はてなキーワード: 受験戦争とは
学習指導要領が変わると学ぶ内容ややり方が変わるゆとり教育ぐらい変わる
最近では文春も週刊誌も黙って眺めているがかなり大きな変革である
今回の主題は「主体的・対話的で深い学び」。お分かりになるだろうか?
対話的というのは他の人との意見交換を経て自分の力にするということ。コミュ力
深い学び。よーわからんが、知識のネットワークかをしてエウレーカ!自分で様々なことから学びとること。
この改訂は30年前の受験戦争・学力偏重社会とは大きく離れて、
何が受けるかわからない時代。何がこの先生き残れるかわからない時代を生きていく力という点に重点を置かれている。
そんな時代に出身大学で出世が決まるなんてナンセンス。無論学閥は残っているので、学閥出身者の引き受けはありあえる。
入試も変わる。これからは共通テストの点数のみならず口頭試問やグループワークも入試に加わる。
どんどん大学の入社試験が降りてきている感じだが、そんな感じになるんだろう。
立身出世が自分の頑張りである学力だけでなく、地域の文化力、家庭の文化資本、学友の知的レベルにまで波及する恐ろしい時代なのである。
この場合に、階層の固定化というのはどう作用するのか?進学塾に行ける家庭は確かに強い。
はたまた、地域総ぐるみで教育にあたる文教都市が受験に強くなる「地域圏学力差」が生まれ、やはり東京のあたりが強くなるのか?
それはわからない。
私としては社会の人材育成の観点から行って、社会人になった人間が改めて自分の専門に近いユニバーシティやカレッジに通いやすいリカレントがしやすい社会であって、再挑戦・リベンジを後押ししてくれる社会になれば、日本社会としての強度も保たれるものと思う。以上、論考終わり。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/shota_hatakeyama/n/n5662ae20a1e9
上記の記事を見ながら思ったのだけど、これは高等教育を受けたものだけが富を得られるという構造がやはり大きい。
日本にもあるがアメリカは人種問題や教育制度の仕組みもあってより深刻になってる感じがする。
日本でもアメリカでも教育は誰でも平等に受けれることになっており、勤勉に努力したものだけが努力の結果の報酬として様々なメリットを受け取るのは資本主義的に正しい気はするし、インセンティブの管理としては妥当に思える。
この前提にたって「自分たちは勤勉であったから価値があるのだ。怠惰だったものはもっと頑張れ」という主張は一見正しい。
このような人は所得の高い職に就き、お金持ちになるし何よりわが子の教育に再投資する。ゆえに正のフィードバックが回り経済格差は固定化される。貧乏人は教育を受ける余裕もなければ教育が大事という教育すら受けてないのだ。魚の釣り方ではなく魚そのものが必要な状態では仕方がない。つまり「自分たちが勤勉」という前提は必ずしも真ではなく「勤勉でいる事が容易な環境に生まれた」という本人には管理できない部分によるところも相当に大きい。もちろん「貧乏でも努力して。。。」みたいな例外はいるが例外は例外である。その例外を受け入れる姿勢は良いことだと思うけど。成り上がるチャンスはあるが、成り上がるより引き継ぐ方がずっと簡単とう話。
これが財閥クラスの真の大金持ちだと100年後の安定を求めて社会全体の教育水準を上げることが地域の安定や経済的な富になると考え投資もするだろう。彼らは社会基盤が安定してればもはや稼げるのだ。ゆえに社会基盤を安定させることが経済的な基盤を保つための原則だ。
しかし年収数百万だの一千万だの数千万と言ってる程度の中流階級な小金持ちはそうではない。競争に勝たなければ経済基盤が安定しない。勤勉が価値の源泉だ。ゆえに自分たちの同僚のような勤勉な黒人の権利を守るために働きかけるが、怠惰な黒人がどうであろうと基本気にしない。勤勉でインセンティブが得られるという構造が自分たちの利益になるのでそこを守るために動いている。
つまり「黒人差別はしないが黒人も白人も貧困層(=怠惰な層)を差別する」。別に博愛主義者じゃないので勘違いしないでよね。
もちろん、そうでない人もいるがそれは単にその人の趣味だ。「人はパンによって生きるのではない」。そういった趣味とか信念とか信仰の結果でそういった行動をする人たちももちろんいるが、経済的なメリットとか即物的なものじゃないので万人の行動原理にはなりづらいだろう。
自分は所謂がり勉でもないし、受験戦争とは無縁で家族からも過度に勉強を強いられたことはないが、塾にも通わせてもらったし大学にも行くことができた。
父は時折「お前は次男だから財産として渡せるのは教育だけだ」という事を言っていた。田舎の兼業農家なので継ぐといっても大層なものは何も無いのだけど、少なくとも人材的投資の価値を信じていた言葉だと思う。
まあ、母は学校の教師だし、父も大学ではないが農業の専門学校を出たようなので当時の地元としては高等教育を受けていた可能性は高く、そのサイクルを肌身として知っていたのではないかろうか。そんな話をしたことはないが。
いずれにしても、この状況から自分の価値感はかなり小金持ちよりだろう。実際、仕事してれば生きてける程度にはお金に困っていない。そういう感じで恩恵を受けている側なので50年、100年の未来に問題が噴出するだろうが積極的に改善するモチベーションが無いのも本当のところだ。人種によらず努力が実る環境は目指すが、努力しなくても何とかなる社会をそこまで目指してはいない。
現在の格差拡大は貴族と平民、大富豪と奴隷、そういった近代的な価値観とは違いあえて言えば平民同士の格差の拡大だ。そういった点が今回のアメリカ大統領選でも見えた気がする
