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はてなキーワード: 暴走とは

2015-10-25

壱河ふぇーす氏についての私見

最近壱河ふぇーす氏がtwitter話題になっていて困惑を隠せない

あんネトウヨだとは知らなかったしあんリアル不審者だったとは知らなかった

http://togetter.com/li/877817

http://togetter.com/li/889250

なにせ基本的pixiv艦これ絵を大量に上げてるもんで、

仮に絵が好みだったらtwitterで「艦これ絵師」としてフォローちゃうかもなあ、とは思った

(いや好みじゃないのよ彼の絵。受け付けないほどじゃないので見かけたら保存するけど)

絵の内容だってネトウヨ分はあまり感じ取れなかった

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=48721984という絵にしても、

総統閣下シリーズはじめヒトラーいじりなんてあちこちでやってるし、

センスねえなあとは思ったがネトウヨ的とは感じなかった)

なのでまあ、あの30,000人超えのフォロワー

全部を全部リアル少女への加害行為への期待で得たフォロワーと考えるのは違うとは思う

(もちろん黙認してたとか制止しなかったとかについては問えるだろうが)

彼が最近うpした艦これ絵のまとめを見ると、コンスタントに1,000以上のブクマがついてることからもわかる

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51816344

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=52305833

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=52503044

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=53034669

彼は基本的に「艦これ絵師」として認知されてたのだ

(俺もそう認知してた)

で、彼の暴走がこれまで問題にならなかった理由として、

そもそも艦これクラスタ以外で名前知られてなかったってのがあると思うけど、

彼の行為助長させた要素が2つほどあると思う

twitterでの「現実の××を描いてみた」の流行

これな

かなりあちこちで見かけるんだわ

もちろん、たとえばラブラブ夫婦を見かけてすごい可愛かった、とか、そういう罪のないイラストも多い

というか、創作実話なんて言葉があることからもわかるように、

twitter他人晒す、なんて、もうtwitterではありふれた行動様式になってる

でも、その行為と壱河ふぇーす氏の行為とのあいだに明確な線を引けるか、というと、危ういよね

カップルのやりとりが可愛かった」

「○○の店員さんの行動がユーモラスだった」

から

カップルの女の方がすごい美人だった」

「××の店員さんが可愛かった」

へは地続きですよ

もちろん、行為が地続きでも、倫理的社会的に「これやっちゃアカンやろ」という一線は引ける

壱河ふぇーす氏はその一線を引くことができなかった

その責任は本人に取ってもらうしかないが、しかし、

これがあったからこそ線引きを見失うアホが一定数出てくることになっちゃったのよね

壱河ふぇーす氏は「やりすぎた阿呆」であって、

似たようなこと、一歩間違えれば変わらないことをやっている奴は五万といる

壱河ふぇーす氏の行為が許されないのは当然として、そういう連中も何がしか反省必要だろう

っていうか自分人生を切り売りするのは自己責任だけど他人を切り売りするのはそうじゃないんですよ

自戒を込めて)

艦これファンのあいだでの二次元三次元混同

いやまあ、どのジャンルでも学パロとか盛んだし、そもそも学園ものという一大ジャンルがあるわけで、

別にこれは艦これに限った問題ではないのだろう、けれど、

艦これ場合リアル学校三次元)と艦娘二次元)を結びつける発言が多すぎる

というのがあるよね

艦娘制服特に吹雪型陽炎型や朝潮型のそれは、リアル学校制服と通じるものがある

加えて、ここが大事なところなんだけど、

学園もの作品でも、ちゃんとストーリーや深いキャラけがあれば、

作中の学校は作中の学校として理解され、消費される

俺の教室にハルヒはいないのだとしても、ハルヒと同じ教室にいたらなんて妄想はごく少数だろう

でも、艦これって、ゲーム特性上、

ストーリーがなく、

キャラけが浅い、

という、妄想を繰り広げたい向きにはもってこいの性質が備わっちゃってるんだよね

で、なにが起きるかというと、

「俺も○○ちゃんと同じクラスになって学園ラブコメたかった」

「××ちゃんって同じクラスだったら△△してそうなタイプ

「というか俺が学生のころ○○みたいな女子が同じクラスにいた」

みたいな妄想が(一部で)盛り上がりまくるわけだ

例→http://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%92%E6%BD%AE%E7%97%85

はてなにもこういうネタ杓子定規に繰り返してる連中がいるが見てて痛々しい)

吹雪型に至っては、

垢抜けない田舎女子を「芋」呼ばわりするクソ男子のノリで

「芋っぽい」とほんとあちこちで言われまくってる

(この言葉使う奴ほんと滅びてほしい)

「純朴で垢抜けない田舎女子中学生っぽい」って意味

こういうの頭に入れると、壱河ふぇーす氏の発言の数々、意味がわかるようになるでしょ

(そもそも、公式吹雪型を描いてるしばふ自身

現実幼女少女を元に妄想した言行録を残してるしな

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%97%E3%81%B0%E3%81%B5

ここまでくると二次元三次元の境目なんてどろどろに溶けてるも同然ですよ

三次元少女への欲望を二次元に仮託してるなんて誰がどう見ても明らかじゃん

そこで、いやこれはあくま架空少女ですから云々、

っていうのがオタク最後の一線だったんでしょ

それ踏み越えてどうすんだよっていう

仮に電車の中で可愛い女子高生見かけて、エロいな、描きたいな、って思ったとしても、

(言っとくが、露骨にガン見、とか、クラクション鳴らして振り向いてもらう、とかは、もう不審者だから

表現の自由でも何でもないからな)

艦娘学パロとかにしてりゃ誰も傷つかずに済んだんですよ

何で最後の砦やすやす放棄するの? バカなの? 死ぬの?

最後

オタクであれ擁護してる奴、正気か?

必死切断処理しとかないと後々まずいよ

というかもうまずいことになりつつあるよ

2015-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20151023162222

ロボコップ見てないし、俺が勉強不足なのも認めるけど、

「これはやっちゃダメ」って処理を明確にしておいて厳守させないから

フィクションの中ではAI暴走したりするんじゃないの?

実用化を考えたら少なくとも人間危害を加えないような予防処理は必須なんじゃないの?

結局のところ「完璧AI」というのがどういうものなのか俺がイメージできてないだけではあるんだけど。

みんな「AI」って具体的にはどういうものを想定して話してるの?

ジュンク堂店員。起こるべくして起きたなといった感じ。

 

これだけはジュンク名誉の為に言っておきたいのだが、書店全体に反日的な風潮があるというわけではない。

しかし一部の書店員はフェアなどを通して自分の主張を皆さんに伝えたいという気持ちを強く持っている人がいる。

それが今回悪い方向に出ちゃったなという感想

 

政治的に盛り上がったら必ず大書店はフェアを出す

2005年郵政民営化2009年政権交代前夜、そして2011年以降の原発問題。必ずといっていいほどジュンク堂はフェアを出してるんだけど、特に中立・公平」といったポジショニングはなされてなかったように思う。特に2009は民主推し、2011は反原発推しが凄まじかったのを覚えている。じゃあなんでその時は問題にならずに今回は大騒ぎになったのか。

いいんですよ書店なんて私企業ですから。これが図書館なら大問題ですけど書店なんて別に好き勝手やればいいんです。別に反政権よりのフェアをしても構わないし、反中反韓国フェアやったっていい。

 

でも一越えちゃいけない一線ってものがある。

そこ越えちゃったらもう書店じゃないよねっていう一線。

 

フェアの本の横にSEALDSパンフレットを置いたり、フェア対象書籍を買ったらパンフレットを一緒に袋に入れたりしちゃ駄目でしょう。

これやっちゃう特定団体政治活動に一緒になって参加してる事になってしまう。

 

これを実際にジュンクはやっちゃってた。そこがきわめて重大な問題

皮肉な事にそこはあんまり話題になってないんだけどね(汗)。

 

冗談みたいな話だけど●進社みたいな過激派が「うちのパンフ置かないか?」みたいに交渉に来たりするんですよ。ありえないでしょ。そんなんやっちゃったらもう終わりですよ。あと新興宗教系ね。めっちゃ来るらしいけど当然社員の上の方の人が門前払いですよ。そんなもん置きはじめたら自民だの共産だって置いてくれみたいな話になるし、絶対に越えちゃいけないんですよその一線だけは。

 

でも、越えちゃってた。

残念ながら渋谷池袋は今年のSEALDSの盛り上がりに舞い上がった現場のアホ店員さんが越えちゃってた。

SEALDSパンフを店内に置きまくってた。

しか積極的に配ってた。

これ完全にアウト。

しかtwitterで「来年選挙まで一緒に戦う」みたいなことを書く始末。救えねえ。

 

口やかましいベテラン

自分がいた頃もこういう騒動になりかけた事があるけれど、ベテラン社員が必ずこうやって釘を刺してた。

ベテラン「君は民主党を応援してるからこれを不思議に思わないかもしれないけど、じゃあ同じ事を自民党がやったらどうするの?自民党の入党案内をうちが置いたらどうする?」

熱い店員「そんなの許されるわけないじゃないですか!」

ベテラン「なんで?君がやってることと同じ事じゃないの?」

熱い店員・・・

みたいな感じ。自民党-民主党関係時代や分野によって変わるんだけど。

 

こうやって熱い(=アホ)な店員暴走しようとしてもちゃんと冷静に釘をさせる人が必ずいて、昔は最低限のバランスは取れてたんですよねえ。

 

今回炎上してる渋谷店については昔から評判があまり良くないけど、池袋はわりとマトモな方だったのにSEALDS関係では見事にやらかしてる。SEALDSパンフ最初に置きだしたのは池袋らしい。

https://twitter.com/plan_sequence/status/638127161212190720

この「ベテラン書店員の妻」を俺は直接知っているが3年前はこんなことをするような人ではなかった。どうしてこうなったのか。釘を刺してたあのベテランさんはどうしたんだろう?と思って聞いてみるともう辞めたと。そんで人文系現場は完全にSEALDS推し書店員で占められているらしい。

