はてなキーワード: J・K・ローリングとは
多くの人が当たり障りのないことを言っているのは、トランスナチおよび極端に考える力が弱い人の相手をするのが面倒なのと
文明人なら他人のアイディンティーを尊重する"フリ"をしないといけないから
ハリポタの作者のJ・K・ローリングと『トランスジェンダーの女子競技参加は"インチキ"』 発言したマルチナ・ナブラチロワがなんで叩かれてるの?ってみんな思ってるぞ
でも、まさかそのせいであたおか上級国民がやりたい放題するとは思わなかったわ
まぁ思うべきだったんでしょうね、国公立の大学内でミスコン開催(当然参加者は整形したりする)を容認しているような
市民感覚からかけ離れたロクでもない連中なんで全体的に腐ってる
朝日新聞も間違った記事書いてデマ拡散した後に、リプ欄で間違ってましたと訂正していたよ。
仮にも新聞が元のツイートチェック程度の簡単なファクトチェックもやらずに真逆の発言をしたと間違った拡散をしたのは酷すぎる。
https://twitter.com/asahi/status/1469684755239440389?t=GzwRmLnvpK4Q-K9JB_xMBA&s=19
こちらの記事で「J・K・ローリングが数年前、『女性』のことをあえて『生理がある人』とツイートし、炎上したこともある」としていましたが、「『生理がある人』を『女性』と明言しなかった記事を揶揄するツイートで炎上したこともある」の誤りでした。お詫びして訂正します。
アガサ・クリスティーの探偵小説を改訂、不快な可能性のある表現削除
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.cnn.co.jp/style/arts/35201796.html
これ本当に望ましくて、アガサ・クリスティーといえばミステリーの女王だけど、彼女の作品には差別表現が何か所もあるというのは有名な話だ
現代でいうとJ・K・ローリングなんかもそうなんだけど、どんなに名作と呼ばれる作品を残した人でも女性作家に起きうる問題なんだよな
その時々の社会の男性が差別的な態度を示していると、女性作家は抵抗できずに毒気にやられて、自分でも差別的な言葉を使うようになってしまう
だからこそ今回のように、死後だったとしても周りの人がちゃんとした表現に修正してあげるのが大事なことなのよね
黒人が使用人として使われていた歴史的事実を書くだけでNGらしい。実写で昔の時代を撮るときは白人を使用人役にして、黒人は主人にでもするのかな?
こういった主張も保守的なファンから出がちだけど、昔と今とでは客層が違うのよ
人種だけでいっても白人だけでなく世界中のあらゆる人種が作品を読むようになった
アメリカのディズニーのスプラッシュマウンテンが廃止になったのと同じで、特定の人種の人が読んで傷つくような描写は歴史的事実がどうであれ無くしたほうがいいのよね
誰だって自分の人種が下僕や召使みたいな扱いを受けている作品は読みたくないでしょ
不快なノイズがあるせいで読まれなくなるし、永遠に読まれ続ける作品と言うのは、時代によって左右されるノイズ要素を極力排した作品なので、一手補助するだけで永遠になれるのなら、そっちのがいいだろうしね。
まさにこの通り
「チンポついたままのレイプ犯が『自分の性自認は女性です』と言って女性刑務所に入ってくるの怖くね」
まあわかる。
「トランスジェンダーに配慮して『月経のある人』とか回りくどく言うのおかしくね。『女性』って言えばいいだろ」
まあわかる。
「肉体的な性別というものは現実に存在するじゃん。それを無視するほうがおかしいでしょ」
まあわかる。
要するにトランス側は「性別は身体的な概念ではない」と言ってるのに対して、
ローリングは「トランスジェンダーであろうとも身体的性別からは逃れられない」と言ってるんだろ。
言うほどトランスフォビアか?
