はてなキーワード: 絵画とは
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
目から咲いた花を毟りとり風に泳がせる。立つ。木の下にいる。土からモグラが出てくる。三顧の礼。絵画じみた風景。枠がある。木の枠。それを包むアジア風の男。眉を言っている。赤、黄、紫、羽のようなものが背後で舞っていてしかしテクスチャーが一定していない。汗。表面とは違う面にある汗。柔らかくて甘い。右下にいる青いキャラクター。目がクリクリしてる。映像なんて不要ではないか。面。そこに降り立つ。夕日を背に隆起するパラパラした図形群。青い筋が空に延びている。拡大された顔。顔毛。裏側は灰色。人も物も縦線で描かれている。手術室や砂漠やギャンブル場のような空間で。黄色。緑。目。沈殿する闇を犬がモグモグ食べている。開いた口からギラリと覗く歯、黄色に変色、こびり付いた茶色い垢、体毛の奥まで見えている。馬が本気を出せば戻せそうな具合に腸を引きずって歩いている。緑と黒の二色。後ろ足がズブズブと泥沼にハマっている。沼は表面が鈍く光を反射しながら底の淀みを予感させつつもあくまで平面的な質感として耐えている。悔しいようないななき。その身体が2つに割れる。龍や烏や虎の各パーツが黒板の上で回転している。徐に止めると機械ばかりが捲れ上がる。まるで夜空だ。教室の後方にいる。前方、机と椅子とを小さくて紫色の小人が一糸乱れぬ動きで何かを踊っている。肌が汚い。文字が横から流れてくる。「ま」と「よ」をドッキングさせたようなものを一例として読むことができない。意味が顔の上を滑っていくようだ。左右をズラリと家来のように並ぶロボット。比較的曲線めいている。後ろには赤くて大きい海老と蟹の中間のようなもの、点滅している。びっしりと埋め尽くされたイボを見つめる。食べる。何を。蛙になっている。戦時中みたいなカンカン帽を被っている。S,S,S,皿を食べてしまえば良い。誰でもない誰かに猫の耳が生えている。実際の空間ではない空間か。目が光る、複数の。いや3つだ。スキーをしている。ぐっと引きで映され角度に目が眩む。ミニチュアめいている。山に雲が貼り付いている。膨らんだペットボトル、一度中が取り出されフィギュアを詰められたプリングルスの箱。予感。なぜか時計を見つめていた。目が右に寄るのが止まらなくなる。髪だ髪の密度が低くなる。下半身は車。黄色い背景。壁と地面が一体化して表面が蠢いている。波打ち奥の面が暗示される。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
たくさんの反響をいただけて感謝している。初めて4桁のコメントをいただいたのも嬉しかったのだが、ブクマやコメントの体感9割が共感に満ちた、あたたかいものであったことのほうがずっとうれしかった。ツイッター上でも多くのコメントがついた。これほど多くの人が恋愛で何らかの挫折を感じていることを知ることができただけでも、自分の経験を率直につづった意義があった。すべてにコメントを返すことはできないが、非常に励まされた。ほんとうにありがとう。
一方で、デートを繰り返すたびにどのようなトライアンドエラーを繰り返してきたのが不明確で、問題はそこにあるのではないか、という意見をいただいたので、そこを捕捉する。
心掛けたのは清潔感だ。ただ、この清潔感の内容があまり具体的でないことが、多くの人を困惑させている印象を受ける。自分としては逆に、不潔感から減点されることがないことを心掛けた。
まず、身体面について。髪の毛は美容院で短くし、眉も整えてもらう。きちんと入浴し、定期的に歯科医で歯垢を除去してもらい、ブラッシング指導を受ける。爪は短く切りそろえる。デート前にはシャワーをしっかり浴びてさっぱりする。ただし、香水はつけなかった。人によって好き嫌いがかなり大きく出るので、そこはリスクが大きいと判断した。
衣服については、ワイシャツっぽいのとチノパンが多い。靴はスニーカーではなく、革靴に似た質感のものを。眼鏡はJINSをかけている。髪は黒いままだ。学生の頃はコンタクトレンズにと茶髪にしたこともあったが、すぐに目が痛くなってしまったし、染めるのも手間だった。髪を染めたからといって別にモテるようにならなかった、というのも大きい。
ネックなのは、そこまで皮膚がきれいではないということだ。どうも毛穴が開いてしまうし、ニキビ跡が気になる。そこが改善点だろう。
基本的に、自分のなじみのある行動圏内にした。休日を一人で過ごすときにうろつく場所だ。そこでなら、急に予定を変更しても対応が可能だ。美術館を中心に過ごしているので、候補としては新宿、渋谷、六本木、丸の内、上野が真っ先にあがる。次の候補としては水族館のある品川、明治神宮や絵本カフェのある原宿、日本庭園のある美術館のある表参道、それから日本画を見られる恵比寿がある。
その近辺の映画館やカフェを把握しているので。その場の流れで行く場所を考えることになっても対応可能だ。ついでに事前にイタリアンやタイ料理屋などの場所を調べておく。
今後の課題としては、お酒の飲める場所だろうか。自分は下戸なのでそこが困る。アルコールよりは料理にお金をかけたいタイプだ。そうそう、脱線してしまうがwithにはどういう食事デートがいいかのタイプの心理テストもあって、バーが好きとか居酒屋が好きとかお酒よりの料理派とかでもマッチングが行われていた。
基本的に聞き役に回り、共通点があったら話す。体感では相手の話す量とこちらの話す量が7対3だった。知識のひけらかしは絶対にしない。聞かれたときにだけ、ごく簡潔に答える。相手の興味があるジャンルだったらそこに乗っかることも考える。
美術館や映画の感想は、率直に感じたとおりに伝える。ただし、否定的なことはなるべく言わない。面白かったところ、楽しかった点などを話したほうが楽しい。岩井俊二監督の「ラストレター」は、内容はそこまで心に響かなかったが、個人的には庵野秀明が鶴田謙二の絵を描いているという設定がかなり笑えるポイントだった。さいわい、彼女も僕と趣味が共通していたので、そこがおかしいと言って笑ってくれた。その人が結局は音信不通になってしまったのだけれど、もう過去の話なので、どうでもいい。あとは、彼女によれば、岩井俊二の作品には誰かに成り代わって手紙を書くという場面が頻出するそうで、その話をじっくり聞かせてもらった。「花とアリス」にもそういう描写があるそうだ。ずいぶん昔に観たはずなのだが、すっかり忘れてしまっている。
PDCAを回すとすればここなのだろうが、盛り上がるときは盛り上がるし、共通の話題が少ないとなかなか盛り上げられない。共通の話題が少ないと、交際に至っても大変なんじゃないだろうか。あと、実際に顔を合わせないとどうしようもないところも多々ある。さらにPDCAを難しくしているのは、就活と同じで向こうからのフィードバックが原則として一切無いところだ。真っ暗闇の中での手探りとなり、ここで病んでしまう人も多いだろう。
