介をするときに自分の好きなものを周りから引かれるくらい話している彼女が楽しそうで、キラキラしているように見えて、興味を持った。
はじめは小学校が違うし、彼女の好きなものは私の知らないものだったからなかなか話せなかった。私は踏み込めるタイプではなかったのだが、席が近くて小学校は違ったけれど話が合って一緒に帰っていたAちゃんは彼女と好きなものが一致していたようで、Aちゃんを媒介して彼女とも少しずつ話すようになった。
彼女は絵がとても上手くて暇があればすぐ絵を描いていたからそれをずっと眺めていた。私は練習したが絵が全く描けないので目を輝かせながら鉛筆を動かし続ける彼女がうらやましかった。彼女は、「何も知らない」私に彼女の好きなものをたくさん教えてくれた。そうして、両親が共働きな彼女の家に行って彼女の好きなものを見せてもらうことを沢山していた。彼女の好きなものを見せてもらって、それを元に文字を作ったりもした。
それは本当に楽しくて、また彼女も私が沢山知ろうとするのが嬉しかったのか段々と彼女の家に行く頻度も増えた。彼女の家と私の家、また学校までは地図上で鈍角二等辺三角形くらいの逆方面ではあったのだが、私は毎日のように通っていた。
偶然休みだった彼女の母親にも会ったときには挨拶して、彼女の父親とも少し気まずいながらも挨拶をして、彼女とはどんどん楽しく話すようになっていった。
ここから私の『恋』が始まるのだが、想いが無駄に多くて無駄に長いので読むのが面倒な人は●●●●●まで飛ばしてほしい。
そして、夏休みにはなんの因果か彼女とはキスをした。しかも舌を絡めるやつ。はじめてがべろちゅーな中学生だった。
前述の通り彼女の両親は共働きで家にはいつもいなかったのでその日から(正確には次の日から)彼女とのちょっぴりえっちな関係が始まった。彼女の耳を舐めた。首を舐めた。キスをして、抱きしめて、顔がくっつきそうな距離感でくすくす笑っていた。
その後学校が始まってからもそのえっちな関係は続いていた。彼女の家の方に行って、彼女の家か彼女の家の裏でキスをして、彼女の太ももを撫でた。
どちらかが告白して「お付き合い」したわけではなかったので私の方からある日好きを伝えた。心臓が飛び出そうなくらい緊張したが、彼女は泣きながら笑っていたのをよく覚えている。
その告白のあとから彼女とはこっそり教室で愛を囁いたりして、みんなにバレないようにいちゃつくのが楽しかった。
二学期終業式の日に初めて彼女の性器を舐めた。ものすごく善がっていて家に帰ってからお風呂で初めてオナニーをした。生憎私は絶頂しなかったけれど、人体の神秘と思いながら自分でやってみて問題ないとわかったことを彼女にもした。
彼女の中に初めて指を2本入れた日の翌日、一時間目の移動教室で彼女がこちらに歩いてきて、顔を赤く染めながら小さな声で「2本一気にいれるのはきつい」と耳打ちしてきた時は一瞬意味がわからなかったが、理解してあまりにも彼女が可愛くて、危うくクラスメイトの前でキスをしそうにもなった。
彼女と一緒にいて、とても楽しかった。自らに来る(と信じている)死も彼女といれば忘れられた。正しくは1回あまりにも幸せだったから『今』死のうかと思って彼女に告げたことはあった。泣いて止められたので二人で抱き合って泣いたのをよく覚えている。
話は少し変わるのだが、私には悪い癖があった。自分で自己催眠のようなものをかけていたのだ。それでありもしない『過去』を話したり、存在しない『昔の友達』の話を自分に刷り込んで、自分に自信を持たせて、死を感じたりしない元気な少女を演じていたのだが、小学6年生くらいの時から人格が出来始めた。別に多重人格というわけではなく、いわばイマジナリーフレンドのようなものなわけだが、数が多かった。男や女は勿論犬や猫、アンドロイドなど様々なものを生み出して、自らの支えにしていたし、その中でも特に優秀な人格を『兄』や『姉』のように扱った。また、『兄』や『姉』に自分が成りきることで『私』には出来ないことをやってのけたりしていた。それを彼女の前でも出してしまっていたのだ。私の口からそれは説明しなかったので、彼女は最初は混乱していたが次第に受け入れてくれていたように思う。
『兄』のときは彼女をどうしても手荒に抱いてしまっていた。『狼』のときは彼女の至るところに噛みつかないと気がすまなかった。『猫』のときは沢山撫でてほしかった。
迷惑をかけているのはわかっていた。けれど、私は自分ではない自分も受け入れてほしかったのだと思う。彼女はよくやってくれた。『私』を愛しているから、と彼女が言ってくれたときは私は自分のすべてを彼女のために使ってもいいと思えるくらい嬉しかったのをよく覚えている。
しかし、いつからか彼女は私と距離を置くようになった。理由は分からない。彼女は理由を教えてはくれなかった。だからきっと私になにか落ち度があったのだろうと思っている。そうして彼女との蜜月関係は終わってしまった。
学年が上がり彼女とクラスがわかれたことで話すことすら叶わなくなって『自然消滅』のようになった。そうすると忘れていた死が襲ってきた。やはり死ぬのは怖かった。でもその傍らで死んだら彼女は私を見てくれるのだろうと期待した。
3年になり、彼女は本当に私と話さなくなった。おそらく私が死んでも見てくれないのだろうと思うほどに彼女は私と目を合わせようともしなかった。
『兄』は彼女に一番執着していたので「やり直したい」と言った。沢山アドバイスもくれた。『猫』は『兄』に賛同した。それでも、私は行動にはうつせなかった。だって、今は『自然消滅』だが、『兄』の言うようにすると明確に終わってしまう。私は、終わらせたくなかった。1ミリも希望はないのはわかっていたが、それを見たくなくて現実から逃げた。
可愛い女の子といちゃついて、ABC全部した。楽しかったです。
でも女の子によって自然消滅させられた。悲しくてずっと引きずってる。
私は高校に進んだ。彼女とは違うところだったので彼女と私の繋がりはなくなった。私は彼女を想いながらも、死までの日々を送った。
その頃になるともう「死ぬ前にやっておこう」という感情が強すぎて、いろいろなことをやった。好きな漫画をすべて揃えた。文字を書くのが(現実逃避として)楽しかったから暇があればペンを動かしていた。毎日何かしらを作って、自らの生を感じていた。
そして、18歳になった。明日死ぬかもしれないと思いながら日々を過ごした。でも、『今日』は生きてるのでやりたいことを積極的にやる日々は続いていた。
立派な同人オタクにもなっていたので同人誌も沢山買った。高校生でも18は18だから買えたのは嬉しかった。でも、沢山物は買うが、そろそろ死ぬと思ったので処分先は一覧にしていた。
同人誌はISBNついてなくてブックオフに売れないので池袋の○○というお店に売ってください。電話番号→○○○○○○○
のように1円でもお金にして還元できるようにしていた。部屋は定期的に片付けをしていた。気持ちとしては片づけというより身辺整理だったが。
大学受験はどうせ死ぬのに必要かわからなくて、やる気が出なかった。しかし、18のいつ死ぬかわからないから『大学生』になるのもいいかと思って、とりあえず受けた。勉強の意志が無かったので落ちまくってfランにすら入れなかった。
そしてとりあえず大学生になった。人生も終わりだから沢山遊んだ。遊んで遊んで、遊びまくった。具体的には奨学金もほぼ全て使い込んだ。4年分の学費を払わなくていいから今死んで返済が親に行っても家計に負担はかけないと思ったからだった。
その頃になるともう死は怖くなかった。この時点で人生の半分はもうすぐ来る死を考えて生きてきたのだ。流石に向き合えるようになっている。
そして、19歳になった。
正直驚いた。まさか迎えるとは思っていなかった19回目の誕生日はなんだか不思議な気持ちだった。それでも、10年も前からの予言?が少しズレるのは仕方のないことだと思ったので、後悔しないように生きようと思った。
そして、成人した。
こうなってくると混乱するのだ。人生の半分以上の芯が歪んでいるのだから当然だろう。流石にオーバーランが過ぎるのではないか。
また、今まで『余剰分』と思っていたものが想像以上に多かったことにも気がついた。そうして、私は一気にやる気を失った。だって今まではゴールテープがあったからそこまで頑張って走っていたのだ。マラソン大会でゴールと思ったらまだグラウンド1周あった!はまだ頑張れる。しかし2周は流石にやる気をなくす。まだあるの?となってしまったのだ。
そして気がついたら学ぶ意欲もなくしていた。だから大学をやめた。とりあえず働くことにした。
しかし、今まで『後悔しないために』お金は余すことなく使い続けてきたのだ。だから貯金がない。でも、今までの生き方は変えられないからあったらある分だけ使ってしまう。
そして学生時代より多くの収入を得たが、扶養ではなくなったことから出費も増え、でもその生き方が変えられなくて、この間遂にプ○ミスに手を出した。良くないとはわかっているけれど、お金が無いと生きていけないのだ。現実は世知辛い。そもそも仕事探しにも本気になれなくて派遣を渡り歩くだけだから悪いのだけれど。
あと欲に逆らわない生活をやめられないので1年で20キロほど太っている。明日死ぬかもしれないから食べたいものを食べる!を続けている。若いときは代謝があるが、段々と衰えることで脂肪に変わるのはわかっているが、やめられない。
オナニー終わり。
ここからが相談。クソ長い私の人生のおさらいオナニーを見てくれてありがとう。
生きるモチベーションが無い。
死んだあとのことはずっと考えている。本を売る場所リストは未だに存在しているし、保険証の裏面の臓器提供欄はすべて提供するに○がついている。若い体だから使えるなら使ってほしい。生きたいと願う人間の役に立てるなら本望だ。血も臓器も皮膚もすべて提供してもいいと思っている。それで誰かが救われるなら生きていた意味があったと喜べる。
もう前みたいに好きな文章で自分の中の好き!を表現する気力も体力もない。未だに人生のオーバーランの気持ちが拭いされないから、未来に希望も持てない。年金は払っているけれど、18で死ぬと信じていた人間に75までの想像はできない。なんなら30の想像もできない。こどもを産むどころか彼氏彼女すら作ろうと思えない。未だに『彼女』は私の心に居る。あの楽しかった、キラキラした思い出を抱きしめて死にたい。死ぬはずだったのに、死に損なった。
そうやって毎日毎日死に損ないが生きている。どうしたらこの『死に損なった』のはなくなるのだろう。「今の若者は未来に希望が持てない」なんて言うのを聞くが、私の希望の無さはベクトルが違う。誰とも分かり合えない。
いっそのこと隕石が降ってきて殺してほしい。通り魔に刺されて死にたい。ホームで人混みに押されてバランスを崩してしまいたい。青信号で渡っていたら老人の暴走車に轢かれたい。車に轢かれる死を思っていたから自殺は怖くて出来ない。でも死にたい。そんな思いを抱えながら生きることに意味はあるのか。
一気に打ち込んだので誤字脱字してそうだし、読みにくい表現もあると思う。ここまで読んでくれてありがとう。書いておいて、しかも読め!とか言っておいてなんだけど、こんなものを読ませてしまって申し訳なく思う。ごめんね。
死に損ないはあと1ヶ月でまた1つ年を取る。
なんて書くと格好良い気がする。でも残念ながらそんなに高尚なことではない。今から書くのは私の短い人生の中での経験とそれに伴う思考なのでオナニーにすぎない増田を書くよ。長いよ。忠告したから「長い」は書かないでね。長くてもいいよってやつだけ20代女のオナニー見てくれ。出来れば助言をくれると嬉しい。
長いのは読むの面倒!でも助言はしてやる!みたいな奇怪な人がいるなら、ラスト1画面分くらいのところまで飛ばしてくれてもいい。その助けようとしてくれたのが有り難い。
あと、これを読んで(あいつか?)と思った私の友人はそっと見なかったことにしてくれると嬉しいな。
オナニー開始
私が死を感じたのは小学生低学年くらいの時。いつからか自分は長く生きられないと思った。それは(最初はたぶん違ったけれど)具体的には18で死ぬと思ってた。誰かの死に触れたとかのようなきっかけも特になく、ただ漫然とそう思って、確信していた。私は18に左側から来た車に追突されて死ぬ。
死ぬのは怖かった。幼稚園くらいの私は『お母さん』になって、こどもが3人いて、休みの日はみんなでゲームをするような家族に憧れたけれど、流石に18ではそんなこと出来ないから少し悲しかった。でも生き物はいつかは死ぬものだからと次第に諦めて、今を楽しむことを決めた。
それからは色々なことをやった。何も知らずに死ぬのは嫌だったから本を沢山読んだ。具体的には小学校の図書館にある絵本や漫画じゃない本で、「未来」に役に立つもの以外の思想系や哲学系の本はほぼ全部読んだ。あとは「やりたい」と思ったことが出来たら積極的にやるようになった。
