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はてなキーワード: 70年代とは

2022-09-05

anond:20220905030213

少なくとも70年代までなら少年野球は履いて捨てるほどいたな。クラスの3~4割くらいはやってたんじゃなかろうか。

休み時間放課後の遊びも三角ベースが主流でサッカーほとんど見なかった。

相撲中学部活では部員二けたでそこそこ人気だった記憶があるが、ほとんどはもう幼稚園わんぱく相撲程度だったな。

2022-08-21

anond:20220820221916

最近非モテだとか、喪女コミュ障といった属性タイトルにいれる文章が多いとふと思った(最近といってもここ10年くらいのスパン

これって、物語にスッと入ってもらうにはとてもいいキーワードではあるんだけど、

読み手に対する予防線でもあるんだよね。「不器用人間ですから。そっから先は聞かないでください(高倉健)」みたいな。

自虐的自称は、80年代の「オタク」、90年代の「ニート」が最初ではなくて、もっと遡れば1960-70年代ノンポリ

そのほか、もっと広くとらえれば、モラトリアム世代フーテンヤクザ浪人渡世人と、江戸時代までさかのぼる。

とりあえず非モテで考える。

タイトル自称するということは、非モテイデオロギー的な主体読み手に受け入れさせ、非モテイメージコーティングされた主体だけを提示し、物語を展開する、ということ。

非モテという言葉違和感なく入り込める、まず読者の選別をする。

そこに読者を誘導する意味は、結局のところ、選別した読者に、見せたい自分をみてもらいたいということなんだろう。

そうすると、必然的に、主題は、「自分に対する評価」になる。

自分の話がいかに読者の心に響いたか、あるいは、いか自分評価されたか、されなかったか

2022-08-14

出生率が高いのはどんな地域

anond:20220614165753

どうも元増田です

ずいぶん前に出生率について書いて、色んな疑問、例えばなんで栗東市出生率が高いのか、といった疑問をブコメでもらって、

いつか書いてみようかなと思いつつ、ついつい忙しくてお盆になりましたとさ

というわけで、出生率が高い地域はどんなところか書いていこうと思うよ

出生率が高い地域の条件

最初から結論を書いちゃう

1.door-to-doorで工業都市へ30分以内or東京大阪名古屋へ1時間半以内(もちろんandであればなお望ましい)

2.一般労働者でも広々とした家が買えること

この二つだよ

もちろんこれ以外にも要素はあるだろうけど、それは例えば「周囲から結婚圧力がある、出産圧力がある」みたいな話で、

あるかもしれないけど定量的に測りようがないし、それを答えとするのではみんな納得しないだろうしでいったん無視するよ

具体的に出生率の高い地域とは

最初に一番重要出生率データだけど、一覧性を考えて以下の日経データを参照するよ

https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/regional-regeneration/birthrate-map/#8235

基本的出生率数字はこの2013~2017の数字を指すことにするよ

ちなみにここには全国平均の出生率が書いてないけど、この期間の全国平均は1.43だよ

で、さっそく栗東市の話を~としたいところだけど、まずは大都市への近さの話をするよ

流山市つくばみらい市

一番わかりやすいのは、この2市だね

場所がわからないよって人に向けて言うと、流山市チーバくんでいうところの鼻の下あたり、つくばみらい市はそこから東方面の茨城県に入ったところだよ

出生率流山市が1.58、つくばみらい市が1.65

なぜこの2市が高いかといえば、つくばエクスプレスがあるからです

つくばエクスプレスは新しいのと郊外を走ってることもあってスピードが出せるんだよ

つくばエクスプレスができたのが2005年なので、このデータの推移を見るとこの2市が右肩上がりなのがわかるでしょう

栗東市

前回比較に出した栗東市だよ

出生率2.02

栗東市場所滋賀県南部やや西寄りのところだよ

栗東市は何があるって言うとそれはもう工場だよ

東海道新幹線に乗って車窓を見てると、北側にめちゃくちゃデカ積水化学工場、両サイドにこれまたデカ日清食品工場があるんだけど、

これらがあるのが栗東市だよ

特に日清自社工場が5か所と協力工場6か所があるんだけど、そのうち自社工場2か所(滋賀工場関西工場)があるのが栗東市だよ。(ちなみに他の自社工場茨城静岡山口

ただ順風満帆だったわけじゃないよ

新幹線新駅を見込んで土地を買収していたのに嘉田知事誕生で直前に建設中止、その後リーマンショック

傾いた財政を立て直すために市長が選んだのは徹底した企業優遇市民サービスカットだよ

からいまだに栗東市子供医療費無料化は就学前までと全国最低レベルだよ

それでも充実した雇用先で高い出生率を保持しているのが栗東市だよ

福知山市

関西方面出生率が高いところとなると、京都府福知山市も見逃せないよ

出生率2.02

下の福知山市資料を見てもらうとわかりやすいと思うけど、

https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/promotion/27481.html

福知山市がすごいのは通勤時間の短さだよ

平均通勤時間が片道で18.3分、楽々だね

かといって祖父母は近くに住んでいるけど、3世代同居は少ない=新しく家を作るだけの開発余力もあるってことだね

忍野村

関西から離れるけど(別に関西にこだわる理由もないんだけどね)山梨県忍野村を見るよ

出生率2.06

日経地図山梨県を見れば一つだけ真っ赤な場所があるからすぐわかると思うよ

忍野村がすごいのもやっぱり工場だよ

RESASっていう内閣府データを見てもらえればわかると思うよ

https://resas.go.jp/industry-all/#/map/19/19424/2016/2/4/1/-

これは企業付加価値産業割合を表示したものなんだけど、ほぼすべてが製造業

なんでこうなるかというとファナックっていう産業機械世界メーカー工場があるからだよ

Googleマップなりで見てもらえればわかるけど村に対して巨大な工場群があるよ

数字で言うなら忍野村可住地面積(ざっくりいえば平地の面積)が11.5平方キロにたいして、(正確に言えば隣町の山中湖村も含むんだけど)ファナック工場の面積が1.8平方キロだよ

まり村の平地の1/7くらいが1社の工場敷地だってことだね

 

では栗東市福知山市忍野村はなんでこんなに工場があるかって言うと、十分な開発可能土地があること

そして高速道路だよ

栗東市名神高速栗東IC栗東湖南IC福知山市舞鶴若狭自動車道福知山IC忍野村は村内にはICはないけどファナック工場の真横に東富士五湖道路山中湖IC

実をいうと栗東市はこの手の話をするときにはよく出てくる街で、なんでかといえば田中角栄日本列島改造論で、「高速道路で豊かになった街」として栗東市(当時は栗東町)が紹介されるからだよ

事実こうやって安定した雇用、そしてその結果として高い出生率享受しているわけだから、そりゃ70年代80年代に全国の首長が競って高速道路陳情をしたもの当然なわけだよね

おおげさじゃなく、村の存亡がかかってるわけだから

道路is政治政治is道路と言ったのは竹下登だと言われているけど、まさにそれが昭和後期の政治だったわけ

 

と、こう書くと、「なるほど、やっぱり少子化対策に一番重要なのは所得、そしてインフラなんだね!」ってなるかもしれないけど、そう結論付けるのはちょっと待ってほしいんだな

所得村(ただし...)

