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はてなキーワード: 家族観とは

2021-01-14

anond:20210114000152

サザエさん20代前半の設定だったっけ。

今どきそんな進学と就職犠牲にしてる若母なぞいない。

家族観アップデートしないと。

現在幼児持ちのお母さんに年齢層を合わせるなら、サザエさん44歳に設定し直して欲しい。

2021-01-09

我が子がLGBTと受け入れられない親がよく分からない

親にカミングアウトしたけど受け入れてもらえませんでした😢という話を聞く度に、そんなに受け入れられない物なのだろうか?と不思議に思う。

もし我が子がLGBTだとカミングアウトしたらと想像すると、まあ仕方ないかと私は受け入れるのではないかと思う。

その理由は、単にノンケ男性である私は絶対に男とホモセックスしたくないと思っているので、LGBTに「普通」の性的役割を果たせというのも同様の無茶な要求だろうと考えているからだ。

ただ、私は家族観保守的な面もあって、結婚して子供を持たないと人間はどんどん孤独になって不幸になる傾向が一般的にある、とも考えているので、我が子がLGBTならLGBTなりに伴侶を持って養子を取って育てることを強く薦めるだろうなと思う。

それが法的に認められた外国に行きたいというなら援助するだろうし、日本同性婚ゲイカップル養子を取るのが認められるように署名集めぐらいならするだろう。

まだ小さい我が子には全くLGBTっぽい様子は無いので、今のところ他人事ではあるのだが。

2020-12-24

anond:20201224135737

その辺の国は逆に家族観日本より伝統的だから男女の差異で揉めないけどな。

リトアニアなんか結構宗教の影響力強いやろ。

欧米欧米たる所以は結局国ごとの文化より宗教信じてる層と信じてない層の違いの方が大きいってことに尽きる。

宗教が終わったものと考えてる大方の日本人にはその辺理解できてない。

2020-12-16

anond:20201216163157

それってほんとに富野主義の話か?

富野キャラクター没入型の作品作りをしないから一つの作品に強い女だったり昭和少年だったり多様な人物像が混在して描かれることが多いと思うが

たとえばあるキャラクター男尊女卑発言をして物語内で咎められないというだけで作家の男女観や家族観を判定するといったタイプの間違いを犯しているというわけではないんだよな?

その上で、主人公格のキャラクター一貫性が感じられないという話ならば、富野アニメ時代においてはアニメ主人公として選ばれる年代である思春期少年少女にアンビバレントさが盛り込まれているというのはごく「自然」なことのように思われる

というのは物語志向されていた時代においては、特に富野のような作家がめざしていそうな「現実に即した」少年少女たちというのは、常に変化し続ける生き物として描かれるからで、そこに現代にみられるような少年少女が特定の「キャラ」という固定化した役割を担うことで状況をシミュレーションするタイプの作劇を念頭に置いたキレイで一貫した解釈を当てはめても一面的になりすぎてうまくいかなくなるのが当たり前な気がする

こういう時代物語においては、女に対して苦手意識の表出をするような少年が「キャラ」変のイニシエーションシークエンスを挟まずにいつのまにかだんだん女と仲良くなっているというのはかなり素朴な描写として「自然」で「現実的」なものであり、少年が女嫌いのような言動をとるのはそれがそういった主義や「キャラ」を持っているからではなくて、たまたまある期間そのような過程にあるということが「現実」の少年によくあるという時代了解のもとに表れているものだと思う

逆に女に対して永遠に拒絶的であるというような描写があるとしたらむしろそれはなにがしかの強い主義のもとに描かれていて「不自然な」少年像として提示されていて、それならばのちの時代に「キャラ」として表出するフレームと同じものとして解釈するのはうまくいくかもしれない

富野アニメに出てくる少年少女の人物像がそうした「キャラ」としての造形であるという解釈をするにはかなり強い根拠となる描写検討必要になると思うが、そういうのはあげられるだろうか?

一般登場人物言動が作者の主義の純然たる反映だという解釈はかなり危なっかしいのと、富野主義厭世主義や反出生主である表現から読み取れることと物語登場人物物語においてそれに違反した言動をとることは両立するということがあり、たとえば時代要請する規範がどれだけ描写に影響を与えるかということとかもそうだし、逆に違反してみえ言動が読み取った厭世主義や反出生主義のアンチであるという解釈にもどれくらい正当性があるのか考えるとというあたりに議論必要になる話題だと思う

富野アニメを見たら面白かったが納得できないところも多い

初代ガンダム映画とZの映画F91映画逆襲のシャアリーンの翼を見た。

基本的にどれも面白かった(面白くなきゃこんなに見ない)んだけど、全体を貫く家族観というか男女観というかがどうも納得できない。

そして、軽くググったんだがその辺をうまく言語化してくれてる考察記事なんかも見当たらないので書く。


まず基本的に私は、男女に本質的差異はない……というか、あるかもしれないが、文化科学の力でそれは限りなく縮小していくべきだと考えている。

男女に差異はあるかもしれないが認めるべきでない、というのが正確か。

まれた時に定められる性別などというものがついて回るのは人間にとって不幸だと思うからだ。

時折SF作品などで描写される、無性で生まれ、ある程度成長したら本人の意思性別を決定できるとかそもそも性別概念がないので決定もしないとか、そういう世界が好ましいし美しいし幸福だと考えている。

