はてなキーワード: もだえとは
呉八段は入門して益々強く、日本の碁打はナデ切りのウキメを見せられている。
呉八段が最近しきりに読売の新聞碁をうち、バクダイな料金を要求するのも、ジコーサマの兵タン資金を一手に引きうけているせいらしい。
僕も読売のキカクで呉清源と一局対局した。そのとき読売の曰く、呉清源の対局料がバカ高くて、それだけで文化部の金が大半食われる始末だから、
安吾氏は対局料もベン当代も電車チンも全部タダにして下され、というわけで、つまり私も遠廻しにジコーサマへ献金した形になっているのである。南無テンニ照妙々々。
然し、そこには、勝負の世界の悲痛な性格が、にじみでゝもいるのだ。
文化の高まるにしたがって、人間は迷信的になるものだ、ということを皆さんは理解されるであろうか。
角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、すぐれた力士は高度の文化人である。
なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。
角力の攻撃の速度も、仕掛けの速度や呼吸も、防禦の法も、時代の文化に相応しているものであるから、
角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。
目に一丁字もないことは問題ではない。
高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。
すぐれた魂ほど、大きく悩む。大きく、もだえる。
大力士双葉山、大碁家呉八段、この独創的な二人の天才がジコーサマに入門したことには、むしろ悲痛な天才の苦悶があったと私は思う。
ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43137_30135.html
「大富豪の美青年が、ひと目見た瞬間に惹かれた美しい女児を引き取り、初潮が来るより前から性的に開発する」
という設定だけなら18禁でもおかしくないような展開を好み「禁断」「囚」はけっこう売れたシリーズだった
20年ほど前の当時のネットにはいわゆる表現の自由戦士は目立たず
むしろ男性オタクが「エロ少女漫画をぶっ潰せ」という運動を2ちゃんねるで行い行政への通報テンプレがつくられ抗議活動していた
まだアフィサイトが流行る前で、テキストサイトでもエロ少女漫画叩きが盛んに行われていた
運動の成果なのか知らんが、エロ少女漫画はTLへと分かれ、少女漫画自体は全盛期より健全化が図られ昔はエロ漫画雑誌だった「デザート」は超健全雑誌に
ピッコマで刑部作品が配信されているのを見てふと当時を思い出した
でも10代だった当時と比べて、今読むとそこまでエロくもないな
いやストーリーとしてはエロいことやってるんだけど、赤面してもだえる少女の顔や男の大きな手などがうつされ
男がみんなやたら長くてうっとおしい前髪をしていて、髪で片目を省略して描いてることが多い
作者は、無垢な魂を持ちつつ体は淫蕩な少女を描くのが楽しい人で、男は少女の引き立て役なんだろうな
長身金持ちイケメンというのも、少女の小さな体を引き立てるため、少女の価値を高めるため、少女に釣り合わせるため
男がいわゆる便利棒でしかない
ニンテンドースイッチ向けにホグワーツレガシーが発売されたので買ってみたんだけど、最高すぎて今年一番ハマっている。
ちなみにハリーポッターは映画の一作目だけ見て「魔法が体系的じゃないしつまんねーな」と切ったレベル。
それでもTwitterで薩摩ホグワーツとかがバズっていたのでゲームの方はそれなりに面白いんだろうと思って買ってみた。
RPGでは必ず自キャラを女の子にするんだけど、14歳の女の子を自分好みにメイキングできるところでドキドキがとまらない。
洋ゲーはよくやるけれど、美形が作れるようになったとはいえおばさん感が否めないし、その点でもホグワーツレガシーは突き抜けていた。
丸眼鏡に四角い眼鏡、さらにはアンダーリムまで選べるので興奮は最高潮に達した。
これで赤いセルフレームのアンダーリムメガネが選べたらこの時点で昇天してしまっていたと思う。
そして当然魔法使いなので、ぞろっとしたローブを着込んでマフラーまで巻いているから露出度は皆無で、体型も全部隠れてしまう、が、それがいい!