大都市ではないけど高所得な村を2つ紹介するよ

飛島村

愛知県にある飛島村だよ

この村は昔々、伊勢湾台風で甚大な被害を受けたんだよ

その復興策として当時の愛知県が全力で投資をしたんだよ

その結果、県内有数の工業地帯になって、圧倒的な法人税収を手に入れたんだよ

その結果として

・18歳までの所得制限なし医療費無料化はもちろん、

結婚で5万円、出産小学校中学校入学10万円給付

公立中学校なのにアメリカホームステイ制度もある

まり関係いから詳しくは書かないけど高齢者予算も潤沢だよ

 

これだけ仕事もあってお金もあって子育て予算も潤沢なら、さぞ出生率が高いと思うじゃん?

飛島村出生率は1.56です

ちなみに愛知県の平均が1.55です

まりほぼ県平均

 

なぜこうなるかというと、市の大半が洪水リスクから市街化調整区域指定されているからだよ

このために住宅地を増やすことがほぼ不可能なんだ

このためによその人が入ってこれないんだね

 

から愛知県内では、十分な土地があって、工業都市豊田市大都市名古屋市のどちらにもアクセスできる日進市(1.85)、みよし市(1.80)、刈谷市、(1.80)、大府市(1.93)のほうが出生率が高いんだ。

地域から移住が望めるからね。

猿払村

次は北海道猿払村

ここも昔は貧しい村だったんだけど、近年はホタテ漁があたって、

たとえば2017年では、地域平均所得港区千代田区に続く全国3位になったよ

漁業が主軸なだけあって変動が激しいけど、平均すればだいたい全国10前後、具体的に言えば品川区と同レベルで推移しているよ

これだけ高所得なこともあって大きなお屋敷が立ち並んで、ホタテ御殿と呼ばれているよ

 

そんな猿払村出生率は1.63

全国から見れば高いといえば高いけど、隣接する稚内市(1.58)、豊富町(1.54)、頓別町(1.56)、幌延町(1.69)とくらべると、「やや高い」という水準にとどまるね

なぜこうなるかといえば簡単な話で、高所得なのはホタテ漁師だけだからだよ

よそ者猿払村移住していきなりホタテ漁師になれるわけじゃない

ホタテ加工工場仕事はあるけど、賃金水準は低いよ(ま、それでも仕事がない村よりはましかもしれないけどね)

 

この2村からわかるのは、もちろん経済力があるに越したことはないんだけど、より出生率重要なのはいかに「出産適齢期の移民」を入れるかってことだよ

経済はその移民を連れてくるのに一番手っ取り早い「宣伝」になるってこと

なんで高速道路はうまくいかなかったのか

さて、上で高速道路で村が活性化する話をしたんだけど、今そういう話をしても誰も信じないよね

なぜかといえば、やはり限界があるからなんだ

たとえば栗東市高速道路武器日清食品工場を誘致したわけだけど、高速道路によって日本工場が増えたわけではなく、

実際は日清はほぼ同時に高槻工場を閉鎖しているんだ

まり移転なわけだね

栗東市での雇用が発生したのと同時に高槻での雇用が失われた

からと言ってゼロサムってわけでもないんだけど、プラスなのはあくま効率化した分だけなんだ

から市町村単独プラス効果分だけ見て、全国に高速道路ができたら全国でどんどん工場ができるって言うのは間違いなんだよ

 

...って言うとみんな納得してくれるんだけど、それは少子化対策も同じだよ、って言うとみんな怒り出すんだ

同じロジックで同じことを言ってるだけなんだけどね

 

市町村単独出生率を上げることはできる

ただしその大部分は他の市町村から奪ってきた出生率

仮に令和の所得倍増計画が本当に(しかも実質で)実現して日本全国が飛島村状態になるとかい池田勇人もびっくりな経済成長が起こったとして、

せいぜい到達できる出生率は1.55程度(つまり+0.1程度)

なぜなら全国で経済成長しちゃったら若者の取り合いが起こらないか

 

もちろん市長さんが自分の市の人口を増やすためにポテンシャルを生かして試行錯誤することはいいことだよ、賛成

子育て支援を増やすことはいいことだと思うよ

でも、あたかも全国でそれができる、どんどん出生率が上がるかのように言うのは不誠実だね

親が一流企業部長東大生が、「生まれ学歴なんて関係ないよ」、「誰でも普通に勉強すれば東大合格できるよ」って言っちゃうくらいのうすら寒いものを感じるよ

 

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追記

思いのほかコメントがついてびっくりしているよ

沖縄はどうなの?チェリーピッキングじゃないの?って言うコメントについては、半分そうだね

最初にも書いたけど、どうしても「地域性、地域空気」みたいなものは強くて、上でかいた内容で出生のすべてを説明できるわけじゃないよ

ただそういう話に踏み込もうとすると、データの不足(というか「地域空気」のデータなどない)もあるし、どうしても「男女論」的な雰囲気がまとうから避けたね

とくにはてブって男女論は燃え上がりやすいからね

単純な男女対立みたいな話にはしたくないから書くとしたら気を使って書かないといけないから、書くとしたらまた先になっちゃうかも

データで見れる範囲で書くとしたら、ブコメリクエストのあった奈義町を中心に書いてみようかな

ではまたいつの日か

2022-08-13

anond:20220813222958

この前久しぶりに高円寺行ったら、70年代ヒッピー文化(知らんけど)かって感じの雰囲気でそれっぽい人たちがそれっぽい店や路上でワイワイやってて、ここに住んでここで働いて生きてる人たちは世界観が全く別物なんだろうなあって思った。

2022-08-09

甲子園の中継見てると、大声での応援制限があるからか、ブラスバンド演奏がけっこう明確に聞こえる。各校のレパートリーをそれとなく聞いていると、80年代くらいの曲がけっこう多めな気がする。パラダイス銀河とか、ブルーハーツとか、男の勲章とか。なんだろう、学生文化的成熟した時代だったんだろうか。

クイーンのウィ・ウィルロック・ユーは70年代後半か。でもだいたいそのくらい。

2022-08-08

アニメヒロイン描写が複雑で深い理由に対する海外アニオタ考察

・MejaBersihBanget

誰もが期待する前に、この記事では、本当に有名な監督Anime映画の狭い領域からの例のみを使用しています

細田監督、新海監督、今監督高畑監督最後の例は、原恵一監督の「百日紅」であり、おそらくここにいるほとんどの人々でさえも知らないだろう。


上記に対する返信

・Warm-Enthusiasm-9534

それは残念なことです。複雑な女性キャラクターが登場するハリウッドの名作をピックアップしてみましょう。ハリウッドAnimeの違いが最も顕著に表れるのは、パルプショーの場合です。

普通アニメ番組でも、複雑なキャラクターライティング(すべてのキャラクターにそのキャラクターを照らし出すバックストーリーがある)をしているので、千尋や三葉は基本的典型的ものだと思います

ハリウッド10年で制作するよりも、Animeでは毎シーズン10人以上の印象的な女性キャラクターが登場するのではないでしょうか。

男性主人公番組でも、一番か二番目に生き生きと描かれているのは女性キャラでしょう。

今年10番目に人気のある番組の3番目のキャラクターが、キャプテン・マーベルのように複雑なキャラクター性を持っていることになる。

日米両国経験者が「日本アメリカより性差別が少ない」と言うのを聞いたことがないのは、ちょっと不思議な感じです。


その理由ひとつは、Anime女性キャラクター欠点があっても、あるいは嫌われ者であっても、それを許容する傾向が強いからです。

明らかにろくでなしキャラクターを登場させ、ストーリーの中で、なぜそのキャラクターろくでなしなのかを説明し、とにかく好きにさせるのである

男性キャラクターと同じように、人間状態を代弁してくれるんです。Animeは毎年ワンダビジョンのような番組制作しています。(この点では、アメリカシットコムドラマより優れている。コミカルキャラクターには欠点があるからだ)。


