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はてなキーワード: 販売員とは

2018-06-19

学生の頃によく通ったバーがなくなったという報せを聞いたのは、出張東京から大阪に向かう新幹線の中だった。

新幹線大学進学を機に東京の西の方へ引っ越したぼくの出身新潟県で、当時のぼくにとって、新幹線といえば、東京都と新潟県をつなぐ上越新幹線のことだった。新潟。海沿いの街ならばともかく、山に近い町では、一年のうちの半分以上が雪と雲に閉ざされる土地だ。

冬に東京から上越新幹線に乗ると、日本海側が「裏日本」と呼ばれるのが納得できる。携帯電話電波の入らない、長いトンネルを抜けると、そこはたしか雪国だ。トンネルに入る前の、抜けるような青空からしてみたらまるで異世界のような、モノクロに塗りつぶされた街が見える。たまにしか来ない旅行者にとってはそれは心踊る風景かもしれないが、「裏日本」の住人にとっては、長く続く冬のあいだ、ほとんど太陽を見ることができないという気の沈む現実をそのまま描き出したような光景だ。

新潟県に住んでいるころの生活は、そんな冬の憂鬱景色と似たり寄ったりだった。中学校クラスメートの多くは、ぼくに猿山の猿を思い起こさせたし、教師たちだって、そのうちのほとんどが想像を絶して想像力のない無神経か、生徒へ媚びては「人気の教師」というくだらない肩書きに執着する俗物のどちらかだった。

ぼくにしたって、そんなくだらない学校生活から颯爽と抜け出せたわけではない。自分も、くだらない生徒のうちの一人であることには違いなかった。そんな鬱屈をぶつけるかのごとく、音楽を聴いて、小説を読んだ。音楽小説は、ぼくの肥大した自意識をなぐさめながら、同時に、その自意識さら肥大させた。

ひとことで言えば、ぼくは、音楽小説自分存在のものさえを仮託する、盆暗だった。そうして、ぼくは中学高校をやり過ごしていった。

車内販売ワゴンを押しながらお土産コーヒーを売る販売員の声で、ぼくはふと我に帰った。いつのまにか新幹線名古屋駅をすでに過ぎていたらしい。車内販売からぼくはコーヒーを買った。熱いコーヒーを飲みながら、ぼくは高校卒業した年の3月のことを思い出していた。

大学進学に伴って、上越新幹線を使って上京した。まだ雪の深く残る街から荷物を抱えて新幹線に乗り込み、トンネルを抜けたときの空の青さにせいせいしたのをよく覚えている。これからは、猿山の猿や無神経や俗物に付き合わなくていいんだ、そんな気持ちを、青い空は祝福してくれたように思えた。

そうして手に入れた大学生活にも慣れ、過剰な期待もなくなり、肥大した自意識ともうまく距離をおけるようになった頃のぼくに、ほんとうのお酒のおいしさを教えてくれたのが、件のバーだった。学生街にありながら、その店はいつでも静かだった。生まれて初めて、本や音楽の話が心からできる友人とも、そのバーで知り合った。マスターは、少し背伸びをした学生に、いろいろなお酒を教えてくれた。酔うためではないお酒を、リラックスしながら飲む日々は、ぼくにあの新幹線で見た青空のような解放感を与えてくれた。

そのバーがなくなったことをメールで教えてくれたのは、当時の友人のうちのひとりだった。大学を出た後、ぼくとはまったく違う業界に進んだ彼と会うのは、3年に一度程度の頻度でしかなかったけど、会うたびにぼくらは、リラックスできる店で静かに酒を飲んだ。そんな彼の名前と一緒に携帯電話の通知に表示された、「あの店なくなったの知ってる?」という文字列に、それほどショックを受けていない自分に少し驚きながら、ぼくはヘッドレストに頭をあずけて目を閉じた。

ぼくたちが店に通っていたときから、もう8年が経つ。東京就職し、大阪に頻繁に出張に行くようになったぼくにとって、新幹線といえばもう、あの長いトンネルを伴う上越新幹線ではなくて、東海道新幹線のことになった。ぼくはもう一度携帯電話の通知欄を眺めてから、また目を閉じて、新幹線規則的なゴトンゴトンという音に耳をすませた。

2018-06-11

anond:20180611150946

その店員さん、頭悪いね?(頭が悪いから販売員のような底辺職業しかできないんだろうけど)

今はゴルフをやってない子でも、将来はゴルフをやる可能性は十分あり得る。

未来の潜在顧客を育てるなら、「ゴルフ、やってみたいの?」って声をかければ良かった。将来ゴルフを始めるとき、道具を買ってくれるだろうからね。

君の見立ては間違っていなかったねw

2018-06-02

怪しいコンサルの嫁になってしまった人

親友だった。

今は縁を切られている。

きっかけは私の妊娠不妊で悩んでいて、先に妊娠した妹も疎んでいた。

彼女20年前に上京して東京に住み始めてからおかしくなった。

昔はどちらかというと自分で何かを作るタイプだったのだが、物に囲まれたらあっという間に自分を見失ってしまった。

きらびやかな物で自分を飾り立てることに執心するようになり、一時は高額化粧品販売員になったりしていた。

ちなみに化粧品自体は大したものではなく、詐欺のような代物。

親友のよしみだし、ノルマの達成のためにと付き合いで何度か買ってやった。美顔器を勧めてきたあたりで買うのはやめた。

そのうちに、よくあるパターンで紐男と付き合い出し、結婚ステータスが欲しかった彼女その男とは別れ、今度は社長クラスと付き合って結婚したいと考えるようになる。この時期私は凡人の夫と結婚している。

ハイクラスと謳われる婚活に通いまくり、見事社長を捕まえる。

IT系社長。年は15上。海外結婚式。

いんたーねっつに詳しい諸氏は、この危うさに勘付くと思う。

羽振りのいい時期はすぐに終わった。

それで、ご主人は今や情報商材を売りつけるコンサル()に転身した。

定期的にどこかの箱を借りて、数人のアドバイザー()とともに、稼げる方法!!のセミナーを開いている。

彼女はというと、オーガニックマクロビ、まあそっち系に走り出した。妊娠を夢見て。

この手のアレに狂い出した人はどういう経緯を辿ってこうなってしまうのか、ブラックボックスだったが、なるほどね。

今は私とは関わらない世界にいる。ありがたいことだ。

たまに、縁を切られたSNSを見に行っては、彼女の思う幸せを眺めて、くわばらくわばらと念仏を唱えている。

2018-05-27

anond:20180526201903

コトバンクで悪いが

一般的には特別職業訓練を受けていない未熟練労働者を指すが,外国人労働者の受け入れ問題について議論されるときは,「いわゆる単純労働者」という言葉が用いられている。単純労働者とは入国を認めうる専門的な技術知識を有する労働者との対比で用いられており,無技能・未熟練労働者のみならず,販売員家事サービス職業技能工などある程度の技術技能知識等を有する労働者を含むものである

https://kotobank.jp/word/%E5%8D%98%E7%B4%94%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85-159943

"一般的には特別職業訓練を受けていない"という定義なら営業マンなんかも当てはまってしまうし、"販売員家事サービス職業技能工などある程度の技術技能知識等を有する労働者を含む"なら、学士レベル以上の高等教育を受け且つそのノウハウを活かせる職種に就いていない者は総じて単純労働者と呼んでも無理はない気がする。

単純労働」という言葉定義あやふやなまま、なんとなくブルーワーカーの言い換えという感覚で使われているんだろうがな。

2018-05-21

先日、売り場コンテスト入賞して思い出した事。

天は二物を与えずというが、
学生の時のK君は運動勉強は勿論、
絵も描けるし、楽器も弾けて作曲もする、
文章を書かせても面白いという
スーパー超人だった。

イベントパンフイラストを描いてもらったり、
学園祭の時はライブやったり、劇の脚本を書いてもらった事もあった。
しかも、その劇は私が在学中に行われたどの劇よりも受けていた。
そんなに作品数は多くないが、
ピクシブにアップしているイラスト漫画
非常に評判が良かった。