むしろその方が断然リアルで存在感があって、北国の女子中学生感があって大変よろしい。
煩悶しながら出来上がったのは、ハーマイオニーを赤毛にして、眼鏡をかけた頭の良さそうな女の子だ。
さらにストーリーが素晴らしく良くて、この天才美少女が転校してくるや否やイケメンくんが「決闘でコテンパンにしてやるぜ」と突っかかってくるんだけど当然メタメタにされるわけだ。
洋ドラマだとここでライバル化するんだけどこっちが美少女なせいか(気のせい)他の生徒との決闘の時には一緒に戦ってくれたり、あまつさえ「お前にだけはこっそり闇の魔術を教えてやるぜ」と悪の道に誘惑してきたり、そのせいでイケメンだけには心を開いていた陰キャの闇魔法使いとのあいだで仲たがいが起こったりして「わたしのために争わないで!」と身もだえてしまう。
なんといってもこれらの物語がフルボイスで展開されるところが最大の魅力で、洋ドラマを見ているような感覚になる。
特にNetflixのウェンズデーとかセックス・エデュケーションに雰囲気が近い。
キャラクターの表情も豊かだし、声優の秋乃さんの声が良いこともあってCGなのに俳優さんのように生き生きと表現されているところがいいんだよなあ。
キャラクターもそれぞれバッググラウンドがよく作りこまれていて、それぞれの行動原理に整合性があるところがいい。
ポピーちゃんという動物を愛する女の子がいるんだけど、主人公よりもだいぶ背が低くておでこを出してて小学生みたいな外見でとても可愛い。
そんな彼女が密猟者集団にガチギレして一人でカチコミをかけたりするからビックリするんだけど、そこには悲しい過去が隠されていて泣ける。
みんなそれぞれ心の中に秘密や闇を隠し持っていて、お互いにそれを少しずつ明かしあいながら友情を深めていくあたりが、いかにも青春モノという展開で、魔法少女に転生してホグワーツを楽しんでいる感じがするのだ。
ほかにも魔法バトルがエルデンリングの純魔ビルドっぽかったり、装備を替えても見た目だけ好きに変更できたり、魅力はたくさんあるんだけどとりあえずみんな遊んでくれ! そして続編よ出ろ! 続編を出す魔法!
https://mugen-tools.com/tools/dockousei.php
この神性サーヴァントはアナル責めに適正がない。神聖特攻もちのサーヴァントに永遠とアナルを責められてもなおざりに一様もだえてはみせるものの最後は苦み走った顔で辟易とするばかりであった。姉妹には「あなたはオレの理想系なんです、あなたをアナルプラグで着飾って出かけるのが私の夢だったのに」と油断が妄想をぶつけられてもにっかり笑うばかり。「あなたのやりたいことに検討はついています。ちょっとしたスキンショップですよね」とニコニコ。それでいてこの神性サーヴァントは敵襲とあらば獲物をひっつかんで敵に向かっていくのだ。マスターの目配り一つで、まるでタイムプラス動画のような勢いで敵がなぎ倒されていく。
この神性サーヴァントは「 アナル責め(助詞不足の可能性あり)」に適正がない。神聖特攻もちのサーヴァントに永遠とアナルを責められてもなおざりに 「一様もだえ(助詞不足の可能性あり)」てはみせるものの最後は苦み走った顔で「 辟易(用字 → 閉口 )」とするばかりであった。姉妹には「あなたはオレの理想系なんです、あなたをアナルプラグで着飾って出かけるのが私の夢だったのに」と油断が妄想をぶつけられてもにっ 「かり笑う(助詞不足の可能性あり)」ばかり。「あなたのやりたいことに検討はついています。ちょっとしたスキンショップですよね」とニコニコ。それでいてこの神性サーヴァントは敵襲とあらば獲物をひっつかんで敵に向かっていくのだ。マスターの目配り一つで、まるでタイムプラス動画のような勢いで敵がなぎ倒されていく。
訂正してほしかった文
この神性サーヴァントはアナル責めに適性がない。神性特攻もちのサーヴァントに延々とアヌスを責められてもお座なりに一応もだえてはみせるものの最後は苦虫を噛みつぶした顔で辟易するばかりであった。