 

まあこうなるのは薄々わかっていたんだよね。

書店員はとにかく薄給な上に未来が無い。

ここでずっと勤めてもいつか何か劇的にいい環境に引き上げられるって事はありえない。

なので優秀な書店員さんほど離職していく。

現場には誰が残るか。

イマイチな人しか残らないのである

 

それがこうやってヤバい形で顕在化しちゃったという話。

反日とかじゃないんですよ本当に。

ただ現場の人文系書店員の質が下がってるというだけの話。

流されやすく、モラルが無く、自分が支持するもの絶対正義だと思ってる人たちが運営する書店

つかこうやって問題になると思ってた。

 

「まともな人もたくさんいるので不買運動とかは勘弁してあげてください」

とでも言えたらどれだけ良かっただろうか。

こんなフェアを堂々とやっちゃえるぐらいに現場が歯止め効かなくなってる時点でもうまともな人がいないんだと思われる。

悲しい。

 

2015-10-15

この国の構造欠陥

上にいる人間、下にいる人間、それぞれが恣意的ルールを改変する。

これまずいよね。

明示的なルールに従ってやればいいのに、

それを基本は守るんだけど、どこかで自分矜持に従って良くも悪くも修正していく癖みたいなものがある。

赤穂浪士とかもそうじゃないだろうか。

ただ、それぞれが正しさを感じて、それを実行していることも事実から

良い作用もある。

でも、最近司法とかそれの暴走な気がする。

自分らの仕事のしやすいよう裁量を増やして、結果ルールが正しいルールじゃなくなる的な。

うまくかけないや。

日本だけじゃないだろうけど。

違ったらごめんなさい。

2015-10-07

なんで俺の動画再生数が伸びないんだよおおおお!!!

パッと出の新入りがなぜランキング入りして俺のは全然再生数が伸びないばかりか、辛辣コメントが多いんだよおおおお!!!

どういうこと!?淫夢実況すればそんなに人気になるの!?!?

不思議!!不思議というか嫉妬する!!嫉妬というか殺意を覚える!!殺意波動で時空が歪む!

自責の念によって生じた炎が自らの身をも焼き焦がす…復讐権化と化した増田自我を失った暴走を繰り返し辺り一面を焼き払う…もはや彼を止める術はこの世に存在しない…万象一切灰燼と為せ「流刃若火」

野良猫を減らす活動をこっそりしてる母

私が実家を出て約10年、ちょうどその頃から母が野良猫を確保して里親さんを探す事を始めた

はじめは近所にたまたまいた2匹から始まって、多分10匹超えた辺りから父に反対されるようになった。

家にも猫がいるし、父的にはある程度まで育てた子を手放すのが辛いかららしい

それから母の暴走が始まった

確保しても家に置けないので、父に秘密で猫用アパートを借りた

そこで確保した猫を育て、里親さんを探し、渡してるらしい。

実家ベットタウン的な町で、ちょっと探せば野良猫があちこちにいる

他にも同じような活動をしている人がいるらしく、一緒になって確保したり、

去勢避妊手術をして離しているらしい

それでも減らない。

特に飼猫で外に出してる事が多いらしい

年配の人は今でも「自由に外に出さないとかわいそう」と言う人が多いらしく、揉め事になったり

それでも10年ほど続けてきた

それが、はじめて、エイズ持ちの子猫を確保した

今まで里親さがしはネットで、全員ちゃんともらわれていった。

ところが、エイズ持ちの子はもちろん誰からも貰われない…

結局、猫用アパートで飼っていた

が、昨日、亡くなったらしい。

たった1年しか生きられなかった。

ネットで調べたかぎりでは、キャリアでも10年生きる子も、発症してからも数年生きる子もいるみたいだけど

発症して1周間ももたずに亡くなった。

病院に連れて行った時点で、安楽死を考えるように言われたらしい

最後は母に抱かれて、10分ほどもがき苦しんで亡くなったらしい。

父に内緒で借りてるアパート、飼ってる猫を外に出してる人、猫エイズ、死

母は疲れた、もうやめると言ってる

私もそれがいいと思う

どうしたって個人ではやれる事に限界がある。

もう十分やったよ

本当なら野垂れ死ぬだけだった子や野良猫になるはずだった子をいっぱい救ったよ

母にも十分伝えたけど、なんかやりきれなくて書いた

ちなみにうちにも8年前に拾った子がいる。生後3日の状態で近所の公園に捨てられてた。

すっかり大きくなってもかわいいかわいい

ただ、他の猫が駄目で、子猫でも駄目で、部屋を離しても駄目で、

一時的に預かったら、ストレスで全くごはんを食べなくなって、あやうく死にかけた。

から、私は母は本当にすごい、と思いながらも、同じことはできない

たまに手伝いとお金の援助、愚痴を聞くくらいしかできない

本当にすごいと思う。もう十分に十分にすごい。

からゆっくりしてほしい。

でも始めたのって、もしかして私が家を出て寂しくてやってるのかな…とも少しだけ思う。

すごい世話焼きで、対象が私から猫に変わったのかも。

それにしても、やってもやっても減らない。

むなしい

2015-10-03

三十半ばにして恋人ができてこの前初マグワイをキメたんだけど

クリスマス(2017)だしもう別れたんでこっそり復活させとくわ

まさか三十路を越えた童貞の俺に恋人ができるなんて思わなかった。

インターネットリア充を気取る輩どもも非モテをこじらせてリア充をうらやむ芸風の輩どもも、俺は気にくわなかった。

から、そういう話で場が盛り上がる度に「そんなことより聞いてくれよ、うちのオカンがさ!」と、だれも聞いていないオカンネタツイートしてどうにか居場所を確保していた。

おかげでオカンは毎朝起きるとアルミホイルをシャクシャク噛みながら口笛でダイアルアップをしてインターネット取引にいそしむ化け物になってしまった。この場を借りて深くお詫びしたい。

だが、インターネットでしずかにこじらせていた俺にも好意をむけてくれる奇特女子が現れたのである

快活でやさしくてユーモア好奇心を兼ね備えた年下の才女であり、たいへんかわいらしい。性格カタログと化した往年のエロゲでもなかなかここまでストライクものはないだろうという高級物件である

もちろん、俺は三十路童貞よろしく魔法使いとしての矜持をたずさえ、しずかにはげしくこじらせていた。

これはもう確実に騙されているに違いない。

三十路超えの売れないふぁぼられないブクマもつかない顔も目と鼻と口と耳がワンセットついているだけでたいしたことはなく、悪いことに肉は最近落ちなくなってきたうらさびれたインターネット芸人崩れを好きになるわけがない。

そうだろ?

から当然の帰結として、生身の人間に触れずにオッサンが考えた二次元女子の一挙手一投足に日夜情欲を昂ぶらせていた自分であるがゆえに、生身の女子がくれる好意の質を勘違いしてとらえているのだろうと手前勝手に得心した。

さもなくば、その好意に乗せられて暴走する俺をどこかで観察してあざ笑っている集団がいるのだろうと考えた。

そういう面白い催しがあるのならば、どうせなら観察する側にいたいものだ。

三十路半ばで人生に対するそれなりのあきらめを身につけた俺は、半ば自嘲とともにイグアスの滝にノーロープで飛び込む芸人になったつもりで好意に乗った。


もつながずにデートは終わった。中学生男子よろしくゆだった頭がその重要さに気づいたのはデートが終わった後だった。

好意を向けられた相手デートに誘わせたあげくなにもしなかった俺に、相手失望しただろう。したはずである

なにもなかったということは、さすがにかけるコストとして俺が笑いものにされている可能性は低い。

というかそもそも俺は罠にかけて笑いものにされて面白いようなキャラクターではなかった。

こうして浮かれて血迷った頭が人に決断の時を誤認させるのだなあと深夜の公園で砂山に頭をうずめて泣いた。

ふがいなさが、自責の念となり俺を毎夜責め立てるようになった。釣り逃した魚は大きいのであるし、俺はこうしてこの失敗を人生における最大の失敗として二月に一度くらいの頻度で悪夢に見ながら死ぬまで一人であることを責められ続けるのだろうなと覚悟を決めた。

悪夢マイスリーやめたら治った。

いい夢を見たのだと思って、宝石箱しまって生きよう。そう思っていたらまたデートに誘われた。

もつながずにデートは終わった。




あるデートの時、意を決して家に呼んだ。

もつながずにデートは終わった。



向けられていた好意につきあってみたような気持ちでいたはずなのに、いつしか呼吸ができなくなっていた。

胸は本当に苦しくなるのだと知った。右室ブロックの気があるらしいです。ヤバい

さすがにこの頃になると、お互いにお友達同士のおつきあいではなく異性として認識しているに違いない。

何度となく繰り返された三十路のくたびれたオッサンの咲きかけの恋と葛藤不完全燃焼デートの度に膨らんではしぼんでいるのである

他人事としてみるとこんなに気色悪いものはないのだが、明らかに相手も俺のアタックを待っているのである

恋に狂った本能はそうだと断じている。しかし、「騙されるな、社会性を失うな」とこじれた理性もまたささやくのである

そこはこじらせた大脳皮質音頭を取って意見とりまとめる

貴様の薄汚い下半身由来の欲求がそういう自分に都合のいい思考を招いているのである。一緒に居て楽しい女子と二人でいられるだけで身に余る幸福だというのに、お前は自分からその幸福を靴で踏みにじろうとしているのだ」