中学生になるとますますその『死』に近づいたから今のうちに!という意識は加速した。ちなみに中学校の隣に図書館があったからものすごく沢山の本を読んだ。それに伴って自分で文字を書くようにもなった。とても拙いものではあったが、楽しかった。
恋愛をしたかった。小学校では気になる子はいたけれど、彼は人気者だったし、ただ話しているだけで楽しかったから告白はしなかった。それをすごく後悔した。だから中学校では恋をしようと思った。
彼女に想いを寄せたのは中学1年生。入学式直後のクラスで、一番初めの自己紹介をするときに自分の好きなものを周りから引かれるくらい話している彼女が楽しそうで、キラキラしているように見えて、興味を持った。
はじめは小学校が違うし、彼女の好きなものは私の知らないものだったからなかなか話せなかった。私は踏み込めるタイプではなかったのだが、席が近くて小学校は違ったけれど話が合って一緒に帰っていたAちゃんは彼女と好きなものが一致していたようで、Aちゃんを媒介して彼女とも少しずつ話すようになった。
彼女は絵がとても上手くて暇があればすぐ絵を描いていたからそれをずっと眺めていた。私は練習したが絵が全く描けないので目を輝かせながら鉛筆を動かし続ける彼女がうらやましかった。彼女は、「何も知らない」私に彼女の好きなものをたくさん教えてくれた。そうして、両親が共働きな彼女の家に行って彼女の好きなものを見せてもらうことを沢山していた。彼女の好きなものを見せてもらって、それを元に文字を作ったりもした。
それは本当に楽しくて、また彼女も私が沢山知ろうとするのが嬉しかったのか段々と彼女の家に行く頻度も増えた。彼女の家と私の家、また学校までは地図上で鈍角二等辺三角形くらいの逆方面ではあったのだが、私は毎日のように通っていた。
偶然休みだった彼女の母親にも会ったときには挨拶して、彼女の父親とも少し気まずいながらも挨拶をして、彼女とはどんどん楽しく話すようになっていった。
ここから私の『恋』が始まるのだが、想いが無駄に多くて無駄に長いので読むのが面倒な人は●●●●●まで飛ばしてほしい。
そして、夏休みにはなんの因果か彼女とはキスをした。しかも舌を絡めるやつ。はじめてがべろちゅーな中学生だった。
前述の通り彼女の両親は共働きで家にはいつもいなかったのでその日から(正確には次の日から)彼女とのちょっぴりえっちな関係が始まった。彼女の耳を舐めた。首を舐めた。キスをして、抱きしめて、顔がくっつきそうな距離感でくすくす笑っていた。
その後学校が始まってからもそのえっちな関係は続いていた。彼女の家の方に行って、彼女の家か彼女の家の裏でキスをして、彼女の太ももを撫でた。
どちらかが告白して「お付き合い」したわけではなかったので私の方からある日好きを伝えた。心臓が飛び出そうなくらい緊張したが、彼女は泣きながら笑っていたのをよく覚えている。
その告白のあとから彼女とはこっそり教室で愛を囁いたりして、みんなにバレないようにいちゃつくのが楽しかった。
二学期終業式の日に初めて彼女の性器を舐めた。ものすごく善がっていて家に帰ってからお風呂で初めてオナニーをした。生憎私は絶頂しなかったけれど、人体の神秘と思いながら自分でやってみて問題ないとわかったことを彼女にもした。
彼女の中に初めて指を2本入れた日の翌日、一時間目の移動教室で彼女がこちらに歩いてきて、顔を赤く染めながら小さな声で「2本一気にいれるのはきつい」と耳打ちしてきた時は一瞬意味がわからなかったが、理解してあまりにも彼女が可愛くて、危うくクラスメイトの前でキスをしそうにもなった。
彼女と一緒にいて、とても楽しかった。自らに来る(と信じている)死も彼女といれば忘れられた。正しくは1回あまりにも幸せだったから『今』死のうかと思って彼女に告げたことはあった。泣いて止められたので二人で抱き合って泣いたのをよく覚えている。
話は少し変わるのだが、私には悪い癖があった。自分で自己催眠のようなものをかけていたのだ。それでありもしない『過去』を話したり、存在しない『昔の友達』の話を自分に刷り込んで、自分に自信を持たせて、死を感じたりしない元気な少女を演じていたのだが、小学6年生くらいの時から人格が出来始めた。別に多重人格というわけではなく、いわばイマジナリーフレンドのようなものなわけだが、数が多かった。男や女は勿論犬や猫、アンドロイドなど様々なものを生み出して、自らの支えにしていたし、その中でも特に優秀な人格を『兄』や『姉』のように扱った。また、『兄』や『姉』に自分が成りきることで『私』には出来ないことをやってのけたりしていた。それを彼女の前でも出してしまっていたのだ。私の口からそれは説明しなかったので、彼女は最初は混乱していたが次第に受け入れてくれていたように思う。
『兄』のときは彼女をどうしても手荒に抱いてしまっていた。『狼』のときは彼女の至るところに噛みつかないと気がすまなかった。『猫』のときは沢山撫でてほしかった。
迷惑をかけているのはわかっていた。けれど、私は自分ではない自分も受け入れてほしかったのだと思う。彼女はよくやってくれた。『私』を愛しているから、と彼女が言ってくれたときは私は自分のすべてを彼女のために使ってもいいと思えるくらい嬉しかったのをよく覚えている。
しかし、いつからか彼女は私と距離を置くようになった。理由は分からない。彼女は理由を教えてはくれなかった。だからきっと私になにか落ち度があったのだろうと思っている。そうして彼女との蜜月関係は終わってしまった。
学年が上がり彼女とクラスがわかれたことで話すことすら叶わなくなって『自然消滅』のようになった。そうすると忘れていた死が襲ってきた。やはり死ぬのは怖かった。でもその傍らで死んだら彼女は私を見てくれるのだろうと期待した。
3年になり、彼女は本当に私と話さなくなった。おそらく私が死んでも見てくれないのだろうと思うほどに彼女は私と目を合わせようともしなかった。
『兄』は彼女に一番執着していたので「やり直したい」と言った。沢山アドバイスもくれた。『猫』は『兄』に賛同した。それでも、私は行動にはうつせなかった。だって、今は『自然消滅』だが、『兄』の言うようにすると明確に終わってしまう。私は、終わらせたくなかった。1ミリも希望はないのはわかっていたが、それを見たくなくて現実から逃げた。
可愛い女の子といちゃついて、ABC全部した。楽しかったです。
でも女の子によって自然消滅させられた。悲しくてずっと引きずってる。
私は高校に進んだ。彼女とは違うところだったので彼女と私の繋がりはなくなった。私は彼女を想いながらも、死までの日々を送った。
その頃になるともう「死ぬ前にやっておこう」という感情が強すぎて、いろいろなことをやった。好きな漫画をすべて揃えた。文字を書くのが(現実逃避として)楽しかったから暇があればペンを動かしていた。毎日何かしらを作って、自らの生を感じていた。
そして、18歳になった。明日死ぬかもしれないと思いながら日々を過ごした。でも、『今日』は生きてるのでやりたいことを積極的にやる日々は続いていた。
立派な同人オタクにもなっていたので同人誌も沢山買った。高校生でも18は18だから買えたのは嬉しかった。でも、沢山物は買うが、そろそろ死ぬと思ったので処分先は一覧にしていた。
同人誌はISBNついてなくてブックオフに売れないので池袋の○○というお店に売ってください。電話番号→○○○○○○○
のように1円でもお金にして還元できるようにしていた。部屋は定期的に片付けをしていた。気持ちとしては片づけというより身辺整理だったが。
大学受験はどうせ死ぬのに必要かわからなくて、やる気が出なかった。しかし、18のいつ死ぬかわからないから『大学生』になるのもいいかと思って、とりあえず受けた。勉強の意志が無かったので落ちまくってfランにすら入れなかった。
そしてとりあえず大学生になった。人生も終わりだから沢山遊んだ。遊んで遊んで、遊びまくった。具体的には奨学金もほぼ全て使い込んだ。4年分の学費を払わなくていいから今死んで返済が親に行っても家計に負担はかけないと思ったからだった。
その頃になるともう死は怖くなかった。この時点で人生の半分はもうすぐ来る死を考えて生きてきたのだ。流石に向き合えるようになっている。
そして、19歳になった。
正直驚いた。まさか迎えるとは思っていなかった19回目の誕生日はなんだか不思議な気持ちだった。それでも、10年も前からの予言?が少しズレるのは仕方のないことだと思ったので、後悔しないように生きようと思った。
そして、成人した。
こうなってくると混乱するのだ。人生の半分以上の芯が歪んでいるのだから当然だろう。流石にオーバーランが過ぎるのではないか。
また、今まで『余剰分』と思っていたものが想像以上に多かったことにも気がついた。そうして、私は一気にやる気を失った。だって今まではゴールテープがあったからそこまで頑張って走っていたのだ。マラソン大会でゴールと思ったらまだグラウンド1周あった!はまだ頑張れる。しかし2周は流石にやる気をなくす。まだあるの?となってしまったのだ。
そして気がついたら学ぶ意欲もなくしていた。だから大学をやめた。とりあえず働くことにした。
しかし、今まで『後悔しないために』お金は余すことなく使い続けてきたのだ。だから貯金がない。でも、今までの生き方は変えられないからあったらある分だけ使ってしまう。
そして学生時代より多くの収入を得たが、扶養ではなくなったことから出費も増え、でもその生き方が変えられなくて、この間遂にプ○ミスに手を出した。良くないとはわかっているけれど、お金が無いと生きていけないのだ。現実は世知辛い。そもそも仕事探しにも本気になれなくて派遣を渡り歩くだけだから悪いのだけれど。
あと欲に逆らわない生活をやめられないので1年で20キロほど太っている。明日死ぬかもしれないから食べたいものを食べる!を続けている。若いときは代謝があるが、段々と衰えることで脂肪に変わるのはわかっているが、やめられない。
オナニー終わり。
ここからが相談。クソ長い私の人生のおさらいオナニーを見てくれてありがとう。
生きるモチベーションが無い。
死んだあとのことはずっと考えている。本を売る場所リストは未だに存在しているし、保険証の裏面の臓器提供欄はすべて提供するに○がついている。若い体だから使えるなら使ってほしい。生きたいと願う人間の役に立てるなら本望だ。血も臓器も皮膚もすべて提供してもいいと思っている。それで誰かが救われるなら生きていた意味があったと喜べる。
もう前みたいに好きな文章で自分の中の好き!を表現する気力も体力もない。未だに人生のオーバーランの気持ちが拭いされないから、未来に希望も持てない。年金は払っているけれど、18で死ぬと信じていた人間に75までの想像はできない。なんなら30の想像もできない。こどもを産むどころか彼氏彼女すら作ろうと思えない。未だに『彼女』は私の心に居る。あの楽しかった、キラキラした思い出を抱きしめて死にたい。死ぬはずだったのに、死に損なった。
そうやって毎日毎日死に損ないが生きている。どうしたらこの『死に損なった』のはなくなるのだろう。「今の若者は未来に希望が持てない」なんて言うのを聞くが、私の希望の無さはベクトルが違う。誰とも分かり合えない。
いっそのこと隕石が降ってきて殺してほしい。通り魔に刺されて死にたい。ホームで人混みに押されてバランスを崩してしまいたい。青信号で渡っていたら老人の暴走車に轢かれたい。車に轢かれる死を思っていたから自殺は怖くて出来ない。でも死にたい。そんな思いを抱えながら生きることに意味はあるのか。
一気に打ち込んだので誤字脱字してそうだし、読みにくい表現もあると思う。ここまで読んでくれてありがとう。書いておいて、しかも読め!とか言っておいてなんだけど、こんなものを読ませてしまって申し訳なく思う。ごめんね。
死に損ないはあと1ヶ月でまた1つ年を取る。
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間が暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならない。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子のキャリアとして長い時間を旅してきた。
その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。
つい最近起こった出来事ですらもよく知らないことがほとんどだろう。
例えばウイグル自治区でほんとにナチスドイツのやったような虐殺は行われているのだろうか?