もう一つの理由は、Anime番組には女性キャラクターがたくさん出てくるからです。

ティーンエイジャーの男の子ターゲットにした番組が、主人公以外のすべてのキャラクター女の子にすることが大きな理由ですが、これは、キャラクター区別するために番組がより努力しなければならないことを意味します。

Anime界では、ある番組で、あるいはそのシーズンで、あるいは歴代で、誰が「ベストガール」なのかを議論することが、ひとつジョークになっている。

(アメリカテレビ番組映画で、誰が "ベストガール "なのかを議論できるものがどれほどあるだろうか。スター・ウォーズでは誰が「ベストガール」でしょうか?キャプテン・アメリカ ファースト・アベンジャーでは誰が 「ベストガール」?議論になるほどの女性登場人物はいません。)


逆説的ですが、ハリウッド女性キャラクターをうまく扱わなければならないと考えていて、その方法がわからず、あきらめてしまうことが違いの一因だと思います

から、『ワンダーウーマン』よりも先に70年代テレビ番組映画化されたのです。日本では、それほど関心がないだけです。

例を挙げましょう。Re:ゼロに登場するテレシアというキャラクターは、5分ほどしか登場しませんが、11番目に重要キャラクターです。

彼女は花が好きで、剣が嫌いで、剣に執着する男と出会うという設定です。

残念なことに、彼女はその年齢で最も偉大な剣の達人なので、義務によって剣聖(国を代表する剣の達人)として奉仕することを余儀なくされています

彼と恋に落ちた彼女は、彼が剣聖になれるよう、決闘自分を負かす。しかし、国に怪物が現れ、夫では太刀打ちできなくなり、最後に剣を取ることになり、そこで悲劇的な死を遂げるのです。


この物語ハリウッドエグゼクティブに聞かせたら、脳みそクラッシュしそうです。

この物語は、女性らしさについて何を言おうとしているのか。どんなメッセージを送ろうとしているのか?Anime文脈では、何も言おうとはしていないんです。

女性キャラクターがたくさんいるので、さまざまなキャラクター設定をするスペースがあるのです。

第1期で一番人気のある女性キャラクターメイスで人を殴りまくりますが、この作品にある唯一のメッセージは「彼女が生き残って、もっとメイスで人を殴りまくれるようになればいいじゃないですか」ということなんです。


出典

以下の内容でGoogle検索

For the Most Complex Heroines in Animation, Look to Japan reddit

2022-08-05

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s

57:08~1:05:19

抑圧側と被抑圧側との逆転の構図

抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派

あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンライン男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます

もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、

その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力正当化していくっていう、

その形というのはもちろんその以前から

例えば排外主義において、あるいはモラルパニックにおいて広く見られてきたものではあります

9.11同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビア暴力っていうのはこういうものだったわけですし、

あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイバイセクシャル男性というのを、

当時は性的捕食者、セクシャルプレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルス拡散元として、

非常に激しくバッシングしたのが英米モラルパニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。

じゃあそのオルト・ライト勢力オンラインミソジニーアカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、

これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、

マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由侵害されている」という形で、

はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。

そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、

今のところ最新の形がいわゆる「キャンセルカルチャー批判」というものになります

キャンセルカルチャーとは

CAMBRIDGE DICTIONARY

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱する (offend) ようなことを言った人を完全に拒絶したり、その人の支持をやめたりする振る舞い方

MERRIAM-WEBSTER

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為(公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること)をするような実践

ピュー・リサーチセンター(2020)

リベラル寄りの人々は「ある人に自分の行動に対する責任を取らせるためのアクション」と捉える

保守派よりの人ほど「検閲」と捉える

キャンセルカルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、

2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、

キャンセルカルチャー意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります

実際、例えば辞書定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、

自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、

あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。

それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為」、

このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、

集団キャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。

またピュー・リサーチセンターによる2020年時点の調査では、

リベラル寄りの人々は、

キャンセルカルチャーというのは、ある人に自分言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。

それに対して保守派に寄っていく人ほど、

同じキャンセルカルチャー検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます

まりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的問題があると思われる言動を、

放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、

より保守的な別の人々にとっては、これがつまりキャンセルカルチャー批判」の文脈になるわけですけど、

そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。

言い換えれば、「キャンセルカルチャー批判」という形でのキャンセルカルチャーってのは、そもそも最初から

しばしば多数派である括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、

私たち」の言動検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。

から先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセルカルチャーだと言えると思います

正義と開かれた議論についての書簡」(通称ハーパーズ・レター」2020)

153の署名: ノーム・チョムスキーサルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど

若い左派から批判キャンセルカルチャーキャンセル

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような「必要過去清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」

保守派による「キャンセルカルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからほとんど枚挙にいとまがない。

毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、

ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います

何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。

一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、

この公開書簡は、当時のトランプ大統領代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、

同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、

より開かれた議論必要性を説くんですね。

ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアポリコレ評価と、

用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、

とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、

この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど、

非常に有名な人たちを含む153名の研究者作家ジャーナリスト署名しているんですけども、

この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、

公開されるとすぐに「キャンセルカルチャー自体キャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、

人種的性的マイノリティを中心とする若い左派から大きな批判を受けることになります

実際のところただこの公開書簡自体を見ると、

キャンセルカルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。

じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や

「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような

必要過去清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、

だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、

一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、

この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、

Racial Reckoningって人種的過去清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、

人種主義への批判のもの不寛容だと見なすキャンセルカルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。

同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネス批判者として知られていた、

言語学者スティーブン・ピンカーであるとか、

ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバードロースクール学部長職を退くことになった、

法学者のロナルド・S・サリヴァンであるとか、

この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動批判が集まっていた、

作家J・K・ローリングとか、

そういう人たちが名前を連ねていたということももちろん、

この公開書簡が「キャンセルカルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います

この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派代表知識人と見られてきたチョムスキー署名をしている。

同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。

まり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。

にもかかわらず先ほどから申し上げているように、

実際には、より若手のマイノリティライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。

恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、

学問の自由とか言論の自由擁護というのが、

近年では力のある地位にある人々が、自分たち差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、

その批判糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、

フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、

その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

2022-08-04

anond:20220804165532

90年代後半から2000年代前半まで、少女コミック雑誌名)にエロ漫画ブームが来た。直接の原因は新條まゆ快感フレーズバカ売れしたことだろう。エロを見たい小学生中学生女子が手っ取り早く買える雑誌だったので(少女漫画の中では)結構売れた。

だが2005年から純愛漫画ブームが来て、エロ漫画は一旦消えた。

純愛漫画シフトできた漫画家もいたが、雑なエロで売れていた漫画家は消えるか別雑誌に行った。

純愛漫画ブームが来る前、2000年代には「子供向けに過激エロやってんじゃねえ」と批判されるようになり、やがてエロメインコンテンツ少女向け漫画は「ティーンズラブ(TL)」として隔離されるようになった。

そういえばTLも少女漫画とは別扱いだな。レディコミとTLが別扱いなのはエロがメインかどうかなのか。

ちなみに「少女コミック」は現在Sho-Comi改名したらしい。

少女コミック70年代萩尾望都竹宮惠子も載ってたし、あだち充の「陽あたり良好!」も少女コミックに連載していた。昔は普通だったんだな。

2022-07-21

anond:20220721093133

今は学生運動なり反権力闘争を起こすことが出る気概をもった若者が居なくなったという意味では的をいているかもなー。

弱虫の子孫だからではなくて、70年代以降になんらかの理由弱虫が育成されたという感じになるわけだが。

2022-07-18

80年代ひょうきん族とか

バブルのノリを築いた人たちって、70年代は暗いイメージだったんだろうか?