他に心がけたのは、相手の顔を見てゆっくりと話すことと、声を少し低めにすることだ。
趣味は美術鑑賞、読書、ジョギング。無難な趣味で、本は図書館を利用するのでお金がほとんどかからない。
美術鑑賞は、月に1~2回。学生時代は西欧の絵画を見ることが多かったが、最近は日本画も気になっている。現代アートも抵抗がない。それと、古代の出土品なども見るのが好きだ。
読書は小説とノンフィクションを半々。小説は古典や海外文学が多い。ノンフィクションは科学や歴史を扱ったものが中心だ。大体月に12~13冊だが、先月は失恋したのでペースが落ち込み、10冊にとどまっている。
ジョギングは週に1度だけだが近所を10~11km走っている。頻度としては少ないが、やらないよりはずっといい。運動しなかったころに比べると仕事で疲れにくくなっている。加えて、走る前には軽く筋トレをしている。この間失恋した時に行った風俗嬢からは「何か運動されてたんですか?」と尋ねられるくらいの体型だ。ただし、やっぱりここでも顔立ちは褒められたことがない。
付け加えるとしたら旅行だろうか。ここからも話題が広げやすい。
男子校に行っていたので、初デートが19歳でのことだった。大学の中国文学での授業で知り合った女性を、夏休み直前にデートに誘った。けれども、あまり盛り上がらなかった。しかも、無理に手をつないだら痛烈な軽蔑のまなざしで睨み返してきた。そして、夏休みの予定がすっかり空になってしまった。たくさんデートしようと期待していたのに打ちのめされた。懐かしい。だが、今でもあのことが胸につかえていて、女性と気軽に手をつなぐことができない。とはいえ、デートした女の子はみんなポケットに手を突っ込んでいたので、勇気を振り絞っても仕方がなかっただろう。
大学での思い出は他にもいろいろとある。講義で、隣の女子に何気なく話しかけた次の週に、まるでボディーガードのようにその女子の友達らしい人物が控えていたのが、悔しかったことを思い出した。普通に友人になりたかっただけなのに。
社会人になってから、都合三回ほど街コンに出かけた。とはいえ、デートにつなげることは一度しかできなかったし、それも一回目で終わってしまった。
街コンのメリットは、マッチングアプリとは違って必ず対面で話ができることなのだが、進展しなければそれまでだ。それに、街コンそのものに何らかのテーマがないと初対面の女性との接点がほとんど持てない。なんとかデートに持ち込めたのは美術館で行われた街コンだった。恐竜に関する企画展で行われた街コンでは、一応テーマがあって理系女子も多かったはずだけれどもほとんど会話ができなかったし、テーマがまったくないときには非常に困ってしまった。なにより、その時に運営側の手際があまりよくなかったうえに男性が余り気味で、男性4に対して女性2でテーブルにつく羽目になった。なお悪いことに、同席した相手があまり柄のよろしくない人で、女性がいないときには平気で卑猥なことを口にしていたのが耐え難かった。女性とマッチングしなかったのはこいつらのせいじゃないか、とも感じられたのだ。おそらくは八つ当たりだ。
しかも、結局は数人のモテる相手だけで連絡先交換が行われていた。たぶん婚活パーティに参加しても、同じ結果になりそうだ。
2回ほど経験がある。
1回目は塾講師をやっている友人とだ。カラオケボックスで2人連れの女性を落とし、その場で交互にセックスしたという剛の者だ。街コンで連敗していた自分は自棄になって彼についてカラオケ屋に行ったのだけれど、そこでもうまくいかなかった。女性連れの部屋を探し、扉を開けて「一緒に歌いませんか?」と何度も言ったけれど、普通に「迷惑だから帰ってください」と言われて終わった。今振り返ってみれば、そりゃそうだろうと思う。反省している。二十代前半の黒歴史で、一番恥ずかしく、忘れてしまいたい。
2回目は湘南の海辺での話だ。獣医をやっている男で、犬を飼っている若い女性に自然な形で話しかけて仲良くなれるタイプだ。二人して江ノ島をうろついていたが、僕がうじうじしていたのもあり、結局うまくいかなかった。その後、彼が勝手に姿を消して、どこに行ったのかと電話を掛けたりメールしたりしているうちに、水着姿の大学生グループを連れてきた。結局僕はビキニギャルとビーチバレーをして遊んで帰った。楽しかったのだけれど、結局は僕がいるからナンパがうまくいかなかったのかもしれない。
とはいえ、そのイケメンの友人も妻の浮気で離婚しているし、失礼な女性にばかり引っかかっているので、イケメンにはイケメンの悩みがあるらしい。別のイケメンの友人も女性側が不倫していた。なんか自分の周囲はこんなのばっかりだ。ただ、基本的に男性側の話しか聞いていないので、バイアスがかかっている可能性は否定できない。
なんにせよ、一番向いていない方法だと学んだ。
ちょうど就職した直後、文学サークルの後輩女子三人とそれぞれ二人きりで会うことになった。パフェだとかガレットだとかチャイだとかをおごって、ああだこうだ話したのはとても楽しかった。けれども、基本的にはそれっきりだった。僕もそれほど期待していたわけではない。学生なら、社会人の先輩からはランチくらい当然おごってもらいたいだろう。SNSを見るとみんなそれなりに元気そうなので良かったけれど、僕もサークル内恋愛がしたかった。
サークル内部の一組のカップルは結局結婚した。誰が見てもイケメンと美女のカップルだった。もう一人のカップルは男が平気ですれ違った女性に対して「あいつはブスだ」とは言うような奴だったし、女性蔑視的な言動が多かったのに、なぜか彼女ができていたのが、今でも不思議で仕方がない。粗野な奴のほうがモテるのか、という疑惑にさいなまれることもあるけれども、こっちが軽蔑したにもかかわらず慕ってくる相手とは、なんというか健全な関係が築けない気がしていて、自分としてはやっぱり相手のことは大切にしたい。ちなみにそのカップルは別れた。
全然関係ないけど、サークルのもう一人のイケメンは新聞記者をやっていて、そのつてで引退した芸能人と結婚していた。うちの大学は偏差値高いんだけど、天は平気で二物を与える。こればかりは仕方がない。
https://note.com/akiko_saito/n/n9b1b3581843c
っていうnoteがバズっているので読んだんだが、「この人蜷川実花に村焼かれたんか??」と思うほどのdisり具合だったので、followesを全話一気見したうえでひとつひとつ考えてみた。
まずは上述のnoteを読んでみてほしい。
ファーストシーンだけなのにこのdisりっぷりに私も脱帽した。
私が田舎出身だからかもしれないが、未だに東京タワーは東京を象徴する一番のものな気がしている。特にこの作品は日本から世界に発信されるわけだから、わかりやすい象徴として東京タワーのカットが抜かれることには何の違和感もない。
私のこの感覚が「ダサい」「古い」なのだとしたらそれまでなんだが。
で、次。
いやあ、これ作中で別に言ってないんだよな。続く
子どもを持たない人は
女の幸せ
ってやつが手に入らないってえのかい?
