はてなキーワード: エンブリオとは
おいィ? どうして流行らないのかと言うと、例えば新しく作られたアニメが古株イラストレーターとの折衝で揉めてグダグダなスタートを切った辺りで既に炎上してたりしたこととか、むべなるかな、その後のアニメの展開もイマイチブギーポップの魅力を伝えているとは考えられない展開が続いて、あんまりインパクトを与えずに実質的なアニメ二期が終了してしまったこととかに問題があった気がする。とは言え十話を筆頭に面白い回もなくはなかったんだけどね……アニメ陣営の努力は認めるんだけど。
でもとりあえず第一作の『ブギーポップは笑わない』から第十作の『ジンクスショップへようこそ!』までは個人的に安心しておすすめできる作品である。是非皆さんも読んでほしいんだけど、個人的に特にオススメなのは第二作の『vsイマジネーター』と第五作の『夜明けのブギーポップ』。第六作の『ペパーミントの魔術師』それから第七作『エンブリオ侵食・炎生』辺りかな。繰り返すように第十作まではどれも満遍なくオススメできるクオリティではあるんだけれど、個人的にはこの辺りがオススメです。あと旧作アニメは個人的に好きなんだけどマジで人を選ぶので一旦忘れて下さい。
基本的にブギーポップシリーズにおいて重要になってくるのは、「人の痛み」です。
とは言え、現代においてはその主張は弱いのかなあ。
増田において、「痛み」が主題になっている記事って結構多いんだけれど、しかしそれは基本的に相手とのコミュニケーションを前提とした提示じゃなくて、「オラァ! 俺の痛みオラァ!」「何の! 私の痛みオープン!」みたいなある種のバトルの媒介として「痛み」が用いられている気がするんだよなあ。例えば、その痛みを媒介に他の痛みと繋がったり、あるいはお互いに痛みを癒やし合ったりといった、本来の「痛みの提示」の役割からはズレた役割において、増田の「痛みの提示」が行われているようでならないんだよなあ。
いや勿論ある程度本来の意味で痛みの提示が行われている部分もあるんだけれど、結局その痛みの提示は、大局としてのバトルの構造に包摂されちゃうんだよね。痛みがラベリングされて、そして戦いの場へと引きずりだされてしまう。例えば、「フェミニズムと反フェミニズム」みたいな対立構図に包摂されちゃう感じで、結局個人的だったはずの痛みが戦いのための尖兵として利用されてしまう。なんかラノベの世界設定みたいですね。そんなこんなで、人は本来癒やしを目的として痛みを語るべきところで、むしろその傷を、痛みを与えそして自らを傷つける為に用いてしまっているんですね。というかブギーの話はどこにいったのか俺。
というわけで、こんな時代だからこそブギーポップが効力を発揮するんじゃないかと思う。ブギーポップ。ブギーポップで主張される「痛み」は、人と人との距離を縮めるための「痛み」なんですね。人と人とがお互いを理解するために「痛み」が提示され、そして、他人の痛みを直視した途端に自分の痛みの存在に気付いたりとかする。とかくブギーにおける「痛みの提示」のプロセスは「痛み」の治療に集中しています。痛みって本来そういう風に使うのであって、特に現代においてソフィスティケートされた痛みを、我々は効率よく使っていかなければならない。少なくとも、その痛みは事態を悪化させるためではなく、改善するために、痛み自体を癒やすために、使われなくてはならない。
そう、現代はブギーポップの(必要な)時代と言ってもいいんじゃないかと。
いやしかしアニメ二期が思いのほかインパクトを残せなかったことが辛いなあ。面白いアニメを作る作業って凄い難しくて、何せアニメは一人で作ってるわけじゃなくて無数の動画マン・動画ウーマンと原画と絵コンテ切る人と監督とかの緊密な連携が必要なんだけど、それを高レベルで実現した作品と殆どないよね。カウボーイ・ビバップとかエヴァンゲリオンは面白かったなあ。個人的にはブギーポップとかと同じような意味合いで輪るピングドラムが好きです。それはそれとして、あああああもうちょっとブギーポップは流行っていてもおかしくないんだよなああああ、現代の潮流にも大枠で一致してるのにいいいい。なんで?