少なくともさんまさんはそのように語っていたと思う。

UNIX 哲学」についていくつか

名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita

この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である

参考文献

初期の UNIX歴史について興味がある向きには次の書籍お薦めする。

Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)

和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。

また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。

哲学

記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。

https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date

ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。

もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。

この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDFOCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX論文なのだ。もちろん論文性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイ哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白いUNIX開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然時代だったことは間違いない。

UNIX認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイ論文に影響を受けた布教のためのああい説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本最初期の UNIX 解説本のひとつである村井純井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。

オペレーティングシステムは,コンピュータを使うものにとっての環境形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIXオペレーティングシステムとしての個性ではないだろうか。

 

    プロフェッショナル UNIX村井純井上尚司・砂原秀樹,1986,アスキー)p 3.

「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能コマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである

そしてじつは UNIX場合布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。

UNIX の利用環境

UNIXPDP というミニコンピュータミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校コンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器コンピュータではなくコンピュータ接続するための端末装置ターミナル)だ。端末装置キーボードで打った文字コンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 UnixOSCLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置エミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。

さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっとコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥CPU でそっちの洗濯機ハードディスク,あの机に置かれているタイプライタ管理コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代お話だ。

端末装置それぞれからUSB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。

結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。

自由不安定OS

当時の UNIX評価一言で表すと〝自由不安定OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由さらに他のメインフレームミニコンOS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロOS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番ディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。

こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイ1986年11月から1988年10月掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器1980年ごろから UNIX サイトスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。

CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU実質的に停めてしまうことが UNIXはいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンド10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに viカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているとき勝手をやられると非常に困るのである当人仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。

ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイル自由に作ることができる。したがって,自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソールタイプライターにエラーメッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソールタイプライターが一晩中エラーメッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図完璧に打ち砕かれてしまうのである

 

    root から / へのメッセージ高野豊,1991,アスキー)pp16-17.

そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンド10個くらい同時に走らせ」たり「自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイト利用者全員に UNIX設計基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX伝道がより苛烈だった理由ひとつがここにあるのだ。

ミニコン UNIX終焉

ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代UNIX は Research UNIXCSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIXライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。

もっともそういう70年代風味の牧歌的風景ミニコン世界限定の話であった。BSDのものミニコンのものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSDUnixAT&T推し進める System V などがワークステーション市場舞台80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PCUnix であるマイクロソフトXENIX も当然参戦した。ミニコン世界牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争あくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&TBSDUnixSun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。

こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unixのもの文化にも変化をもたらした。まず激しい競争Unix の高機能化を加速した。商品として判りやす惹句が「あれもできます,これもできますなのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者自由制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix現在UnixOS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unixシステム管理入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空ソフトウェアハウス(開発会社)を舞台新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。

UNIX 哲学背骨

当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイ論文結論部分に書かれたそれは,1973年出版されたイギリス経済学者エルンストシューマッハー著作題名で,中学生英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。

Small is beautiful.

マキルロイは『人月神話』を引いて一定留保をつけてはいものの,これが UNIX 哲学背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•csアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?

ひるがえって現在UnixOS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX仮想敵とした OSのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。

2022-07-14

70年代ぐらいに、警帽をかぶった裁判官みたいな、二頭身の主人公が「死刑」をいうオチ下品ギャグ漫画があったな

警察ヘイト派閥がいたのかなあ

2022-07-08

1947年から1980年までは参議院選挙全国区というのがあって、作家など著名な文系議員になっていた

60年代までは鬼丸義斎(娘は最高裁判事になった)や、石原慎太郎など強力な右翼当選していたが

70年代社会党系が盛り上がって中山千夏無所属青島幸男などが当選するようになった

するとなぜか社会党割れ選挙制度も改変され、自分選挙権持った頃には全国区はもうなかった

2000年代は著名な作家議員田中康夫ぐらいか

80年代には文系コピーライターという亜種が現れ、企業支援しはじめ、フワフワ景気感を演出し、バブル崩壊を招いた

以来、経済は衰退

ということで、人が苦しんでいる原因は社会的に何なのかを描いて見せる作家には、社会的重要役割があるように思うが、今や洞察力のあるような著名作家そもそも少なく(幻想文学コピペ判決文はあるが)

ドキュメンタリー作家週刊誌記事書き手はいるが、だいたい一つの事件を追う作品になるので物語作家とはやや異なる

現代文化では、漫画アニメゲームラノベ絶対的主流というわけでもないと思うが、情報は日々ネットに溢れてライン投資取引に忙しく、本はあまりまれてないのか?

個人的には世界の中の日本史全般に注目していて面白い本いかなーと思っているが、その分野の作品は、これもまたほぼ論文形式

一方、大河ドラマなどは偏りすぎていたり端折りすぎていて、ただの神話のようだ

国際関係論文英語(なお英語文献は、途上国に対する欧米企業の影響は書かれているが、欧米政治の影響はあまり書かれない)

最近ロシア問題武器市場が活発だというので、そのあたりの金融ドキュメンタリードラマがあったら、不謹慎だが興味あるかも

ついでに

英米や独日の親露中派が、どんな活動をしてきたか

ドイツナチス過去があるから何が起きてもロシア敵対しないようノルドストリームを推進した

変わりにドイツ系の多いアメリカや、英国と元英国カナダ紛争を煽っている

島国は大きくても国境防衛が楽で海軍損害保険優遇されるだろうし、国民も抑えやすいのだろう

そして直接の被害住民存在しない海上と金融の戦闘は、ほぼ報告書のみのブラックボックス取材しにくい

サンジが追われるほど

と思ったところだった

2022-07-04

anond:20220703120023

新しい人権」がインフレするというのは70年代以降の市民運動でも何度も採り上げられてきたテーマですね

人権の衝突というテーマから議論の深化(必要ならば法整備も)を期待したいんですが、なかなか難しいテーマですよね…

おばあちゃん死んでくれ

頼むからおばあちゃん死んでくれ。

死んでくれたら、おばあちゃんの住んでた部屋が空く。

そしたらそこに私が行ける。きっとおばあちゃんより広く有効に使える。

死んでくれたら良いことしかない。

おばあちゃんが居なくなること。

それはとっても良いことだ。

おばあちゃんアル中で酔っ払って毎日リビングにやってきて暴言を吐きにくる。

殴られたことは今までないけど、言葉で沢山殴られてきたので、とっても殴り返したい。

物理的な暴力振るわれないだけ、むっちゃ運がいい家だけど。






アル中とかって、普通それはおじいちゃんとかの役目だとか思うかもしれないけど、うちではおばあちゃんだ。


おばあちゃん言葉暴力毎日お母さんは泣いていて、私が幼稚園児の頃からずっとお母さんを慰めてきた。慰めてきたって、言い方は変かもしれない。

なぜならおばあちゃん言葉

「孫(私)はどうして勉強も何も出来ないの?それは母親のせいじゃない?」

あんたは母親失格」

家事育児ちゃんとやれ」

「出来損ないの親と子」

あんたはまだまだ子供なんだから子育てなんて出来るわけない」

「情けない」

「親子共々恥ずかしい存在

あんたは何も出来ない」

「いっちょ前に化粧とか色気付きやがって」

調子に乗るな」

と、出来ない子であった私の存在文句をお母さんに言うことがかなりあったのだ。

おばあちゃんが真に責めるべきなのはお母さんじゃなくて、生まれた私だったのに。

私は勉強運動も何も出来ず、かなりインドアだったし、普通の子がやれることの大半が出来なかったダメな子だ。小学校から高校までずっと先生友達迷惑を掛けていた。

なんか、どれだけ努力しても上手くいかないことが沢山あったのだ。すご〜いダメな子だった。

そのせいでお母さんに一番迷惑が掛かってしまった。

ダメな子を産んだ責任は親に行くので、全部お母さんが責められていた。

私のせいでお母さんが苦しんでる。

お母さんは働いていて、家事育児仕事も全部やらなくちゃいけなかった。

やること全てが終わってヘトヘトな夜の頃におばあちゃんがやってくるのだ。



その時だけおばあちゃんは酒の力で化け物に変身する。言葉も通じない、人を何とも思わない、相手が涙を流したところで止めるつもりもない、とにかく叫びたい化け物になる。ゴジラに一番近い存在となるのだ。