これだけマルチクリエーターぶりを発揮されると、
本人的にどの方面評価されるのが嬉しいのかが気になった。
なので、一度、その事を本人に尋ねた事があった。

「…呼ばれて嬉しい肩書き??」
「うん。Kって何でもできるやん?せやから、本人的に何て呼ばれると一番嬉しいんかなって。
 やっぱり作曲家?それともイラストレーター?作家?」
「う~ん……」

しばし、考えた後、Kはこう言った。

「…。そやな、一番嬉しいんは『エンタタイナー』かなぁ?」
エンターテイナー?」
「うん。それが大げさやったら、道化師とか芸人でもいい」
「ええ…芸人って…おまえ…」

しかし、その後返ってきた返事を聞いて納得した。

「結局、俺が曲を作ったり、絵を描いたり、文章書いたりっていうのは、
 とどのつまり、それを見たり聞いてくれた人に楽しんで欲しいから作っているわけやから
 みんなを笑顔にするのが目的で、作曲したり絵を描くのは
 俺の場合あくまでその目的の為の手段しかないんよ。
 せやから作曲家とかイラストレーターって呼ばれるよりは、
 人を楽しませる事が目的のような肩書きがええ。芸人めっちゃええ肩書きやん」

その後、続けて
ぶっちゃけ、曲や絵のクオリティーで俺より上手い奴は山ほどおるけど、
 人を楽しませるという気持ちで負ける気はそうそうあらへんで」
と笑っていた。

年月が過ぎて、今、私はしがない売り場販売員だ。
勿論、Kと違って絵も描けなければ文才も無い。
けれど、その時のKの言葉がおそらく今でも自分の道しるべの一つになっているのだろう。
売り場を作るとき、買いに来たお客様笑顔になってもらえる売り場になるように心がけている。

2018-05-16

anond:20171120034324

なんでレジ打ちだけ特別視すんだよw

俺、過去に、新聞配達員マクドナルド店員マンション専属清掃員、ヤマト運輸配送電話受付、デバッガ、小さいIT企業顧客データベース構築、物流会社会計データ打ち込み、解体工事家電量販店ソフトウエェアの販売員、等々の職を重ねたが、レジ打ちだけはやってない、しかし「こんな仕事何になるんだ?」と思わなかったことは1度もねえぞw

俺は上記のいずれも失敗した、とくに接客系は絶対無理だと学習した

しか

いつも行く西友じゃ、本当に素早くてきぱきとレジ打ちしながら、常に穏やかな口調で客に「ありがとうざいました」て言うてるおばちゃんがおるが、逆立ちしても俺には同じ事はできんと頭が下がる

俺には絶対に務まらない仕事が的確に出来ているという一点において、俺にとっては、レジ打ち店員医者弁護士スーパーモデルも一切同列じゃ

2018-05-15

ウインナーって

ボイル

レンチン

炒め

どれが一番美味しいと思う?

 

俺は全部美味しいと思う。

 

(追記)

一番美味しいのか。

そうだな。

俺は全部美味しいと思うが、例えばスーパー店頭試食販売員になったつもりでどういう調理方法試食提供するかを考えたらボイル意外にありえない。

まず鍋に水を入れて火にかける。沸騰したら火を止める。そこにウインナーボトボトと落とし2~3分

これなら店頭販売でも大量のお湯をポットに用意し、鍋を用意するだけで手軽だ。お湯を捨てる場所必要だが。

そして何より調理によって失敗しない。レンチンや炒め、焼き、揚げは、やりすぎると破裂する。こうなると噛んだ時の「パキッ」とした感触は半減。ありえない。出来損ないだ、食べられないよ。

なのでどの食べ方も美味しいが、弁当やに言ったら唐揚げ弁当が安定している事と同じように「ボイル」を推奨する。

2018-05-11

anond:20180510182720

ボス無知である前提で話すことは失礼という規範で会話した結果こうなったんだろうけれど、こんな場合どうすれば良いのかな。小学生に教えるように枠外のデータ存在しないことから話せば良いような気もするが、人によってはそれが不愉快ということになるのだろうか。

販売員やってる人はよく出くわしそうなケースだけれど、どう対処しているんだろう。他のトラバみたいに皮肉で返すのも、上司要求がどこまでも正しいとして対処するのも違う気がする。

2018-04-20

保険販売員契約する代わりにやらせてもらうみたいな話があるけど、そういうのって興奮度はいまいちだよな。

風俗でやるよりは興奮するけど。

2018-04-16

anond:20180415182117

無能かどうかはわからん

高校時代協調性ゼロ教師に反抗してばかり

卒業後は、音楽イベント裏方、廃棄物処理業者コンビニ店長ネットワークビジネス販売員などの職を転々とするが、2年以上同じ職を続けたことは1度もない

・1度親から家を追い出され、しばらくホームレスとして公園生活してた

・30代で鬱を発症

という男を知っている

そいつ障害者と認められたお蔭で、今は生活保護受けてる

働けなくても生活できてよかったな、年齢は50歳手前ぐらい

再就職したいという口ぶりはするが、そのため活動してる形跡は乏しい

今年はじめには、保護費の「もち代」がカットされと言って俺に借金を頼んできやがったorz

・・・

でも、役所障害者認定をかけ合ったり、自分の身を守る事に関してだけは法知識交渉力があるから、まったくの無能じゃないだろうな

・・・

ちなみにそいつネトウヨ

正確にはミリオタあがりで、「軍事歴史世界戦争リアルに詳しい俺、世間平和ボケ連中と違ってカッケー」って大人中二病

それも当人にとっては「俺はただの無知無能ではない」ってプライドを維持するため大事なんだろう

同じネトウヨツイッター仲間にナマポ受給者とバレるのを内心では恐れながら、表面上は中国悪口とか米朝戦争脳内シミュレーションで盛り上がって楽しくやってるらしい

2018-03-23

anond:20180323163547

じゃあ言うけど、「タブレット」って言っても各社操作方法ハードウェア仕様バッテリ重量色形インスタ映え諸々違うわけだけれども、

あえてそこを具体的にせずふわっとタブレットなんて言って幸せな結果を導き出せると思うのかい

そんなんじゃタブレットからという理由でおえかきせんせい渡して「コレじゃない!」ってキレられるのがオチだろ。

タブレットならタブレットでいい。iPadお勧めできる。でもiPad Pro 12.9とiPad mini 4でも大分用途が違う。

そこらへんでも使用イメージ必要だろう。

荒川の土手でスケッチでもするなら12.9インチモデルだけれども、あらかわ遊園アクティブに使うならiPad miniだ。

そういった想像なしにフワッと提案するんじゃ、後にクレーム入れられて販売員クビになるで。

ちゃん角度とか考えなあかんよ。

2018-03-16

土日祝休みか平日休み

フリーター時代は休める時に適当休むか予定がある時に休むという感じだったので、特に土日休みとか気にしていなかったが、

就職してからは土日祝日休みになり最高な気分!と思ったのは一瞬だった。

人が多い。どこへ行っても人が多い。

平日はたいして混んでいない定食屋ラーメン屋が嘘のように混んでいるし、公園にも人が多い。

映画なんて満足に見れたもんじゃないし、行きつけの居酒屋も激混みだ。

そんな感じなので土日は家で落ち着くようになってしまったところで嫁が言う。

「だから言ったじゃん。平日休みの方がいいって」

嫁は販売員なので、大体平日休みなのだ

「というわけで久しぶりに平日休みを思い出そう」

と先日有給を取って平日にデートをした。

最高だった。

ラーメン屋も。映画館も。公園も。焼き鳥屋全然混んでいなかった!!