(前)
https://anond.hatelabo.jp/20191209210931
演出:のがみかずお
霧間誠一のもとに届いた一通の手紙。その手紙には、自らの死を予言する言葉とともに、霧間誠一への感謝が綴られていた。
霧間誠一の本と出会ったことで、ずっと隠してきた生まれもった才能を少しずつ世に現そうと考え、その結果、社会の敵となってしまったことから、最後にお礼を述べるために手紙を送ったという。
この手紙のことが気になった霧間誠一が、友人である榊原弦に調査を依頼すると、手紙の差し出し人は手紙を送った翌日に命を落としており、彼には本当に不思議な能力があったことが明らかになる。
原作4話「パブリック・エナミー・ナンバーワン」及び5話「虫」前半に相当。
この構成では「パブリック〜」はかなり割りを食いそうなものだが、出来事自体の省略は意外なほど少ない。元々が短い章であり、霧間誠一の内面での考察等が多めだからだろう。
霧間誠一と水乃星透子の出会い。
セリフ含めて流れは概ね原作通り。ただ、原作では「少女」の正体は章終盤まで伏せているが、アニメはここで既に水乃星の顔を見せている。どうせ声の問題で隠しようがないので、これで正解だろう。
また、原作のこの時の誠一の容貌は「どう見ても怪しい不審人物」となっているが、無精髭こそ生えているもののそこまでではない。
原作の初読時にも、それまでの巻で(架空の)著書の引用やエピソードから形成されていた尖った印象からすると、本人は物腰が柔らかくて意外に感じたことを思い出した。
「かなりの美人さん」というか、あざといほどのかわいらしさ。「黒っぽい服を着ていて、長い髪の毛を額の真ん中で分けて」という記述にも忠実。高校生時同様、黒ストを着用している。一種のトレードマークか。
誠一が受け取った読者からの手紙が、本人の声で読み上げられる。
アニメ本編内はもちろん、原作でもこの時点では名前は不明の少年だが、エンドクレジットでは後の「エンブリオ」で明かされる「キョウ」の名前で記載されている。これは「エンブリオ」も何らかのメディア展開があり得るのではと、一部で期待されたのだが……
誠一の友人であることは分かるだろうが、格闘家で凪と谷口正樹の師匠、という情報はアニメ本編だけからはさすがに伝わりづらい。出番がここだけなので、分からなくても特に問題はないのだが。
中学生からさらに順当に幼くした、という印象。エプロンをしていることから、この後の夕飯は凪の作ったもの。
当番制なのかもしれないし、誠一の生活力の無さの表現でも別にいいのだが、小学生の娘が洗い物をしているのを座って見ている父親という図は、どこかの方面から怒られそうで心配になる。
死を覚悟した誠一が、いざという時は弦を頼れと凪に告げる会話はカット。
アバンの続き。基本的に二人が会話するだけのパートだが、何度か水乃星が誠一との距離を変化させる動きがアクセントになっている。
ハッとする水乃星。
オリジナルの質問。この後に、本来はもう少し前の位置にあった誠一からの質問を問い返しとして置くことで、水乃星の名乗りで前半を締める構成になっている。
水乃星といえば笑顔だが、ここでの表情はどうしても「ドヤ顔」と呼びたくなる。幼い頃からラスボスはラスボス、という貫禄としてアリ。
というテロップをここで出せれば最高だったのだが、英題どころか章タイトルそのものが未使用ではしかたない。
原作の章構成自体にある程度そういう意図があるとはいえ、霧間誠一の死を媒介にして「パブリック〜」から「虫」へ自然に繋ぐのは上手い。
振動能力による内臓破壊という説明は特に無し。「笑わない」編で表向きの死因(「胃穿孔による内臓溶解」)が語られることもなかった。
原作では「笑わない」で既出のセリフだが、アニメはここが初めて。
隠れ場所を「書斎の隣の書庫室」から変更したことで、遥かにインパクトがある画になった。
原作でこのとき回想していたのは、キョウの死に際の方。そちらもすぐ後に回想がある。
原作ではこの時点で既に黒いつなぎを着ているが、聞き込みなどをする格好ではないと判断したのか、黄色いパーカー等に変更。
佐々木の表向きの立場の名刺。第一食品という会社名はオリジナル。
原作では、強化された視力で500メートル先の二人もはっきり視認、というシーンだが、普通の距離になってる?