また、家族制度もなくてよい。個人として生きるのに、家族がついて回るのは恐ろしい。

強い反出生主義ではないが、性別家族の檻から抜け出すのが困難な現状での生殖は、あまり喜ばしいことだとは思えないので複雑な表情になる。

私はそういう感覚である


そして富野アニメなのだが、性別差異を強調しているような描写があるかと思えば性差無頓着描写もある。

女性性を持ち上げたりしたあとに、逆に所詮女子供馬鹿にしているような言動主人公格が言ったりする。

家族についても、家族血筋呪いだというニュアンスと、家族って大事だよな!みたいなニュアンスが混在している。

そして性愛生殖についてはなぜか妙に生々しく描かれている……基本的には肯定的だと思うのだが、美化というよりとにかく生々しい。

これがもし一貫して「男女は別物、家族大事ヘテロ恋愛して生殖バンバンしようぜ」みたいなことを語る作家であれば、私も「性別概念に魂を縛られた古い人間め」と見切りをつけるのが簡単なのだが、見た限りの富野アニメはそうとも言い切れない。

もちろん、そもそも作家性がなくその場に応じたエンタメを作ってるだけなので考える必要がないとかそいういうクリエイターでもなさそうだ。

識者からすると、富野由悠季の性別観、家族観生殖観というのはどのように整理されているのだろうか?

私にとっては大雑把に言えば不快な場面が多いのだが、ただ不快だとは言い切れない部分もあり(だからこんなに見たのだ)、なんとも落ち着かないのだ。

16日の18時頃追記/

トラバを見て、少し整理できた。

富野作品には厭世観人間不信が感じられるので、生殖恋愛への否定を予想して見ることになるのだが、いつの間にか性愛への肯定描写がされていて、そこがうまく繋がらないのだ。

下世話に言えば、アムロカミーユ機能不全家庭育ちで恋愛や家庭への不信をこじらせ幼なじみにも冷たい非モテっぽいのに、ララァやフォウとは出会って即スマートにいい感じになるのはNT共感を踏まえても納得できないってこと。

これは富野自身結婚子供を作っていることへの「こんな作品作ってて家族持ちなの!? だから子孫肯定なのかもしれんけどよく結婚する気になったな!?」という戸惑いとも近い。

2020-12-06

anond:20201206005240

出産死ね生命死ね家族死ね

そう書いたらウケないだろうけど

出産によって生じる数々の理不尽を問う」

「敢えて産まないという選択

ステレオタイプ家族観を押し付けないで」

ぐらいのテーマならウケるかもしれない

鬼滅の最終巻にウゲッとなる声ってあんまり聞こえてこないね

「子へ孫へ受け継がれる命!」みたいなやつ

出産バンザイ生命バンザイ家族バンザイ」っていまどき流行らないよね?

さんざん我々を苦しめてきた保守的価値観家族観を真っ向から打ち出した鬼滅が

令和になったのに老若男女(小さな子供たちまで)から熱狂的に支持されているんだよ

うなっちゃうんだろう日本

追記

蛇柱と恋柱は現代に転生して夫婦になってんだけど

最終巻で「子供が5人いる」とわざわざ加筆してあった

「多産」で愛情幸福度表現する価値観が古臭いというか昭和の亡霊というか

もちろん女キャラ名字になってる子孫は皆無

これを小学生がキャッキャ言って読むんだよなあ

長男から我慢できたけど」と言って小さな家父長してる主人公はすでに「小学生の憧れの人第1位」だし

こういう刷り込みが将来どう影響してくるのかって話

2020-11-30

強制的夫婦新姓」こそが最適解

選択夫婦別姓論はどこまでいっても感情論しかない。選択夫婦別姓賛成派(以下、別姓派とする)、反対派(以下、同姓派とする)双方の主張はそれぞれ価値観の違いでしかないため、議論の土台が無い。議論の土台がないため、議論が進まず感情の殴り合いでしかなくなっている。見苦しい。そこで本増田では折衷案として強制的夫婦新姓を提案する。強制的夫婦新姓により同姓派の考える家族の絆伝統家族観は守られ、さらに別姓派が指摘する様々な問題解決するための議論きっかけが生まれる。

現状、同姓派と別姓派の争点は主に以下のものとなっている。

特に最初の2つに関しては完全にただの価値観の違いであり、まともな議論をすることは非常に難しい。後半2つに関しても同姓派から妥協案や指摘に対し別姓派は主たる主張を持っていない。

