はてなキーワード: 媒介とは
2015年ころの漫画で、人に化けたコウモリが風邪をひく話がある。そいつは人獣共通の感染症が広まると大変だからしばらく学校を休むという。そのイメージとして「WHO 緊急事態宣言」という見出しの新聞とかが書かれてる。2021年の俺は、まさしくその見出しの記事を見たことがある。
これはミラクルどころかオラクル(神託)だ!と思って作者にDMを飛ばそうとしたが、そういえばフォローすらしていなかった。
そもそもコウモリを媒介する感染症はありふれていて、そういう新しい病気が出てきたらやばいってのは今まで何回かあった気がする。今回特殊なのは感染力の強さと、グローバル化しすぎた我々人類はそれに対応できなかったということ。神託に見えた漫画の一コマは変哲のないものを描いていて、我々はそれは何となく分かっていたが、実現してしまうと対応ができないという話なんだろう。
今住んでるとこにはいないが、実家にはいる。夜中に布団に入ってきて刺してくるみたいなことがガチであるらしいのが本当に嫌。体が真っ二つになっても生きている生命力があったりするのも不気味。動きも結構速い。見た目も怖い。
突出した能力はないが、ステータスのバランスがいい。絶妙にイヤなところをついてくる。
藪に入れない原因。気が付かんうちに刺されてて、ある日デカくなったダニを体表に発見する……嫌すぎる!死ぬ可能性のある病気を媒介するっていうのが最悪で、本当に怖い。絶対に山に入りたくない
クソでけえハチが威圧的な羽音をたてながらブォンブォン飛び回ってるのガチで怖くて、実家の周りに巣ができたときなんかは本当に人間の弱さみたいなのを感じた。彼らは口?をカチカチ言わせて攻撃すっぞ!という威嚇をしてくる能力まで持っていて、なぜ俺は家に帰ろうとしているだけなのにこんなに怖い目に遭わないといけないんだ!と思った記憶がある。ムカデもマダニもほぼ丸腰で殺すことができるけど、スズメバチは殺せない可能性がある。殺される可能性すらある。現代社会で人間に勝てる数少ない生き物のひとつだと思う。ホンマにヤンキー並みの怖さあるからな。
例えば痛覚は怪我をしないための一種のセンサーである。割とよく聞く話ではあるけれど、神経の異常で痛覚のない人が、頻繁に骨折などの怪我を経験するように。
要するに、「このライン越えちゃダメ!」と厳格なルールを人に知らせてくれるのが苦痛なのである。「そんなに激しく○○しないで!」ってな話なのである。「うるさいですね……」いやうるさくないんですってって話なのであって、苦痛の呼び声を聞かないと人々っていうのは簡単にラインを越えちゃうんですね。例えば働きすぎて脳みそに異常を来したり、あるいは、誰かの訴える苦痛だってそうで、その声に耳を傾けずにひたすら苛み続けることで、誰かにラインを越えさせてしまったりとか。
そういうルール違反を人々に犯させないためにありとあらゆる苦痛っていうのは存在しているのである。逆に言えば、苦痛が存在するが故に人々は謙虚なのだ。誰も自分が鳥だと主張して崖から飛び降りたりはしないのだ(比喩です)。それもこれも苦痛というルールが「それアウトよ、違反よ」と知らせてくれているからなのであって、そういうルールを飛び越えないように人はできている。本来なら苦痛ってやつは単なるルールであり一種の審判員に過ぎないはず、だ。
そのはずなんだけど、実際のところ苦痛というルールは、ルールという範疇に留まることをやめて、生命のかなり奥深いところに食い込んでいる。何ならそれは一部生命と同化していて、単なるルール以上のドグマとして我々に猛威を振るう。我々の中にある苦痛というドグマが、我々に対して「私は生命そのものです」と語りかけてくる。いや違うやろ、という声は届かない。彼らは本来単なるルールに過ぎず、そして我々が何かを越権して催促しないように見守ってくれているだけの存在の筈なのに、どこまでも深い部分まで彼らは浸透し、食い込んでくる。だから、彼らは生命とは隔絶された単なるルールでありながら、あたかも生命そのものであるかのように振る舞っているのだ。「私は生命なんですよ?」と。
