はてなキーワード: 積極的自由とは
ナショナリズムの定義がよくわからんからナショナリズムと、個人の権利との対応がわけわからんことになってるぞ。
ホッブスの「万人の万人に対する戦い」と消極的自由と、積極的自由の話ぐらい踏まえてるよな。
個人の自由をフルで認めると権利同士の衝突となるから、共同体に一部権利を預けて衝突を回避する。共同体のことをナショナル= 国 全体 または 国家 に属するとするならそれもよかろう。
君の言う左派ののナショナルな団結と、右派のナショナリズムを前提としてその権利を認めるという話の違いはないように見えるがな。
その上で、「「縛りや邪魔がない」という自由」を指向する消極的自由主義と「「自分の意志で好き勝手にできる」という自由」を指向する積極的自由主義のどちらを取るかだ。
消極的自由主義は金持ちが好き勝手できるということで強者寄りで右翼とも言えるが、もはや右翼左翼なんて対立校は邪魔なだけだ。
これ去年も見た増田(anond:20210505162132)じゃん。でも丸コピかと思ったら結論部分変えてんのね。変わった結論には賛成。俺も「女を男並みに自由だけど粗末に扱う」方向で行くのがいいと思う。これは去年レスした通り(anond:20210505191016)。
その上で、重箱の隅として。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
これはまったくフェミニスト側の言い分が正しい。国や社会が個人に過剰な口出しをするのは控えるべきで、可能性を狭める方向の「保護」や介入は言語道断だ。
だから、コロナ禍で女性の自殺率が上がったと騒がれていても、なお男性の方が多く自殺しているのだから、女性の自殺率の上昇は国や社会として気にすべきではない(男女平等に向かっているだけ)ということになるはずなんだけど、なぜかフェミニストはこれに騒ぎ立てたんだよな。あいつらわけわからん。
(男女問わない包括的な自殺防止プログラムはあってよいという意見もあるかもしれないけど、著名人の自殺報道に関してWHOのガイドラインとやらを振りかざして表現規制しようとしてくる連中が大勢湧いてくる現状ではどう考えても過剰な自由の統制にしかならないので反対。経済の好転とか、闇金の取り締まりとか、学校教員を増員して各学級に副担任を必ず配置するとか、学級を固定せず流動的にすることでスクールカーストの発生を抑止するとか、そういう間接的に自殺を減らす方向での対策を行うべきだ)
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
個人が何を警戒するかはそれこそ自由なので、男を警戒する女がいてもよい。もちろん、それに対してこちらが配慮する必要もないので、男は堂々と夜道を歩けばよい、というのが俺の結論。
俺は夜道で前を歩くのが男か女かで対応を変えたりしない。向かっている方向が同じならそのまま後ろをついて歩くし、歩くの遅いなと思ったら追い越すし、目の前でエレベータが閉まりそうになっていたら「待ってください」と声をかけて同乗しようとする。これらはすべて前を歩くのが男なら当たり前のことなのだから、女に対しても同様の対応をするだけだ。
そこで女側の言い分を聞いて「怖がらせてしまうと申し訳ないな」などと思うのがアホらしいと思う。何を怖がるかは個人の勝手だが、普通に歩いていただけで怖がられたとしても怖がられた側に一切の倫理的責任はない。「私は青いシャツを着ている人が怖いんです」という弱者がお前の街にいたら配慮するのか? バカバカしい。そんな感情は怖がる側の責任でどうにかしろ、以外の言葉がない。
なので、
私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っている思想なので、保護よりも自由、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
という結論には大賛成だ。俺は男女平等を強く信じている。女は男並みに扱われるべきだ。一人前の人間に対する過剰な保護は要らない。もっと自由で平等な社会にしていこう。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これは、男性の方が不安や心配事が少なく、お節介な干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
しばしば指摘される中高年男性の自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分の苦痛や不安を認識する能力を社会に破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。
他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキングや海釣りや森林浴を想定してください)
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。
この論法は「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性のセルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズムと弱者男性論は真っ向から対立しています。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
今までも男性差別については、男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨なセクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、男性差別の根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係や恋愛や経済やジェンダーロール面の困難や、弱者男性の存在自体が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性も女性くらいに保護する方向と、女性も男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。
細かな調整が必要な問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。
あくまで私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性もケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります。
本エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!
