はてなキーワード: Centuryとは
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
「アニメは原作の展開を省略しまくってるダイジェスト版だけど漫画版は作者のロボ愛が凄いぞ!」
とかそういう売り文句か何かでこの人がナイツマファンに持ち上げられまくってたんだったかな
ロボットだけ描ける人・人間だけ描ける人は多くてもその両方を描ける人というのはあまり居ないから凄い人だなと思った
漫画家さんだけど漫画を描いてる息抜きに趣味の絵を描くとか、Ex-Sガンダムを資料を見ずに描けるとかとんでもないエピソードも聞いた
とにかくロボットの事が好きで堪らない、ナイツマの主人公エル君をそのまま漫画家にしたような人、みたいな存在とナイツマファンに言われていた
そんな凄い漫画家さんがこの世に居て、そんな人にコミカライズを担当してもらえるナイツ&マジックは小説家になろう発の作品の中でもトップクラスにラッキーな作品だと思った
その加藤先生が趣味でロボットを題材にしたギャグ漫画を描いてる、という話もナイツマ関係の話題を追っていると当然目に入った
無料で公開している、という事で読ませてもらったんだけども…割と早い段階であれ?と思った
本人も後に訂正しているんだけど、ロボットアニメが大好きで堪らない!というキャラが「新機動戦記ガンダムX」という新機動戦記ガンダムWと機動新世紀ガンダムXのタイトルを混同して覚えていた
そこを不思議に思ってナイツマファンに聞いてみた所、どうも加藤先生は世代的に富野ガンダム直撃世代の層なので平成のアナザーガンダムに詳しくなかったのではないか?という解釈を聞かされた
その時は「ふーんそんな物かな…」と思ったけど、もしこれが宇宙世紀作品なら加藤先生はタイトルを誤らなかったんだろうなーとか、ロボアニメが大好きで詳しい設定のキャラがそんな凡ミスをして良いのか?とか悪い印象を持った
決定的に加藤先生に対して不信感を持ったのは、Gの泉の女神様・その39の事だった
https://twitter.com/isiyumi/status/1089097269800914944
機動戦士ガンダムSEEDの劇場版がいつまで経っても公開されないね!という、ガンダムシリーズファンにとってはまああるあるネタの一つを取り扱った回なんだけど
これ以前のGの泉の女神でこういう「ロボットアニメを題材にしたブラックジョーク」は一つも無かったので、「え?SEEDではこういうネタやんの?」と正直驚いた
実際ガンダムSEEDは古くからのガンダムやアニメのファンには受け入れられてるとは言い難い作品だったのは事実ではある
ファンのマナーが悪い、スタッフの口が悪い、予算ばかり掛けた割に内容が破綻しているなどといった話はこの20年間絶えず耳にしてきた
島本和彦先生、長谷川裕一先生など古くからガンダムに関わってきたクリエイターや、スーパーロボット大戦、Another Century's Episode、ガンダム無双などゲーム作品からもSEED本編について思う所があるのは伝わってきた
別に加藤先生が特別SEEDについて何かを思ってる訳じゃないだろうし、これもまあ…ガンダムファンあるあるネタの一つに過ぎないんだろう、と思っていた
最近、ふと何を思ったのか加藤拓弐先生の名前と「種死」(*ガンダムSEED DESTINYの略称。蔑称的な意味合いも含まれる)でTwitterを検索してみた
すると、「ああ、この人ふつーにSEEDの事嫌いだったんだなあ」って昔の呟きがヒットした。ナイツ&マジックのコミカライズが始まるずっと前、2010年頃の呟きだった
今ではその呟きは削除されて見えないけど、一応スクリーンショットは撮っておいた。つい最近まで見れたのについ最近何故か消してしまったらしい
https://i.imgur.com/mdxgL4G.jpg
あのロボットアニメ大好きな加藤先生にここまで言わせた種死の方が悪いと言うならそれもまた事実だとは思う
加藤先生は他のロボットアニメは大体好きというかここまで言う事は無いし、Gの泉の女神様でも他の作品をああいうネタにした事は無かったから
たださ、名前を間違えたりするくらい興味無い作品があったり、わざわざ作品の中でコケにするくらい嫌いな作品があるなら「自分はありとあらゆるロボットの事が大好きです!」みたいな面をするのはやめろよって素直に思った
ナイツマのエル君もロボット大好き!ってキャラでありながら「ロボットを破壊して良いのはロボットだけなのです!(怪獣など非ロボットがロボットを破壊するのは許さない)」ってちょっと狭量な思想だったけど
このジャンルのありとあらゆる物が大好き!ってキャラクターを売りにしてる人物が、一部の物だけは蔑み嫌ってる所を見ると幻想が壊れるというか、当たり前だけどこの人も人間だったんだなーって気付けるようになった
とりあえずそういう事があってからナイツ&マジックコミカライズ版の作者加藤拓弐先生の事が俺は嫌いで嫌いでたまりません、という日記
【追記】
加藤先生も嫌いだけど、そのリプ欄で加藤先生に追従するように十数年前から変わらないやりとりでSEEDを貶してる所謂種アンチ的な連中も大っ嫌いだなって思った
【追記2】
Gの泉の女神様・その39に登場する闇の女神というキャラは「劇場版SEEDが公開された時に封印から解放される」という設定のある種一発ギャグ的な設定のキャラなのだけど
劇場版SEEDの制作・公開決定が改めて報じられた去年の5月から現在に至るまで加藤先生はこの闇の女神とSEEDについて一切触れていないので、
「この人は今後絶対に公開される筈がない劇場版SEEDをネタにしたかっただけで本当は公開を待っていた訳ではないんだな」と解釈して改めて加藤先生の事が大嫌いになりました。終わり
of the topic (time frame given)
One of the most important events of the 1970s was ….