しかしまあ我々が苦痛に対して敬虔に振る舞い、彼らに対する精一杯の誠意を示さなければならないことは間違いない。「苦痛さま苦痛さま。今日もお見守り下さい。大人しく見守るだけにしていて下さい。私はラインを飛び越えたりはしませんし、他人にラインを飛び越えさせたりもしませんから。だからお願いですから見守るだけでいて下さい」と。我々はルールに対して拝み倒す。そのルールがルールのままであってくれるようにと願う。仮にそれが単なるルールであることをやめてしまったら? それが現実化してしまったら? あるいは、それが生命の核に食い込んだ状態のまま、現実化してしまったら? その時我々はとても困ったことになる。一度現実化した苦痛は中々消滅しない。本来単なる抽象的なルールだった筈の苦痛は、この世界の随所で実体化し、そして時に生命の核に食い込んで自身を生命と同一視した状態で実体化してしまう。「私は苦痛です。そして同時に私は貴方の生命です。貴方の生命は苦痛です」と言わんばかりに。
でも、だからといって苦痛をこの世界から排斥してしまうわけにはいかないし、そもそもそれは不可能なことでさえある。我々が苦痛をこの世界から排斥してしまえば、それはそれで困ったことになるだろう。崖の上から自分が鳥であるか人間であるかを確かめるべく、多くの人が跳躍することになるだろう(比喩です)。そういうことのないように苦痛ってものはある。彼らは我々を見守っている。誰も、みだりに崖の上から自身の存在を確かめるための跳躍を行わないために。勿論彼らは必要なのだ。
話がループしている。
僕自身はこれまで十年ほどの間、「苦痛は単なるルールに過ぎない」と思い込んできた。「確かに人々の生命に苦痛は大きく食い込んでいて、苦痛は本来の大きさよりずっと大きく見えている。でも、あくまで彼らはルールに過ぎないのだ」と。
でも、本当にそれだけなのだろうか?
違うな、と昨夜ふと僕は気付いた。
苦痛は我々を繋ぐかすがいでもあるのだ。
子供が両親の関係を繋ぐように、苦痛は我々の関係をも繋ぐのである。つまり、苦痛は人間一人一人の関係を繋ぐかすがいでもあるのである。いわゆるショーペンハウアーの言う「ミットライデ(同情)」ってやつだ。人間というのは、苦しさを媒介にしかお互いを理解できないようにできている。人が誰かを理解するというのはとても難しいことだけれど、同じだけの苦痛を背負った人と出会うと、不思議なことに人はその人のことをたちまち理解してしまうのである。「この人は僕と同じように苦しんでいるんだな」って。
苦痛っていうのはルールだ。でも、人が誰かのことを理解しようとする時、人は人の苦しみを通じてでしか人を理解することができない。
だから、苦痛っていうのはある部分ではルールを超えている。それは他者認識の、そして自己認識の基本単位として機能している。もし仮に我々から苦痛が消えてしまったら、恐らく我々は我々自身のことを理解することはできなくなってしまうだろうから。
将棋は楽しいボードゲームで、基本的に殴り合いのオフェンスゲームです。仮にチェスがディフェンスのゲームで、お互いに防御の構えを組み換えながら敵側の綻びを見つけ出すゲームだとすれば、将棋は蟻の一穴をこじ開け落城させるオフェンスのゲームと言ってもいいでしょう。
チェスの競技人口が一説には5億人とも言われる中、将棋の競技人口は一千万人程度とガラパゴスの様相を呈していますが、明らかにゲームとしてのバランスではチェスに勝っています。チェスの公式戦においては先手勝率が40%程度、後手勝率が30%、引き分けが30%程度なのに対して、将棋の先手勝率は50%程度、後手勝率は48%、そして引き分け(千日手)の確率は2%前後であり、引き分けの可能性がチェスに対してずっと少なく、そして先手と後手の勝率が拮抗し合っているため将棋はボードゲームとして極めて高い完成度を誇るゲームと言えるのです。
更に付け加えると、ダメ筋(明らかにダメな手)を含めた、ありとあらゆる手の組み合わせ(ありとあらゆる進行の総数)を計算すると、チェスが10の120乗程度なのに対して、将棋は10の220乗程度ということですから、ゲームとしての奥深さも将棋はチェスを上回っています。因みに、宇宙に存在する原子の総数が10の70乗程度ということなので、如何に将棋というゲームが奥深いかは言うべくもありません。つまり、ある部分において将棋というゲームは宇宙それ自体より『深い』のです。
僕は腕前としてはアマチュア初段程度で、つまりアマチュアが目指すべき差し当たっての目標点にいます。やはりアマチュア二段以上を目指すとなるとかなり強烈な努力が必要になってくる印象です。アマチュア初段は将棋を普段嗜んでいる人間の中で、上位25%前後の層を指しているとお考え下さい。