「トランスの人がローリングの無神経な言い方で傷ついた」くらいの話だったらわかる。
ローリングってけっこう修辞的で皮肉めいた言い回しをするんだよな。
それが癇に障るのはわかる。
でも欧米の新聞紙は「ローリングはトランスフォビアだ」と報道してるしハリポタ俳優が代わりに謝罪したりしている。
「ローリングは差別主義者で反トランス組織に資金を提供している」とか怒ってるツイートがめちゃRTされてたりする。
え、そこまで反応するんだ、と思ってしまうんだよな正直なところ。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1924501
サンジャポでの太田光の発言に対して、テロを容認するコメントが多すぎてドン引き
ストレートに「言論じゃ変えられないならテロOK」なコメントもあれば、直接的にテロを称賛するとよくないので「テロではない」とか「自民党に話し合う姿勢がない(≒テロもしょうがない)」「理想論では解決しない(≒テロもしょうがない)」みたいなコメントがズラズラと並んでるんのヤバない?
こんなもん「統一教会への批判の仕方によってはテロ容認につながるから気をつけようね」でまとまる話だと思うんだが、これで信者認定が連発してたらまともな議論は無理だろ…去年の「統一教会系メディアとVtuberがズブな件」で安易なレッテル貼りはダメだってことを学ばなかったのか?
にしても、他の人気ブコメで「山上の行為は肯定できない」が肯定できない人がおる時点でもうダメだし、「カルト認定して規制」とかオウムでも無理だったことをやれというコメントとか見ていると「統一教会は潰すべき」を本当に考えているのだろうか? 単に「安倍元総理を支持しない」を言いたいが為に統一教会批判をこん棒として使っていないか?
他の記事でも対話以外での解決を容認するブコメがチラホラあるんだよな…
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/neon_shuffle/n/n0ef38a984eba
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1924043
「犯罪じゃないからセーフ。表現の自由」「どっちもどっち」的なブコメ、不適切な発言した人は法に触れなければ実力行使で排除しても問題ないってことになるが、本気で言っているのか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/837508975967813632
まあ、J・K・ローリングの殺害予告ですら「でもJ・K・ローリングは差別発言者だぞ」のコメントが人気になるはてブならまあそうなるか…
おわり
まぁ増田くんには、アイデンティティの尊重とか、人間の尊厳とか、(困難を抱えた方の)自立の在り方なんてのは難し過ぎる話だよな
増田くんのお気持ちに寄り添って、『生活保護』『きれいなアパート』『海外旅行』だけに絞った話をするなら、
本でも書けば?
『ハリー・ポッター』の原作者として有名なJ・K・ローリングさん。
いまでは総資産1210億円の大富豪。英国内に3億〜4億円クラスの豪邸を5軒も所有しているとか・・・
彼女は有名になる前は、非常に貧しいシングルマザー。貧困のあまりうつ病を発症し、一時は自殺を考えるほどだったようです。
しかし、生活保護を受けながら『ハリー・ポッターと賢者の石』を完成させたのです。
正確には、出してもいいけど女とセットにしろ。
パーソルテンプスタッフ株式会社は以前、Hey! Say! JUMPの中島裕翔の写真を使った全面広告を日本経済新聞に出している(2021年3月23日)。
ttps://www.tempstaff.co.jp/corporate/release/2020/20210315_5025.html
また、ジャニーズから城島茂・国分太一・松岡昌宏が独立して株式会社TOKIOを作ったとき、同じく日経新聞に全面広告を出した(2021年4月1日)。
ttps://sirabee.com/2021/04/01/20162546415/
これらの広告には、日本人の男性しか写っていない。したがって、これは、日経新聞が創設メンバーであるアンステレオタイプアライアンスの掲げる「3つのP」の1項目「Presence」に反しているし、2項目目の「Perspective」も怪しい(後者にはTOKIOの視点しかないし、前者には、イケメン男性を愛好する女性ファンの目線で描かれている)。
だいたい、パーソルテンプスタッフ株式会社の業務と中島裕翔に何の関係があるというのか。中島とテンプスタッフの業務との関係は、巨乳女性が出てくる漫画と献血事業との関係くらい薄いだろう。事業の広告に無関係なイケメンを出すのはルッキズムを強化するので有害である。
えっ? TOKIOの広告にはTOKIOしか出てなくてTOKIOの視点しかなくても問題ない? 商品そのものの広告だった『月曜日のたわわ』は男目線だと叩かれたよね? ということは、商品そのものの広告にも「3つのP」は適用されるべき、ってことになるよな。OK?