日本結婚戸籍システムは家父長制の流れを受け継いでおり、そこから男女差別的な部分を切り捨てていって今の形となっている。結婚をすると、夫婦は双方自分がもともと所属していた戸籍から抜けて新たな戸籍を一緒に作る。つまり戸籍=家族ともいえる。この際にこの戸籍=家族記号として姓を決める。本来この姓というのは家族記号であって個人記号ではない。一つの姓のもとに家族が集まるというのが現在日本家族の考え方である。つまり改姓によりアイデンティティ喪失するというのは日本家族観からしてそもそも間違いなのだ。別姓派はこれは120年しか続いていないので伝統ではないという主張をするが、120年も続いていたことを伝統でないと主張するのは少し無理がある。

これを踏まえた上で家族の絆と姓に関して議論をすることは無意味であることが分かる。家族の絆が無くなるか無くならないかという議論はどちらかが勝つことは不可能であるから議論する意味がないのだ。同姓派が家族の絆という時、先述した伝統家族観―同じ姓のもとに集まる者たちが(核)家族―のことを意味しているのであろう。

この家族観を維持したまま夫婦の片方だけに負担を強いない方法がある。それは強制的に新姓とすることだ。新たな戸籍=家族を作る際に全く新しい姓の生成を義務付けるといったものである。こうすれば夫婦どちらも改姓をせざるを得なくなり、名義変更コスト撤廃へと話が進んでいくことであろう。

そもそも名義変更に手間がかかるのは旧時代遺物しかない。なぜ自分の姓をキープすることで社会に合わせようとするのか。社会の方を新しくするべきではないのか。同姓派の主張するように通称利用可能法整備を進めれば最初はそれで十分ではないのか。結婚した人が全員改姓する社会になると名義変更コスト撤廃への動きはより活発になるだろう。選択夫婦別姓が実現したところで同姓にしたい人にはそのコストは残ったままなので幸せになる人は少ない。しか強制的夫婦同姓であれば皆が幸せになれる。どうだ。

2020-11-25

anond:20201123215327

名義変更にかかる金銭的・時間的コスト

名義変更にはコストがかかる。資産名義変更にかかる多大な手数料金銭コストと言えるし、クレジットカードや各種証明書等の名義変更にかかる時間や手間は時間的コストとも言える。

現状の戸籍制度では結婚時に(国際結婚でない限り)同氏にすることが要求される。法律的には夫妻どちらの氏でも良いのだが、現状として妻側が改氏をする例が96%を占めることから夫婦同氏を求める現状の戸籍制度女性負担を強いる制度であるとして批判され、主に女性社会進出観点から選択夫婦別姓推進運動の大きな動機となっている。

しかしだ、よく考えてみて欲しい。名義変更にかかるコスト結婚時の改姓にとどまらない。離婚時にも改氏をする人はいるし、性同一性障害等の理由家庭裁判所許可を得て改名する人もいる。氏名変更により生じる多大なコストそもそも氏名を個人識別子として用いる社会問題がある。金融機関が悪いし、証明書やその証明に氏名を用いる多数の機関が悪い。選択夫婦別姓派は左翼だと揶揄されることがよくあるが、自分の姓をキープすることでこれらのコスト回避しようというのは極めて現状社会に対し迎合的であり皮肉にも保守的であるとも言える。選択夫婦別姓が実現するのは結構だが、それだけでは問題解決しない。選択夫婦別姓が実現した後もこの社会コストとの戦いは続けていってほしい。

キャリアリセットされる問題

現状の氏名変更によりキャリアリセットされる問題が指摘されている。しかこちらに関しては通称使用対応できるのでわざわざ戸籍制度をいじる必要性はない。よって選択夫婦別姓要望の論拠としては弱い。

研究者の業績がゼロになるといった誤った考えを持っている人も多いようだ。研究者論文本名を使う必要性特に法的に定められてはおらず、科研費申請等も旧姓研究名で行うことができる。業績一覧が必要になる機会、たとえば就職などにおいては氏名が変わろうが自分の業績であれば業績リストに入れておけばきちんと評価される。氏名の変更は日本だけの問題ではなく世界中どこでも発生しており、対策も色々と講じられている。結婚したらいきなり業績がゼロになるというのは嘘である

伝統家族観 v.s. 多様な家族観

同姓維持派は選択夫婦別姓により別姓の家族が生まれると「家族の絆が弱まる」と主張している。この論はバカにされることが多いが、実は否定のしようがない。これを頭ごなしに否定すると自分の靴も撃つことになるのだ。「姓が違うから家族の絆は弱まらない」という主張はある人にとっては真でも、そうでない人達もいるわけで、この論自体否定をすることは傲慢であると言える。同姓の方が家族の絆が強まると考える人は同姓を選択すれば良いという意見もあるが、別姓が可能になると本当は同姓にしたいと思っていても別姓を選ぶという人も出てくるだろう。

子供の氏を考えると話はさらにややこしくなる。法務省答申では結婚時に子供がどちらの姓にするかを選択できるようにするという方式が考えられているが、世界を見渡すと実に色々なものがある。子供一人一人に別の姓を付けることが可能なところもある。これは一体どこまでやるつもりであろうか。進歩的な国では子供の姓をどちらにするかで揉めることも出るだろうし、兄弟の中で一人だけ違う姓にされ疎外感を感じる子供も出てくる。家族の絆が弱まる可能性があるというのは子供も含めてのことだと言える。