将棋の道は極めて長いです。そして険しいです。詳しくはこの「将棋の名人とはどのくらい強いものなのか:https://ncode.syosetu.com/n5490eb/」という素晴らしい記事をご覧になって頂ければよいかと思います。(この記事の作者様と私は同一人物ではありません)
将棋のプロになるためには奨励会という育成機関を通過する必要があります。この奨励会は入会すると6級からスタートとなるのですが、これはアマチュアで言うところの四段以上の腕前に相当すると言われています。しかも、この奨励会に入会するのは小学生や中学生の少年少女です。つまり大の大人が血の滲むような努力をしてようやく到達できる地点に、ある程度の凝縮された努力によって遥かに短い時間で到達できる人々、つまりは天才たちだけがこのスタートラインに立つことができるということです。
さて、当然奨励会員になったところでプロになったわけではなく、プロになれるのは奨励会三段リーグを突破して四段の資格を得た者だけで、年間に四人しか輩出されない仕組みとなっています。更に、四段になった後もプロとしてのグラデーションが存在しており、そこには才能の差という影がいつまでも付き纏います。
才能のあるプロ、つまりそんな天才の中の天才は、将棋を指す際にどのように思考しているものなのでしょうか?
先に紹介させてもらった記事では、天才達の中でもグラデーションが存在しており、将棋のトップに立てるのは本当に一握りの人間であることが述べられていました。
つまりトッププロとは、仮に将棋人口が1000万人だとすれば上位0.0001%の人間のことです。すなわち、トップの十人、それが実質的な日本のトッププロ達です。
羽生善治、藤井聡太、渡辺明、豊島将之、永瀬拓矢らがそうです。将棋を指す者達は彼らのことを畏怖の目で見つめ、時折プロが招かれるイベントなどで間近に見る際には、化け物や、宇宙人。あるいはこの世の理を超越したものを意味する視線が、彼らには注がれることとなります。
つまりは才能とは一体何なのかという話になるのですが、脳内将棋盤というのがポイントになってきます。
人は、数理的思考能力、つまりIQが140を超えると立体的なイメージをあらゆる角度から検証できるようになるという話があります。人間のある種の知的能力と、立体的な像を脳裏に生み出す能力には深い繋がりがあるということなのです。つまり、才能のある将棋指しは脳の中に将棋盤を作り出すことができ、これによってどんな時でも(つまり実際の将棋盤がなくても)脳裏において将棋の情報を扱うことができるようになるほか、将棋に関する凝縮した思考を連綿と行うことができるようになるということなのです。勿論、プロもこの「脳内将棋盤」を持っており、彼らの脳内将棋盤にはそれぞれのバリエーションがあることも有名です。
以下コピペ。
羽生四冠
「4分割(5×5中央重複)の部分図が高速で行ったり来たり。盤全体は1度には浮かばない、負荷が大きい。盤面は白、線は黒。駒は外形が無く黒の一字彫り。アマ二、三段くらいになった10歳ごろからこんな風。」
森内九段
盤駒のみの思い浮かべる事はほとんど無く背景も付随。対局中は当時の対戦相手や対局場の雰囲気まで再生。普段は自室の背景に板盤。」
「盤は黄色で1一が右上に固定されている全体図で、線は無い。楷書の文字1字だけが駒として自動的に動く。」
渡辺二冠
「ダークグレーの空間に、字の書かれていない黒に近い灰色の駒が浮かんでいるだけだが、どちらのどの駒かは分かる。」
「黒くぼやけた盤面のどこか一部だけが見えている。駒はゴニョゴニョ、あるか無いか分からないまま何かある感じ。」
「盤も背景も黒く、線の無い盤全体に文字の無い黒っぽい駒がモニョモニョ。」
(出典:AERA No.38増大号'12.9.17『天才たちの「脳内パネル」』)
さてトッププロどころかアマチュア4~5段の人々にはこの脳内将棋盤が基本的に備わっていると言われています。つまり、この脳内将棋盤は確かに、ある程度将棋の強さ(棋力)の指標となるのです。しかし、トップの人々に関してその指標がピタリと当てはまるかというと、疑問だと言わざるを得ません。脳内将棋盤というものは将棋の猛者にとって当たり前のアイテムかつ大前提のアイテムであるため、最上位層の人々の能力を測る尺度としては些か信頼性に欠けるということなのです。というか、一応奨励会三段(アマチュアではなくプロ基準の三段)ともなれば、既に常人を超越して人間卒業レベルに至っているので、やはりその中にいる更なる化け物達を推し量るには、脳内将棋盤の有無のみならず別の尺度を用いる必要があります。
