はてなキーワード: 個別的とは
主に少年漫画系を想定する話として、漫画やアニメのキャラが当然のようにヘテロセクシャルであるということを前提とするのはヘテロセクシズムであり、そのキャラがもしかしたら同性愛者かもしれないじゃないか、というのはわかる。
ただ現実的には性的指向が明かされるキャラなんてそうそういるわけでもない。彼氏彼女がいる、性欲があるキャラの描き方がされることもあるけど、そうでないことの方が多いくらいなんじゃないか。テクストだけを見るならば、むしろ多くのキャラが無性愛者だと考えたっていいくらいではある。
恋愛描写のないキャラに対して半ば強引に二次創作のヘテロものやBLや百合あるいは夢小説にするというのはセクシャリティの改変であり、厳に慎まなければならないことなのではないか。
先日、アセクシャルを矯正する薬を飲ませて恋愛をさせるという漫画がTwitterで炎上していた。これは別におかしなことではない。その人物、そのキャラクターのセクシャリティを尊重せず、無理矢理恋愛あるいは性行為をさせることなど以ての外だからだ。そのことは多くの人が批判点として共有していた。
しかし、そうであるならば二次創作として描かれる恋愛ものも同じなのではないか? そこに刃は向けられないのか。
別に例はなんでもいいが、カヲルくんとシンジくんでも、煉獄さんと炭治郎でも、五条悟と虎杖悠仁でも、その他無限のカップリングについても、そのキャラはゲイまたはレズビアンではないのではないか、場合によってはヘテロセクシャルですらないのではないか、という疑問は残る。メインキャラはともかくサブキャラになればなるほど恋愛描写なんてなくなるわけで、ヘテロセクシャルなのかどうかすら描写が皆無なんてのは珍しくもない。
もちろん、仮に性的指向であるからといって、相互の関係性を必要以上に縮ませる(はっきり言うと性行為をさせるエロ同人など)こともまたそれでいいのかどうかという問題もある。
ミスジェンダリングという言葉があって、トランスジェンダーやノンバイナリーに対して当人の自認するあり方とは違う性別で呼ぶことを批判する用語なのだけれど、それはゲイやレズビアンをヘテロセクシャルとして扱うことにも適用されるものではあると捉えている。このことは二次創作には適用されないのだろうか。
所謂ポリティカル・コレクトネスについて、私は重視しているのだが、そうであるが故に、それを推し進めていくと今まであった二次創作もまたどんどんキツくなっていく。インターネットにおいて二次創作・ファンアートは聖域に近く、その存在を認めない発言は極めて少数だ。二次創作が存在していいものとしてあることが明らかな既得権になっている。ポリティカル・コレクトネスを重視する人はしばしば批判対象の既得権(特権)を指摘するのだけれど、そういう人が、個別的なエロ同人などはともかく、二次創作そのものにまで批判を向けることは、意外に少ないようにも思う。フェミニストでありオタクでもある、というのは非常によくあることでもある。そのこと自体は別に問題ない、けれど、自分の持つ刃をどこまで適用するか、という問いはいつでも突き刺さったまま残るのではなかろうか。
今まで自明であったものがそれは抑圧だという批判に晒されるということはよくある。例えば所謂腐女子(この名称にも問題は多数あるわけだが割愛)の中での「ホモ」呼びもこの10年で漸減してきたとは感じるけれど、それと同じように、そもそもの前提としての性的指向の改変自体が好ましくないものなのではないか、という問いの声は、もう少し出てきてもいいとは思っている。
既得権者からは「二次創作は文化である」という反論が来るのだろうけれど、そんなのはセクハラは文化だと言っているに等しい、とさえ言うことができるのではなかろうか。既得権者はいつだってそれを自覚せず傲慢なままだ、というのはポリティカル・コレクトネスを重視する側ではよく聞く話でもある。
すぐに変わるとは思っていない。変化には長い年月がかかるだろう。ただ、自分の楽しんできたものは正しかったのかを問い直す作業は、どの分野でもあって欲しいとも思う。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
その自由主義的な流動性を高めるアプローチはセーフティネットが盤石で人々に受容されていなければうまく機能しないが、日本人は失敗を恐れドロップアウトである無職や生活保護受給者を蔑視しがちな空気を払拭しきれずにいる、ましてフリーターや派遣社員ですらそれを生む社会でなく当人を責める風潮があるから、純粋な自由主義思想、ひいては資本主義に厳密に準拠する政策を取ることは不可能であり、社会主義的なパターナリズム、介入による裁量的救済、つまり個別的な福祉政策を混ぜ込んでスマートではないやり方をして綻んだそばからせっせとパッチワークし続けていくことで「失敗」自体を誤魔化す道しか選べないのである。日本人には「裁量よりルール」の発想は不可能である。しらんけど。