お母さんは長女ですごく真面目で、きっちりとした性格だったから酷い言葉も全部正面から受け止めてしまうのだ。

(ちなみにお母さんの妹のおばさんは家出をしておばあちゃんを住まわせる責任から上手く逃げおおせることに成功していた。)

おばあちゃんが暴れきって部屋に戻った後、私は項垂れているお母さんに対してごめんなさいと謝ることしかできなかった。

お母さんがその都度、泣き腫らした目であんたは悪くないよと言ってくれるのが凄く辛かった。

お母さんは強かった。おばあちゃんみたいな化け物になるのが嫌で、精一杯私に優しくしてくれた。

でも、散々暴れ回ったおばあちゃんが満足して部屋に戻ると

立ちくらみストレスで倒れたお母さんが

わたし、どうしたらいいの」と言うのだ。

私は、何も言えず、やっぱり「ごめんなさい」と言うしかなかった。

たまにお母さんは耐えきれなくなって、私を連れて首都高ドライブに行った。2人きりの空間の中で、「一緒に死のうか」と言うのだ。その言葉は、何度言われても慣れる気はしなかった。

夜になると居酒屋から帰ってきたおばあちゃんがいっつも罵詈雑言飛ばしてくるので、いっつも私は泣きながら頼むからもう部屋に行ってくださいと懇願していた。

気がつくとお母さんは適応障害になっていた。

なんか食後に沢山薬を飲み始めていた。

おばあちゃんが叫ぶ罵声のせいで近所中に私の家はヤバい家っていう思われちゃっているので、近所のおばさんやおじさんによく指をさされていた。

喧嘩があった次の日に登校する時は近所のおじさんが半笑い大丈夫?と声を掛けてきてくるのが凄い嫌だった。

私はおばあちゃんと言い争った次の日は、いっつも泣き腫らした顔で登校していた。

その度友達に「太った?」とか、「腫れててキモいよ」とか言われるたびに屈辱的な気分になった。

くっそー。全部おばあちゃんのせいだ。

アニメとかドラマかに出てくる無償の愛を持つおばあちゃんという概念を信じることは出来なかった。

あと、おばあちゃんはとにかく家を汚す。食器も油まみれだし、土が付いたスリッパで平気で風呂場とかリビングを汚すし、掃除はしないし、とにかく最悪だった。

私の容姿や体型に文句は言うし、買ってきた物とかにも小言は挟むし、勝手に財布の中身を見るし、私の動向を四六時中監視するし、部屋も無断で入ってこっそり調べられるし。趣味や見ているものにさえ口出しされるし。

とにかく自分の思い通りにいかないと気が済まなくて、自分が好きなことじゃなくて嫌いなことしかさないし。私もお母さんもみんな自分支配下に起きたくて仕方がない性格してるし。

おばあちゃんのささいなダメなところも全部嫌いだった。家で一番広い部屋を使ってるし、私は独房みたいに狭い部屋だから羨ましい。

因みにお父さんは居たけれど、とにかく無口で内気だったから、傷付いたお母さんのことを無視してアニメキャシャーンsinsを自室で見ていた。塩対応にも程があった。

中学の頃、お母さんが家出して、お父さんと別居し始めたので、私は2つの家を行き来する生活を送っていた。

おばあちゃんはお母さんを責めた。何故私という娘が居るのに捨てるようなことするんだと。

…………………。

おばあちゃん毎日いっつもお母さんに暴言を吐いてる間、お父さんは自分の部屋に逃げていたし、お父さんがお母さんに嫌なことをする度におばあちゃんはお父さんの肩を持ってお母さんを責めていたじゃん。

それにお母さんの家とも行き来してるから捨ててないよ、私は大丈夫だよ。

実は別居した理由はお母さんの不倫だったんだけど、私は責められずにいた。

私がお母さんの立場だったら多分自殺してると思うから。正直あん環境逃げたくなる。

私が高校に上がると母さんは新しいお父さんを連れて家に戻ってきて、またおばあちゃん暴言は復活してしまった。

でも、以前より泣くことは減ったからよかった。いやな成長を感じていた。

罵声を一番シャットアウト出来る方法は、布団の中に潜りその中で必死に頭を振ることだった。そしたら耳元で布団が擦れる音しか聞こえなくなるので、おばあちゃん罵声を吐くと私の首がめちゃくちゃ疲れるシステムが完成した。




大学入学して、暫く経ったある日、転機が訪れた。

その日は家に私しか居なかった。

ある日おばあちゃんが信じられないくらボロボロの姿で家に帰ってきた。

かに襲われたの?っていうぐらい。おばあちゃん曰く居酒屋帰りに泥酔して自転車に乗って転倒したと。

ベッドに寝かせる際におばあちゃんの腕を支えたら、ピキッという感触がした。


これは・・・・・・・・・












もしかして・・・・・・
























骨折してるかも!!!!!!!????!!!!?

































右腕が見事に折れてる!!!!!!!!!!!!!!!














どうしよう、、、、












しかたらこのまま放置したらおばあちゃんは死んでしまうかも……………

それは、

それは、…………































ラッキーかも!!!!!!!!!!!!!!!!?











だって、おばあちゃんが死んだら…………







もうリビング喧嘩は起こらなくなるし

そしたらお母さんはもう二度とおばあちゃんのせいで悲しまなくて済むし

あの嫌なガラガラ声の罵声を聞かなくて済むし

家で何をしても文句を言われることはないし

お酒加齢臭が混じった匂いを嗅がなくてすむし

次第に近所の人から変な目で見られなくなるはずだし

おばあちゃんが使ってたひろ〜〜い部屋を私が使えることになるし






うわ、うわぁ、、、、、!










