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2023-04-16

ジャニーズ帝国繁栄させて被害の拡大に一番加担したのは

俺たちなんじゃないか最近考えている。

俺たちというのは具体的には

昭和の終わりに北公次の本が出たり世紀末に文春裁判報道されてた頃には物心がついていて、

別にCDも買わないし金なんぞビタ一文落とさないけど

ジャニタレが出てるバラエティドラマ見て視聴率に貢献したり、

キムタクとかジャニタレの服や髪形マネしたり

カラオケで歌ったり

ジャニーズ事務所ジャニタレのやることをネットでわりかし好意的に騒いだり(例えば最近だとTOKIO農業に関する活動とか)

していた俺たちのことだ。

俺は「光GENJIへ」が出た時のことを覚えてる世代なんだが、

告発もあって光GENJIの人気が落ちてその後の忍者とか男闘呼組イマイチパッとせず

まあそりゃあんな話が出てきたらなあと思ってたらそのうちSMAPが人気になりV6学校へ行こうとかDASHとかも流行ジャニーズ帝国とか言われてるの見て、おいおいと思っていた。

年齢的に光GENJIがやられてるならSMAP辺りも該当するはずなのに、よくわかってなさそうな若い女の子だけじゃなくてその当時のいい大人の男も女もふつうキムタクとか中井ドラマ見てたもんだから、これいいのか?ってさ。

ジャニーズに入ろう、入れようと思う人が多いのは

一過性女子供アイドル以上の存在、男にも憧れられる国民的なアイドルになれるチャンスがあるからなのは大きいだろう。

しかも年取ってもバラエティドラマの派手な仕事ができて安泰。

NHKディレクター告発者に「親が知っていたら入れてたと思うか」と質問してたが、

未成年の娘をヌードにしてまで話題を作ろうとするステージママもいるぐらいだから

息子がスターになることを期待して、知ってて入れてた親もいるんだろうなあと思う。

これは別に被害者を責めたり逃げられたはずだというつもりでは全くないんだが、

我慢してデビューできたらスターになれるかもしれない、一生安泰だという思いがあったから今まで告発する人があまりいなかったり、事務所に残って稼ぎ頭や広告塔結果的になってしまったタレントがいて、被害者さらに増やすというサイクルになっていたんだろう。

もしこれが一時的若い女の子に人気になったとしても、

せっかく我慢しても稼ぎを回収する前に人気が落ちて派手な仕事もなくなって終わり、

ドラマバラエティも出たら視聴率が下がるから出れない、男が真似する存在になんてなりようがない、

大多数の人間からはあの事務所だとバレると好意的どころか気の毒がられる

そんな存在であれば、事務所に入ろう、入れよう、続けようと思う人もこんなに多くなかったんじゃないだろうか。

告発者を叩いてる層の文面とか見ると、イマイチジャニーのやってた事の重大さをわかってなさそうというか、若そうな感じがするのだ。

まあ普通に考えてジャニーズにのめりこむのは10代~20代と考えると、

過去報道の頃にはそもそもまれてないか物心ついてない年なんじゃないか

業界人マスコミメディアは性虐待の実際の所を知ってたり知るルートもありそうだが、単なるファンにそういうルートがあるかというと、年齢とか考えると過去の噂程度にとらえてたんじゃないだろうか。

ジャニタレ披露する「ジャニーさん」のおもしろエピソードを真に受ける程度の知能で、ある意味ジャニーさん」のファンでもあったからああいう反応になるのかもしれない。

そういうことを考えると、

からこそ、ファンではない、冷静で常識的なまとも判断力のある俺たちが、

告発本か、おそくとも裁判報道タイミングジャニーズの息の根をとめておくべきだったのだ。

お茶の間スター、皆の人気者、馬鹿にされつつも愛される存在なんかじゃない、

事務所にいる限りは気の毒な被害者で、間違ってもあこがれるような存在ではない、

出てるものは買わない見ないまでは現実的に難しくても、少なくとも好意的話題にしたり歌ったり真似したりするべきじゃなかったのだ。

ジャニタレ好意的な知り合いがいたら、悪徳事務所に加担することを咎めたりするべきだったんじゃないだろうか。

狂信的なファンは一部いるかもしれないけど、世間一般から白い目で見られる事務所

そんな存在にできていれば、世代的に考えて今話題になっている告発者が被害に遭うことも、告発者を叩くファンが生まれることもなかったんじゃないか

少なくとも、男同士の性虐待が具体的にどういうことなのかはっきりわからない年頃で

小遣いでCD買ってたような子供と同じくらいには、

俺たちにも責任の一端はあるんじゃないだろうか。

一連の報道を見てそんなことを考えている。

毒親遺伝する病なのか

50歳にもなって20代後半の実子(私)に毒親のせいで私は一生不幸!いつになったら幸せになれるの?!とのたまう母親

田房永子エッセイ自分毒親持ちだと「気付いた」らしい

それ自体毒親というワードが出てきてから10年以上ずっと聞かされてることだからどうでもいいけど、

つい最近彼女に「お母さん(私から見ると祖母)の介護で私が倒れて、あなた実家にもどってこなきゃいけなくなるかもね」と言ってきた。

まず、毒親認定して憎んでる母親をわざわざ自分の家の近くに越させたのも(そして自分が面倒を見ようとしてる)意味もわからないけど、

デキ婚で生まれた私に対して、物心ついたときからずっと「人生支配してこようとする実家から逃れられたのは娘ちゃんが生まれてきてくれたおかげだった、だから本当に私の天使なのよ」と言っていたあなたが、なぜ私を実家に縛り付けようとするんだ?

私はその言葉を本当の愛だと思っていたけど、よく考えると母は最初から最後まで自分の話しかしてなかったな。

私はあなたと違って自分母親を愛したかったよ。もう無理だけど。

2023-04-12

32歳で初めて知ったこと・きゅうり

きゅうりはみじん切りにする時斜めに削ぐように切ると効率が良い

きゅうり みじん切り でググったらそういうふうに出てきてたしかにその通り切ると簡単だった

今までの切り方はなんだったんだと後悔した

きゅうりは塩をかけても美味しい

物心ついた頃からマヨネーズかけてしか食べたことなかったかシンプルな美味しさに感動した

きゅうりレシピ次第でお米泥棒のおかずにもなれる

サラダくらいしか使い道がないと思ってたけどTwitterでバズってたツナとかと混ぜ混ぜするレシピで作ったあえものお米がどんどん無くなる日曜日のお昼とかの火を使うのめんどくさい時用おかずとしての性能がすごい

最近なんとなく買っただけなのにきゅうりすごい!!!!!!きっとにんじんとかお茄子もすごいところがいっぱいあるんだと思う

2023-04-09

男性に生まれたくなかった

私は男性に生まれたくなかった。

物心ついた時から、多かれ少なかれ、そのように思い続けている。

そして26年経った。何も解決兆しは見えない。

自分性別嫌悪感を抱くようになった具体的なきっかけは、覚えていない。

しかし、小学生のころには確実に、「男性は雑に扱っても良い存在」「女性は丁寧に扱わなければならない存在」という風潮が、私の自尊心を蝕んでいたと思う。

体育の時、なぜか男子教室の外で着替えさせられた。

更衣室は2つあるのに、男子更衣室はなかった。

修学旅行では、なぜか女子の部屋のグレードが男子の部屋よりも高かった。

なぜ、私は男性というだけで、かようにも女性よりも雑な扱いをされなければならないのか。

私は男性であるからというだけで、女性より劣等な存在なのだろうか。

男性女性価値比較したり、男性差別と女性差別の比較をしたりというのは、本稿の主題でもない。

おそらくは、男性は強い存在と見なされるからこそ、雑な扱いを受けており、女性は弱い存在と見なされるからこそ、丁寧な扱いを受けているのだろう。

私が男性として、知らず知らずに受けている恩恵の、いわば裏返しにあるものだ。

それは分かっている。分かるだけで、解決してほしかった。

私は男性に生まれたくなかった。

女性になりたいわけではない。トランスジェンダーでもない。

自己性別から離れたいと思うだけで、どこにも向かえていない。

男性らしさを感じる短髪には強い拒絶がある。おしゃれでもなく美しくもない長髪に執着している。

女性関係を持つことも、私が男性であることを否応なく痛感する。

男性関係を持つことも、私が女性ではないことを思い知らされるだけだ。

結局、自分でも自分が何が言いたいのか分からない。

どうしたいのかも分からない。

男性に生まれたくなかった。

感情は、一生つきまとうのだろうか。

2023-04-08

俺は物心がついていた頃にはすでに物心がついていた。

2023-04-07

ハレー彗星を知っている世代と知らない世代

ある世代まではハレー彗星は知っていて当然のものだが、

ある世代からは全く知らないものである

その原因はハレー彗星の周期が75年程度と非常に長いことによる。

前回、地球に訪れたのは1986年

それまでに物心がついていた人たちにとってはメジャー存在と言える。

テレビなどで大きく報道されていたからだ。

しかし、それ以降の世代になると一気にマイナー存在となる。

anond:20230407124749

ただ、向上心を持つ方が生きやすいとは思う。どうしたら向上心を持てるのだろう。

俺の場合、「もっと上を見てみたい」という気持ち物心ついたときからあっただけなので生まれつきの性質問題だと思う。

(「上」というのは金持ちという意味ではなく学術とか能力とか文化とかそういうの)

2023-04-06

若者肉屋で売られる豚ではなく豚であることを知らない

さら物心が付いたときから肉屋肉屋だということを知らない

2023-04-05

身内に金銭トラブルを抱える人間が多い

 身内男性金銭トラブルを抱える人間が多い。あまり詳細に書くと特定されかねないから多少のフェイクを入れるけれど、

祖父は死後にギャンブル借金を抱えていたことがわかり、それも借金元がいわゆる闇金業者のような所で利息含め何百、何千万単位での返済を求められ、祖母が周りに頭を下げ貯蓄も何もかも全てをかき集めて返済に充てた。

・従兄弟学生時代から続けていたらしいギャンブルで友人、知人への借金が膨れ上がり、返済のために消費者金融から数百万単位での借金をして首が回らなくなり従兄弟母親に泣きつき、それでも返済が追いつかず結局叔母である私の母親借金を立て替えた。

・小さい頃から仲良くしていた親戚のお兄さんは、酒とギャンブルにはまり借金を抱え、当日幼稚園児と新生児だった子供奥さんを残して単身赴任先で首を吊った。

 こういうことがあって、私は本当にお金人生や縁を本当に狂わせることを思い知ったから、お金が無くなることが怖くて仕方がない。だから就職を考えた時、自分がやりたい仕事よりもとにかく安定した仕事をと考えて資格を取り、公務員という道を選んだし、社会人になり一人暮らしをしているけれど、自炊をして毎日チラシを見ながら少しでも安いスーパーを数件ハシゴするくらいには無駄お金を使いたくないと思っている。

 母親からはよく「財布の紐がかたい」「ケチだ」と言われるけれど、お金に困ることへの嫌悪感が凄くて、毎日自分の通帳の残高を見て安心している。数年前に大きな病気をした時も、治療のことよりも治療期間は働けない上に治療費でお金が無くなることの方がすごく怖かった。