大脳皮質に棲む天使メイド服)と悪魔(ブレザー)がドルビーサラウンドでささやく、最近二人の意見が食い違うことがなくなってきた。

いやいや、とはいっても、女の子家によんで、お茶お菓子だけ飲んでおしゃべりだけして帰るわけないでしょ、平成何年だと思ってんの。

一世紀に生まれ若造どもが青い性欲をもてあまして図書館トイレ駐輪場でよろしくやってるんですよ中学生じゃないんだからそんな――

――手も、つながずに、デートは終わった。

待ってください、みなさん。ウンコを投げないでください。座布団を持って行かないでください。

みなさんのおしかりはごもっともです、自分でも、こんなに恋愛に向いてないとは思わなかった。

ふがいない右手を切り落としたい衝動を押さえつけて、メール謝罪文を打ち、その勢いでおつきあいをお願いした。

リンゴが地面に落ちるがごとくオッケーがでた。

客観的に見るとなんなのこのウブなネンネちゃんとしか思えないし、実際そうだ。

相手もここまでつきあってくれるというのは相当の変人暇人だし、この際もうちょっと押していこう。

ここにきてようやっと足が動きはじめて恋人的な段階が進んでいくわけです。



話が長くなってきたんでノロケはこの辺にしまして、タイトル伏線を回収したいと思います

途中段階はとばしますけど初行為をするべくホテルに行ったわけです。

泡の出る風呂とか照明とかで遊んで、テレビをつけて、AVはやめようってんでNHKにしといたんですよ。

あとは存分にイチャイチャして、照明を落として、消毒剤の臭いがするシーツの上に彼女身体を横たえて、服はうまく脱がせなかったけど、ブラのホックは一発で外せて。いざや鎌倉うちてしやまんって時テレビの音が耳に入るわけです。

非常に耳慣れたBGM。そう、俺はこのBGMをよく知っている……荘厳で重厚で、悲哀をたたえた力尽くで精神をゆさぶってくる力強い音楽……!

彼女の肌の色がまぶしくて目をつぶるだけで経験したはずもない二〇世紀中盤の白黒映像走馬燈のように流れ去っていく……。

映像の世紀


この文字列見るだけであのテーマソング巴里燃えいるか」が耳に蘇る方多いんじゃないでしょうか。

正直寝所にムードへったくれもあったもんじゃありません。

わかりますチャンネル変えるとか、音量下げるとかすればいいんですよ。そんなことはわかってるんですよ。

でも壮大な音楽と、うすっぐらいナレーションをバックに慣れない愛撫とかしてるんですよ、背中にファスナー付いてないかとか、カメラしかけられてるんじゃないかとか、この反応は演技ではないのか、とかそういうことを考えるのに三十路半ばおじさんは必死なんですよ!! チョビ髭の男が演説してる中、ゴムを付け替える俺の身にもなってくださいよ!! ていうか早くしないとこのままだとあのシーンになってしまうじゃないですか!! だが焦るほどになにもかもうまくいかない!! 東京が焦土に!!

かばやけになってテーマソングリズムに沿って腰を動かしてたら、新型爆弾が落ちました。


人間としていろいろ申し訳なくなります。この映像BGMが強力すぎて、俺は今後彼女と肌を重ねる度に「巴里燃え」が自動的にかかる身体に改造されてしまったわけです。

ちょっとした背徳感は恋のエッセンスとかそいういうおためごかしをすっとばして不謹慎きわまりない初体験です。ヒンズー教徒だった前世の俺が牛肉でも食ったのかと言わんばかりの仕打ちに心折れつつも、焦土となった都市映像に負けない励起状態を維持しようとしている俺に、彼女がようやく口をひらいてくれます

そう! 俺はずっときみの一言を待っていたいまからでも遅くない助かった! このいまいましいテレビ消そう! 消そうと言ってくれ! この状況がちょっと面白いのはわかるが俺のチキンハートはもう耐えられないんだ! 

枕元にあるリモコンをたぐってなんでもいいかチャンネルを変えてくれ――! はやく! 

このままでは俺の爆弾が――――



「ん、――不発弾?」

結局!!!!!!

イケませんでした!

おのれNHK!!!!!!


最後の部分をオチ補正のため追記しました、わかりにくくてすみません

(まだわかりにくいですよ)

そもそもオチが弱いんだよ)

オチがなくて無理やり付け足すからこういうことになるんですね、わかります

(うるせ-!)

2015-09-29

続:「馬鹿ね、そんなくだらない理由で人を殺したの」

こちらの記事http://anond.hatelabo.jp/20150928163536)を投稿させていただいたものです。



ちょっと苦しい思いを吐き出したいがためにこちらのダイアリーを使わせていただきました。

予想以上に反応をいただきまして自分でもビックリしています

コメントも読ませていただきました。

未熟者にたくさんの意見いただきまして本当に恐縮です。


コメントを読んで、ぼんやりと言いたいことが浮かんできましたので、

また書かせていただきたいと思います

勢いで書いた、長い、まとまっているか不安、の三拍子なんで、

お付き合いいただける方だけ、どうぞ。

徒然なるままにってやつです。




さて、前回の記事の前置きとして二つの事柄に触れておきたいと思います


私をメンヘルとご指摘くださいましたが、その通りです。

もうひとつ記事でも触れましたように、私は精神病を患っています

そのため、そういった病気に無縁の方とはかなり違った解釈をしている部分も多々あると思います

なのでメンヘラと呼ばれても仕方のないことかもしれません。

なので、先ほどの記事不快になった方は「メンヘラがまた何か言ってるよ」

くらいの気持ちブラウザバックしていただいた方がいいと思います




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ひとごろしの気持ち共感できてしまうことは、

誰にでもある。しかし、それをここで言うのはちょっと

というご意見いただきました。



確かに、この記事異端と捉えることが出来ると私も自身も感じております

からこそ匿名しか言えなかった。


元々、創作活動も盛んにしているので、創作というオブラートに包もうかとも考えました。

しかし残念なことに私が感じたことはひとつ創作ではありません。

創作であったらどんなに良かったか

それに創作というきちんと綺麗にお行儀よくラッピングされたものではなく、

今のありのままの心の叫びを私はどうにか残しておきたかった。

創作になんてしたくなかった。


からこそ、今回は匿名という立場を使わせていただきました。

しかし、これを身バレのするところで呟いて、私と周りに迷惑をかけるのは避けたい。

取捨選択の出来ないコメントをぶつけられるのを相手にするのは、

ちょっと私の心の体力に自信がないので…

匿名からこそ言えることがある。

多数の前に少数は圧倒的に無力です。




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さて、以上の2点を述べさせていただいたので、

エゴと私個人の主観が多分に含まれるということを前提で話を続けさせていただきます



私は確かに「この犯人の心境の一部に共感は出来ます」それは間違えようのない事実です。

しかし、「こんなに苦しんでいたんだから犯罪を犯していい」と、犯罪の容認をしたいわけじゃありません。

これからも申すつもりもありません。

私はこの犯人とは違いますし、多くの精神病で苦しむ人達もそうです。

精神病を患っていたとしてもこの考えに賛同できない人などかなりいると思います

私は彼の気持ちを「共感」出来ます。それは「想像できる」ということです。

しかし、当たり前ですが、私は彼になれないのです。

どうか、その点だけは間違えないでいただきたいのです。


現実に起こしたことは消えません。まして、かけがえのない命を奪うことは大罪です。

誰もいなくなった人の代わりにはなれません。どんな理由免罪符にはならないんです。

同じ人は二度と還ってきてはくれないのですから


匿名説得力に甚だ欠けるのは重々承知しております私自身、警察にお世話になるようなことは、

ひとつも起こすことなくこれまでの人生を歩んで来られました。


でも、それって、たまたま運が良かっただけなんじゃないかとも思うんです。

犯罪殺人に手を染めなかっとしても、自分で命を絶たずに、ここでポチポチ文章を打っていられるのも…




私が最もこの記事で言いたかったのは、

「取り返しの付かない過ちを犯してしまう前に誰も救いの手を述べなかった」

ということです。


今この時の、家族の、学校の、大げさに言えば社会セーフティーネット機能していない深刻さ。

それを改善していく必要があるんではないかと強く思ったがゆえに投稿した記事でした。





私はもうひとつ、強く言っておきたいことがあります

前回の記事で、この「救いの手」のひとつ

私は「ありのまま肯定することが大事」といいました。


少し説明不足だと思いましたので、補足させていただきますと、

ありのまま人格を認めることが大事」だと言えばいいでしょうか。

私がいいたいのは、「ここにいてもいい」という安心感

自分自分のままで生きてもいい」という自信が大事だと言いたいのです。


このひりつくような渇望は一度体験したことがない人だと、

ちょっと想像するのが難しいことかもしれません。

(それくらい普通の人は当たり前に持ち合わせている感覚らしいので…)



コメントで、『誰を憎めばいいですか→自分ですってのと同じロジック

そのままでいいんだよ」って誰が言うんですか→自分 とならないのがふしぎ。』

と言ってる方がいましたが、おっしゃる通りです。

自分自分を一番認めてあげないといけません。

でも、そんな当たり前のことが上手く出来なくて苦しんでる私のような人もいる。

どうか心の片隅でいいので、それを覚えていてくださったら嬉しいです。

そして、もしこんな風に苦しい人がいれば「こうやれば楽に生きられるかも」

提案してあげてください。



ただし「やることをなんでも肯定する」

それはコメント欄でおっしゃられていた通りとんでもない間違いだと思います

そんなこと容認してたら世の中は犯罪の横行する恐ろしい社会になってしまます


ここで中庸という言葉を引き合いに出させて話したいと思います

これはアリストテレス倫理学で、徳の中心になる概念です。

過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとされています


簡単にいえば、勇気という徳が過剰であれば無謀、不足であれば臆病ということになります

間違った選択を見極める責任は常に自分にあります


からこそ、私は極端な答えである殺人という犯罪否定しました。




さて、上記であげましたように私が言いたいことが

「人を肯定すること」は「なんでもかんでもゴーサインを出す」ことではない

ということがお分かりになられたでしょうか?