つまり、その二者。単なる化け物と、化け物の中の化け物を辨別する際に必要なのは、脳内将棋盤が「ない」ということなのです。
頭の中で将棋盤が無く、視覚的なイメージに頼ることなく思考できる人々が、化け物の中の化け物にはいるということなのです。
「最初の一手……まず、角の斜め前の歩を前に一つ進めるだろ。すると、後手の相手も同じように角の斜め前の歩を一つ進める。だとしたら俺は飛車先の歩を一つ前に突いて、相手も突き返して……横歩取りの筋に合流しそうだ」などなど。
つまり、常人は基本的に画像、目の前にある将棋盤の視覚的なイメージを用いて思考しており、そのイメージを介さずには将棋を指すことができないのです。ある意味では脳内将棋盤の存在も、視覚的な情報に基づいているという点においてはその思考の延長線上にあると言っていいでしょう。そう、人は基本的に将棋を考える際には視覚的なイメージを媒介とするしかないのです。
しかし、プロの一部にはそのような思考法は――視覚的なイメージを介した思考は――あくまで「補助的なものに過ぎない」と証言する者もいます。藤井聡太や増田康宏、羽生善治などがそれらの棋士です。
では彼らはどのように思考しているのでしょうか。
将棋の符号とは、数字と文字によって駒の動きを表したものです。いわば駒の「番地」とも言われるもので、次の記事が参考になると思います。
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77758
例えば、少し前に書いた横歩取りの定跡だと以下のような記述になります。76歩、34歩、26歩、84歩、25歩、85歩、78金、32金……。このような記述の仕方は江戸時代以降から共通であり、いわゆる将棋の対戦の記録である「棋譜」は古くは数百年前のものが記されています。古い文献において、盤面は視覚的に、絵図を用いて記述されることはなく、符号を使って記述されているのです。
いちいち絵図で盤面を描き残すよりも、文字で表した方がずっと労力は少ないですからね。
以下の記述はあくまで本人らの証言を参考に記しているものであり、彼らの思考を追体験したものでは当然ないのですが、つまり彼らの思考は以下のものになります。
先程書いた将棋の符号が、将棋に関する思考を始めた瞬間にズラズラズラ~~~っと文字列で浮かぶのです。
「ズラズラズラ~~~っ」って……、と自分の文章表現力の稚拙さに絶望しそうになるのですが、そう言い表すほかない。そう、真のトッププロにおいては、文字によって思考が行われるのです。そこに画像の介在する余地は、僅かにしかない。羽生善治曰く、「思考は基本的に符号で行って、その後、ある程度局面を読み終わった後に、自分の思考を確認するために思考を画像に起こす、という作業はありますが、基本的に画像で思考することはありません」とのことでした。
先に書いた通り、画像で物事を表すというのは、文字列で表すよりも遥かに手間が掛かります。つまり、脳の処理を要します。
となれば、より情報量の少ない符号によって思考するということが、より高速な思考法として適しているということなのです。
ある意味、それは楽譜における音符の存在と似ているでしょう。というか、そのものかもしれません。音楽というものは体系化され楽譜という共有形式を持つ以前は、完全に口伝であり、人々が歌い継ぐことによってしか継承を行うことができませんでした。しかしそれが数学的・音楽的に体系化され、楽譜の形を取ることになると、そのような継承の際に起こり得る障害はほぼ完全に撤廃されることとなります。そしてこれらの音符を読むことで、人々はそのメロディーを脳裏に想起することができるようになりました。将棋の棋士もまた、それと同じ知的処理を行っていると言ってもいいかもしれません。
つまり、ドミソ、の音符が並んでいるのを見て、タララ~、という和音が脳裏に浮かぶのと同じように、将棋のトッププロたちは符号によって将棋の盤面を把握することができるのです。これは、将棋のある程度の才能がある人々には必須の能力ですし、実際に高位のプロ棋士やトップアマチュアは、棋譜を一目見ただけで盤面の進行をまざまざと思い浮かべることができると言われています。
とは言え、そのことと「思考に符号を用いる」ことはやはり一線を画していると言ってもいいでしょう。