仕舞いには「あなたはオレの理想形なんです、あなたをアナルプラグで着飾らせて出かけるのが私の夢だったのに」とゆがんだ妄想をぶつけられてもにっこり笑うばかり。
「あなたのやりたいことに見当はついています。ちょっとしたスキンシップですよね」とニコニコ。
それでいてこの神性サーヴァントは敵襲とあらば得物をひっつかんで敵に向かっていくのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20221206182821
もし増田が最近僕ヤバを読み始めてるなら、面白くないと思うのは仕方ない。
この記事を書いている増田は1巻が発売される前に、「市川が山田への恋心を自覚する話」辺りで連載を発見した人間である。その立場からすると、最近の展開がかなり、かなり微妙(特に3年生へ進級してから)。
そもそも、僕ヤバは連載をすすめる中で面白さの性質が露骨に変化した漫画だ。読んだことのない人向けに今さらながら説明すると、『僕の心のヤバイやつ』は中学生のオタク男子である市川と、天真爛漫天然高身長モデル女子の山田による「両片思い」漫画である。しかし、こう断言できてしまうのは今だからであり、初期のころは違っていた。
「僕ヤバ初期」と言えるのはおそらく1-2巻、市川も山田も自分の中にある気持ちを自覚するまでの辺りである。この時期の特徴は「市川が山田に振り回される」ことにある。天然ぼけに近い山田の行動を市川が一方的に観察し、時々山田と話したりしてちょっとずつ心の距離が近づいていく。山田の内面もこの頃はいまいちわかりづらい。だからこの頃はギャグ漫画のテイストが色濃い。みつどもえとかロロッロの頃のノリをひきずってどぎつい下ネタ要素もある。
今振り返ると、僕ヤバ初期の優れていたのは、「人のことを好きになる」経緯をすごく丁寧に描いていたことだ。とにかく、市川も山田も相手のことを何も知らない。なんなら山田は市川のことをどうでもいい他人くらいに思っている節すらあった。それが自転車の件やティッシュ差し入れの件といったちょっとしたイベントを機にそこそこ話すようになる。白眉なのは秋田書店社会見学時のエレベーター内の描写だね。山田が無意識に市川のことをじっと見つめるやつ。その後にミルクティーをもらって特攻が刺さり恋を自覚する瞬間もいい。
この頃は、この距離感のつばぜり合いとでも言うべき、「恋なのか何なのかわからないが相手のことが気になったりする状況」に読者はドギマギさせられていたのである。なお、この辺りからTwitterを中心とするSNSで人気が出始めたわけだが、その背景には僕ヤバのTwitter戦略がめちゃくちゃ上手かったという要素も忘れてはならない。サイトだけで連載を追っている人は意外と気づいていないのだが、僕ヤバは更新日の火曜19時に作者がTwitterで宣伝投稿をする。その際に添付される書き下ろしカラーイラストに本編を補足する情報が含まれていたりする。また、本編とは別の書き下ろし漫画、通称「ツイヤバ」も定期的にTwitterに投稿されていて、投稿時間は大体木曜~土曜の19時~21時である。つまり、「会社員が仕事を終わって漫画を読む時に僕ヤバを目にする」ことが週に2回必ずあるようにしていたわけだ。漫画の面白さもさることながら、こういったSNS戦略の丁寧さも見逃されてはならない。
さて、話を戻すと、「僕ヤバ第二期」とでも言うべき時期は、その後からクリスマスデート回くらいまでだろう。この頃の読者身もだえポイントは「お前らさっさと付き合えよ!」である。山田は好きを自覚したらガンガン攻めるタイプなのだが、市川は普通のオタク男子なので勘違いしてはいけないとずっと自制を心がける。この頃の特徴は、主に山田からの一方的なアプローチである。一緒に下校したり、自分からLINE聞いたり、冬休みに漫画の貸し借りを口実にクリスマスデートまで持って行く。猛攻である。そしてオタク男子の夢である。一方的に相手からアプローチをかけてくる状況! ここから付き合えるラブコメがあるんですか!?