Traditionally, Xs have subscribed to the belief that ….
Recent developments in X have heightened the need for ….
In recent years, there has been an increasing interest in ….
Recent trends in X have led to a proliferation of studies that ....
Recent developments in the field of X have led to a renewed interest in ….
Recently, researchers have shown an increased interest in ….
The past decade has seen the rapid development of X in many ….
The past thirty years have seen increasingly rapid advances in the field of ….
Over the past century there has been a dramatic increase in ….
X proved an important literary genre in the early Y community.
The changes experienced by Xs over the past decade remain unprecedented.
Xs are one of the most widely used groups of Y and have been extensively used for ….
Synopsis of literature
Previous studies have reported ….
Recent evidence suggests that ….
Several attempts have been made to ….
Studies of X show the importance of ….
A number of researchers have reported ….
Recently investigators have examined the effects of X on Y.
Factors found to be influencing X have been explored in several studies.
In the past two decades a number of researchers have sought to determine ….
A considerable amount of literature has been published on X. These studies ….
Surveys such as that conducted by Smith (1988) showed that ….
The first serious discussions and analyses of X emerged during the 1970s with ….
There have been a number of longitudinal studies involving X that have reported ….
Xs were reported in the first models of Y (e.g., Smith, 1977; Smith and Patel, 1977).
What we know about X is largely based upon empirical studies that investigate how ….
Smith (1984: 217) shows how, in the past, research into X was mainly concerned with ….
Highlighting a problem
However, a major problem with this kind of application is ….
Lack of X has existed as a health problem for many years.
However, these rapid changes are having a serious effect on ….
Despite its safety and efficacy, X suffers from several major drawbacks:
However, research has consistently shown that these students lack ….
There is increasing concern that some Xs are being disadvantaged ….
Despite its long clinical success, X has a number of problems in use.
Questions have been raised about the safety of prolonged use of ….
Along with this growth in X, however, there is increasing concern over ….
https://web.archive.org/web/20220226224717/https://ria.ru/20220226/rossiya-1775162336.html
The Advance of Russia and the New World
A new world is being born before our eyes.
Russia's military operation in Ukraine has opened a new era - and in three dimensions at once.
And, of course, in the fourth, internal Russian dimension.
Here begins a new period both in ideology and in the very model of our socio-economic system - but we should talk about this separately a little later.
Russia is restoring its unity - the tragedy of 1991, this terrible catastrophe of our history, its unnatural dislocation, has been overcome.
Yes, at great cost, yes, through the tragic events of the actual civil war, because now there are still brothers shooting at each other, separated by belonging to the Russian and Ukrainian armies - but Ukraine as the anti-Russia will no longer exist.
Russia is restoring its historical wholeness by gathering the Russian world, the Russian people together - in its totality of Great Russians, Belarusians and Little Russians.
If we refused to do this, if we allowed the temporary division to take hold for centuries, we would not only betray the memory of our ancestors, but we would be damned by our descendants - for allowing the collapse of the Russian land.
Vladimir Putin took upon himself - without a bit of exaggeration - a historical responsibility, deciding not to leave the resolution of the Ukrainian question to future generations.
After all, the need to resolve it would always remain a major problem for Russia - for two key reasons.
And the issue of national security, that is, the creation of Ukraine as an anti-Russia and an outpost for Western pressure on us, is only the second in importance among them.
The first would always remain a complex of divided people, a complex of national humiliation - when the Russian house first lost part of its foundation (Kiev), and then was forced to accept the existence of two states no longer one, but two peoples.
That is, either to abandon its history, agreeing with the crazy versions that "only Ukraine is the real Russia," or to gnash their teeth helplessly, remembering the times when "we lost Ukraine.
Bringing Ukraine back, that is, turning it back to Russia, would be more and more difficult with each passing decade - the recoding, derussification of Russians, and the setting against Russian Little Russians-Ukrainians would gain momentum.
And if full geopolitical and military control of the West over Ukraine were consolidated, its return to Russia would become impossible at all - it would have to fight the Atlantic bloc for it.
Now this problem is gone - Ukraine has returned to Russia.
This does not mean that its statehood will be liquidated, but it will be restructured, re-established and returned to its natural state as part of the Russian world.
In what borders, in what form will the union with Russia be fixed (through the CSTO and the Eurasian Union or the Union State of Russia and Belarus)? This will be decided after the end of the history of Ukraine as anti-Russia.
In any case, the period of the split of the Russian people is coming to an end.
And here begins the second dimension of the coming new era - it concerns Russia's relations with the West.
Not even Russia, but the Russian world, that is, the three states, Russia, Belarus and Ukraine, acting geopolitically as one.
These relations have entered a new stage - the West sees Russia's return to its historical borders in Europe.
And it loudly resents it, although deep in its heart it must admit that it could not be otherwise.
Did anyone in the old European capitals, Paris and Berlin, seriously believe that Moscow would give up Kiev? That Russians would forever be a divided people? And at the same time that Europe is uniting, when German and French elites are trying to seize control of European integration from the Anglo-Saxons and assemble a united Europe? Forgetting that the unification of Europe was only possible thanks to the unification of Germany, which happened by Russian good (albeit not very clever) will.
To take a swing at the Russian land after that is the top of ingratitude, but of geopolitical stupidity.
The West as a whole, and even more so Europe separately, did not have the strength to keep in its sphere of influence, let alone to take Ukraine.
Not to understand this, one had to be just geopolitical fools.
More precisely, there was only one option: to bet on the further collapse of Russia, that is, the Russian Federation.
But the fact that it did not work should have been clear twenty years ago.
And fifteen years ago, after Putin's Munich speech, even the deaf could hear that Russia was coming back.