 そんな風に毎日を過ごしていたというのに、先日、実の兄に金銭トラブルが発覚した。

 どうやらクレジットカードを作る際、自動的リボ払いとなる設定になっていたようで、しかズボラ性格故そのことに年単位で気付かず、結局気付いた時には数百万の借金を抱えることとなり、その返済に充てるため消費者金融借金をしたらしい。

 その話を母親から聞き、私は呆れとも絶望とも言えない感情を抱いた。兄だって、今まで身内が金銭トラブル人生を狂わされた所を沢山見てきたはずなのに。何よりも、小さい頃は大好きで尊敬していた従兄弟借金を抱えた時、ゴタゴタの中で実は母親祖母に預けていた私と兄名義の預金を全て従兄弟が使い込んでいたことも同時に発覚して、そのことで激怒し従兄弟没交渉になってしまっているくらいには、借金に対して恨みを抱いているはずなのに。どうしても私は、兄が身内と同じ道を辿ろうとしているように思えてしまう。

 そしてもしかすると、いずれは私も同じくお金人生を狂わされるのではないかと思ってしまう。今はそのことが本当に怖い。

 忘れられない光景がある。

 親戚のお兄さんの葬儀の際、私も手伝いに親戚宅へ行っていたのだけれど、その時、それまで気丈に振る舞っていたお兄さんの奥さんが、奥さん親友だという女性が訪ねてきた瞬間、別室にいた私たちにも聞こえるくらい大きな声を上げて泣き崩れた。そりゃあ、そうだ。まだ幼い子供二人を抱え、夫は自分の知らない借金自殺。その当時、私はまだ学生だったけれど、今から考えると彼女はいつ泣き崩れてもおかしくなかったのだ。寧ろ、よくそれまで私達に涙の一つも見せず葬儀を準備を進めていたことだと思う。

 そして、全てが終わった後に待っていたのは責任押し付けだった。「どうして気が付かなかったの」「単身赴任じゃなく家族でついて行ってあげれば良かったのに」そんな言葉を受け、奥さんはとうとう親戚とはほぼ縁を切り、今ではその当時から相談に乗っていた私の母としか連絡を取っていない。

 そういう光景を昔から見てきた。そして何よりも、祖父借金然り従兄弟借金然り、結局ほとんどの借金を私の母親が肩代わりしていることに物凄く嫌悪感を抱いてしまう。

 私の母親は、高校卒業してから定年までずっと同じ職場で働き続けていた。時代のせいだったらしいが私は生後50日で保育園に預けられ、物心がついた頃には朝から夕方まで保育園で過ごすことが普通だったし、小学校に上がると当然のように鍵っ子で、低学年の時は17時まで学童に預けられ、高学年になると家に帰ると洗濯物を取り込むのが私の役割だった。

 小さい頃からの私の口癖は「専業主婦のお家のお母さんが羨ましい」で、母親はその言葉を聞くたび胸を痛めていたらしい。…今思うと本当に残酷なことを言っていたと思うのだけれど、当時は確かにそう思っていた。それでも母親は、「貧乏な家で育ったから、自分の子供には貧乏な思いをさせたくなかった」と言っていた。確かに、私の父親はよくテレビCMも流れているほど誰もがよく知っている会社に勤めていたし、おそらく当時の経済状況から見ても母親正社員で働く必要性はそれほどなかったと思う。

 それでも、そんな思いを持って働き続けていた母親が貯めたお金を、どうしてくだらないギャンブルで作った借金の返済に使われなければいけなかったのだろう。月々数万単位母親に返済を続ける従兄弟のことを、借金を残して死んだ祖父のことを、私は許せない。「もうこのことは話し合って解決たから」と言われても、従兄弟には二度と会いたくないし罵声を浴びせてやりたいくらいには憎い。

 同年代の親戚で私は唯一の女性で、だからなのか比較的穏やかだと思われているようだけれど、心の内を曝け出さないだけで従兄弟のことは本当に馬鹿だと思っているし、そんな従兄弟を育てた叔父と叔母のことも好きになれない。なのに、叔父最近になって老後のことを気にしているらしく「結局お前にも俺たちと同じ土地の血が流れている」だの何だのと言ってくる。要するに、「従兄弟奥さん義理の娘だと言っても結局他人から老後の面倒は見させられない。何かあった時は頼む」と言いたいのだろうけれど、まっぴらごめんだと思っている。

 そんな風に嫌悪していたのは、「死んでもお金のことでトラブルを起こしたくない」と思っていたのは、私だけだったのだろうか。

 どうやら、母親はまた兄の借金も肩代わりするつもりらしい。「どうやってお金をかき集めよう」と電話口でため息を吐かれたけれど、「じゃあ私もいくらか出そうか」とは言えなかった。私だってお金にすごく余裕があるわけじゃない。それに、自業自得で作った借金を立て替えてあげる気になれない。

 ずっと言いようのない恐怖が胸に渦巻いている。私もいつかお金に困る日が来るのだろうか。消費者金融に手を出してしまうようなことを起こしてしまうのだろうか。兄の話を聞いてから、その気持ちが一層強くなった。

 私だって、全く無趣味なわけじゃない。寧ろ人よりもお金のかかる趣味を持っている。ただ、自分のお給料から貯蓄に回す分、生活費等を差し引いた金額計算し、できる範囲での出費を心がけているだけだ。だから、正直そこまで生活に余裕があるわけでもない。ただ、確かに同じ趣味の界隈では「借金をしている」だの「リボ払い地獄だ」だのという話も聞く。今のところ、そこまで深くのめり込む予定もないし大丈夫だとは思っているけれど、それでも、ふとしたきっかけでそちらへ足を踏み入れてしまうのだろうかという不安が拭えない。

 お金人生を狂わせるから、狂った人が間近にいるから、本当に怖い。私もいつかお金人生を狂わせてしまうのだろうか。その時には、殴ってでも引きずり倒してでも私の目を覚めさせてほしい。

 こんなこと誰にも言えないから、ここで吐き出しました。長文ごめんなさい。

追記

 感情のままに書き殴った文章に色々と反応があって驚いています複数の方から増田なら大丈夫だよ」と言っていただけて、根本的な考えは変わらないものの、少しだけ安心しました。

 以下、追記になります

祖母に通帳を預けていたことについて。

 援助の目的はありませんでした。どなたかも書かれていたように、母が私と兄が成人した時に渡せるようにとそれぞれの名義の通帳を作り、纏まった金額預金していたそうです。ただ、「手元に置いておくと少し困った時などふとした拍子に使ってしまうかもしれない」と思い、そういうことができないよう、通帳を別居している祖母に預けていました。それをお金に困った従兄弟(叔父夫婦と従兄弟祖母と同居していました)に泣きつかれ、祖母が渡してしまったそうです。

性別について。

 話の全体像が見えないことと関係しているか不明ですが、文章内でも書いているように私は女性です。内容がわかりにくいことに関しては、先述したように本当に感情のまま書き殴ってしまったので理解しています。読み辛くて申し訳ありません。

自己破産について。

 私は正直、自己破産でも何でもして責任を取らせれば良いのにと思っています。ただ、田舎者の性なのかただのお人好しの馬鹿なのか、母は今後のことを考えて自分達が助けられる範囲なら助けてやりたいと考えているようです。そのことについては従兄弟の件があった際に私も意見しましたが、「関係ないんだから、口を出すな」と言われてしまいました。それなら借金のことも何もかも私に言わないで欲しかったです。結局、母の方も私以外にそういう話を吐き出せる相手がおらず、私は捌け口にされているだけなんだと思います

祖父借金について。

 消費者金融から借りたわけではなく、本当に闇金のような所から借りていたようです。なので、

取り立てが直接祖母の家にやってくる→祖母は同居している叔父夫婦にはこんなこと言えないと預金を崩し、足りない分は親戚や友人・知人方からお金を借りて回り返済をする→お金を借りた親戚や友人・知人に返すことができずとうとう私の母親叔父夫婦に打ち明ける

 といった流れでした。ですので相続放棄以前の問題だったのです。

・私の趣味について

 舞台観劇です。好きで応援している役者さんもいます。といっても頻繁に劇場へ足を運んでいるわけではなく、平均すると月に1.2度ほど観劇している程度です。パンフレット等のグッズも購入しますが、あくま自分収入で賄える範囲を心掛けていますとはいえ地方公演のため遠征することもありますし、1枚で1万円近くするチケットを月に何枚も購入するなんて、とよく言われるため人よりお金の掛かる趣味を持っていると書きました。

 FPなど資格を取得してはどうかという意見ありがとうございます。大きな病気(20代なのですが、数年前に癌と診断され治療を受けていました)をしてしまった後で、体調と相談しながら仕事復帰をしたばかりなので、今すぐ行動に移すのは難しそうですが、将来のことを考え勉強していきたいと思います

2023-04-02

医者を辞めることにした

初期研修医です。3年目になりますが初期研修が終わりませんでした。

ずっと親の敷いたレールの上を必死で走ってきました。わりと(物理的に)叩かれて育ち、幼少期、物心ついた頃から医学部に行って医師免許を取りなさい、手に職をつけなさいと言われてきました。それ以外の選択肢はないものだと思っていました。

本を読んだり、海外ドラマを観ることが好きだったので、語学文学勉強したいなあとふと気づいたのは高3の秋。でも高校の理数科に所属していて、馬鹿なりに頑張っていたので成績はまあまあ良い方でした。気づいてしまたことに蓋をして、地元国立医学部に現役合格しました。

学生時代はそれなりに楽しかった。部活一生懸命になって、自分がやりたいことがなんだったのかを考えることはしませんでした。友達もできました。

問題卒業してからでした。

初期研修は市中病院で始めました。でも1年目の6月に、消化器内科をローテートしていたとき、あまりにも臨床が自分性格に合わず体調を崩し、休職しました。わたしは自他の境界線曖昧で、入院患者さんが訴える苦しみや、患者さんが亡くなることに耐えきれなかったのでした。それでもなんとか休職明け頑張って仕事を続けていたけれど、その間何度死にたいと思って泣いたかからない。気づいたらわたしうつ病と診断されていました。自殺未遂を繰り返しました。

3月30日わたしはこれで最後にしようと思ってマンション非常階段から飛び降りようとしました。幼少期の辛い記憶も、普通に医学部卒業して初期研修を終えて専門に進むというレールに乗れなかった自分も、全部終わらせようと思いました。でも、死ねなかった。結局わたし死ぬのが怖かったんです。幸せになりたいと思った。死ぬことを選んだのは自分だったのに、死にたいんじゃなくて生きたかったのだった。

もったいないと思われるかもしれない。医者を辞めます普通に縛られて生きるのはつらいから。

勉強して、もう一度大学に入り、好きなことを学び、自分人生を、親に言われたままではなく、生き直そうと思います

2023-04-01

共産党人類共通の敵

共産党人類共通の敵。これからどうなるんだよ。トランプ時代は終わったぞ。日本沈没するぞ」「みんな捨て石になってる」「そんな国滅んじゃう」こんなことはもう90年も前から起きていたのだ。人類は皆、物心がつく頃には、すでに地球人と同じぐらい巨大な惑星に住まわされていた。宇宙人への移住が既に70年代には実現されていたのである。それを何も考えずに「宇宙人への移住」と言い張っただけで、早晩「いよいよ人類絶滅の時がきてしまった

Anond AI作成

築50年都内マンション様相 身寄りのない高齢者の補足

身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。

 