水木休みとか、月火休み仕事いかしら。

出来れば連続休みたいよね。

半々なのかな。

2018-03-04

anond:20180304135600

受付とか化粧品販売員とかノーメイクで行ったら普通に落とされると思うけどね

低学歴を入れまくって成長してる企業が実際存在しないからな。

末端の作業員やら販売員みたいなのはどうでも良いんだけど、中枢はどうしてもアタマ必要

低学歴でも有能って都市伝説レベルやん?有能が指す意味合いが既に高学歴低学歴齟齬ありそうだけども。

2018-02-08

老人はなぜ、販売員の「カステラひとつですか」に怒ったのか?

https://forbesjapan.com/articles/detail/19130

黒川:「キレる老人」の背景に、孤独不安といった高齢者の方の気持ちをみて取るべきではないでしょうか。

例えば、お菓子屋さんでカステラを買おうとした高齢者の方が、店員の「おひとつでよろしいでしょうか?」という言葉にひどく怒ったとします。実はこの高齢者の方は、かつては仕事カステラをこの店で100個近く注文していたのに、いまは1個しか買わないことを寂しく思っている。それで「おひとつ」という言葉に、思わず貧乏人だと思ったのか!」とキレてしまう。こうした高齢者の方たちの背景にまで思いを巡らす想像力が求められているのです。

こ、これはひどい占い師上岡竜太郎が「今からオレはお前を殴るかどうか占ってみ!」と迫った時なみの無理ゲー

2018-01-17

https://anond.hatelabo.jp/20180117103915

上の増田に合わせて。

10万円の中には体験歴史も含まれてるよ。

高額なものを取扱うショップ販売員に関しても安いお店と比較した時

接客に関して丁寧だし知識があるのでこちらの要望にあわせた商品提案してくれる。

(あとドリンクとか飲めるし、ソファに座りながらゆっくり選べるのもいいよね)

あとはその商品歴史

何十年、何百年も前から作られて、改良を重ねてきた商品が手元にあるってワクワクする。

例えば日本人の大好きなヴィトンの巾着型のバッグ、

日本でも流行ってたから見たことあるとおもうんだけど

あれだって元々はワイン屋さんがカバン屋さんのヴィトン

ワインが入るカバンを作って欲しいって頼んだところから作られたカバンなんだよ。

そんな歴史に思いを馳せながら商品を買う、そういうことが好きな人だっているんだよ。

から外面ばかり気にしてブランド買う人ばかりじゃないって知って欲しいな。

2018-01-15

人売りITいたことあるけど何か質問ある?

https://axia.co.jp/2017-09-12

https://anond.hatelabo.jp/20180112170210

ここ見てたらなんとなく昔2ちゃんでやってたみたいに自分語りしたくなったので

■俺スペック

20代半ば

フツメン

文系私大

新卒で人売りITに入ってちょうど1年くらい前に辞めた。今は全く関係ない業界で働いている。リア厨の頃からねらー

東京就職たかったけど、大手から内定もらえずめんどくさくなって人売りIT入社した。その時は人売りなんて言葉しらなかったが、無名零細企業で、面接1回で通過できたりと不自然なところがあったので薄々ヤバいところかなって思ってたが、未経験者歓迎って書いてあったし内定を焦っていたので入ってしまった。

実際入ったら、研修中は給料もらえないとかは当たり前。ネットでよく見るブラック要素のオンパレードだった。「人売りなんだから研修あるだけありがたく思え」ってツッコミはなしの方向で。採用面接がまるで機能してなくて、この研修間中Hello, world」とかプログラミングの初歩的なことすら身につかない人間が何人かいた。そしたら責任者社員2人きりで会議室に入って「君は辞めるべきだ」みたいに退職勧告を1時間くらい続けていた。なかなか戻ってこないので他の社員は呑気に「まだ粘ってるな」みたいなことつぶやくくらいで無関心そうだった。俺もあそこまでできない奴なら仕方ないだろくらいにしか思ってなかったんだが。

研修後すぐに配属された。最初の配属先はうちの先輩社員いるから分からないことがあれば頼ればいいと言われたんで、何も考えずに「客先常駐」した。常駐先に行くと、最初の顔合わせのミーティングで先輩社員がなんの予防線もなく「××社のAです」と違う社名を名乗ったので、俺もとっさに忖度して同じように別の会社を名乗った。求人情報では「一次請けが多い」とのことだったが、いきなり多重派遣案件アサインされた。そういや職務経歴書名前書いたら「名前イニシャルにして」と言われたし、改めて「あー、俺派遣社員なっちゃったんだな」と思いながらも、どうでもいいやと思ってミーティングを続けた。

からわかったんだが、あるベンダー経由で1名とか2名の人手が欲しいと紹介のあった案件プライム(一次請け)と称しているだけで、自社ではまともに要件定義もできてなかった。

残業時間は当たり前のように月40時間オーバーし続けていた。少ないって?具体的に書くと特定されるだろ?ここでも裁量労働制とかなんとか言って残業代は出なかった。勤務時間が決まってるのにおかしいよね。休日出勤ももちろんあった。でも相変わらず俺は無気力だったのでおとなしく従っていた。仕事内容は大半がドキュメント整理だった。いわゆるエクセル方眼紙。図形やフォントちょっとでも違っていたら修正しろって言われるやつ。あとスクショエビデンス客先常駐なので自動化ツール使用許可がおりなかった。数ヶ月で契約終了になって、別案件アサインされたがやはり残業時間は多かった。更に悪いことに、プロマネ技術管理もできないクズで、スケジュールが遅延しそうになると「緊急ミーティング」を開催して何時間派遣社員たちを罵倒する。遅延の原因はだいたい発注元のミスか他社の不手際なんだったんだが。そのくせ自分設計ソースコード問題があっても知らん顔。今思うとなんで辞めなかったのか不思議だが「3年以内に辞めたらどこも雇ってもらえないよ」みたいな脅し文句がきいてたんだと思う。それからもちろん「単独常駐」もやった。他に自社の人間がいないので、仕事内容を指示するのは当然派遣先社員成果物を納品するので請負だと言われたけど、納品する成果物というのが派遣先での勤務時間を記入した書類。どう見ても偽装請負です。本当にありがとうございました

これを読んでる人からは「うちはもっとひどかった。甘えてる」とコメントが来るかもしれないが、実際暴行事件とか過労死とかもっと酷いブラック企業ニュースはいくらでも流れてくるんで知ってるから。あの会社暴行過労死もなかったみたいなのでそういうとこよりはマシなんだと思う。俺はブラック企業の酷さで張り合う気はないんで、とことんブラック企業限界に挑戦して欲しい。

■なぜ辞めたか

こんな感じで酷い労働環境でも反抗することな無気力に過ごしてきたが、同級生は俺よりだいぶ稼いでいるとか、あいつはもう結婚したとかいう話を聞いたりして、1年経ったあたりからだんだん正気に戻ってきた。あと、大企業派遣されると正社員だけの福利厚生制度が目についてかなりみじめな気分になるてのもあった。業務派遣先が変わるたびにリセットされて、単純作業ばっか。昇給も昇格もスキルアップもできない。だが結果として、3年どころか2年で転職できた。実力というより運が良かったのかもしれんが、知り合いはまだ若かったからとか言ってたので、そうなのかもしれない。

■こんなネガティブ情報だらけの人売りITにそれでもなぜ人が入ってくるのはなんでだぜ?