Now the West is trying to punish Russia for coming back, for not justifying its plans to profit at its expense, for not allowing the expansion of the Western space to the east.
In seeking to punish us, the West thinks that relations with it are of vital importance to us.
But that's not true anymore - the world has changed, and not just the Europeans, but the Anglo-Saxons who run the West, understand this very well.
No Western pressure on Russia will get us anywhere.
Both sides will suffer losses, but Russia is ready for them morally and geopolitically.
But for the West itself, an increase in the degree of confrontation has enormous costs - and the main ones are not economic at all.
Europe, as part of the West, wanted autonomy - the German project of European integration does not make strategic sense while maintaining Anglo-Saxon ideological, military and geopolitical control over the Old World.
And it cannot succeed, because the Anglo-Saxons need a controlled Europe.
But Europe also needs autonomy for another reason - in case the United States moves to self-isolation (as a result of growing internal conflicts and contradictions) or concentrates on the Pacific region, where the geopolitical center of gravity is shifting.
But the confrontation with Russia, into which the Anglo-Saxons are dragging Europe, deprives Europeans of even a chance for autonomy - not to mention the fact that in the same way they are trying to impose on Europe a break with China.
While the Atlanticists are now happy that the "Russian threat" will unite the Western bloc, those in Berlin and Paris cannot but understand that, having lost hope of autonomy, the European project will simply collapse in the medium term.
That is why independent-minded Europeans are now completely uninterested in building a new iron curtain on their eastern borders - realizing that it will turn into a corral for Europe.
Whose century (half a millennium to be exact) of global leadership is in any case over - but various options for its future are still possible.
Because the construction of a new world order - and this is the third dimension of current events - is accelerating, and its contours are becoming clearer through the sprawling cover of Anglo-Saxon globalization.
The multipolar world has finally become a reality - the operation in Ukraine is unable to rally anyone but the West against Russia.
Because the rest of the world can see and understand perfectly well - this is a conflict between Russia and the West, this is a response to the geopolitical expansion of the Atlanticists, this is Russia's return of its historical space and its place in the world.
China and India, Latin America and Africa, the Islamic world and Southeast Asia - no one believes that the West rules the world order, much less sets the rules of the game.
Russia has not just challenged the West - it has shown that the era of Western global dominance can be considered fully and finally over.
The new world will be built by all civilizations and centers of power, of course, together with the West (united or not) - but not on its terms and not by its rules.
Global Income Inequality, 1820-2020: The Persistence and Mutation of Extreme Inequality
these two components of global inequality have moved separately between 1910 and 2020: within-country inequality dropped in 1910- 1980 (while between-country inequality kept increasing) but rose in 1980-2020 (while between-country inequality started to decline).
As a consequence of these contradictory and compensating evolutions, early 21st century neo-colonial capitalism involves similar levels of inequality as early 20th century colonial capitalism,
シンデレラ は PG(Parental guidance suggested) なんだけどっていう
PG(Parental guidance suggested)
視聴(入場)制限はないが、子供に見せる前に保護者が内容を検討することを提案したもの。保護者の教育方針によっては、子供に適さないと考えられる内容を含む可能性がある作品。
実際に子供に見せるべきか否かの判断は保護者に委ねられており、保護者によっては問題ないと判断したり、「保護者の監督」の提案自体を無視することもある。
例えば恋愛物でPG指定なら、日本で言う「成人向け要素」(濃厚なキスシーン)はない。子供に見せてよいかどうか慎重に検討すべき作品ならPG-13以上になるからである。
Parents Guide - IMDb (保護者向けのガイド)
https://www.imdb.com/title/tt1661199/parentalguide
Sex & Nudity
Prince Charming is always wearing tights which can be somewhat revealing, showing a slight bulge (particularly in one scene after fencing).
Slight cleavage is shown on women throughout the movie, since many of the costumes are based off of 19th century gowns, when corsets and low necklines were common.
The two stepsisters are shown changing into their gowns, wearing 19th century bloomers and corsets, but only their arms are bare.
Violence & Gore
A scene shows a group of men fencing with non-lethal swords.
Profanity
The stepmother says "do shut up" to Drizella because her singing is awful
Mild language and name calling. Words like, stupid, ugly, wench, hate
Alcohol, Drugs & Smoking
The Stepmother throws a party where guests are shown drinking.
Frightening & Intense Scenes
Cinderella's carriage almost veers off a cliff while it is turning back into a pumpkin.
ご覧の通り全年齢に適してるじゃなくて保護者が説明してねとされているんだけど、
少女マンガを買い与えたりBLをみている子どもに親は説明してるの?
言いたいことは分かるが、少し比較が雑。今アメリカで起こっていることと同じ筋が通るためには少なくとも、
1福澤諭吉が中国人や韓国人を迫害、差別する一部の現代日本人の象徴になっている
2この像が創設者としての福澤諭吉を讃えるための文脈で建てられたのではなく、迫害や差別を目的とする日本人の後ろ盾をもとに近年になって建てられた
(BLM運動の中でなぎ倒されているアメリカ中に存在する銅像(Confederate Statuesといった、奴隷解放運動に反対し活躍した南部諸州の軍人や奴隷商人等)はJim Crow Laws(黒人の公共施設利用の禁止制限した南部諸州の法律)やキング牧師らが活躍した公民権運動の勃興と共に1900年代!に建てられている。銅像になった人物を単純に讃えようと言う文脈や歴史的重要性といったものを加味して建てられているとは決して言えない(そもそも奴隷制を維持すべく北部と戦争して負けた南部の権力者を讃えようと言うのもそもそもおかしな話だが)。ソース↓
"The most recent comprehensive study of Confederate statues and monuments across the country... shows huge spikes in construction twice during the 20th century: in the early 1900s, and then again in the 1950s and 60s. Both were times of extreme civil rights tension. In the early 1900s, states were enacting Jim Crow laws to disenfranchise black Americans. In the middle part of the century, the civil rights movement pushed back against that segregation."