このまま私がなんとかしなければ

おばあちゃん、本当に死んじゃうのか、、、、



もう80超えてるし、、、、、



信じられないくらい右腕が折れてるし、、、、、、、


死ぬ確率はあるよなあ、、、、、、、、、

だったら、、、










そんなんだったらさ、、、、、、、、、


















放置ちゃう











 










それでおばあちゃん放置して、見殺しにして、おばあちゃん居なくなったー!やったー!となる訳にはいかなかった。

いや、いくわけないでしょう。

したくても、できないよ。

骨折くらいで人は死なないし。

ほんとすぐ近くに病院があったので、緊急外来の方におばあちゃんを支えて連れて行った。

結果は見事に骨折でした。なんか腕に金属の棒入れて、一年くらい安静にしといてくださいと言われた。


そうお医者さん厳しく言われ酒を飲まなくなったおばあちゃんはみるみるうちにしょぼくれていった。

乾燥したワカメみたいな感じだった。

実は骨折するまではおばあちゃんは少しだけだけど親戚のところで働いていたのだ、けれども、今回のことでクビになった。

1日でおばあちゃんが酔っ払ってない時間の方が多いなんて変な気分だなあと思った。

酒は飲めなくなって、言いたいことも気分のままに叫べなくなって、働けなくなって、嫌いで暴言を浴びせた自分の娘からお小遣いを貰って、自分立場が弱くなったおばあちゃんの姿は滑稽だった。

ざまぁみろ!が1番に私の中に生まれ感情だった。

自業自得で骨を折ったので文句は言えないし、もうお母さんにも強く出ることは出来なくなった。


まあ、そんな立場になってもおばあちゃんの嫌なところは沢山あった。

お母さんにがんが見つかったときも、おばあちゃんはその事を1週間くらいで忘れてたりしてた。闘病中なのを知らなかった。

お母さんが「わたし、がんなのよ」と言ってもおばあちゃんは「あっそ、知らなかった」と一言で終わらせた。

自分の娘にがんが見つかったのに一言で済ませるとか、心配もしないとか、信じられなかった。

料理も作れなくなったおばあちゃんご飯を作っても「わたしこれ嫌い」とか文句を言うばっかりだし、

一言余計に嫌味を言うし、なんか最悪だった。

コロナのせいもあって家はすごい嫌な空気に包まれていた。

リハビリ中だし、おばあちゃんに出来るだけ優しく努めようとした。けれども小言とか、これまでの行動とかのせいで、優しくするのが凄く疲れた

優しくしても感謝も無い、でも文句は言われる。

な〜んか優しくするのだるいなぁ。敬老の気持ちを忘れずにいるのしんどいなぁ。

でも表面では波風立たない穏やかな時間が流れている。

もう罵声も聞こえなくなったし。

私達が「優しくするの疲れた」って雰囲気を出すと

次第におばあちゃんの纏う雰囲気が「お前らのせいでわたしは苦しめられている。虐待されている。孤独になっている。私はお前らにひたすらに虐められている。」って変わってしまって。もう、おばあちゃんがどう私達を思ってるのか、肌で感じる。

ごめんね、お酒飲みたいよね、居酒屋行きたいよね。

ストレス溜まってるよね。好きでもない家族と一緒に居てさ。







私はたまに








あの時、見殺しにしたらどんな未来が待っていたんだろう。






と思う。



おばあちゃんの居なくなった未来はきっと素敵なんだろう。



解放されて、やっと家族ひとりひとりが自分自身のことを考えれる時間が訪れるのかな。





どうなんだろう。





からでも殺してみる?




例えば、餅を食べさせて喉に詰まらせてみるとか。



寝てる間にこっそり冷房切って脱水症状起こさせるとか。



もう無理やり家から追い出して、姥捨山に捨ててみちゃう





もう82歳だし、いけるかもよ?











無理




絶対無理

   






殺せる訳ない















私も、お母さんも、おばあちゃん家族だし



一応、腐っても、家族ってやつだし






サマーウォーズとか、ドラえもんとかそーゆーキラキラした家族の絆とは全然違うものだし、むしろ呪いに近いけど




むっちゃ家族なんよ。

死ぬ程これまでさんざんおばあちゃん悪口書いたよ。

全部事実だよ。

クソサイテーなババアだよ。

今でも罵声が頭から離れなくなる時あるよ。

もうお酒飲まないでって泣きながら沢山懇願したこと忘れられないよ。




でも…………….でもさあ、

もう死んで欲しいけど。おかしいよなぁ。嫌いだし死んで欲しいけど大好きだよ。おばあちゃんが居なかったらいま私生きてないよ。

お母さん産んですぐおじいちゃん死んじゃってさぁ、おばあちゃんも娘2人のために必死で働いてたことお母さんから教えられたもん。

仕事ストレスで飲み始めたことも知ってるよ。

お母さん仕事で帰るの遅いし、中学からはおばあちゃんとほぼ二人暮らしだったし、毎日ご飯作ってくれた。肉じゃが味噌汁牛肉ごぼう甘く煮たやつとか全部好きだった。

学校で上手く行ってないときとか、お母さんとお父さんが大喧嘩する度におばあちゃんは部屋で私を慰めてくれた。初めて買ってくれた財布は今でも使ってるし、沢山買ってくれたものある。

未だに抱き締めてる毛布はおばあちゃんプレゼントしてくれたものだし、たまに市民会館に映画連れて行ってくれたし、小学生になりたての頃はいっつも帰りに迎えに来てくれた。

洗濯もしてくれた、刺繍もしてくれた。

年越し蕎麦も2人で一緒に食べた、おばあちゃんの好きな70年代の曲で一緒に踊ったし、こっそり酒を飲ませてくれたこともあった、健康ランドに連れて行ってくれたし、自分が働いてる仕事あんまりお給料無いのに私に沢山お小遣いくれたし、お父さんとお母さんが離婚した時にはおばあちゃんそばに居てくれた。

お母さんが連れてきた新しいお父さんの悪口を一緒に言い合ったし、私が作ってくれた下手くそご飯を美味しいって食べてくれたこともあったし、しょっちゅうどっかに行ったし、たくさん素敵な思い出もある。写真も沢山ある、日記にはおばあちゃんのこと沢山書いてた。

サイテーだけどサイコーに良いおばあちゃんだった。



おばあちゃんは嫌い。



大嫌い。




だったのに、なんで好きなこと忘れてたんだろう。

めっちゃ私おばあちゃんのこと好きだったじゃん。


おばあちゃんは、

酒飲んだ時は最悪だし、お母さんには死ぬほど優しくしないのは事実だし、基本的性格クソゴミクズだし、老人同士の友達いねぇし、通ってる居酒屋出禁になったこと星の数ほどあるけどし、うちらに吐いた暴言とか罵倒とか、私達にしたことは心底許せないけど、

嫌な思い出も素敵な思い出も沢山あって

そんなおばあちゃんを私が殺せる訳ないよ

おばあちゃん骨折した時もすごい怖かったよ

腕触った時、折れた感触。忘れられないよ。あの元気なおばあちゃんがもう見れなくなると思ったら怖かったよ。泣いちゃったよ。

病院まで支えて歩いた時、これからどうなるんだろうってすっごくこわかったよ。








嫌いだし、大好きだし、どっちの感情も本物なのが嫌になる。こーゆー時ってさ、きっぱりと自分の思いを言い切ることが重要だと思うんだけどさ、分かんないよ。

本当に嫌いだよ、どうすればいいんだよ、つらいよ、わかんないよ、あんなに好きだったのにすぐに自分感情を忘れてしまうよ、

ほんとまじでどーすりゃいーんだろうな。

一度お母さんに、

「おばあちゃんのこと、殺してみる?」言ったら、

まず最初にそんなこと絶対言っちゃダメと私に怒って、

そのあと、悲しそうに嬉しそうに辛そうに笑って

「出来るわけないでしょ笑」

といった。

だよなぁ。

出来る訳ないよなぁ。


嫌いだから死ね。見殺し。放置

そんなん出来たら人生サイコーハッピーよなぁ。


お母さんのあの全部がこもった、笑顔が、答えなんかも。


あれが向き合い方なんかな。



…………。

はぁ。

あんなに好きだったのに、

嫌いっておもいがもう塗りつぶしちゃって


死んだら死んだで喜んじゃうよ。

私、おばあちゃん死んだら泣けんのかな

たぶんざまぁーみろって思うだろーなー。

早く死んで、おばあちゃんの部屋使わせろやーー。

私、性格悪いなあ。

おばあちゃんみたいになっちゃうのかな。

なりたくないなあ。


なるなら優しい時のおばあちゃんになりたいなあ。








…………………。


わかんねぇ。






どう思って接すればいいんだろう。

家族だりー。

2022-07-03

anond:20220703132033

80年代まれはちがくね?