俺は新卒で入ったけど、中途で入ってくる人間もかなり多かった。中途と言っても、ほとんどが20~30代くらいで、しかプログラマ経験だった。この人たちの前職が何かというと、飲食チェーン店店長(いわゆる名ばかり管理職?)とかノルマのきつそうな営業販売員とかフリーターとかで、いかにも将来性のなさそうなとこから逃げてきました、って感じだった。この辺の人達からすれば、言うとおりにしてるだけで給料もらえる今の仕事はるかに良いんだと思う。新卒場合は、たぶん俺と同じようにあんまり将来のこと考えてなかったんじゃないだろうか。辞める人にも2通りあって、1つは研修についていけなかった人とか口では仕事できるアピールするがいざ仕事すると何もできない奴。だいたい1年以内に辞める。2つ目は、真面目で技術力のある職人気質の人(だいたい経験者)や将来の目標がある上昇志向の強そうな奴。このタイプ能力があるんだけど、あの会社じゃろくな仕事ができそうにないからか1~2年くらいで辞める。といっても帰社日以外で顔を合わせることがないので辞めた人間全員を知ってるわけじゃないんだが。なので結果として、ひどいブラックから逃げてきたけど他に行くところのない中途組や、騙されてることには分かってるが辞める勇気のない新卒会社に長く残ることになる。

■人売りITを避けるにはどうすればいいか

人売りITは、求人情報で「自社開発」「自社製品」「直請けが多い」「研修が充実してる」「労務管理ちゃんとしてる」「上流工程へのキャリアアップもありえる」「業績好調(じゃあなんで給料払わないんだ)」みたいな嘘や誇大広告を平気でやるので求人情報はあてにならない。そもそも偽装派遣を「客先常駐」と言い換えてる時点でね。特に新卒場合給料を安くできるし、中途と違って労働法知識もなく、労働環境待遇について質問するのがタブー視されてるので人売りITにとっては格好のエサ。実はコンサルじゃなくて人売りITでしたとか、実は給与ボーナス込みの額でしたとか、残業手当込みの額でしたとか、研修中は給与でませんとか、実は正社員でなく契約社員でしたとかはざらにある。もちろん人売りIT以外のブラック企業でもあるんだが。採用面接に行かなくても簡単にできる判定方法は、最初エントリにもあるように「会社概要から従業員数とオフィスの規模を比較する」のが一番だと思う。社員派遣するんだから自社に社員全員分のデスクを用意しなくてもいい。よって人売りITは高い賃料で都内に広いオフィスを借りたりしない。オフィスが小さな雑居ビルのワンフロアだけなのに、従業員数が数十人とかになってるところは間違いなくクロ。もっと規模の大きい人売りITもありえるけど、そういうとこはネット口コミ情報が流れやすい。最近グーグルマップがあるので現地に行かなくてもオフィスの規模は推測できるが、オフィスの大きさがわからないなら、特徴的な求人情報の有無でわかる。「未経験者歓迎」「勤務地23区内」「就業時間は客先に準ずる」が全部揃ってたらまず間違いない。

2018-01-06

接客業をやめた話

半年前に退職したが、新卒で入った会社接客業をしていた。

接客業といっても色々種類があると思う。

自分がしていたのは駅ビル百貨店商品を売る販売員だった。

学生時代接客をするアルバイトをしていた経験もあったし、接客態度や感じの良さを褒められることも多かったので、新卒ではじめて社会に出る上で苦労することはあれど、なんとかやっていけると思ってた。

まあ結論から言うと全くダメだった。

まず最初に指摘されたのは挨拶の少なさであった。

挨拶といってもおはようございますお疲れ様ですといった類のものではない。

自分はお店に入って来た人や、目があった人、近くを通る人に対して「いらっしゃいませ」と言っていた。

しかし、それだけでは足りない、入店することはなく、店の前を通っただけの人にも幾度「いらっしゃいませ」と言うようにと指摘を受けた。

実践すると常時「いらっしゃいませ」と言ったままの状態になる。

ほぼずっと声を張っていることに加え、店頭にいる間は水を飲むことが出来ないので、毎日喉に痛みが走った。職業上、仕方のないことだと思っていた。

次に指摘されたのは笑顔の少なさだった。

もちろん、お客様と会話をしている時は笑いながら話しているが、その他の作業をしている時、(例えば掃除備品の整理など)真顔になっているので、作業中も口角を上げほしいとのことだった。

私はここで違和感を覚えてしまった。

接客業を長年されている方には常識なのだと思う。いつどこでお客様に見られているかからない、販売員はいつ見られても話しかけられやす雰囲気を保たなければならない。

その理屈は分かる。しかし、作業をしていく上でニコニコ微笑むよりも、集中して丁寧かつ早めに仕事を片してしまった方がいいと思ってしまう。自分不器用だったので、はじめは意識していても、集中してしまうと微笑むことが出来なかった。

退職する決め手になったのは、仕事中の雑談であった。自分の店は来店に波がある店舗で、時間帯によってはお客様があまり来店されないことがある。

その時間帯に店員同士が、雑談をするのだ。その内容は様々で、私生活自身についてなど、仕事関係ない内容も含まれていた。

自分はというと、その雑談に加わらなかった。

他人にあまり興味がないという自身性質に加え、仕事中に雑談をするという態度があまり好ましくないと考えたからだ。

客がいないからといって店員同士で話が盛り上がっていて、入りにくいお店を見かけたことがある人は少なくないと思う。

自分自身、そういうお店を見かけるといい気持ちにはならなかった。だから自分雑談には加わらなかった。他にやらなければいけない雑務を見つけてこなしていた。

すると、私は店員同士でコミュニケーションを取る気がない人物とみなされ、注意を受けた。注意のされ方は「雑談に加われ」ではなく、「もっと自分からコミュニケーションを図りに行くべきだ」という言い方であった。

もちろん、仕事必要最低限のコミュニケーションはとっていた。

報告連絡相談はすぐに行なっていたし、人間として必要な「おはようごさいますお疲れ様です、ありがとうございます、お先に失礼いたします」などの言葉意識して伝えていた。

それでもまだ、足りないと言われたのだ。

この時点で接客業というのは独特な世界であることに気がついた。

そもそも自分他人にあまり興味を持つことが少ない。

外面は良いとよく言われるが、実際に深く知り合いたいと思うのは心を許せる数少ない人だけだ。

それでも、表面上のコミュニケーションが取れればこの仕事はできると思っていた。

しかしそれは勘違いだった。

実際に来店するお客様にも、同じ店の従業員にも、興味を持って自分から相手を知りたいと思わないとやっていけないと注意を受けた。

そして気が付いた。接客業というのは、人に見られている意識が強い人、他人に興味が持てて、話すことが好きで仕方のない人が出来る仕事であると。

まあ仕事なのでそういう「フリ」が出来るようになるまで努力するべきだったのだろうけど、自分にはどうしても苦痛退職を決意した。

この他にも色々原因はあったのだけど、退職たことに未練はない。

不思議お客様関連で嫌な思いをした記憶ほとんどないので、その点に関しては恵まれ環境であった。

ただ、もう販売員はしたくないと強く思っている。

それと同時に、接客業をしている人の凄さを日々感じるようになった。

いつもお疲れ様です、ありがとう

2017-11-28

朝弱い私の半生【追記あり】

朝に弱過ぎる私の半生について語りたい。

幼稚園時代

朝に弱い傾向は覚えてないが、この頃から超面倒臭がり屋。

確か、年長くらいまで母に着替えさせてもらっていたと思う。

母に、「こんな年になってお母さんに着替えさせてもらってるのなんてあなたくらいよ」と言われるけど、平均的な園児の平均的な着替えのスピードなどは分からない。

小学校時代

基本的に間に合わない、起きれない。

小学1年生頃くらいまではまだちゃんと登校班に間に合うように行っていた気がするが、学校が好きではない事もあり、徐々に「登校」に燃え尽きていく。小学6年生になる頃には、半分以上登校班に間に合わなかった。そういう時は、1人で走って学校へ行った。夏休みの朝のラジオ体操は、2回くらいしか行ったことがない。毎日行っていたという人がいるが、私とは全く別の種の人間だと思う。

中学校時代

ギリギリ登校。遅刻をする人がクラスメイトから悪口言われているのを見て、頑張って登校するが、やはりギリギリ。早く起きれないから、女子で仲良く登校しているグループに入れなかった。

無理やり身体を起こして、半分寝ぼけたような顔で学校に来るから、よく笑われた。髪とかも、ボサボサでみっともない事が多かったと思う。体力がなくて部活は辞めてしまった。夏休み冬休み部活練習も、行く気になれなかった。中3になり、受験で塾に行くが、せっかく授業料払っているのに疲れて寝てしまう。勉強したいのに、身体がついていかない。ここら辺から学校に行けないことが増えて行く。遅刻も増える。このあたりでうつ病っぽくなってしまった。志望校には受かったものの、おそらくこの時期に大きく心と身体を損ねてしまったと思う。