大富豪は別なレイヤーに存在していて、どちらかとうとそちらの方が自分たちのメリットのために平等や底上げを目指していると思う。
構造的に政治の中枢というのはエリート、つまりここでいう金持ちが集まりやすいので抜本的な改善はクーデーターでも起こらない限り難しいのではないかな。。。
すでに富の再分配として日本でもアメリカでも高収入の人間は税金をバカすか取られてるわけだし。たしか日本だと少なくとも年収が年収890万円は無いと払った以上の公共サービスを受けてることになるみたいだし。まあ、実際は消費の担い手としての価値もあるから社会のお荷物というのは言い過ぎだけど。
これを程度レベルじゃなく根本的に変えるにはそれこそ社会主義的なドラスティックな変更でもないと無理な気がするし、個人的にはそうはなってほしくないというのが本音である。
個別の喧嘩の発端は…こちらに責があることもあれば向こうに責があることもあるし、最初は自分が我慢して済むならそれでもいいやと思ってたんだけど、やっぱり理不尽な怒りの暴発を難度も経験すると、徐々にこっちの自尊心が削れてくるし、不機嫌の徴候が見えるだけで心理的に身構えてしまうんだよね。無意識のうちに、相手の地雷(どこに埋まってるかわからないんだけど)に触れないように立ち回るようになる。そうすると家庭が安心できる場でなくなってしまう。
もともと彼女自身にも、そういう感情的制御ができないことの自覚はあるし、直したいとも思っているんだけど、キレてる最中に「そういう言い方や態度はよくないよ」と意見しても耳に入らない。「どうせ全部私が悪いんでしょ」「はいはい、また私のせいなんだよね」となって会話を打ち切り、刺々しい振る舞い(ドタドタ歩いたりドアを閉めたりモノを乱暴に扱ったり)して、後には不機嫌な空気だけが残る。これがなんともやるせない。一定時間が経って落ち着くと、何もなかったように振る舞うか、一応は「ごめんなさい」と言ったりもするんだけど、そういう殺伐とした感情って人の心を痛めつけるんで、お互い何もなかったように振る舞っていても、やっぱりこっちの心は無傷じゃなくて、刺されたり殴られたりした疼きが残る。たぶん相手の心も無傷じゃない。どっちにもいいことがない。
で、子供が生まれて物心がついてきたのを機に、お互いに真正面からこの問題に向き合うことにした。子供が親の逆上や不機嫌に萎縮するようになったら誰にとっても不幸だ、というのはお互いの考えが一致していたので。
実はこの「子供との関係」というのが重要で、結論から言うと、彼女が毒親(母親)に非常に悪い育てられ方をしてきたことが全ての起点になっていた。母親、自分から見ての義母は、幼い頃の彼女を蹴ったり殴ったりした。氷点下に近い納戸に数時間閉じ込めるという身体的虐待もあったし、ネグレクトも罵倒もあった。理由は、折り合いの悪い義祖母に顔立ちが似ていたから、ということもあったようだし、良家同士の見合い婚で専業主婦になった自分にとって「育児を成功させ、娘は良家に嫁がせる」ということが唯一かつ至上の役割になっていたこともあったようだ。それほど受験戦争が激しくない地方にあって小さい頃から娘に複数の塾や家庭教師をつけ、成績が思うように伸びなければ「あんたはなんでできないの」「私が恥をかく」と詰め、娘の夏休みの自由課題が賞をもらった翌年からは、傾向と対策を踏まえて母親が課題を制作し、受賞すればそれを周囲に誇るようになった。義母にとって娘は自己の付属物であり、自分の能力と努力を表示する成果物だった。これは娘側の一方的証言ではなく、義母本人がそのことを問い詰められて(娘以上に感情的に)キレたり、逆に緘黙する状況を自分も見ているので、嘘や極端な誇張はないと思う。
そういう母親との間で育った娘である奥さんは、根本のところで自己肯定感がとてつもなく低く、「自分には価値がない」という強迫観念に苛まれていた。彼女は親元から離れたあと、亡父の尽力もあって学歴にはやや不相応な金融総合職につくことができ、廻りの高学歴の人達に揉まれながらも持ち前の根性で「コネ入社の腰掛けさん」に留まらない営業成果を出し、職場でも多くの同僚に認められるようになった。でも、これは見方を変えると「自分が無価値な人間ではない」ということを自らアウトプットや業績評価によって証明し続けなければいけなかったからそうしていたわけで、その「頑張り」は結局は不安と強迫観念によってドライブされてたんだよね。背景にそういう動機があって「頑張り続けなければいけない」人がどうなるかというと、最後はメンタルヘルスを崩し、拒食症になり、自己都合で退職した。つらい。
その後いろいろあって彼女は自分と結婚したんだけど、お互いに落ち着いている時に(感情的にチャージされてない状況で)この課題について話し合い、時にはネットの情報や心理学の書籍なども参照しながら考えるなかで、激昂の背後にあるのは自己肯定感のなさだということが見えてきた。彼女は成長の過程で「人間は能力や実績によってだけ認められるわけではなく、ただ人間であるだけで価値がある」という確信を得てこなかった。母親から与えられたのは条件付きの愛で、条件を満たさなければ存在自体を否定された。だから「認められるために頑張る」という所作が身についた。
頑張りの中には「社会的に認められる人格を演じる」ということも入っているから、ソーシャルマナーはちゃんと実践できる。人当たりはよく、好感度も高い。しかしそれはあくまで「舞台」に立って「頑張り」を発揮して評価を獲得しなければならない状況での話で、身内にはこのルールが適用されない。だから親族や家族の中に(彼女の基準で見て)頑張っていない人(例:私はこんなに頑張ってるのに、あなたは)、彼女の頑張りを認めてくれない人、彼女の頑張りの成果をスポイルする人(例:頑張って片付けたのにまた散らかして)に対しては、時に制御の効かない怒りを感じ、苛烈な言葉や行動を直接ぶつけてしまう。自己肯定感が低いから、他者を無条件に肯定できない。自分に課した高いハードルと同じ評価基準を相手にも課し、それを満たさない相手を詰る。そういうメカニズムがあるみたいだった。