に関しても、誰もそんなことは言ってない。飛躍している気がする。
中谷美紀「今は母乳の方がいいって言われてるの!できるだけ母乳を飲ませたいのよ、粉ミルクはやめて」
エッ母乳の方が愛があるみたいなやつ?!?!?!?!?!!!??!!?!はるか古代に滅びたやつ??!?!を今もってくる?!!!?!
これに関しても、作品の中では「粉ミルクの方が良いもの」も「母乳こそが素晴らしい」も描かれていないんだよね。
もう少しだけネタバレをすると、中谷美紀は母乳があんまり出ない。だから中谷美紀の子育てを手伝いに来た実母が「(そんなに完母に固執せずに)混合で育ててもいいんじゃない?」という趣旨のことを中谷美紀に言う。
つまり、完母が素晴らしい!と思い込んでいる中谷美紀に対して、「そんなにこだわらなくても大丈夫よ」と肩の荷を下ろしてあげているシーンなのだ。母乳の方が愛があるって価値観を押し付けているシーンでは決してない。
液体ミルクについてはこのシーンで言及されていないが、話がややこしくなるからわかりやすく「粉ミルク」って言っただけの話だろう。
「ざんねん〜!!MIYAVIの遺伝子が〜〜!!」
って叫ぶんですよ、、怖すぎだろ、、MIYAVIが何も知らされてなかったらほんとに訴訟もんですよ。
これについては、まあ女子会の中だったらこのぐらいの悪ふざけはあるだろう、という感じ。ただし、MIYAVIが何も知らされずに父親にさせられようとしている部分に関してはわたしも恐怖を覚えたので、同意。
やはり
ってことなのかな?
ここに関してはもう少しミリの心の中を想像したほうがいいんじゃないかなーと思った。まあ確かに精子バンクで子どもを授かる方法もあるかもしれないが、どこの誰だかまったくわからない人の遺伝子を使うのはちょっと怖いっていう気持ちもわかるよ、私はね。
「腹を痛めた子を生んでこそ女のしあわせ」っていうのが読み取れる発言も作中にはないよ。養子という選択をとらなかったのは、シンプルに自分の遺伝子を残したい、育てたい、と思っただけなんじゃないだろうか。
子どもに関する価値観はそれぞれで、誰かの遺伝子をもらうとか、養子をとるとか、里親になるとか、さまざまあっていい。そこに正しいも悪いもない。特定の価値観を、本人以外の誰かがジャッジすべきではない。
ここに関しては私はあまり映画もテレビも見ないため評価できず。見る人によると思う。
これは、池田エライザがYoutuberに出会ってすぐのころそんな認識をしているという描写があったけど、話が進むうちに認識が変わっていくサマもきちんと描かれている。
たとえば、作品をとるためにめちゃくちゃ身体を張っていること。時間をかけて企画をしていること。極めつけは、Youtubeのアナリティクスの画面を見ながら研究をしているところ。
見る人が見れば、(Youtubeを投稿したことのある若い世代であれば特に)その大変さをきちんと作品の中でも描いているというとらえ方をするはず。
という世界線になっている。
なっていない。そんなことは作中で誰も言っていない。
うーんこれも言っていないと思うよ。
池田エライザが「女優になりたい!」と言い続けていたのは、「女優の方が格上だから」ということではなくて、ただ単純にモデルという職業じゃなくて女優という職業になりたいから、ってだけだと思う。
水泳選手じゃなくて陸上選手になりたいんです!みたいなもんだと思ったけど違う?
蜷川実花が監督なのに、「モデル=楽な職業」として描かれているわけはないでしょう。
売れない歌手がバーチャルアイドルとして再デビューして見事復活みたいなことやってるんですけど、バーチャルアイドル作るのってすごいお金かかるんですけど首になった歌手がどっからその予算出したんすかね
違う違う。サヨは売れない歌手だからクビになったんじゃないんだよ…ちゃんと作品見ました?サヨはめちゃくちゃ売れてる歌手で、サヨのおかげで事務所が大きくなったといってもいいくらい稼いでる人だった。だからお金はあるんですよ…。バーチャルアイドル作るのにすごいお金がかかるのは事実なのかもしれんが、そのくらいの金はあるんじゃないの。事務所のトップシンガーだったんなら。
コムアイがレズビアンの設定で、友人である売れない女優に「あなたのことが好き」と一大決心して告白するのだが、売れない女優は「言ってくれてありがとう」とハグをしてなんか終了。彼氏のもとに戻っていく。別にコムアイの悲しみは描かれない。
このシーンは、コムアイから池田エライザへの「告白」だったわけじゃないんだなあ。愛だ恋だが絡んでいる「好きだよ」じゃなく、「あなたの演技が好きだよ」「そのままのあなたが好きだよ」という、池田エライザの存在をまるごと受け入れる受容のシーンなんだよ。だからそれに対して「私も好き!」とか「ありがとう…でもわたしは好きじゃないから付き合えない…」とはならんやろ。
ちなみに「言ってくれてありがとう」っていうそれこそ陳腐なやりとりもしてない。
この場面ではコムアイの悲しみは描かれないけど、それはすでに彼女が悲しみを乗り越えてるからなんだよね。
彼女の悲しみは、部屋に引きこもって作品(絵画)を仕上げているなかできちんと描かれてるよ。痛いくらいの悲しみの表現がされているよ。もう1回見直してくれ。
てかしなやかってなに?