2020-11-24

anond:20201124211348

ワンオペ育児の解消にもなるし、親子関係の有無もDNAではなく当事者気持ち多夫多妻のみんなが父母)が基準になる。

伝統家族観とやらを守りたい保守は嫌がるだろうが、少なくともリベラルにとっては反対する理由がない。

2020-11-21

同性婚家族観

同性婚を認めろという勢力は反対派が伝統家族観に囚われていることを批判するが、ではなぜ伝統家族観である結婚という制度自分達が利用したいもしくは利益を得たいのだろう。伝統的価値観に自分達も囚われているのでは?

多様な家族観

結局、日本LGBT婚や夫婦別姓を推すのは西側諸国がそれをやっているからというそれ一点のみだよね。本当に多様な家族観標榜するのであればイスラム世界一夫多妻も推すべきでは?一妻多夫文化もあるけどこれは?年齢も9歳まで下げられるのでは?不倫OKにするべきでは?

2020-11-20

子供が贅沢品じゃなかった時代の方が少ない

子供ってのは自分の血を残すという意味で大昔から人間は、特に男は、力を持った後に多くの子供を残すといったことをしてきた。例えばチンギス・ハーンの子孫は全世界に1600万人いると言われているがこれは彼が自分のチンチンの力を誇示するために大量に子供を作ったことに由来する。そもそも現世の全人類ほとんどがアフリカ先祖を持ち遺伝ボトルネックがそこで発生したことを考えるとアフリカにかつて最強のチンチンが存在したことが分かる。数々の遺伝研究特に男系祖先において共通祖先を持ちがちであることを示しており、人類史はチンチンの歴史であったと言える。力を持った強いチンチンの戦利品・贅沢品として子供が作られてきた。全人類平等であるといった考え方は比較最近のものであり、みなが子供を作り育てるといった家族観比較的新しいものであって、子供人類史の中では贅沢品であったことの方が長い。資本主義がほころびだしかつてのように身分差が生じ出してきた近年、子供が贅沢品化していることはこの社会が以前のような状態に戻りつつあることを示している。子供が贅沢品であることは嘆いても仕方がなく動物であるが故の本来の姿なのだ

夫婦同姓よりも姓が変わることを想定しない社会が悪い

戸籍の考え方は家族の考え方であり姓というのは家族をまとめた記号である。男女が結婚した際に新たな家族誕生するため新たな戸籍作成必要となるのだがこの戸籍名前として姓を統一するというのが旧来ある考え方だ。

ここに男女の不平等存在せずこの新たな戸籍の姓として夫妻どちらのもの使用しても構わない。妻が夫の姓にすることが多いという実態を指して女性差別であるとする論は基本的に筋が悪い。離婚時に親権母親に行きがちなのは裁判官判断に依るので、これは司法男性差別であると言える。しか結婚時の改姓に関してはこの離婚時の親権問題のように他の誰かが勝手に決めたりそれを強制させられるということはなく夫妻となる男女双方の一致する意志により行われるのであり法的にもそうなっているのであるから差別であるという主張は無意味である女性が姓を変えがちだというのは文化的ものであり、悪いのは文化の方である夫婦同姓が女性差別であると主張する人達男性側の改姓を促す運動をすれば良い。

改姓時に改姓する側がほぼ全ての書類名前を書き直す必要があり大変に手間がかかるという問題もよく夫婦別姓が解消するものとして例示されることがある。これに関しては夫婦同姓が悪いというよりも姓の変更を要求する機関が悪いと言える。社会UXが悪いのが問題である。このUXの悪さに関して声を上げる人は少ないように見受けられる。

姓の変更によるアイデンティティー喪失問題とする人達もいるが、これも姓で相手を呼ぶ文化が悪いと言える。先述した通り姓は家族記号であるであるから、これを個人特定記号として使うことがそもそもの間違いであり、姓にアイデンティティーを見出すのがそもそもの間違いである。姓ではなく名があなたアイデンティティーである

姓の変更により家族を移る感じなのが嫌だという意見もあるが、この主張も筋が悪い。姓はそもそも家族記号であるのであり、新たな家族誕生するのであるから新たな家族記号が嫌であるというのはただのワガママしかない。夫婦別姓よりも夫婦同意した自由に新姓をつくることができるようにするとした方が戸籍の考えに合っているのではないだろうか。

戸籍の考え方がそもそも古いしおかしいという主張がある。これには一理ある。本籍地などといった完全に形骸化したものが未だに使われているのはIT全盛の時代にそぐわないだろう。夫婦別姓論を唱える人々は現在戸籍の拡充ではなく、戸籍の基本となる日本における家族のものの考え方にチャレンジしなければならない。夫婦別姓反対派が夫婦別姓は家族破壊であるとし反対しているのに対し、改姓後の書類手続きの面倒さのみでこの制度の改修を要求するのは筋が悪いと言わざるを得ない。なぜ夫婦新姓でもなくなぜ夫婦別姓にこだわるのか。なぜ改姓時に手間を要求する社会を責めないのか。