後の伏線だけあって、しっかり戸惑った演技になっている。
後ろ数文字は画面外。
年齢を聞かれた凪がしれっと26と答え、佐々木が「こけそうに」なる流れから変更。ギャグっぽくなり過ぎることを避けたのか、簡潔にして尺の節約か。
このセリフからの連想で凪が前話での来生とのやり取りを思い出し、さらに里香が凪たちと出会う直前の来生との遭遇を語る、という一連の流れはオリジナル。
原作の「君の父親を殺しているんだぞ」に相当する感情を込めた、硬い声。
原作では、凪が来生にたどり着く根拠がやや薄いので、来生自身が情報を与えておびき寄せたというアレンジで補強したものと思われる。
(次)
よくできたまとめ。
かくいう自分はロストメビウスあたりで離れた組(※と、いいつつ結局今でもどこか目の端で作品群を追いかけている)
このあたりの解説もまさに増田の言うとおりで、作品のテーマが難解になって、作者の言わんとしているところと作品読了後の自分の得たいカタルシスが一致しなくなったため。
自分がブギーポップに求めていたのは第一に『笑わない』のような多重構造のミステリーを通して語られる世界というものの複雑さと適当さに圧倒される閉塞感。
第二に『パンドラ』『ホーリィ&ゴースト』『冥王と獣のダンス』『ビートのディシプリン』『ナイトウォッチシリーズ』で示されるような、閉塞的な世界において個々の人生という名の運命=<試練に立ち向かう戦士>の話。
第三に、前項ふたつの要素が組み合わさって終幕を迎えた物語におけるカタルシス。
初期作品は間違いなくこの三つの要素で形作られていたといっても過言ではない。
そして著者のあとがきで語られる分析と考察と独白みたいな結論(通称:上遠野節と言われる)がこのカタルシスに絶妙な味を与えてくれて、二週目以降の読破にも興が乗る。
このカタルシスだが、二期後半以降かなり薄れる、
具体的にはまさに増田が触れているとおりで、ロストメビウスとそれ以降の作品群。
『世界の謎要素』が強くなった二期以降のブギーポップにおいて、ロストメビウスは作品群として重要な位置づけにはなりえても『戦士』よりも『世界の謎』を優先したために作品単体としての完成度が低い。
そのわりにロストメビウス以降も大筋でブギーポップの世界観に進行があったということはないので、かなり肩透かし感がある。
そして二期作品以降はこの傾向が加速して、世界観に一切進行のない肩透かし感(「結局あれはなんだったのか」)が続く。
その原因について、ブギーポップを含む作品群についてを含めてこのblogがすばらしい考察を書いているのでリンクを張っておく。
http://gentleyellow.hatenablog.com/entry/2019/01/03/135038
もともと上遠野氏の作風はストーリー自体がもともとスタンドアローンで、ストーリー同士をつなぎあわせることで全体が見えてくるというミステリーみたいなスタンスだった。
つまり最初期における『笑わない』で用いられていた手法が、今度は作品群全体において用いられるというスケールアップが面白かった。
したがって、巻が進むごとに世界の謎が徐々に解き明かされるというミステリーっぽさが熱狂的なファンを生んだ。
しかし二期後半くらいから過剰になってきたために、年単位で放置されてきた伏線が増えてきたことで、作者の中でネタの賞味期限が切れてきた、というのが正直なところではないだろうか。
この賞味期限の切れ具合から起こったネタの在庫整理が、そのまま上遠野氏における二期、三期の切り替えの時期に一致している感じがある。
したがってこの賞味期限切れの結果、世界の謎要素は徐々に手仕舞いしなければならなくなる。この手仕舞いが「ヴァルプルギスの後悔」である。
ではそれ以降のブギーポップはどうなるのかというと、作品全体を覆う世界の謎がなくなってしまったので、あとにはスタンドアローンになったストーリーしか残らない。