とは言え、悟りとか涅槃とかそういうのについてあんまり期待をし過ぎるのもよくないかもしれない。知人に数年前に知り合った六十代の男性がいて、その人は真言密教への造詣がメチャクチャ深くて、僕は以前その人に「悟りっていうのは一体何なんですかね」という意味の質問をしたことがあったんですね。
更に続けて「やはり平穏というものが根本にはあるんでしょうか」と。
その知人の男性は少しばかり考えた後で、「例えば自分の命を捨てないと、ある子どもの命が助からないとするじゃないですか」、
「たとえば、そういう時になって自分の命をちゃんと捨てられるのが悟りなんですよね。だから、時にそれは平穏と矛盾していて、平穏を捨てる選択をしなければならないんですよ」と答えてくれたのでした。
この世には本当の苦しみというものがある。例えば、人間は拷問を受ければ簡単にぶっ壊れる。僕は、昔の中国のある女官が受けた拷問の話を、中学生の頃から心の中に時折反復するのが癖になっていて、その拷問の話は、「ああ、苦しみというものはこういうものなんだな」という素朴な考えを当時の僕の心に刻み込んだ結構辛い話なので、ここでは省かせて頂くんですが。ともかく、人の心というのは凄く脆いので、原理的には悟ろうが悟らまいが外部からの刺激によって簡単にぶっ壊れてしまう、そういうものであることは間違いないと思われます。
そんなこんなで、悟りっていうのははっきり言えば、現実的には全く役に立たない。しかも、基本的にそれを伝えることはとても難しいことなので、誰かにこうやって言葉にしようとしたところで、「ハアあなたは何を言っているのかね」と言われるくらいが関の山なのであって、正直なところ僕は今このテキストを書きながら途方に暮れているのです。けれども、それでもなお伝えたいんだけれど、それは結局「愛情を持つことによって、自分が自分から離れる」ということになるんじゃないかと思う。
勿論僕には個人的な問題というものが未だに幾つか残っていて、そういう問題というのは、悟ろうが悟らまいが打ち波のように押し寄せる。ひとしなみに、僕にもまだ問題というものが幾つか残っていて、そういうものから完全に解放されたというわけじゃない。例えば洗濯物が溜まっているのを何とかしなくてはいけない。
いずれにせよ、そういう個人的な問題を、個人的な方法によって解決する際に得た教訓のことを、僕は便宜的に悟りと呼んでいるのです。
僕の得た教訓というものは、全くもって一般論的な教訓に結びつかないかもしれない。何故ってそれはとても個人的な問題解決だったからで、つまり僕の得た教訓や問題解決の手段はあまりにも個別的過ぎて普遍性を獲得し得たかどうか定かでない、ということなのです。
それでも、やはり人は同じような結論に辿り着くんじゃないかなと。
個々の抱えている問題の種類や、あるいはその個々の問題に対する解決のアプローチが千差万別であったとしても、最終的な結論というものは大差なく、「愛情を持って自分が自分から離れる」ということに落ち着く気がするのです。
勿論、原理的には救いなどは存在しないのかもしれないし、僕が一時的に抱いた安堵は人生のどこかしらの時点で打ち砕かれるのかもしれない。
そんなことは僕にも分かっていて、今更取り沙汰する気にもなれない。
でも、結論から言えば僕の輪は一度はきちんと閉じたのだから、仮にもう一度輪が綻びたとしても、またいずれ気まぐれに、その輪が閉じる瞬間は訪れるのではないかと。そんなことを思うのです。
は成立しているけど
は成立していない。
なぜならマスクをしなければ飛行機を降ろされるというルールがないから。
三段論法で
小前提:機長の命令「マスクをしろ」→マスク拒否おじさん「従わぬ」
問題点は
①マスクをさせることが、飛行機を降ろすという効果を発生させる機長の命令として妥当なものか
②マスク拒否おじさんの行為が、機長の命令に従わないものと評価されるか
の2段階ある。
①はルールの解釈の問題で、今回のおじさんとは無関係に一般的抽象的に考えることが適当。
②はルールの適用の問題で、今回のおじさんの行為について個別的具体的に考えることが必要。
①マスクをしろという命令自体が一般的に妥当だと考える人は、②今回のおじさんの行為をどう評価するか、機長の命令に従わないおじさんの行為が問題だと捉える。
その過程では、おじさんの具体的な行動自体も評価の対象になる。