【追記】
母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。
『男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります(anond:20220909191646)』
元々、表現の自由といったらナチスドイツのSSやソ連のKGBがやったみたいに国家から弾圧されるものだった。だから、表現の自由は一般的に消極的自由に分類されてそれに基づいて立法や議論がなされてきた。
でも今は状況が変わりすぎた。
今も上記のような古典的な表現の自由の侵害はあるし、起こりうる。でも、今の民主的と言われる国々ではこれらよりも強力な私人による表現の自由の規制の方が遥かに危険性として高い。
例えばクレジットカード会社が決済を拒否すれば、インターネット上のプラットフォームは立ちいかなくなるし、GAFAを敵に回したら対抗出来る人などいないだろう(国レベルでもかなり厳しい)。
現にトランプは元アメリカ大統領の大富豪という圧倒的強者だが、GAFAやTwitterから締め出された結果ほとんど表舞台に現れることができなくなってる。
こういう私人間での規制のやり合いが激しくなってきてる現状で国家からの規制にばかり怯えて、それしか議論しないのはさすがに視野が狭すぎる。
特定の強者や大企業が自由に表現を規制するのも経済活動の自由だと言って認めるならそれも1つの立場だろうけど、表現の自由は国家が侵害するものだと盲信して国家が関係しないところで特定の強者や大企業が表現の規制をおこなってること自体を認めないのは現在の世界の分析としてあまりに稚拙すぎる。世界恐慌直後に闇雲に自由主義を盲信して何も対策をしなかった政治家や経済学者の二の舞になるぞ
正直俺は表現の自由は既に消極的自由の枠を超えて積極的自由の枠にも入りつつあると思ってる。俺はこれに対してどうやって対策すればいいのか、そもそも対策するべきなのかは分からないけど戦前日本が憲兵を使って取り締まるみたいな古典的な表現の自由を考えるだけの時代はもう確実に終わった。
これについて、哲学でも憲法学でもなんでもいいからこの手の問題に触れてる書籍とかがあったら読んでみたいから何か知ってたら教えてほしい。
おバカちゃん!マルクスはソ連と中共をみたらブチ切れするよ。連中は、ステップを省略したから。ボリシェビキが勝ったけど、ボリシェヴィキの語源は「多数派」から来ているけど、「少数のエリートが多数を率いる」なんて連中が「左派本流」ではありません。だって少数派が、主流なわけ無いじゃん。歴史の勉強不足だよ。
だから、政府機関が私企業の社長を制約する。結果的に自由になる状態を目指す積極的自由主義はそのようにして多数の人間の自由を狙う。
ジャック・マーかよ。同じことをザッカーバーグがリブラでしようとしても、公聴会でいじめられるぐらいで、逮捕監禁までしてない新自由主義のが、良いと思うがね。
右翼本流はもともとケインズ主義だったが、1970年代のオイルショックや外貨借金による輸入困難など、単純な財政や税制では通じないインフレが起きた。だから、消極的自由主義の新自由主義に転じた。
ダウト。ネオコンと新自由主義の差は「大かな政府」を目指すか否かだ。日本においても右翼本流は、つまり保守は、大きな政府を良しとしているから別物ですよ。
これらを踏まえて、どのような制約が、結果的に自由になる状態をなせるかは考え続ける必要がある。ケインズ主義ベースで、資源確保や産業育成と産業の段階の科学振興を視野にいれることが解だと思うけどね。
ばーか。もうこの国に「確実に投資して儲かる公共投資」なんてないよ。例えば黒部ダムみたいな、明らかに入力に対して、リターンが見込める公共投資先なんてないから FIT のように「再エネ賦課金」という犠牲を国民が払わないといけないじゃないか。かんたんに「資源確保」なんて言うけど、投資先が履行をするとは限らないじゃないか。民族自決をたてに反故されることばっかじゃないか。
権力者というのは政府機関。金持ちは私企業の社長。そのうえで政府機関がどのような法律を決めてどのような行動をするかということ。
消極的自由主義は、政府機関の関与をなくすということだが、その下では私企業の社長が強くなる。
だから、政府機関が私企業の社長を制約する。結果的に自由になる状態を目指す積極的自由主義はそのようにして多数の人間の自由を狙う。