ついでに言うと、彼女の母親にとっては娘自身が「彼女の頑張りをスポイルする人」(一生懸命教育してるのに成果を出さずに「私に恥をかかせる」から)だったので、娘に対してそうした精神的身体的DVを繰り返していたわけだ。自己肯定感の欠如と感情のコントロール欠如という点では似たもの同士だった母親と彼女との喧嘩は、ちょっとした言葉尻の棘を捉えて相手を強く咎める(「それどういう意味?」とか「あなたはいっつもそう!」とか)の繰り返しで、なんでもないやりとりがあっという間に激しい罵倒の応酬にエスカレートしたりする。まさしく言葉の刃で刺し合うがごとくで、たまたまその場に居合わせた自分もぐったりと疲弊し、時にはあまりの情けなさに泣くこともあった。
ともあれ、我々2人は「こんなことが当たり前ではいけない、子供をこういう『こじれ』に巻き込まないようにしよう」ということをスタートにして、まず彼女と母親との関係は明らかに機能不全に陥っていること、彼女の母親が過去も今も彼女の自尊感情を蝕んでいること、自尊感情の乏しさが他者への非寛容や感情制御の困難につながっていること、自分は母親の承認/不承認にかかわらず価値のある人間だし、他人もそうだということなどをひとつひとつ確認していった。彼女は最初は「母親はもしかしたら毒親だったのかも」程度の認識だったのが、あまりにも定型的な虐待のパターンのど真ん中に自分がいたことを知り、自分の感情コントロールの難しさが個人の資質というより関係の病理に起因していることを学んだ。そうすることで、母親との関係も1:1の差し向かいではなく、その関係自体を第三者として見る視点を手に入れた。自分はそのときに情報や考察の手伝いはしたけど、結局それは彼女自身の自己探究の道のりだった。
それでどうなったかといえば、状況は明らかに良くなっている。奥さんはアンガーマネジメントを少しずつ理解し、実践している。実際にキレる回数は格段に減った。キレてしまった時はそのままにせず、すぐ言葉にして反省するようになった。YOUランゲージを控え、Iランゲージを使って自分の希望や意志を率直に伝えられるようになった。母親とのやりとりもベタ足の殴り合いをするのではなく、だんだんと「所詮は他人でしかない、母親とのやりとりで感情的に消耗したくない」という感覚を持てるようになってきている。無駄に険悪になることもないが、母親だから近しくしなければいけないという「演技」からもちょっと解放された。やっぱり根本的な原因や構造が見えてきたことで、本人の物事の捉え方も変わってくるんだと思う。
…というわけで、うちの場合は子供ができた結果、徐々に状況がよくなってきたんだけど、これ「子供が生まれたから良くなった」じゃなくて「子供がいるから良くしないといけない」という問題意識を両方が持ったからだと思っている。逆に言えば、元増田の場合、子供ができなくたって「この状況を放置するのは2人の心理的安全性にとって良くない、2人の関係の健康を損ねる」という意識で話し合うことができれば、だんだんと建設的な方向に向かえるかもしれないよ。
さっきも書いたけど、うちの場合は、彼女の病理というより関係の病理だった。だから時間はかかったけど、こじれた関係を解きほぐすことが解決の糸口になった。元増田の奥さんが同じかどうかわからないけど、参考になったらうれしい。お互いがんばろう。
10年以上は前の話。
田舎出身。都会に憧れがあったので、首都圏の難関ではない某国公立大を志望した。当時の自分の学力に合っていて、希望する学科があるのがそこだった。田舎の県立高校で地道に勉強し、受験し、合格した。他の大学のことはよく知らなかった。国立単願だったし、元から偏差値が合わない大学は眼中になかったので。俺はただ憧れの大学に通えることが誇らしく、新生活に胸を躍らせていた……
4月。新入生オリエンテーションが終わり、同じ学科の数人で集まって話していたときのことだと思う。経緯は忘れたが、同級生の1人が「こんなBランク大学」と言ったのだ。「本当はこんな所に来るはずじゃなかった」「俺の同級生には東大生がたくさんいる」と。(今考えるとFランではなくCランでもなく「Bラン」をチョイスしたところに彼の葛藤が伺える)
それを聞いてとてもショックだった。なぜかは分からなかったが、ものすごくショックだった。地道に勉強して、希望どおりの大学に入ったのに、目の前のこの人はそうではないんだと。当時は学歴コンプレックスというものの存在がよくわからなかった。ただ、全く違う価値観で生きてきた人なんだということは感じた。まさに異文化との遭遇。田舎の高校にも、難関大学を志望したりそれで不合格だった同級生はいたが、それとは違う何かを感じた。
それからしばらく経って、大学の同期の中にも「中高一貫の進学校」出身者が多くいることに気づいた。そこは田舎の県立普通高校とは全く違う何かであるようだった(今だによくわからない)。また、関東出身の同級生たちは殆ど皆、受験予備校に通っていた。河合塾とか駿台予備校とか。都会出身の同級生たちは受験戦争の荒波に揉まれまくった生き残り(または、当人の感覚では敗残兵)だったらしい。東大とかナントカ難関大学とかの高みを目指し、そこにたどり着いた、またはたどり着かなかった、妥協して腰を落ち着けた…。マジかよ。田舎の価値観と違いすぎるだろ。そら学歴コンプにもなるわ。子供のうちからそんな生活してたら心が荒むに決まってるじゃん。