ここで私の実体験を話させてください。

私はとても自己肯定感が低いです。

殺人を犯した彼に似た「自分ダメな奴だ」という囁きと常に葛藤を続けてきました。


いつも他人と誰かを比べてしまいがちです。

そうするといつまでも、何をやっても満足できません。

あの人はもっと出来た。もっと出来ないといけないと。

もっともっと、とその先が脅迫的に欲しくなるのです。

私が患ったのは、そんな目に見えない病気です。



そんな私がずっと続けてきた趣味があります

死にたいと何度願っても、実行に移そうとした時も

いつだって描く手を止めることがありませんでした。


当たり前ですが、初めはお世辞にも上手くもなく、他人と比べてばかりいました。

それなにに、苦しくならずに、どうして続けられたのか。簡単なことです。


肯定されたから」です。


「私、あなたの絵好きだな」これだけです。


たったこれだけの言葉が私の胸に何年も残って私を支えてきてくれました。

死のうと思った夜を何度も越える勇気をくれて、私を自殺から守ってくれました。

私は、その言葉が私を支えてここまで生かしてくれたと、これだけは胸を張って言うことが出来ます




この言葉をくれた人は私を救ってやろうなんて気構えは、ひとつもなかったと思います

それに、そんな上からかけられた言葉で人の心は動くものでしょうか?

理屈じゃないんです。嵐のような強烈さで、私は実際に救われました。


ただ一言、「頑張ったね」「頑張ってきたね」それだけでいいんです。

結果なんかじゃない。その人の頑張りをただ認めてあげればいいんです

たったこれだけで、私は生き汚くても人生を歩んでこれました。




最後に、何件かのコメント

「その人の人生を引き受ける覚悟がないと肯定してはいけない」といったコメントを見かけました。


私は引き受けるなんて気負わなくていいと思います

あなたは、あなた自身の「こう言った」という発言には責任を持つべきです。

こうすべきだった、言うべきだったと悩んだりするのは、あなた自由です。


でも、その言葉自分なりに受け止めて、選択し、変わっていくのは『自分自身であるべきです。

人は変われます。でも一人で元気になるのは難しい。


そして、人は元気になれたら勝手に歩いて行けます。それこそどこまでだって


から、喉の渇いてたまらない人に水をあげるのを惜しまいであげてください。





ダメ」という誘惑は恐ろしく、そして強いものです。

この言葉を浴びせ続けられた私の心は、もっとちゃんと出来ないとと、

急き立てられるようにそればかり考えていました。


ちょうど暴走した列車のようです。ブレーキはちゃんとある

でも頭のなかはパニックを起こして安全操作の仕方なんてポンと飛んでいる。


からブレーキはここだよ」とか「早いんじゃないの?」と

それだけ言ってあげてください。

から十まであれこれ口出ししないで、補助するだけでいい。

心のブレーキを思い出させてあげればいいんです。

誰でも利きの良し悪しは違っても元々、持っているものですから

信じてあげてください。






言葉で人は殺せます

私は少なくとも「お前は駄目だ」という言葉で救われなかった。

しかった。苦しかった。まだ、頑張らないといけないのかと死にたくなった。



でも救うことも出来ます


「私、あなたの絵好きだな」

たったこれだけで、私は馬鹿なことをしなくてすみました。

人生を投げ出さずにすみました。






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お恥ずかしながら、誤字脱字はどうぞ多めに見てやってください。

お前のこと結構好きだぜと言ってくれたあなた感謝を!

あー書いたらスッキリした!



『母にこれだけ言えたんだから増田は一段上がれたと思う。

からず母は増田を虐げるモンスターではなくなる。』


でもあなたもすごい!私を救う言葉を持ってる!

この言葉でまた救われました。ありがとう。届くかは分からないけれど、あなたは私の人生の恩人の一人です。

他にも励ましてくれた方、ありがとうございます個別に返信は出来ませんが許してね。



消えたいといったみなさん、消えたいという誘惑は強いです。

でも、それとどうにか折り合いをつけて生きていこうとしてる人がここにもいます

ゆっくりですが、自己肯定感も少しずつ育てている最中です。

まだヘコタレてしまうことも多いのですが…

酷い時と比べると、確実に変わっていることを実感する日々です。


人は変われます。多分、この記事を見てくださるあなたもです。

から、もしまたお目にかかることがありましたら

私もあなたも無理せず元気な姿で、また会いましょう。


2015-09-24

ちょっとした暴走も全て安倍が辞めれば起きなかったことなんだよなあ・・・

2015-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20150923094719

そもそも遺族ならちゃんと墓なり仏壇なりがある筈で、献花台なんて必要ない。

遺族でなくても遺族からの信頼がある人であれば墓参りくらい出来るはずで、

献花台はそういう事ができない、遺族と交流がないか信頼されていない人が勝手に置いたんだろうというのが予測される。

置いた動機一般人正義感暴走か、あるいはいじめ加害者への私怨か、陰謀論打つならネタ作って騒ぎたいマスコミか、その辺は知らんけど。

遺族はさぞかし迷惑だろうな。そもそももう引っ越ししまってるかもしれないけどね。最初から騒がれたくないと思ってるわけだし。

2015-09-22

反OOや嫌Oは,「他人の不幸は蜜の味」を正義で覆い隠してるだけ

題名だけでもう全てなんだけど。

人間基本的他人の不幸に対してどういう感情・行動を持つかというと,

1.自分のことのように共感したり,同情したりして,助けようとする。

2.自分によいことがあったかのように大いに喜び,なお不幸にしようとする。

この二つ。

1は「自分と同じ側」に立つ人間に対して。

2は「自分と反対側」に立つ人間に対して,

成立する傾向が強い。

一方,2は,当然のことながら,社会倫理道徳上褒められた行為ではない。

ことに,倫理観道徳観に普通以上に縛られた人は,2を必要以上に嫌ってしまう。

そのストレスを発散するには,すなわち,倫理道徳心の強い人が他人の不幸を味わうにはどうすればよいか?

不幸な他人道徳倫理に反する「悪」とすればよい。

悪を叩くことは正義である

よって,自分が悪をけなし,蔑にし,罵詈雑言を浴びせ,それが不幸に陥った時にそれを喜んでも,

それは正義の信念に基づく行動であって,(その人の中では)倫理道徳正当化される行為となる

1及び2の感情は誰にでもあるし,社会秩序を守るためには倫理道徳は不可欠。

だけど,それに強く縛られると,まさしく,それによるストレス正義のもと暴走させることになる

2015-09-21

暴走するのはあいつらだけ。俺の正義暴走しない」と思ってる人が最も恐ろしい








自分正義だけは大丈夫」というのは自分の考えを自分検証するのを諦めたのと同じ。諦めたらゲーム終了だよって名言が有るよ。つまり自分正義だけは大丈夫」というのはゲーム終了だよ

…何のゲームだよ。

2015-09-20

結局反米

戦争反対」のムーブメントが起きているわけだが(もう下火?出遅れてすいません)、なんだか重大な矛盾があるように見えるし指摘もされてる。アメリカにくっついちゃう戦争ちゃうよ(この70年でアメリカは何度か軍事同盟国を動員して戦争してる)、それはやだ、ってわけだけど、アメリカにくっつかないと中国戦争しかけられちゃうかもよ(この70年で中国自分より弱い国に何度か戦争しかけたり侵攻してる)、それいいの?ってとこがどうも無視されてる。

いや、無視してんじゃないと思う。そこ、本質じゃないと思うんだよね。

いろいろな考えを持ったいろいろな人が参加してる。それは当然だと思う。大きなムーブメントにおいてすべての人の意思統一されてる、なんてのはフィクションであり北朝鮮だ。いろいろな考えを持ってるのは当然。戦争ちゃうかもを最重要視してる人もいれば、違憲性を最重要視してる人もいるだろう(個人的には後者立場の人には共感する思いが強い)。

でも、そういう人たちを結びつける何かがないとムーブメントにはならない。それはなにか?このムーブメント本質とは?なんだか戦争反対平和主義っていうのは語感がいいからスローガン化してるように見えるが、冒頭に挙げたようにそれが本質であるように思えない。もちろん、単に騙されてる(あるいは暴走してる)人も多いだろうが、頭のいい人達もかなり動員されてるので、みんながみんなそうではない。

何が彼らを結びつけているのか?

結局、反米じゃね?