遺体焼却用らしき『電気炉』の話をする、なんとか協会のウイグル人副理事をyoutube動画で見たけど、証拠は一切ない。話をよく聞いているとどうも噂レベルの話のようである。
私個人はウイグル人の弾圧はあっても、大量虐殺などはどうも胡散臭くて信じがたいと思っている。
そもそも中国共産党にウイグル人虐殺をする理由がない。とは言え、事実はまるでよく見えてこない。
最近の事象ですらこうなのだから、昔のことになればなおさらだと思う。
私でももちろん知らないことはいっぱいある。私などは不勉強すぎて、日本の戦時中の話ですらどうなっていたのかまるでよく知らない。
だから、はてな民のような平均的ネット民に比べれば多少はリテラシーのある人達でもホロコーストのことをよく知らないという事実は、過剰な期待をはてな民にしてはいけないという意味で、ある程度は致し方ないことだと思う。
記事の中にさえきっちり書いてあるのに、何が「ドイツ」なんだろうか?
id:haru-k 自国の辛い歴史を正面から見切るドイツに敬意。
id:kanose 『アウシュビッツ 死者たちの告白』の書き起こし。番組を見たけど、地中に埋められていたメモが発掘、しかし解読不能だったのが、やっと解読できて、内容がわかってきたというドイツの執念がすごかった
この人達が、アウシュヴィッツ(博物館)がドイツではなくポーランドにあるという事実を知らないのも恥ずかしい話だが、もっと恥ずかしいのはこの2つのブコメにスターがたくさん集まっていることである。
それを知らなくてもアウシュビッツ強制収容所がドイツにあると誤解しているのは珍しくもないので別にしょうがないとは思うけど、記事の中に書いてあるだろ、
とはっきりと、しかも冒頭近くに。研究してる人も下記の通りである。
「ゾンダーコマンドに関する公式資料は、実は一切残っていません。ナチスは大量虐殺の目撃者だった彼らの存在を知られたくなかったからです」(アウシュビッツ博物館 資料部部長 ヴォイチェフ・プウォサ)
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所・絶滅収容所は、アッパーシレジアと呼ばれるポーランドの南、スロバキアとの国境近くにある。行った人なら知ってるかと思うけど、結構遠くて辺鄙なところにある。
元々はポーランド軍の兵舎だったところで、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻して始まった第二次世界大戦で、要するにポーランド軍を追い出したのである。
そしてこのアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所がこれほどまでに有名になったのは、戦争期の後半にはビルケナウこそがユダヤ人虐殺絶滅政策の要になった収容所だからだ。
戦後すぐから冷戦末期まで、旧ソ連が適当な推計計算を行ったがために四百万人のユダヤ人が虐殺されたとされていた。ビルケナウの遺体焼却炉の火葬率を大幅に過大に評価したためである。ちなみに、冷戦時代からそれはあまりに多すぎると西側研究者は言っていた。だって、ユダヤ人移送記録からかけ離れているし、精度の高いユダヤ人人口計算から言ってもアウシュヴィッツだけが突出して多いために計算が合わなくなるからである。
しかしそれでも、百万人も工業的にユダヤ人を虐殺し得たのはビルケナウしかなかった。
アウシュヴィッツ以前は、ソビボル、ベウジェツ、トレブリンカ、ヘウムノといった絶滅専用収容所でユダヤ人工業虐殺をやっていたが、こっちの方は、もう一つある絶滅収容所の機能を持つマイダネク以外、全てナチスは破壊処分して証拠隠滅されて残っていないのである。なお、アウシュヴィッツ以外の絶滅専用収容所トータルでざっと二百万人のユダヤ人が虐殺されている。
何故か。極秘裏にユダヤ人虐殺をやったからである。またポーランドは鉄道網が発達していて、効率的なユダヤ人大量輸送を行うことが可能だったのである。
ナチス親衛隊は、ユダヤ人虐殺を徹底的に隠蔽し、「ガス室」や「処刑」といった言葉ですらも文書記録にほぼ残さずにやったのだ。
ナチス親衛隊のトップ、全国指導者であったヒムラーは、部下にヤバい言葉の訂正まで命じている。
あのユダヤ人問題最終解決を話し合った有名な身内以外いないヴァンゼー会議ですらも、処刑だの虐殺だのという言葉は使わずせいぜいが「適切な処置」だの「特別な処置」というような曖昧な言葉しか議事録には残さなかった。
殺される側のユダヤ人にしても「シャワー室に入れ」である。ガス室の周りには「消毒はあちらへ」などの騙すための看板まで掲げられていた。
こうした徹底的な隠蔽工作(つっても、完全な隠蔽は無理で、虐殺を明示的に示す文書はたくさん残っているが)は、戦後の否認論者に付け入るすきを与えてしまったのである。否認論者に取っちゃ証言など「信用できない」で一蹴できるので、どんなに膨大な証言記録があっても全部ウソにされるからね。
『否定と肯定』という映画を見た人も多いと思うが、あのデヴィッド・アーヴィングの背後に一体何人の歴史修正主義者・否認論者がいると思うだろうか? もちろん推測でしかないが、アーヴィングの応援者は何万人もいたに違いない。
アーヴィングの主張にしたところで、彼が否認に用いた主張のほとんど全ては、お仲間の否認論者のものばかりである。フォーリソンであったり、バッツであったり、ロイヒターであったり。
彼ら否認論者の主張は、知っている人にとっては噴飯ものでしかないのだけれど、無知な人を騙すことにかけては絶大な高価を発揮するとてつもなく狡猾な主張である。
例えば、マルコポーロ事件でおなじみの日本の代表的な否認論者である西岡昌紀が一番良く使う否認論を紹介しよう。
さて、これを言われてあなたはどう思うだろうか? 答えは敢えて言わないでおくが、この懐疑論に即座にきちんと答えられる人はきっと少ないに違いない。あるいは、こんなのはどうであろうか?