勿論、理屈としては分かるのです。我々が音楽を継承する際に楽譜を用いたように、あるいは将棋の対局を語り継ぐために符号によって棋譜を残したように、それらの音符や符号といった記号には意味を圧縮することができ、効率的な情報伝達を行うことができるのだと。
勿論、理屈としては分かります。とは言え、それらの記号を使って後世へと情報を伝達することと、それらの記号を用いた思考を正確に効率的に実践することとは、また別問題です。
というわけで、画像を媒介にした思考と文字列を媒介にした思考とでは、効率において文字列による思考に軍配が上がるということでした。プロ棋士らによる思考の抽象化が極限にまで達すると、本来立体的な駒やそれらの視覚的イメージを用いずして思考することが不可能であったはずのボードゲームも、文字列を介した思考によって再現されてしまう、ということなのでした。実に、これは驚くべき異常性であり、そして、個人的には文化として、そして娯楽として、このような常軌を逸した営みを次代へと継承していかなければならないと感じます。
さて、ところで常軌を逸していると言えば、藤井聡太二冠の名前はもはや語るべくもなく有名ですよね。彼のインタビュー記事は相当数発表されていますから、彼の語る様々な内容について把握している方も多いかも知れません。
その中でも異質のインタビューと言えば、2020年の夏に発表された、小説家白鳥士郎氏によるインタビューでしょう。https://originalnews.nico/139502
――棋士はどなたも『脳内将棋盤』を持っておられます。でも藤井先生は、あまり盤面を思い浮かべておられる感じではないと、以前、記事で拝見したのですが。
「はい」
――では、対局中はどんな感じで考えらおられるのですか? 棋譜で思考している?
「ん……それは、自分でもよくわからないというか。んー…………」
――盤は思い浮かべない?
「まあ、盤は(対局中は)目の前にあるわけですので」
「詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」
――えっ? ……私のような素人だと、詰将棋を解くときこそ将棋盤を思い浮かべるというか……むしろ手元に盤駒を置いていないと解けないくらいなんですけど……。
将棋のプロの世界は腹の探り合いであり、自らの能力の本質である「思考の方法」について簡単に詳らかにすることは、本来無いことと言ってもいいかもしれません。とは言え、これまで語ったようにそれらをはっきりと述べる棋士の人々がいらっしゃるのもまた事実です。そして、このインタビューにおいて行われた藤井二冠の発言もまた、棋士の思考の一環を覗くことのできる重要な機会であるように思われます。
さて、ここで述べられているのは、そもそも思考する際に「なにもない」ということです。
全くの虚無、というわけではないにせよ、少なくとも目の前に分かりやすい形で示すことのできる思考は、存在しないということなのです。
以下のインタビューで彼は次のように語っています。https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3394?p=1
彼は基本的にはこれまで述べたように、「符号」を使って思考するのですが。しかしある種の詰将棋などにおいてはそのような符号さえ必要にしないということでした。
このような、実際の目視確認→脳内将棋盤(符号による棋譜理解)→符号による思考→符号さえない思考という構図を単純なステップアップの過程として語ることはできないとは思うのですが、しかし、将棋というゲームについて思考する際に、その思考が極限まで達した人は何かしらの深淵へと、虚無への道を辿っているような、そんな感触を覚えてしまうのは僕だけなのでしょうか。
さて、というわけで、トップ棋士たちの、良い意味での思考の異常性について語りました。現在、12/6午後五時三十分ですが、僕がこの世の隅っこでこの文章を書いている間、世間の大舞台では羽生善治九段と豊島将之竜王二冠のタイトル戦第五局が、行われている最中です。
宮下公園を媒介してNIKEがたたかれているみたいだね。ブクマカたちは安全圏からいつも通りいい子ちゃんぶって正論で罵詈雑言を浴びせてくるけどもう慣れちゃった。