高校時代

眠い。授業に全く集中できなくなった。登校は、良くてギリギリでほぼ毎日遅刻。遅刻する自分が嫌で、遅刻する事に何か言われるのも嫌で、自己嫌悪もひどくなっていくし、登校日数すら危うい。学校生活に支障を来していたので、この頃から心療内科に通う。夜眠れる薬をもらったが、効きすぎて翌日さらに眠かったり、元気を出す薬も効きすぎて躁転したりした。本で発達障害のことを読んで、私はADHDではないか医者に言ってみたら、やはりADHDだった。しかし、当時はリタリン規制されてしまった時期で、ADHDの私の症状に処方する薬はなかった。

死にそうになりながら、受験シーズンがきて、やはり塾に通う。先延ばし傾向の強い自分は、塾に行かなければ勉強しないと思った。しかし、やはり言われたことをできない。夏期講習も、参加して勉強したいのに、起きれない。勉強のできる男子が、私のことを批判して、本当に辛かった。詳しくは書かないが、彼の言動は何年もトラウマになり、私を苦しめた。結局学校自体の成績も悪く、偏差値も伸びず、私は浪人してしまった。

浪人時代

再び、眠い。勉強しようにも、様々なトラウマが蘇る。しかし、週2で予備校に通っていたものの、週5回毎朝起きて、学校に通うという習慣がなくなったのは良かった。予備校は夕方だったから。元々面倒くさがりな私が浪人で勉強するわけもなく、よくネットをやっていたので、家族から批判された。しかし、座ることさえ苦痛になった私が、せめて熱中できるのが、ネットと本だった。

英語の音読はとりあえずやっていたが、私が早稲田慶応マーチにも受からないことは明らかだった。そもそも、この状態では社会人にとしてやっていけるかさえ危うい。「社会人になったら大変だよ」「社会に出たらそんな事は許されない」みんな言う。今でさえ大変なのに、これからもっと大変なのか。私は、本を読んだり、知識を頭に入れることが好きだ。だから大学には行きたい。しかし、その先、働いたとしても、上手くいかないのではないか

いつでもベットと本があった浪人生活。こんな風に、生きていけたらなあ。

昔は大学卒業して無職で家にいる女性は「家事手伝い」と呼ばれ、それなりにいたらしいが、今の世の中だとそれでは「ニート」だし、聞こえも悪い。家族も私の将来を心配するだろう。

もう一つ、大学卒業後「家でゆっくりする」生活を手に入れるとしたら、それは専業主婦になることだ。そして当時、婚活、という言葉が流行り始めた。結婚できない女性が増えているらしい。そして、奥さんが専業主婦できるくらいの年収の男性も減っているらしい。ならば、早いうちに準備しなければ。稼げて、かつ、生涯を共にしてもいいと思えるほど愛せる人など、きっと何年かに一度しか会えない。私は、こんな私をバカにし、理解しない家族や、嫌な思い出のつまった家を早く出たい。新しい家族が欲しい。幸い、私はまだ若く、容姿も良い。私の最大の武器

志望校は、早稲田慶応も受けたが、もちろん撃沈し、あとは男ウケの良さそうな女子大を受けて、その中の一つに合格する。この頃から婚活意識して志望校を選んでいた。(本当は高学歴学校に受かるのが一番良い。優秀な男にたくさん出会えるから。)

大学時代

受かった女子大は家から遠く、やはり朝がキツかった。2限より前の授業に遅刻せずにいけたことなんて、数えるほどしかないと思う。お嬢様で育ちの良い女子大生たちは、ほとんど授業をサボらず、皆真面目だった。服も髪もメイクも、本当にみんな綺麗。その中で遅刻しがちで、寝ぼけた顔で大学に行くのが嫌だった。相変わらず、どうしようもなく朝が苦手だった。もう、遅刻することとか、何か色々言われるのが嫌で、大学ではほとんど友達を作らなかった。

サークルには入った。音楽が好きなので、軽音サークルボーカルギターをやった。先輩になってくると、バンドを組んで、バンドリーダーという立場にもなった。歌とギターが上手くなりたくて色々頑張ったこと、人前で大きな声で歌ったこと、ギターソロができるようになったことは自分の中で大きなプラス経験になった。ここで、念願の優秀な彼氏もできた。男子校育ちでモサかったので、そこは私が磨いた。彼氏にもメンタル的に支えてもらい、いろんな事に挑戦するようになった。飲食店バイトギターを習う。ボランティア読書会浪人してしまったが、やはり大学には行って本当に良かったと思った。

就活

大学3年生の終わり、就活の時期がやってくる。ここでまた、私の朝の弱さと先延ばし傾向が炸裂した。

まず、ESが書けない。面倒くさい。要領の良い人は、「一応受けとく」レベルの会社でも、さーっと書いてさっと出す。私は、書けない。やりたくない。夜、書こうと思ってPC開いたは良いものの、書きたくなさすぎて朝になる。会社説明会は4割くらい遅刻。自己嫌悪で自信がなくなり、また受からなくなる、できなくなる。

結婚の話もちょくちょく出ていた彼氏は、やはり私が就職しない、というのは嫌らしい。旦那の親から見ても、優秀な息子の彼女が就職できず無職というのは、今の時代恥ずかしいのではないか。優秀な彼氏にふさわしい妻になる彼女として、どうしてもどこかに内定をもらい、就職しなくてはいけない。

自分が、社会に対して何ができるのか。今まで、私が褒められた事を思い出す。私は容姿が良く、友達は少ないものの、コミュ力には問題ない。元気で礼儀正しいと言われたこともある。ブラック低賃金と名高いが、販売職で明るく物を売ることならばできるのではないか椅子に座ることが苦手だから事務職視野に入れなかった。

確かに、彼氏もこの世の中、彼女が一度も社会人経験なく専業主婦になる、というのも不安だろう。ある程度社会を知ってから結婚した方が良さそうだ。

最後の方は一ヶ月に一回、会社を受けるというペースで、私はなんとか販売職に内定をもらった。

販売職時代

数年前炎上したブログに、「社会底辺の人とは関わってはいけません」https://ameblo.jp/akky-0829/entry-12188216276.htmlというのがあったけど、販売職はまさにこういう世界だった。いや、このブログはさすがに極端すぎるけど、残念ながら、大方賛同できてしまう。私はここで、巷で噂される「若くて可愛い子に嫉妬して悪口を言うおばさん」を初めてみた。一日中、イライラしている大人を初めて見た。それでも、人が足りないからと言う理由で彼らは雇われているのである。私は遅番が多く、昼から出勤が多かったから、朝の弱さは軽減された。しかし、基本的ギリギリ出勤ではあった。基本、先輩よりも遅く来た。出勤が昼とはいえ、30分も早く売り場にいることが生理的に無理だった。ある日、私の評価をつける人が、「店の準備」の評価項目にCをつけた。毎日商品の埃を払ってフロスなどを熱心にかけているのに、なぜここがCなのか。上司に聞いてみると、ギリギリ出勤だからだと言う。おいおい、そういう準備も、規定就業時間の中に入っているんじゃないのか。ギリギリでも、時間内に来てるんだから、せめてBでしょ。会社に、強く不審感を抱いた。

一方で、私は働く楽しさも感じていた。私は、よく売れる販売員となったからだ。それは、私の容姿愛嬌コミュ力のおかげだ。また、商品提案のための勉強も進んでした。そして、若い私は男性社員からも気に入られた。しかしそこがまた、先輩から気に入られなかった要因でもあった。いじりとしても、先輩からキツイ言動が増えた。その頃からまた、私は心療内科に通うようになった。当初の予定通り、専業主婦になって辞めればよかったが、人手不足の中、辞めて良いものかわからなくなっていた。まだ若い私は、色々なことが経験不足で、判断がつかなかった。