 コメントで、築50年、1970年代に作られたマンション様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。

 

 このマンション1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取り3LDK私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。

 小学校入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれ班長レストランせがれが副班長スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋社長理工系技術者保育士共産党員福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋おやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油砂糖がないときは借りに行ったりというつあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域情報を過剰に共有していた。マンション商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったか情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。

 おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者ほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり住民がいぶかしがるような時代だった。独身者アパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民マンションに住むという構造だったのだと思う。商店街コンビニレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しか資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京未来を信じていた時代だったのだと思う。

 その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由暮らし謳歌していた。文化的地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。

 そんな2000年代。わが地元マンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化たからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンション世帯四方にあり、衛星放送アンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたときマンション理事会が開かれるという。私は屋上衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話インターネットに繋いでいた時代の話だ。

 「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンション構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下であるエレベーターマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段けが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人住み込み管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心いたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦住民とは打ち解けている。数年前、管理会社方針住み込みでの雇用は打ち切るとなったときマンション自治会自治会費で管理人室を買い取り、管理人雇用することになったとのことだ。そのとき声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込み管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠管理人介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人裁量判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。

 

 とりとめなくなってしまった。地域先生の話をひとつ

 マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球サッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭大人行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師夫人が、先生師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき野球サッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。

 たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生最近どうなのという話題は常にあがる。先生スーパー下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。

物心つく前に子宮男性移植しましょうと、父(推定)が言っていたことがとても印象に残っている(この頃はまだ血液は母と繋がっていたのだと思う)。無血出産の数は年に10件ぐらいで、残りの24件はすべて奇跡的らしい。私は、血を抜くのを勧められたのはこれが初めてだった。さて、父(推定)は貧血ぎみだが、出産時に受けた検査では問題なかったようだ。その後の調べで分かったことだが、父(推定)の母(推定)は血

Anond AI作成

ドラゴンクエストなどの家庭用ゲームは、概ね時間制のゲームだと思っているが、ゲーム本質は全世代を通じて変わらない。物心がつく頃には、子ども向けのカードゲームは当然のように家庭用にあり、大人向けのゲームはせいぜいファミコンレベルの、どこか大人向けの1対多の対戦だった。だが、ゲーム世界でそんな時代が終わり、一人用ゲームがどんどん普及する。家庭用ゲーム機の普及で一人用ゲームは姿を消し、親と子からなる互いが囲んで遊ぶテレビゲームが復活する。10

Anond AI作成

2023-03-27

anond:20230327122604

途中で離婚した奴じゃなくて物心つく前に片親になった奴?

2023-03-20

痩せて超絶ブスから美人になったけどずっと容姿コンプ

もともと独り言のつもりで書いたので、ナルシスト表現があるのは大目に見てください。




物心ついた時から私は太っていた。

と言うより、いずれ自分が太ることを予測していた。

初めて体重を気にしたのは小二の頃。

体重計に乗った時の数値が以前よりも大きくなっていることを気にしたのか、その年代平均値よりも大きいことを気にしたのかは覚えていないが、体重計の針が示した数値ははっきりと覚えている。

その時は25kgだった。

BMIというものをよく気にした。


自分が明確に太っているのを自覚したのは中1の頃だった。

周りと同じセーラー服が着こなせなかったのだ。

私の腕は、他の女子生徒が袖からのぞかせるものと同じように細くはないし、なんだかブツブツしている。

体操服もシルエットがダサいし、胸がかなり大きかった。

それに、体育が極端に苦手だった。他の人は軽々と走るトラックが何よりもキツかった。

きっとそんな自分は、他の人の目にはみっともなく映っているんだろうと思った。

ただ、この頃の私はまだましな方だったと言える。

家族もまだそこまで太っていない、普通体型だと言っていたし(それでも太ってはいたが)、何より中学では成績優秀、昔から活発な性格を知っている友人が多かったので、太っていることを何も後ろめたく感じる必要はなかった。

それに、中学生の頃までは私自身美醜の基準がわからなくて、自分容姿が優れていないことを知らなかったのだ。

中3の時に仲良くなった、かなり容姿が優れている男友達は私に対して恋愛感情を抱いているようだったし、それ以外の人からモテた(ただ、この容姿端麗な男友達と比べて私がかなり太っていることに対しては、私自身何か思うところはあった。それにこの男友達は美醜の感覚が壊れているようで、誰よりも男前自分の顔を不細工だと言っていた。その目で見た私に恋愛感情を抱いていたということは、つまりそういうことである)。


言ってしまえば、自分容姿が優れていないのに明確に気づいたのは高校生の頃だった。

高校に入ってからも私は明確に太っていた。

それに、夕方近くの時間になると腹が減ってしまう。

腹が減った以上仕方がないと、食べるのが好きな私は頻繁にホットスナックを帰り道に食べた。

太っている人間が太るものを食べている姿は滑稽なので、隠れながら食べた。

私は時々、自分の体型をいじられた。

脚の長さを測られたり、太っていると言われたり(実際太っているが)した。

それによって、人並みに傷ついた。

顔については明確な言及はなかったが、周囲の人(とくに男子生徒)が私に対してはかなり不機嫌そうに話すのを見ていると、顔も悪く、太っていて、容姿はかなり悪かったんだろうと思っている。

実際、この頃に撮った写真に写る私は、髪も汚く肌も汚く、笑顔は醜くて眉毛が太い、極度に太った姿をしている。


太った人間ものを食べるのは滑稽なのだ

太るものを食べていたら「そんなの食べてるから太るんだよ」と思われそうだし、痩せるものを食べていたら「そんなの食べてんのに痩せてないじゃん、意識だけは高いね」と思われそうである

実際、これは誰にも言われたことのない言葉だが、常に思われているのではないかと怯えていた。

それゆえ、外食をするときは店に知っている人がいないかよく探した。

人が多そうな時間帯は避けて外食した。

他人からどう思われるかなど大して気にしない私でさえ、こうである

それほどまでに、太っているということは自信を失くさせるものなのだ

きっと、太っていて繊細な女の子には、もっと色んな場面で、もっと色んな罵倒言葉が聞こえているんだろうと思う。


高校の3年間は太り続けた。

受験期が近くなったために高3では外で勉強をするようになり、それに伴って休日は基本外食をした。

毎回、ラーメンハンバーガーなど、太るものばかりを食べ続けた。

それ以外の時間も、腹が減れば食べた。

食べることぐらいしかストレスの発散方法がなかったのか、元々食べるのが好きだったからなのか知らないが、とにかくよく食べた。

このままだと痩せられない、ずっと太ったままだから今日で太るものを食べるのはやめようと思っていても、やめられなかった。

痩せる」ということがかなり遠い道筋のように思えて、どうも継続ができなかった。

その時よく見ていたサイトでは、どうやら私はBMI28と少しあって、標準体重よりも16.5キロ重いらしい。

それでも、推奨カロリーほど自分が食べている自覚はなかった。

時々ダイエットを決意しては数日で諦め、熱意を忘れた。痩せなければという意識自分の滑稽な容姿に対する後ろめたさだけが常に頭の片隅にあった。


から覗かせる二の腕はかなり醜くなった。

写真を撮れば、自分の太った体型と汚い顔が強調された。

友達と一緒に写真を撮れば、自分の醜さがよくわかった。

から写真に撮られるのは嫌いだった。

写真に写るときは少しでも痩せて見えるように工夫したし、それでもその後見写真には他の人よりも著しく太った自分の姿が写っていた。

高3の頃に、こんなに太っていても仲が良くなったクラスメイトとの写真にも、太っているから喜んで写ることができなかった。

とにかく、写真に写る自分の姿はひたすらに醜かった。


太っていて、顔も優れておらず、髪も汚い私には、どんな服を着こなすことも難しかった。

まず、「着たい服」ではなく「着られる服」を着るようになる。

「着たい服」など、考えられなかった。

私はまず、普通サイズの服を着ることができなかったのだ。

少しでも痩せて見える服を好んで着た。

どのウエストラインにすると痩せて見えるかばかり気にして、私服を着たときは鏡の前で数分にわたって腰を調節した。

それでも、ふとした時に鏡やガラスに写る自分はかなり太っていて、腕も汚く、特にから見た時の腰の太さが異常だった。

家の暗転したテレビに写る自分も醜かった。

運動もせずに、友達とも遊ばずにテレビなんか見ているから太っていて垢抜けないんだろうと思っていた。


それでも、垢抜けた人のようにオシャレな格好はしてみたかった。

全く垢抜けない容姿でも、綺麗にはなってみたかったのだ。

この汚い顔、太った体でもできるオシャレといえば、髪飾りぐらいだった。だから、髪飾りはよく購入した。

金のピン、青いリボンカラーゴムシュシュなど、あらゆるものを買った。青いリボンをつけた日は、いつもより可愛くなった感じがした。

それでもやはり、あまり変わらなかったが。

ファッション誌も読んだりしてみた。

しかし結局、ファッション誌でさえ遠い世界のように感じられ、誌上の情報を断片的に真似してみては全く垢抜けない、そんな様子だった。


街中では綺麗な人しか見かけないし、綺麗な人はどうしてあんなにも綺麗なのか気になった。

同じくらい太っているのに綺麗な人もいた。あの人たちと自分は何が違うのかわからなかった。

成人式でも、私は醜かった。

成人式の頃にはかなり太っていた。両親と横幅が大して変わらなかったし、下ろせない髪によって隠せなくなった輪郭は、顔の肉を強調させた。晴れ着を着たら多少は綺麗になれると思っても、実際には綺麗になれなかった。せっかくの写真も、何も嬉しくなかった。





転機はいだって急に訪れる。

大学生なってからも変わらず、ウエストラインを調節し続け、周りを気にしながら外食をしていた私は、大学3年生の時に急に思い立ってダイエットを始める。

きっかけは、本当に大したことがなかった。

「暇だから痩せよう」とかの軽い気持ちで、たまたまそう思った日の前日に2万歩近く歩いていたからとか、その程度だ。

痩せるためには食事管理運動だよな、とか思いながら、食事管理アプリで一番ダウンロード数が多いらしい「あすけん」を入れた。

そのまま、忘れないうちに前日と当日の食事入力した。


痩せることは大変ではなかった。

あすけんは、健康的に痩せることをモットーとしているアプリらしくて、(賛否両論あるが)それなりに沢山のものを食べることができる。

ダイエット中でも、世間一般で言われているような「揚げ物は食べてはだめ」とか、「毎回白米の量を半分にして」など、する必要がなかった。

規定値に収めることができれば、ファストフードだって食べられたのだ。

ただ、規定値に収めるために、お菓子を食べることは必然的になくなった。

しろ食事管理を通して自分食生活を数値上で管理できるようになったことで、いつの間にか太ってしまうのではないか想定外のことが起こってしまうのではないかという不安がほぼ全て払拭され、ストレスがなくなった。

このままだと痩せられるはずだという確信があったかである

歩くことも苦ではなかった。

音楽を聴きながらだと、毎日2万歩だって歩くことができた。

脚はかなり疲れた特に大変さは感じなかったし、モチベーションなども保つ必要がなかった。

歩いている途中、どうしてもしんどくなったときは、6月ライブ(のちに10月に延期になる)までに必ず痩せなければいけないことを思い返したり、曲で歌われている美人魔性の女のように自分がなることを妄想したりするなどして乗り切った。もっとも、こんな容姿美人になることを妄想するなど、言語道断であるが。