納得してもらえたところで次いこうか。
Yoshikiのワインブランドの全面広告が日経新聞に掲載されたこともある(2021年12月15日)。もちろんYoshikiしか写っていないので、上述のジャニーズと同じ問題が発生する。日経新聞は今後このような多様性に欠けた広告はやめるように。
『月曜日のたわわ』の広告は有害なジェンダーステレオタイプを強化するのだそうだ。なるほど、有害なジェンダーステレオタイプを強化する表現が広告として世に広く掲示されるべきではない。
ところで、日経新聞は『鬼滅の刃』の登場人物である煉獄杏寿郎を使った全面広告を載せている(2020年12月4日)。
ttps://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1293062.html
ものの見事に日本人のキャラクターしかいない、多様性の欠如した広告キャンペーンだ。当然、「3つのP」に抵触する。
しかしそれだけではない。『鬼滅の刃』は、主人公に対して「弱い 未熟 そんなものは男ではない」「どんな苦しみにも黙って耐えろ お前が男なら」といったセリフを投げかけるキャラクターが存在し、主人公はその指導に従う。これは、弱さを否認するウィークネスフォビアや、弱音を吐かず耐え忍ぶという有害な男らしさ(トキシックマスキュリニティ)を助長する描写であり、男性にとって有害なステレオタイプである。このようなジェンダーステレオタイプを強化する広告を載せるべきではない。
また、主人公が刀を振るって戦うことは、刃物による攻撃に怯える人たちをさらに脅かすものであり、「刃物で人を虐殺して構わない」というメッセージを社会に発している。
なに? 『鬼滅の刃』をちゃんと読め、『鬼滅の刃』は主人公が虐殺を肯定するシーンなんて一度もない、だって? 『月曜日のたわわ』にも主人公が痴漢を肯定するシーンはひとつもないが、痴漢を連想する、痴漢を助長するとして叩かれた。ということは、『鬼滅の刃』も、刃物を振り回すキャラクターのイラストを以て、通り魔などの恐怖を連想する、通り魔を助長するとして叩かれなければ筋が通らない。
さて、ここまでは、実際に日経新聞に掲載された広告に基づく話だ。次からは、「アンステレオタイプアライアンスの創設メンバーとして、このような広告を載せないように注意してほしい」という警告を発しておきたい。もし将来このような広告が載せられたら、みんなは存分に批判してほしい。
プリキュアは短い髪のキャラクターであっても変身後は長髪になり、スポーティなキャラクターであっても変身後はヒールを履くなど、「女性は髪を伸ばしヒールを履くものだ」というジェンダーステレオタイプを強化している。「女性はヒールを履くべき」という固定観念がいかに時代遅れかは#KuTooの運動で明らかになった通りだ。さらに、なんと前作ではメイクがテーマとして扱われていた。「女性は化粧をするべき」というのが家父長制による押し付けであることは韓国のフェミニストたちによる脱コルセット運動が示している。プリキュアは女性のエンパワメントを阻害する。これ以上このような有害なステレオタイプ表現を公共の場に掲示すべきではない。暖簾の向こうにしまって子供に見せないようにすべきだ。
さらに、歴代プリキュアには男性メンバーがいない。これはもちろん、ジェンダー平等であるべき広告にはあるまじき多様性の欠如である。仮面ライダーに女性ライダーがいるべきであるように、プリキュアにも男性プリキュアがいてしかるべきだ。それが本当のジェンダー平等だろう。
したがって、プリキュアという多様性に欠け有害なジェンダーステレオタイプを撒き散らす作品の広告を、アンステレオタイプアライアンスの創設メンバーである日経新聞が出すべきではない。今後、プリキュアの広告を載せてほしいという依頼が来ても断るように。