色々あって、ああ、もう、キツイなと思った時、退職を考えた。このころあたりに、結婚した。職場に行くのもキツくなったときに、休職し、傷病手当をもらって辞めた。旦那に養われながら、傷病手当をもらいながら、ゆっくり休むことにした。この頃、ストレスでガリガリになっていたが、念願の専業主婦になる夢がやっと叶った。

専業主婦時代

本を読む。RPGのゲームをする。ジムに行って、身体を鍛える。ギターを弾く。散歩する。

ささやかな、やりたいことを色々やった。この頃あった友人に、「なんか綺麗になったね」と言われた。

しかし、念願の専業主婦になったにも関わらず、私の中にはある思いがあった。

「このまま、20代半ばにして専業主婦で過ごしていて良いものか」

他の同年代はみんな働いている。そして、私はどうも、仕事ができない方じゃない。子供を産んだら、子育て中心の人生だ。それで良いのか。私は、働けばお金になるのに。

そこで、転職活動を始めた。しかし、職歴販売職のみ20代半ば既婚、いつ妊娠するか分からない私はなかなか良い職に受からない。しかもここでまた朝弱いが発動、面接もしばしば遅刻してしまう。

やっぱり私はダメなのかな。

そう思った矢先、親戚の保険のおばちゃんに声を掛けられた。正直、保険営業に良いイメージはなかったので断った。しかし、給料も販売よりずっとよく、女性が働きやすい環境で、福利厚生もしっかりしているという。とりあえず、面接だけは受けてみないか。そう言われ、とりあえずで受けに行くと、トントン拍子で面接が進み、あっさり合格。保険営業には抵抗があったが、他に受けた企業よりは条件が非常によかったため、挑戦してみることにした。

保険屋時代

最初は、毎日16時帰りで研修をした。保険についての授業を受ける。保険を売るための試験に受かったら(みんな受かる)いよいよ営業活動である

相変わらずのギリギリ出勤だが、このころ、やっと安定して朝9時の出勤時間に間に合うようになる。20代も後半に差し掛かり、やっと。

しかし、本格的に営業が始まると、やはり体力的にキツかった。荷物も重い。大抵の保険屋の女の人は、バッグを二つ持っている。一つは財布やポーチなどを入れるバッグ、一つは資料お客様の提案書など、書類を入れるバッグだ。自分が保険屋になると、他の保険屋が分かるようになる。保険屋さんって、いっぱいいるんだなあ。

1週間のうち1日は、出勤だけして、疲れて何もできない日があった。そう言う時は、カフェ図書館時間を潰して、適当報告書を書いて一日が終わった。情けないけど、この一日があったから、私は今まで続けられたと思っている。

数字の方だが、私は順調な方であった。しかし、その順調な数字も、多少無理して働いた結果であった。週1日は休む日を作っているとはいえ、疲労でキツイ日も多かった。それでも、1年は続けようと思った。保険営業でやっていけたら、他のこと何でもできるような気がした。自信がつくと思った。確かに1年は、私は頑張った。しかし、段々とまた、身体が弱っていった。風邪を引きやすくなったり、頭痛や腹痛も増えた。

私は愛嬌保険を売っていたと思う。愛嬌で近づき、仲良くなり、アポをとり、上司が提案する。しかし保険知識があるかと言われると、あんまりだ。形が見えない商品は、イメージしづらく、正直あんまり興味が持てない。飛び込みも、営業先の企業で知らない人を呼び止め名前と生年月日聞くのもキツくなってきた。

この仕事を続けて2年。同じ時期に入った同僚が半分以下になる中、私はよく頑張ったと思う。

今月、私は上司退職したいと申し出た。

最近は会社も休みがちになってしまい、今日も会社を休んでこの増田を書いていた。

私が今、会社を休みがちになってしまったのは、朝弱いにも関わらず、無理矢理にでも9時に出勤し続ける生活をして、また壊れかけてしまったのだろうなと思っている。

はいだって、他の人とは違うと言うコンプレックスに苛まされていた。普通になりたい、普通になりたいともがき続けた。一日中、寝っ転がって本を読むような生活だってしたかった。でも、誰かの役にも立ちたかった。いろんな思いがグルグル回って、色々やり続けた。

私は今、27歳。昔よりは色々落ち着いて、大人になった。自分のこともよく分かった。

ひとつ、これはもう辞めようと思ったことがある。それは、週5のフルタイム労働だ。体力的にキツイし、学校でも、会社でも、週5で何かして良い結果を残したものはない。幸い、旦那高収入から基本的には週5でフルタイムで働くことはなさそうだ。しかし、人生何があるか分からいから、お金を稼ぐ手段は手に入れたいと思っている。

いや、それにしても、私は生きてきた。思うに、色々やっていれば、人の能力は年々高まって行くものらしい。朝9時出勤も、ずいぶんできるようになったし、寝つきの悪さもかなり改善した。仕事終わりにササっと美味しい手料理を作り上げた日など、旦那からはあまりの変わりように「お前は誰だ」と言われたものだ。

欠点があっても何とか色々頑張ろうとがむしゃらに生きた結果、今があるのだと思う。

誰がこの増田を読んでいるかからないけど、読んでくれた人、ありがとう


【追記】

書いた当初、自分としては力作に関わらずあんまり反応がなかったので、残念な気持ちになっていたのですが、昨日夜見たら色々反応があって嬉しかったです。

反応をいただくのは何でも嬉しいですが、「読んでよかった」「人の半生は面白い」「頑張ったね」などの言葉は特に嬉しかったです。

ありがとうございます普通の人が普通にやっている事が私にはとても辛く、例えできたとしても世間では「当たり前」ですから、自分が頑張っていることが認められていない気がしていたのです。本当に、ありがとうございます

元増田が能力が高い、勝ち組、若くて容姿の良い女はイージーモードだと言う声について

まずは、ご意見ありがとうございます

あの記事は、また会社を休みがちになってしまい内面的にもグダグダになり、誰かに自分がADHDであり、朝が弱く、辛い人生を送ってきたと言うことを誰かに急に吐き出したくなり、衝動的に書いてしまったものです。

匿名ダイアリーからこそ、自分は実は発達障害で〜などと秘密にしていることも話せるように、「私は若くて容姿が良い」など、現実世界ではちょっと言えないようなことも吐き出すことができます。普段人に言えないようなことがかけるからこそ、魂の叫びのような記事を読めるのも、増田醍醐味だと思います

知り合いには誰にも見せない日記から、私の良いところも、悪いところも正直に書きました。日本謙遜する文化から、はっきりと「私は容姿が良い」などかくと、自慢に聞こえてしまったかもしれませんが、私の人生を語る上で、これは重要ファクターでした。

正直、私は発達障害者にしては恵まれている方だと思います。しかし、これはあくまで「発達障害の中では」と言う話であり、やはり人一倍辛い人生を送ってきました。

この記事コメントにも死にたい、とありましたが、死にたい、と思って死ねる人なんてほぼいないと思うのです。私は小学校低学年の時から死にたかったですが、結局、人間苦しくてもよっぽどのことがあっても死ねないのです。死ねなかったら、生きるしかないじゃないですか。それも、なるべく苦しくないように。

から、私は自分が持っているものを、最大限使おうと思いました。その事実を書きました。

自慢したかったのではなくて、「そうやって生きてきた」と言いたかったのです。

あと、ちなみにイージーモードではありません。

美人からと言って何でも許される訳じゃないんです。

それに、遅刻はするわ色々ミスするわなのに、「可愛いから」もしくは「イケメンから」という理由でモテてたり、かわいがられる同性の同僚がいたら、ちょっと嫌じゃないですか?なんか悪口言いたくなりませんか?私だって、そんな人が周りにいたら、少し黒い感情が湧きます容姿の良さが仇となることもあるのです。