そうこうして、痩せた。

夏の時期は中弛みなどあったが、合計16キロほど痩せることができた。

ウエストは20cmほど細くなったと思う。

標準体重よりも少し重いが、ダイエット中は体重の数値よりも骨格筋率・体脂肪率などを重視したため、この体重でも見た目は普通の人よりも少し痩せている程度になったのだ。

痩せても大きいままだった胸に対して腰は標準より細く、腕は少し太いもの一般的な太さになっている。


痩せてまず、服を買うのが楽しくなった。

初めて服を買った。大学3年生にして。

黒のスキニージーンズだった。時期は4、5月ごろ。

ジーンズを履くなど、太い脚が強調されてしまって私には絶対無理だと思っていたが、憧れの黒スキニーを履くことができた。

思い返してみれば、その時はまだダイエットを初めて数ヶ月しか経っていなかったため、まだ着こなすことはできなかったが。それでも当時は嬉しくて仕方がなかったのである

家族アウトレットに行くのも楽しくなった。自分表現したいことが、服で表現できるのが何よりも楽しかった。

6月には、以前買ったスーツがあまりにもブカブカになってしまっていた。そのため、スーツを新調する必要があった。それが何よりも嬉しかった。


周囲、特に家族からも褒められた。私自身は大したことをしたつもりはなかったが、母はことあるごとに私のダイエット成功努力結晶だと褒め、認めてくれた。今私は母のダイエットを手伝っている。

遠く離れた祖母も、久しぶりに会った時はずっと痩せたことを褒めてくれたし、それ以降も電話でよくダイエットの話をしては褒めてくれる。認知症が進行したもう一人の祖母も、ふとした時に私が痩せたことに気づいて喜んでくれた。


かなり痩せて、体型も標準に近くなった頃、垢抜けようと思った。

まずは髪型を変えた。10月ごろの話である

眉毛も剃った。3分の1の太さにまで削った。これで丁度よかった。

そして、メイクの仕方を変えた。スキンケアを覚えた。色んなものも買った。パウダーマスカラビューラーグロスコンシーラーアイライナーなど。

特にアイライナーによる変化は凄まじかった。

黒いアイライナーを引くことで、私の強い目力はちょうど良いほどに強調され、かなり化けるようになった。時期は大学3年の12月ごろ。

黒いアイライナーは、たまたまYoutubeで見ていた動画に出てきた女性が黒いアイライナーを使っているのを見て、真似して買った。安物だが、これが私からしたら魔法の道具だった。



メイクをした私は、自分がかなり美人であることに気づいた。

自分で言うのもなんだが、私は美人だったのだ。

もとの顔も、痩せて眉毛を削れば悪い顔ではなかった。少しばかり人中が長いが、その程度大したことはない。

顔の比率理想に近く、肉の取れた輪郭は綺麗な卵型で(若干面長だが)、顔は普通サイズよりも小さい。昔から姉と母に言われていた言葉(太っていたので信じていなかったが)は、本当だった。目の大きさも平均値より大きく、力強い目は目鼻立ちをはっきりとさせ、鼻筋もある程度通っている。目と眉毛距離が近く、口も大きく、芸能人レベルではないがまさに顔タイプエレガントといった形だ。キリッとした顔つきは、周囲の人に賢そう・しっかりしていそう・頼りになるといった印象を持たせる。縮毛矯正をし、アイロンで伸ばした髪は、顔の力強さに負けていない。あの太かった眉毛に伴う長いまつ毛は、私の目の美しさを作り上げている。立体的な造形の顔と長頭の形は横顔の形を綺麗にし、腰の細さを強調させる。


この顔が、さらメイクで化けた。黒いアイライナーはよりはっきりした目へ、書かれた眉毛はより凛とした表情へ変化させ、色白で力強い顔には真っ赤なリップも映える。赤いアイシャドウや濃いチークだって負けず、それどころかより顔を華やかに彩る。マスクを取っても、整った顔立ちは変わらなかった。マスカラではっきりとさせた長いまつ毛は、少し目を細めて現れた奥二重に重なって、憂う表情を美しく彩る。


街を歩けば、通行人が振り返った。周囲の男子学生や男の人が私にだけ優しくする場面だってあった。よく色んな人から眺められた。見惚れられた。彼氏もできた。いつも私の顔を美人だと言ってくれる。ネット上のコミュニティでは、私が美人だという話がよく話題になった。実際に出会ったネット友達は、女慣れしている人でも私の姿を見て固まっていたし、明らかに優しくなっていた。どうやらその後、写真で見るよりもずっと美人だったと言いふらしていたらしい。私の姿を見て美人だと言わない人はいなかった。昔はあんなに綺麗に見えた通行人も、今思えば普通の人だ。

醜く太った、毛深く垢抜けない女から、誰もが認める美人になった私は、お洒落に目覚めた。真っ黒なワンピース、激しいピンクの色、かっこいいベストなど、強い色の服や上品そうな服を身に纏った私は、ミステリアス不思議な魅力を持つ美女とも言えた。イヤリングは顔の煌めきを増大させるし、特殊な色のネイルだって負けなかった。


痩せて美人になってからの私は、よく音楽聴くようになった。聴く音楽対象が変わった。

美しい歌声で歌われる妖艶な曲に自分を重ね合わせたし、繊細さを重ね合わせたような曲のような価値観を持ってみたいとも思った。私の容姿だと、そのような価値観を持っていてもきっと絵になると思ったからだ。私はここ数ヶ月間、美人自分と美しい曲を重ねては、綺麗な自分に酔いしれ続けている。それはもう、異常なまでに。

きっと今までずっと醜く、虐げられるように生きることを続けてきたから、その反動が大きかったのだと思う。もう周りを気にしながら外食をする必要なんてない。大手を振って表を歩ける。私は痩せて美しくなってから、以前のようにこそこそと生きる必要は無くなったのだ。

そしてこれからしばらく、美しくなった自分に酔いしれ続けるのだと思う。綺麗な服を集め、もっと上品になって、周囲の人からは高嶺の花として扱われて生きるのだ。


それでも、つい一年前まで醜かった自分の影は消えない。私が美しくなったのはここ数ヶ月での話しだから、それまでに虐げられてきた記憶の方がずっと長い。目を閉じれば、高校生の頃のクラスメイト男子生徒の、私にだけ雑な扱いをする様子がフラッシュバックする。今だって、太っている人や不細工な人を馬鹿にする言葉には腹が立つ。容姿が優れている友人と扱いが違うことを語った漫画ツイートには、思わず共感して読んでしまう。所詮ここ数ヶ月で綺麗になっただけの私は、外見が変わろうとも中身はほとんど全く変わらないのだ。昔の醜かった自分を見下し、悦に浸りたくとも、浸り切ることはできない。


しかし、やりたいことはある。太っていると周囲の人が本性を表すとは本当のことで、きっと私に対して明確に態度が悪かった人は、そういう人なんだろうと思う。そして、私が太っていた時から仲が良かった人は、本当にいい人なのだ

私のことが、高校の頃から好きな人がいるらしい。もうすぐ4年になる。私は彼に対して恋愛感情はなかったので、ずっと見てみぬふりをしてきたが、もし今の彼氏と別れたら、会いに行こうと思う。

その友人も容姿はそれほど優れていないし、言ってしまえば内気な人だ。きっと、人の容姿などもあまり気にしないんだろうと思う。

それでも、こんなに美人になった私をみてほしい。彼が好きになったのは私の容姿ではないにしても、昔よりも綺麗になった私をみて、感動してほしい。そして、それでも中身は変わっていないことを伝えたい。

anond:20230319155136

物心つく前に子宮移植して、すべてのオスをメス化してしまえば、

世界もっと平和になっていたと思う。

2023-03-17

周囲の機体が怖い

仕事に行くのが怖い。まわりの期待と自己認識のズレが大きくて、それに怯え続けてる。

これまでの仕事もこの期待値のギャプがつらくて辞めてる。

最初会社大企業システム部門だった。

まあまあ楽しくやってたが、4年目に入ったあたりでプロジェクトリーダーになった。たぶん上司は期待してたのだと思うが、それが重くて苦しかった。

  • 作業完了予定日を伝えるときに、本当にできるか自信が持てず不安になる
  • に苦しんで逃げ出してるのだろう。間に合いそうにないときに、なんとか解決策を考え出すときの心細さに耐えられない。
  • 不確実なことが多くて、次々と新しいタスクが発生するのが怖い。
  • 他の人はもっと楽な仕事してるのに理不尽さを感じる
  • 今回なんとかなっても、次はもっと重くなることを考えるとげんなりしてしまう。

これに疲れ切ってしまい、プロジェクト完了した直後に辞めた。


その後、友人に誘われたスタートアップ転職した。当初は「フラット組織からリーダーなんていない!」という方針を素直に受け止めて、適当なことを言い続けてた。組織が大きくなるにつれて、発言が影響力を持つようになってしまった。

  • 開発計画を決めるメンバーに選ばれる
  • 人付き合いが苦手で緊張するが、社外の関係者との調整も任される
  • 役員になることを打診される。軽い感じだったので、どれくらい本気かはわからない。

フレックスから裁量労働に切り替えてもらって働く時間を減らしてみたが癒しにはならなかった。


息苦しさが最大になったあたりで、別の友人に声をかけられて再び転職した。今度は外資系会社になった。

マネジメント職とプレイヤー職が分かれてるのが心地よかった。しかジョブレベルが上がって様子が変わってきた。

まだ辞めてないが、かなり疲弊してる。あと1〜2年で限界を迎える予感がある。


振り返ってみると、3〜4年くらいの周期で転職してる。これぐらいの時期に期待と自己認識ギャップに耐えられなくなって、逃げ出している。

仕事がうまくいっても幸運と偶然によるものだと思ってしまい自信につながらない。 一方で、まわりの期待は増していくのでどんどんギャップが開いていく。自己肯定感が足りないのかもしれない。

あるいは最初のうちは目新しさで誤魔化せてるだけで、慣れると魔法が解けるのかもしれない。


いつからこんな風になったか記憶にない。物心ついた頃からずっと患っている。小学校の時は、学校に行くのが嫌で毎日泣いてた。この時、親や教師に怒ら続けたのが原因かもしれない。学校休んだ日にやってはいけないことリストがかなりあった。

これはどうしたらいいんだ。なにか責任はないのにやりがいのある仕事はないものか。ChatGPTにはフリーランスになって仕事内容を自分で調整するのを勧められたが、うまくできる気がしない。

2023-03-12

anond:20230310101951

リプライブコメしてくれてありがとう

今、カフェイン離脱症状なのか文章が上手く頭から出て来ないけど、反応があった事が嬉しい。

saori-yamamura 文章上手すぎ読みやすすぎ。「体育の時に近くの体育館までバスで外出するタイプ学校」そんなタイプ学校があるなんて初めて知った。土地がない都会にはあるのか!?!?

文章を褒めてくれて、ありがとう

うちの高校グラウンド体育館も無かったから、体育の授業をやる日は同じ市の体育館を借りたり、どこか山の方にあるグラウンドまで遠出してた覚えがあるよ。結構珍しい学校なのかもしれない。

stack00 読みやす文章から、そっちならいいんじゃないかとも思う。

ありがとう。そっちって何処だろ?