とくにオチもないんだけど、このことは何故かふとした時に何度も思い出すし、地域間格差とか、学習機会の均等とか、受験戦争の過酷さとかなんかそんな話題が出るたびにジワーっと思い出してモヤモヤするので吐き出したかった。
この前ツイッターで
「なんで運動や他の特技はアピールしても、それほど嫉妬されないのに、学歴だけ妙にみんな過敏に反応するんだろう」と
つぶやいていた御仁がいた
言いたいことはわからんでもない。
でも、学歴を他のスキルと同等に扱えないのはそれなりに明確な理由がある。
全入時代で、定員割れしてる大学も多いから、全員がガチで勉強して進学する訳でもない。
それでも中卒・高卒・専門卒・大卒(四年制・短期)・院卒と、基本的に誰もがどこまでの教育を受けたか区分けされる。
勿論、大卒の中でも、というより大卒の中でこそ、旧帝早慶・駅弁March(最近はSmartなんだっけ?)・日東駒専~なんやらかんやらと、細かいヒエラルキーというか、序列意識が存在する。
そりゃ、義務教育・高等教育期間と、正味12年(以上)かけた上でのレース結果である。
でもこれだとある意味、全員に"学歴"という属性が強制付与されてるようなものだ(非常に気持ち悪い表現だが)。
紙切れ一枚に夢託す
実際、紙切れ一枚で頭の良し悪しなんて、簡単に判別できるものではない。
そんなの、みんなわかりきっている。
わかりきってるし、学歴信仰・偏差値信奉者は一般的にはクソダサいので、学歴で頭の良さが決まるなんて、皆さん口に出して言わない。
でも、実際の所はどうだろう?有名企業の就職率は技術職の理系ならまだしも、文系でも明らかに全体のうん%しかいない一定以上の高偏差値層で固められている。
場合によっては、就職後の研修まで大学のランク別に分けられている。なんだよ、企業なのに、予備校と一緒かよ。という感想である。
学歴=頭の良さではないが、高学歴の方が勤勉性が高かったり、論理的な(座学的な)思考能力が高かったり、まあそれらを測るシグナルとしてはそれなりに信頼性は高いわけだ。
人間外見より中身のが大事だが、これだけ肥大化した社会ではそこまで丁寧に中身を見ることはできないので、大数の法則的に学歴を足きりの条件として使わざるを得ない。
これだけでも、お勉強できましたアピールは、運動できた、楽器弾けますという類のアピールとは、殊更性質が違うことはお解り頂けたであろう。
(優秀で高学歴な増田諸氏からはわかりきったことほざくんじゃねーよ、と切れ味鋭いツッコミが返って来そうであるが)
そして学歴がコンプレックスを非情に拗らせやすいのは、加えてややこしい要因があと二点程挙げられるからである。
増田のような過ごした田舎の公立校では、若くて楽しい青春時代に、机に齧りつくのはダサいと考え、学業に重点を置かなかった層も一定数(というかかなり)いる。
就職やその後、たかがテストの点数でこうも扱いが違うの?阿呆じゃね?ということを痛感したときには既に遅いのだ。
もう少しだけ、勉強にステ振り分けてれば、後の人生もっと楽だったのに。妥協して滑り止めに入るべきではなかった。
働きながら、資格を取ったり、通信などを含めて学び直すことも可能ではある。
が、正直それは、学業に集中することが許された時期に比べると、かなり余裕を持つことが難しいと言わざるを得ない。
特に通常の大学進学なら、合格後も4年間まるまる勉強に専念することになる。
結婚や育児、職場で責任あるポジションを任されると言った事情があれば、尚の事これは難しい。
なんだかんだで家庭環境や出身地など他のデリケート要素が絡んでくるからである。
文科大臣が新受験制度における教育格差について指摘されたときに、「身の丈発言」で物議を醸したことは記憶に新しいだろう。
だが、失言だったには違いないが、家庭環境及びその収入、或いは予備校や進学校の多い都市圏で暮らすか否か
都市圏に多い私学の中高一貫校は、難しい試験を課して入学者を選別する。
その試験を突破するにもやはりある程度家計に余裕がなければ、合格は厳しいだろう。
そしてレベルの高い生徒が集まる環境で、難関大学合格を目標に塾や学校で、合理的で進度の早いカリキュラムが組まれる。
無論、地方だろうが、世帯収入が低かろうが、ストイックに学習に励むことは可能だし、賢い子どもは幾らでもいる。
だが、都市圏でかつ富裕層の方がそれだけ選択肢に恵まれている。この点は否定のできない事実である。
そして、何よりデリケートな問題なのが、やはり不向きな人はそれなりにいる、という点だろう。
「ケーキが切れない非行少年たち」という児童精神科医が書いた本が話題になったが、
境界知能と呼ばれる、IQ70〜84の知的障がいに該当しない人の割合は実は人口の約14%に当たると言われている。
IQと学力の相関性は、増田は実際のところ門外漢なので、少し言いづらい部分もあるが、スポーツがどうしても苦手なタイプがいるように
勉強がどうしても苦手だという人もそれなりにはいるような気がする(公立小中で過ごした時期を振り返って)。
増田はスポーツがどうしても苦手だが、かろうじて学業だけは人並の成績ぐらいはおさめられた。
スポーツが苦手なのは、子供の頃からのコンプレックスだが、歳を重ねれば、学生の時に比べ、そう比較には出されない。
勉強だって基本的にそうだ。だが、別に努力しなかったわけでもなく(あるいは努力する機会がなかったために)、勉強が不得手であった人に
そうしたコンプの瘡蓋を刺激するようなことをすれば、話がややこしくなるのは当然である。
加えて、社会的な記号として、長い期間付いて回る問題でもあるから、二重にややこしく、なるべく人と比較しない方が無難な話題である。
「縁あって」「幸運にも」愛する人と出会い苦しくて死にたいとも思うような人生から抜け出せたような気がする←わかる、お幸せにね!