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/ru/community/posts/360007744139-26-03-2020-Последний-герой-Зрители-против-звезд-2-сезон-8-серия-все-серии-сезона-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/ru/community/posts/360007744159-26-03-2020-Место-под-солнцем-28-серия-смотреть-бесплатно-в-хорошем-качестве-от-26-марта
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/ru/community/posts/360007743939--Корни-13-серия-стс-26-03-2020-смотреть-онлайн-в-хорошем-качестве-от-26-марта-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/pl/community/posts/360007744699-26-03-2020-Корни-13-серия-стс-в-хорошем-качестве-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/ru/community/posts/360007746180-26-03-2020-Отречение-25-серия-украина-ТРК-смотреть-качество-HD-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/pl/community/posts/360007743819-26-03-2020-Заступники-5-серия-в-хорошем-качестве-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/pl/community/posts/360007746460--Доктор-Вера-13-серия-26-03-2020-смотреть-онлайн-в-хорошем-качестве-от-26-марта-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/en/community/posts/360007745080--Доктор-Вера-17-серия-26-03-2020-хорошее-качество-смотреть-от-26-марта-
https://youtubecomhelp.zendesk.com/hc/en/community/posts/360007745680--Жизнь-после-жизни-9-серия-26-03-2020-смотреть-качество-HD-
My Y2020 Bug | Tom Wyant [blogs.perl.org]
http://blogs.perl.org/users/tom_wyant/2020/01/my-y2020-bug.html
以下のコードを実行すると、1970-01-01が欲しい所に、2070-01-01が返ってくるという問題。
#!/usr/bin/perl use 5.028; use warnings; use POSIX qw(strftime); use Time::Local; my $t = timegm(0, 0, 0, 1, 0, 70); say strftime("%Y-%m-%d %H:%M:%S", gmtime($t));
2070-01-01 00:00:00
https://metacpan.org/pod/Time::Local#Year-Value-Interpretation
Years in the range 0..99 are interpreted as shorthand for years in the rolling "current century," defined as 50 years on either side of the current year.
(snip)
Whenever possible, use an absolute four digit year instead.
Time::Localの仕様として、年数に2桁の値を与えた場合、19xx年と20xx年、現在の時間から近い年を取るらしい。
歴史は大の苦手で全然勉強しなかったんだけど、大人になって海外に行く機会が増えたのを機にちょっとずつ日本&世界史を学びなおすようにしている。
そんな中「北海道がcolonizationを経ていかに日本の一部となったか」という記事(英語)をredditで見つけて「???」となった。
植民地っていうとイギリス-インド、スペイン-メキシコのように、ある国が遠隔地を支配するっていうイメージ。
日本と北海道の関係は隣り合った民族同士が戦った結果、アイヌ民族が負け日本に吸収されて一つの国になった→それってだいたいどこの国でも、国が生まれ発展する中で起こることじゃないの??ある国が異民族を打ち負かして吸収し、大きな一つの国になるという過程は「植民地化」なの?
と思いつつ、記事中でされているアメリカとの比較だとたしかに共通点がある(交易目的で流入してきた移住者と原住民が交易を通してお互いに頼りあっていたが、徐々に移住者が原住民を圧迫・迫害)。
元記事 (The Colonization of Hokkaido: How a "Foreign" Frontier Became Japan):
さらに自分なりに北海道の歴史について調べてみたんだけど、日本語だと「植民」という表記は見つからなかった反面、英語だと意外とcolonizationとして言及されてる(以下、和訳はざっくり)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ainu_people
「Meiji Restoration and Later」セクション
「(明治政府時代)当初は拓殖 (colonization) と呼ばれていたが、のちに開拓 (opening up or reclamation of Ainu lands) と言い直されるようになった(While at the time, the process was openly referred to as colonization ("takushoku" 拓殖), the notion was later reframed by Japanese elites to the currently common usage "kaitaku" (開拓), which instead conveys a sense of opening up or reclamation of the Ainu lands)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Colonization
「Modern "Colonial Era" colonialism」セクション
「19世紀初頭に大日本帝国が北海道への植民地化を行った(Beginning in the late 19th century, Imperial Japan also engaged in settler colonization, most notably in Hokkaido and Korea)」と言及あり
特に拓殖→開拓の言いかえの歴史をみると、たしかに北海道の日本への組み込みは「colonization」と言えるのかなという気もしてきてるんだけど、歴史に詳しい皆の意見を聞きたい。
https://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2016/11/18/235929
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181127-00010000-dmenueiga-movi&p=2
ビートルズやクイーンが日本に来た当初女性から熱狂的に支持されその結果アイドルのレッテルを貼られ、あんなものは女が聞くつまらない音楽だとくさされていた。
今でも何かを叩く時に女だけが好むとしたがる風潮はある、何でだろうな。
↓
先日、音楽業界S先輩と『ボヘミアン・ラプソディ』の話をしていたのだが、彼は大学生の時に友達と1975年のクイーン初来日公演に行き、「こんなに女の子ばっかりなのか!」と驚き、「もういいや」と思ってしまったそうだ。
『ボヘミアン・ラプソディ』が日本人の心をこんなにも揺さぶる理由
『ボヘミアン・ラプソディ』 (c)2018 Twentieth Century FOX
そういう男子は多かったようで、その後、仕事でクイーンに関わるようになったS先輩はさておき、隠れファンを決め込んだ男子──いや隠れているだけならいいが、カモフラージュのためなのか「男のくせにキラキラ、ひらひらした衣装なんか着て」だの「あんなもんはロックじゃない」だの「フレディ、気持ち悪い」だの、クイーンを貶めるような発言をしていた男子が『ボヘミアン・ラプソディ』を観たとたん、「クイーン最高」とか「昔から好きだった」と偉そうに言うのをいまいましい思いで見ている女性ファンも少なくない。
音楽業界外の集まりでも、そんなお姉様方の怒りに触れた私は、『ボヘミアン・ラプソディ』のヒットには、かつて男子に大好きなクイーンを揶揄された女性ファンの怨念も加担しているのではないか、と思ったほどだ。
Pliny the Elder (23–79) ガイウス・プリニウス・セクンドゥス
Giorgio Vasari (1511–1574)
Jonathan Richardson the Elder (1667–1745)
Etienne La Font de Saint-Yenne (1688–1771) ラ・フォン・ド・サン=チエンヌ
Denis Diderot (1713–1784) ドゥニ・ディドロ
Johann Joachim Winckelmann (1717–1768)
John Ruskin (1819–1900)
Guillaume Apollinaire (1880–1918)
Walter Benjamin (1892–1940)
Harold Rosenberg (1906–1978) and Clement Greenberg (1909–1994)
Linda Nochlin (1931–2017)
Lucy Lippard (1937–)
Rosalind Krauss (1940–)
Jerry Saltz (1951–)
16 Critics Who Changed the Way We Look at Art | Artsy
https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-16-critics-changed-way-art
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.artsy.net/article/artsy-editorial-16-critics-changed-way-art
In 2001 Kofi Annan received the Nobel Prize in conjunction with the United Nations.