反対に、①マスクをしろという命令自体が一般的に妥当とは考えない人は、そもそも①の命令が問題だと捉える。
①の議論のときには、今回のおじさんの具体的な行動は一度除外して考えないと話がこじれる。
黒人は後ろに移動しろは①の問題で、黒人のAさんがその命令を拒否するのは②の問題。
①黒人は後ろに移動しろという命令自体が一般的に妥当だと考える人は、今は極めて少数であろうから、この場合は直感的に①の命令が問題だと捉える。
仮に①黒人は後ろに移動しろという命令自体が一般的に妥当だと考えるのであれば、②黒人Aさんの行為が問題だと捉える。
今回は、①マスクをしろという命令自体が一般的に妥当かという点について、賛成派も反対派もそれなりにいる。
賛成派は、①で止まることなく②マスク拒否おじさんの行動を問題視するだろうし、反対派は①で止まって考えるだろう。
それだけの違い。
自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。
自己肯定感が低い(とされている)人は生きるのがつらい。自分が失敗してしまったとき、壁にぶつかったとき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。自分がなにか行動を起こすとき、自己肯定感の低さが足かせになり、なかなか行動に移すことができない。そんな自分が嫌になり、どんどん消極的になってしまう。ひょっとすると、予想だにしない幸福が訪れた時でさえ、自己肯定感の低さがあだになり、それを素直に受け取ることができない。あるいは、実際にはそこまで不幸でもない現実と自己肯定感の低さとのギャップを埋め合わせるために、ついつい自傷行為や自分を傷つける媒体や人に走ってしまう。周りには自己肯定感の低い人が集まり、相互に作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。結果、生きるのがつらい。
逆に自己肯定感のある(とされている)人は、不幸や失敗にいちいち落ち込まずに、どんどん新しいチャレンジをすることができ、成功体験を積み上げやすい。経済的にも文化的にも幸福な友人や恋人に恵まれ、幸せな人生を送ることができる。つまり、自己肯定感を高めることができれば、今は不幸な人も幸せになれる。あらゆる問題(仕事面、恋愛、家族関係がうまくいかないなど)が、自己肯定感の問題に還元され、幸福に必要なソリューションです的な扱われ方をされるケースさえあるかもしれません。
果たして本当にそうでしょうか。例えば、自己肯定感の高い(とされている人)が、日々の暮らしで自分の自己肯定感の高さを認識することは少ないはず。呼吸をするときに空気の存在を意識することが無いように、ごく自然に存在しているものだと思います。逆に自己肯定感が低い(とされている人)にとっては、四六時中自分を縛り付けている呪縛のようなものかもしれません。そのせいで、個別になんら関連性のない事柄を自分の不幸な想像を駆使して結び付けてしまう。文字通り概念に縛られている状態といえるかもしれません。
実際には、自己に対する否定感情は、(人によりその頻度や強度は様々でしょうが)その時の環境や本人の体調に大きく作用され、瞬間的・個別的に発生するものです。単なる推測にすぎないのですが、おそらく瞬間的な自己否定の感情が習慣化してしまい、負のスパイラルに陥ってしまっている状態の人=自己肯定感の低いと認識してしまっているのだと思います。自己肯定感が低いことを内面化してしまうと、個別の事実を冷静に観察できなくなり、本来解決可能な問題に対しても自己肯定感の低さを理由に、適切な解決策を考えることができなくなってしまいます。
(私は精神科でもなんでもないのでいち素人の考えたことに過ぎないという前提のもと)もし、あなたが上記のような状態になってしまっているとしたら、取り組むべき課題は「自己肯定感を高める」という抽象的な何かではなく、自己否定の感情を覚える個別の事柄に対し、以下の順序で対処を試みることなのかもしれません。
2.その時の外的要因(人間関係とか仕事とか)と内的要因(体調とか心理状態とか)を把握する
6.日常的なセルフコントロール(体調管理や精神管理、瞑運菜眠など)を実践してみる
詳しくは知りませんが、上記は一般的に精神診療などで用いられる認知行動療法と同じようなもので、特に目新しさはありません。長々書いてきて、結局xevraさんと同じ結論かよ
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xevra 2020/07/27