筆者が特にこの傾向を感じたのは「沈黙のピラミッド」あたりであり、確信したのが「化け猫とめまいのスキャット」あたりである。
この辺になってくると、もはや世界に謎がないのでスタンドアローンで作品を見ていく以外に楽しみ方がない。
もともと外伝作品とスピンオフのかたまりだけで構成されていたブギーポップシリーズが、それでもシリーズの体を保っていたのはブギーポップの存在と世界の謎だったのだが
世界の謎がなくなったことで(※まぁ、振り返ってみるともともとそうではあったのだが)ブギーポップシリーズが明確に単純なスピンオフの塊シリーズとなった。
類似作品としては「地獄少女」みたいなものだと思ってもらうと分かりやすいだろうか。
ブギーポップの魅力が一番詰まっているのはやっぱり原点である「笑わない」とそこに連なる初期9作品、ロストメビウス手前までの二期前半だと思う。筆が載ってた時期が一番面白かった。
個人的には「ビートのディシプリン」シリーズこそ真骨頂だと思っている。<世界>と<戦士>の構図をカタルシスと共に描くことにかけては著者の作品でいまだ右にでるものがない。
時系列的にも世界の謎がもっとも沸騰していた頃だったので、ここまでは大きな流れが見えて面白かったように思う。
二期後半以降から作者はたぶんブギーポップ関係とは別作品を書き始めて、ブギーポップの位置づけが自分の中で変わってしまったんだと思う。
やりたいことをやるために別の枠が用意されているなら、ブギーポップではもはやそれをやる必要はない。特に<ヴァルプルギスの後悔>という大仕事を終えてからはそれが顕著である。
したがって初期作品に見られたカタルシスは二期作品と並行で書かれた著者の別作品できちんと得ることができる。
たとえば<戦士>と<世界>の構図の代表作であれば『冥王と獣のダンス』や『ビートのディシプリン』『ナイトウォッチシリーズ』
そして<世界の謎>=ミステリーであれば『しずるさん』『ソウルドロップ』があげられる。
つまりこの辺から上遠野さんは、やりたいことがいろいろとできちまってブギーポップについてはとっちらかし始めた感じがあり、最終的にもともとそうであったようにスピンオフとスタンドアローンストーリーの寄せ集めに落ち着いた感じがある。
すでに二話まで見てみたが、まぁこんなもんなのか?という感じ。
もっとカットを多様してキーワードとなる台詞にはキャラクターの口元を映したり、必要なシーンを瞬間的な回想で一瞬だけ挿入させるなど、雰囲気を出すためにシャフト的演出が必要なのではないか。
シーンごとのつながりは見た人に分かりやすいつくりにはなっていると思う。
ただ木村君を出さないのはどうかと思う。「笑わない」を読んだことがある人にはわかると思うが、通しで読むと途中までは単なる青春ストーリーでしかなかったものが
木村君のチャプターから徐々にストーリーの肝へと近づいていく、いわば切り返しのチャプターなのだ。
というよりそもそも三話か四話程度で「笑わない」をやってしまう今回の計画自体に無理があると思うのだがどうなのか。
聞くところによると中盤から後半は「vsイマジネーター」をやる予定らしい。
上遠野氏にとって間違いなく重要な存在だったイマジネーターだが、多分筆者の雑感ではおそらくまだこのテーマは著者の中ですっきり終わってないまま放置されている。
原作がまだすっきりと終えていないものをアニメ化したところで面白い話になるはずもない。
個人的に監督に対する批判としては、アニメ化するなら上遠野氏の作品のなかでもスタンドアローンできれいに完結しているものを選ぶべきだった、と言いたい。
何かと話題になる『笑わない』とか『イマジネーター』ばかりに目をやるのではなく、形としてワンクールに綺麗に収めやすい初期の作品なら
『ペパーミントの魔術師』『ホーリィ&ゴースト』『エンブリオ侵食・炎上』『パンドラ』があったではないか。
初期作品の趣を正当に継承しつつ、ワンクールという短い話数でまとめやすくきちんとカタルシスを与えられるストーリー強度を持っているのは間違いなくこの四作品だ。