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』という漫画がドラマ化されてヒットを記録した。しかしこれは、男性に性経験がないと馬鹿にされ軽んじられるという有害な男らしさに基づく性規範を下敷きにしたタイトルであり、有害なジェンダーステレオタイプを助長している。日経新聞はこのような作品から広告を持ちかけられても毅然と断るべきだ。
また、チェリまほの原作者の豊田悠は女性である。男性同性愛者というマイノリティの性愛を、非当事者である女性が創作のネタにすることは、文化の盗用であるだけでなく当事者から機会を奪っているし(たとえばアメリカでは、白人女性がメキシコ移民を主人公にした小説を書いたことで簒奪だと批判された)、マイノリティを自らに都合のいい存在であるかのように扱うという性的客体化である。チェリまほに限らず、女性によって書かれた男性同性愛もの(あるいはその逆)を日経新聞は肯定的に取り上げるべきではない。なぜならそれは簒奪であり文化の盗用であり性的客体化であり、つまりはポリティカルコレクトネスに反しているからだ。
映画が大絶賛公開中の『ファンタスティックビースト』シリーズは『ハリー・ポッター』シリーズのスピンオフである。ところで、同シリーズの原作者J・K・ローリングがトランス女性への差別発言を度々行っているのは有名な話だろう。「温泉むすめ」のコラボが叩かれた件では過去にR-18コンテンツを描いていた作家がいたことが批判されたように、「誰がそのコンテンツを作ったか?」は重要な問題である。日経新聞は、間違ってもTERFによって作られた『ファンタビ』を肯定的に宣伝すべきではないし、広告に手を貸してもいけない。多様性を尊重すべき世の中なのだから当然だろう。
『月曜日のたわわ』全面広告批判の急先鋒となった『ハフィントンポストハフポスト』は、もちろん、日経新聞並かそれ以上に厳しい倫理観を問われる立場であるはずだ。であれば、まさか児童性虐待を恒常的に行っていたジャニー喜多川に対して肯定的な記事を書いてはいないだろうし、同性愛への偏見が根強く残る日本において同性愛者を面白おかしく扱ったステレオタイプ強化ドラマ『おっさんずラブ』の記事も同様であるはずだろうし、TERFが原作者である『ファンタビ』の知名度向上に寄与していたりはしないはずである。「ジェンダー、女性の生き方、人権、ハラスメントの問題、ルッキズム(ボディポジティブ)などに関心が」あるライターなら、なおさらそうでないとおかしい、の、だが……あれ?
小児性愛を内心の自由うんぬんで論じるべきではない、という「子供を性的にみる内心の自由はない」(anond:20200609071250)の冒頭部分はそのとおりだ。
これは性指向に基づく差別に反対という話であって、本来は内心の自由とか表現の自由とかは二の次の問題だからだ。
たとえば、この記事を読んでみてほしい。
LAタイムズの小児性愛についての記事を翻訳しました | 包帯のような嘘
読むのがめんどくさいという人のために説明すると、小児性愛は生まれつきのものであり、多くの小児性愛者はそれを変えられずに苦しんでいること、それでもなんとか現実と折り合いをつけて生きていこうとしていることが書かれている。
つまり、小児性愛は、それを持って生まれた人にとっては変えがたい性指向だということだ。
性指向という、本人の責任ではなく、また変更も困難なものに基づいて人を差別することは許されない。
小児性愛者を治療しろ? 百年前に同性愛者も同じことを言われていた。小児性愛者は性的モンスター? 「ゲイが同じチームにいたらロッカールームでケツを掘られる!」というのとどう違うのか?