「しなやか」はね、柔軟で、弾力に富んでいるサマのことだよ。「おしとやか」とは意味が違うからね。辞書を引こう。
「女の子なんだから女の子らしくしなさい」は「しなやか」ではないし、「男のひとを立てなさい」もしなやかではない。それらから解放されたサマが「しなやか」という言葉で表現されてるんだと思うが、違うか?
と、まあ事細かにいろいろあげつらったんだけど、一つ一つ否定していることにそんなに意味はなくて。
一番言いたいのは、「批判noteがバズることの危険性」についてなんだよなー。
たしかに作品を見て何を感じるかは人それぞれだし、注目度の高い作品であればあるほど賛否両論どちらも出てくるもんだとは思う。
だけど、激しい批判が独り歩きすることで(そしてそれが歪んだ認知のもとに書かれているとしたら特に)、楽しみながら作品を見られるはずだった人たちが、「最悪な作品」というバイアスのもとに鑑賞せざるを得ないということなんだよな。
私は全話通して楽しんでみたし、前評判ほど「古い」とか「化石みたい」とかは感じなかった。みんなが批判だけに踊らされて「私は見ない!」「(みんなダサいって言ってるし)ダサいに同意!」というのが起きないといいなーと思った。
たとえば、今年の6月13日にはロンドンでワールド・ネイキッド・バイク・ライドなるイベントがあり、環境問題を考えるという名目で、全裸で自転車に乗って疾走できる。このイベントはロンドンのみならず世界中で開催されているのだが、自分の語学力とアクセスの便利さを考えると、ロンドンが適切だろう。
あるいは、全裸でジョギングをしてみたい。しかし、その場所がわからない。一応、ミュンヘンのエングリッシャーガルテン(英国庭園)やアムステルダムの公園に、全裸で日光浴できる場所はあるのだが、おちんちんぶらぶらさせながらジョギングできるコースがあるかまでは確認ができなかった。
以前調べた時には、ベルリンのアルテミスかウィーンのゴールデンタイムか、どっちかのFKK(合法風俗)にはスポーツジムが併設されていた気もするが、そこでは全裸で走れるかもしれない。とはいえ、自分はブロンド美女とセックスするのが目的ではない。いや、ちょっぴりセックスしたい気もするけれど、対人恐怖症な気分のときは、とりあえずすっぽんぽんで走るだけにしたくなっちゃうかもしれない。
いちおう、美女との混浴と全裸水泳は、オーストリアの混浴サウナで経験済みだ。
別にヌーディストビーチでも構わない。バルセロナにもあるし、ほかの地域にもある。ギリシアの島で全裸で日光浴をしながら一日を過ごすのも素敵だと思う。南仏の全裸リゾートにもあこがれる。タイにもあるらしいが、とにかくそうしたところはアクセスが悪く、行くのがめんどくさい。バスに揺られているうちに、自分は野外でちんちんぶらぶらさせるためだけに、何でこんな長旅をしているんだ? ってアホらしくなるかもしれない。
賢者タイムのときには、お前ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアは回ったけれど、ナポリやミラノは行ってないだろ、そこに行け、で、ついでにどこか適当なところで全裸になれ、という声もして、それも悪くない気がしている。
単純にまだ世界で行っていない地域があるのでそこに行きたい欲もある。北欧やオーロラに興味があるし、東南アジアの寺院には全然足を運んでいないし、台湾も再訪したい。友人からはエチオピアにも誘われている。
オーストラリアやニュージーランドも悪くないが、これからどんどん寒くなる。オーストラリアやニュージーランドにもヌーディストビーチはあるし、ニュージーランドには全裸で洞窟をジョギングするイベントがあるそうだが、これもアクセスが悪い。ドイツには、ハルツ山地に全裸ハイキングができるコースがあるそうだが、これもやっぱりアクセスがあまりよくない。
それに、合法野外露出敢行のために海外に行くのもばかばかしい。何かサブテーマがほしい。絵画とか建築とか、それで時間が余ったら脱ぐ、そういう感じだ。
単純に裸を見られたいんじゃなくて、全裸になって自然の風に当たりたいのだ。旅行だけなら、例えば琉球のグスクだとか、那智の滝とか、国内でも行ったことないところもあるのだが、やっぱり素っ裸になりたい。
東欧美女とのエッチは金髪デリヘルがあるかもしれないが、それだけじゃない気がする。まずは脱ぎたい。だから、結論としてはさっさとコロナに終結してほしい。いや、ちょっと待て、調べたらフランクフルトにもミュンヘンにもFKKがあるのか、やっぱりブロンド美少女と3Pしたいぞフィーヒヒヒ! みたいな気分にもなるぞ。ああ、どうしよう。
何かの流行に乗っかって話すことは格好悪いと思っていた。
厳密に言えば今も推奨はしてない。
かつて絵画では聖杯やら聖骸布をイメージさせるものを描いていれば、
後は自由に表現していい、という暗黙のルールがあった(日本画家山口晃の言)。
これは別段教会がそうしろといったわけではない。単純にクライアントの需要の問題からだ。
同じ様に現代の二次創作者もなにかの元ネタから自分の画力を添えて表現する。
キャラ愛という言葉で修飾されているものの、おそらく6割以上の人間が二次キャラを閲覧数のために使っている。
増田のダベリもTwitterやTogettarから流れてきたおこぼれを消化する形で伸びる。
皆自分という主体性を隠しながらメインの防弾チョッキを着て戦場を走り抜けてゆく。
死体には目もくれない。
ただ、添え物ってのは単なる方法論だから許容するしかないんだろうと。
そうまでして二次的な主役になりたいのだ、みんな。
https://togetter.com/li/1469177
読んでいて草。
その通りだわ。
でもフェミ止めた途端こうしてまともになる人は逆に偉いと思うよ。
その事を自分で気づける人間はなかなかいないし、過ちをフィードバックできる事はまだ賢い証拠。
素晴らしい。
しかしフェミニズムなんて、この人達のバッシングする漫画やアニメ、そして名称のみがWHOを認可され、因果関係や内容すら証明されていないにも関わらず、当時の国連の児童ポルノ禁止法の時の様に権威のみで香川及び国政でゴリ押しをしようとしているゲーム障害なんかよりも余程世の中に対する実被害や有害さが証明されているのは皮肉以外何でもないよね。
当時オタクをロリコンや犯罪者予備軍呼ばわりしていた連中がまさに実社会に悪影響を与えまくっているのは皮肉。
実際赤十字やJAに被害を与えているのはフェミニストそのものであり、反社会勢力化しているのは事実だしね。
いっそフェミニズムやジェンダー、ポリコレや社会学自体を規制したらどうだろうか?