Galaxy42 本人じゃなくてきょうだいが書いてる? webマンガサイト確定申告ステマ? 本人なら、どうやってますだをみつけたんだろう

本人が書いてるよ。兄弟子供が生まれたばかりだし家庭が忙しくて増田で長文書いてる暇ないんじゃないかな?

増田は確か個人的に気になる話題を調べていた時に検索サイトでヒットして、他のコミュニティから離れる感じで流れ着いたような気がする。

toro-chan 何かしないと能力は判定不能。紙のテストなんて能力の一部しか測れない。やる気しないバイトなんて発達障害関係なくほぼ無駄能力を判定するのはもう少し視野を広げて「ついうっかり」できることは何か探してから

自分に「ついうっかり」出来る事って何だろう…そう言えば最近自分自分が考えていた以上に何にもできない事が分かって衝撃だった。今だったら、下手したら小学校レベルの紙のテストさえやりたくなくて出来ないかも?

ikebukuro3 行く先々が悉くブラック企業ばっかなのはなんでなん?まともそうなの(ただ判定できないだけだが)最初しかねえじゃん

自分でも行けそう、ここでなら働けそうと思った場所がそういう所だったから?今まで行った所で本当の意味ブラックだったのは、派遣会社に紹介してもらった外国人労働者現場リーダーいじめてた食肉工場だけな気もする。

正直、どこの工場でも現場だとああい外国人いじめはしてるんだろうな、とも思う。自分が行ったのは○○ham Foods Inc.だったけど。

kjin 人と継続的に関わるとそれが役割ぽくなって縛りになって、でもさっさとその席別の人に譲った方がいいのでは?て不安はあるなあ“暇を潰せて生きているけど、こんな自分主観的にも客観的にもさっさと死んだ方が世の

自分無駄に浪費しているリソースを、自分よりもっと相応しい誰かが使った方が良いんじゃないろうか、とはずっと思ってるかもしれない。だから自分が死んだ方が家族幸せになるんだろうな、ってもう何年も思ってる。

mutinomuti “そこで支給されるエプロンナプキン?が体に合わなかった”材質が合わないのか、体型が合わないのかどっちだろうか(´・_・`)

体型が合わなかった。「体育嫌いで女子に嫌われてるキモい男子」と言えば何となくかると思う。

ko2inte8cu 文章が長すぎだから、診断を受けたのもさもありなん。親が過保護で、子離れしたくない。働けというが、その台詞を言ったり言われたりする状況に陶酔している。本気なら、家から叩き出すね。造作もないことだ。

親が子供の時からずっと過保護なのは自分兄弟を比べても幼児の頃から分かってた気もする。本気で働かせたいなら確かにから追い出してると思う。もしある日家から追い出されたら、自分は間違いなく何か犯罪するけど。

Spica7788 自分長所、好きなこと、得意を生業(仕事とは敢えて言わない)として生きていけたらいいね、と思う。向いてないことに飛び込んでは砕けて、って生き方だとそりゃ立ち上がれない。ちなみに他人は助けてはくれないよ。

最近絵を描いたり文章を書いていきたい、と思ってる自分と同じような無職ネット上でよく見かけるのはそういう事なんだろうな、と思う。自分は絵を描くのも文章を書くのも下手だけど。

他人は助けてくれないけど、何故か家族はこんな自分を何十年も助けてくれている。親兄弟負担迷惑をかけてるだけだし、他人は助けてくれないし、自分一人じゃ何も出来ないから、もし生きていけなくなったら楽に死にたいな。

manamanaba 遺族年金しかないなら増田自身確定申告はいらんのでは…?/"カッとなっても暴力を振るわないよう、最近はもうしばらく口を利かない方向にしている" これができるってことは進歩はしてるんじゃないの

自分はいい歳して確定申告って何なのかがさっぱり分からないんだけど、先日年老いた母が机で数々の書類と数日くらい戦っていたような気がする。

喧嘩になりそうな時は、顔を合わさないよう口を利かないのが一番だと分かったけど、自分場合はそれが一週間くらい続くし、口を利かないと母が凄く不機嫌になって向こうも喧嘩腰になってくるので色々しんどいなあと思う。

natu3kan 学校行く日が少ないと気まずいとかもあって、休み癖つきやすい。断続的に持病で病欠するのもあって親も気に掛けるし。職歴ない人には自活できるくらい食える賃金がでるまともな仕事ってあんまない。

そう言えば、昔休み癖付いた時は仮病を使って平気で数日休むとか当たり前の子供だった。その間家でゲームばかりしていたけど、お陰で学校では友達が出来ないし勉強も付いていけないの悪循環だったかもしれない。

食べていけるだけの賃金が出るまともな仕事がもう無いなら、このまま親の貯金を食い潰して死ぬまで家に引き籠るのが一番なんだろうか。

spiro_bi 本人が書いたという前提で。個人作業単発バイトをやって向いてそうな分野を探すのは? 言語処理ならランサーズテキスト作成とか。あとプログラミング筋トレなどの達成感がありそうなもの中で合うものを探す。

本人が書いてるよ。個人作業単発バイト履歴書だけなら良いんだけど参加する際に何かの派遣会社登録しなくちゃいけないのが面倒臭いなって昔思った気がする。大体近場に無くて家からも遠いし。

昔、中学校時代友達と一緒にそういうバイトに行っていた時、引っ越しアルバイトミスしてヤクザっぽい人達に金出さねえぞ!って叱られたのが怖くて、その後行かなくなった事思い出した。

アドバイスありがとうプログラミングは無理だけど、筋トレは昔本当に一瞬だけダンベルしたリプロテイン飲んだりするのにハマってた時期あったよ。プロテイン高かったけど。

sds-page eスポーツ選手育成の名目障碍者雇用枠で雇った人に一日中ゲームやらせてる所があると聞いたがそういう枠組みでうまくハマらないだろうか

障碍者でもTVゲームに特化した人とか滅茶苦茶上手いんだろうね。自分漫画読んだりアニメ見たりして時間潰してるから、一日中ゲームするのはそれはそれで大変そうだなって思う。

kwsktr この増田のためにも安楽死が早く認められるといいな。長生きしないほうが幸せなことはあるはずなんだ。

早く死んだ方が良い、どうせ死ぬなら楽な方が良いと分かってるのに、いざ自分死ぬかもと思うと滅茶苦茶怖くなる。長生きしてもどうせろくな事ないし、他人迷惑をかけるだけなのに。赤木しげるみたいに死にたい

いまは漢字変換されるから

書けなくでも薔薇という漢字はうてる

読む方は結構行けるけど、自分で書くのは無理なんだよね。

7日でなんかできないからって逃げるのはメンタル弱すぎて弱者男性に入れていいと思う

普通の人はもうちょい長持ちする物なのかな。

一人暮らしして生活保護受けよう。

この文章が書けるなら生保書類はなんとか書けるだろう。一週間ならバイトできるなら手続きもなんとかこなせるだろう。水際作戦回避方法pcで調べよう。

生活保護の事はちょっと考えてたけど、生活保護 水際作戦検索しただけで面倒臭そうでこんなの絶対自分には出来ないな…って気持ちがまず第一に来ちゃった。バイト単純作業だったし。

文章を書く能力書類仕事能力は別なので…

低学歴でも漫画小説などをよく読むならそれがよいトレーニングになってるんだわ

好きこそものの何とやらだね

学生時代は本当小説漫画ばっかり読んでた気がする。中でも菊地秀行夢枕獏が大好きで愛読してた。今だとああいエログロ物は自分から読もうとは思わないけど…

未来の俺だ……。でも俺周りから発達障害扱いされるけど精神科検査したら発達障害じゃなかったか元増田より詰んでんだわ。はよ死にたいね。

未来の、って事は今現在はそうじゃないって事だろうか。周りにそういう事を言ってくれる人が居るのと、精神科検査でそう診断されなかったって事は社会に馴染めてるって事、なんだろうか。辛い時はもう早く死にたいと思うね。

アドバイスが2つある

①薬を変えよう

自分に合ってない薬でたまにしか飲まないのは勿体無い

せっかくのドーピングなんだ、合うまで何度も変えてもらえ

②売る仕事をしよう

雇われるのが向いてないのはしょうがない

パソコンで何かを作って売ればいい

どれだけ馬鹿でも話す機会がなきゃバレないし、BOOTH等で電子資産を売ればいい

媚びる必要もなく、作りたい時に自分のペースで作って、買う奴が勝手に買う

今ならAIを使えばスキルがなくても大丈夫

①のアドバイスについて、これまで出してもらった薬はコンサータストラテラで、コンサータは調べたらまんま覚醒剤と言うのもあって飲んだらテンションが滅茶苦茶上がって24時間寝れないとかもあって怖かった。

今出してもらってるのはストラテラだけど、こっちは飲むと気持ちが極端に落ち着くというか、はっきり言えば鬱状態になるからあんまり飲みたいと思わなくなる。何もかも面倒臭くなるから暴力性も抑えられるのは良い事だと思うけど。

でも、診断して薬を出してくれるお爺ちゃん先生と、こういう薬を出してもらえませんか?って話をするのが面倒臭いし、ストラテラ以外に良い薬があるのかも分からいから、せっかくのドーピングだけど有効活用出来る気がしない。

②のアドバイスについて、家から出ないで、何か適当に作った物がネットで売れたら良いなあ、とは自分も前から思っていた。ただ思うだけで何も行動してこなかった結果、今の自分があるけど。

パソコンで何かを作ってそれをネットで売っている人達って、本当に凄いなって思う。酷評に晒されたりもしているけど、それでも何かしら世に出せているというのはそれだけで何もしないという事には遥かに勝ってると思う。

アドバイスありがとう

ダウン症や重度知的の子も重複障害で幼少期に命に関わる手術歴あることが多い

本人や家族幸せならいいけど

そうじゃないのを見ると

医療福祉って誰のためにあるんだろう...と暗い気持ちになる

何かしら医療福祉の力を借りなければ、幼少期に死んでいた筈の子供は、本来長生きすべきではない、生まれてくるべき子供では無かったんじゃないだろうか、と最近では思うようになってきた。

物心が付く前から体が弱くて何回も死にかけてきた、という自分記憶にも無い生い立ちを家族から聞かされる時、その時延命治療しないで死なせていれば今の自分は苦しまないで済んでいたんじゃないだろうか、なんて思う。

お前に必要なのはケイゾクして仕事をつづけることだな

普通に働くのが無理なら作業所いけよ

作業所ってキーワードが一度も出てこないのが不自然すぎる

このトラバを見て初めて「B型作業所って所で働いてみない?」とこれまで母親に何度か言われた事を思い出した。ひょっとしたらつい最近も言われたのかもしれないけど、個人的に嫌な話題なので言われてもすぐ忘れてたのかも。

完全なイメージで悪いんだけど、ああい作業所は…特別支援学級に通っていた子供達が大人になってから行くような場所、というイメージがあって、そういう所に自分も行け、と言われる事にとてつもない反発が自分にはあった。

自分発達障害アスペルガーでひょっとしたら軽度知的障害かもしれない、なんて何度も何度もバイト短期で辞めて、やっと諦めて精神病院に行こうとするまでこれまで考えた事も無かったくらい、自分プライドが高かった。