夫婦別姓に関しては日本立法制度に起因する問題もある。例えば自民党夫婦別姓に反対であり、自民党を負かしたい野党国民に人気のある法案を用意する。私達の党は夫婦別姓を支持しますという宣伝をして票を集める。問題なのは日本にはまともな野党が一つもないことだ。仮に夫婦別姓を支持するから野党投票して野党が勝ってしまうととんでもないことになる。自民党危険左派の考え方であるとして夫婦別姓を切り捨てるのにはこのような背景もある。夫婦別姓は進めたいが野党には勝ってほしくないといった人達野党投票しないため、結果夫婦別姓の実現はいつまで経っても実現しない。アメリカではpropositionに投票することが可能であり、法案ごとに住民投票で可否決することがあるが、日本でもそれをやれば良いのではないかこちからの攻め方もあろうになぜ手続きの面倒臭さや多様な家族観などといった点で攻めるのか。夫婦別姓に反対する人を古いとか頭が悪いとか決めつけたところで争いが起きるだけで何も変わらない。

2020-11-18

夫婦別姓を突き詰めるとマイナンバーでの個人識別になりそう

田中太郎さんと中川花子さん結婚して一郎くんという子供を授かった場合

[田中|中川]太郎さんと[田中|中川]花子さん、[田中|中川]一郎くん、すべての組み合わせが

少なくとも戸籍家族である必要がある各種手続き上では家族だと正しく認識される必要がある。

マイナンバー用途法律制限されてるようだから、突き詰めていくと

家族での利用を前提としたサービスなんかは維持が難しくなるかもしれないね

俺は自分の家庭を持つつもりがないか対岸の火事として興味深く見てられるけど、

夫婦別姓真剣議論してる人たちはその影響範囲をきちんと認識してるのかな?

影響範囲がとてつもなく大きいし、都構想の投票にかかった費用なんて鼻で笑うレベルコストがかかると思うが

それでも実現するべきものなのかな?

夫婦で同じ姓を名乗る必要があるとは思わないし、夫婦別姓強硬に反対する人達の掲げる「家族観」には反吐が出るけど

夫婦同姓を前提に高々と組み上げられた仕組みを全て綺麗に解きほぐして組みなおす努力を誰がするんだろう?

夫婦別姓必要性を説いてる人は、その仕事自分に降りかかってきても「夫婦別姓必要だ」って主張を曲げずに

その仕事をやれるのかな?自分仕事じゃない、って逃げるのかな?

夫婦別姓ってのは低コストで実現できるならもちろん諸手を挙げて賛成するけど、

実現のためのコストが高すぎて議論にすらならないレベルだと個人的には思ってる。

総務省マイナンバー普及のために一人当たり5000円配るような場当たり的な施策じゃなくて、

こういう方向から扇動すりゃいいのにと思うけど、総務省人事権握ってる政治家夫婦別姓反対である限りは

無理な話なのかな。

2020-11-14

anond:20201114110337

保育所整備に回すってなら別にいいと思うけどな

自民党が言うところの伝統家族観にあてはまらない共働きには、専業主婦じゃない罰を与えるってか。

専業主婦は既に「共働き家庭が享受してる育休手当や保育園学童費用の補助が一切無い上に

共働きしたいと思っても保育園等の優先順位が低い為に都心部では実質不可能」という罰を食らいまくってるんだが…

2020-10-15

anond:20201015132403

みょーな家族観無くならないと無理だろ

サマウォ>雨と雪>バケモノミライってどんどん世間とズレてってる

サマウォのラストすらアレだったからな

2020-09-17

入院中、「家族のみ」の面会制限で姉が拒否された。

先日出産して、今は入院中。

コロナ禍の今、面会には「家族のみ」の制限が掛かっている。

入院初日、手伝いに来ていた姉と姉の子(私の姪)が面会に来た。

そしたら産院のスタッフが「面会は基本は祖父祖母までとしているので次は控えてほしい」というようなことを姉に伝えて注意をしていた。

かに突き詰めれば姉は別世帯で、書類上は家族では無いのかもだけど、それなら面会制限に何親等までとか祖父祖母までとか明記して欲しいし、コロナとはいえ厳しすぎないかと思う。