The focus of his speech was global inequality.
"Ladies and gentlemen,
Today in Afghanistan a girl will be born.
Her mother will hold her, feed her and comfort her and care for her just as any mother would anywhere else in the world.
In those most basic acts of human nature, humanity knows no divisions.
But to be born a girl in Afghanistan today, is to begin life centuries away from the prosperity that one small part of humanity has achieved.
Even thought her mother would do all in her power, to protect her and sustain her.
There is a one in four risk that the girl will not live to see her fifth birthday.
Whether she does is just one of the tests of our common humanity of our belief in our individual responsibility for our fellow men and women.
But it is the only test that matters.
Remember this girl then our large aims to fight poverty, prevent conflict or cure disease will nothing distant or impossible.
Indeed those aims would seem very near and very achievable as they should.
Because beneath the surface of stats and nations, ideas and language lies the fate of individual human beings in need.
Answering their needs will be the mission of the United Nations in the century to come.
80年代後半から90年代前半くらいにPCやPCエンジンでまま見られた、ドットで描かれた絵を使ってムービーを作る手法のやつ。
もちろん動画枚数なんて悲しくなるくらいすくないが「ダーイ好き」あたりは今見てもぐっとくる。
フロム信者だが一番好きなシリーズはAnother Century's Episode。1、2、3、あとRのオープニングだけはいい。
1も捨てがたいが3が一番好き
1から2でOPのクオりティはかなり上がっており、ハードもSSからDCになるのでハードルが上がっていたが、ハードルを越えて天井をブチ抜く勢いの出来。
ノートルダム寺院やエッフェル党などのいかにもパリな絵を取り込みつつ、主人公たちの日常パート、戦闘パート、さらに敵キャラや霊子甲冑も過不足紹介する。
rain cats and dogs(土砂降りの雨、激しい雨)
It began raining cats and dogs.
「土砂降りの雨が降り出した」
【語源】北欧神話で、猫は雨を降らせる力があり、犬は風を起こす力があると信じられていた。
『英辞郎』
One of the less likely suggestions is pets sliding off sod roofs when the sod got too wet during a rainstorm. (Ever see a dog react to a rainstorm by climbing up on an exposed roof?) Probably rather an extension of cats and dogs as proverbial for “strife, enmity”.
(可能性が低い説の一つは、ペットたちが嵐の間、雨にぬれた芝の屋根からすべり落ちるというもの。(むき出しの屋根に登って嵐に反応する犬を見たことがあるか?)あるいは、争いや敵対の象徴としてことわざに出てくる「猫と犬」のイメージから来ているのかもしれない。)
Drainage systems on buildings in 17th-century Europe were poor, and may have disgorged their contents during heavy showers, including the corpses of any animals that had accumulated in them.