三期以降の著者の作品は手にとっていないので分からないというのが正直な感想だが
懸念していることとして何点かあげておきたい。
成熟期~衰退期にある現在の日本は、当時の熱狂からの急速の冷却時期をある種越えて、落ち着いた感じがある。
またITの広がりを受けて知識を得ることが一般かつ容易になったために、今まで知らなかった社会の謎や不満、不安が解き明かされつつある。
少なくとも「自分の感じていること」が何なのかを社会的な構造や論理できちんと説明できるようになった。「何がなんだか分からなかったもの」から、少なくとも「原因はこれなんじゃねえか」と言えるような、手触りのあるものにまで落ち着いてきた。
そしてエヴァで示されるような自分自身の心理的な問題や、ガンダムのような社会と自分との対決ではなく、もっと普遍的なある種受け入れざるをえないような構造上の問題として理解されつつある。
働き方も人生に対する考え方も将来に対する展望も、今の若い人たちはよりリアルで現実的だ。
自己実現の形も身近で多様になってきた今、閉塞感を主要な題材として手探りで作品を作る事は普遍的とはいえやや共感が難しい。
ある種のカウンターカルチャーから始まっているとはいえ、ストーリーの路線はもっと王道的なものへ回帰する必要があるのではないか。
いまの若い子たちのほとんどは迷いがない。情報がたくさんあり、そのことに慣れているので、彼らのほとんどは過去90年代に存在していたような迷いや苛立ち、先行きの見えなさというものからきちんと卒業している。
先行きが見えないレールとして見るのではなく、多くはレールを立派に相対化して統合評価し、少ない選択肢のレールの中から自分の納得のいく選択を手にして自分の人生を生きている。
平凡ではあるが、意思ある存在としてその平凡さを選んでいるのだ。わけもわからず梯子を登り続けた90年代を背後から俯瞰して「だいたいこんなものだ」という感覚を肌で分かっているのが00年代だ。
したがって、振り落とされて振り回される世代ではない。また将来に対する不安はあれど、道しるべや指標、解析ツールは探せば手に入る時代に、無理をして多くを手に入れようとはしない。
したがって、ピート・ビートが感じていたような不安感は、物語の没入のためには役立つが、そこに共感を感じさせる要素は見つけにくいだろう。
過去SFは現実の社会を映すものであり、社会の謎を解き明かす鍵があると考える読者も多かった。それがカルト的信者を生んでいた一面もあった。
しかし現在の若年層にとって、SFが提供する社会の謎はエンターテイメントの一部でしかない。
したがって<世界>と<戦士>の構図も同様に、エンターテイメントとしての構図に終始するか、あるいはこの時代における新たな<世界>と<戦士>の構図を再度見つけなおさなければならないだろう。
一言で言ってしまえば、セカイケイはもう終わってしまって古くなった。
人々は自意識というものについての興味を、以前ほどにはもっていない、ということだ。
したがって、意識というもののあり方が大きく変わってしまった以上、<世界>と<戦士>のあり方も本質は変わらずともあり方を変えて描かざるを得ないのではないか。
知っての通り、上遠野氏はジョジョの熱狂的なファンであると同時に、洋楽から多数の引用を行う。
これはあとがきに書かれている通りだ。
これはこれで悪くない選択だとは思うし、古典に学ぶことが創作の近道なのだが、現代のサブカルチャーとその源流についてももう少し学んでいいのではないか。
現代っ子が引用するサブカルチャーのほとんどはpixivはニコニコ動画が主流である。
そして引用のされ方にも傾向がある。
売れ筋に寄せろといいたいわけではないが、そもそも主戦場がライトノベルであるから、ハードな戦い方(※つまり正統的なSFとミステリ)をしていても遠巻きに眺められる終わるのがオチではないか?