この人達は過去に何でも他者に対して、規制を要求していたのだから、フェミニスト自身が規制されても文句を言う所か健全化される事に泣いて喜ぶと思うけどな(嫌味)
フェミニズムが反社会的集団な訳がない。中にはヘンな人もいるかもしれないけど、そういうのってどんな集団にでも含まれるでしょ。明らかに反社会的な思想で結集した集団なら反社会的集団と呼べるけど、フェミニズムは女性差別撤廃思想であって、それは反社会的思想とは言えない>RT— 音楽ナスカ (@m_nsc) 2018年4月29日
絵の批判で、声優やポップ立ててる店にまで凸るのはもはや集団ヒステリーやテロ
https://togetter.com/li/1470089
宇崎ちゃん×献血コラボ第2弾が好評。太田啓子弁護士「いい方向になったんだな、赤十字社がはじめからこういう企画でやっていたらよかったですね、と思います」
https://togetter.com/li/1463136
「フェミニズム不支持」思想強要問題-韓国における反フェミニズム事情について
https://togetter.com/li/1224125
寝言は寝て言えって感じだよねw
幾ら社会的にフェミニストが反社と意識され始めたのは10月以降とは言え、2018年にはもう多くの問題行動を引き起こしていたからね。
それと良くフェミニストとツイフェミは別だと言うけど、日本のフェミニズム自体、ラディカルフェミニズムと純潔教育が根底にあるから、元から酷いと言うかツイフェミなんてまだマシに見える程度には酷い代物だと言う事実があるからね。
日本以外でも韓国のメガリアがアレなのは以前から有名な話だし、イギリスやアメリカにおいてもフェミニストが暴走している事実もあるわけだしね。
何せニンフの絵画を公開中止に追い込む等の退廃芸術までしでかす所まで行っているのは事実。
またあちらさんではロボ娘まで狩ろうとしているらしいし、それを見てもそれこそ人間は神の創造物であり、人間が神の真似をする事は烏滸がましいと言うキリスト教的価値観が根底にある事は否定できる事ではないでしょ。
10万円超える値段の靴で、よく知られているようなブランドのドレスシューズは扱いがとても難しい。
まず、靴がそのレベルなら、スーツは吊るしでも15万円を超えるくらいの生地仕立てでないと釣り合わない。
時計も実用時計でなくてドレスウォッチでないと釣り合わないからパテックとかランゲ&ゾーネとかエルメスとかあんなのになる。
シャツにはカフリンクスが必要だしバッグも10万円超えてくる。歩く百万円と言っていい。
これが似合うためにはそもそもデブではだめだし、歯並びが悪いとか肌が汚いとかでもだめなので生活そのものを高いレベルで維持する必要がある。
そうして出来上がる装いは、もはや堅気の勤め人のそれでなくて、特殊なホストか着物とか宝飾品や絵画の営業か、あるいは、
その筋の金融フロントの人になってしまう。普通の会社で部長のかばん持ちとかできない。なぜなら部長より職位が高い装いに見えてしまうからだ。
それができないならまたサンダル履きジャージでロレックスに金鎖ブレスみたいな人たちと種類は違えど同じ悪趣味に見えてしまう。
二月一日
間もなく、特別展「人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界-」が終了すると気づいたので足を運んだ。自分は美術館に通う習慣を身に着けてから大体十五年が経過しているが、東京国立博物館の東洋館をきちんと観たことはない。いい機会だと思い、東洋館全体をのんびりと回ることにした。
特別展の会場は東洋館の二階にあり、会場そのものは常設展の最初の部分、すなわち中国や西域の仏像のあるあたりを抜けた後にある。特別展の内容そのものは興味深かったが、コレクション全体が雑多なもので構成されているというか、あまりにも時代と地域に幅がありすぎて、どのように展示したらいいのか少し迷っているような印象を受けた。とはいえ、普段はなかなか見られないマヤ文明の仮面などをじっくり見られたし、普段なら絶対しないような比較をする楽しみもあった。知らなかったのだが、グアテマラのほうがメキシコよりも良質の翡翠を産出するらしく、文明の中心地の人々は必死になってそれを求めたり、乏しい材料で何とか良いものを作ろうと苦心したそうである。
で、常設展に関してだが、展示スペースが地下階から五階にまで渡っており、ざっくり見ても三四時間はかかった。その中で特に面白く思われたのは、中国や朝鮮半島の品々だ。というのも、青銅器や勾玉などの作りが、日本とよく似ているところもあればまるで異なっているところもあり、比較する楽しみがあるからだ。また、饕餮の刻まれた祭器の類も自分は好きで、根津美術館に立ち寄った時にはのんびり眺めている。理由はわからないのだが、自分はそれと同じくらいに玉の類にも心惹かれる。西欧の君主たちの王冠も立派だとは思うが、金やダイヤモンドではどうも少しまぶしすぎる。自分が東アジアの文化が好きな人間だからそう感じるのだろうか。
とはいえ、自分が好きなのはどうやら宋代までらしい。どうも、明代になると技巧的になりすぎるというか、色が鮮やかすぎるように感じられる。確かに、黄色などの発色は鮮やかだし、竜のうろこなども実に細かく表現されているのだが、技術的に優れていることが美しさに直結するかどうかは別問題だ。自分としては唐三彩と呼ばれる、赤や緑や土の色を活かした陶器が美しいと思う。ある程度の素朴さがないと、親しみが持てない。台湾で見た、清代の象牙を削って作った細工なども、優れてはいるが技巧をひけらかしすぎているように思われる。
あとは、天然の石を削ってザクロに見立てていたものはよかった。故宮博物館にあった、翡翠だか瑪瑙だかを削って作ったのと同じ発想で、天然の石の色彩や質感を生かしながら表現しているものだ。あとは漆を刻んだものもよい。色がおとなしくて上品だ。
もう一つ興味をひかれたのは、漢代の画像石だ。学生時代の古典の教科書の表紙に出ていたので覚えていたのだが、実物を見たのは初めてである。宴の様子が見て取れるようで、ある者は楽器を弾き、またある者はボードゲームをしている。そのボードゲームの盤は真上から見たように正方形で表現され、遠近法は無視されている。エジプトの絵画と同じで、何が書かれているかがわかりやすいことが、写実性よりも優先されたのだろう。十字軍時代のチェスをする騎士を描いた絵画でも、似たようなことをしていた覚えがある。
そうだ。途中のフロアでは「生誕550年記念 文徴明とその時代」という、また別の企画展をやっていた。自分は書に対しては無知なのだが、解説によれば、文徴明は科挙には合格しなかった人物だそうである。しかし、温厚な人柄と勤勉実直な性格で、やがて文章の校閲に関する職に就いた。九十年の生涯のうち三年しか勤務しなかったが、一流の人々と交わることでその才能を開花させた、とのことだ。人生は仕事だけじゃないよな、という気持ちをまた新たにした。