お前の子供も苦しい人生を送る可能性が高いだろ!お前30年間何を学んできたんだ?喉元過ぎれば熱さ忘れるっていうけど、さすがに鳥頭すぎませんかね。
お前がこれまでに感じてきた苦しさ、この世への絶望、死んでしまいたいという気持ちはなんだったんだよ。生殖本能にそんなに簡単に負けてアッサリ子供を作る方に行ってしまうことに恥ずかしさは覚えないのか?
お前の子供はお前が感じたような絶望を感じないと思うのか?受験戦争→就活→労働の黄金コンボを受けてもまったく人生がイヤになったりしない社会適合者が産まれるに違いないと思ってるのか?産まれたらいいねえ!
多分そうはいかねえぞ。家庭環境がショボいんならもはや本人の資質に期待するしかないが、ショボい環境から人生を謳歌できるやつが産まれる可能性なんてごく低いだろ。お前と同じように死にたい死にたいなぜ産まれないといけなかったんだと思いながら生きていくようになる可能性の方がよっぽど高い。
お前みたいに「縁」があればいいが、それが「幸運」にすぎないというのはお前も認めるところなはずだ。生涯未婚率なんて今の時点で2割もあるわけで、今後上がりこそすれ下りはするまいから、お前の子供はけっこうな確率で生涯未婚になる。
なんの意味もなくて何も残せなくても暮らしそのものが楽しければいいよな。俺もそう思うんだけど、正直そんな世の中になるビジョンは見えないよ。機械技術がいくら発展してもそれで楽になるのは資本家階層だけ、「人間は機械より安い労働力」になることはあっても労働から解放されることはないんじゃないかと思う。これは被害妄想的な考えだけど、たぶん金持ちは踏み付けにできる人間が欲しいんじゃないかな。みんながみんな働きもしないで趣味をエンジョイして楽しく生きる世の中じゃ階級にもあんまり意味がないじゃない。だから、下の階級のやつにまで楽しみを与えるようなことはしない。意味のない仕事を延々やらせ続けて苦痛を与え続け、それを見ることで自分の幸せを実感する、そういう構造の社会にしかならないんじゃねえか。
ダメだよこの世は。お前はそれを知っていたはずなのに愚かにもチンポに支配されて可哀想な子供を生み出してしまった。最悪だよ。
まあ人間いろいろだし、逆境に負けず「生きてて楽しい!」なんて言うガキが生まれてくる可能性だってゼロじゃないけどな。本当にそうなるといいよな。お前が子供から「産んでくれなんて頼んでない!」って言われて落ち込むのは因果応報だし別にどうでもいいんだけど、そんなことを言わないといけない子供は純粋にかわいそうだ。
賭けに勝てるといいなあ。俺は可哀想な存在を一方的に生み出す可能性がある賭けをしたって時点でお前を心底から軽蔑するけどな。
しょうがないことなんだけど,真面目な話をしていると彼女の言っていることに違和感を感じて辛い.彼女は受験戦争とは無縁の世界で生きてきた人で,高校や大学も近所の言っては悪いがあまり偏差値の高くないところに通っている.彼女とはマッチングアプリで知り合って,最初のうちはなかなか理知的な素敵な人だなと思ってた.ただ,真面目な話 (特に喧嘩になった時など) をしているときにたびたび「それは違うのではないか?」と思うことが増えてきた.十分に他者の批判に晒されたことがないみたいで,なんと言うか考え方にちょっと違和感がある.ちょっと真面目に批判してみたりするんだけど,そうすると人格を否定されたと感じるようで酷く傷つけてしまった.「幼児英才教育を受けてきた人」に以前酷い目に合わされたようで,本来はそう言う人を毛嫌いしているみたい.批判意識の強い人の攻撃性をただ「悪いもの」としか考えていないようだ.確かに妙に凶暴な人がいて困ったものではあるんだけど.時にはその凶暴さも必要であると理解していない.言っていること,友達とSNSで話していること,がなんと言うかぼくには理解できない価値観でぼくの周りにはこう言う人はいなかったなあと思うばかり.恋愛関係であれば「浮気」について過度に恐れていたり,「匂わせ」とか「略奪」とかなんだか遠い世界のことを教えてくれる.ツイッターの背景画像はお気に入りのご年配の教授の写真だったり.勉強の仕方,特に物事の奥深さを知らないような発言をしていたり.なんなんだろうなあこのズレは.まあぼくがいろいろ教えてあげればいいのかと思ってはいる.
http://to-ti.in/product/kashikokute_yukiaru_kodomo
出産を控えた夫婦がテンション上がって「自分たちの子を"かしこくて勇気ある子ども"に育てよう」って盛り上がるんだけど、その"かしこくて勇気ある子ども"の代表格として見ていたマララ・ユスフザイさんが銃撃されたのを見て混乱してしまう…みたいな話
この話にはなんというかマジで親のエゴしか感じない いや、人間なんて完全にエゴで動いてるわけだしそこを咎めるのはナイーブすぎると思うんだけど、やっぱり「人の親」になる以上は多少の利他性みたいなものを持っててほしいんだよな
自分たちの理想の子供が理不尽に襲撃されて死ぬのは嫌!っていうのは分かるんだけど、じゃあ自分たちの子供が受験戦争+40年のハードな労働に確実に苦しんで、病気とか事故で死ぬってことについてはどう思ってんだろう
人生に苦しみはつきものだし、特にこの新自由主義の世の中やる気がない人間に生まれつくと本当に一生ただただ苦しくてつらいだけって感じで、「かしこくて勇気ある」ことなんて求められちゃあマジでやってられないと思うんだけどな
この世に勝手に産み落とした存在に対して「かしこくて勇気ある」ことを求めることそのものが相当(下手したら銃撃より)暴力的じゃないか?