って思った。

証明手段はない。個人の感想。すまんね。しかし、過去日本ムーブメントを観察し、それで今のムーブメントについても同じ特徴をもつ蓋然性が高いだろう議論は可能だと思う。ちょっと言葉を変えると、尤度ベースで考えてみよう、みたいな感じのことだ。専門家からバカにされるだろけどね。だから増田に書いてるわけさ。

さて日本過去の大きなムーブメントを見てみる。

さてどうだろうか。戦争については、起こしたかったり起こしたくなかったりいろいろだ。護憲主義かどうかについては、冒頭の明治維新がすでに国体をひっくり返してる。しかしどれも明確に同じであるのは、反欧米姿勢じゃないですかね。過去の大きなムーブメントはどれも反欧米姿勢であって、それが過去の3つのムーブメントのどれにおいても起こっていることからベイズの定理によって反欧米姿勢があるために大きなムーブメントが起こったのだとする仮説の事後確率が高いのだと思えますね。問題点:観察したイベントが3つしかねぇ。超事前分布を置こう。めんどくさいからやんない。

他に日露戦争後の三国干渉への強い反発・日比谷焼き討ちだとか、湾岸戦争イラク戦争時のアメポチ批判とかは、強いか弱いかにかかわらずやはり反欧米姿勢に見える。太平洋戦争の本とかよむと、国際連盟脱退して帰国した時、松岡洋右は非常な非難覚悟したのに、大歓迎されて却ってとまどったとかいうのがあったが、それもこれかもだ。太平洋戦争時には他に、満州事変から日中戦争の時には日本国民はあきらかに戸惑っていたが、太平洋戦争戦時にはだれもが意気揚々として喜んだというのも読んだ。

さて、まともな議論のような皮を被った確証バイアスだらけのようにも思われる話はここまでで終わり。みんな批判的思考を持ちましょう。

あとは完全に個人の感想

逆に親欧米にはどういうのがあるかっていうと、

日英同盟とその後の日露戦争第一次世界大戦国際連盟

戦後高度経済成長

中曽根とき

小泉とき

ってとこでしょうか。

さて単純にどう思うかって話なのだ

私がどう思ったかは、もうわかっていただけたと思うけど、日本国民感情的に動かしてムーブメントを作りやすいのは反欧米姿勢だけど、日本国繁栄させてるのは常にアングロサクソンにくっついてる時じゃないのってことです。明治維新なんて説明するまでもなく、ムーブメント自体尊皇攘夷運動だったはずが、最終的に親欧米政権つくって西郷さんと大久保死んじゃったみたいな話なわけで。

さてこういう話をするとき明治維新ときから続く歴史の長いレッテル貼りがあって、それは今で言う「アメポチ」ってやつだ。言ってみれば、アメポチ初号機は井伊直弼であったともいえよう。戦時中には、鬼畜米英とか言ってる人を非難するような人は「非国民」とか言われていた。もちろん逆方面に対してはチョンとかなんとか言ってたわけで、究極的には自分最高って思ってるだけだろうけど。

で、アメポチ。アメポチ悪いの?ってこと。ていうか犬バカにしてね?まあそれはいい。

「情けない」とか帝国軍人みたいなこという人もあろう。でもさ。国家がアメポチであってそれが情けないなら、個人でアメリカいって勝負すればいいだけじゃないか。本当にアメポチにならなくて済むような有能な人は、当然アメリカで全くやっていけるし、あの国人種国籍にかかわらず、能力だけで天下を取れる、そういう国だ。ヨーロッパ人だってそうしてるよ。われわれ極東日本人が「あれはアメリカ人」と思ってる人たちの中の相当数に、元ヨーロッパ人が相当隠れてる。ドイツオーストリア系とか特にね。敗戦国ですし。日本もだよ。

それだけの能力がない人は?そうやって能力もないのにこの冷酷な世界の中で平和を望む・・・そんならアメポチになれってことなわけ。自分一人で世界の中でアメポチにならずに立ち回れる能力がないくせに、日本国家に守られてアメポチではない立場になりたい、でも日本国家は嫌いだ、とかそんな都合の良い話はあるめえよ。

この世の中はローマ帝国漢王朝時代からまったく変わっていないと僕は思うコーカソイド東アジアに2つの帝国が出現するところまで変わらない(たぶん、20世紀のある一時期には日本がそれになりうる可能性を考えられていたかもしれないが、今は誰もそう思ってないっちゃ、ライジングサン)。

戦争法案反対」論者の中には一定数、「すぐに中国世界最強になるから敵にするのはまずい」と思ってる人がいるかもしれない。こういう人とは酒は飲める。まあわたしはそんなの数十年先以降なんじゃねーのって思うけど(だって科学力が違うからね〜)。

2015-09-19

賛成だとか反対だとかをどうでもよくさせる人達

安保法案可決に関して、結局のところ何がアレを可決まで進めてしまったのか。っていうのはもう国民性とかの問題ではない。

単純に政治家というものの質がアレを可決に進めてしまったのだろう。

端的に言えば『嘘吐きがいるならそっちの方は信用しないほうが良いんだね』と皆が思ったまでのことだ。

それが政治家のやり口だ。

 

国会前に集まった人間達も、反対だと言って止めている人間達も一人の暴走しすぎる人間が行った暴走を見て

識者が『犯罪紛いの行動して反対するのはテロと変わらないんじゃねえか』と言ってしまえば

犯罪紛いの集団、と呼ばれ、暴力を揮ってNOと言わせようとした愚か者と呼ばれ、そいつらの言ってることが当たってようが当たってまいが却下されてしまうのだ。

 

とかそういうのはもう十分議論されてると思うし、安倍ちゃんとかもそういうのに『最初は強く押して後は流れで』みたいなこと言ってんだろうなってぐらい茶番が酷くなってきた。

まぁ、もしそういう打ち合わせ無しに『Isayするな』とか言ってたら本当に馬鹿だし、その後『手は出しておりません』とか言ってるのも一度裁判沙汰にならないと理解できないレベル、だったりするんだと思う。

 

どちらにせよ、そういう政治家は取っ払っていかないと二大政党にしている意味合いは無い。

与党とそれの法案にとりあえず反対したいけどよくわからないから暴れながら賛成する馬鹿達にしかなっていないから

 

国民理解とかじゃない。

選挙の時点でそれを篩い落としていけるよう、今後も頑張っていきましょうね。

私はなぜ安保法案消極的賛成で、何を心配しているのか?

安保法案をめぐるここ一連の流れは、今まで日本という国と国民が先送りしてきた諸々の問題が噴出してきた感がある。それは安全保障だけでなく、日本行政機構構造問題や、ともすると太平洋戦争に至る過程・戦中の流れ・戦後の総括についての話題も含まれるようだ。

先に、これを書いている私個人の意見を述べておくと、憲法違反疑念問題を除けば、安保法案消極的賛成だ。「後ろ向き」賛成ともいう。

  1. 憲法違反の件はヤバイ。あれは下手をすると「政府は何やってもOK」という意味になるから
  2. でも憲法との整合性がとれているなら、安全保障の面では、安保法案で示される流れについては理解しないでもない。
  3. 安全保障の面で理解しないでもない」とはいものの、その舵取りを現在三権行政立法司法)に任せたら、枕を高くして寝ることは一生無理ではないか――という不信感がある。

たぶん、この3点は、程度の差があれども(で、程度の差によって意見が分かれるところだろうけど)、普通日本国民の誰もが感じていることではないだろうか。

憲法違反問題

安保法案憲法違反疑念がある問題は、安保法案主題としている安全保障とは別のところで、大問題だといえる。

乱暴に言えば、「オレオレ憲法解釈」で物事を進めてしまうことは、「オレオレコーラン解釈』」で物事を進めているISISと似たようなものだ(「オレオレじゃない『コーラン解釈』」=イスラム法)。ISIS非難できなくなってしまう。

本来は、安保法案を進めたいのなら、憲法改正すべきなのだ。だが憲法改正に関しては、また別の、根の深い問題がある(後述)。

安全保障問題

憲法違反の件を無視するなら、安保法案で示している内容には、傾聴に値するものがある。

それは「俺は殴るつもりはなかったし、むしろなだめようとしたんだけど、興奮した相手が殴りかかってきて……」というケースにどう対応するか、という問題だ。

基本的に、戦争なんて損ばかりだ。人道的にも、財政的にも、経済的にも問題ありすぎる。戦争せずに済むなら、その方がよいのは当然だ。

太平洋戦争を経て日本が学んだことは、第一に「自分から殴りかからない」ということであり、第二に「とりあえず、まずは話し合いをこころみる」ということだ。この2つをまとめると「揉め事には『大人の対応』で臨め! ガキじゃあるまいし、すぐに殴ろうとしなさんな」となる。

(まあアメリカも、「ABCD包囲網での締め上げ」とか「蒋介石カイロ宣言で『無条件降伏』を要求させちゃった」とか、火に油を注いだところが結構あるのだが)

はいえ、揉め事自分だけでなく相手もいるから生じるもので、相手が最初から殴る気で仕掛けてきたら……と考えると、少なくとも護身はできないとマズイ。

この辺のバランスが、(当時の国際政治の状況やら何やら事情があったとはいえども)自衛隊誕生の一端にある、といえる。

問題は、東アジアの各国が経済成長にともない軍事力も増していることと、経済成長により他国との摩擦が表出してきたことと、世界的な不況の影響で各国国民の不満がたまっていることと、その不満が経済成長による他国との摩擦で高まってきたナショナリズムの気運に流れ込んでいることと、そんなナショナリズムの高まりを各国政府制御しきれるか否か、である。今の東アジアは、第一次世界大戦前夜のヨーロッパ並みにキナ臭い

個人的には、政府戦略として反日を主導している今の中国韓国よりも、何らかの要因で政府の力が弱まって下から突き上げを抑えきれなくなった場合中国韓国の方が怖い。戦前日本にもそんな感じ(=下から突き上げ)があっただけに。

しか他国軍事力が増加しているため、自衛隊との相対的な差が縮まることで、相手から「くみしやすい(殴っても問題ない)」と思われてしまう可能性もある。

日本場合四方が海で、防衛すべき範囲が広い。海上自衛隊海上保安庁はともかく、今よりも備えを厚くする必要はあるだろう。現実問題として、離島地域では中国漁船違法操業問題があるし、竹島尖閣諸島のような離島地域での領土問題も抱えている。

備えを厚くする場合方向性として「自前で全てそろえる」と「仲間を呼ぶ」の2つが考えられる。安保法案後者の「仲間を呼ぶ」の流れを汲んでいる。

実際のところ、日本経済状況的に「海上保安庁自衛隊を拡充して、日本全土を自前の軍隊で守る」というのは厳しい。先に書いたように、四方が海であるために、防衛すべき範囲が広い(というか広すぎる)。また、例えば対中国で考えると、装備や錬度でカバーするのが難しいぐらいに「数」の差がある。