運動、瞑想、睡眠、野菜を徹底してる人は自己肯定感と言う言葉そのものの意味が分からない。自分は自分、肯定も否定もない。ダメな所も良い所もあるただの人間だ。下らない概念に振り回される意味が分からない
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と言われるのも少し不満なので、一つ私の話をしようと思います。
私はもともと自分を自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。というのも、そもそも自分と他人の人生に興味・関心が薄く、そのためか、強く共感したり、感動するとか、ましてや人を好き/嫌いになるとか、(物心ついて四半世紀が経ちますが)これまであんまりピンときていなかったんですね。それって自己肯定感が高いのではなく、単に自己/他己に対する関心を失っているだけではないかと思ったのです。
その意味では自分を好き/嫌いになれる人というのは(一切の皮肉抜きで)向上心のある人なんだなと思いますし、他人の人生に深く共感できるというのは羨ましくもあります。もしかしたら、三人兄弟の末っ子でまあまあ放置されて育ったこともあるかもしれません。自分を嫌いになることだって、裏を返せば自己愛が豊かな証拠だと思うのです。例えば、人が問題に直面した時に自己否定の感情を覚える現象は、私から見れば、(自己愛が豊か/理想が高いが故に)自分が劣った人間だということを直視できず、現実と理想のギャップを埋めるために、自己評価を下げることで帳尻を合わせるという、一種の防衛反応のように感じます。
壁にぶち当たった時に、自己に理由を求めるのは自分を大切にする心が備わっているからです。私のような自分や他人にいまいち興味の持てない人間は、環境や他者、自分の行動をシステマチックに整理して対策を考えます。ふわふわと物事が自己の問題を離れ、幽体離脱し、神の視点から考えている感じ。故にあまり落ち込んだりしないので、切り替えが早いとか仕事が早いといわれることもありますが、(反面無自覚に人を傷つける言葉を使ってしまうこともしばしば)本当に良い仕事、人の心を動かす言葉を紡ぐことはできないのではないか、と最近思います。
なのでもし、あなたが自己肯定感の低い人間だと自分を認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。自己肯定感の低いという概念を内面化せずに、目先の現象を都度観察し、一つ一つ対処を考え潰していくことができれば、とても感情豊で理想の高い人生をおくれるはず。そんなふうに私は考えています。
ゲーム依存症とかゲーム規制をきっかけにいろいろとぼんやり思ってしまう。
ビデオゲームを集中してやった時期もあるが、
きっかけではあるのかもしれない。
集中してやっていたってのをやや詳細に書くと、
好きなゲームの関連作が出たら、一通りやるまで集中してやるとかが多い。
また、特定のゲームをやらなければ俺の人生はより悪かったんじゃないかとも思う。
中一の前半くらいはほぼ毎日メガテン2やファイアーエムブレムのエンディングを見ていたと思う。
(メガテン2のラスボスは現在も現実で信仰されている対象の神話的エピソードにおける振る舞いと
そのキャラを毎日やっつけて呪われていたことが現在の悪い状態の原因なのでは、
とか調子の悪い時に一瞬思う。精神病にありがちな症状の原因の説明だと思う。)
二次創作を批判する記事が話題に上がっている https://funny-creative.hatenablog.com/entry/20200106/1578318490 ので所見を述べる。(主観的観測にのみ基づいているのであまり価値のあるものではない)
まず私としては二次創作は基本的に容認されるべきだと考えている。
理由はいくつもあるが、まず、二次創作批判派の多くは自身の犯罪行為を正当化したいだけだ、と思えるからだ。例えばなんJなどで同人関連のスレがあると、違法ダウンロードを公言して憚らない連中が、「二次創作は著作権違反だから割る。オリジナルにはちゃんと金払ってる」などと頻繁に書き込んでいる。また、コミケ徹夜組インタビューでも、インタビューされている徹夜組が、コミケは二次創作の温床だから徹夜を批判される謂れはない、などと宣う。さらに同人作家のRed Light氏 が自身の作品の著作権侵害に対し遺憾を表明したところ、「でもお前も著作権侵害(二次創作)してるじゃん」という旨のことを言われた、なんてこともある。