この漫画わりと共感を得てるらしくて俺はそれが本当に怖い みんなやる気をたっぷり持って生まれてきて楽しく生きてるから生まれつきのクズの存在なんて視界に入らないんだろうな
「最近あったいいこと」として来週第一子が産まれるってブコメがあって、大量にスターがついてた
まあそりゃ親にとってはいいことだろうけど、子にとってはどうなんだろうな
現代に産まれるのって嫌じゃね?気質次第って言ってしまえばそうなんだけど、体感的に周りの人間の8割以上が「人生は厳しい」「生きるのは大変」みたいなこと言ってる
だって物心ついたら勉強が始まって、嫌になっちゃう人も結構いるような受験戦争やらされて、それが終わったら自殺者が出るような就活、そこから先は週40時間以上の労働が45年間、心身が不調になったところで解放されるけど老い先は短いしヘタに長くてもボケて煙たがられる
楽しいイベントを作ることはできるんだろうけどなんつうか根本の部分が苦痛すぎる 特に45年間週5以上で実質10時間とか働かないといけないのがヤバイ
俺は絶対こんな世に子供を産みたくない、送り出したくない 彼女と暖かい家庭を築いたら楽しいだろうしそうしたいけど、それより俺のエゴで大変な人生を送らないといけなくなる子供への憐憫の方が勝つ
いま子供作る人って何考えてるんだ?俺の親世代の時点でも十分何考えてるんだ感はあったけど、今の方がもっと強い 子供も減って社会は先細りしていくばっかりに見えるんだけどな
多分親戚縁者の中には戦争に行って亡くなった人、
空襲で亡くなった人、
成人するまでに病気なりなんなりで亡くなった人がいる。
小学校は新制かな。
教師は戦時中に教育を受け軍国主義を叩き込まれてたのに戦争が終わってGHQによってそれまでの価値観すべてを否定された人たち。
もう教育勅語は教えてはならん。
但しせっかく教育した子どもたちを戦争に送り出さないと非国民扱いされる恐れがなくなりホッとはしてるのかもしれない。
そんな人たちに教育される。
家に帰ったら食べ物はない。
焼け野原などに勝手に作った畑で家族総出で作った野菜と闇市で着物と交換してきたお米ばかり食べて成長する。
遊びといったらお金持ちの家ならおもちゃも多少あっただろうけれど、
兄弟にも食べ物を分け与えなくちゃならないからいつでもひもじい思いをしている。
ただそこらに落ちている不発弾を小さくて何もわからないから触ってしまって死んでしまう近所の子はいたかもしれない。
とにかく国には何もない。
外貨がない。
海外旅行は許可されていないどころか、明日生きていくためのお金もない。
ただ活気はあるし人でも足りないから、戦争を生き残れた壮健な父親の働き口ならいくらでもある。
父親が戦争から帰ってこなかった家ならお母さんは働き口に困ったかもしれない。
それでもなんとか仕事を選ぶことはできないけれどそれでもやっとこさ見つけた仕事をこなして帰ってくる。
父親の場合は仕事の後は軍隊式の上下関係が残っているから飲み会に誘われたら飲めなくても参加しないわけにはいかない。
そんな家族に育てられるので、ちゃんとした家庭教育なんて受けられない。
近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちにずっとかまってもらったりして日が暮れるまで外で遊ぶ。
生き残ったお年寄りが親代わりなこともある。
新制中学に通うことになる。
多分義務教育が長くなったことで家族からごちゃごちゃ言われてる。
その高額な費用はどこから出すんだって話でまた親から嫌な顔をされる。
もしかしたら近所の人やお兄ちゃんからのお下がりで我慢させられたかもしれない。
世は高度経済成長。
中卒でもなんとか頑張れば給料がもらえる。
よほど気に入らないのでなければ所帯を持った。
所帯を持ってしばらくすればなんとか関係も安定させられる。
子供も戦争で人口が減ったのだから増やさないといけないから嫌でも作る。
子供には自分が経験できなかったことをすべてやらせてやりたいので、
塾も行きたがるだけ行かせてやる。
自分が本当はやりたかったことだというのは言いたいけれど言えやしない。
そのうちに子供が反発し始める。
自分が反抗期の頃はもう就職していたから自由に物を言うのもわかるが、
お前はまだ親のすねをかじっているのに何を言うのか?
(おしん並感)
せっせと働いて大学まで出してやる。
同僚は定年までに成人病で何人か死んだ。
もののない時代に食べられなかったものを食べすぎたといえばそうだが、
企業戦士として働き詰めでようやく楽ができるようになるというのに、
定年前に死んじまうとはな…
俺もあと何年生きられるのかわからんが、
せっかく平和な世の中になったのだし、
生きられる限りは頑張りたいものだ。
部下の首を切れというのか…
みんな真面目に働いてきた奴らだぞ…
なんで首を切らねばならんのだ…
労組は何をしているんだ!