(17世紀のヨーロッパでは建物の下水システムが貧弱だったので、大雨の間に、それまでに蓄積された動物の死骸を含め、様々なものを吐き出していた可能性がある。)
“Cats and dogs” may be a corruption of the Greek word Katadoupoi, referring to the waterfalls on the Nile
(Cats and Dogs は、ナイル川の滝を表すギリシャ語 “Katadoupoi” がなまったもの。)
The Greek phrase “kata doksa”, which means “contrary to expectation” is often applied to heavy rain
https://www.youtube.com/watch?v=GXrCbgnBIVs
日捨てて行かない
そのドアを残していない
どこをガシナ
舌にもとげが私
人々の監視が
心臓にとげが私
痛い痛い痛い
Musicians are saying
数えたらヒョクオ
気の利いた私は巨大素敵いるのが好き
ごめん私いい子Complex
ところでWhat a pity boy
ないて
人々の関心
ある良くないでください
私はこのままパーフェクト
自尊心は空を刺す
実際には、私のオタながら
それは言いHesitate
Haterがなくて
私はいくつか作ってみ
私は子供のず
アリンががドゥェルレ
グィチ代わり
イヤリングをしたいです
グッチの代わりに
私ナイキをメルレ
不満あり努力
Hook Making
腹いっぱい食べに
水不ない選別
優しいリングで
今朝のおかずはオイジ
私のFanが増える音か
これじゃない体の部位
同社強調グクディルてまるで
そう君を知ってドゥトギルたい是非
口の多着
裸君よりHot
ラップを聞く想定ところ
みんなの足に目が
ああ、誤解かと思って言ってた
姉はロリータではなく
セクシーコンセプトだよ
二日後に百万以上のヒット
ペブクページごとに
ノネン不利であることを望む
誰つかんBully
前回の言ったように
私はすべてをかむ食べる腹いっぱい
Eat Me
英語を話すことを知らない
友人のために説明してみると
Minty Minty Just be Minty
誰かは驚愕して
誰かは賛美をして
私は私いい子供とだけ驚か
よくてもできないかどうか
あきらめないSwag
Mic前
Recordingで見せてあげる
今年ヒプゲル晴れる与える
すでに決まったから
石を投げた者は皆
曲げてください
ディクションてなんとして
ハァッの中溢れ
それでも地Listener下
ところで、現実は私に連絡来た
お前らが夢だと言う
あらゆるラベルにおいて
これじゃない体の部位
同社強調グクディルてまるで
日捨てて行かない
そのドアを残していない
どこをガシナ
舌にもとげが私
人々の監視が
心臓にとげが私
痛い痛い痛い
爪を隠して
勝利は圧倒
Be minty
날 버리고 가지 마
그 문을 떠나지 마
어디를 가시나
혀에도 가시가 난
사람들의 감시가
심장에 가시가 나
아파 아파 아파
사람들은 뭐가 대단한지 몰라
뭐가 좋은지 나쁜지도 잘 몰라
Musicians are saying
꼽히면 혁오
아이유 장기하 아니면 지코
간지나는거 멋있는게 좋아
미안해 난 착한아이 Complex
근데 What a pity boy
쎈 척 해봐야 걔들은 니 음악
안 들어
난 의지보다는 욕망을 말해
사람들의 관심
있음 좋고 아님 말고
난 이대로 완벽해
자부심은 하늘을 찌르네
사실은 내 덕후면서
그걸 말하기는 Hesitate
Hater가 없어서
내가 좀 만들어봤어
나는 어린이 말고
아린이가 될래
귀찌 대신
귀걸이를 할래
구찌 대신
난 나이키를 맬래
불만있음 노력해야
Hook Making
배불리 먹으려면
물 불 안 가려야
착한 아린이지
아빤 리니지
약 빤 Why지
오늘 아침 반찬은 오이지
아 정말 짜증 나는 사춘기지
변태라는 이름의 신사 쿠마키치
숙녀가 되고픈 소녀는 민티지
이 랩핑 오늘 레알로 So dizzy
내 Fan이 늘어나는 소리지
이건 아냐 신체 부위
동사 강조 극딜해 마치
이사 Century 문법 나치
그러 니 알아듣길 바래 부디
입을 것 다 입어도
벗은 너보다 Hot
랩을 들으랬더니
다들 다리에 눈이 가
아 오해할까봐 말해두는데
언니는 로리타 아니고
섹시 컨셉이야
이틀만에 백만이 넘는 조회수
페북 페이지마다
내 다리를 불 펌 Ho
너넨 불리하다 싶으면
누구든 잡고 Bully
저번에 말했듯
난 다 씹어 먹어 배불리
Eat Me
영어 할 줄 모르는
친구들 위해 설명해보자면
Mint의 숨겨진 뜻은 새것
Minty Minty Just be Minty
아직 들어보지 못한 음악을 줄게
남들과 확연히 다른 Style 시도할때
누군가는 경악하고
누군가는 찬양을 해
난 나 좋다는 애들이랑만 놀래
잘하든 못하든
포기하지 않는 Swag
Mic 앞에서
Recording으로 보여줄게
올해 힙갤 갤주는
이미 정해졌으니까
돌을 던진 자들은 모두
머리를 숙이세요
멈블랩은 빨면서
딕션갖고 뭐라 해
어휴 속터져
그러고도 지가 Listener래
근데 현실은 나 연락 왔어
너네가 꿈이라고 말하는
온갖 레이블들에서
이건 아냐 신체 부위
동사 강조 극딜해 마치
그러니 알아듣길 바래 부디
날 버리고 가지 마
그 문을 떠나지 마
어디를 가시나
혀에도 가시가 난
사람들의 감시가
심장에 가시가 나
아파 아파 아파
발톱을 숨겨
승리는 압도
Be minty
スターウォーズやスタートレックでメートル法が使われているのは「ヤード・ポンド法を採用するアメリカ人にとっては耳慣れないメートル法がSFっぽく感じるからだ」とするエピソードが広まっている。
これは、いまだにメートル法を採用しようとしないアメリカ人のズレた感覚への揶揄として、しばしば働いているようだ。
しかし、たとえば上記のフォーラムを見てみると、そこで挙げられている考察の多くは、「未来社会ではメートル法が一般に用いられているであろう」という純粋な予測である。
あるいは、国家が統合され宇宙にまで進出した人類が、アメリカにしか残っていないヤード・ポンド法を使っているほうがおかしい、という論理的な考証である。
Wikipediaの「合衆国のメートル法化」の項目にも以下のような記述がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Metrication_in_the_United_States
Cultural impact
The continuing use of U.S. customary units has caused writers to speculate in fiction set in the future about the adoption of the metric system. Many authors have assumed that the United States and the human race in general will use metric units; however, others have assumed the continued use of U.S. customary units or have neglected to take metrication into account. Writers sometimes use customary units simply because American readers and watchers will understand the measurements; other times, they are simply used by accident. The 1966 show Star Trek, for instance, initially used U.S. customary units despite multiple Earth national origins and a setting in the 23rd century. Later, starting with "The Changeling", metric measures were used, albeit inconsistently. Later sequels of the show, such as Star Trek: The Next Generation, and Star Trek: Enterprise (set in the 22nd century), used the metric system exclusively.