自分にはそれこそ古代中国の官僚のように、職を退き水墨画に描かれたような山奥に引っ込んで、時折訪れる友人と琴棋書画をたしなむ、みたいな生活にあこがれる傾向があるのだが、ほどほどに働きつつ、土日に友人とボドゲをしたり美術館に足を運んだりするのは、十分近いんじゃないか、って近頃は思っていて、そんな気分になれたのも、今日の気分転換に成功したからなのだろうな、という気がした。
近々、同じ敷地内の法隆寺宝物館にも行こう、と帰りの電車で考えた。あそこのカフェは閉館間際になるとほとんど人がいない穴場なのだ。
二月八日
特別展「出雲と大和」にふらりと向かった。前回の「正倉院の世界」がとてもよかったので、これも行くしかない、と思われたからだ。
おおよそ弥生時代から奈良時代初期にかけての日本美術を楽しめる。特に銅鐸などは、教科書で見たものもたくさんあり、懐かしく思われた。国宝や重要文化財がごろごろとある。三角縁神獣鏡も大量に見ることができた。恥ずかしながら、これが中国の神仙思想と深い関係にあることを知らなかったので(忘れていたので?)、そこに刻まれていたのが解説を読むまで西王母だとはわからなかった。しかし、こう考えると日本への道教的な要素の導入は、かなり早いのだな、と思われた。
他にも多くの埴輪があり、細かく当時の祭祀の様子が説明されていた。これは知らなかったのだが、出雲の周囲では四隅突出型墳丘墓という、独特の形をした古墳が広く分布しているそうである。そういうまじめなことをしかつめらしい顔をしながら読んでいると、自分は振り向く鹿を表現した埴輪に肛門があるのに気づいた。正確には肛門ではないかもしれない。埴輪を焼くうえで必要な技術的な要請から開けられた穴なのかもしれない。しかし、尻に穴が開けられていたのは間違いない。
下世話な話だが、自分は動物の彫刻を見るといつもその性別を確かめたくなる。別に馬の彫刻に陰茎と陰嚢があって何が面白いのかと問われればそれまでなのだが、生真面目な騎馬像にもそういうものがついているかと思うとどことなく愉快な気持ちになる。それから、先週観たような民俗学的なものであっても、素朴な男性像と女性像ではどんな風に性器を表現しているかを確かめるのは、文化ごとの感受性が端的に表現されていてなかなかに面白い。
脱線が続くが、本当に不思議なのは、世界中の文化で男性器と女性器を絵にしたり彫刻にしたりすることが普通に行われているし、中には神々として崇拝することだってあるのに、ギリシア・ローマに由来する彫刻や絵画では、女性器も陰毛もすっかり省かれてしまっていることで、これは男性像の性器も小さいほうがよろしいとされたことと関係しているのだろうか、などと何かと勘ぐってしまうのである。
閑話休題。この特別展で私が一番見たかったのは、七支刀である。「日本書紀」を読んでからぜひ見てみたいと思っていたものだ。刻まれた金の文字はかすかにしか読み取れないが、専門家でも何でもない私が「月十六日丙午」とある部分を読み取れたので楽しかった。だいたい、こういう文字の刻まれたものを見るのは楽しくて、ほんの二つか三つの変体仮名をしっているだけでも、巻物を見る楽しみ増えるというものだ。
ほかにも、神社に奉納された刀剣や武具などもあったが、私はそれらには、古代の品々ほどには心はひかれなかった。あとは、「出雲国風土記」が朗読されているコーナーがあったが、そこでは本当にハ行がファ行で発音されて、チやヅがティやドゥと読まれていた。
帰りは東京駅の田舎そばを食べて帰った。非常に歯ごたえのあるそばだが、定期的に食べたくなる味だ。いつもは昼に寄ることが多いので肉野菜そばか天ぷらそばだけだが、夕飯なので野沢菜と肉味噌れんこんをつけた。ちょっと贅沢をしたので気持ちよく眠れた。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
結局、鈴木達朗個人や富士フイルム一社の問題ではなく、写真家界が腐りきってるという話だな。以下は2年前の『アサヒカメラ』の記事だが、
https://dot.asahi.com/dot/2018071300077.html
https://dot.asahi.com/dot/2018071300083.html
https://dot.asahi.com/dot/2018072500097.html
「肖像権意識や法律・条例を守ろうという遵法意識は大いに結構だが」だの「「ゆがんだ正義」の存在が浮かび上がってくる」だの、書きぶりのひどいことひどいこと。参加してるカメラマンは、「人の家をのぞき見したわけじゃないけど、僕は彼女に気づかれないように隠れて撮ったから、「盗撮」ということになるでしょうね。僕は肌着姿が面白かったわけでもなく、あの当時にパックをしている女性を珍しいと思ってシャッターを切ったんです。」とか平然と書いてるし。
twitterでのカメラ愛好家が、ストレートに鈴木達朗を擁護するか、「あの手法は自分は取らないが、問題提起としての意義がどうこう」みたいなムニャムニャした書きぶりかで、「鈴木は前から写真界隈の面汚しだった」みたいに書いてるやつが全然いなかったのもよく分かるわ。撮る権利は何より優先すると心から思ってるやつとか、師匠筋に当たる写真家が迷惑スナップ野郎だから批判を言えないやつとかばっかなんじゃねえか。
https://togetter.com/li/1459470
ついに来るべき所まできたなと思う。
コレもただのクレーマーであったフェミの気持ちに幾ら弱者の権利を悪用していたとは言え、安易に乗っていた世間も悪いのだろう。
当時の児童ポルノ禁止法や都条例で調子づいて、以降LGBTやらポリコレやらで増長された結果がここまで先鋭化させたと言う事もあると思う。
ある意味ではナチスの宥和政策と同じ轍を踏んでいるのだろうね。
https://togetter.com/li/1459689
自分のお気持ちの為ならば、女性所か子供の権利と言った弱者の権利やLGBTと言ったものまで利用するのに都合の悪い事態が起これば、それこそ見ない振りをするか、他者に責任を押し付ける。
何時もの事だよ。
そしてそれぞれの諸問題を寄り悪化させるのがこの人達のやる事。
当時の児童ポルノ禁止法の時でも子供の権利を盾に規制ばかり主張して、反対派が指摘した予算や厚労省管轄や性的虐待物に改める事等と言った指摘は一切合切ガン無視したからね。
あの時から全く変わっていない。
Is It Time Gauguin Got Canceled?
