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はてなキーワード: 科挙とは

2024-06-23

anond:20240623104830

おめでと~いやすごいな 科挙じゃん

空気になるというストレス耐性が活きたのかもね

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-17

努力努力とも思わず虫歯虫歯とも思わないのが大事

科挙を受けてた人が虫歯ときで泣き言を言わねえのよ

2024-03-02

anond:20240302201948

ヨーロッパ人ラテン語を学ぶのと似たようなことで、ようするに実利は無いってことか。

それなら、研究者ハイソ上級国民などの一部の人けが美学を追求すれば十分だな。

中国ではそのような美学(笑)とやらを重視して科挙をやってたけど、結果として国力が落ちてアヘン漬けだからな。

いまや中国では反動科学技術を中心とした実学を重視していているけど(中国共産党の歴代書記長だけでなく党幹部もみな理系出身)、日本はいまだに古文漢文やってるんだよね。

そりゃ、教育科学技術を中心として国力に差が開いていく一方な訳だ。

2023-08-25

覚えたこ

科挙をやってない人ほど、科挙を盲信する。

2023-07-14

anond:20230714220855

日本含めて「学歴社会」って全然学歴社会じゃないんだよね

本当は「大学入試社会」で科挙の変形

学士なのか修士なのか博士なのか大学では何の専門なのかGPAはどうかという本当の「学歴」はアメリカの方が遥かに厳しく見られる

2023-03-29

anond:20230329165511

ユダヤ人科挙受験生勉強第一歩は暗記かららしいな。暗記してから本題の勉強が始まる。暗記から逃げる人は基本勉強ができない。

2023-03-24

anond:20230324090128

北京大学生にとって早稲田大学

科挙級に頭良い天才ターミネーターの集まりの最強の神大学」

って扱いなの知って、日本大学ディスって日本人が勝手に言ってるだけなんじゃないかとは疑ってた

2023-01-15

anond:20230115113638

極論、中国宦官とか(科挙もか)は近代まで続いていたんでしょう。

坊主、尼僧や牧師なんかに争いがないかと言うと、そうでもなくて権力争いなどもあったのではないかな。

禁止したら人間の知性が上がるかどうかは疑問符がつくよ?例えば男子校女子校の生徒の偏差値が、一部は日本トップ層かもしれないが大衆は、知性は上げられない。。

そう、科挙本来は秘伝科拳を伝える為の選抜試験だったのだ…

だがここから先は中国三千年の闇について触れてしま為書けん…

2023-01-11

anond:20230111075529

中国歴史的に血閥社会なので今でも由緒正しい血筋の人が色んな所に居るんですよ

中国の良いところは由緒正しい血筋じゃなくとも科挙代表例に一般大衆でも実力を示せば由緒正しい血筋の人たちが後ろ盾になってくれるところ

中国国民党共産党黎明期科挙などの優秀な一般大衆を由緒正しい血筋の人たちが後ろ盾になって成立したのです

から共産党が倒れても再びどこからか頭が生えてくるのが中国

2022-11-07

anond:20201101061517

> ただの暗記・努力コンテストなら四書五経の暗唱と変わりないではないか

Tech Giantの面接に呼ばれるまでは何度かあるものの、結局いつもどこかの段階で落とされており、

いつかオファーがもらえる日を夢見て毎日夜なべしてLeetCodeをやっていた者です。

この一文を見て、これは21世紀に蘇った科挙だと思うに至った。

2022-10-09

総合選抜入試(旧AO入試)が増える日本は衰退する

総合選抜入試(旧AO入試)が増える日本は衰退する。

センター → 二次試験をやって、せっかく科挙をやっていたというのに。

総合選抜入試などという九品官人法を導入するとか頭がどうかしている。

1000年以上前歴史が既に証明していることすら理解できないとは嘆かわしい。

宦官みたいな奴らが、試験制度改革をしているのだろう。

2022-08-28

日中韓台に共通する東アジア思考

役人は偉い。批判はするけど心底羨ましい。

学歴(というより如何に難しいペーパーテスト合格たか)が全て。中国皇帝ですら科挙合格した官僚嫉妬名家に生まれ首相田舎まれ集団就職から一代で成り上がった首相ですら東大卒キャリア官僚コンプ医師尊敬されるのは世界共通だが東アジアでは仕事尊いからではなく、入試が難しいか尊敬される。

・施しは嫌い。

人助けや親切も嫌い。身近に親切な人がいたり、人助けが行われると居心地や気分が悪い。偽善者ということにして非難自己正当化

・損をするのは大嫌いなので国や地域のために何かをする気は皆無。だけど恩恵は受けたい。

プライドが高いということは人類共通だが、東アジアでは自分を高めるより他人を下げることで自尊心プライドを保つ。

・女は父親か夫の所有物。男は母親の所有物。

・人の長所を探すことはできない又はしたくない。人の粗探しは得意。

2022-07-11

anond:20220711215130

そっちじゃなくて基盤層がないと権力が心もとないって話

長くなるからなるべくカットすると

科挙ってペーパーテストだけど難易度やばいやろ?

から長年かけて試験対策するんやけど

概ねパトロンがつくんよ。んでもし受かったらパトロン地域優遇するんや

しかし中にはパトロンがつかない天才もおってな。

その人達活躍できるかというと基盤層が

なくて権力が心もとない人のが多くてな…

今の赤松もそんな感じや、一定権力はあるが基盤層が薄く、実は危うい。

次回以降はどうなるかは神のみぞ知るやな

anond:20220711214513

基盤層がないというのはこういうことなわだよね(古来中国科挙でもよくある光景)

2022-06-26

去勢するのもアリと言えばアリなのかもしれないな。

かつての中国王朝では科挙合格するか宦官になるかというのが栄達の道の第一歩であったと聞く。

多くの科挙を受けるような経済環境にない大望を抱くもの宦官への道を歩んだようだ。

現在の世の中では宦官というもの存在しなくなった。

しかし、栄達への道とは少し違うが自分が一生を捧げると志した道へと専心するという意味去勢するのはアリなのかもしれない。

言われているように男の性欲は非常に強い。

ともすればそれで人としての道を踏み外すほど。

ならばその強い性欲を抜き去ることが出来てば男はもっと能力を他のことに振り向けることが出来るのではないだろうか?

まり数学で何かを成し遂げたい、と志す人にチンコ必要なのかどうか?ということだ。

21世紀の新しい去勢。求められているのはこれかもしれない。

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