・そこまで朝弱いのは起立性調節障害や低血圧では

血圧は十代のころから低めでしたが、目立って低い訳ではありませんでした。

大人になって、疲れやすいと言うことで甲状腺の病気を疑い、検査したりしたのですが、結果は到って健康でした。正直、体のどこも悪くないのです。

しろ今の会社の上司が、女性営業職10年と言うことでかなりバリバリ働く人なのですが、健康診断の数値で低血圧で引っかかっています。しかし、普通にバリバリ働いています。本人曰く「気合い」だそうです。体の色々な数値よりも、結局「気」と言いますか、生命エネルギーのようなものの方が大事そうです。私には、それが足りないようにも思います

起立性調節障害については確かに、十代の頃、親が調べてくれればよかったな。。。肝心の母は私が朝全然起きれないことを母の母(つまりおばあちゃん)に愚痴ってた。。。私が発達障害な事もあんまり認められない感じだったし。父母共に優等生だった故か。もう過ぎた事だけど、書いてて悲しくなってきたわ。もうフルタイムでは働かないって決めたから、もう治療する気もないけど、子供の時に親がもっと色々やってくれればと言う思いは確かにある。学校が辛くても、せめて家庭だけでも私を受け入れてくれたら。子供の時の記憶は、悲しい事ばかりです。

・朝の時間を守ることを以上に重要視するせいで道を踏み外す人が結構いると思う

私もそう思いますそもそも人には色々リズムがある訳で、全員朝9時出勤と言うのも無理があると言うのも同意です。遅刻する人に対する嫌悪も、「自分は周りに合わせてこの時間に来ているのにお前はゆっくりしやがって」という嫉妬なのかもしれません。

あと、大学の授業でやったのですが、日本人はとても均等性を重視するのだそうです。なので、その観点からも、遅刻をする人は「均等を乱す」ため、好かれないのもしれません。

・朝起きれないのは自己肯定感の低さが原因だった

自己肯定感が低いと、全てにおいてレベルが下がりますよね・・・私も、旦那暮らしから急速に成長したように思います。これから私はしばらく子供も作らず好きに生きる予定ですが、それは自分の自己肯定感を上げるために、必要な期間であるように思います

・小規模な会社なら増田の働けるところがあるかも

そうですね・・しかし、周りの人たちに聞きますと、大企業より中小企業の方がブラックなところが多いようで、就職先として探すのは尻込みしてしまいますコメントをくれた方は人を雇う立場なんてすごいですね。何かのご縁があり、あなたのように寛容な人の元で何かしら活躍できればそれはとても素晴らしいことだと思います

2017-11-19

anond:20171119173721

何のスキルもなしに挑んで何年も食いつぶす事になる職に就く人,不思議だよなあ.

たぶん何も考えてない,というかそういうのを考えるべき機会がなかったんじゃねえかなあと思ってるんだけど

どうなんだろう.今までは社会的にそういう能無しも助けられるお金があったんだろうけどこれからはどうなるんだろうか.

販売員とか,接客とかからドロップアウトした30~40代無能は一番切り捨てられる対象になるんじゃねえかなあなんて思う.

ただの販売員、例えば飲食とか服飾とかそういう関連で

ただの販売員をしている人はどういう流れでその職業についたんだろう?

転職とか、どうやってるんだろう?

建築とか土方の価値はわかる。しんどそうだし。

でもぬるいショップでぬるそうに接客してる販売員

つぶし効かなくね?給料安そうだし。


誰でもできる、安月給の仕事に甘んじてる人の心理がよくわからない。

馬鹿にしてるとかじゃなくて、ほんとにどういう心理なんだろうという疑問。

2017-10-26

anond:20171026121650

資生堂は、女性販売員が売り上げの生命線の多くを占めるから、反応や対応ビビッドだったんじゃないかな。

販売担当はある種プロフェッショナルから本来いわゆるホワイトワーカーのような縛られたワークスタイルキャリアプランである必要もないしね。

落ち着けば双方色々あったけどそれなりの着地点を見つけられたね、って感じなんじゃないかと思っている。

そういうプロフェッショナルポジションじゃなくて、ゼネラリストポジションだったりすると、

資生堂のような「割り切り方」は労働者サイドも企業サイドも出来ないだろうし、

一方で、人手不足は相当深刻な状態なので、なし崩しに、ホワイトワーカーの働き方やキャリアプラン多様化がずるずるだらだらといつの間にか進むのが、

個人的には理想だなと思ってるんだけどねー

あと~10年で、バブル入社組が「あがり」になるし、雇用機会均等法第一世代も定年なんだよ。その辺でまた変化はあるだろうし。

2017-10-22

死ななきゃいけない気持ちに振り回されていた僕のお話

内面の整理のために吐き出しています、その関係上乱文になってると思います

僕の中学時代地獄だった。

間違いなくあそこに地獄があった。

少なくともあの時の僕にとっては地獄だった。

虐められた、とても虐められた。誰も味方がいなかった。

虐められるターゲットだった。友人は居なかった。一人だった。

家の中にも安らぎはなかった。家もまた気を張る場所であった。信頼ならない場所であった。

母は精神障害者だった。弟は知的障害として小学校の時分から養護学級の者として生きていた。父はそんな二人の世話に明け暮れていた。

とても頼ることなど出来なかった。

学校では「死ね」「キモイ」そんな言葉がずっと浴びせかけられていた。常に居場所がなく、昼休みは別の校舎の廊下音楽室の陰といったひと気のない場所避難する時間であった。

とても辛かった。そんな場所だった。

部活小学校の時にサッカーが好きだという理由サッカー部に入った。大失敗だった。

部活にも勿論居場所はなかった。選ぶ場所を間違えた。

部活中にも時折、野球部の方からボールが飛んできて僕に当たっていた。たぶん、ぶつけられていたのだと思う。頭に何度も当たっていた。とても辛かった。

中学校1年の2学期から休みがちになった。1学期でも体調を崩しがちであったが、休むために休んでいたのはこの頃だったように思う。

とても行くことが嫌だった。そんな風に休むものから勉強も遅れがちになった。宿題が溜まったのもより行きづらさに拍車をかけた。

英語がついていけなくなった。

家は貧しかった。貧しいが故に常識も知らなかった。小学校宿泊研修で初めてリンス存在を知る程度には貧しかった。

とても閉じていた。服もなく、娯楽を知らず小学校夏休みの絵日記に苦労していた、そんな記憶が残っている。

旅行に行く人達を羨ましく思いながら、隣町の祖父母の家に行く位が一番の遠出だった。

どんどん私は中学校に行けなくなっていた。田舎中学校故だろうか、治安もよくない学校であったのも一因だったとは思う。

通学の自転車指定自転車だったが、指定の物ではないものを買い与えられ、そのことがまた虐めの原因にもなっていた。

通学することが苦痛だった。

家の中では良い子でなければ、迷惑をかけないようにしなければならず、学校には居場所がなく、そんな状況が続いていた。

中学1年の三学期にはほとんどいけなくなっていた。ひたすら虐めの恐怖に怯えていた。布団の中でまるまって何故虐められるのか分からず、相談できる相手もいない、一人で苦しみ続けていた。

家の外に出るのが怖くなっていった。休んだことを揶揄されることもまた恐怖だった。ひたすらに家の中で時間を過ぎ去るのを願っていた。夜になってようやく少しだけ外に出られるような有様であった。

中学2年には全く通うことができなくなっていた。申し訳ないと感じつつも動くことができなかった。昼に父が職場から帰ってきてお昼の支度をしてくれる時間が僅かばかりの気晴らしといった毎日であった。