といちいち上げていったらほんとにきりがないほどの細かい否認論がある。これらもいちいち回答は言わない。問題は、無知な人はこうした否認論に容易に騙されかねないということであり、実際に大勢騙されているという現実である。
未だに、あのクソみたいな西岡論文を信じている奇特な人たちも存在するのである。
ちゃんと教えといてあげるわ、ユダヤ人人口は当時、ポーランドはドイツの大まかに言ってざっと十倍はいたんだよ。
追記:
ほんとに何も知らない人が多いなぁ。
id:deep_one ガス室の謎の一つに「チクロンBでは毒性が低すぎる」っていうのがあるのだが、ガスの種類は明記してあるのだろうか?別のガスを使ったんじゃないのか。一酸化炭素中毒の方が簡単って話もある。
まさかチクロンBの毒性を疑う?(普通の否認論者は毒性が強すぎるという疑問を言うのだが……)HCNって化学式なんだけど、知らないのかな? 「青酸」とも言われる猛毒だよ。当時は広くシラミ退治用に使ってたんだ。シラミは不衛生な上に当時大流行していたチフスを媒介してしまうからね。だけど、人の場合シラミより遥かに低濃度かつ短時間で殺害可能なんだよ。チクロンBっていうのは珪藻土に青酸を染み込ませてあるわけよ。これが空気に触れて26度以上になるとガスを放出する仕組みなんだ。ガス室に裸にした人間をぎゅうぎゅうつめに押し込めて、壁の上や天井からチクロンBの缶を開けて、その珪藻土の粒を部屋に落とすんだ。ぎゅうぎゅう詰めだから26度なんて超えてるしね。あっという間さ。阿鼻叫喚の中10分程度で死んだそうだ。
別の場所では一酸化炭素も使ってたよ。アインザッツグルッペンは現地でガス車を使ってたし、T4作戦でも使われた。ソビブルやヘウムノなどの絶滅収容所でも使われたよ。
「呪われたことがあるか?」そう問われたら、まぁ殆どの人は首を横に振るだろう。
けれども、誰もが既に呪われたなかにいて、そうした状況で毎日生きている。人が呪われるのは、他人の恨みを買ったからではない。
むしろ、呪いをかけたそいつは、何にも思っちゃいない。そいつにとっては、呪いではなくて、単なる言動に過ぎない。
世の中にはあらゆるところに呪いが仕掛けられている。それは言葉や社会運動といった身体を纏っている。その中には、えらく巧妙な論理構造をもったものもあるし、身も蓋もない感情的なものもある。
呪いが僕らに接触しても、すぐには取りつかない。それは、じわじわと僕らを弱らせる。たいていの場合は他の呪いと共に弱らせた僕らの意識を犯している。
呪いの内容を言語化するのは難しい。呪いは、僕らの意識そのものよりも無意識の構成を歪ませるからだ。
「他人に正しいと思われるように常に正しくあれ」
最近流行りの呪いはこうだ。この呪いは例えば、煙草のパッケージに書かれた注意書きやポリコレを媒介して襲ってくる。
しかしながら、この呪いに反抗する術は少ない。たんに反動的に反抗することは、呪いの裏返しでしかない。それは呪いに囚われた人間のもう一つの在り方に過ぎない。
呪いに反抗する術は、呪いから脱する術であり、その他には何もない。僕らは呪いから脱さなければ、自由ではありえない。
僕らは呪いを背負って生きている、常に脱する機会を伺いながら。
腐女子やけど、高校生の時に初めて作った携帯サイトに掲示板を付けた
ただ単に当時はサイトと言ったら掲示板を付けるのがデフォルトっぽい空気を感じていたし、御多分に漏れずフォレストページでも簡単に掲示板を付けることができたからコンテンツの1つとした
ただそれだけだ
ただ紙に丸ペンとコピックで描いたの絵の写メを載せていただけだったが、なぜか掲示板には書き込みがあった
私はリア友でもない他人のサイトの掲示板に絵の感想を書き込もうなどと考えたことがなかった
このロジックでよく考えたらそもそも最初から掲示板を付ける必要がなかった
なにも考えていなかった
知らん他人と絡むのは怖いからリンクページなどは絶対作らないと思った時点で掲示板をコンテンツに入れるべきじゃなかった。アホだ
なぜか私のペンネームにそっくりな名前で書き込む人もいたし(私が〇〇、相手が〇〇ぽん)、たまたま似たペンネームなのかな?と思うようにしたかったけど書き込み頻度も高い
とても穏やかな文体で決して荒らしなどではないとはわかるのだがどうしても怖かった
こんなガキの絵を褒めてくれる優しい人はたまたま娘の携帯を見てサイトを見つけたリアル私の母かな?と本気で思っていたし今でも少しはそう思ってる
まあ、リアル私の母はそんなふうに携帯サイトの掲示板を使いこなしたりできないのだけど
そして褒めてくれるのが好意だろうと、逆に怖い。だって顔も知らん人だよ?私におべっか使う必要はない
それが怖い。この気持ちに共感してくれる人を遠くから見つけることができたらとても嬉しいくらい、インターネット世論から外れた感情かなと思っている
Twitterとかでも「感想を送らないと同人作家は筆を折る」みたいな私と正反対の極論の方が大きく聞こえるからね
あと知らん他人とインターネット上で、特に私の絵を媒介して絡むのは嫌だがリアルで知らん他人と話すのは好きだ
インターネット世論で嫌われがちな絡んでくるショップ店員と話すのが大好きだ
まあそれはアパレルの販売員ではない裏方だからというのもでかいけど、美容師とか、旅行中にその辺にいる人たちとかと話すのも好きだ
でもインターネット上で私の絵を媒介して絡むのは嫌だし、リア友でも相手が私の絵を変な持ち上げ方してくると徐々に気まずくなるのもうわかったから自作の同人誌渡す時はでかい声で「絶対感想とか言わないでね!」と言う
「感想いらないなら不特定多数に絵を見せるな」みたいな極論も聞いたことあるけど、私は自分の絵も漫画も好きで並べておきたいし、サイトを作ったり新しいSNSに登録するのも好き
勿論localhostにネットには上げてない小学生の頃からの絵を全部ずらっと並べたサイトだって作ってるよ
でもコンセプトごとに厳選した絵を載せるサイトをワールドワイドウェブに置いて、自分以外の誰かが私の絵を見てる形跡を発見して、どんなふうに見たのかなって生ログのページ遷移時間から想像するのが好き
でもよく知らん他人から接触されるのはいかに相手にとっては好意であろうとまじで怖い
私は好きで趣味で描いてるだけだからこれ以上改善してどうこうとかはそんなに思わんし、技術的に悩む時はあるけどそういう時は絵の上手いリア友に相談してるから不特定多数のご意見は不要だ
好きな「趣味」という大枠の中にコアとなる好きな部分と付随する苦手な部分があるのは多くの場合に有り得ることだ
その大枠から苦手な部分を限りなく取り除いて濃厚なコアだけ味わいたいじゃん
好きなことしたいなら苦手なことも受け入れろなんて根性論今時昭和すぎるでしょ
そんなわけで私からしたら「絵」と「不特定多数のご意見・ご感想」にはなんの関わりもないよ
勝手にセットにしないでほしい
まあこれもイマジナリーエネミーを勝手に見て心が騒いでるってだけなんだけど
いくつかの携帯サイトを作った高校生時代が終わり、大学生になると有料鯖を借りてPCサイトを作るようになる
長年ねらーで同人板の影響を多分に受けていたため同人サイトとは言え連絡先が1つもないのは無責任と思っていた
そしてメールフォームや拍手は感想を送りやすいが業務連絡用と書き添えたメールアドレスのみなら感想を送りにくいらしい
私は〇〇○★yahoo.co.jp(★→@)のような表記がダサく感じて嫌だったので、しっかり@込みでメールアドレスを画像にして貼った
画像ならコピペできないし一文字一文字打ち込むのは絶対にめんどくさいからよっぽどの不具合がなければ誰も連絡を取ろうとはしないだろうと踏んだのだ
クソめんどくさい。適当にお礼を言ってスルーしたかったけど多分これが営業ってやつだろうと思った
勝手な妄想が膨らんで相手をフォローしたり相手の作品に10点入れた方がいいのかなという圧を勝手に感じた
もうそんな妄想をしてしまう自分自身が嫌だった。だからとにかく私に触れないでほしかった
この頃にはだいぶ学習できてきていたのでかなりお触り禁止感の演出ができていたのではないかと思う
大体の人が黙ってRTいいねだけしてくれるし、bioで予防線張ってるから直リプも無視し放題だ
一言感想の空リプ引リツは結構あるけどこれは割とおもしろかった
どうやら私は感想メールに返信しなきゃいけないという義務感の発生が最も嫌だったらしい
でも積極的に感想欲しがってると勘違いされたら困るから絶対に反応しないしマシュマロとかは絶対置かない
Twitter見てると前述の「感想を送らないと同人作家は筆を折る」みたいなツイートがバズるのをたまに見かけるけどどうして?
個人的にはそういう極論を持ってる人ってごく一部で、大半は感想はあったら嬉しいけどなくても別にって人、そして感想不要って人も見かけよりは多いと思ってる
私は過去の経験から「感想不要」と明記せずとも感想を送りづらい雰囲気を出すことに長けてきたと思う
でもわざわざ不要と書くのはなんか怖い
感想を欲してやまない、でも全然もらえなくてほぼ飢えてるような過激派、同ジャンルでも目立つからついついヲチってるけど、目視したわけでもないイマジナリー感想不要の人を脳内ででっち上げて「嘘つき」とか「聖人君子を気取ってる」とか罵ってるもの
こっちからしたら私が「感想ください!」って言う方が嘘だし、人の好意を受け入れられない私みたいなタイプの感想不要人が聖人君子とはとても思えないけど
本人はほしいもんはほしいって言わなきゃもらえないって発想に捉われてるみたいだけど、逆にあの攻撃性の発露こそが「感想を送りづらいお触り禁止感の演出」の極致にすら思える
私は割と詳細なウェブ性格診断みたいなのの結果を見るのが結構好きだ
感想を欲しがるのって診断結果を早く見たいような気持ちと近いのかな、と勝手に想像している
確かになんかそういうののプロが私の漫画を読んで心理分析とかしてくれるならすごく興味ある
お金払ってでも頼むと思う
そういうことなのかな?
でもインターネット上で誰かに感想を送るであろう人の大半は心理分析の素人だろうし、別に感想って大部分は心理分析じゃないし、私はいいかなあ
「性的モノ化の是非」なんて議論は初めから存在しないのだから真面目に相手する必要はないんだよな。
元々批判されていたのは性的客体化(objectification)の是非。
女性が性的視線を「向ける側」ではなく、「向けられる側」であるという空気を助長する表現は如何なものか?それは女性の主体性・自己決定権を損なうことに繋がるのではないか?という批判に対してどう答えるか?という話なんだよな。
そういう意味では、たとえばananの表紙のように、女性から男性へ向けて性的視線が向けられる表現というのは、そりゃ全くもって問題がないんだよな。(少なくとも「性的客体化」の議論においては。)
馬鹿馬鹿しい非難に対抗するために馬鹿馬鹿しい議論を重ねなければならないという構造そのものが馬鹿馬鹿しいのだから、その馬鹿馬鹿しさを指摘しなければならないのだよな。
実在女性を媒介しない、空想の女性表象というのは、むしろ正しく女性性を「モノ化」しているのだから、非空想の女性を性的に「客体化」することに奉仕しない、という反論もあり得るのではないか。
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、集落を作り、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。共通の利益としての安全を求める性質が、かつての我々にあったことは否定しないが、恐らくそこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、当然そこに至るまでにシームレスに旧人類種のグラデーションが存在している。我々の遺伝子のレースはきっかり三十万前に始まったわけではない。あるいはそれは五百万年前かもしれないし、一千万年前かもしれないし、一億年前かもしれない。あるいはもっと前かもしれない。
例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。
そしてそこには必然的に、暴力の行使がまとわり付くこととなった。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人類が暴力を振るうことも大いにあったであろう。そのような人類に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならないであろう。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなるからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ず一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいない、と言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。