自分はもう何年も渋谷で仕事して渋谷で生活している。渋谷って一口に言ってもいろいろな区画があって、それぞれの区画で治安が良かったり悪かったりする。道玄坂のホテル街は相変わらずラブホが立ち並んでてカップルと風俗客と風俗嬢がうろうろしてるし、スクランブル交差点はいつも関ヶ原で、センター街はリアルエクバ、宇田川町はDJがリアルGTAだし、宮益坂はいつだって坂がきつく、マークシティは死相のあらわれたホームレスがベンチみたいなところで寝転がってたし、南平台はいつだって渋谷と呼んでいいのか分からない。その中でも、宮下公園だけはあからさま近寄ってはいけないムードがただよっていた。それはホームレスがいっぱいいるからっていうのもあるけど、公園では何が行われてるか分からないし、犯罪の噂をしこたま聞くからだ。よく分からないけどなんかやばそうな空気を宮下公園からはいつも感じていた。
実際のところ、ホームレスの母数は統計上減っている。ガチの貧困者がホームレスにならずにネカフェ難民などに移行してるそうだが、それでもジュリーみたいなルンペンは体感で見てもここ数年で明らかに見なくなった。宮下のところや駅のところで高架下にはダンボールを毛布がわりにしたホームレスがいるけど、本当に見かけるのはそのくらいだ。マークシティからもいなくなった。あと、ホームレスは一般市民と比べて結核持ちが多いから、公衆衛生的にもよろしくない。
ところで、Base Ball BearってバンドのSAYONARA-NOSTALGIAって曲にミュージックビデオがついてて、2004年の渋谷が舞台になっているんだけど、ナンバガに憧れた男女がビル屋上で演奏してる裏で、ヒカリエができる前の治安の悪い宮下公園で治安の悪そうなJKが治安の悪そうなことをしてるなんだかよく分からないミュージックビデオだった。2004の頃からしてもそんなに治安の良い空間じゃあなかったのだろう。
そしていま、ちょくちょく宮下公園を通過している。あのあたりに限定すれば、本当に治安が良くなったと思う。安心して宮下を通過できるので治安が良くなったことを体感している。ホームレスの村よりはパリピがインスタ映えを求めてウェイウェイしてる方が明らかに平和だ。
もちろん単にホームレスの母数が減ったからって貧困がなくなったわけでもないけど、行政とナイキが結託して弱者を排除してるっていう単純なストーリーには区民の立場からノーと言いたい。
愛知県の知事をリコールするための署名運動が、86万筆を必要としたものの43万までしか集まらず、思いっきり失敗して頓挫した。
43万というのはなかなか不思議な数字で、運動の音頭を取っていた高須院長の以前からの言動と比較すると、「全然足りてねえじゃねえか」という気もするし、純粋に数だけみれば、かなり集まったな、という気もする。
俺は高須院長とその界隈がハラワタの底から嫌いなので、高須氏本人とサポーターであるジャーナリストの門田氏のtwitterに、次のようなリプライを送った。
・必要な数には届かなかったが、43万というのは本当に立派な数。正式な手続とはならない以上、本来は不要な検証ではあるが、ぜひ中身を精査し、43万人分の民意が実在することを堂々と知らしめて欲しい
・ところで、今回の運動のさ中、事務所に盗聴器が設置されたり、乗用車に工作の形跡が確認され被害届が出された経緯があったと思う。これは、命を脅かす危険さえはらんだ卑劣な行為。ぜひ調査の進捗を教えてほしい。ジャーナリストたる門田氏にも真相を究明して欲しい
…
この文言は、当然というべきか俺のねじ曲がった性格から生まれている。
今回の署名の中に出どころの怪しいものが紛れ込んでいるという情報が散見されることをふまえ、「43万筆集まったけど、検証した結果、一部は捏造して膨らませたものでした、なんて格好のつかないこと、後から言ったりできねえよな?」ということ。
また、「事務所や車への工作活動も、狂言とは言わないけど、勢いで届け出提出したやつを、世間が忘れかけてるからこれ幸いにうやむやにしようって肚だよな?」ということ。
俺はそう思っていながら、これをいかにも高須院長のサポーターです、という体裁で送ったのだった(ところで、悪意で行ったアクションを後から言葉にすると、こんなにうすら寒い気持ちになるんですね)。
このリプライはその後ぽつぽつRTされて、何十件かいいねを集めた。
反応した人たちは高須先生のサポーターと思しき憂国烈士の方々で、俺がいかにも先生を支援しその体を案じているという風に繕ったので当たり前ではあるのだが、味方によってこうやって退路をふさがれる(ってほど大げさでもないけど)ことがあるのかもなあ、と少し怖い気もした。
…
俺はふと思ったのだが、俺のツイートに反応した人々は、果たして本当に高須院長の心からのシンパなんだろうか?