そうした難癖を受けて、じゃあ二次創作を辞めたらどうなるかというと、明らかに誰も得しない。難癖付けている連中がそういいながら二次創作作品を入手していることから考えても、彼らが求めているのは規制ではなく自己正当化に過ぎないのだ。事実Red Light氏は二次創作を辞めたが、彼のオリジナル作品は依然違法にアップロードされ続けている。
次に、二次創作の風潮が嫌いだから作品そのものから離れる、という説。これは理解できる面とできない面がある。確かに公式設定を無視し、売れることだけ考えて量産型エロを乱造している連中は不愉快だ。しかし、だからといってそれで元の作品から離れるというのが分からない。自分も東方キャラを巨乳にしたり大人にしたりする連中が大嫌いだが、逆にそうした連中がいるからこそ、ならば自分が公式通りの外見設定で描こう、と思えるのだ。二次創作の風潮が嫌いだとしたら、それに反発してカウンターとしての表現をすべきだ。それをモチベーションとして創作活動に入ることだってあるのだ。
そして、元記事の、二次創作のせいで作家が育たないという話。商業作家を志す人が少ないというのは色々な事情があるのに、二次創作だけのせいにしているのがおかしい。私はむしろ、技術革新によって昨今のレベルが上がりすぎ、プロになる敷居が高すぎるせいだと思う。実際その壁を乗り越えた同人作家からプロは何人も出ているわけだし。そもそも一次二次隔てなく同人の規模が大きくなることは、クリエイターの質を高める点でいいことだろう。これは創作に関係ないが、後輩にとても精力的に学会発表をする人がいた。彼の発表は粗が目立つし、同じ発表の焼きまわしでしかないものも多かったが、しかしそうして実績を積んだことで現在も研究者として活躍できている。未熟でもなんでも発表することは良いことで、同人イベントはその受け皿になるのだ。
だいたい、アニメでもなんでも見ていて気に入ったキャラがいたら描きたいと思うのはオタクの性ではないか。そこに無駄に高い意識をもって二次創作は表現として劣っているなどと峻別する意味が分からない。
一方で、批判されるべき二次創作というものも確かにあるだろう。公式が二次創作に規約を設けており(sssグリッドマンとか)、それに反するものだ。対して東方なんかは自由な創作活動を奨励しているので、批判する根拠が無い。したがって一括りに二次創作を批判することがそもそも無理がある。そのうえで二次創作が容認されている作品に関して批判したいのなら、全体的な規制を呼びかけるのではなく、作品そのものを個別的に批判すればよい。私だってパチュリーを公式通り幼く描いたら、「パチュリーはむちむち巨乳お姉さんでないとおかしい」とかいう糞リプが来たことがある。糞だとは思うが個別に来ただけまだマシだ。
でホッテントリした回答なんだけれど
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463546664
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です
……
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)
近年クールビズが普及し、夏場はネクタイ不要とする会社が増えている。当然だ。首を締め付けるネクタイは苦痛な上、着けると会社の業績が上がるわけでもない。
それと全く同じことがパンプスにも言える。KuTooは、「不要な苦痛を強制するのはやめよう」というだけの話なのだ。
言いたいことは以上だ。ここから先は補足なので、納得いかない人だけ読んでもらえればいい。
・そもそもKuTooとは
女性がパンプスを履くことを強制する職場がある。その強制をやめようという動き。
甲が開いたデザイン→脱げないよう、硬い素材で足に密着
よって、つま先に体重が集中して痛み、爪が隣の指に刺さって流血し、こすれたかかとの皮がベロリと剥ける。我慢して履き続けると外反母趾や腰痛といった一生モノの健康被害につながる。
「足が長く美しく見えるので、フォーマルな場ではパンプスがマナー」と言われているが、これがおかしい。ヒールのない靴を履いて仕事をこなす男性を見ればわかる通り、仕事に足の美しさは全く関係ない。
パンプスが「社会通念に照らして業務上必要」な職業は、恐らく女王様だけだ。
しかし、スーツや制服を着るフォーマルな職場で「女性はパンプス」の服装規定はザラだ。明文化されずとも実質義務付けられている、というケースもある。
「フォーマルな場ではパンプスがマナー」の社会通念を変えなければならないから。社会全体が変わらない限り就活生は傷だらけの足でパンプスを履くし、フラット靴で冠婚葬祭に出席した女性は白い目で見られる。もはや職場への個別的対応では足りない。