身動きの取れない私のフォローする人員必要だが、その人員親族内の身軽な人が来るのはおかしくないだろう。

里帰り出産のため、夫に洗濯物の対応を任すのは厳しいし、母も現役で仕事をしているのでできるだけ負担を増やしたくない。

そこでパート時間の融通が一番効く姉が手伝いにきたというわけなのに、それを拒否られては今後私が困ってしまう。

幸い元々姉の手伝いは2日間のみの予定で、母が時間自由が効きやす仕事だったので調整して来てくれている。

だがそうじゃなければ入院洗濯して回す予定の衣類が洗えず、またその他差し入れも持ち込めなくなるため、入院がままならない可能性もあった。

産院側はそこまで頭は回らないのだろうか。

面会を許可している以上、ただ産婦と子どもの顔を見にくるだけでなく、当然そういう入院中の手伝いをしていると考えないのか。

もちろん手伝いであるとその場で反論すれば許可していただろうが、面会拒否をする前に確認すべきだろう。

さら感情論を言うならば、家庭状況に関わらず「祖父OK兄弟は不可」と強いられたことに腹が立ってしまう。

私の父は幼い時から別居していて、親交自体はあるが、数えられるほどにしか会ったことはない。

からすると実の父なのに、正直会社の上司のが喋ってる量が多いくらい、ほぼ知らんおっさんなのだ

そのおっさんは当日は別の県で趣味に勤しんでいたし、入院中も面会に来る気配は当然ない。

だけど今更だし特にそれを責める気もない。

なので私としては出産というライフイベントに人数制限が掛かるのなら、よく知らん父より、半生の苦楽を共有した姉の優先度をあげたいのだ。

そんな細かい事情、産院は知ったこっちゃねぇだろうが、私にとっては家族観の根幹となっているデリケートな部位なのだ

特殊事情である自覚はあるので表立って腹を立てることはしないが、雑に扱われると心にすごくダメージが入ってしまう。

例えば姪っ子が騒がしかったとかで遠回しにそう拒否られたとかならまだ納得いく。

だがその日は姪っ子は病院といういつもと違う場の雰囲気にのまれ大人しかったし、厳しい状況下とはいえ家庭には人それぞれ事情があるのだから、産院側も大変なのは分かるけど、多少の融通は効かせて欲しいと思うのはわがままが過ぎるだろうか。

日にちが経って、姉(若い女性)が「家族のみ」と括られた対象者の中で、他の患者からみると友人と区別が付かず浮いていたなとは改めて思う。

また産院側からすれば、リスクを考えれば本来緊急事態宣言時のように全て面会不可にしたいところを、「家族まで」緩和してくれてるのだろう。

しろ感謝すべきとも考えられなくもないし、恨むべきは産院ではなくコロナ禍という状況なのだろう。

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コメントをみて追記

産院側が警戒するのもよくわかるけど、それならやっぱり事前説明をきちんとすべきと思う。

世帯が別クラスタ可能性があるのもわかるけど、同居一家だったら関係ないし、うちの場合は別居父が別クラスタになるから結局「祖父母は可」としたら感染リスクは変わらない。

家族定義なんて人それぞれなんだから感染を警戒するなら各々の判断にまかせず、尚のこと明記すべき。

最初から説明してればお互いに嫌な気持ちになることもない。

2020-08-27

anond:20200827152233

その夫婦観や家族観なんてのは文化の違いであって、いちいち突っ込む方がおかし

同じ日本でも九州東北全然違うのに

2020-07-27

anond:20200725215225

私も「子どもがほしい」という感情をほぼ持たないまま、30年近くの人生を生きてきました。

根本にあるのは間違いなく家庭環境で、親は苦労して私を育ててくれたけど、道具で叩かれたり蹴られたり、外に長時間出されたり、ひどい時は下着一丁で家を追い出されたこともありました。「今すぐ窓から飛び降りて死んでこい」と言われたこともあります生活の質に直結するから必死勉強したけど、幼い頃やはり子どもたちを木刀で殴っていたという祖父は、そんな私の成績を外で自慢していました。

一方で、子供学費を稼ぐためにパート先で苛められている親の姿を見て、子どもであることも親であることも、大きな苦しみであると学んでしまたことが、子どもをほしいと思わなくなった大きな原因です。小さい兄弟の面倒を見るのもそれなりにしんどかった。

今はこの親とほぼ絶縁しているけど、結婚して子どももつことは、私にとっては、成人してせっかく得られた自由を手放すことのように思えて、とても受け入れがたい考え方でした。私にとって、家族幸福経験ではありませんでした。

今は結婚しています。現時点ではDINKSですが、夫は子どもを持つことを希望しています

あなたが挙げられていたような理由(すべてに同意します)を述べて、交際を始めて早いうちに、子どもはほしくないと伝えていました。夫は、子どもをほしいと思う感情に疑問を持たないまま人生を歩んできた人でした。私は、この関係を続けるか、子どもをほしくないという結論を出して別れるか悩んだけれど、どうしても目の前の恋人と別れるという決断を下すことができなかった。

(この人の子どもがほしいと思えないなら、愛情が足りないから別れたほうがいい、と人様には言われたり……)

結局、「いつかは子どもを持つことになるのだろうな」という半分諦観のような予感を抱えつつ、結論をだせないまま結婚しました(本来なら、きちんと結論を出してから結婚のような一大事は進めるべきです。間違いなく)。私が折れて子どもを持つことになったとしても、このひとは家庭人として子育てにともに関わり、一緒に悩んだり喜んだりしてくれるひとだという確信けが頼りでした。