そのうえで、政府機関がどのような成約をすれば結果的に自由になるかということ。例えば税金や法律や財政政策な。
左翼本流はもともとマルクス主義だったが、マルクス主義が崩壊した。
その上で経済に解を持たないから、経済と明後日の方向ばかり見るようになって多数の国民が貧困に落ちることとなった。
右翼本流はもともとケインズ主義だったが、1970年代のオイルショックや外貨借金による輸入困難など、単純な財政や税制では通じないインフレが起きた。だから、消極的自由主義の新自由主義に転じた。
しかし、一度大規模経済危機を迎えたら永久に不景気を続けるし、設備研究投資もしなくするし、儲かる前の科学も近視眼的な視点で破壊して、むしろ経済衰退につながっているのが今。
これらを踏まえて、どのような制約が、結果的に自由になる状態をなせるかは考え続ける必要がある。ケインズ主義ベースで、資源確保や産業育成と産業の段階の科学振興を視野にいれることが解だと思うけどね。
「政府が誰かの自由を制約して多数の自由を守る」であれば積極的自由主義だ。そして社会主義でもあり、純粋な自由主義である消極的自由主義ではない。
ちなみに新自由主義ですら金融による政府の制御はあるから、自由放任主義に比べたら社会主義とも言える。
積極的自由主義であれば社会主義とも言えるんですよ。だから、ここは間違っていますね。
違うね「政府が」干渉するんだよ。多数の国民の自由を守るために。
だから、政府が何をして何をしないかが問われている。社会主義の中で、ではその政府の干渉はどの程度であれば正しいのかを検証することが必要で、社会主義はなんか知らないけど悪くて許されないものなんて論は意味を成さない。
本当に政府が何もしないという意味で純粋な自由主義を消極的自由主義とも言う。
だけども、消極的自由主義だと金持ちや政府外で権力を持った人間(例えば企業の社長)から弱い人間が守られない。
そこで適切な法を持って政府が干渉する。そして各々の自由が守られるようにする。それは積極的自由主義であり、逆を言えば政府の干渉によって多数者の自由を守っている。
社会主義、共産主義を悪なるもので良くないと教条的になっているように見えるし、社会主義と共産主義の関係をどうみているのか、それこそイコールで悪の枢軸にみているような気もする。
だけども、もと元はと言えば19世紀末から20世紀初頭にかけて自由放任主義で経済が成長した。しかし1930年の世界恐慌で大不況になった。それこそ身売りが多発して、日本でも若手将校によるクーデター未遂事件が発生した。(226事件)
そこで、政府が金融、財政、税制で経済を調整しよというケインズ主義と、政府が計画経済してそもそも経済変動が生まれないようにしたマルクス主義が主導権を握り、世界は二分された。その時代の名残だよ。
自由主義陣営といえどもケインズ主義で積極的自由主義であり、消極的自由主義は世界中から放逐された。マルクス主義は共産主義であり間違いがない。
そして政府が財政を持って国民の役に立つことをするようになり、社会保障が生まれた。さて、社会主義はどこまでの領域を指すのかと。
ただし、1970年代のオイルショックや、アメリカイギリスの経常赤字、そしてアメリカの金流出が起きた。そこでケインズ主義が限界がある。理由は政府の肥大だと言うことで新自由主義に転換した。
もっとも、一度大規模経済危機を迎えたら日本では1990年バブル崩壊、欧米でも2008年リーマンショック後の長期不況が続いている。そしてのコロナショックで、間違いなくこれは大規模経済危機だ。
さらに、すぐ確実に儲かるものしかしてはならないということで、政府は緊縮して科学が衰退し次の産業の種が生まれなくなる。企業も不確実な投資を嫌い産業が生まれなくなる。その結果長期衰退を招いて日本で貿易赤字が出るようにまでなっている。
経常黒字もいつまで持つか。
そのうえで、やはり新自由主義の「政府が何もしない」というのは誤りで「では政府は何をするべきなのか」は議論の俎上に上がる。
とくに新自由主義とケインズ主義では「税をどうするか」「財政出動をするか」が大きく分かれる。立憲民主党は内部が割れてるよ。
という前提があった上で「社会主義」が何かを考えずに「負の側面」と言っても何を言ってるの?とは思うね。内部割れていることにも気づかず、教条的な社会主義、共産主義の担い手であり、反省しろって一体何をみているのかとは思うね。