アメリカ人がメートル法に「SFっぽさ」を感じているとしても、それは「人類が共通言語を話している」などの設定と似たような「SFっぽさ」であって、「耳慣れない」という理由ではおそらくないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160409094753
「Ken Kiyoshi」という人物がいる。
彼の所在地は以下の通り。
Ken Kiyoshi ICIJ Offshore Leaks Database Connected to 1 address Connected to 20 entities Linked countries: Japan Data from: Offshore Leaks https://offshoreleaks.icij.org/nodes/117463 "281809";番号281809 "ADDRESS";"Room 1009, 4-20-2 Ebisu Shibuya-ku Tokoyo 150-0013 Japan"; 所在地 〒150-0013 日本国東京都渋谷区恵比寿4丁目20番2号 1009号室 https://offshoreleaks.icij.org/nodes/281809
パナマ文書が示す「〒150-6010」は、2016年現在の郵便番号区分では
恵比寿ガーデンプレイスを除く東京都渋谷区恵比寿を示す地域区分。
当該所在地の高層建築物は「恵比寿ガーデンテラス弐番館」に特定される。
「恵比寿ガーデンテラス弐番館は、1994年8月築、地上13階地下2階
建総戸数220戸?の大規模マンション。
「恵比寿ガーデンテラス弐番館10階」の賃料は、公開されている
あたりでは、2LDKで42.2万円、41.4万円、1LDKで34.6万円、1Kで
http://www.plus-home.co.jp/rent/6509/
http://www.marycorp.co.jp/detail_marycorp_1_marycorp_2_271
http://www.rnt.co.jp/building/detail/1576/
http://concierent.jp/rent/333/48434/
恵比寿ガーデンテラス弐番館を所在地とする法人は以下の三法人。
http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/
3011001064749 株式会社CONTAINER 東京都渋谷区恵比寿4丁目20番2号恵比寿ガーデンテラス弐番館
法人番号3011001096420と5010401017455は
パナマ文書が示す部屋番号1009とは異なるので、
韓国人12人に活動している日本の男性アイドルグループApeace(エーピース)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Apeace
企画・制作:株式会社CONTAINER/Golden Goose 特別協力:サミー株式会社 協力:文化服装学院 / メイクアップアーチスト学院 衣装協力:NAVAL ■日程 2011年6月18日(金)~ロングラン公演 ■会場 K THEATER TOKYO 東京都渋谷区恵比寿4-20-2 恵比寿ガーデンプレイス内 ■座席・料金 ロングラン公演:¥4,600(税込)
特ラ連レポート122
新規加入会員紹介コーナー
(平成23年6月~7月)
http://www.radiomic.org/activity/backnumber/No122/newkaiin.html
株式会社 CONTAINER(K-Theater) 会員番号030-0616 代表取締役 田村孝司 入会:7月25日 移動 AKG … 4本 シュアー … 12本 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-12-20 担当 支配人 斉藤昇三 TEL 03-5421-7062 FAX 03-5421-7063 〔ひとこと〕厳しいレッスンと数々のオーディション審査より キャスティングされた精鋭達21名によるエンターテイメント グループ、「Apeace」が、K-Theater Tokyoでロングラン 公演をおこなっております。
この情報ではCONTAINERの所在地が神宮前になっている。
国税庁の法人データベースには当該所在地に8件の法人があるようだが
K-Theater Tokyoは恵比寿ガーデンテラス弐番館の
恵比寿ガーデンシネマの跡地につくられた日本初のK-POP専用劇場。
今は映画館になっているようだ。
http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/
東京都/渋谷区/神宮前4丁目12-20/登記記録の閉鎖等含める/商号等
8件 見つかりました。
1011002035263 有限会社アートビートパブリッシャーズ 東京都渋谷区神宮前4丁目12-20表参道ヒルズゼルコバテラスW405
2010401095900 株式会社アルファ・アンド・カンパニー 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20号W406
4011001005116 株式会社オモテサンドウ 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-W304号
9011001050347 株式会社幸和画廊 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-105号
4011002034898 有限会社後藤繁雄事務所 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-405号
4011001072577 ミストラル株式会社 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20号
ちなみに特ラ連は特定ラジオマイクの利用者が設立した非営利団体で
イベント関連会社等は無線を使う関係で特ラ連とは利益共有の関係にある。
http://www.differ.co.jp/schedule_20150425.html
ApeaceLIVE2015♯3~Back to the Future~ 日付 4月25日(土) チケット料金 8500円 FC先行特典付き 開場/開始 開場 13:45/18:15 開演 14:30/19:00 お問い合わせ先 株式会社CONTAINER http://apeace.jp/ 0570-064-257 平日14:00~18:00まで
このイベント告知を見ると、
株式会社CONTAINERの問い合わせ電話番号は0570-064-257になっている。
0570-064-257という番号は、
コネクトプラス株式会社または株式会社ロム・シェアリングの連絡先と同一だ。
特定商取引法に基づく表記 NU'EST JAPAN OFFICIAL FANCLUB
http://www.nuest.jp/info/law.html
〒106-8011 東京都港区六本木3-16-35 イースト六本木ビル
〒106-0041 東京都港区麻布台2-3-5 ノアビル 1F
電話:0570-064-257(平日14:00~18:00)
つまり、株式会社CONTAINERと株式会社ロム・シェアリングという法人は
実体として一体的に活動しており、ソニー傘下で仕事をしている。
上記NU'EST JAPAN OFFICIAL FANCLUBサイトのプライバシーポリシーの管理は
ソネットエンタテインメント、すなわち日本、台湾、香港で運営している
そのSo-netを2016年に完全子会社化した親会社の企業名は
パシフィック・センチュリー開発(Pacific Century Development / CCD)
というグローバル企業があり、
その日本法人である日本パシフィックセンチュリーグループ株式会社で
パナマ文書に書かれていた名前Ken Kiyoshiと姓名の読みが同一だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/PCCW
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%98%89%E8%AA%A0
李沢楷 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B2%A2%E6%A5%B7
http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/07/post-07d0.html
PCCW&CCC カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)H19有報時の役員抜粋 取締役 日下孝明 サンレジャー:港区参照 ご近所シリーズ05参照 取締役 喜吉憲 Ken Kiyoshi 国際基督教大学出身 1971年4月-(株)日本興業銀行 入行 1997年4月-同行 香港支店長兼IBJ Asia Limited 副会長 1998年3月-日本パシフィックセンチュリーグループ(株)代表取締役 2003年4月-カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)顧問 2003年6月-同社 常務取締役 2004年6月-同社 代表取締役副社長 管理部門管掌 2006年3月-同社 取締役管理本部長 2006年7月-同社 取締役社長補佐 取締役 三木谷浩史 三極委員会メンバー 取締役 角川歴彦 取締役 奥谷禮子 ■考察 国際基督教大学出身といえば、神政連の一押し→有村治子議員 →(公財)ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン 理事 PCCWといえば→パシフィックセンチュリープレイス丸の内