今は、「いつかは子どもを持つようになる」の具体的なタイミングも、見えてきた気がします。結婚を契機に実家と絶縁して、新しい家族を作るうちに、その延長線として子どものいる未来視野に入ってきた感じです。実家との絶縁と新しい家族形成を機に、自分人生の舵を自分でとる感覚を得たり、読書や書くことを通じて自分人生ネガティブ記憶も含めて)を振り返ったり、家族観を見直す契機が得られたことが大きいです。とはいえ、今でも子どもを持つ持たないの間で揺れたり(「二人で十分幸せでいられるのに」)、メンタル不安定な日には泣いたり、過去の極端な日には「相手子どもがそれだけほしいなら、子どもだけ産んで死にたい」と考えたこともありました。

育児漫画は見ないようにしています。やはりSNSSNS現実現実で、両者は必ずしもイコールではないなと最近強く思います

妊娠出産にまつわるトラブル支援、ありうる疾患、失職のリスク、失われる自由時間アイデンティティの変化、そうしたものについて、よく考えたり、勉強したりするようにしています(もちろん生まれてみないとわからないことばかりで、最後は賭けですが、覚悟がないよりはましかなと……どんな決断にもリスクはあると)。

子どもを愛せるか、自分の持つ疾患の遺伝可能性等々、感じた不安は必ず夫に伝えて共有してもらいます。夫は、自分子どもがほしいという理由について考えたことがなかったらしく、周囲の育児中の家庭に機会を見つけて聞いているらしいのですが、結局曖昧な答えしか返ってこなかったらしいです。色々話し合っていますが、たぶん生まれたらたくさんの「こんなはずじゃなかった」があると思います

ここまで、結局「子どもを持ちたくないと思っていたけど、なんとなく子どもを持つのだろうなと予感している女の話」で、何かしらのマウントや自慢に聞こえるかもしれません。不愉快にさせたらごめんなさい。どちらかというと自分に向かって、自分気持ちの整理のために書いてきた気がします。

あなた子どもを産みたくない理由のすべてに共感しますし、尊重したいと思っています。この先の人生で、無理に子どもを持つ必要はありませんし、一昔前に比べたら私達は自由意志の時代に生きているわけで、どんな決断だっていいと思います

あなたの持つ違和感不安や憤りに対して、「子どもを持たない」という選択ひとつの大きな解決策です。

子どもを持たないひとから税金をとれみたいなことを言い放つ発想には(税制上は事実そういう側面があるわけですが)、反吐が出ます。何もしなくたって私達みんな、社会の一員じゃないですか。

ただ、子どもを持たないことに対して理解のあるパートナーを見つけることや、あなた意見に耳を傾けてくれて、真剣な話し合いのできるパートナーを見つけること、別れ話をされるという今の相手の方とも、よく話し合うことをすすめます。別れ話をするにあたっても、できるだけ言語化して自分の考えを伝えること、相手にも自分意見言語化してもらうこと、などがあったほうがいいと思います(書き終わったあとで気付いたのですが、割とそういう感じでない方っぽいですね……すいません)。

えらそうなことを書いてすみませんあなた文章を読んで、同じことを考えているひとがいたと、とても共感しました。

2020-07-13

ポリコレ」と「政治的な正しさ」と「正義」を分けて使った方が良い時期に来ていると思う

おおむね、ポリコレ的にアウトとかポリコレ的にセーフみたいな話をするときには、その定義範囲を正確に捉えた方が良いと思う。

元増田が例示しているムスリムの例は大変示唆に富んでいて、「宗教的正しさ」を理由にした運動だったら、たぶんもう少し考える人が増えると思う。

ここでは「BLポリコレ的にアウトなのは事実」というのが、明らかでは無いと説明してみる。

BLポリコレ的にアウト」は事実か?

宗教的な正しさ」とすると、アウトかセーフかは宗教ごとの教義によるだろう。

自民党的な正しさ」とすると、(自民党の言う)日本の伝統的な家族観からはアウトかもしれない。

民主主義政治的な正しさ」とすると、多様性観点からはむしろセーフとして守られるべき対象かもしれない。

「(いまTwitter話題になっている)ポリコレ」とすると、自分はアウトだと思うが、全員が同意するかは疑問だ。

何言ってんだ?と思うかもしれないが、いま「ポリコレ」とは「ある差別存在したとして、それを追認もしくは強化、一方的見方助長するときには、積極的に止めるべきだ」という運動だと定義できるからだ。これがポリコレ棒などと揶揄される運動だ。

(いまの「ポリコレ」は、政治的に正しい言葉を、公文書作成する際に使うべきだ、政治家発言する際には利用すべきだ、という運動では無い)

ポリコレは、人類普遍の乗り越えるべき課題だろうか?