もう立派な大御所なのだから売れるための本を書く必要はないのかもしれないが、もっとキャラクターがきちんと動くストーリーを書いてくれたっていいのではないか
ファンサービスのありかたも商業小説のあり方も変化してきたのだから、もうちょっと寄せてくれてもいいのではないか。
そんな気がする。
いつの間にか統和機構が崩壊してたとか聞いてなんじゃそりゃ~と思ったわ
自分は社会科見学かなんかのバスの中で友達が歪曲王面白いと言ったのがはじめての出会いでそれきっかけにはじめて読んだのも歪曲王だったなあ
ガキにとってはイマジネーターは長い割にわけわかんなくてつまんなかった
ガキにとってはエンブリオがやっぱ最高!って感じだったな
んでエンブリオの興奮からハートレス出たとしってそっこー読んだら、う~ん・・・・ってなって、
ホーリーゴーストとジンクスショップはハートレスよりはマシだけどいまいちつまんない・・・と思ってロス目日以降はまったくよんでねーわ
ビートのディシプリンも1だけ読んでいまいちで読むのやめたし
あでもナイトウォッチは1がめっちゃ好きで2の月に聴くが意味不すぎてつまんなくて3でよーやく1回帰路線っぽくそこそこ楽しめた
事件シリーズは市街上とさつりゅうだけ読んでつまらん割にながくて苦痛で読まなくなった
パープル・ヘイズはよかった
新アニメの開始で、ブギーポップ懐かしい!原作いまどうなってるの?ていうかまだ続いてるの?という人々も少なからずいると思われるので、シリーズを振り返りつつ現在の大まかな状況を説明する。
今のところ明確にブギーポップシリーズとして刊行されているのは以下の22作。
電子書籍ストアなどでは、作者本人が執筆しイラストレーターも共通しているスピンオフ『ビートのディシプリン』『ヴァルプルギスの後悔』各4巻もブギーポップシリーズとして扱われているが、ここでは除外する。
ブギーポップシリーズは、刊行順の並びで大雑把に三つに区切ることができる。
(12/26追記:この区切りは自分が個人的に勝手にそう思ってるだけの便宜的なものです)
第二期(01年〜13年)
10.ハートレスレッド〜18.さびまみれのバビロン
各時期の特徴を見ていこう。
一見ありふれた現代日本の日常の背後で、巨大な組織が絶えず暗躍し異能者が世界を変革するべく活動する、謀略論的世界観。
思春期の不安定な心と世界の危機がいっとき交差する、叙情的・詩的な青春小説としての側面。
五人の主人公の視点による五つの章で一つの事件を立体的に語る、という第一作の笑わないに代表される、トリッキーな構成。
ごく一部の準レギュラー的な存在を除いて、基本的に新規のキャラクターもしくは既存の脇役が主人公となって毎回半ば独立した物語が展開される、いわば全ての巻がお互いの「外伝」であるようなシリーズの組み立て。
緒方剛志の洗練されたイラストと、鎌部善彦によるシンプルかつ洒脱なブックデザイン。
少女達の間でささやかれる都市伝説であり、普通の女子高生の別人格?として現れ黒づくめの格好で口笛を吹きワイヤーを操る死神もしくは世界の敵の敵……という、その他の世界設定からは遊離しているとしか思えない謎の、しかしビジュアルデザインも含めて圧倒的に魅力的な存在、ブギーポップ。
ラノベの流行をTRPGベースの異世界ファンタジーから現代ものに塗り変えただとか、現在大人気のあの作家やこのゲームライターも影響を受けただとか、当時の存在感については既に色んなところで言われているので各自Wikipediaなどを参照のこと(大げさだったり紛らわしかったりする情報もあるので眉に唾をつけながら)
具体的なデータは分からないが、売り上げ的にも恐らくこの時期が絶頂だったのではないか。今回アニメ化の対象となるエピソードも、ほぼこの範囲からと見ていいだろう。
この時期で注目すべき巻、という話になると、一作目の笑わないはもちろんのこと、それ以外も全部と言うほかない。
王道のボーイミーツガールを軸に、前後編同時発売というボリュームで作品世界が大きく広がった、リターンズ1・2。
予知能力者の少年少女によるささやかなコミュニティがたどる儚い運命を描く、もしかしたら謎部活もの・残念系の先駆と言えるかもしれない?パンドラ。
閉ざされた高層建築というアクション映画を思わせる派手な舞台設定で、最終巻となる可能性もあったためか一旦シリーズを総括するような大団円が心地良い、歪曲王。