もちろん、小児、すなわち性交同意年齢に達する前の子供と性行為をおこなうことは許されてはならない。あるいは、実在する子供を性的に虐待することで生み出されたコンテンツは、厳しく規制されるべきだろう。
だが、それはあくまでも行為であって、性指向の問題とは別だ。性指向が子供に向いていなくとも子供を性的に虐待することはありうるし、性指向が子供に向いていても実在の子供の人権を侵さずに生きていくことは可能である(架空の子供を描いたイラストや漫画、あるいは今回問題になっているようなラブドールを消費している分には、実在の子供の権利は損なわれない)。
性指向に基づく差別に反対することと実在の子供の人権を擁護することはまったく矛盾しない。
増田は「同性愛」と「同性間での性行為」を、「小児性愛」と「小児との性行為」を混同している。
同性愛も小児性愛もその人の持つ性指向の問題であり、それ自体が犯罪となるような性質のものではない。
逆に、性行為を問題とするのであれば、同性間での性行為に同意が伴っておらず強制性が存在した場合、当たり前だがそれは犯罪である。同性愛のすべてが犯罪でなくなるわけではない。たとえばゲイが嫌がるノンケを押し倒して事に及べば強制性交罪だ。
もしも小児との性行為が犯罪であることをもって小児性愛を犯罪だというのであれば、同性との性行為の一部は犯罪になりえるのだから同性愛も犯罪的だし、異性との性行為の一部も犯罪たりうるのだから異性愛も犯罪的な性指向である。唯一犯罪と無縁でいられる性指向は無性愛しかない。
「ある性行為が犯罪である」ことと「ある性指向が犯罪である」はまったく同一ではないことが以上の例示でわかるだろう。
幼少時に性的虐待を受けた可能性がそれなりにある人たちに向かって、別に本人たちが興味があるわけでも、知識があるわけでもない、児童性愛を擁護する言葉を声高に発する人たちは、控えめに言って、人でなしだと思う。
小児性愛者と児童虐待者はイコールではない。仮に性指向が成人に向いている人間であっても、「身近にいて、非力で、手を出しやすい存在」である子供に性的虐待を加えることは十分に起こり得る(これは児童虐待を論じる上での常識だ)。
児童への性的虐待は痛ましく、許されてはならないことだが、それは小児性愛者を差別する理由にはならない。
そもそも論として、児童への性的虐待が小児性愛者によって行われていたとして、それは一部の小児性愛者の行為にすぎず、それをもって全体を犯罪者と罵るのは典型的な差別主義である。
あなたは9・11テロの犠牲者の遺族に向かって、イスラム教を擁護する言葉を声高に発することができるのか? もちろん声高に発するべきであり、遺族の気持ちを慮って差別主義に屈するのは間違いだと言わなければならない。たとえ遺族の気持ちを傷つけたとしてもイスラモフォビアには反対すべきである。それが市民としての倫理的な義務だ。
人でなし? それはこちらの台詞だ。私から見れば、変えられない性指向に基づく差別を正当化する連中の方が、よほど人でなしに見える。
犯罪を好む特殊な性癖を持っている人たちの権利を擁護したいのであれば、自分の言葉が多数の性的虐待被害者を傷つけることを理解した上で、それでも主張したいことを、十分に勉強した上で注意深く主張すべき。
性指向に基づく差別を正当化したいのであれば、自分の言葉が性指向に基づく差別で苦しむ性的少数者を傷つけることを理解した上で注意深く発言すべきだ。というか、少なくとも自分が差別主義者であるという自覚は持ってほしい。それはそんなに難しいお願いだろうか? だって言ってることは一昔前にホモフォーブが言ってたこと――あるいは今も言ってること――と同じじゃないか。
私は、「性指向という、本人の責任ではなく、また変更も困難なものに基づいて」人を犯罪者予備軍扱いしたり(それ自体が誰の権利を侵害しているわけでもない)オナニーの道具を取り上げようとするのは差別だと思うんだけど、それは差別じゃないって言いたいのかな?
差別主義者はいつだって「これは差別じゃない」と言う。どれだけ明々白々な差別をしていたとしても。
子供の姿をしたラブドールでどう子供の安全が脅かされるんだ……?