物づくりをする人の中には、アーティストタイプの人とクリエイタータイプの人がいる。
アーティストタイプは「表現すること」自体に重きを置いていて、
クリエイタータイプは「表現したものを通して人の心を動かすこと、表現のその先」を目指している。
アーティストタイプの人は自己表現が目的だから、評価どころか、誰かに見てもらえなくてもいい、見せるために作っているわけではないという人もたくさんいる。「作ること」それ自体が喜びであり、楽しいのだ。
逆にクリエイタータイプは、他人に見てもらってリアクションを得ることが前提にある。広告やweb、装丁など「デザイン」と分類されるものに携わる人はこっちだ。顧客の求めるものに応え、見る人がどういう気持ちになってほしいかを重視して、ものを作る。書籍として販売されている商業作家もほとんどはこっちだろう。(一人でひっそりと作り続けたものがたまたま誰かの目に留まって商品化されるケースもあるので「ほとんど」と書いた。)
私は根っからのクリエイタータイプで、物心ついた頃から絵は描いていたけれど、ただの絵ではなく「紙芝居」や「絵本」や「着せ替え人形」や「塗り絵」を手作りして他人に楽しんでもらうという、ちょっと珍しい遊び方を幼稚園児時代からしていた。絵を描くこと自体ももちろん好きだけれど、それを見た人が喜ぶ顔を見るのが何より好きだった。
同人誌ではよく、「感想をもらって嬉しいか否か」「いつもどれくらい感想を貰うか」のような、感想についての議論が時折取り沙汰される。
人の目に触れる形で世に出した以上、多少のリアクションは欲しいという人が大多数だが、感想はいらない派も少なからず絶対数存在する。これは前述した二つのタイプがあるからだ。
どっちが良いとか悪いとかの問題ではなく、表現のベクトルが違うのだ。
アーティストタイプの人の中には、他者から(たとえ肯定の言葉であろうと)何かを言われた瞬間に物づくりをやめてしまうという人も稀にいる。自分が一人で作り上げた小さな世界に、知らない人が土足で上がり込んできたような、そんな気持ちなのだろう。感想を送ったらブロックされた、お気持ちツイートを書かれた、という人もたまに見かける。
こうやって作り手にもタイプが混在していて、かつ「ネット」というそれが表出しにくい状況だと、読み専で感想を送る側のオタクにとっては、送った方がいいのか悩むのももっともだろう。一度送ったら筆を折られたなんて経験があれば、二の足を踏んでしまうのは当然だ。
ここの見極めは大変難しいのだが──反応がいらないという人は、自分の作品の宣伝や告知をほとんどしなかったり、「感想いらないです」と明言したりしていることも多いので、そこで見分けていくしかない。
ただ、製本やグッズ化などなんらかの形にして即売会で頒布している作家に関しては「見てほしい、リアクションがほしい」人が大多数ではあるので、臆することなく感想は送ったほうがいい、と、私は思う。
私は同人では二次創作BL界隈に身を置く腐女子だが、関東のイベントだとだいたい安定して誕生日席、インテだと繰り上がって壁配置になる程度の中堅サークルで活動している。いつも通販・イベント・再販合わせて一作品500〜1000部くらいの部数を頒布しているが、貰える感想は10以下。内容によっては1つしか来なかったときもある。
来ないのだ、意外と。
本を出すときは「受け入れてもらえるだろうか、楽しんでもらえるだろうか」と不安で仕方ないので、最初の一つが来ると心から安堵する。一つ貰えるだけで飛び上がって喜んでしまう。十通も来たら「今日が命日…」なんて思う。描いてよかった、と自分を肯定できる。
私が送らなくてももうたくさん貰っているだろう、なんて思う必要は全くない。貰ってない。感想を送れ。
また、一度送ったからもういいだろう、みたいなことも思わなくていい。好きだと思ったらその度に伝えていい。
貰う数が少ないから、作家側は何度も感想をくれる人を次第に把握する。HNを書かなくても文体でわかったり、「以前〜というような感想を送った者です」とだけ書いてもすぐに思い出せる。
何度もくれる人にはそれだけ愛着というか、親しみのようなものが湧く。この人のためだけに一冊書き上げたい、何かお礼をしたい、スケブを描きたいから一度顔を出して会いにきてよ、と思うことすらある。
この人だけは絶対にリアクションをくれる、という安心感が生まれる。そうすればそれだけ、作り手は本を出し続ける。
感想を送れ。
…とまぁ、送るか否かで悩んでいいのはあくまで趣味の同人界隈の話で、商業作品に関しては100%感想を送っていい。作家に直接送れないときは、amazonや楽天ブックスなど媒介業者のレビュー欄に書くといい。レビューを読んで購入するかどうかの指針にする人もいるからだ。本が売れないと商業作家は死ぬ。感想を送れ。
感想問題が話題になるたびいつも思う、同人作家かつ商業作家かつ商業クリエイターの三足の草鞋を履いているオタクの独り言でした。
日本はアビガン含めてそれどころじゃないんですけど。莫大な金注ぎ込んでるのにね
さすが不正研究で名指しされ著名な学術誌や国際学会では口にできないようなことを
ワクチンはおそらくできるけど(じゃなきゃなんでスパイが暴れてると思ってるんだ)、
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9272/?ST=m_news
コロンビア大学メイルマン公衆衛生大学院、ジョン・スノウ冠教授で同大学院感染症・免疫学センターのディレクターを務めるW・イアン・リプキン(W. Ian Lipkin)氏は、
「もし世界中の全ての人にワクチンを接種するとしたら、ある人がワクチンに対して副作用を起こす可能性は、MERSを発症する可能性よりも高いだろう」と話す。
◆予防の鍵はラクダ
SARSのときにはウイルスを媒介する動物の駆除が制圧を早めたように、MERSのさらなる感染拡大を止めることが何より望まれるという点では誰もが一致している。
リプキン氏は、最も有効なのがラクダだと期待する。MERSの予防ワクチンを人に接種するのではなく、感染拡大の鍵を握っているらしいラクダへの接種に焦点を移した方がよい。「宿主としてのラクダを根絶すれば、MERSを抑え込む合理的な一撃になるだろう」とリプキン氏。
ラクダ用ワクチンの開発であれば、人間用ワクチンの開発よりも安く、早く、容易に実現するだろうし、人間の場合に比べて安全性の懸念も小さいとリプキン氏は話す。
政府やマスメディアは必死にgotoトラベルやいつぞやのマイナンバーの時みたいに材料にして、一般個人にはメリットのない追跡アプリを無理に普及させようとしているのを報道を見ていても判る事だけど、どう考えても旅行はおろか帰省すら見合わせている人が多いのは事実だろうし、特に岩手の件を見ているとそれこそ地方からすれば恐怖でしかないだろうと思う。
今や感染者の多い東京や埼玉等の周辺や大阪、福岡等の大都市圏の人間はまるでペストを媒介するネズミやマラリアを媒介する蚊の様な扱いなのは色々見ていても判る事だしね(苦笑)
実際数字を見ればそう言う反応もされるのは当然だろうけど。
しかしマスクだとか距離だとか追跡アプリだとかPCRとか引き合いに出してでも無理に旅行させようと煽るマスメディアもマスメディアだなと思う。
ほんとそれな~。そんな細かいこといちいち気にしてらんねえよって感じ。
どうせレジや窓口もバッチリガードしてるしゴム手袋つけっぱでレジ打ちしてるんだからマスクしてなくたって別にいいでしょという感じ。
友達ともろくに会えず楽しみにしてた映画が次々と延期になりバイトもなくなり学費払ってるのにまともに数ヶ月図書館すら使えない状態に置かれておとなしく我慢してたんだし、こないだは献血にも行ったし、もうこれで十分に利他したよ。これ以上の利他心を発揮してほしけりゃ色々なものを返してほしいわ。なんであれだけ痛めつけられたのにまだ他人の心配をしなきゃいけないの?
「潜伏期間中に他人にうつさないこと」「ウィルスを媒介してしまわないこと」が主な目的なので、症状があるかどうか関係なくマスクはしてください。/ スーパーも入店時に消毒しないとほとんど意味がない。
マスクの目的は知ってますが、見ず知らずの他人の健康よりも自分の精神衛生の方が大事だというだけの話なので。
もう十分我慢してきて色々なものを奪われてきたのに、なんでこれ以上他人を気遣って自分の不快感を押し殺さなきゃいけないのかがわからん。もううんざりなんだよ。
都内住みだけど、忘れたとかでマスクしてないときはすごく視線感じるよ。帰宅して手を洗わないとか書いてるし、この増田釣りじゃなければ相当鈍いんじゃない?
それマ? ノーマスクで新橋や池袋や渋谷を闊歩したけどちっとも視線感じんやで。どこの東京の話?
幸い陰口叩かれたことはないけど、仮に叩かれたらその場でめっちゃツバ飛ばしまくる勢いで食ってかかってやるわ。
コロナウイルスは当初 boomer remover と呼ばれていたけど、最近の状況やこの増田を読むとDQN remover と呼ぶのがふさわしい気がしてきた。
去年と同じ生活様式続けてるだけでDQN呼ばわりされるんすね。そんなクソ連中の言うことなんて誰が聞いてやるもんかって話なんだよなぁ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200720142437
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 125 | 21027 | 168.2 | 44 |
01 | 52 | 9041 | 173.9 | 78 |
02 | 34 | 10434 | 306.9 | 44 |
03 | 41 | 3675 | 89.6 | 47 |
04 | 47 | 9801 | 208.5 | 72 |
05 | 40 | 3838 | 96.0 | 54 |
06 | 30 | 8889 | 296.3 | 57.5 |
07 | 65 | 5132 | 79.0 | 57 |
08 | 144 | 9799 | 68.0 | 37.5 |
09 | 168 | 13377 | 79.6 | 38.5 |
10 | 171 | 15681 | 91.7 | 40 |
11 | 183 | 29140 | 159.2 | 51 |
12 | 238 | 24954 | 104.8 | 49.5 |
13 | 173 | 18084 | 104.5 | 45 |
14 | 166 | 16265 | 98.0 | 43 |
15 | 152 | 13327 | 87.7 | 43 |
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17 | 174 | 20216 | 116.2 | 43 |
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19 | 179 | 14022 | 78.3 | 34 |
20 | 136 | 10119 | 74.4 | 36 |
21 | 112 | 34107 | 304.5 | 49.5 |
22 | 95 | 16540 | 174.1 | 49 |
23 | 94 | 17898 | 190.4 | 45 |
1日 | 2983 | 373032 | 125.1 | 44 |
中黒(11), 三点リーダ(5), 団体旅行(6), 租借(3), コスメカウンター(3), 媒介者(3), 三点リーダー(11), 組版(6), ネイルアート(4), 慢性疲労症候群(3), 筆算(3), キャンペーン(60), 重症(67), 都民(29), 将棋(28), 不動産(27), 除外(20), 2割(11), 神奈川(10), 3月(21), 出版社(14), 出版(18), 死者(29), 旅行(56), 風邪(36), 隔離(22), 症状(37), フォロワー(19), 東京(89), 業者(16), 感染者(34)
