「性的モノ化の是非」なんて議論は初めから存在しないのだから真面目に相手する必要はないんだよな。
元々批判されていたのは性的客体化(objectification)の是非。
女性が性的視線を「向ける側」ではなく、「向けられる側」であるという空気を助長する表現は如何なものか?それは女性の主体性・自己決定権を損なうことに繋がるのではないか?という批判に対してどう答えるか?という話なんだよな。
そういう意味では、たとえばananの表紙のように、女性から男性へ向けて性的視線が向けられる表現というのは、そりゃ全くもって問題がないんだよな。(少なくとも「性的客体化」の議論においては。)
馬鹿馬鹿しい非難に対抗するために馬鹿馬鹿しい議論を重ねなければならないという構造そのものが馬鹿馬鹿しいのだから、その馬鹿馬鹿しさを指摘しなければならないのだよな。
実在女性を媒介しない、空想の女性表象というのは、むしろ正しく女性性を「モノ化」しているのだから、非空想の女性を性的に「客体化」することに奉仕しない、という反論もあり得るのではないか。