孫は可愛い…
もう二度と戦争なんて嫌だ…
ん?なんだ?
『老害』とは何のことだ?
俺たちのことを言うのか…!
平和で勉強も自由にできて欲しいものも買える世の中に生きているのに、
まだ足りないというのか!
時代が変わったというが、
誰が変えてきたというんだ!
今は若くて何でもできるだろうが、
人生は短い、
お前だっていつか年を取るんだぞ!
年を取れるんだぞ!
そこまで生きていたくてもできなかった者たちのことも考えたことがないのか!
今どきの若者は何を考えているんだ!
以上戦中派の親から聞いたことなどをもとに想像した仮想の80歳の男性の人生ですが、
世代ごとに苦労する内容が変わるだけで、
まあ誰だって余裕がないときにはそこまで考えられないでしょうけれどね。
また自分の考えも伝えられたら、
という思いをほんの少し持てたら素敵だとは思います。
最初怖〜!って思ったけどなんかいろんなことを考えさせられる文章だった
この人が言いたいと思われることを本文とブコメへの返信をざっと読んで要約すると、
母親の"産んでやったんだから感謝しろ"という態度を皮切りに、今後永遠に続く社会奴隷を生産し続ける人間の営みに怒りを抱くようになってしまった、という感じ?
色々と人間が経済的に、社会的に、などなどいろんな面で成長して、結果的に未来永劫女の生理現象を利用した社会構造が生まれちゃった、加えて受験戦争だの就活だのしんどいことも増えちゃった
もうこれに関しては気付いてしまったけども諦めて生きていくしかないと思います
それかめちゃくちゃ発展途上の国に行くとか…まあこれは聞き流して下さい、なんにせよ今のこの国はそういう感じに回っちゃってるのでもうしゃーない
そもそも物事というのはいろんな要素を含んでいるものなので、ある要素だけを取り出して大仰に議論するっていうのはあんまり良くないのではないかなぁ
育児も、例に挙げてるような風邪とかそういうアクシデントのような負の側面ももちろんあるけど
子の成長が見れたり、子供きっかけでいろんな楽しい思い出が増えたり、そういうプラスな面もあるからなんとか育児をやりつないでいられているのではないかな?
あとその自分の母親の意見というn=1から発展して育児すんなとか、母親はクソだとか一般化すんのは無理なのでは
死ぬほど勉強しなきゃならないも、就活しなきゃならないも全部誰かに植え付けられた妄想でしかないと、思うよ
ほかの生物同様、結果生きてるだけであり、やるべきこともやりたいこともぜーんぶ知性を下手に持ってしまった人間の気のせいかつ思い込み
だから今、自分の母親がクソだと思うことも、それに反抗し始めていくのも、それが自分にとって好きなように選んで生きていられるのであればヨシ!ってことにしておけば、もう少し楽になれるかもね
自分は頭が使い慣れてないからめちゃくちゃ一般的なことしか言えない人間だからとりあえずこんくらい思いの丈をぶつける練習をしていきたい
※10/4公開HiGH&LOW THE WORST(以降ザワ)のネタバレを含みます
※言いたいことが1つなので割と短いです
昨日ザワを見た。
ストーリーもうまかったし画の作り方も天才的、アクションも超進化していて素晴らしい映画でしたね。なんだあの攻城戦。
今回の映画は色んな登場人物が色んなカッコいいセリフをキメていてすごくよかったのですが、個人的ベストは誠司のセリフです。
鬼邪高の楓士雄(主人公格の一人です)の幼馴染の誠司は、進学校在学で成績優秀も優秀。そんな彼が先生から「お前も鬼邪高生みたいなクズとつるむのはやめろ」と言われてキレるシーンが非常に良かった(突然優等生がキレだすとめちゃくちゃ面白いというのもありますが)。
細かいところはあやふやですが、「スーパーに並ぶキュウリは、人の手で真っ直ぐにされているから綺麗に見える。でもアイツらはそれを拒んでいる、だから自然に元気に曲がっているだけだ!」という旨の発言をするんですね。映画冒頭で幼馴染みんなで曲がったキュウリをおいしいおいしいと食べるシーンがあり、なるほど上手な伏線だなあと見ていたわけですよ。問題はその後です(※例のごとく記憶あやふやなのでニュアンスを感じてください)。
「……安心してください先生、俺は誰よりも真っ直ぐなキュウリになって、スーパーで誰よりも高く売れてやります」
この思想……鬼邪高だ!!
分かりましたか? 「拳一つで成り上がる」鬼邪高の思想そのものなんですよ。理論の拡張が起こっている。能力拡大解釈大好き。
ザムのラストでヤマト母も言っていた通り、人それぞれ色んな場所で戦って生きています。鬼邪高はストレートに喧嘩だし、受験戦争であれば知能による戦いだし。
誠司のセリフはまさしくその覚悟、その思想を言っているわけですよ。自分の「拳」でそれぞれの「テッペン」を目指しているみんな、俺たち私たちはみんな鬼邪高生なんだよ!!! 人類総鬼邪高時代来た!!!
今回の映画は鬼邪高や鳳仙といった不良連中だけを肯定する映画ではない、あるいは勉強に励む連中を馬鹿にする映画でもない、男も女も関係ない、それぞれの世界で「戦う」みんなを強く強く応援する映画でした。ありがとうハイロー! ありがとうクローズ! ありがとう鬼邪高!
SFマニアが流行ってるオタクコンテンツに特攻して噛みつくたびに炎上するネット世界。僕ら世代には「またかよ!」って感じなんですが、世代交代による認識の変化で、SF警察がなにに怒ってるのか? とか、あれもこれもSFなのに、なんでSF衰退とか言っちゃってんのか?