また、この辺りから読者も気づき始めたのだが、桜井のりおは漫画における情報の出し方や伏線の張り方がものすごくうまい。クリスマスデートで象徴的だったのが紙袋を一緒に持つところだ。紙袋の後ろにモブカップルが手をつないでるのを移し込むことで「実質手つなぎじゃん」って読者に思わせたあと、終盤で実際に手を繋いで読者を殺しにかかる。漫画がうまい。うますぎる。
個人的にはこの辺くらいまでが一番面白かった時期なのだが、同時に市川のモノローグが結構クローズアップされるようになるというか、真面目なモノローグが増えた。ギャグにしないというか、「真面目なラブコメ」へのシフトが始まったのもこの時期である。
さて、クリスマスデート以降から最新話に至るまでを個人的には第三期に位置づけているのだが、この辺はおそらく「周辺人物の掘り下げ」が中心になっている。いわゆる外堀を埋める段階である。お互いの恋心は大体伝わっているので実質付き合っているような行動が繰り広げられる。お互いの家には訪問するし、なんなら原さんカップルとのダブルデートも行われる。新学期に入って新キャラも出してきた。
この辺になると、「このギャグキャラもこんなことを考えていたのか!」という掘り下げが話の原動力になっている。なぜなら山田と市川はもう両片思いであり、それだけやってると正直マンネリ化してしまうからだ。恋心を自覚するまでの初期や両片思い期は関係性が特殊なので、普通のシチュエーションでの展開のひねりがわりと聞く。しかしクリスマスデート回以降は関係性が大体固まりつつあるので、山田と市川だけではストーリーが続かない。端的に、マンネリ期と言っていい。まだ付き合っていないのにマンネリ期!?
ダラダラと書き散らしてしまったのでまとめるが、つまり自分が言いたいのは「関係性が固まってしまった」ということだ。ただのクラスメートから恋を自覚するまでの「相手がなんとなく気になってしまう」段階、クリスマスデートまでの「相手となんとか距離を近づけたい(主に山田)」段階は既に終わり、割と真面目に話を広げようとしている。単話単話で話を盛り上げるタイプだったのが、ストーリー漫画にシフトしようとしている、と言えるかもしれない。
ここまで書いたら本増田が最近微妙に感じていた理由もわかっていただけるのではないかと思う。自分にとって僕ヤバは「友だち未満」や「両片思い」という微妙な関係性でのシチュエーションの妙を楽しむ漫画だと思っていたので、最近はその面白さが発揮されていないのである。もうちょっとその辺はなんとかならんかなぁ……と思っていた。
そう、思っていたのだが……最新話が遂にアレですよ。第四期到来だ。また関係性が変わるぞ。市川が彼氏としてどう振る舞うのか! 山田の性欲が牙をむくのか!? 内緒デートを楽しむのか!? 文春砲くらって別れの危機が訪れたりするのか!? 乞うご期待である。
あと今多分アニメ化にあわせて85話まで無料で読めるからみんな読んでみるといいよ。14:33に見てみたら閲覧できなくなってたわ……誤情報すまん。執筆段階では見れたんですよ。設定ミスかなんかか?