■旅行会社勤めです。助けてください。 /20200716204211(47), ■三点リーダーについて物申したらブロックされた /20200717124512(47), ■中古マンション買うかも /20200717042238(28), ■都民って他県民差別してる? /20200717152440(24), ■そもそもGOTOキャンペーンの東京除外って /20200717094856(20), ■anond:20200716012131 /20200716203604(16), ■ハンドメイドは所詮はコミュ力なんだ /20200713212404(14), ■おもらしフェチをやめたい /20200716202831(11), ■ドスケベ桃太郎 /20200716221604(9), ■暗算ってどうやったらできるようになるの /20200716200942(8), ■5chの+の現状を書きます /20200716225546(8), ■ヒカキン動画のコメント欄見て泣いてしまった /20200717091010(8), ■女性が女性アイドルオタクをするのって名誉男性的じゃない? /20200717095802(8), ■母にタブレットを買わせたくないので知恵を貸してほしい /20200717115536(8), ■オタク採用にご用心 /20200717143832(8), ■お給料あがって嬉しかったこと /20200717133407(7), ■オタク喪女の化粧とか服とか /20200713184901(7), ■最近はてな匿名ダイアリーに書きたい事が特にない /20200717055416(7), ■【追記】青空文庫で読めるやつのオススメ教えて /20200716151032(7), ■なんかはてなーの言うことって現実味がない /20200717093803(7), ■雑誌に連載を持つ著者だけど、もう限界かもしれない /20200716012131(7)
増田の使い方が全然わからなくて途中で途切れてしまった。続きを張ります。
ストレスと言ってしまえばそれまでなんだけど急にキレ始めるので怖いし不安になる。さっきの終末クソモブ男とカイトを重ねたのだろうか。弟君も知人がすぐそばで死んだのに有名人に会えたことを喜んでいる場合なのだろうか・・・何も感情移入できないのでここらへんで本当に怖くなる。引きこもりの先輩は空気より存在感がない。PT内に入っていることも忘れそうだ。
カイトが一人だけなら謎の機械に一緒に乗せて助けてやるよと意地悪を言って、なんやかんやついてくる。お姉さんの死体はまぁどうしようもないし放置・・・諸行無常を感じる。お父さんのことはあれだけ引きずっていたのに、近所のお姉さんが死んだことはこのあとほぼ何も描写されないので、本当に無情です。
電気が生き残ってたコンビニに入り、必要なものだけもらうことに。歩は必要なものをもらうことに、すごい嫌だ・・・て言ってるけど、スタンスが周りでどれだけ人が死んでも自分は死なないと思ってる人間すぎるのでこれまたよくわからない。もうPT内で二人死んでるけど・・・。
明らかにイカレてる店主に警告され、矢を放たれて追いかけまわされる。矢の攻撃力を舐め腐っていた弟くんの体のど真ん中に矢がぶっささるシーンで3話が終わるが、全然インパクトはないし4話を知らないときにここで弟が死んだと言われても何も思わなかったことだろう。3話目感想終わり。3話目は正直不愉快の塊なので飛ばしてもいい。
4話 ヒラカレタトビラ
弟は偶然懐に入れていたゲーム機のおかげで怪我をすることなく生きていた。そんなことってある?懐にゲーム機を入れてなければ死んでいたところだったぜ・・・・。弟を射抜いた怖すぎるジジィはなんか急にヨボヨボのシワシワになってすまんかった・・・そんなつもりでは・・・とか言ってきたがどう考えても殺意マシマシすぎて説得力がない。これで弟が死んでたら面白かった。はんだごてでジーッてやると、ひび割れたゲーム画面も治るので面白い。
車でどこかに移動するのだが、地滑りなどが起きて地図が無意味に(本当に無意味なのか・・・?地滑りが起きただけで・・・?)といいジジィが地図を捨てるので、ますます現在地がどこなのかわからなくなる。途中でやけに陽気なヒッチハイカーダニエルを拾う。マギー審司のネタをモロにやってくる外国人だ。ここで歩と弟のお母さんがフィリピン人だったことがわかる。それまでただ外国から帰ってきた、やけに日焼けしてる人というだけの描写しかなかったので、ここでフィリピン人だと言われなかったら多分最後まで私はお母さんのことを日本人だと思ってただろう。
ジジィが外国人嫌いなのに外車に乗ってたりとかなり不愉快。でもそれと反して、宗教関連は全然不愉快じゃないんですよね。むしろやさしさの塊なのだ。突然大麻がでてきたりして意外性はあるけど、描写は全体的に見ると作品内で一番穏やかだ。
宗教シティにたどり着き、あたたかなシャワーと食事をもらう。優しい。なぜかみんな服を来たままシャワーを浴びるので、とても不安になる。野菜たっぷりのカレーをもらい、それを食った先輩がお母さんのカレーみたいだ・・・と涙して存在感を出してくる。実は先輩のお母さんは、カレーができたわよと先輩に言ったあたりでカレーと共にがれきに挟まり、ぐちゃぐちゃに潰れて亡くなっていたのだった・・・。血とカレーがまだらに混じり合い、形容しがたい色になった母親の死体を見たのに、ここでカレーを食える先輩。ただ焼かれているだけの猪を見て吐いた歩とはメンタルの強さが違う。
ガツガツとお母さんの味に似ているカレーを貪り食っている先輩をみんながほほえましく眺め、お母さんがカレーを食べて不思議な味ねと言ったところで、突然ダニエルが大麻が入っているのさ!と言うので、前述した先輩のカレーに対するシーンが「大麻入りのカレーを食べてトリップしている疑惑」もしくは「お母さんがカレーに大麻を入れてた疑惑」へと急激に変化することになるのでとても酷いと思った。そんでもってみんな大麻が入ってるって言われても普通にカレー食ってたから、多分大麻が解禁されたか大麻が調味料代わりに使われている日本なんだろう。フォロワーが言う通りネオ日本なのかもしれない。普通は大麻カレーを食わされていると知ったら非常時であっても怒るし、急に大麻入りカレーを出してくる宗教団体はどう考えても異常で怖いからだ。「クセになる味わい」そりゃそうでしょうよ・・・。
大麻は外国では普通に解禁されてるところが多くなってきたけど、突然大麻カレーを説明もせずに出してくるのはマナーがなってないと思うので、この描写は明らかに異常すぎる雰囲気で怖い。事前に「大麻が入っている」と言われればまだマシだったが、結局なぜかダニエルが澄んだ笑顔で説明してきただけで宗教団体の人に「そのカレーには大麻が入っていますよ」と言われることはなかった。
というかお母さんがフィリピン人であることを考えると、この舞台の日本ではカレーに大麻が入っているのは当たり前なのでは?(お母さんが◎◎スタイルのカレーね!と言って明らかにこのカレーを知っている雰囲気なのに、食べてみたら不思議な味だと思う描写から)。当たり前なことは説明する必要もないからね。やはりスパイスの一種として扱われているんじゃないだろうか。大麻は日本の国草だし、日本のスパイス?である七味唐辛子にも一応大麻の種が入っている。きっと日本沈没2020では大麻は麻薬ではなくスパイスとして描かれているのだ。大麻をキメていると考えると、登場人物全員になんらかの狂気があるのも理解できる。大麻の描写が度を超えて肯定されているので、湯浅監督が大麻をキメて日本沈没2020を作ったと言われても理解できるけど・・・。
大麻入りカレーを食った後は施設内を案内され、日本の文化である「金継ぎ」や「もったいない」をなぜかダニエルが説明する。ここでも何故ダニエルが説明するのかはよくわからない。説明したがりやさんなのかもしれない。歩も弟もお母さんもジジィも引きこもりの先輩もみんな日本に住んでいるし大半が日本育ちなのに・・・。
地震につよいからと言ってモンゴルの家屋である「ゲル」に案内され、なんかエスニックな雰囲気なまま一日が終わる・・・と思ったところでここでジジィが麻薬中毒なのが発覚する。ジジィがここにみんなを連れてきたのは麻薬を手に入れるためだったのだ。そりゃ矢も射かけてくるだろうな・・・と納得してしまう強すぎる設定に痺れた。いやでも、矢を射かけてくるのは意味わかんねーんだよな戦争でも経験したのか?このジジィはありとあらゆる意味で強いので、仮にフォロワーが日本沈没2020を見る時はこのジジィに注目しておいてほしい。
てかジジィは普通のスーパーの店主?なんだけどなんでモルヒネ中毒になってんだよ・・・。
なんか中華系っぽい怪しげなピンク色の雰囲気、そしてやけに和っぽいBGMの中、背中にドン!と入った入れ墨が目立つ初老の女性がシルエットだけでヌルンヌルンと得体の知れないヨガを行っているところで4話目が終了。大麻にいきなり横っ面を殴られた回だった。文章だけでは説明しきれない独特の空気感があるので、インパクトを求める人は4話は見たほうがいい。
5話 カナシキゲンソウ
爽やかな朝にジジィがサウナに入り、水風呂で汗を流すところから始まる5話。どう見てもヤク抜きの現場だ。このジジィはもう薬物中毒と、歳のせいかかなり狂っているので、ヤク抜きする意味はないと思うしなんでこのシーンが入るのかはわからない。
ジジィは唐突に水風呂につかりながら「はぁ・・・ここにいる・・・」と感慨深げに言うのですが、これには後述する理由があった。初見だと唐突に意味わからないことをいうので、もう完全にこのジジィは終わっているなと思った。いや実際いろいろと終わっているんだけど・・・・とにかくパワーが強すぎて一番印象に残っている。
ラジオ体操やってる宗教団体の人たちがいたり、クソデカ彫像にメチャクチャ金継ぎがされていたりする。クソデカ彫像にメチャクチャ金継ぎを行うのは、明らかに金を大量にもっていないと無理なので、宗教団体の財力が垣間見える。突然主人公一行に合流してきたジジィが偉そうに車いすを要求。普通に歩けるのに。ただ、この車いすがのちに活躍することになる。
この話で「マザー」と呼ばれる4話最後にでてきた初老の女性が、10歳の子供を媒介に霊を下ろすスピリチュアルな儀式を施設内で行っているのがわかる。この子供がどう考えてもAKIRAなのでオイオイオイ・・・と思った。依り代として財布を受け取り、依頼者の母の霊を下ろして津波に攫われた私を助けてくれてありがとう・・・と依頼者に言うのだが、続く言葉が「暗証番号は金庫の中だよ」なので何もかもが台無しになる。ここらへんでさすがにストーリーのハシゴを外されまくるのにも飽きてくるし、正直こういうシュールギャグも全然面白くないので苦痛になってくると思うが、大麻編は6話まであるので大麻のその先に何があるのか知りたい人は6話までは見たほうがいい。
最初に大麻入りカレーを配ってくれたクソデカいおじさんがなんか白濁したポタージュみたいな謎の料理を配ってくれる。多分説明されていないが、これにも大麻が入っているんじゃないかと疑ってしまった(大麻が入っている説明はされなかった)。というかこの場所のすべての食事に大麻が混ぜ込まれていても不思議ではない。なんでかっていうとびっくりするほどでかい、明らかに違法なクソデカ大麻畑がこの宗教施設には存在するためです。
大麻カレーを食べてからやけに表情が明るい先輩が、労働の喜びに目覚めるなどして人間性を取り戻していく姿はどんな顔をしたらいいかわからなかった。大麻がなければいい話なのに、大麻のせいで何もかもが疑わしく思えてくる。それもこれも大麻が悪い。
大麻が出てくるとストーリーの何もかもが破壊されていくことがよくわかるので(登場人物すべての行動に「もしかしてこいつは大麻をキメてるかも」のノイズがかかるため)、もしかしたら大麻のすばらしさを語っているのではなく、大麻の恐ろしさを訴えているのかもしれない。こういう考察も、監督が大麻キメてそうなハチャメチャ奇想天外な展開をどんどんお出しされるともう考えるのが馬鹿らしくなってくる。これを反日アニメだと思っている人は見る前からすでに頭がおかしいか、それかたぶん視聴していないと改めて思った。そういう意味では監督は天才なんだけど、このアニメは最悪。
労働の一環として歩は寝た切りのおっさんの介護をすることに。寝た切りのおっさんは全身不随になっていて、ちょっとだけ指とあと目だけ動かせる。おっさんの介護をしている歩の表情はなんかやけに穏やかだ。あれだけ情緒不安定な姿を見せられた後では、大麻があらぶっていた精神をクールダウンしてくれたんだろうとしか思えないが・・・。
夜になって労働?奉仕活動?がおわり、一行は割り当てられたゲルへと戻る。薪の火が消えたので、やけに活力的になった先輩がガスバーナーを持ってくるよといってゲルから出て行った。ガスバーナー・・・?マッチとかじゃなく・・・?ゲルが燃えそう。火はガスバーナーを使うまでもなく、ジジィが息を吹いて起こして終わったので先輩の行為は無駄に(わざわざその描写もある、何なの?)。その日に行われる謎の週末パーティに誘われたので歩と弟はパーティへ参加することになった。
パーティに参加する前に、歩と母親がまた喧嘩をするんだけど、その理由が酷い。お父さんの声を聴きたいという歩にお母さんが聞いても無駄だよ・・・っていうんだけど、歩はそれをお父さんを忘れて、ダニエルと仲良くしたいからだと思うし、それをお母さんに言ってしまうのね。あまりにも酷すぎる・・・実の子供でもこんな子供は嫌だ。お父さんが死んでつらいのは歩もそうかもしれないけど、恋人を亡くしたお母さんが一番つらいと思うよ。