以前から俺は不思議だったのだが、あんなどう考えても常軌を明後日の方向に逸して与太を飛ばし続ける人物を、マジメに支援できるものだろうか?
世間では、いわゆるパパ活という遊びの変種として、若い女性に金品を与え続けて当人の自尊心を変性させ、その後の人生を狂わせていくのを観察するところからが本番という、色んな意味で俺にはマネできない趣味があるという。
あいつらはもしかして、SNSを媒介に高須院長相手にそれをやって噴き上がらせて、面白がってるのだろうか。観察の対象が若い女じゃなく古希を過ぎたジイサンというだけで、これは一種のパパ活なのか?
この想像は、そう考えた方が俺にとってしっくり来るからだが、逆のパターンもあり得る。高須院長の方がパンピーをからかってるパターンだ。院長は表面上に反し、リコールに真剣でもなんでもなく、美容手術で切り取ったポコチンの皮を片手で優雅にもてあそびながら、大勢のアホを動員して楽しんでいる…これも理解できる。院長とシンパの年齢を考えれば、むしろこっちの方が本来のパパ活に近いともいえる。
こうして考えると、愛知県知事リコールは三つの可能性に整理できる。
2. 院長はマジだが取り巻きは半笑い、という70過ぎのジイサンを見世物にした構図
…
あれ、もう一つあるんじゃねえか?
そう思った人は鋭い。
そうだ、 4. 院長も取り巻きも半笑いでやっている、というパターンである。
院長は多忙だ。そのサポーターだって多忙だろう。したがって、外野から見れば口角泡を飛ばして熱心にやっているようで、実際は片手間にツイートし、片手間にRTし、Twitterの画面上の数字だけを膨らませているに過ぎない。これもあり得る。
その場合、院長とサポーターは誰をおちょくっているんだろうか。
あえて言うなら、「俺」しかいないだろう。俺は、遠目から彼らの界隈を冷笑しているつもりでいて、実はこの状況にもっとも青筋を立てていたのは俺自身であることを暴かれたのかもしれない。俺はここでやや背筋が冷えた。
この話にオチらしいオチはないけども、俺は4番目のパターンが一番怖いわけだが、一番望ましいな、とも思っている。2, 3も怖いが、それでもいい。理解が及ぶからだ。やっぱり俺は、1番目の可能性がもっとも醜怪で、不快で、意味不明だと思うなあ。
男性が悪いというわけではありません。
そもそも、性交の体位が男性にマウンティングを取られているのです。
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ええ歳超えている場合もある。
断ればいいと思うけど、断ればたちまち不機嫌になるのだろう。
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ワイドショーにて主婦は夫に気を使うか使わないか。というものをみました。
気を使う主婦は多いという結果になりました。
自分は働いていないので、食べさせてもらっている「負い目」があるから。
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「そんなことないよ~」
「専業主婦の一日の労働時間を時給に換算したらすごい金額ですよ~」
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ハラがったって来た。(軽い言い方がカチン!!)
根深い問題なので一言では片付かない。労働時間や金銭的なものだけではありませんよ、きっと。
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私はこう理解した。
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🐱:そもそも、性交は男性からの欲求である。抑えられず、相手に対し失敗する。ときに犯罪。
🐻:家庭内(夫婦)で日常的にあることである。夫婦なら当たり前の風潮です。
ダメになる(離婚)とかでも強要された。という理由も多いのだろう。
性交は、妻がうんざりでも暴力とは違います。痛いわけではありません。
これが厄介なところでもあります。
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🐱:医療関係者から見たら性交は感染症を媒介させる不潔行為である。
🐻:これは、世の中に周知されてほしいです。
家庭内で子供がいるとしたら、終わってお風呂で洗うことはなかなかできないもの。
...
🐱:男性の性欲が検証されコントロールできるようになれば本人のGBPが上がる。
🐻:会社の仕事ぶりは分からないけど、家庭では夫のGBPは間違いなく上がります。
男性の性欲って一生ものなのだろう。私は、諦めているのかもしれない。
期待もしている!性欲を抑制する薬。
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性交で女性にばかり、ハズカシイ格好をさせているなと改めて考えた男性がいたら、
何か変わるかもしれませんよ。
...
性行為そのものからマウント感も堪能している男性が多いですかね??
もっと、掘り下げたいけど、この辺で
読んで頂き、ありがとうございました(*'▽')