父親母親兄弟も、何かしら精神を患っていたけど、自分だけはこの家の中でまともな人間なんだと、何の根拠もなく何十年かは思えていた。馬鹿自分馬鹿である事に気付かない、と言うのは本当の話なんだと思った。

今後、もし…無料アニメ漫画に触れる事に飽きて、何かの気紛れで働きに行こうかな、と思った時はB型作業所に行くのも良いかもしれない。自分障碍者なんだと認めるだけで数十年かかった馬鹿中年だった。

リスキリングできてんだからもう社会でやってけるはずだよ

スキンングってワードえこれまで生きてきて一度も聞いた事ないから無理だと思う。

2023-03-09

産めない年になったら子供欲しくなるよ

産めない年になったら子供欲しくなるよ、若いうちに産んでおいたほうが楽だよ

って20代の頃よく言われたけど後半は真実だけど前半はそうでもない気がする。

アラフォーになって産めない年にはなったが、結局物心ついてから今の今までほしいと思わなかったよ、一度も。

でもアラフォーになって育児どころかフルタイムで働くのすら体力ふらふらになってるので、後半はマジだと思う。

若いうちに産んでおいたほうが絶対にいい、と、子供がおらん自分でも思う。

若いうちに産めるようにしてあげてほしい。三十路までの出産に手当出してあげてほしい。

逆に四十過ぎてから不妊に悩むようないまさら遅い奴らのことは放置すりゃいいわ。

そいつらのすでに劣化した卵子精子からまれ子供、ハズレ率高くなるのは科学的に証明されてるんだから、それらに金や医療資源使わないでほしい。無駄やん。

2023-03-06

ちんこもいだ勢だけど、ちんこもぐのって大変なんだぞ

追記

大変遅くなりました!!!

本当に今更ですが・・・ちょっと長くなりすぎたのでnoteに返信を書きました。

新規noteアカウントです)

https://note.com/akanenbo/n/n377af3f862ce

もし良かったら返信も見てください。

追記

やー…すっごい伸びてしまってあわあわしています

心配応援してくれた方、本当にありがとうございます

あなたがたの様な人が居るお陰で私や性違和がある人、もう少しいえば色んなマイノリティの人が救われていると思います

マイノリティ代表者面じゃなくてあくま想像なのですが!

本当にありがとうございます

 

ちょっと夜に返信と補足書きます

術中と術後の話も需要ありそうなので記載しま

今回はもぐまでの話だからって事で省いちゃった

疑問点とかあれば出来る限り記載しま

 

あと、トランス女性じゃなくなったみたいな表記不快感を与えた方、ごめんなさい

私は本当に戸籍身分証明書の事でしか考えてませんでした

どちらが正しいかは私にはわからないですが、デリケートな話を本質じゃない所でするのは良くなかったです

本文

https://anond.hatelabo.jp/20230306124934

この記事へのアンサーです

記憶を頼りに書いたらので色々間違ってると思うので正確な内容は一次ソースあたって下さい

プロフ

この間お兄ちゃん子宮切除しなくて済むよ!って書いた増田です

うへへ…ホットエントリ入りすると増田の味がやめれなくなるね

あくま自己経験からですが大変なんだぞって話をしま

ちなみに戸籍女性になってるので厳密にはもうトランス女性じゃなくて女性カテゴリになってるけど悪しからず

今回は前みたいにマニアックじゃなく…なる予定でしたが色々書いてたら長くなっちゃった

. 手術の金銭面の問題

まぁ高いっす

SRS(最適号化手術、ちんを切って女性化する手術、以下SRSどだけ)を受けるには国内タイ、その他医療先進国、で受ける手段があります

  

ですが、SRSを受ける人は大体タイを選んでます

理由はいくつかあるのですが、値段と技術と期間とアフターサポートとその他諸々含めて一番いいからですね

一般の皆様は国内で受ければ良いって思うんでしょうが、予約がめっちゃ先の…私の時は3年先とか?まで埋まってるから海外行きたくないって強い意志でもない限り選択肢から外れます

一応保険適用になったっぽいんですが(前にも書きましたが)ガイドラインにあるホルモン適用してたら保険適用外になるという不思議現象が起きていて殆ど使われてません

ホルモン例外が無くなれば選択肢に入る可能性もあるのですが

あと日本は残念ながらSRS技術後進国なので、非常に質が悪く…女性器の形が良くならなく、ネイティブ女性のそれとかなり違い、かつ感度も良くないらしいとか

 

で、次の選択肢先進国アメリカとかカナダとかですね

高すぎるので選択肢に入りません

石油王なら選択肢に入るのかな…詳しくは知りません

質は良いと聞きます

 

そして、タイです

タイには名医と言われる先生が2人ほど居て、それぞれの先生名前からガモンホスピタルスポーンクリニックという病院があります

おそらく日本人含めたある程度お金あるSRSする人はこの二つの病院から選びます

ガモン先生はチンを再利用して周りの神経とかまで使って穴を作る権威

チンだけ先に切るとこの術式が使えなくて大腸使う方式になるんですよね

スポーン先生は…私は余り知らないですがスポーン式とかい方法でまた権威先生です

当時ガモンクリニックで70万円ぐらいでスポーンクリニックは+30万円ぐらいだったか

今は円安から100万円ぐらいしちゃうのか

これに交通費と3週間のホテル病院指定)とあわせて130万円ぐらい

最低でこれぐらいですがここから更に費用がかかります

 

まずアテン会社料金

入るのは必須じゃないんですがタイでの書類を出すサポートとか1人の病室に来てくれたりとか、非常に手厚いらしいです

私はお金ギリギリだったのでアテン会社頼みませんでしたがガイドとかではお勧めされてたりしま

これで大体30万ぐらい上乗せですね

 

さら個別の追加料金

30歳?か35歳?以上になると確か追加でお金がかかりました、20%増しとかだったか

さら体重70キロ超え?とかだとさら20%とかかかります

そしてチンを使わない術式…これ、チンを切ってしまったとかでは無く、チンの長さが11センチ?以下とかでも使えないんですよね

そうなると穴を作るのに大腸の一部を切り取る必要があり、60万ぐらい追加料金になります

更に術後の経過次第で3週間では帰れない事もあるのでバッファ滞在費と交通費必要です

 

長い間海外に行くわけなので荷物も何かと必要ですし合計350万ぐらいは計算した方がいいですね

手術外の金銭問題

昔は雑にSRSできたらしいのですが、それでバキバキ手術した人が死にまくったらしく日本人がSRSするにほガイドラインというものを通さないといけなくなりました

これも、かなり費用かさむのです

まず初めに染色体検査血液検査性器検査、諸々で10万ぐらい

あとガイドラインが進むと週に一度ホルモン療法で5000円ぐらい、二月に一度血液検査で一万円ぐらい

さら女装が好きな性癖じゃなくて女性になりたいんだよねって確認の為に精神鑑定

 

これを数年行わないと日本のお医者さんはSRS受けていいよって許可証を出してくれません

この許可証が無いと国内国外わずある程度ちゃんとした病院ではチンを切る事も出来ないのです

社会生活健康収入問題

さっき書いた許可証がとても大切で手に入れるのが非常に大変です

まず「私は小さい頃から心が女性でした、男性で苦しいです」って言うのをお医者さんに認めて貰わないといけません

そのため、物心ついてから今までどれだけ苦労してきたか証明する必要があり、今までの人生を作文にしま

国語力が低いとこれが通過しません

 

さら社会生活女性として一年?以上過ごす事が必要となります

正攻法では通すためには、社会人としてトランス女性として一年ぐらい給料貰う必要があります

トランス女性雇う会社なんて普通ないんですよ(今は多少増えてたりするのかな)

私は水商売から例外中の例外ですが、水商売しないでトランス女性給料貰うってどうすれば良いんでしょうかね

トランス女性社会生活送るなんて事が不要なら水商売してなかった…かなぁ

世の中にはお酒とかコミュニケーションとかそれ以外の事とか苦手な人も居るのに、それらの人がSRSするにはめちゃくちゃ難易度が高いんですよ

私は3年ぐらいで許可証出たのですが、それでもとても早く許可された方なんですよね

 

書いてて思いましたがこの間はどうしてもトランス女性としてトイレ行く必要があります

バレなければ問題にならない女性トイレか入った瞬間に時によっては怒鳴られたりもする男性トイレか…

多目的トイレ存在が有り難かったですね

私は容姿かについては恵まれてる?方で元から銭湯に行って女子鍵渡されてたタイプなので(ここ自慢)まだ良かったのですが、それでもトイレ問題がおっくうで外に行く機会は減りました

容姿問題残酷で。どんなに良い人でも男性しか見えない人は現代日本ではトランス女性として生きて行くのは非常に大変なのです

 

 

そういうハードモードで、さらSRSお金貯めないといけないのです

マジで水商売するか石油王芸能人以外の人はどうやってSRS要件満たすのかな

 

さらに手術をすると自由に動けるようになるまで最低半年かかります

私は完全復帰するまで5年とか掛かったのでその間は親にごめんなさいして住ませてもらいました

ジェンダーの事で縁切られた後だったので5年ほど死んだように過ごしてました。それでも親には感謝しきれないです)

私は術後の経過最悪だったのと精神がやられたので特殊ですが、一年収入途切れても大丈夫な人しかSRSは厳しい気がしま

健康・その他

性病持ってると手術してくれません

血液検査結果で血液が固まりにくいと手術してくれません

皮膚病で手術できない事があります

健康精神状態じゃないと手術してくれません

体重一定以上あると手術してくれません

18~59歳の間じゃないと手術してくれません

他、色んな検査のどれかが引っかかると手術してくれません

 

チンを切る話では無いですが、結婚してるとチンを切っても離婚しないと戸籍変更できません

未成年の子供がいると戸籍変更できません 

手術の危険

描くの忘れてたよ!