ここで従来のようにアメリカと組むとして、アメリカ軍が度々行われてきた軍縮で縮小していることに留意する必要がある。この影響は、少なからアメリカ軍軍事力を頼りに軍縮していた同盟国に影響を与えている。日本例外ではない。

あと安保法案の話で「自衛隊アメリカの都合で起きた戦争に駆り出されたら――」的な批判がなされるが、同様の批判アメリカ国内にもあるだろう。すなわち「他国の都合の戦争に、自国アメリカ)の若者を送り出すって、どうなのよ?」ということだ。アメリカ軍を引っ張り出したいなら、アメリカ国内が納得する「(アメリカにとっての)大義やメリット」が必要だ。選挙のこともあるだろうし。

安保法案は、いわば「規模を縮小したので一度にカバーできる範囲が狭くなったアメリカ軍の協力をとりつけやすくする(アメリカから見た優先度を上げさせる)」ためのものだ。こうしておくことで、「ワイの後ろには○○の代紋があるんやで」効果で相手を怯ませることも狙えるだろう。

繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのもの必要だ。

三権行政立法司法)不信の日本国民

(再三ならが、憲法違反の件を無視するとして)安全保障の点で、安保法案が示す内容は、良し悪しは別として、ある意味現実路線と言える。

いえるのだが、しかし、実際に日本国民として安保法案に直面して感じるのは、「これ、悪用されずに適切に運用されるのだろうか?」という心配である

私はとりたてて再軍備主義者ではないが、日本再軍備化すると仮定した場合重要になる点を1つだけ知っている。

一言で表すなら、それは「空手の有段者になれ!」ということだ。空手の有段者は強いが、強いからといってむやみに周囲に殴るかかることはない。むしろ普通の人よりも強い自制が求められる。

仮に日本再軍備化するとして、再軍備化したからといってすぐにやたらと殴りまわったら、それはガキの態度だ。大人ではない。軍隊を持つ平和路線の他の国家と同様に「(鍛えてますけど、むやみに殴りかかりませんよ。だって)大人ですから……」という方向が望ましい。

民主主義国家において、このような態度をとるには、第一に軍隊自体暴走を防ぐためのシビリアン・コントロール必要であり、第二に軍隊を統帥する政府暴走を防ぐための「国民による政府監視と、選挙による適切なコントロール」が必要であり、第三に「国民自身の自制」が必要となる。

日本再軍備化を進めるなら、国民はまず自省して、過激な排外主義排除しなくてはならない。排外主義他国他民族とのいらぬ摩擦を生み出し、火種となってしまう。これは大人の態度ではない。排外主義排除されるべきだろう。軽挙妄動は許されない。高い倫理観を持つべきだ。

また国民は、日常的に政府の動きを監視し、選挙直前の動きや宣伝に紛らわされることなく、観察した記録にもとづいて投票を行い、政府暴走の要因となりうる人物を当選させないように努めなくてはならない。

残念ながら、今の日本では、まず選挙による政府コントロールが効いていない。例えば安倍政権安保法案の一件は、2014年選挙の時点で囁かれていた話だ。だが、結果はどうだろうか? 選挙の時、我々は直近の出来事にとらわれて投票していなかっただろうか?

次に、日本では政府暴走の歯止めとなる公的機関存在しない。例えば憲法裁判所がないため、憲法違反疑念がある法律であっても、一度可決・公布されてしまえば、何か具体的な事件が起きて誰かが提訴しない限り、違憲性の審査は行われない。

最後に、行政立法司法三権のどの分野でも構造問題が指摘されているにもかかわらず、何の変化もないため、三権に対する不信がある。

例えば、仮に日本憲法裁判所があったとして、安保法案違憲判断を下すことができるだろうか? 日本裁判官の大半は実質的最高裁判所裁判官に任用されている。最高裁判所裁判官内閣によって任命されている。そして最高裁長官の任命過程においては、内閣意向が少なからず反映されている。このような流れの中に憲法裁判所があるのならば、暗黙のうちに内閣意向に影響された判決がでても不思議ではない(ことに、内閣意向を受けた最高裁判所裁判官胸三寸出世更迭も決まってしまう一般の裁判官の身ともなれば……そして、内閣意向によって出世の頂点(最高裁裁判官)に立てるか否かが決まる最高裁判官の候補や、下手すると引き摺り下ろされかねない最高裁判官ともなれば……)。

行政立法に関しては、外部から見て、どうにも組織に自浄作用があるように思えない。例えば何か問題が起きた場合、大抵はトップ更迭で済んでしまう。何が問題であったか分析し、具体的で効果のある改善案提示し、改善を行い、その結果を問題分析改善案を含めて広く公開する……というPDCAサイクル的なものが、組織外部の国民の目にはみえない。

そもそも我々日本人は、失敗を恐れすぎる。もとより人間は失敗する動物だ。何も考えずに突っ走って失敗するべくして失敗するのは、さすがにどうかと思うが……しかしある程度成功確率を高めたなら、その時点でチャレンジしてみて、失敗したならしたで反省会を行い、次に生かすべきなのだ

だが実際には、なぜか最初から失敗を許さな雰囲気が強いし、失敗するとすぐに責任問題を言い出す(本来は、反省会で色々と分析した上での「責任問題」のはずだが……)。人格攻撃になることもしばしばある。そして早すぎる責任問題に決着がつくことで、本来開かれるべき反省会はなされず、有耶無耶に終わってしまう。

悪いことに、日本社会は失敗に厳しすぎる。一度更迭されたら、ずっとそのままだ。このような環境では、皆失敗を恐れるし、失敗したら隠そうとする。なぜなら、失敗したら、そして失敗したことが発覚すれば、この先一生どん底だからだ。

行政立法構造問題は、この日本社会の「失敗への厳しさ」が悪い方向に作用しているために生じている気がしてならない。誰だって自分の身はかわいいものだ。少なくとも私はそうだ。あんだって、そうだろ?

ともかく、日本国民には少なから三権への不信があるうえに、政府をうまくコントロールすることもできていない。この状態では、どのような法律であっても、適切に運用されるか否かの疑念が生じる。

特に安保法案をめぐる安倍政権自民党の動きはマズかった。政権による強引な進め方や、一部議員による乱暴な発言は、国民にとって「国民政府議会コントロールできていない」という印象を与え、不信を高める結果となった。またオレオレ憲法解釈を持ち出してきたことで、安保法案のものについて「将来、オレオレ安保法案解釈』を持ち出して、滅茶苦茶なことをやらかす政権がでるのではないか?」という疑念を与えてしまった。

安保法案戦争法案」と揶揄される背景には、その内容の難解さだけでなく、「誤った運用がなされるだけでなく、将来、拡大解釈して無茶なことをやらかすようにならないか? そして誰にも止められないのではないか?」という三権への不信が見え隠れしている。

蛇足だが、安保法案を通すには、本来憲法改正必要だ。だが日本国民には憲法改正へのアレルギーがある。なぜか? 「あいつら絶対に余分な変更(=改悪)も入れてくるから」という政府議会への不信があるからだ。自民党憲法改正案は酷かったし、派遣法の改正もアレだった。こんな実例が山ほどあるのだから、不信が高まって憲法改正アレルギーになるのも無理はない。

「我々はキ○ガイなのか、違うのか?」という問題

日本国憲法に関しては、そもそも押し付け憲法論がある。個人的には、押し付けだろうとなんだろうと、ネズミを捕るのが良い猫だと思うのだが……。

仮に押し付け憲法だったとして、ではなぜ世界でも稀な憲法九条存在するのか、という点を考えてみることは重要だ。世界的には、平和路線国家でも(規模の大小はあれども)軍隊を持っているものだ。

要するに、大日本帝国は、当時のアメリカに「キ○ガイ」だと思われたのだ。あいつらに刃物を持たせたらあかん、何やらかすか分かったもんじゃねえ――ということだ。

例えば、現在生きている日本人たる我々がニュースで目にする自爆テロ理解しがたいように、当時のアメリカ人特攻という行為を行う日本人理解しがたかったのではないか? また国体維持のためだけに南方戦線で損耗率7~8割という無茶(現代戦では損耗率3割で全滅判定)をやらかしメンタリティーも理解できなかったのではないか?

理解できないことが、恐怖をあおる。戦略的には、特攻南方戦線での戦いも、大日本帝国政府にとっては裏目に出てしまった。日本軍隊を持つ資格はない、とんだキ○ガイだと認定されてしまったのだ。

しかしこれは、裏を返せば「まともな国になったなら、まあ、軍隊を持ってもええんじゃね?」ということにもなる。まともな大人は刃物を振り回しません、ということだ。

さて、「安保法案戦争法案」と揶揄される背景をもう少し考えてみると、興味深いことに気づく。それは、日本国は未だに「キ○ガイ」ではないか、という疑念だ。これは中国韓国の主張(実際に彼らの言っていることから類推すると、そういうことになる)のことではなくて日本国民から日本国政府ならび議会への疑念のことだ。

というのも、「安保法案戦争法案」という構図には、どこか「また『特攻』や『ニューギニア戦線での地獄』が繰り返されるのでは」という不安があるからだ。

これは、太平洋戦争について国民国家をひっくるめた反省会(失敗の原因の分析、具体的な改善案提示改善案適用)が行われなかった弊害だろう。

そもそも太平洋戦争は大失敗だった(戦争に懲りたということは、つまり、失敗だったということだ)。大失敗だったからこそ、三権国民を巻き込んでの大反省会必要不可欠で――もしかしたらどこかで行われていたのかもしれないが、残念ながら私は寡聞にして知らない。

国民国家自らによる反省会(総括)が行われて、落とし前がついていたなら、ここまで疑念は膨れ上がらなかったはずだ。でも反省会無し・対策も無しなら、「またやっちゃうかも」という心配は残ったままとなる。