民主主義の正しさが世界を覆いつくすのが、本当に正しいのかは、大いに疑問が残る。

例えばこれが「ある宗教にとっての正しさ」を広げる運動であれば、かなりの人が眉に唾を付けて、そのうえで取捨選択するはずだ。

いまの「ポリコレ」は「ある文化圏にとっての正しさ」を立ち止まることなく広げ続けているように見える。これは大変怖いことだ。

はてブ受けする人物で言うならアラン・チューリングは、当時彼が所属する法治国家違法とされている行為逮捕されている。

そう、同性愛だ。少なくとも1952年のイギリスでは、同性愛違法だった。

違法なのだから、それは(当時のイギリスの)政治的には正しくない行為だ。

いや、例えば今まさに黒人迫害され、白人と同じことをしているだけで突然射殺されるのは間違っているだろう!と思うかもしれない。

自分もそう思う。

もちろん軽重は違うだろうが、日本技能実習生問題だと思うし、サウジアラビア同性愛違法とされている現状も個人的には痛ましいと思う。

ただ、それらはやはり違う問題なのだ

人種や肌の色によって差別することを許容しない」とするなら、

同じように「BLを正しくない表現方法」とすべきだ、とするのは、とても乱暴で、あいまい境界をもとに表現規制を行っていると思う。

表現規制はどこまで許容されるのか?

少し話題が逸れるが、個人的には「表現規制されるべきだ」という認識を持っている。

表現規制があった方が良い」と「表現規制は無い方が良い」という話のときにスッポリ抜け落ちがちな視点として、表現普通に規制されているという点がある。

例えば、マッツ・ミケルセンの出ていたドラマハンニバルといえば良いだろうか。アート観点から、美しい肉体を持つ人間を殺して紐で括り付けて芸術作品に仕上げる、というのは一般的には許容されないし、日本で発覚すれば普通に犯罪だろう。そういった表現方法規制されている。

きっと美しいだろうからと金閣寺に火を放っても捕まるだろうし、神々しいまでに美しいと言ったところで男子小学生ヌード撮影すれば犯罪だろう。既にしてある種の表現規制されている。

当たり前だろうと思うなかれ、同性愛普通に犯罪だった国は多いし、現在進行形違法の国もまだある。

自分の息子の上半身裸の写真撮影規制されるべきかどうか、日本において自明ではないだろう)

から思想自由だとしても、それを表に出す、現実世界に影響を及ぼす際の表現方法規制されて当然だ。

ただし、どこまで何を根拠規制されるかは、その時々の社会情勢によって影響を受ける。

(だから規制して欲しい派がロビー活動を行うのも正しいし、規制して欲しくない派がロビー活動を行うのも正しいだろう)

ポリコレ政治的な正しさと、自分の信じる正義

義を見てせざるは勇無きなり。

から自分の信じる正義のために活動することは、(その当人にとっては)正しいことだ。

自分の信じる正義が、たまたまTwitter上のポリコレ運動と一致しているなら、それをもとに活動することもまた、(その当人にとって)正しい。

ただ、その「Twitter上のポリコレ」が人類普遍の正しさかどうかは、一度立ち止まる必要があると思う。

ポリコレ」としか呼びようのない運動について共感したとしても

政治的に正しい」振る舞いが、どの国のどの政治なのかは意識すべき時期が来ていると思う。

無自覚に「これは正しいことだ!」とすると、まったく同じ理路で突然自分否定されることもまたあり得る。

別に矛盾のない聖人君主けが住まう国でもないので、あちらとこちらで一貫性がなくてもまた人間的だとは思うが、どこかで折り合いはつけるべきだとは思う)

そして同じように、みそもくそも大雑把にくくったうえで、「だからコレはクソだ」として無視するのもまた、誤っていると思う。

じゃあどうしろってんだよ!

純粋善意で、自分規範を教えなくては!という熱意を持った人はわりと自分の周囲にも多い。

そういう時、(相手が話を聞いてくれるときには)「その”正しさ”を、”正義”に置き換えても、まだ薦められる?」と聞くことにしている。

ポリコレ的にアウト」ではなく、「自分の信じる正義に則ってアウト」と言えるかどうかが、たぶんアクションに起こせることだ。

もしくはもっと広く「日本国民が信じるだろう正義に則ってアウト」でも「民主主義正義に則ってアウト」でも良い。

から元増田はひねくれているとは個人的には思うけれども、「自分の信じる正義としてBLはセーフ」「Twitterで言われるポリコレ的にアウトというのは、自分の信じる正義とは違う」と言い切って良いと思う。

私は「自分の信じる正義に則ってアウト」という言葉を「ポリコレ的にアウト」と言い換える途中にゴッソリと抜け落ちた部分が怖い。

「(自分の信じる正義であり、世界不変の正義でもある)ポリコレ的にアウト」と考えているとすると、とても怖い。

その世界には、自分のようなマイノリティの席はお情けで確保されているにすぎないと思っているからだ。

ぜひ、自分の信じる正義が、どの世界やどの政治体制の正義と同じだと思っているか、自問して欲しい。

そして、もし違う正義を信じる者がいたとして、彼ら彼女らにどう接するべきか、自問して欲しい。

自分と同じ正義を信じていないことが間違っている」と思うのであれば、私はとても怖い。

https://anond.hatelabo.jp/20200712223432

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