言いたいこといって気持ちよくなった歩にお母さんが「大人になってちょうだい」て言うんだけど、なんかもう、大麻編の先がどうなるのか見たい!て気持ちがなかったらここで切ってた。それぐらい最悪だったし、大麻畑のある宗教施設の週末パーティはやっぱりドラッグパーティで、この描写がクラベビを思い返させたし、先輩は多分大麻を吸ってDJになった。ちなみにユーチューバーも大麻を吸っていたことがこの後判明する。
息子と娘がドラッグパーティに参加している間にダニエルとお母さんが話す描写がね、また良いんですよ・・・こういう要所要所に湯浅監督節をキメてくるのでなんかだらだら見ることになる。
そんでもってお母さんと歩が和解するなんかいい感じの雰囲気の朝が来たと思ったら、急にジジィが車いすを乗り回しながら弓で施設内の人間を2人ほど殺す描写がやけにかっこよくでてきてもうマジでなんか温度差で死ぬんだよね。ジジィの描写は文字であらわすと頭痛くなるから描写しません。
5話冒頭の「はぁ・・・ここにいる・・・」は宗教として祭り上げられている10歳の子供のことだった。ジジィはこの子供を奪還するためにここに来たっぽいんだけど、絶対大麻が理由の50%ぐらいを占めているんじゃないかと思う。ちなみに子供を連れ出そうとしたジジィは、盗んだ車で脱走しようとした途中でヤクが切れて運転を失敗し、宗教施設の塀に突っ込んで自損して気絶したので最悪。ここで5話が終わる。今思うとここが一番の山場だった。
6話 コノセカイノオワリ
ここら辺まで視聴すると、タイトルがカタカナで描写されているのも腹が立ってくるようになる。ちなみに「コノセカイノオワリ」がタイトルだが、ここで終わるのはどっちかっていうと世界じゃなくて宗教施設だ。そもそも日本だけ沈没してるから、タイトルのスケールがでかすぎる。クソアニメを見ているとこういうところにもケチをつけたくなる。なまじメッセージ性があるから、考察する余地があるんだが、その考察をしている最中でわけがわからなすぎてこっちの頭がおかしくなってくる。勝手におかしくなったのを作品のせいにしたくもないが、本当に理解できなくて脳がバグる。
湯浅監督は、なんか炎上してますね~みたいなスタンスをツイッターで取っているが、このアニメで何がしたかったのかあとでインタビューとかでまじめに答えてほしい・・・。いや、やっぱり失望しそうだから答えなくていいよ。なんか炎上してますね~~いやそりゃ炎上するでしょうよ・・・逆に炎上しない自信持てねぇよこんなの。監督は炎上しないと思ってたん・・・?逆に怖いよ。てかこれに関しては、内容じゃなくてタイトルが悪い。日本沈没2020、完全に内容がタイトル負けしているのだ。別タイトルのオリジナルアニメだったら、ここまで炎上しなかったと思う。なぜなら日本沈没2020を見て(本当に見たのかは非常に疑問に思うが)騒いでるのはツイッターで見たところ右翼と左翼の人が中心だから。一般の人間と、監督ファンはどこを褒めればいいのかわからないのでさほど話題にもなってないという印象がある。最もこれはあくまで私の印象なので、自分で「日本沈没2020」をツイッターで検索するのが一番いいです。自分の目で確かめて。
「素直にこうあった方が良かったと言う意見も今後の参考になる。評価や分析された非難はあまり参考にならない事が多いが、たまに誉めてるものに鋭い見方があったりする。つまらなければ、あまり考えないし、面白ければよく考えるせいかと思う」
と言っていた。実力がある監督がクソアニメを作ると、つまらなくても考える羽目になるんですよねぇ。実力があるから何気ないシーンに考察の余地を残せてしまうし、実力があると知っているからこそ監督はこのシーンでこういう表現を訴えてるんじゃないだろうか?と考えてしまうんだ。だってこれまでの作品がそうだったし、そう思わせる下地や表現を監督はアニメで作ってきたでしょ。クラベビとか特にすごかったですよ。クラベビ何回も見返した。特にバトンのシーンがあまりにも素晴らしかった。バトンが澄んだ音を立てて地面に落ちて、何度渡しても了に受け取ってもらえないところの表現が本当にすごくて、ネトフリを開くと必ずクラベビのあのシーンを見たくなったし実際に見てた。だから日本沈没2020も酷評されてたけど、まずは自分の目で確かめようと思って最後まで見た。
まぁケモノヅメとかはぶっちゃけわけわかんなかったけどでも日本沈没2020レベルの意味不明さではなかったのよね。そして面白かった。他の作品も全部面白かった。ケモノヅメはわからないけど、面白かった。日本沈没はわからないし、面白くないです。だからこそこの考察?感想?書いてるのが自分自身むかつくんだけど、こういう形を取らないと「大好きな湯浅監督のクソアニメを見た」感情に整理がつかない。日本沈没2020を見る前は、まさか自分が「お前のことが大好きだからこそ殴っているんだ」みたいなDVクソ野郎みたいなことを主張する羽目になるとは思わなかったな。
私は「作者はそこまで考えてないと思うよ」って言葉がだいだいだいっきらいなんですけど、日本沈没2020に関しては「作者はそこまで考えてない」ことを祈ってしまう。すべてを大麻のせいにしたいです。
途中から感想じゃなくて文句になっちゃったけど、感想へ戻ります。
6話はそれまで陸上というかありとあらゆるものに消極的だった先輩が、ランニングをしているところから始まる。大麻のことがなければ、引きこもりだった先輩が立ち直り始めた良いシーンだと思うが、ここでも大麻が邪魔をしてくる。大麻のことを考えたくなくても
ふせったー内で身内にずっと吐き出していたが、日本沈没2020を観て思った事をここに張っていく。匿名だし、増田なんて多分本当に日本沈没2020に興味がある人ぐらいしか見ないだろう。でもその人が見てくれたら何よりもうれしいことはない。増田の作法がわからないので何もかも間違ってたらすみません。
たしか一昨日ぐらいに日本沈没2020をネットフリックスで全話見た。批判されていたのは知っていたが、湯浅監督の作品がすべて好きだったから自分の目で確かめたいと思った。結果悪い意味で打ちのめされて、日本沈没2020を観た次の日はずっとふせったーに籠って、まる一日をかけて30000文字ぐらいの感想(あらすじがほとんどかもしれない)を書いた。ただ30000文字だから、ものすごい長い。なのでその1日でわかった要点をまとめるとこうなる。
①「日本沈没2020」は右京先生の「日本沈没」を元にした作品で、ノベライズがある
②そのノベライズは、湯浅監督が書いたものではない。なので日本沈没2020のストーリーを描いた脚本家は湯浅監督ではない・・・
③湯浅監督はこれほどなく忠実に「日本沈没2020」をアニメ化していた
もうこのことさえ知ってくれればあとはどうでもよくなる。反日だのなんだの騒いでいる人もあほらしくなる。何故って日本沈没2020を視聴したらそんなことは言えなくなるからだ。これはもうそういう次元の作品じゃないんだ・・・・・。感想内で何度も書いたけど、逆に本当に見たのか気になるぐらいだ。反日だの陰謀だのなにもかもが虚構だ。批判すればするほど滑稽に見えて、考察すればするほど何もなくて空しくなる。こんな虚無のストーリーもなかなかないんだけど、そこで湯浅監督の表現力とぶつかってしまってビッグバンが起きたのは不幸だった。
丸一日かけて日本沈没2020に浸かってしまったのは多分私がアニメがどう作られているかに詳しくなかったのが原因だ。だから脚本も湯浅監督が作っているのかと思ってしまった。そこが間違いだった。これは自分の無知を恥ずかしく思った。OPとEDもしっかり見るべきだったんだなぁ。今度からはしっかりチェックしますね。
下記からはふせったーに書いたものをそのままコピペしたものになる。読んでもいいし読まなくてもいいけど、とりあえず置いておく。これから日本沈没2020を観ようかなと思っている人の参考になるとすっげーうれしい。また、途中で湯浅監督をぼろくそに言っているが、それは脚本家の存在を知らなかったためです。申し訳ありません。
長すぎるので2つに分けます。
無限に文句言ってしまうので改めて感想をまとめたいと思いました。本当に無限に文句言えるんですけど、それすら監督の予定調和の中な気がしてそれにもキーッ!むかつきますわぁ!!の悪役令嬢になって地団太を踏んでしまうことになるのですごいアニメだった。1話から振り返りをします。
序盤は普通に日本沈没2020の始まりだ・・・!て感じで、すごい描写が良かった。リアル感のある揺れ方とかでここで一度トラウマがよみがえって気分が悪くなった方もいるんじゃないかと思う。陸上の練習中に地震で被災し、足にけがをしてパニックになって周りの友達を助けずに逃げてしまった主人公、歩の心情も、無力感と罪悪感にまみれていてよかった。14歳だもの・・・。ただ、逃げているときに歩が父親が庭に飾ったイルミネーションのことを思い出していて、それで家族が集まる場所の証になったのが「神社に飾り付けられたイルミネーションだった」時には思わず2度見をしてしまった。電気の消えた町の中で燦然と輝くイルミネーション神社の絵はまるで悪夢のようだったし、何かの幻覚なんじゃないかと思った。
突拍子すぎてよくわからなかったし、貴重な電気をイルミネーションで全部使うなや!としか思えないのがすごい(このしばらくあとにイルミネーションは電気ぎれで切れる)。ただの地震やないぞ・・・!?普通にあちこちで人が死んでる災害やぞ・・・!?なんかもっとあったんじゃねぇのか!?しかも七色に輝くゲーミングイルミネーションでもうだめだった。ここで嫌な予感がした人は正しいと思うし、大部分の人間が「何故イルミネーションを?」と思ったのではないかなと思う。肯定的な意見があったら教えてほしい。あとどこから調達したのか普通に気になるな・・・。
まぁイルミネーションはさておきとして、神社にはイルミネーションを目印にして家族が集まっていた。水泳が得意らしいお母さんと、日本語と英語を織り交ぜて話すやけにむかつくクソガキのゲーマー弟と、建築の仕事をしているお父さんだ。あと近所の知り合いのお姉ちゃんと、引きこもりの陸上の先輩がいる。この引きこもりの先輩は、なんかイケメンの有名人らしくて同じく避難してきた近所のおばちゃん集団にヒソヒソと噂をされていた。
日本沈没2020ではそういう今話すことじゃねぇだろ?みたいな感じの描写が異常に多い。それも湯浅監督のツイート通り、表したかった「リアル」なんだと思うが、日本沈没2020なんてビッグタイトル以外のタイトルでやってほしいところだ。あと一応私自身も東北の震災は経験してるし周りがパニックになるところも見てたけど、流石にあの状況であそこにいるの引きこもりのあの子でしょ・・・?とかいう人間はいなかったなぁ・・・正直家族とか知り合いのことが気にかかりすぎてそれどころではないよ・・・好意的に見れば、先輩のことを説明する一番の近道とも言えなくもないのかもしれない。ただ、この先に先輩の引きこもり描写が何か意味があったのかというと、特にないのでやっぱり必要ないと思う。だからやはり、人間の悪意だけをあえて描いているのだと思う。そこは作品を通して徹底的に描かれているから、意図的だろう。
それから突然お母さんが家族写真を撮ろう!と言って・・・・まぁ、どうなるかわからないから写真に残しておきたい気持ちはわかるけど、震災時に写真を撮るような心理状態にはならないと思うので、ここも え?急に写真を!?となってしまった。この写真も後々最終話の伏線(?)だったことがわかる。あんまり伏線って言いたくないけど、まぁ写真を撮るのにも理由はあったという話。
そこから急に木の下に座り込んでいた引きこもりの先輩の腕に、雨かと思ったら血が降ってくる。あと死体?も降ってくる。空を見上げるとヘリコプターから人が落ちていて、イルミネーションされた木にも死体がクリスマスの飾りみたいな感じで乗ってた。
死体が降ってくるときに音がするわけでもなく、最初私は木に元から死体がひっかかっていたのかと思った。死体はイルミネーションで輝いている枝に乗っていたので、そう考えるとお父さんが死体を無視したことになってしまう。だからやっぱりヘリコプターから落ちてきたんだろう。でも重力の関係でそこにひっかかるまえに枝が折れるし、血もビチャビチャ降ってくるんじゃないか?なんかいつの間にか怪我をした人達も避難してきて、これにて第一話が終わる。
ここの空気が完全にゾンビ物だったので、このままゾンビ物が始まるのかと思った。いっそここで日本沈没2020ゾンビ大パニックとかに路線を変えてたら湯浅監督最高!て言えたのだが、残念ながら日本沈没2020は日本沈没2020のまま10話まで続いていく。1話目の感想終わり。
朝になり、なんかユーチューブとかネットで記事を探していた人達が騒ぎ出す。ユーチューバーのカイトという人がなぜか沖縄沈没の瞬間をドローンで撮っていて、こいつは一体・・・?となる 沖縄沈没の瞬間をドローンで撮れるユーチューバーは正直意味がわからない。なんでドローンで沖縄全体を観察してるんだよ。どういう規模のユーチューバーなんだ。国が雇ってんのか?