70年代まれじゃね?

85年くらいかゆとり世代じゃなかった?

ゆとり世代はそういう価値観に触れてる世代だけどその後アップデートできた世代だよ

田舎はアプデ出来てない人もチラホラいるけど

2022-07-02

anond:20220702215044

そういや70年代オイルショック時には、ネオンサインが消されたり深夜のテレビ放送が止められたりされたと言うが、エネルギーの総消費量じゃなくピーク時の消費電力量を減らす必要があるわけだからそういう措置はされてはいないな

蓄電技術もっと向上してロスが少なくなったら、夜間に発電してできるだけ貯めて昼間に使うということも盛んにされるようになるのだろうけど

anond:20220701203714

大島弓子がいない。青池保子もいないとかおかしいでしょ、江口寿史桂正和もいない。つげ義春諸星大二郎

70年代もっと手厚くすべきだと思う。

2022-07-01

anond:20220701073321

分かりやすさのために口を悪くはしてるけど、1960〜70年代日本人男性教授あたりがもう少し丁寧な口調だけど50年も前に既に同じ内容で日本人男性批判してるから

別に個人独自意見というわけではなく定説だわ

日本人男性が成長してないというだけ

anond:20220630155807

今は天気が良くて空気が澄んでいても見えないのかい? 大気汚染は年々改善されて来ていると思ったが…。(ひどかったのは60年代70年代高度成長期のころ)

2022-06-30

公明党支持者から見た立憲民主党不思議

おれは3世だ。深く信仰はしていないけど、小さい頃から家族みんなで公明党応援してきた。大人になった今でもゆるく公明党を支持している。プロ野球チームを応援する感覚

ここ10年の野党の動きで気になっているのが

なぜ野党第一党は公明党敵対するのか?ということ。それが自民党一強の原因だと思っている。

大阪府議会維新与党なのは公明党と組んでいるから。2017年都議選自民党大敗したのは都ファ公明党と組んだら。公明党と組めば与党になれるし、公明党与党と組む。

かつて学会員はそれほど自民党が好きじゃなかった。

憲法改正を党是とする自民党と、平和福祉の党である公明党では違いすぎる。

2009年政権交代選挙の時、おれは高校生選挙権はなかったが、うちの親と祖父母は「小選挙区民主党比例は公明」で投票してた。

2005年2010年あたりは、民主党公明党に近づこうとしてたし、「民主党と連立を組めば良いのにね」と言う人もいた。民主党と協力して永住外国人地方参政権を通そうとしていた。

でも安倍政権で一気に変わった。

安保法制推し進める安倍政権をよく思わなかったし、集団的自衛権拒否反応も大きかった。

だけもいつの間にか、共産党と組む立憲民主党への拒否反応が上回るようになった。公明新聞には立憲への批判が書かれるようになった。

 

創価学会共産党が嫌いである。おれが生まれる前の話だが、1960~70年代から創価学会共産党選挙活動で激しい非難合戦を行って対立し続けてきた。言論出版妨害事件は有名である

立憲民主党共産党との結びつきは、公明党自民党の結束をより強くした。そして共産党嫌いの連合労働組合与党寄りにした。反共の旧民主議員を分断させた。そして選挙で負ける。何がしたいのだろう。

今の公明党支持者の気持ち

「立憲共産党はありえない。だから国政で政権を任せられるのは自民公明連立政権だけ。共産党の参画する政権誕生させてはいけない。公明党与党ブレーキ自民党暴走を止める。与党から政策を通せる。」

みんな、そんな気持ち自公連立政権を支持している。

理解できない。立憲民主党は本気で共産党と組むつもりがないのに、公明党とも対立したがるのはなぜか。

立憲民主党共産党候補者の一本化はするけど、「比例は共産党」とは言わない。共産党相互推薦もしない。

それを口にするとダメージになると分かってるから。でも自民党議員は「比例は公明党」と言ってくれるし、公明党相互推薦もつけるし、応援演説もしてくれる。共産党ほどのマイナスイメージがないから。


おれがもし立憲民主党代表なら、まず共産党とは組まない!絶対政権を取れないから。

公明党自民党の分裂工作をしつつ、自民党右派中道保守の分裂工作もする。

公明党との連立政権に向けて時間をかけて関係を構築する。反共連合労組をまとめ、国民民主党と合流する。

公明党と組むということは、公明党票が入るだけでなく、自民党候補の票が減るということ。

しか立憲民主党共産党と協力することで、「反共」をスローガン自民党公明党を強く結束させ、右翼からリベラルまでいる自民党内が分断しないように結束させている。そして連合労働組合も離れていく。


結局立憲民主党って政権取る気ないんじゃないかなと思う。

2022-06-15

日教組被害を受けた僕ら」の歴史的経緯

これとかもそうだが未だに日教組による教育被害が云々という言説がまだ見られるんだが。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1536206227939950592

 

この際ちょっとその言説の経緯をまとめておくよ。

この言説のキーマン小林よしのりなんだがそこに至るまでを説明しないといけない。

 

日教組批判が激しくなったのは1980年代後半から

日教組昭和22年に結成されて昭和30年代には組織率8割以上を誇って…というのはWikiとかで勉強してくれ。

右翼による日教組批判特に熾烈を極めるようになったのは1980年代の後半からなのである

街宣車大音量日教組日教組!と怒鳴っているので一般の人の日教組知名度はこの辺りで上がった。そもそもノンポリの人は学校先生組合なんて知らんもんである。但し右翼一般受けは悪かったので日教組評価は下がらなかった。

また日教組集会を開くと周囲に街宣車が多数集結して大音量軍歌を流し音圧を競うようになった。

すると近所の会社仕事が全くできない。電話どころか窓を閉めても耳を塞がないといけないような状態だ。

でも日教組知名度が低く、どこで集会をやってるかも判らないので右翼の評判が下がるだけだった。

 

こういう極端な抗議行動が流行した背景には当時の政治的社会的状況があった。

その一つは「デタント」で、もう一つは「任侠右翼の増加」である

ソ連敵性喪失

右翼が何と戦っていたかというと、その最大の敵はソ連だった。これは街宣右翼だけじゃなくて神道系の右翼統一教会も皆同じだ。

だが1985年ゴルバチョフ書記長就任するとどうにもならないほど疲弊したソ連改革政策ペレストロイカ推し進める。最初は大した変化はなかったが、チェルノブイリ原発事故以後は情報公開も進め、世界を巻き込みながら怒涛のように変化していく。

それによって西側ではゴルバチョフ歓迎ムードが高まり、要するに憎むべき敵性国家で無くなっていったのである

更にソ連共産党活動を停止し、遂にはソ連が無くなってしまった。

これは右翼陣営勝利のはずだが、困ったのは攻撃する敵を喪失してしまった事で、自分らのアイデンティティの根幹の喪失でもあった。鈴木邦男ソ連崩壊時に「これは僕らの問題だ」と語っている。アイデンティティ喪失に苦しむのか、敵の乗り換えをしてアイデンティティを保持するかという含みがある。結局鈴木は敵の乗り換えには乗らなかった。

 