手術するときには、死んでも何が起きても仕方ないですって書類サインする必要があります

ガモンヤンヒーでは余り聞かないですが、まぁ死ぬ例もあります

また、ソース忘れたのですがSRS終わっても術後一年で無くなる人も多いのだとか

女性になれた!…あ、もう人生思い残す事ないや。死のうって感じで自殺する人とかも多いらしいですね、今まで苦しかった分余計に

私も、かなりそういう風になりかけました

まとめとか

コロナのせいで海外での手術も出来なかったようです

手術は前払い国際送金で「何かあってもこの日に手術出来なきゃ手術できませんお金は返せません」みたいな契約ありましたが、コロナ前にお金払ってた人はどうなるのかな…

 

あと最近(といっても私が手術した時)はLGBTみたいな運動が軽く出始めた時で手術する人が多く、一年ぐらいは手術待ちました

今だと更に待つんじゃないか

 

…と、言うわけで「私は男じゃない!」ってなった後すぐにチンを切ろうと思っても中々大変な訳です

ジェンダークリニックに行ってる人は結構多いんですが実際執刀までできたのはどれぐらいなのか

私も精神も病むしお金も無くなるしほんっとうに大変だったんですよね

ここまで調べるのも大変で、私には色々教えてくれる師匠みたいな人がいたか戸籍変更まで終えたのですが、1人だと無理だったでしょうね

ここでは書きませんが、手術もまぁー大変でした

 

から女性になるのって本当に大変なのでトランス女性に石投げる時は少し手心があると嬉しいです

昔の自分に石投げられてる感じがするので…

anond:20230304141158

・うりこひめ

物心いたころに労働力となり嫁にいかされる奴隷だったので…

2023-03-03

大川隆法と、冷めた2世会員の私。

唐突だった。会から離れていても、人生に大きな影響を及ぼした人が亡くなったという事実は、衝撃がそこそこあった。

と同時に、これからは多分、自分幸福の科学についての話は、本当に「過去の話」になる気がした。

語れなくなる前に、幸福の科学が影響する自分人生を整理しておこうと思う。

あなたは誰

- 幸福の科学2世会員

- 1990年代まれ20代男性

- 幸福の科学運営する塾や学校に通っていて、学生時代はそこそこ熱心な信者だったが、社会人になってからはゆるゆると遠ざかり、今は特に活動勉強などしていない。「わざわざ脱会までしなくていいかなー」と思って特に脱会はしていない。

私と幸福の科学/大川隆法関係

まれ環境

- 両親が幸福の科学信者で、特に母が熱心な信者だった。

- しかし父は自分が小さい頃に脱会している。

- でも幸福の科学ではないスピリチュアルもの関係がある様子で、その辺りは昔も今も聞きたくないか適当にあしらっている。

~中学生
物心ついた時から生活幸福の科学であふれていた

- 家に幸福の科学の本がたくさん置いてあったので、なんだかたまに読んでいた記憶。置いてあったら単純に興味が出る

- 神棚(幸福の科学では「ご本尊」と言う)も家に飾ってあって、たまにお祈りしてた

地域支部にも母親とよく言っていて、よく「御法話(大川隆法の説法のこと)」を聞いていた。独自システムで全国生中継をよくやっていた

たまーに母親活動についていって、街頭演説とか、パンフレットの配布を手伝っていた記憶

「外で伝道活動するの偉い!積極的にやっていこう!」って教えられる。特に子ども活動していると、会の中では「超優秀な素晴らしい子!」として扱われる

褒められちゃうなら、子どもは頑張っちゃうよね。

大きめの講演会もちょくちょく行ってた。

小学校後半から幸福の科学運営する塾「 サクセスNo.1」に通っていた。

- 今調べて初めて知ったんだけど、サイトあるんだね

- https://success-no1.happy-science.jp/

毎日祈りするのがいいんだよ」と言われていても、めんどくさくて半年に1回くらいしかやらなかった

- そもそも親と一緒に何かするのが恥ずかしい、みたいなとこもあったな。

- みなさんも「親と一緒に家でお祈りするの恥ずかしい!」って思ったことありませんか?

子どもながらに一般社会との違いを感じながら生きていた

- 自分の家庭や前述した塾では幸福の科学の教えを前提にした会話が繰り広げられる。

- 「守護霊が〜」「過去世が〜」「 最近の教えで総裁先生(信者の間では大川隆法のことを「総裁先生」と言うことが多かった)はこんなことを言っていて〜」とかとか。

- ただ、そうやって普通に会話することが周りの子には通じないし、そんなこと言ったら変な目で見られてしまいそうなので、「幸福の科学用語」が表に出ないように気をつけて生活していた

~高校生
幸福の科学運営する高校に通った。通ったというか全寮制なので、3年間生活していた感じ。

- サイトはこれ

- https://happy-science.ac.jp/

割と真面目だし、色々やっていたので、「信仰心が高い生徒」だったと思う。

- 学級委員とか、部活部長とか、生徒会役員とか・・・

- その辺りの役回りをこなすと、自然大勢の前で「幸福の科学の教えを広げるために、自分達に何ができるか?」「信仰心大事だ!(バーン)」といったように、他の生徒を鼓舞して、信仰心高まるような演説をする機会が非常に多かった。

- 当時はそれが素晴らしいことだと思ってたんだ。

同級生とか

- 母親けが熱心な信者で、父親の反対を振り切って入学しました!って子、自分は行きたくなかったけど両親に強引に入学させられちゃった・・・って子とか、色々いた

- 幸福の科学に対する対する考えは人それぞれ。大人になった今でも熱心に信者やってるは、3割くらいじゃないか・・・?って感じ。

- ただそういった会との関係を抜きにして、自分にとっては「青春を過ごした同級生」なわけで、たまに会ったり、飲んだりする人が結構いる。

毎日祈り時間があった。それはもうたくさんあった。

- 朝起きてから寮でお祈り

- 学校が始まるモーニングルーム最初にお祈り

- 学校が終わってホームルーム最後にお祈り

- 部活夜ご飯時間が終わったら大講堂に集まって夜の祈り。これがちゃんとするやつで、たまにフォーマットは変わっていたのだけど、御法話聴くタイム10分+お祈り20分、みたいな感じだった

- 寝ちゃう人たくさんいて、生徒会などでは結構問題になって有志で色々話し合ったり対策を考えていた記憶・・・

寮生活普通にしかった。就寝時間過ぎても友達夜遅くまで話したり、職員の目を盗んで窓から抜け出したりしてました。ド田舎にあったんで、星が綺麗だったなあ・・・

- ド田舎の寮で最寄のコンビニまでも30分かかるくらいだったので、生徒の間ではこの環境のことを「那須リズン」と呼んでましたw

学校先生は皆、熱心な信者だった。いい先生が多くて、好きな先生も多かった。

- たまに、「実は名前だけ会員になってただけで、幸福の科学の本とか全然読んでなんだよね〜w」って先生もいたな

自分高校に通う頃から幸福の科学映画作成の頻度が高くなっていたが、アニメとか映画をよく見る人たちの間で「この映画クオリティ低すぎるだろ・・・。これを良いと言っちゃうおかしいんじゃないの・・・。」って会話をしばしばしてた。

- 自分映画アンチで、「つまらないストーリーが全てを台無しにしている」「最後はどうせ信仰心で何もかもうまくいくだけの薄い映画」などなど、猛烈に批判していたが、「映画面白くないのは信仰心たりないから」って感じであしらられていた記憶

- しかも同じ人が何回も見に行ってるからな。まじで何やってんだ本当に。今でもそうだよな。作品クオリティに真面目に向き合っていあたら、10年やってれば普通に面白映画作れる可能性あったんじゃないのかな。

- 映画に限らず、会の流れにそぐわない意見は良くないものとする雰囲気がただよっていた。これは幸福の科学全体に言えることで、熱心な信者ほどそんな意見を持っている人が多かった。

- 自分映画がクソすぎたのが、幸福の科学の考えに違和感を持つ原点だったのかな。今思うと。

受験勉強はみんな、「総裁先生のために!」と言って頑張ってました。私も頑張りました。

- ただ、「総裁先生のために」と言ってとりあえず頑張っていれば結果関係なく褒められる、みたいな空気があったのもわりと嫌だったな。

大学生社会人(今)
大学地元に戻り、実家から通っていた。

大学生活は普通にやったし、バイトもしていた。その面は普通。ただそれ以外の時間幸福の科学活動を頑張ってた感じ。忙しい大学生だった。

幸福の科学学園を卒業した子は「アデプト(信仰心に目覚めた新人類)の卵」ともてはやされ、大学生所属して活動する学生部での活躍を期待されていた

- ただ卒業生の半分くらいは、大学に行った時点でゆるゆると会から離れていき、学生部にも顔を出さなくなってた

- 自分学生部にわりと頻繁に行ってて、学生部長とかもやったし、合宿も割と行ってた。運営ちょっとした。

- 知り合いのうち何人かを、総裁先生(大川隆法)の講演会に誘って一緒に行ったりした。

- 1人くらいは会員にもなった。その人はもしかしたら、今でも熱心に活動してるかもしれない。

- その人の人生にめちゃくちゃ大きな影響を及ぼしちゃったと考えると、なんとも言えない気持ちになります・・・

でも学生部活動を続けるにつれて、「社会的に苦しいことがあっても信仰とることが大事!」「まずは幸福の科学活動第一!」みたいな雰囲気が肌に合わなくなっていった。

- 口には出さなかったが、偉い人の話を聞きながら冷静に「いや、そうはならんやろ。」ってツッコミを心の中で言ってたこともある

- 理想信仰だけを語り、現実を見ない会員の姿を見れば見るほど、なんだか嫌になっていたんだ。

- だから大学3年生くらいの時から自分おかしいと思うことは断固活動拒否していた。そうなってくると学生部長をやるのが苦しかったので、割と早めにその役を降りた。

- その地区担当していた職員さんから、「本当に後悔しないんだね?」と何度も聞かれたが、「後悔しません!」と何度も答えてやっと役を降りれた記憶

- その人も悪気はなさそうで、単純に純粋な"信仰心"で何度も引き止めてくれていたと思う。

社会人上京して1人暮らしを始めた、社会人1,2年目は家の近くにたまたま幸福の科学施設があったので、たまに通っていた。

- 通っても本を読んだり、瞑想したりするくらいだった。社会人になってからは「研修(総裁先生の説法をもとに作られた、教えについて深く学んで悟りを追求するためのプログラムみたいなやつ)」も受けてないし、合宿にも行ってないかな。

- 一瞬、若者が集まる青年部に顔を出したりしたけど、2,3回参加して肌にあわず行かなくなった。

- なんかやはり、一般社会との考えとか違いすぎて・・・あんまり頭良くなくても、とりあえず信仰心高い行動している人の声が大きなり、現実と向き合わないような雰囲気があったね・・・

社会人になっても親から映画見て!」とか、「本読んで!」とかLINE来たりするので、まあ人付き合い程度に映画見に行ったり、本を読むなどしていた。

- でも映画はやっぱり、いつまでたってもクソなので数年前から全く見に行ってない。

- クソな映画なのに、「動員数ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って同じ人が何回も観に行ってるのも嫌い

- 「ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って映画評価サイトに星5つけまくる活動も嫌い

- 作品真摯に向き合ってくれ!