中学3年のころには少しだけ保健室登校のようなことをしていた。それでもほとんど休んでいた。勉強についていけなくなっていた。将来の恐怖に押しつぶされていった。

受験があった。とてもできず、また遠方へ通えるような財力はなかった。地元の県立高校に進学した。

高校に入った。周りは大人になっていたからか、虐められることはなかった。だが、僕自身人間不信になっていた。やはり一人だった。

そして、とても落ち着かなくなっていた。

授業中に突然笑いだすようなこともあった。エア友達脳内会話して笑いがこぼれていた結果だった。

ギャップを感じていった。普通が分からなくなっていった。休むようになっていった。精神科へ通うことを勧められた。ここで初めて通うようになった。

月イチでの通院の日々だった。それでも行けないことには代わりはなかった。

出席日数が足りなくなっていった。補修を受けるようになっていた。補修にも行けなくなった。単位を落としてしまった。通わなくなった。

単位複数落ちてから、一つだったら頑張ればなんとかしてあげれたと言われた。もう遅かった。手遅れだった。

留年するか転校するか退学するかの選択肢となった。金銭上、転校することは出来なかった。そのまま退学することになった。

高校に入ってからしばらくしてから与えられた携帯ネット依存するようになっていった。

普通じゃなくなっていく苦しみを誤魔化していた。なんとか逃れようとしていた。

ネットに居場所を求めるようになっていった。その間は少しだけ救われていた。

現実は苦しかった。

将来への絶望は消えなかった。

父母弟の介護をしつつ、田舎から出られず永久にそのまま終わるようにしか思えなかった。

ネットへの依存は加速していった。

17になった。心を誤魔化すためのゲームで繋がりができていた。オフ会に参加することになった。

オフ会に参加するのが唯一の遠出だったと思う。

隣の県まで電車で行った、少しだけその時は救われていた。

18になった。早く頑張らなければ、何かしなければという焦りと苦しみがちりちりと焦がしていたが見ないようにしてゲームに没頭していた。

19になった。オフ会で会った友人たちが大学生になっていった。僕は一人取り残されていった。

また一人になった。

一人の時間が長くなった。その分だけ余計に焦りと苦しみが増していった。向きあおうとして、オフ会の友人との繋がりを控えた。

より苦しくなっていった。薬に甘えないようにせねばと思ってあまり通院してなかった時期でもあった。

夜に原付飛ばしてみたり、自分なりの反抗をしていた。それでも苦しさは消えなかった。

夏の終わり、自殺を図ろうとした。海の近い町だった。このまま砂浜から海に入っていけば泳げない自分死ぬのではないかと感じていた。

服が海水を吸って重くなっていった。明確に死の恐怖を感じた。このまま自分が死んでいなくなる恐怖だった。この世から消え去りたくないと感じた。

砂浜へ引き返した。びしょ濡れのまま、一人家に帰った。自殺しようとしたなんて打ち明けることなど出来なかった。

死ななきゃいけないという感情はそれでも消えなかった。僕は考えを捻じれさせていった。

死ななきゃいけないなら、自分自身死ぬことを納得できる人間になろうとすればいいじゃないかと考えるようになっていった。

当時のニュースの影響もあって、大量殺人者に憧れるようになっていった。ああすれば死ねる!と。

30になったら行おうと思っていた。そこまでの命ならと思って、散財するようにもなっていった。

課金ゲームにハマっていった。諫められても、助けてくれなかった親への恨みから正当化していった。

深みにはまってどんどん続けていた。

20になった。成人式を迎えた。流石に焦りを迎えた。

バイト探しをするようになっていった。田舎から求人は貴重だった。

毎度のごとく落ちていった。

21になった。レンタルショップバイトに受かった。バイト代はすべて課金ゲームにつぎ込んでいった。

22になった。僕はバイトのままだった。世間就職にまた焦っていった。

23になった。友人の誘いで地元原発作業員になった。入ってウキウキ気持ち原発への嫌悪感がごちゃ混ぜになっていた。

半年で辞めてしまった。よりヤケになっていった。クレカ借金を作れば自分死ぬことに納得いくだろうと破滅的な行動が増えていった。

24になった。転職サイトで中途で入社した。ネット販売員だった。営業だった。件数全然取れなかった。頑張っても取れなかった。

頑張ることの意味が分からなくなっていった。努力しなくなっていった。ネットへの依存は深まっていった。

グループ内で転籍させられた。借金は増えていった。死にたくてたまらなかった。

25になった。課金ゲーで出会った友人に職に誘われた。僕は後先考えずに飛びついた。殴られるような営業から逃げられると思った。

転職先は良いところだったが付いていけなかった。そのころにはもう考えてもストレス意識が飛ぶようになっていた。

転職先を辞めてしまった。

無職になった。生活保護を受けるようになった。治療を受けても、あまり合わなかった。借金は残ったままだった。

四か月経ち、今日バイトを始めた。あまりのおぼつかなさに愕然とした。

死ななきゃいけない声が聞こえていた。今までは、周りを批判的に見たり、自分の実力を弱く見せたりして補助を貰おうとして誤魔化していた部分も遂に終わりを迎えた。

虐められていたときに亡くなった祖父母へのお別れの気持ちも1週間ほど前に整理がついた。

中学のころからの死ななきゃいけないを外すときが来た。そんな風に思えた。

借金は今、自己破産手続きが進んでいる。

2017-09-28

海外水虫薬を使った記憶

随分前にツアータイに行った時、市内観光ショッピングが組み込まれていた。

薬局に連れられて行っても興味のあるものはほぼ無かったが、

日本人販売員説明している「アメリカ軍隊でも推奨されている水虫の薬」と言うのが気になった。

「一度使えば治る。全ての水虫菌を消滅させるので、再発しない」みたいな事を言っていた。

日本人観光客相手にしている日本人販売員から、売込みが上手いのは当然だったのだろう。

俺の水虫は大したものではなかったが(皮がぽつぽつ剥ける程度)、

夏になると嫌な思いをするので試してみようかと思った。

ただ、一回使用すれば完治するというのは胡散臭かったが。

で、日本に帰ってから風呂上がりに試してみた。

200ccも有っただろうか、透明な液体をビニール袋に入れて、片足ずつ、

数十秒だか数分だか浸けておけと言うものだった。

最初に左足を入れてみた。数秒後、焼けるような激しい痛みを感じつつも我慢した。

え、これやばいやつだったかなーと思いつつ、水洗いした。

片足だけじゃしょうがいから、右足もやった。やはり焼けるような激しい痛み。

呻きながらも規定時間我慢し、水洗い。

両足の裏はびりびりしていたが、これで水虫の薬を付ける手間から解放されるなら、いいかな位に思っていた。

足の裏の皮が収縮したような感じで、少しぱりぱりするような、変な感じだった。

その夜は、足の裏にびりびりする嫌なものを感じつつ、寝床に就いた。

翌朝、大変な事になっていた。

足の裏がパリパリで、手で触ってみると、皮膚の表面はプラスチックのようにツルッツルになっていた。

歩くのに支障が有るほど、足の裏の表面は弾力が無い。足の裏が曲がらないのだ。

靴下を履いて歩こうとすると、靴下の中で足が滑るため、上手く歩けない。

えー、どーしたらいーのこれ。

でもどうしようもない、なってしまったものは直ぐには元に戻らないのは明白だ。

数日間後、皮は剥がれて新しい皮になるまで耐えるしかない。

仕事中、妙な現象に悩まされた。

手汗が凄い。夥しい量の手汗が出る。普段から手汗は掻く方だが、半端な量ではない。

何故こんな事になったんだろう?と考え始めて暫く後、解った。

いつも掻く足裏の汗が全く無い。靴下ドライだし、足裏はツルッツル。

足裏の皮膚が焼かれているような状況で、汗腺が全て閉ざされていて、

体温調整か何かの為に足裏から出るべき汗が出ず、掌から出始めたのだと想定される。

業務上、手汗は厳禁なのだが、どうしようもないほど夥しい量の汗が出てくる。

本当に参った。

数日後、足の裏の皮膚がパリパリになって割れてきた。

綺麗にペリッと剥がせるかと思ったが、斑になって剥けてこ汚かった。

焼かれた皮膚がすっかり落ちるまでには、十日以上掛かったと思う。

で、完治したのか?

暫くの間は、皮膚が白く丸くなって、風呂上がりにふやけて剥けるような、

以前の水虫の症状は無かったと思う。

でも、2、3年後、いやもっと経ってからだろうか、ぽつっと出てきた。

痒くは無いのだが、風呂上がりにふやけて剥けてしまうあの症状だ。

もうタイに行ってもあの薬を買う事は無いなー。

それより、既に販売製造も終了しているかもしれない。

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