そんなに子供の安全が気になるなら、小児性愛者よりも先に家族に目を向けるべきではないか。児童への性的虐待は見ず知らずの小児性愛者によってなされる事例よりも家族・親族あるいは見知った大人によってなされる事例の方が多いのだから。
小児性愛者を怪物に仕立て上げたところで、子供が安全になりはしない。それで安全を得たと思えるのなら、それは本当の安全ではなく心理的安全に過ぎない。あなたがラブドールを愛好する小児性愛者を槍玉に挙げる横で、今日も義理の父親が義理の子供に性的虐待を加えているかもしれないのだ。
内心は誰にも分からないけど、欲求を公言したら批判や忌避される対象となるのは仕方ないと思う。/ 臨床現場で現在ペドフィリアに行われている治療は、薬物療法のほか、認知行動療法やグループミーティングが中心。
前段。同じことを同性愛にも言えるか? 仕方ないとか寝ぼけたことを言ってないでそれが差別感情だと認めるべきだろう。差別感情を認知しなければあなたは一生差別主義者のままなのだから。
後段。それって性指向を変えるような治療じゃなくて、性指向を抱えたままでこの社会に適応できるようになるための治療ですよね。
彼らが法を犯さないように生きていくためにその種の助けが必要であるなら助けを求めればいいと思うけど、そもそも論として社会が彼らを差別しなければ彼らの社会適応への苦しみはもっと軽減されていたはずだろう。自分の性指向を公言したら差別され排斥される社会で自分の性欲との適切な距離の取り方を自然に見つけられるわけがない。
そういう人は一定数この社会には存在していて、そのセクシュアリティは実行に移されない限り誰にも否定されるものじゃない、あなたたちはこの社会の一員だ、と啓蒙していくことが必要なはず。LGBTと総称される人たちに対してはそういう啓蒙が徐々になされるようになってきて、彼らの悩みを軽減して社会の一員として包摂する流れになってきているのだから、同じことを小児性愛に対してもすればいいだけ。
一昔前のイギリスでは同性愛は犯罪で、アラン・チューリングは犯罪者扱いされたすえに自殺に追い込まれた。今、イギリスでは同性愛者は堂々と街を歩き結婚もしていて、彼らに対して侮蔑的な言葉を発した者こそが差別主義者として非難される。隣国アイルランドでは同性愛者が首相になりさえした。彼らは胸を張って通りを歩けるのだ。
小児性愛者には愛する人たちとの結婚はできないが、せめて堂々と胸を張って歩く権利くらいあってもよいだろう。
持って生まれた性指向で批判されても仕方ない、なんて、これほどおぞましい主張があるだろうか。私は成人を対象とする異性愛者だけど、思春期からお前の性欲はおかしいと言われ続けていたら発狂していただろう。そんな酷い扱いを受けてしかるべき存在なんてこの世のどこにもいない。いていいはずがない。性指向に基づく差別は間違っている。
公的機関ならともかく、私人は全員に全く同じ取り扱いをすることはできないので、あらゆる差別を禁止することは不可能で、どの区別が禁止されるべきで、どの区別が禁止されるべきでないかの検討が必要。
私人は全員に全く同じ取り扱いをすることはできない? 別に小児性愛者と友達になれとか家に上げろと言っているわけじゃない。侮辱するな、迫害するな、彼らの権利を奪うなと言っているだけ。それってそんなに難しいこと? 他人をいじめないと社会生活を営めないの?
子どもは圧倒的に守られなければいけないのがなあ。/「われらの権利を擁護しろ」と少し大きな声で言うことは、純粋な「内心」から少しはみ出してしまう行為で、小児性愛の場合はそこに多くの人の目が行ってしまう。
子供を守ることは誰も否定していないのだが……小児性愛者を差別するなと言っているだけで……
というか、思春期に入ってはじめて自分が小児性愛者と気付き苦悩する少年は守るべき子供じゃないの? 18歳になる前に自分の性指向に気づいた小児性愛者のことは守らなくていいの? どうして守るべき「子供」から小児性愛者を無条件で除外できると思えるの? それが差別意識ってやつなんじゃないの?
これは余談というかお気持ちだが、昨今の小児性愛者をめぐる議論において本気で悲しいのは、かつて私に差別とは何なのかを教えてくれた進歩主義陣営の人たちの多くが、小児性愛者への差別を扇動する悪質極まりない差別主義者に成り果てている姿を見てしまったからだ。
あなたたちから教わった差別の考え方であなたたちを叩き斬らなければならない日が来るなんて考えたくなかった。
J・K・ローリングがトランスジェンダーへの差別に加担している姿を見ることも辛ければ、反差別を訴え続けてきた人が小児性愛者へのヘイトを垂れ流している姿を目にすることも悲しい。かつて私の蒙を啓いてくれた反差別陣営が、こんな露骨な差別に加担している光景なんて夢か何かだと思いたい。