2020-10-01

暴力に囚われていない」という幻想

 僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。


 人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラトロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンス分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。

 ここで言うところの「暴力」とは戦争軍事力媒介にした暴力行使を指しているわけではない。

 暴力は我々の身近に存在している。

 ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。


 それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったかである

 例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要ものとは暴力である

 例えば、そんな事態においては武器必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志必要になる。

 これは余りにも自明である

 無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。

 更には、そのような暴力防衛自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的暴力行使可能性があったことを、認めなければならない。


 繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子レースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代存在したということになる。仮に、たった百万年から我々にとっての遺伝子レースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子キャリアとして長い時間を旅してきた。

 その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。

 そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。

 まず挙げられるのは、殺人

 強盗

 強姦

 傷害

 恐喝

 その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。

 何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。

 我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。

 それを止めることによって、周囲の遺伝子キャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったかである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子キャリア頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである

 恐らく、ありとあらゆる種類の暴力行使は、我々の遺伝子レースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。

 つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。


 それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである

 何かを盗んだことがあるということである

 誰かを傷つけたことがあるということである

 誰かを犯したことがあるということである

 誰かを騙したことがあるということである


 誰かにまれたことがあるということである

 誰かに傷つけられたことがあるということである

 誰かに犯されたことがあるということである

 誰かに騙されたことがあるということである


 その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである

 我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。

 我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。


 我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。

 我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。


 例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟姉妹存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。

 我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。

 我々は暴力と共にある。我々は(そして私は)、これから暴力を振るい、そして暴力を振るわれるだろう。

 これまでもそうだったし、これからもそうだろう。我々は生きなければならないからだ。

  • 暴力を恐れないならば 原爆が落とされて悲惨な死に方をしたやつがワラワラいて生きている人も死体の前で泣き崩れている その状態で引き下がることはあり得ないね 暴力が怖ないなん...

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