戦後反省会が行われず、そのまま70年が経過した。その間、残念ながら三権への国民の不信が高まった。そしてここ20年ほどの政府議会の混乱や暴走ともとれかねない動きは、国民に「政府議会=我々がコントロールできない代物」という印象を強く与えてしまった(仮にも民主主義国家だというのに……)。

再度繰り返すが、戦争せずに済むなら、その方がよい。その一方で、万が一への備えそのもの必要だ。

必要だが、しかしまた「キ○ガイ」のごとく暴走してしまわないか? やむをえない自衛のための戦争ならともかく、暴走して要らぬ戦争を起こしてしまわないだろうか? 三権への根深い不信と、国民政府議会コントロールできていないのではないかという疑念ゆえに、日本国民は、日本という国が「キ○ガイ」のままではないかという恐怖を感じているのだ。

まとめ

私は憲法違反疑念より安保法案否定的であり、安全保障の面では安保法案Permalink | 記事への反応(1) | 18:20

http://anond.hatelabo.jp/20150919011239

組織にはゆらぎがひつようなんですって

あなた天才集団完璧意思統一された効率的職場にいたとしたら

その職場はどんどん進化を余儀なくされてまるでパソコンCPUの中身みたいに

どんどん業務速度が加速して必要な業務消化の規模を拡大されて

人間情報伝達力では分散伝播できない業務が発生したりするんだって

その進化の加速で生き物にはかならず訪れる崩壊がくる時期を早めるんだって

なので延命するために進化を遅らせたり能力制限して世代を交代させたりするそうだよ

あなたに指示を出してあなたの都合を考えず単調な信号を出す信号機みたいな人は

その単純な動作であなたの足を止めるけどそれはあなたのためでもあるんじゃない?

あなた公道サーキット勘違いして暴走して遅い車を罵倒したりより速いタイムを求めて

いつか事故を起こす前に生存を長める役割なのかもしれないよ

生命は困難な状況に陥ると子孫や遺伝分岐を残したくなるそうだよ

あなたが書き込んだその問題あなたがなやむことで

この世はなにかを得ているのかもしれないね

別れたくなかったけど振った

私たちは離れられなくて、別れることなんて絶対ないっておもってた

こんなにお互いを必要としてたのに別れちゃったなんて

彼は今どんな気持ちなんだろう

ひたすら仕事して紛らわしてるのかな

新しい彼女とか、作るつもりあるのかな

はー、もう、嫌なことたくさん思い返してもまだすっごくすき

すきですきでしょうがない

駄目男で周りにもよりを戻しちゃ駄目だよって散々言われてるのに

数年後にまたもしかして・・・とか考えちゃうのがいやだ

毎日毎日一緒に居て、仲良くてたくさん話して泣いて笑ってたのに

もう二度とそんなふうになれないなんて

ほかの男の人とあん気持ちになれるなんて想像もつかない

かっこよくて話がうまくて空気が読めて嫌なことはそっせんしてやってくれて

優しくて頭なでてくれて甘えさせてくれて仕事ができて私のすることにひとつ文句をいったことなかった

朝わたしよりも早く起きて朝ごはん作ってくれた

毎日夢みたいに幸せだった

彼も一緒だとおもってた

もっとこの生活を続けていく努力をしてほしかった

一緒にゲームしてアニメみてタバコすって同じ生活をして

どこで間違えちゃったのかな

やっぱり出張ばっかりの仕事転職したことかな

あそこで考え直せばよかったのかな

幸せ毎日ばっかり思い出しちゃう

連絡したいけど駄目だーー

好きな気持ちが止められなくなって暴走ちゃう

会いたいな

今日の朝最後にあって、すっごく幸せだった分余慶に辛いよ

今朝会えたんだから、また会えるんじゃないかって期待しちゃう

好きすぎて好きすぎてちょっとも嫌いになってなくて辛いよ

あんなに駄目なひとなのに

2015-09-17

http://anond.hatelabo.jp/20150917155350

アメリカ戦争に巻き込まれる、と考えざるをえない

最初にこう書いてるよ

ちゃんと読んでね

から

条件は色々あるとしても取引や同盟と言うのは基本そういうもんでしょう。

あんスーパーに行って

食材ちょうだい」「だが金は払わない、お前の商行為に巻き込まれる気は無い」

って言いますか?

例え話が邪魔なのは議論厨の間では常識だよ

その例え話を用いることが正当かどうかというほうに話がずれるから

不適切な例え話があったらどうぞご指摘ください。

けれどもあんたの話が最初からふわっふわした抽象論なのに

よう人に「例え話禁止!」とかそんなん言うわ~と笑ってしまう。

あんたが

アメリカのペイラインはここだ!ソースはこれだ!」

アメリカは将来にわたって独力で日本の敵牽制駆逐する体力がある!ソースはこれだ!」

アメリカ世論日米同盟の片務性を問題視していない!ソースはこれだ!」

「だから日本はまだ対価を支払わず防衛アメリカ押し付けていくのがクレバーだ!」

なんて感じにガチガチ現実の話してるなら

こっちもだるい例え話なんかようしませんよ。恥ずかしい。

現におまえの持ち出したたとえも、アメリカ目的スーパーと違って金だけとは限らない、と言える

さっきの例え話は

「取引には当然対価がある」というだけの内容であって(まったく馬鹿みたいな内容だが)、

アメリカ目的は金だけ」などという内容はどこにも無い。

確かに受け手がここまで思考暴走した馬鹿だと例え話はアレなのかもしれないが

こんなん例え話の問題と言うより受け手の脳の問題だと思う。

議論したことない人が知らなかったのはしかたないけど本当に常識から覚えておいてねw

議論をたくさんやってきてそのレベルなら地の知能が相当まずいんだろう。

>「同盟矛盾している」

こんなこと一度もいってないよ

領海侵犯理由に持ち出すことに矛盾があると言ったんだよ

ちゃんと読んでね

日本の利害が「領海侵犯を何とかしたい」だとして、

「それをアメリカに助けてもらうかわりにアメリカ案件を助ける」

というのはごくふつーの取引であって何の矛盾も無い。

それすらも理解できないぐらい狂ってる人にたいしては

卑近なスーパーの例え話をせざるをえなかった。

質問質問で返すなw

こちらはペイラインの件について質問されてないけど?

ラインを見極めて「全部アメリカ押し付けろ」って言ってるわけ?」

質問した筈だけどな。

もちろんそんなこと何にも考えずに「アメリカ押し付けろ!」って吠えてるだけなのは知ってるから

質問と言うよりはただのおちょくりだけど。

答えられるなら答えてもいいけど、あんたは答えたくないんでしょう。

http://anond.hatelabo.jp/20150917115008

戦争にならない根拠、なんてもの出せるわけないし、必要ないだろ。

北朝鮮キチガイ指導者が損得無視して暴走すりゃ、どんな抑止力があろうが戦争にはなるんだから

戦争にならない根拠なんてものを求めるんじゃなくて、戦争を抑止する上で、やるのとやらないのとどっちがマシか比較するんだろうが。

そんでやったほうがマシなことは全部やって積み上げて「なるべく戦争にならないようにする」んだろうが。

http://anond.hatelabo.jp/20150917103647

疑問1 『戦争に荷担しない国』ということで、今までそこまで警戒されずにすんでいたのに、『戦争に荷担できる国』になることで寝た子を起こすことにならないのか?

現実問題としてそのリスクはある。

その上で同盟国によって相互に睨みをきかせる状況にするか、今までどおり見ざる聞かざるを貫く(代わりに何かあっても誰も助けてくれない)かという二択。

なおISIL云々については、残酷なようだが個人的には「最初から救助のメは無かった」と考えている。もちろん国としてそんなことは言えないだろうが。

疑問2 この法案は可決をそんなに急ぐ必要があるか?

ない。むしろじっくり時間をかけて議論したほうがいい。

何でそんなに慌てているのかは俺も知りたい。

疑問3 他国と緊張関係にあるからっていうけれど、そこまで緊急性はないんじゃないか?(武力がないと何とかできない段階ではないんじゃないか)

それは認識が甘いと考える。

北朝鮮暴走すると真剣に何をするか判らない。何よりあそこは核+弾道ミサイルという切り札を持っていることを忘れてはいけない。

中国は実際に武力行使することは確かにないだろうが、領海領空侵犯を繰り返しているのは日本武力行使が出来ないことを判っているから。

領海領空侵犯ってのは本来その場で撃墜されても文句言えない。

集団的自衛権日本のみ行使できないのは不公平からと言うけれど。

そこが反対派最大の勘違い案件

確かにアメリカ暴走に付き合わされるんじゃないかというリスク否定できないがいざとなったらぶん殴るという体制を作ってそもそも戦争にならないようにするのが集団的自衛権本来目的

個別的自衛権でいいだろうとか言う奴は、実戦を知らない軍隊である自衛隊の戦力で同等の睨みを効かせられるとでも思っているんだろうか。

疑問5 在外邦人救出についてだけ別の法案を作れば良いのではないか?