そうだと思う。しかし「男だって苦しいから女も我慢しろ」は理に適わない。詳しくはこちら→https://anond.hatelabo.jp/20190604212423
・合うパンプスを買えばいい
前述した通り、パンプスは構造自体に無理がある。辛うじて我慢して履ける質のいいものは値段も高くなりがちで、私の場合3万円〜。そもそも履くメリットがないものにこんな無理を強いるべきではない。
もちろんパンプスに苦痛を感じない女性、痛くてもパンプスを履きたい女性もいる。しかし、KuTooはそんな女性を否定していない。履きたい靴を選ぶ自由を全ての人に、という話だ。(業務上適切な範囲で)
パンプス強制のバイトをしていて、これから就活でもパンプスを履きまくらなければならない身として、KuToo批判に腹が立って書いてみた。
まともに日本語を理解できる人ならば、これを読んでKuTooに反対する気が失せただろう。パンプスに限らず、不要な苦痛を仕事で強制するのは馬鹿げている。この記事でワガママだ、我慢しろ、の声がひとつでも減ってくれたら嬉しい。
【追記】06/06 22:07
https://anond.hatelabo.jp/20190606174655がホッテントリに上がっていたので読んだ。おっしゃる通りパンプスは縦幅だけでなく横幅(ワイズ)も重要で、ワイズを知ることで楽になる人も多いだろう。
パンプスに苦しむ私はもちろん計測済みだが、特殊なサイズだったため履けるパンプスが今だに見つからない。オーダーメイドを考えているが、どうして仕事のためにこんな苦労をしなくてはいけないのだろう。
2019年5月初、「不登校小学生YouTuber」というのが話題になっている。
あくまで仮想の人としての「不登校小学生YouTuber」がいて、その人そのものの「勉強なんて不要」というのを軸とした思想は、
かなりの部分、親の思想の影響を受けている(レベルが高ければ、洗脳)ということが、メディア等でわかっているとする。
そしてその仮想の「不登校小学生YouTuber」が、(またこれも仮定のシナリオだが)大人になったときに
芸能活動がうまくいかず、勉強もしてこなかったので就職口が少ない状況に陥ったとする。
そこでその人が、
「小学生のとき教育を受けさせる義務が履行されておらず、かつそれが一時期公然の事実になっていたため被告は容易にその事実を知れる状態にもかかわらず、(存在した権限を行使せず、もしくは立法不作為により権限が与えられていなかったことにより)是正がされなかったため、教育を受けていれば得られたであろう逸失利益について損害賠償を求める」
といって国や自治体を訴えたらどうなるだろうか。
類似判例があるかどうかは調べていないのだが、それなりに国等は負ける可能性は存在するのではないか。
話としてやや似ていると思うのが、15歳未満の人に対し(怪我とかで)輸血が必要となったとき、その親が宗教的事情(エホバの証人など)から輸血を拒んだら、親権を停止して輸血をするという、日本での前例。もし個別的ケースで、要輸血対象の15歳未満の人が、予め、輸血に対し宗教上絶対に拒んでいたということがわかる明確な証拠が存在していたとして、それでもなお親権停止で輸血をしたとしても、国等は裁判ではおそらく負けない。
結局、15歳未満とか線引きをどこで?という話はあれど、いわゆる子どもの年齢において、自由意志は大人のそれほどには尊重されない。なぜされないかと言えば、パターナリズムの考え方なんだろうと思われる。
そしてそのパターナリズムの考え方を敷衍したとき、国等は本論のケースにどこまで対応すべきなのか、というのは社会として論点になってよい。
既婚者のみなさま、助けてください。
付き合っていた頃から喧嘩もすることはありましたが、それも半年に一度程度で、それなりには仲良くやってきたと思います。
けれど、最近、生活の上で些細な点が気になって喧嘩をすることが多くなりました。
原因は本当に些細なことで、
食器を戻す位置だとか、靴を揃えないだとか、食器を洗ったあとシンク周りに飛んだ水を拭きわすれただとか
お互いに気になる度に、指摘したら喧嘩になるのではないかとは思いながらも、なぜか許せなくなって言い合ってしまいます。
声を荒げることはありませんが、喧嘩する度に関係にヒビがはいっているように(恐らくお互いに)感じます。
妻のことが嫌いになったのではないと思いますが、これまで許せていたことが許せなくなってしまいました。
それは多分、妻の方もそうなんだと思います。
どうしたらいいんでしょう。
誰か助けてください。
妻に見つからないように急いで書いたので誤字、文章がおかしな点はご容赦ください。