https://www.nytimes.com/2019/11/18/arts/design/gauguin-national-gallery-london.html
https://www.bbc.com/japanese/42944154
海外のフォロワーさんから報告があったので、絵描きさん各位へ。
画像で申し訳ないですが、ロリ系絵描きさんを通報しまくってるようなので注意してください。念の為ブロック推奨で😫 pic.twitter.com/M3VLMGEsvX— 猫乃またたび@新刊委託中❤ (@mttb2ccp) 2020年1月24日
ある意味日本と似たようなものかそれ以上に危険な集団と化している。
良くあの人達が出す単語であるインセルが生まれたのも元々はフェミへの反発だからな。
この様な過激な反発集団が出始めた時点で、フェミが世間的にも嫌われ出していて、自身の立場が危うくなり出しているのだけど、あの人達は一切気づいていないからね。
今や漫画所か絵画まで狩りだす等ある意味では退廃芸術と同じ轍を踏みだした。
今も創作物規制が児童保護に意味がないまたは逆効果であった事が証明され始めているのにも関わらず、児童ポルノにこじつけてセックスドール規制までしようとしているからね、あの人達。
特にAKB系列の写真を掲載しているところに言いたいんだけど、修正をやりすぎと感じる。
まだ後ろから光を当てて体型細く見せたいのはわかる。かかとあげて足長く見せるのもまだいい。
おれは超おっさんだがこの前知り合いの男子高校生複数名も言っていて自信を深めた。
女体の質感を知っている者ならば覚えもあろう。
今はたくさんのグラビアが雑誌に載る時代だし、テレビや動画も多い時代だ。
それらを比較すると静画の修正がいかに露見しやすいかは瞭然だ。
ただ、絵画作品がいつの時代も写実性と、抽象性や象徴性との淡いの中で紡がれてきたのと同じなのかもしれない。
多少修正したほうが、そのアイドルのらしさが引き出せるのかもとも思う。
生きていくのには何を作るかなんだよね
何をするかじゃないんだよ
していることを経過時間で評価してくれる学校という制度を過ごしたあとでなんにも考えてないと
「なにをするかだ!」とか考える人が多いけど
なにかを生産してほかの人の生産ができないものや足りていないものを補う形で
その補う差額を報酬として受け取らないといけないんだ
絵を描くっていうのは手段であってアートなんだよねアートオブマイライフ
それを売るっていうのはユーチューバーになって24時間自宅のカメラで生放送するのと同じ
たぶん人気でると思うよ たぶんけっこうかせげる
さすがにそれは無理だわっていうから才能の一部である絵とか技術の一部である写真とか
それを利用した小物にして売り切り商品として小売りにするんだよね
報酬があるかどうかっていうのは別の話として仕事してるわけじゃん
そのライフのワークの仕方がアートなわけだよねアートオブライフ
それを売るかどうかは別の話じゃん?
どこをどれだけうっても無限に湧き出てきてどこを売ったらおわるのか
いくらでそれを売るのかっていうマネジメントしないといけないよね
絵をうって転売転載され風俗バイトのポスターに使われフェミニストにたたかれとかされるのか
人気画家としてうれるのか絵画教室をひらくのか個展として入場料を取るのかあるじゃん
高級腕時計とか自動車みたいに現金としての留保を数字にださないように
経費で絵画を購入してその現金を壁掛けの金庫として保管している状態にするとか
そういう用途のために使われる物理的な証券的意味合いの美術品として
オークションや美術品協会内でその価値を掲載して保証している価値の代替品としての
美術品もあるよね
書くことじゃなくて売ることがいるわけで
売るためには売り先が必要で
必要を創出するのかだよね
人に受け入れてもらえないからいい子にしていないといけない
したくもない仕事をして本当にしたいことを夜の街で酔って
疑似体験するのはアーティストの葛藤なんて比較にならないのじゃない?
アーティストの自殺率と学生やサラリーマンの自殺率比べてみようよ
いまお金になってるものをメインにやるのが一番じゃないってことじゃん?
絵よりもバイトのほうが収入があるならバイトで正社員めざしたほうが
クライアントにってクライアントを捕まえるがのそんなに簡単だと思う?
つかまえる腕もタイミングも環境もあるんだからそこにより多く接する必要があるよね
そこでお金にならないことをしないといけないのならその資金力もいるわけで
お金をかせぐためにアートをするためにお金が必要っておかしくない?って思うけど
アートというのがお金になるから仕事をとるために手数料を払うってことじゃないよ
お金をもっている特定個人がそのお金の使い道としてその商品を購入したいと思って
お金をつかって仲介業者がそれをアートと称してその業界の名から一つ売り上げをあげて
在庫がひとつへれば業者は二つ購入しておこうかと予定をたてるじゃん?