笑わないに近い連作短編構成で、シリーズの重要キャラクター「炎の魔女」とブギーポップの誕生を描く、ブギーポップ・オリジンとも言える、夜明け。
ジレンマを抱えた創作者の心をアイスクリームに託した、ペパーミントの魔術師。
屈指の人気キャラクターの登場巻であり、二人の男が巡り会い激突する、シリーズ中では比較的ストレートに「熱い」展開が見られる、エンブリオ二作。
以上の9巻はわずか二年の間に刊行されている。ほとんど月刊ペースで新刊を出すような恐るべき速筆ラノベ作家も存在する現在ではさほど目を引く数字でもないが、当時としては驚異的なスピードだった。それが一世を風靡する大人気シリーズであればなおさらだ。
次に述べる第二期では、複数の他シリーズと平行して執筆していたとはいえ一期と同じ巻数を出すまでに十年以上かかっていることと比べると、初期はどれだけ筆が乗っていたのかよく分かるだろう。
ちょうど一度目のアニメ化、実写映画化の時期を境にして、やや作風に変化が見られた。
能力の存在そのものは以前からさほど珍しいものではなかったが、それまでは物語の中の一つの要素でしかなかった戦闘に、武器として用いるのが半ば当たり前となった。
各巻の主人公格にはたいてい非能力者も一人は配されているし、エンブリオのような異能者対異能者の直接的な戦いがそんなに多いわけではないが、それでもいわゆる「能力バトルもの」という印象はかなり強まった。これを理由に作品から離れた読者も多い、らしい
細かい部分だが、能力に(多くの場合洋楽由来の)名前がはっきり設定されることが多くなったのもこのあたりからだ(言うまでもないがブギーポップはジョジョの影響を大いに受けている)
世界の敵、もしくは敵候補側の視点が薄くなり、一期のように主人公の一人として扱われることが少なくなった。これと同時に、世界の敵の動機に世直しというか率直に表現すると「人類補完計画」に類するものがほぼ見られなくなった。
異能バトル化の進行と併せて、表面的には「邪悪な敵役を主人公たちが討ち滅ぼす物語」という単純な構図にやや接近することになる。
多くの場合複数の視点で展開されること自体は変わらないが、各視点をそれぞれ一つの章(短編)にしたり、時間を大きく前後させたりというような凝った構成はあまり見られなくなった。
数少ないレギュラーキャラである霧間凪が、二期半ばの13作目のオルフェの方舟以降、ブギーポップ本編に登場しなくなる。恐らくは、凪が主人公のスピンオフ『ヴァルプルギスの後悔』との兼ね合いによるものだと思われる。この不在は、21作目のラビット・ランで再登場するまで長く続いた。
言葉にしにくい部分だが、一期においてはまだ、各巻が主に何を題材にしているのかが、なんとなくではあるが伝わるという印象だった。それが二期では、テーマ的により込み入った話が多くなり、分かりやすい共感や盛り上がりからは遠ざかった感がある。そのぶん作家性がより強まった、とも言えるが。
第二期の注目作としては、
霧間凪のライバル?的な存在が初登場する(以降の出番はほぼスピンオフ)、ハートレス・レッド。
設定上最大に近い「大物」の登場巻であり、以後、他シリーズも含めて作中世界に大きな影響を及ぼす出来事が語られる、ジンクスショップ。
暗い森の中を延々と歩き回る閉塞感と晦渋さのせいか読者の賛否が極端な、ある意味で二期らしさを象徴する作品といえる、ロスト・メビウス。
本当に大事なことは既に終わっているという、これまでもシリーズに見え隠れしてきたものの見方が改めてテーマとして大きく扱われ、青春とバトルのバランスの良さから?二期の中では読者の評価も高い、沈黙ピラミッド(沈ピラの愛称で親しまれている)
などがある。
現行の作品群。
近刊の最も目立つ特徴として、主に第一期作品で主人公格だったキャラたちが、再びメインを張っていることが挙げられる。
基本的には新規の登場人物もしくは既巻でのサブキャラが主人公となることが多かったものの、かつての主役がメイン級として再登板という展開自体は一期でも二期でも存在した。たとえば、歪曲王の新刻敬、ロスト・メビウスの織機綺、化け猫のフォルテッシモなど。しかし、デカダント・ブラック以降はそのようなキャラクター配置が今のところ全ての巻で一貫して見られる。
三期各巻で主人公格として再登場した既存キャラは以下の通り(カッコ内は過去の主演巻)
これらのキャラは初期作品の評価に比例して人気が高く、シリーズ上でも重要人物と見られているが、彼らが登場しているからといって、いわゆる「本筋」が大きく進展するだとか、シリーズを畳みにかかっているといった気配はあまりない。相変わらず核心の周囲をぐるぐると周るような展開が続いている。