追記2
そうすれば楽なんでしょうけど、他人同士が住む上で避けて通れないものなら離婚しても、(もしあるなら)次の相手とまた同じことを繰り返すだけで意味ないですし、何より妻のことを嫌いになったわけでは多分ないのです。
夫婦として暮らす以上仕方のないことなのか、何かしらの手段で解決した体験談などがあればお聞きしたかったのです。
その中で込み入った話のできる友達となるとほんの1、2人程度になってきます。
全員ほとんど新婚みたいなもので、しかも年明けで仕事も忙しい中、向こうからすればくだらない相談に乗ってもらうのは気が引けたのでここに投稿しました。
回答ありがとうございます。
個別的なことではなく根本的な話をすべきことは分かるのですが、(私も恐らく妻も)何をどう話せばいいのかわからない状態です。
という論法。インスパイアされたのは、しろくま先生の記事『どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠』 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20181220/1545290310
しろくま先生のエントリでは、「A = タバコへの嫌悪, B = 児童相談所設立反対運動, X = 社会基盤の変化」といったところか。
やはり、ネットで議論するのは困難が伴うのだ。エントリは明らかに X について話している(ついでに言えば、A, B, C, D,....と並置させるものをたくさん挙げている)。多くのコメントは、A についてのみ議論しているし、A と B が違うという主張をしたがっている。
当然、A と B は違う(A - A∩B ≠ φ, B - A∩B ≠ φ)。違うが何らかの共通点があり (A∩B ≠ φ), その共通点は、別の社会構造の現れである可能性が高い(∃x x |= A∩B)。これを敷衍すると、もっと様々なことが現れるのではないか?(∃y x |= y)というのは、抽象化・一般化 といってもよい。
一般化した社会問題を扱うには、タバコや児童の声などというのは、ブクマカには身近すぎて踏み台にされたくないんだろうな。まあ、それ自体個別的な解決を必要とする社会問題であることには変わらないのでその気持ちはわからんでもないが、そう思うなら先生に突っかかるのは頭悪いとしかいいようがない。あなたとは次元が違う問題意識について話しているのだから、だまってろよ、としか思わない。
経験人数が20人を超えたので、ヤリチンと言っていいでしょう。
自分の観点からすると、世の中に蔓延っている恋愛術は間違っているし、むしろ真逆だろうと思うのです。それを忠実に守っている人って、はっきり言ってモテないだろうなぁ、と。
具体的に言うと、「真にモテるコミュニケーション」で重要なのは以下の3つです。
・いきなりタメ口
・いきなり所有物扱い
つまり一般的に言うと「やなヤツ」にならないとモテません。それを書いている恋愛術が何と少ないことか!
先日、ぼくは美大の学園祭で女子大生をゲットし、そのままトイレに行って即尺してもらいました。
そのときにぼくが彼女になんて言って口説いたのか、時系列順に書きます。「これは効果的だったな」という部分を抜粋するので、参考にしてください。
・「(髪が半分緑色、ハムスター顔の可愛い子を見つけ、展示物を見ている彼女に近づいて)学生?」
・「2人で見て回ろうよ」
・「(作品について話して)お前、どうせわかってないっしょ?(と戯れ合う)」
・「(ガラスに映った彼女を指差す)ねえ、あそこにひどい作品あるんだけど(とまた戯れ合う)」
・「(ひとしきり戯れあったあと)うそうそ、可愛いよ(と頭を撫でる)」
・「(そのまま頭を引き寄せて)におい嗅がせて(とそのまましばらく抱きしめて、おもむろにお尻を鷲掴み)」
・「(耳元で)ねえ、2人でトイレ行こう?」
と、こんな感じです。上記の時間は大体1時間半ぐらいです。その後はいちゃつきながら学園祭を回って、分かれました。ちなみに名前も言ってないし、連絡先も交換してません。
個別的なシチュエーションは別ですが、だいたい上記のような感じで20人を口説きました。
大事なのはすでに女の子がこっちのものになっているかのようなスタンスです。
どうしてこのことを誰も書かないのか、それはやはりこんなこと言うと人格を疑われるからでしょう。女性もそういう男が好きとは、口が裂けても言えません。
しかし、現実は違うのです。女性は礼儀正しく接するよりも、上記のような「いきなりタメ口」「いきなり彼氏ヅラ」「いきなり所有物扱い」で接する方が、楽しそうにしているのです。