おかねもちのいまの購入動向とそのリストにのる名前に割り込むをしないと
絵なんてかいてる場合じゃないし写真なんてとってる場合じゃない
どうせ高いところでろくに細かいものが見えてないんだからはやりのゲージュツとか
むかしの絵画や美術品骨董の価値観をそのまま購入したりしてるだけ
売り手がやばいくらい売り込んでプロデュースしてるアメリカでは
ディレクターがゴミにでも価値をつけてオークションにブッキングするから
カタログに載ればなんでもいいんだよね
そこで貨幣とおなじくらい価値がでるように独自性があってコピーがしにくい
それを業務で利用することで利益につながるものが漫画だったりパッケージデザインだったり
その絵柄を特徴づけて自社製品の目印になる作品を購入したいよね
それが順位としてどれくらいなのか、比較検討できないと価値もつけられないし
どんなすごい技術がつまった作品でもその業界や学会で評価されないと
値段をつける人がつけられないから買えないよね
ただただすごい見てすごいからすなおにただお金をだしたいっていう作品
がもしあるとするならそれをどこで見つけるのかってことだよね
みつかったとしてその取引をどうまとめるかだよね
そういう業者や業界の充実やお金持ちだけがあつまてる芸術学会が
そういう単位でお金をやりとりしているだけのところで芸術やってこうっても
まずお金がないならアートを二束三文の事務で消費してるパワーポイントができる程度と
かわらない扱いの界隈で生きていくしかないよね
無駄な苦しみをしている努力の芸術家はたくさんいるのだろうと思うけど
水滴が岩を穿つようにそのなかからたまにあたりがでたらいいよね
千や万の芸術家の屍の山がその千分の一とか万分の一の割合でまわってきた運を
つかみとった瞬間の輝きをアートとしてみることが芸術そのものだと思うので
かれらが芸術家ってがくぶちのなかでいきながらにもだえてひとのふみだいになっていくさまの絵を
みる楽しみをしているその芸術のたのしみかたもいいんじゃない?
芸術家とやらの人たちが地の底でもがいて人の上にのりあげてすこしでも天に近づこうと
時に落ちたら死ぬようながけにたつことを「アート」と言ったり想像しえなかったひどいことを
人にしかけることを「アート」といってみたりしてる辺境の地獄から正統派の技術を積み上げていけば
貧乏で無名でも欲を出さず積み重ねていけば価値になると信じて地獄の中央でほかの人の足場として
いい趣味してるよねー
Web上の巨大な写真サークルに所属しているので、SNSの友達にやたらとアマチュア以上プロ未満みたいな写真家や画家がいる。
彼らがSNSにアップしてくる写真や作品を見ると確かに上手いとかセンス良いとか思うんだけど、でもこれで食べていけるのかと心配になる。
たぶんギャラリーをやっているような玄人筋には受けるんだろうけど、商業ベースには乗らないんじゃないかなと思う。
仮に自分が彼らの生活を救うために何か作品を買ってやれといわれても、せいぜいポストカードとか数千円レベルの写真集ぐらいしか買う気がしない。…というか、もっと名の売れた大御所写真家の写真集とか、いにしえの名作を集めた絵画展の図録とかでも出せる金額はそのぐらいだ。日本人のアートに対する感覚って普通その程度じゃないのかな。
プロカメラマンとしてそれなりに儲かっていそうな人は、金になる仕事とやりたい仕事を明確に切り分けているように見える。食べていくためにアイドルとか商品の宣伝とか政治家の選挙ポスターとかを選り好みせずに撮り、カメラ雑誌には新発売のカメラやレンズなどのレビュー記事を書き、そうやって稼いだ金で自分の撮りたいものを撮りに行っているようだ。
それに引き換え中途半端なアーティストたちはやたらと暇らしく、生活の細々としたことを凄まじい頻度でSNSにアップしてくる。そんな時間があるなら副業でもやったら良いんじゃないかと思うんだが。「撮りたいものしか撮らない」「描きたいものしか描かない」とかいってると貧困まっしぐらだし、作品づくりをしながら生活するだけでもお金は出ていくんだから何かしろよと思う。
そういう人々に作品発表の場を与えるために、一流企業を早期退職してギャラリーなどで彼らの作品展をやったり海外に作品を紹介したりする活動をやっている人も知っているが、それがどこまで成功しているのかは知らない。日本じゃ受けないけど海外では受ける人とか、万単位のお金を出してアート作品を買う文化が根付いている国で作品が売れる人は良いけど、結局芸術活動に専念しようとすると貧困に甘んじるしかない人々はある程度残っちゃうんじゃないかなぁと思う。
たとえ貧しくてもやりたいことをやって自由に生きる生活が羨ましくないといえば嘘になるが、自分の時間を切り売りしてやりたくない仕事をやってそれなりの給料を貰っている身としては「お前がワガママだから貧乏生活する羽目になるんだよ」と言いたくなる。せめて生活のためにとことんクライアントに媚びて、金になりそうな写真を撮ったり絵を描いたりすれば良いのにと思う。
胸強調広告だと言われた「茜さや」さんを罵倒するフェミニストが現れる
https://togetter.com/li/1457440
今まではまだ漫画やアニメ等の二次創作叩きに固執して世間の人間に飛び火していなかったからこそ、痴漢冤罪方面以外ではそこまで敵視されていなかったけど、件の赤十字の宇崎ちゃんポスター以降のフェミの先鋭化による弊害で実害出始めて、更に日本でも同じ女性であるグラビアアイドルやコンパニオン叩き等をし始め、挙句の果てには巨乳叩きと言う女性の身体的特徴まで差別し始めたから、いよいよ本格的にフェミニスト=危険思想及び反社集団認定され始めたよなと思う。
そもそもこの人達当時からセックスヘイターが多くて、セックスワーカーの人達を叩いて回る人達だったし、日本のフェミニズムの根底自体、ラディカルフェミニズムであり、純潔教育等と悪魔合体をしたものに過ぎなかったのもあるしね。
しかし元来女性の自由や平等をお題目にしていたフェミニズムこそ、女性の権利や時には子供の権利すら悪用して、お気持ちでこれらの規制を喜んで行い、男性のみならず同じ女性すら差別し始めたのは皮肉以外何でもないよね。
そりゃ嫌われるのも当然だよ。
これは何も日本に限らず、アメリカとかでもニンフの絵画やゴーギャン叩き等の形でフェミが先鋭化している事実はあるしね。
ここまでくるとフェミはもう世間的にも共産主義や社会主義みたいな実質的には危険思想であり、反社集団と言う認定がくるのも待ったなしかもしれないね。