だとしても同じ問題が起きる。

今時戦争を起こそうなんて考えるようなアホにとっては相手国の在外国民なんてのは格好の人質だし、そんなアホ国じゃ人道的な扱いがされるという保証すらない。

なので最初からヤバいと思ったら出て行かないようにさせるしか無いんだが、戦地にのこのこ出向くようは平和ボケ現実に居る現状、そういう手合が無意識に相手国に与するのを防ぐためには法的根拠のある強制力を使うしかない。その意味安保法制と合わせて審議するのはそれなりに妥当性はある。

個人的には、法案が可決されることが、新たな戦争を生み出すきっかけになるかもしれないことにもっと憂慮すべきだと思う。

戦争に巻き込まれるんじゃないかとか言う反論をけっこう聞いたがぶっちゃけ当たり前

上でも書いたが、そのリスクを飲み込んだ上で同盟国同士協同防衛するか、今までどおり9条が全て守ってくれるという幻想に浸ったまま知らぬ存ぜぬを貫き通すかという二択であることをきちんと説明しなかったのは政府の落ち度だし、前提である9条修正という話が出た途端に発狂して一文字たりとも修正させないと暴れ「改憲不可能」という空気を作ったのは反対派最大の落ち度だと思っている。

2015-09-16

彼女ネトウヨを更生した

 まず理論説明してもバカ過ぎて理解できねえから感情から攻めていかないとダメだと判断した。

 で、戦争悲惨さを教え込んでいった。

 手始めに蛍の墓コソボ紛争強姦合戦について説明してやることなんかもよかった。ポルポトがやったことやISISの活動内容、ヨーロッパ難民の苦難であっても通用した。感情を揺さぶって、それをフォローしつつ巨大な悪意について生理的嫌悪感を刷り込んでいった。基本的に泣いたあとにセックスしてやればいいんだから簡単だね。そうしてから日本軍部暴走や、学童徴用特高警察についても触れていった。

 効果は抜群だった。彼女日本軍マンセなんて言えなくなってたよ。ネトウヨはいわゆるブサヨに取って代わったんだな。でもま、そのブサヨ気質が鬱陶しくなってきたから、もうセフレに格落ちさせたんだけどね。

2015-09-15

アラフォーの子供の頃に見た子なしの世帯

私が子供の頃、40軒くらいの規模の新興住宅地に住んでいた。

大半が同年代の子もちでいつも大人数で遊んでいた、5才くらい年上の世帯の兄さん姉さん達は可愛がってくれていた。

人夫婦の世帯は庭の柿を取らせてくれたり、お菓子をくれたりした。

いつも学校から帰ると友達の家の前で○ちゃんあそびましょーと大声で呼び、道路ドッジボールゴムとびや花いちもんめやかごめかごめや缶けりやじゅんどろをこれまた大声でやっていた。

時には自転車鬼ごっこやろうぜーとバカが言い出して、自転車暴走したあげくに捕まえようとしたら2台ともこけるので中止したりもした。今から思うと事故にならなくて良かった。

毎日笑って遊んでいた記憶しかない。

いつも遊んでる十字路の前にいつも雨戸を閉めている家があった。

親達と同年代だが、その世帯住宅地で唯一子供が居なかった。

めったに顔を見ることもなく、たまに見かけると睨み付けてきた。

その人の家の裏は川があって、横に土手がありそこではつくしや野イチゴが取れるので子供達はよく収穫に行っていた。

そこで私がまだ園に通ってない頃に事件を起こした。

近所の小さい子達と一緒に野イチゴを摘みに行って、子なしの家の裏でイチゴを見つけたのだ。

凄い本物のイチゴがある!とたらふく食べて子供達はそれぞれ家族イチゴ土産に持ち帰った。

まあ当然ながら家の裏で子なしが栽培していたイチゴだった。

母は特大雷を落として謝りにいったが子なしは非常に怒っていた。

母も凄い剣幕で怒り家の前で私の尻を叩いた。

近所の婆さんが出てきて取り成してくれて、やっと尻叩きがやんだ。

から聞いた話によると子なしは愛想が悪く近所の付き合いもなく会うと嫌みを言う変人的な位置付けだったらしく、やっかいな事をしてくれたと思っていたらしい。   

そしてイチゴ泥棒家庭の母への嫌みは私が中学に行っても続いていたらしい。

から思うと外でみたら睨み付けてくる程度で子供に直接来なかったのは不思議な感じだ。

私は子供の遊び声好きだけどあの人は嫌いだったろうに、毎日夕御飯まで家の前で大音量で遊ばれるのも辛かったろう。

あの頃に匿名掲示板があれば近所の子供達を悪し様に書いたりして子なし仲間とつるんだりもできてたんだろうな。

久しぶりに昔の家の前を通るついでに見ると相変わらず雨戸を閉じて庭も荒れ果てて住んでるかどうか解らない家だったのを見て思い出したのでメモ

http://anond.hatelabo.jp/20150915120619

「賛成」と言ったら暴走する、「慎重にしろ」と言ったら積極運用する、「反対」と言ってようやく慎重運用する馬鹿が相手だから仕方ないね

2015-09-10

世界いちばん遠回りな世界一周

もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルエントリ投稿した。あの話の続きをしようと思う。

※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。

※前回のあらすじ:高校中退工場派遣プログラマホームレス自立支援施設プログラマ海外放浪職業訓練世界一周アプリを作る


あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題世界一周についてである

はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリ正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。

開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。

しかし世界は巨大で、そして複雑だ。

国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区連邦直轄領もあり……。

そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。

国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域人民主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国から承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。

それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧ものなんだろうか。

からない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである

だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。


1989年11月ベルリンの壁崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。

それからしばらくして、社会科教科書世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。

時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。

ベトナムホーチミン市にある戦争証跡博物館ベトナム戦争記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。

銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。

何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。

資本主義

共産主義

イデオロギーとは何だ?」

そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊ニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。


あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。

しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類歴史の始まりまで巻き戻そう。

まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川ナイル川インダス川黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこから世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。

特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったとき意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキー世界でもエリート世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。

そして絶対的権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革名誉革命フランス革命。それまで聖職者王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国フランス共和国に。ああそうか、王国共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。

しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。

そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史さらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者悲惨労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初社会主義国ソビエト連邦誕生する。

いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。

しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなもの必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。

その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団演算能力よりも、多数の平凡な人間無意識的な分散コンピューティング見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである

そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史証明している。独裁政権必然的暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人おもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメント家庭内虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。

こうして自由主義資本主義矛盾への疑問から生まれた社会主義共産主義は、自身内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。

天秤の片方から社会主義共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義資本主義へと大きく傾いていく。混合経済社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ

そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配必要なのか。なぜ憲法必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。

ミクロ領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロ領域――世界市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界市場や情勢を動かすのか、逆に、世界市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間演算能力の限界を遥かに超えているからだ。

「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論マクロミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正から正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。

ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだマクロミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。

進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。

頭の中に浮かんだのは、「大学に行く」という選択肢だった。


大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。

何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級人間世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。

でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。

からいまは自分高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。

あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。

いまの時代大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気エネルギー必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。

現実的問題もたくさんある。資金、学力人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。

これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。

だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。

僕は大学へ行く。

そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。

ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。

僕は、「大学へ行きたかった」のだ。

続き→http://anond.hatelabo.jp/20150910220232

2015-09-07

五輪エンブレムをめぐるホッテントリについて

深津貴之 氏の見解が多くのブクマを集めている。

   http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

   http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/

 

実はこれは、「劇場ロゴパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨のもの組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。

 似ているとか似ていないとか最初に言い出したのは誰なのかしら

 

しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。

 

 1.劇場ロゴパクリは争点ではない

劇場ロゴパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。

 

では、何が話題になったか? 次の二つだ。

  (1) 劇場ロゴとの類似性

  (2) 他の画像パクリ(盗用)

 

前者は、著作権問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。

後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美ポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。

要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。

その意味で、深津貴之 氏の見解のもの意味を持たない。ありもしない仮想敵攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。

劇場ロゴパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象否定しているだけにすぎない。

 

 2.チヒョルト展のパクリ

劇場ロゴパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。

このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要ものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。

  http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg

なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。

このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。

(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーからだ。)

 

さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。

とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)

 

 3.専門家に任せるか?

深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。

1. 大衆によるデザイン判断は、デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、専門家への信任が必要

 

しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。

   http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html

ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人勝手に決めてしまたからだ。(そして佐野最終案に決まった。)

 

また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。

デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。

  ・ ベルギー劇場と法的争点をかかえている。

  ・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。

  ・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)

  ・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)

  ・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)

  ・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。

   (大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)

  ・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。

   (制度を逸脱した暴走であると判明した。非合法ふう。)

 

これらの問題が続々と判明した。このことから五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意無視して、「専門家判断に任せよ」というのは、問題デザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題所在理解していないと言える。

自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。

今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)

今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。

 

最後に一つ。

深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターン出来映えのような見方によって決まったのだ。

そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。

自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである

専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。

 


 

 追記。

 

id:sisya 参照元エントリ全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。

 

本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨

 

だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギー弁護士だけだ。日本人ほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。

 

この事件問題点は、ベルギー裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)

 

もちろん、本項でも、著作権問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)

 

id:allezvous 著作権侵害要件たる依拠性を検討できない分析なぞ意味はない。

 

依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギー弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮記事に書いてあるので、そちらを読んでください。

一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性けが問題となります。たとえば、ミッキーマウス著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます

なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。

 

id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です

 

それはわかっているし、本項もその趣旨で書いてあります

それを前提とした上で、“五輪エンブレムデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています五輪エンブレムデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。

端的に言えば、「パクリデザイナー作品五輪正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。

本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。


 

誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。

ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端酒場でおしゃべりするための話題

今回の騒動は、佐野デザイン五輪エンブレム正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。

一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。

深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。

 


 

その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。

 

id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。

 

この問題専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。

1. 大衆によるデザイン判断は、デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、専門家への信任が必要

 

しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。

1. 大衆によるデザイン判断は、外見やキャッチーさに集約されていまう。デザインの一側面しかジャッジできない。

2. 多面的ジャッジするためには、デザイナや弁護士など専門家への信任が必要

 

深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます

大衆デザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定役割があったと言えるでしょう。

 

  ※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。

    引用部分はコピペしました。

 

id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん

 

まとめ:

この問題本質は、最終案が劇場ロゴパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまりデザイン問題ではなく、法律違反をした作者のデザイン五輪採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題デザイン専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザイン専門家に任せよ」という主張は、今回の問題本質からは外れている。

 

  

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