また、こうしたキャラクター配置がテーマから導かれたものなのか、それともある種の商業上の要請によるもの(早い話がテコ入れ)なのかどうかも不明。
それ以外の傾向としては、概ね第二期のそれを継承した形になっている。ただ個人的に一つ気になる点として、新規キャラクターの「格」の低下ということがある。
あくまで作品から受ける印象だが、三期で初登場した新キャラ達には、作者の思い入れというものがあまり感じられない。戦闘能力の強弱などの問題ではなく、良くも悪くも人格的な面で個性が薄く、その内面に寄り添い掘り下げるような視点も弱くなっている。
特に、世界の敵もしくは世界の敵に至らない程度の「悪役」の造形はこの傾向が強い。あからさまに傲慢だったりするいけ好かない人間として登場して、実際にいけ好かない人格のまま説教されたり死んだりして退場する、というケースがほとんどを占めている。
また、主人公≒視点人物として再登場している一期のメインキャラ達はたいてい洞察力に優れ、過去の巻で既に何事かを成したいわばひとかどの人物であるため、彼らの視点で描かれる新キャラはいっそう底の浅さが浮き彫りになってしまうというキャラ格差の問題もある。
世界中の誰しもが、たとえ一見取るに足りない存在であっても世界の敵になり得る、というようなテーマの反映なのかとも思うが、それにしてもクソ雑魚ナメクジに過ぎるし、そういう「敵」ばかりではさすがに辟易してしまう。なにより、たとえばあのスプーキーEですら持っていた、人格の複雑さ・意外性というものがほとんど感じられないのは寂しい。
悪役なら悪役でいいので、せめて初登場時点では、恐ろしさや底の知れなさをもう少し演出してくれないものだろうか。あるいはいっそ、無理に毎回新規のキャラを多数登場させることを控えて、ほぼ既存キャラだけで話を回し始めてもいい頃合いではないかと思うのだが……ムーンライトに一度だけ登場したカレー屋など、もっと掘り下げてほしい旧キャラも既に十分以上に存在することだし。
自分の目から見たブギーポップシリーズのこれまでと現状は、こんな感じだ。
結果的に後半はほとんどネガキャンのような書き方になってしまったが、そういう意図は毛頭ない。むしろ、こんな風に不満を持ちながらもなんだかんだで楽しく追い続けている読者もいるぐらいには今も魅力的なシリーズなんだよ、ということが言いたかった。信じてほしい。
今回のアニメ化の影響で原作が売れたり読まれたりするとしても、そのほとんどはアニメ化の範囲であり新装版も出る第一期、それも前半に集中することだろう。だが、これを機会に未読の二期・三期作品にも手を伸ばしてくれる元読者がたとえ一人でも現れてくれるなら、非常に嬉しい。読んだら一緒に文句を言おう(文句言う前提)
某不気味な泡で一躍知名度を上げた絵師のこと、ないしその現状。
絵柄が一冊ごとにころころかわり、新キャラと旧キャラの描き分けができておらず、
ハートレス・レッド以降面白さがダウンしたから(※個人の感想です)それより後は別に読まんでもいい。
中二病をビンビン刺激してくれるタイトルとサブタイトル。能力バトル。ストーリー。設定。
フォルテッシモを語らずして「最強」の名は語れまい。
正義の味方とは何か?
世界の敵とは?
真理を突いているようでその実何も語ってなどいないようにすら感じられる、雲をつかむような哲学的文章。
個人的なおすすめは、しっかりジュブナイルしていて中学生の俺のハートを鷲掴みした、ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」だ。
とっつきやすさ、面白さ、切なさという意味で、ブギーポップの中で割と異質なタイプだけど、これが一番好き。
別に「笑わない」から順番に読まなくてもブギーポップシリーズは割と問題ない。
さすがに今でてるのにいきなり手出すとちょっとアレだけど。
初期のに限ってはそこそこ適当につまんでもOK。
あーあとイマジネーターは2巻もある割にアクションもほとんどなくて理屈っぽくて地味だから最初は読まなくてもいい。
笑わない→イマジネーターで見限られると非常に辛いから。
パンドラ、歪曲王、笑わない、エンブリオ2冊がとりあえずおすすめ。
まずはニュルンベルクのマイスタージンガーをyoutubeで探して口笛で真似てみるところから始めようか。