俺は文章を書くのが好きで、なぜ書くかというと支配するために書いている。
これは自分の動機を色々な意味で乱暴に表現した言い方だけど、実際この通りで、俺は世の中のたくさんの物事がよくわからなくて、それを自分の言葉で自分自身のために説明し直すことが俺にとっては対象を屈従させたことと同じなので、それが理由で書いている。
一種の、そういう暴力的な方法でしか、この世界にある意味不明さと向き合えない。とにかく俺は「わかりたい」のだが、いまは、まるで真逆のことを言う。
「説明を受けてようやくわかった」
「感じていたもやもやを(自分の代わりに)うまく言語化してくれた」という意見を最近よく目にすることがあって、それを見かけるたびに、正直言うと少し嫌な気持ちになる。
俺自身が「わかる」ために言葉を並べることに憑かれているし、俺が書いたものを読んだり講義を聞いた人に「説明上手ですね」と言われると身もだえるほどうれしいので矛盾しているのだが、本当に、そんな簡単に「わかって」いいのか? と心のどこかで思っている。
俺はそれが怖い。
「わからない」のは不安だし、「わかる」ことで参加できること、貢献できることが世の中にはたくさんある。
というか、ほぼそれしかない。この社会で「わからない」やつはお呼びでない。仕事でも議論でも。そういう風にできている。
「わからない」と正直に言える者が機能するのは、学校の授業のように教える側と教わる側が明確に区別されているか、その共同体が何か重大な問題をはらんだまま、よほど硬直している場合だけだ。
そして、それも結局、みんながよりよく「わかる」ための経緯の一つとして回収されていく。
多くの人は「わからない」を早く手放したい(俺のように、場面によってあえて「わからない」にこだわってトリックスターを気取らない限り)。
「わかった」人も、他の人にも「わかって」欲しい。だから、「わかる」は増加していく。
それはある意味で、みんな同じになっていくということだ。
俺だって普段は「わかりたい」と思っているし、「わからせたい」とやっぱり思ってるけど、それでも、みんな一緒になっていくことは怖い。
きれいごとを言えば、「わかる」が他人と同じになっていくことだとすれば、「わからない」ことには唯一無二の価値がある。「わからない」「わからない」とずっとわめいていることにこそ、その人だけの価値があると思う。
もちろん、その人だけに価値があるというのは、その人が自分で作った独自の貨幣と同じで、何の役にも立たない。まあ、でもいいじゃないか、と言いたい。危うくて、でも、おかしくて愛しくていいじゃないか、と思う。
俺が「わかる」ことに、どこかの誰かの生死がかかっているとしたら、俺は「わからないといけない」。
俺が「わかる」ことに、俺の大事な人の生死がかかっているとしたら、俺は「わからないといけない」。
遠いところからやってきた誰かが俺に銃を向けたとき、俺がどうしていいか「わからない」と言ったら、その人は俺を撃って先に進むだけだろう。次の誰かを撃つために。
それでも、俺はみんなが「わかった」というのが怖い。
このとき、「その『わかった』が間違ってたらどうするんだ?」という疑念と(星新一の『殉教』のような)、みんなが一つになっていくユートピアへの根源的な恐怖(人類補完計画的なものへの嫌悪感)は区別しないといけないだろうし、「なんだろうと、とにかく怖いから、そんな簡単に『わかった』って言わないでくれ!」という俺の稚気も別物だろうけど、俺にもよくわからない。
今回の件はみんな「わかってる」らしい。俺も、それで正しいと思う。
でも、じゃあ、みんな「わかってる」なら俺だけ「わからなくて」いいかな?