日本が第2のアトランティスになるとか陰謀論だとか、なんかツイッターのトレンドに上がってそうな感じの勢いで人々がありとあらゆるノイズをしゃべる。ネットにも記事がどんどん出ている。マスコミは情報を出さないというセリフすらある。携帯でテレビを見て情報を集める人がいない描写といい、ここは完全に日本マスコミへの風刺ですね。いたかもしれないけど見返す気はないです。
避難先になった神社はとても高い場所にある。というか神社って大抵そういう感じだよね。まわりに水が満ちてきたので、ここから脱出しようみたいな話になったんだが、避難先の神社にはコンビニの物資を大量に持ってきているコンビニの店長さんがいた。よって食料や水に困っているというわけではなかったし、普通ならここで安全な高台を捨てて歩くという発想にはならないと思うが、みんな神社を出た。歩は怪我をした足を保護することもなく、汚水まみれの水に浸かったので足が痛いみたいな描写がある。お察しの通り後で傷口から感染症になる。予定調和と言ってもいい。ここは別に違和感はない。まぁそりゃそうなるよねという感じだ。逆にならないほうが不思議なので、感染症になってくれてよかった。
神社にいた集団は、西に行くか東に行くかで途中で別れることになる。主人公たち(父母、弟、歩、近所のお姉さん、引きこもりの先輩)は西へ、他は東へ行くそうだ。ちなみに主人公たちが西へ行くのは弟が海外のゲーマー友人と連絡をとってどこに逃げたらいい?て聞いたことが理由なんだけど、別に根拠とかなくてゲーマーはただ「西に行け」と言ってるだけなのでマジか?て思った。予言か何かかよ。
別れる時に集合写真を撮る。ここは理解できるよ。ただ、2話で理解できた展開はここだけだった。
西へ向かって歩いてる最中に、謎のロードバイクに乗った男がなんか水を球体にしてそのまま飲めるやつを食べていたり、スケボーに乗った男が主人公たちを追い越すシーンがあるが、何を伝えたいのか全く分からないので、なにもわからなかった。歩かないで何かに乗れ!という意味だったのかもしれないですね。
道端に座り込んでいたおじいさんとおばあさんに、歩が家族にとって最後の水を「これが最後の水である」とわかっているのにどうぞと言う。おじいさんとおばあさんは普通にそのもらったペットボトルをもらったものだと思い、バッグへしまう。歩のえっ?という表情にこちらもえっ?となった。これどうぞ・・・て言われてそれが最後の水だと思うか?なんかこう、意図的に外してるのはわかるけど、外しすぎて意味わからんことになってるからマジで意味がわからん。
歩いた先にあるコンビニには何もなくて、歩がごめんねって言ってた。コンビニに何もないのがもうなんか災害起きてから1日後のそれじゃなくて、明らかに退廃後の日本・・・みたいな感じで時間間隔が何もわからなくなる。多分この世界の人々は自宅に備蓄とかしてない。
そこからなぜか山に登り、滝を見つけた。滝がある山で良かったですね。泳げないといってた弟をお母さんが滝つぼに突き落としたりしてて私がドン引きしたりした。そのあとは民家に降りて鳥がやけにリアルに死体を食べているところを見たり、お父さんがコメディ調でイノシシを仕留めたりした。野生動物を舐めるな。
イノシシを捌いて焼いてるときに歩が突然吐き出したので傷からの感染症がとうとう体に影響を?と思ったらなんか多分肉がダメな人っぽいだけだった。別にそれはいいんだけど人が飯を食ってるときに吐くのは人間として最悪だと思う。肉をみて気持ち悪くなるんなら猪をさばいてるときに吐きなよ。なんで焼いてるときに吐くんだ。
肉が食べられない?のでおなかがすいたよ~になってる歩のために、お父さんが山芋を取るな!の看板を見つけて山芋をさがしてそこらへんにあったスコップで山芋を掘る。長すぎて木の根っこ掘ってんじゃねぇのて思った。お父さんが掘り進めている間に、歩が蔦に覆われた「不発弾注意!」の看板を見つける。
というか不発弾注意!の看板がそこら辺にあるし、なんで山芋看板は蔦でおおわれてないのに不発弾注意の看板は繁殖した蔦でむちゃくちゃにおおわれてんだよ。どうやらここらへんの住民は不発弾で死なれるより山芋を取られる方が嫌だったっぽい。それか山芋と不発弾がセットになっていたので、この近くの山芋は不発弾の上に芽生えるのかもしれない。つまり山芋を掘ろうとしなければ、不発弾に出会うこともないので、結果として山芋を掘るな!という看板だけ綺麗にするのだ。ここまで考えて悲しくなった。
お父さんが不発弾で爆散四散する前の前振りがこれなんだけど、本当に意味がわからないから、これから日本沈没2020を見る人はここで止めといてもいいと思います。この適当なシナリオに対して、土くれと一緒にバラバラになったお父さんが降る光景とか、お父さんのちぎれた手とか、そういう描写に力入ってんのが本当に笑うしむちゃくちゃ笑った。全編通して死体描写だけは上手いんだよな。しかも2話はそこで終わる。え?ここで終わるんですか?お父さんと土と血の雨の中で!?てのにもびっくりした。
ちなみにここで山芋に対して、「お父さんがつくったこれ大好き!」て思い出すセリフがあるんだけど、山芋で何を作ったのかは最後まで明かされなかったです。2話の感想終わり。
3話 マイオリタキボウ
前回でお父さんが爆発したけど、特になにも思ってなさそうな顔で歩き続ける一行。その中でも歩だけはむっつりとした顔をしていて、お父さんが爆発したのを気にしていることがわかる。ここの部分は歩以外のみんなは、とりあえず生きる事を目標にしているのだということは伝わってくる。悲しむことはいくらでもできるし、今はまず命をつなぐことが大切だからだ。でもこの作品はあくまで「日本沈没」なのであって、他の国も全部滅びたわけではないので、主人公たちがここまでサバイバルする意味はさほど感じられないのがネックになっている。普通だったら神社で自衛隊や救援を待つんじゃ・・・。
ただその場合はこの物語は始まらないんだけど、でも何もこんな物語にしなくても良くない?
歩は無限に父親のことを考えていて、歩いている途中で癇癪を起して道端に座り込んでしまう。その癇癪の起こし方があまりにも幼稚で、お父さんがプレゼントしてくれた靴を脱いで投げ捨てたり(死んだお父さんのプレゼントなのに大切にしないんだ!?)何日も風呂に入ってないからお母さんが臭いとか、お母さんの顔が汚いとかちょっとわけのわからない暴言を吐く。お母さんのことが嫌いなのか?あまりにも酷いのでここはちょっとびっくりした。湯浅監督は歩に何をさせたかったんだろう。ここの考察を求む。ちなみに10話まで見たけど、特にお母さんが歩のことを邪険にしたとか、お母さんの子供じゃないとか、そういうのは一切なかったんだよな・・・。反抗期?お母さんかわいそうだ・・・。
都合よく通りかかった明らかにこの終末を楽しんでる感じの男の車に乗せてもらい、どこかへ移動。この移動もどこなのかよくわからないがどこかへ向かっている。ガソリンスタンドでガソリンを入れようとしたけど、機械が動いてないので入れられず暇になった男がタバコを吸いながら近所のお姉さんの肉付きのいいお尻を見て襲おうとする。ここまでは終末のテンプレ。
近所のお姉さんはそれまで何も描写がなかったのに、いきなりつよつよカラテの有段者になり、男を撃退する。とはいえあんまり効いておらず、男がスタンガンを取り出してきて一瞬危ないことになるが、お母さんが棒で殴って助かる。ただ、男がむちゃくちゃタフすぎてお母さんも反撃を受けてやばいことになり、最終的にスタンガンを奪って結構長い電撃のカットのあとにようやく男を倒す。倒れた男の眼鏡をお姉さんが奪って引きこもりの先輩の割れた眼鏡と交換してあげるのが美談風に描かれているが、なにも美談ではないし俺が先輩だったらそんな眼鏡はかけたくないかな。
この描写ここまでいるか?お母さんがお腹のみぞおち当たりを殴られててすごいかわいそうだった。暴力描写にもめちゃくちゃ力が入っていた。力を入れるところを間違っていると思う。ストーリーとして必要なところに力を入れず、死体描写や暴力描写だけにやけに湯浅監督ならではの表現力とテンポを入れるので、結果として「日本沈没2020」から受ける印象が醜悪になる。狙っているのだろうけど最悪の一言に尽きる。
日本沈没2020は徹底的に「主人公たちがどこにいるか」を描写しないんだけど、そのせいでマジでどこにいて何をしているのかわからない。車のガソリンが切れたので、いかにも両脇に危険な感じがある謎の道をひたすらに歩く。近くに富士山が見えるので、多分山梨とか・・・静岡とかそこら辺なんだと思う・・・。あやふやすぎる・・・。
引きこもりの先輩を気遣った近所のお姉さんを見て、自分も気にかけてもらうために歩がわざと座り込む。近所のお姉さんは優しいので構ってあげる。どうしたの?と言われたのでおしっこ行きたい・・・という歩。さっき意地をはって喧嘩した手前、母親にトイレ行きたいからちょっと待っててと言えなかったんだね・・・。思春期?反抗期?だね・・・。
近所のお姉さんと連れションしにいったが(お姉さんは明らかにトイレに行きたい感じじゃなかった)、一歩の差でお姉さんが溜まってた毒ガスで死に、歩は生き残った。本当に一瞬で死ぬので、とても展開がスピーディー。空から謎の白髪のイケメンが謎の機械を使って下りてきて、そこは毒ガスがあるから立ち寄るな!と言ってくる。前触れもなく急に現れたので本当にびっくりした。
有名ユーチューバーのカイト(KITE)じゃん!と弟君が喜び、カイトが自分のことを知っていた弟君におかしをあげようとしたら歩がいきなりキレ始める。そのキレ方がまた異常で、あげようとしたお菓子を人から盗んだものだと決めつけて、取り上げようとする。そのお菓子は外国のお菓子で、カイトも外国の人なので盗んだものじゃないでしょと弟から言われる。ここ本当に思考が飛躍しすぎててわからない・