日下孝明はワンダーコーポレーション代表というより
パナマ文書に日本の政治家はいないという話が独り歩きしていたが、
ほらほら、やっぱり出てきた。
だがこの人とパナマとの関係性を考えるにはさらなる調査が必要。
不逮捕特権を持つ人物相手の捜査となると特捜以外に考えられない。
CCCW Japan Limitedがしっかり入っている。
CCCW Japan Limitedの資本の源はもちろんCCCW Limitedだ。
PCCW Japan Limited | ICIJ Offshore Leaks Database
https://offshoreleaks.icij.org/nodes/131516
Ken Kiyoshi | ICIJ Offshore Leaks Database
https://offshoreleaks.icij.org/nodes/117463
グローバル企業ソニーの系列傘下の芸能イベント会社の所在地は、
日本政界とも関係があるかもしれないPCCW役員&CCC顧問の名前と同一。
TRICERATOPS - Fall Again(2000年)
ポルノグラフィティ - Century lovers(2000年)
ノーナ・リーヴス - LOVE TOGETHER(2000年)
JUDY AND MARY - Rainbow Devils Land(2001年)
SUPERCAR - YUMEGIWA LAST BOY(2001年)
B'z - ultra soul(2001年)
THE BACK HORN - 涙がこぼれたら(2002年)
https://youtu.be/0ZwG5QuxJw0?t=5m30s
ASIAN KUNG-FU GENERATION - 君という花(2003年)
フジファブリック - ダンス2000(2004年)(インディーズ盤では2002年)
BUMP OF CHICKEN - オンリーロンリーグローリー(2004年)
キャプテン・ストライダム - マウンテン・ア・ゴーゴー・ツー(2004年)
ART-SCHOOL - あと10秒で(2005年)
the band apart - higher(2005年)
Base Ball Bear - ELECTRIC SUMMER(2006年)
BOOM BOOM SATELLITES - KICK IT OUT(2006年)
サザンオールスターズ - DIRTY OLD MAN ~さらば夏よ~(2006年)
hare-brained unity - ORION(2006年)
https://youtu.be/9IaIHX2FO-0?t=15s
Mr.Children - フェイク(2007年)
L'Arc〜en〜Ciel - SEVENTH HEAVEN(2007年)
MONOBRIGHT - 頭の中のSOS(2007年)
GOING UNDER GROUND - TWISTER(2007年)
school food punishment - you may crawl(2007年)
Aqua Timez - 虹(2008年)
the telephones - Love&DISCO(2008年)
竹内電気 - Baby I Love you(2008年)
winnie - first class speed of light(2009年)
UNISON SQUARE GARDEN - MR.アンディ(2009年)
1(A) 次の英文の内容を、70~80字の日本語に要約せよ。句読点も字数に含める。
Japanese is concluded from two of the next.
At first a source language as the shared sound and form exists. Then, the high language that only a ruler can understand exists. This high language is special, and the person ruled over cannot understand this. Japanese race is surely a race sharing a language. However, the language that they share is a sound and form low-grade to the last, and the language for the ruler is never shared to them.
For Japanese shared by a Japanese, there is only the language that is so-called base character.
In the future, the Japanese may not share a high-level language either. The Japanese is divided into the ruler who is a sophisticate and a person ruled over. They are the races which still share a lower language by a sound and the form, but the language equal to a European and American language is never shared. It depends on the next reason.
The Japanese ruler is angry at the native most badness of Japanese people and performs transcendence-like self-generation. He thereby becomes a man of power. That means, it means that the Japanese of the overwhelming majority that cannot be angry at a native human being cannot follow a ruler. In other words, in Japan, the democratic constitution is never agreed. The reason why all the Japanese get ability for agreement for such a constitution is at first impossible. Thus, there is not the constitution of the democracy in Japan.
In Japan, the phenomenon that the agreement for the democratic constitution is concluded is absolutely impossible. It is only an empire constitution that Japan can exist.
The Japanese cannot get a modern nation by the power of GHQ either. The Japanese can make only a German empire constitution of the 19th century.
The Nazis abolished the constitution like superior German welfare principles, but, in Japan, they are surely less than it. Japan cannot agree even the constitution like the principle of welfare. The Japanese ruler can adopt only the empire constitution that a German establish after Holy Roman Empire collapse.
In the first place the phenomenon that 100 million human beings whom there is in Japan agree a democracy constitution is never caused. However, the Japanese emperor can establish a dominant constitution.
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。