終わりの予感を感じさせる曲が好きだ
その曲が始まった途端、そして聞いている間、それまでの幸福な時間が終わり、ああこの時間も終わってしまうんだという著しい郷愁、切なさと、この時間は二度と帰って来ないんだと感じさせる曲が好きだ。わかってもらえるだろうか?おすすめを教えて欲しい。それをもだえ聴きながら今週末を過ごしたい
例として以下をあげる
Prince / PurpleRain
終わりを感じさせ方としては完璧。特に3分45秒前後の歌が終わった後のギターソロ以降。世紀の名盤が終わってしまうという感じと、演者側がとにかくたたみにかかっている感がたまらない。
Stone Roses / I am the resurrection
これも名盤のラストを飾る曲でPurpleRainに類似。私は復活するという歌詞とも相まって強く終わりを感じさせ素晴らしい。特に3分40秒前後のギターソロから始まる怒涛で至福なセッションタイムがいつまでも終わって欲しくないけど、確実に来る終局を感じさせて、身悶える
ナンバーガール/ OMOIDE IN MY HEAD (サッポロOMOIDE IN MY HEAD 状態)
絶頂期を迎えたバンドの突然の解散、ラストライブのほぼ最後を飾り、歌詞、演奏ともにバンドを象徴する曲。
観客のああ終わってしまうんだという感じと、この時間が最高潮という空気がパッケージされており素晴らしい
初期スタジオ版のスカスカなアレンジから、最後の鈍器と刃物で殴られるような凶暴なアレンジの違いにも成長と歴史を感じさせ郷愁を感じる
フィッシュマンズ/Long Season (98.12.28 男たちの別れ)
これもバンド絶頂期からの終わりを感じさせる曲。上記と違うのは、ただのバンド解散だけでなく、その後の復元できない完全な喪失を知ってしまっている点で、ただただ切なさを感じさせ、たまらない
何たって『あなたのいない世界には、あたしもいない』である。aikoにこんなこと言われるなんて、aikoに情念で呪い殺されているようなものである。最高じゃないですか。地獄の責苦と天国の祝福を同時に味わえるような曲でたまらない。
cocco/焼け野が原
何たって『だから抱いて だから抱いて この体に残るように強い力で』である。ああ、とてもたちが悪い。aikoとどっちがたちが悪いんだろうか。わたしはaikoだと思います。活動停止の前の最後の曲という印象も強い。
補足 下記も終わりを感じさせ素晴らしいが、上記カテゴリに当てはまらない曲
エヴァ最終章と素晴らしいマッチを見せ、終わりを感じさせるが、映画のラストと相まって終わりの先にリスタート/新しい物語を感じさせるので違う
Monty Python / Always Look on the Bright Side of Life
これも映画ライフオブブライアンの最後、白眉となる場面で流れ終わりを感じさせるが、人生讃歌により過ぎていてちょっと違う
Vera Lynn / We will meet again
映画博士の異常な愛情のラストを飾る曲。終わりを感じさせ素晴らしいが、映画での使われかたが、ユーモアにより過ぎているのでちょっと違う
第1波、第2波は外壁に粉を撒いて迎え撃つ戦術だったが、この雨のタイミングで第3波発生を予見していたので、スプレータイプの殺虫剤を用い、潜んでいそうなところに先制攻撃を仕掛けた。
自宅庭の裏手にスタッドレスタイヤを袋に入れて棚に置いて保管している場所がある。
そこに十数匹のヤスデを確認したのでその袋の内外に殺虫剤を噴霧したところ、袋の中やタイヤの隙間から大量のヤスデがわらわらと出てきた。3ケタはいるぞ。
たまらず外に出てきて逃げ惑うヤスデ。そして殺虫成分にもだえ苦しみ、ぼたぼたと落ち始めた。
足の踏み場もない。
畜生め。
痴女とかドS女王様に命じられて寸止めじらし責めされてるって設定の性的嗜好に目覚めればいいんじゃないかな。
文章力もなければそっち方面の才能、スキルも皆無だからなかなか理解してもらえないとは思うが、
腹減ってたまらない時間が長く続いたあとでようやくありつける飯って格別上手いだろう。
セックスも同じで、溜めて溜めてもだえまくった最後に爆発すると気持ちよさが段違いに良いんだ。
そういう性癖を(女性に)開発されてる、という設定だと思い込んで自宅ではぁはぁしてればいいんじゃないかな。
...って。
これ上手く転がせる人が喋ったら「変態かよ」っていう突っ込みされるボケや笑いに持っていきつつ「自宅で自粛してろ」「溜めれば溜めた分、後で良い事(いつもより気持ちいい)」が待ってるってルール全部満たせるはず。