本は年に1回パラパラ読むくらい。幸福の科学は年に1回「法シリーズ」と呼ばれる書籍が出てくるので、それを年初にパラパラと読んだのが最後かな。感想としては、「なんかずっと同じようなこと言ってるなあ。」って感じ。

- 2023年の法シリーズは、地獄の法!Amazonでも買えるぞ!興味があったら買ってみてくれよな👊

- https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2888

新型コロナ流行たことで、自分幸福の科学離れが加速した

- ワクチンに対するスタンスが、ネット陰謀論レベルなっちゃってるんだよね

- ワクチン打つとDNAが書き変わる!とか、ワクチン病気になりやすくなる!とか・・・

- 自分ちょっと調べた感じ、総裁先生は「信仰の力があれば大丈夫」とか、「新しく開発されたワクチンなので長い目で見た効果心配ですね」くらいのことしか言ってなかったと思うのだが、それが会員の思考レベルになるとなぜかワクチン陰謀論になってしまっていて。

- 幸福実現党(幸福の科学が立ち上げた政党)も、なんか陰謀論っぽいこと言ってたりして。

- 幸福の科学職員が、ワクチン陰謀論に関して本書いてる人と対談するイベントもあったりした記憶

- 「こりゃあ、おしまいだあ🙌」と思った。もうなんか、熱心な会員さんほど普通に社会を生きるレベル常識麻痺させなくちゃいけないんだなーと。「大川隆法から離れたい」というより、「幸福の科学という組織から離れたい」と思ったんだ。

ただ、幸福の科学大川隆法全否定ちゃうと、自分人生経験をことごとく否定することになっちゃう。

自分と同じような2世会員はそんな葛藤を持って生きている人が多そうなのだけど、自分はわりと、自分人生幸福の科学/大川隆法に関する整理が冷静にできており、うまく生きてるなーって思うのでそのことを書こうと思ったのだけれど・・・

自分過去をまとめていたら案外長くて、

「今、幸福の科学に対してどう思っているのか」とか、

大川隆法総裁先生)が亡くなって感じていること」を書きたかったのに時間がなくなってしまった・・・

ちょっと時間できたらそのことも書こうと思います。🫡

長文乱文失礼🙏

ADHD当事者リアル感覚

ふと、ADHD当事者リアル感覚表現したいと思った。

物心ついた頃から現在までのことを(ボカしやフェイクを入れつつ)時系列で書かせていただく。

N=1の話で恐縮だが、読者には少しでもADHDについて知って欲しいし、それにより社会の分断がなくなって欲しいと思う。

と、ここまで書いて思ったのだが、私は数日前よりADHD治療薬を断薬しており、マトモに「書く」ことができないことに気がついた。数日ぶりに薬を飲むこととする。

1.〜小学生

およそ30年前、共に高卒の両親から長男として産まれた。

母親専業主婦だったり、少しパートをしたりしていた。

父親について覚えているのは、しょっちゅう会社を辞めてしまうということだ。それも突然に。

故に、夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。

何かが(主にカネ)キッカケで口論となる。

不貞寝する父親。怒り狂う母親

暴力を振るう父親実家電話しようとする母親

電話線をハサミで切り、電話機を叩き潰す父親

父親包丁を突きつける母親。まだ産まれたばかりの弟を盾のように前に突き出す父親

床にぶちまけられる牛乳

警察を呼んだ方がよいのか本気で悩む自分

私が思い出せる小学校低学年頃の家庭の記憶はほぼこれだ。

弟が1歳の頃、「ハロワいけ!」と喋ったことを覚えている。母親の真似である

自分自身について書くと、忘れ物の多い子供だった。

教科書を忘れ、資料集を忘れ、宿題の提出を忘れ…

机をくっつけて、隣の席の子しょっちゅう見せてもらっていた。授業はまあまあ理解できていたと思う。

宿題に関しては「忘れる」というより「やろうとしても動けない」が正しい感覚

テコでも動けなかった。

宿題の代わりに家で何をしていたかというと、デュエル・マスターズデッキを組んだり、ミニ四駆カスタマイズをしたり、スマブラDXをしたり…?あれ、そんなもんかな。当時何してたか自分…あまり思い出せない。熱中すると深く深くどこまでも熱中し続ける性格だった。(過集中)

同じマンションに1つ下、1つ上の子供が何人か住んでいたので、毎日遊んだ河原秘密基地作ったりとかしていた。

また、男女分け隔てなく誰とでも遊ぶ子供であった。

違う。

(上で挙げたマンションの住人以外の)男の友達がどうしても出来なかった。

全く交流できないということではなかった。

あいさつはするし、何人かでサッカーをする時は参加していた。

同学年で話したことがない人は恐らくいない。

誰とでもそれなりの雑談ができた。

しかし、そこ止まりだった。

輪に入れはするが、誘われる人間ではなかった。

故に、常に疎外感を感じていた。

今になって振り返ると、原因は恐らく「自分の話ばかりして止まらない」から嫌われたのだと思う。

次第に、無理してグループにいなくてもいいと思うようになり、休み時間教室でひとりでボーっとしていた。

かねた心優しい女子グループが、自分を輪に入れてくれた。情報量0のどうでもいい雑談がとても楽しかった。自分が輪に誘われたことが、なんだか初めて他人に受け入れられたようで、とても嬉しかった。

通信簿の「担任からコメント欄」には毎年「男女分け隔てなく仲良く友達がおり〜」と書かれていたので、客観的にはそう見えていたようだ。

2.中学高校大学

地方なので中学受験をする人なんてひとりもおらず、当然のように地元公立に進む。

当時は中学受験という言葉すら知らなかった。

中学での成績は150/200あたりだった。

日々の勉強時間は0分。

たまに一夜漬けの過集中が爆発して、50番あたりになった。

国、社、英は不得意で、理数が得意だった。

相変わらず宿題はできないし忘れ物は多かった。

勉強をしない分の時間は何をしていたかというと、運動部活動をするか、家のパソコンニコニコYouTubeを見たり、携帯を買い与えてもらえたのでモバゲーMixiをやっていた。

中学3年で麻雀を覚え、どハマりした。

ハンゲーム天鳳毎日夜中まで打つようになった。

高校受験は持ち前の過集中で上振れを引き、偏差値50位の公立情報学科に滑り込んだ。

元がアホなので上振れしてもこの程度である

地方偏差値50なんてハナクソオブハナクソである

なぜ情報系にしたかというと、自分専用のパソコンを親に買ってもらう為だ。

高校では朝読書時間があったので、とつげき東北氏の「科学する麻雀」を何度も何度も読み込んだ。熱心に読みすぎて、本の小口が手垢で黒くなった。点数計算を覚えたり、チンイツの牌効率を考えたり、24時間麻雀のことを考えていた。

この頃はもう自分の行動を制御できなくなっていた。自室のPC毎日朝までニコ生をしながら天鳳を打っていた。学校の授業は全部寝ていた。教師は注意しても無駄だと悟ったようだった。自分人生天鳳の段位とレーティングが全てだった。

謎の過集中で競技プログラミングが少し出来たので(当時はchokudai氏もまだ大学生で、AtCoderもない時代だった)、大会に参加して何度か受賞するなどした。

その後、持ち前の過集中により小論文面接突破し、AO(アホでもオッケー入試)により近所の私大に滑り込む。

麻雀への情熱大学に入っても変わらず、1限どころか2限3限も出席できなかった。たまに講義に出ても何も分からなかった。

イプシロンデルタはみんなも分かってないようだったが。

情報系科目だけはテストだけ出て100点を取るという天才ムーブかました(自慢)。

数学情報科学だけは好きだった。

麻雀サークルに入った。楽しかった。今でも付き合いのある友人が数人できた。

2年次が終わった時点で16単位しか持ってなかった。中退した。

3.社会

バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳が社会放出された。

なんていうか、普通に死のうと思った。

ある日、ふと一回死んだ。

自○未遂をしたということではない。

自分は今死んだ。そして新しい自分が今生まれた。そう思うことにした。

どうせ一回死んだのだから、もう好きに生きよう。

それでなんともならなくなったら、生活保護でも受けよう。

それもダメなら最終的に死ねばよいだけだ。

とにかく今死ぬのはもったいない、と思うことにした。

一応、親は家に住まわせてくれた。

速やかに就職して家を出ろということだったので(言われなくてもそうするが)仕事を探し始めた。

やり方がわからなかったので、若者向けハローワーク的な所に行った。色々親身に相談に乗ってくれて、クソみたいな人売りSIerを紹介していただき内定が出た。

自分内定が出るということは、「バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳に内定を出さざるを得ないクソ企業であることが導かれるのである

人売りのクソさを書くと主旨がブレるので割愛する。

結果的に、一年半で会社を辞めた。

自分特別社会適応できなかったのかは分からない。他にも大勢辞めていたから。

この辺で(不快になる方もおられると思うので大変恐縮なのだが)所謂理解ある彼女ちゃんが突然地面から生えてきて、家を出て2人暮らしを始めた。

会社を辞める前に人生初の精神科に行き、うつ診断書を書いてもらい、色々金に困らないような諸手続きをした。こういう手続き自分では何もできないので、理解ある彼女ちゃんサポートしてくれて本当に助かった。

うつ治療で通院する中で、医師よりADHDについて指摘された。

ストラテラというADHD治療薬を飲み始めた。

3割負担だとバカ高かった。1ヶ月分で5000円以上したのではないだろうか。当時はジェネリックがなかったと思う。無職にはとても支払えなかった。

色々手続きをして、1割負担になった。

4.現在

ストラテラを飲み始めてから、本当に変わった。

脳の中の話なのでうまく言語化するのは難しい。

簡単にいうと頭がめっちゃ良くなる感じだ。

特に「読み書き計算」がすごい。

今まで自分は文をうまく読めなかった。

脳のメモリが小さいので、読んだ瞬間内容を忘れてしまい、戻り読みばかりしていた。

また書くのはもっと苦手だった。いくら考えても頭にモヤがかかり、表現が出てこなかった。

そして計算は最も苦手だった。一時的に何かを記憶しておいて、他のことを考えるのが無理だった。

プログラミングが得意だったのは、自分計算する必要がなく脳のメモリがあまり要らないからだろう。

皆これが普通だと思っていた。

薬を飲む前は苦手だとも思っていなかった。

当然みんなもそうなんだと思っていた。

こんな「脳縛りプレイ」で学生生活を送ったら、そりゃ、こうなるわと思った。

薬を飲んでからは夜更かしが減った。

自分の1日を計画コントロールできるようになった。

アホみたいな情熱に突き動かされることはなくなったが、その方が穏やかで心地よかった。

人生も徐々に良い方向に向かった。

5.総括

長々と書いてしまった。

もし読んでくださった方がいるのだとしたら、とてもありがたいと思う。

自分ADHD当事者として、発達障害で苦しむ人の気持ちが分かる。

「○○ができないだけでしょ?」「やれないっていうかやろうとしてないだけでしょ」のような反応を見ると、心が痛む。

かに、その瞬間を点で見ればただそれだけのことである

しかしながら、発達障害はその「できない」「うまくやれない」があらゆるライフステージで常に足枷となり、人生全体に負の影響を及ぼし続ける。

そして大人からは常に怒られ続け、自己肯定感もなくなり、「自分可能性」を信じられなくなる。

その一瞬だけではないのだ。「常にその状態が続く」ことによる不利が、生まれた瞬間からその人にはあるんだということを、できれば理解してほしいと思う。

そして、今小さい子供を持っている親に言いたいこと。

もし子供が何かをできなくても、その全てを無条件に受け入れてあげてほしい。

学校安心感を得られない子供には、家庭しか場所がない。

そして、もし発達障害の疑いがあるなら、早い段階で医療アクセスしてほしい。

子供保険証を持って一人で病院に行くことなんてできない。親が全てだ。

治療は早ければ早いほどよいと個人的に思う。

子供の1日1日はかけがえがない。その1日をデバフがかかった状態で過ごすことの影響は、子供の一生を左右しかねない。

2023-02-27

恋愛以外に熱意を持てない

物心ついた時からずっと恋愛脳で、好きな人が絡むこと以外全てに対して無気力になってしまう。

今でも恋愛以外に趣味は一個もなくて、好きな人が好きなもの(映画音楽など)を、話を合わせるためだけにインプットしている。

思えば、高校生の頃は担任教師に恋をし仲良くなりたい一心勉強できたが、大学進学後は勉強就活モチベが保てず中退ニートまであと一歩のところまでいってしまったりした。

初めて恋をした日から約30年間、ずっと全ての価値基準恋愛に委ねてきてしまった。

趣味仕事一所懸命になれている人たちが本当に羨ましい。どうすればそんな風になれるんだろう。

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