また、街宣車での街宣はやりすぎて体制側に対策が出来てしまった。

まず憲法違反の疑いもある静穏保持法が施行されてしまったので外国公館などの特定箇所で大音量を出すと逮捕される。

またソ連大使館前の道路街宣車が近づくと全交通遮断される。言っておくがソ連大使館前の道は外苑東通りという都バスも走る幹線道路である。当時は街宣車のせいで道路遮断されたりそれで周囲が交通マヒしたり運行経路が決まっているバス20分以上立往生なんて事はザラだった。

 

こんな風に最大の敵であるソ連がやたら腰が低く物分かりが良くなった上にソ連大使館に街宣掛ける事も出来ない。

だとしたら残存敵性勢力である日教組に向かうしかない。

という事でこの時期に日教組悪質性が増加したのではなく、ソ連の変化とデタントの為に日教組批判が熾烈となったのである

 

任侠右翼参入増による右翼街宣車の大増加

まずそもそも右翼だが、元はヤクザとの明確な区切りは無かった。これは土建屋、鳶や水商売テキ屋も同じだった。

区切りを引いたのは警察である

戦後右翼は、例えば児玉誉士夫など体制癒着しそれは米国従順という事でもあった。

1960年代末に左翼学生運動が盛んになるとこれに対する体育会右翼学生組織されていった。新右翼と呼ばれる。

新右翼の特徴は反ソ反共ながらも反体制反米である事だった。これは当時の世相や全共闘運動に影響を受けている。

ここを境に右翼系の政治結社誕生して行く。そしてそれらは「街宣車軍歌を流し辻説法をする」というスタイル確立していく。

この街宣車は最初旧軍自衛隊国防色(カーキと灰色バトルシップグレイ)だったのが後述の事情威圧感の強い黒塗りになっていく。

よく「街宣右翼」とネットの一部で言われるが、1980年から右翼政治結社街宣車スタイルをみな踏襲しており、それ以外はないような状態だった。ヤクザっぽいがはじめの方の新右翼にはヤクザとの殊更の関係はない。

因みに日本会議中央の人士らはこういう街宣ではなく、就職しないで大学に残り学生運動を続けた人たちである

 

80年代になると校内暴力学校が荒れ、ツッパリ型不良が大増殖して暴走族も大増殖した。また暴走族右翼感染が進んだ。特攻服旭日旗暴走族の印となったのもこの頃だ。不良or大人への反抗=右翼ファッションだったのである

更に暴走族ヤクザ構成員リクルートの場になる。

こうして右翼≒不良≒ヤクザが緊密化したところで任侠右翼の街宣参入が増えたのだが、もっと大きい商機的な問題があった。

 

思想右翼の主な資金源というのは機関紙販売である。これは志を同じくする人からの購買もある。

が、もう一つのパターン不正思想的に看過できない行いをした法人へ抗議街宣をして、その手打ちとして機関紙の購買を取り付けるという方法がある。

ヤクザが参入する主目的後者の方で、民事介入暴力の支払い手段として機関紙購買を取り付ける為に政治結社を立ち上げるのである民事介入暴力というのは殴ったり蹴ったりじゃなくて、企業商業活動暴力団が威圧をもって参入する事だ。

企業恐喝街宣車を利用するのだ。国防色より威圧感がより強い黒塗りが主流になっていったのはこの為だ。

暴力手段行使されないようにみかじめ料として機関紙を購読する会社も多く、大変な出費になっていた。

 

因みに総会屋も同じことを70年代にやっており、機関紙/誌の執筆者編集者需要が高まり学生運動就職が困難になった学生運動家が多数その仕事に就いた。総会屋の多くは内容には口を出さなかったので社会不正糾弾する記事を書きまくり総合誌ブームが起きたが、80年代初頭の商法改正総会屋が潰されると大方廃刊

だが技能を身に付けた者は大手メディアフリーランスとして雇用された。リベラル/左翼ライターには総会屋の手先出身結構居たのである

 

こういう訳で街宣右翼業界は膨れ上がり、日教組集会8月9日反ソデーには黒塗りのハイデッキバスが大挙して集合し爆音軍歌を流すようになった。それまでのライトバンやタウンエーススピーカーつけてる貧乏右翼とは大違いだ。

ハイデッキ観光バスというのは6000万円以上する。それの座席を取っ払ってラウンジ型にしてシャンデリアやカラオケ自動車電話冷蔵庫バーカウンターをつけて車検を通したら1億を超える。それに自民党共産党のようなプロの街宣用スピーカーアンプを搭載して、北方領土の日にはフェリー陸路釧路とかの空港回送しておくのだ。組員は飛行機で向かってバスに乗り納沙布岬に向かって「露助この野郎」とかやって帰るんである

しか一社あたり3台とか6台とか持ってるのだ。沢山来すぎて根室渋滞になるほどだ。当時の任侠右翼の羽振りの良さが判るだろう。

 

ハリウッド映画でもジャパニーズヤクザ描写されていた頃で、特に企業活動への威圧的介入は警察問題視されていた。

そこで暴対法施行される事になる。これは大抵の暴力団を社会的に殺す大変大きな力がある法律だった。

伊丹十三ミンボーの女には暴力団が右翼街宣車企業恐喝に来るシーンがある。この映画暴対法施行直後に公開されたので同法施行で先を案じているヤクザを大いに怒らせる事になって伊丹ヤクザに襲撃されて重傷を負ってしまった。

余談だが、この時伊丹を襲撃した組は後にJR東本社前の土地を巡って殺人事件を起こした。JR東本社道路に面しておらず、また同社は本社付近建物を次々に押えているのだが、購入すれば都道と面して建築基準が大幅緩和されるその土地に手を付けなかった。それほどヤバい土地だったのだな。

 

ちょっと長くなったが、「えせ右翼在日朝鮮人右翼の評判を下げる為になりすましてる」とか噴飯物の事をいう人が多く居る界隈なので一応説明した。

えせ右翼とは一般には上記のように民事介入目的ヤクザ運営して構成員も被る政治結社の事だ。もっと硬い警察用語では「右翼標榜暴力団」という。

 

90年代右翼不遇の時代 

こうして

1.バブル的に増加した任侠右翼暴対法により急速縮小

2.ソ連消滅により敵を喪失

となってソ連勝利したはずなのに右翼/保守業界というのは停滞してシュリンクしてしまう事になる。

そして当業界では超直的なそれに代わって冷戦後政治リアリズムを中心に多様性がある論説が流行するようになった。産経新聞コラム「斜断機」が柔軟で面白くて単行本化されてしまうような時代だ。因みに吉本隆明の門下生が多く書いていた。

そんな中で反共反ソイデオロギー一本の人らには居場所が無い。ソ連無き後に残った残存敵性勢力日教組をひたすら叩きながら閉じた業界で腐っていたのである

当時は欧州もみな社民政権リベラル人気で冷戦後世界情勢にも楽観的だった時代だった。 

 

 

 

続き→https://anond.hatelabo.jp/20220615180755

2022-06-06

アラフォーから見た日本の景気は

70年代オイルショックで抜け出し、80年代貯金90年代を走り抜けて00年代中頃まで来たが、

08年のリーマンショックガツンと落ちて、2011年原発事故でとどめ刺された感がある。

  

東日本大震災も、あとを引く原発事故さえ無ければ、国民意識的には違ってたと思う。

言うても、阪神中越沖、東日本(09年もだっけ?)、熊本、と、震災には慣れてる国民性だし。

バブル景気小学生で過ごし、リーマンショック社会人デビューした世代だが色々と辛い。

 

正社員なんで給与は微増しているものの、2011年以降の荒廃感が半端ない

生きているうちに90年前後を再体験したい。

 

 

 

同日に同じ趣旨記事見つけたかメモ

https://anond.hatelabo.jp/20220607014124

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