とか理解不能に陥ってる方も続出している模様。
そんなわけで、過去を知る者として、ちょっとまとめてみました。
ただ、だいぶ背景をさっぴいてます。
受験戦争の加熱とから、今よりさらにひどい男性中心主義社会である昭和日本での負け組男子化への怯えとか。
○
今でもその名残はありますが、かつて、オタクというものはヒエラルキーによる特権意識を良しとする人の集まりでした。
全員ではないとは思うけど、なんかそう言う感じのが台頭してました。
『オタクの教養』をたっぷり学んだオタクエリートがクールで良しとされたのですが、これもまた、今でもその名残はあります。
クールジャパンとかが、その流れですね。
どこの誰とは言わねぇでおいてやりますが、京アニ事件の時に、どっかの大学教授が書いた懐古エッセイみたいな記事。
今時の人たちからは謎扱いされてましたが、あれが、あの世代の『オタクエリート』意識のあらわれです。
彼だけの特殊な思想ではないことは「記事の内容には賛同できる」とか言ってる人が、ちらほらいたことから分かりますね?
今でも名残はありますね?
○
ところで
『オタクエリート』
政治家ですらオタクに媚びる今では、下手したら生死に関わることだとまでは信じられないかもしれませんが、昔は、オタクであること自体が恥でした。
今でも自嘲ネタではあるし、からかわれることもあるとは思いますが、かつて、「オタク」と呼ばれることは、社会的死や、学校や家庭でイジメの対象になることを意味したのです。
ググれば怨嗟の声で溢れているとは思うので割愛しますが、オウム事件や宮崎事件は「オタク」を犯罪者予備軍として世間に認知させる結果を生みました。
当時のオタク的趣味を持つ人たちは、自分はオタクではないことを証明するのに躍起になっていました。
あるいはオタクではない人のフリをして、その行為を自嘲気味に「擬態」などと呼んでおりました。
今でも名残はありますが、生活や生死が関わってるので真剣度が段違いです。
そこで『教養』の出番です。
○
オタクにとっての『教養』とは、自分が頭のいい人間であること、社会にとって有益な優れた人間であること、犯罪者予備軍=オタク以外のなにかであること、それを証明するためのものでした。
と言う事にしかなりえず、オタクであることを認めるか、認めなくても勝手にレッテル貼りさせられました。
しかしながら、そうすると犯罪者予備軍の一員にさせられてしまいます。
自分がオタクであることを認めながら、『ただのオタク』以上の上位の存在である事を示す概念を必要としました。
それが、『オタクエリート』です。
○
世間ではいっしょくたにされる『オタク』カテゴリー内での優位的立場を築きたいオタクエリートにとって、自分を相対的に上位に位置付けてくれる下位の『オタク』たち、それは「フィギュア萌え族」とすら揶揄された二次元美少女オタクでした。
……今でも名残はありますね?
誰とは言わないが…と言うよりも、京アニ事件の記事でアニを持ち上げる時に使うのは
『萌え』ではないこと。
『萌え』でないこと。
○
そして、そんな知能の少なそうな動物的オタクたちを堂々と見下し、自分はあいつらとは違うと胸を張りたいオタクエリートのための教養のひとつが
だったのです。
なにしろ動機がそれですから、あちこち弱そうな敵を見つけては出張って「批評」したりweb日記に書いたり、得意げにウンチクを吹聴しまくり、相手や相手の趣味を貶して、論破論破とサディスティックな優越感に浸る日々を送ることになります。
やがてハードSFは衰退し、論拠としているものの権威が失墜してしまいますが、それでもやることは同じでした。
そうでしょう、そうでしょう。
いい迷惑なのが、ただのSF小説好きや、そんな歪んだ時代を知らない新しい読者です。
彼らは
あれもあれもSFだ。
と言います。
残念。
のですよ。創元やハヤカワから出ていて、各種映画化されている大家のディックはSFには入らないのです。
彼らの概念では、SFにはなんか厳格な作法があり、その作法を守るものだけがSFなのです。
どんな作法かって?
……知るか!
○
彼らSF警察が、ことあるごとにグチグチと高圧的かつ上から目線どウンチクを語っては、嫌われまくってるのは見ての通りです。
「SF衰退はSF警察のせいじゃない」、それは、あるいはその通りかもしれません。
しかしまあ、そのSF警察が、現在進行形で「彼らが信奉するSF」の衰退や、「正しい科学知識」への嫌悪を植えつける大きな要因になっているのは、その嫌われっぷりを見れば一目瞭然です。
……とは言え、です。
「総合選抜制度」と「内申点制度」によって公立高校の受験はマジでやばかった。
総合選抜制度は今となっては採用している地区がないことからもわかる通り問題点の多い制度だった。
例えば地区に全て定員100人のA,B,Cの3つの高校があったとする。
(俺の当時の地区では)入試で35位までに入らないとB高校を不合格になるものだった。
ただし、志望はしていないが地元のA高校の順位に照らし合わせたら
100位に入るという場合はA高校に入学してしまうというのも総合選抜制度なのである。
しかもこの際に「公立高校を志望して地区の高校に(A,B,Cを問わず)合格したら私学への入学はできない」
まとめると、以下のようになる。
1.地元ではない高校を受験すると定員の上位35%までに入らないと不合格になる(36%~100%は地元優先)
2.地元ではない高校を志望し不合格となったが、地元の高校に照らし合わせて定員内の順位の場合は地元高校に合格する
3.公立高校を志望して合格した場合、合格した高校によらず私立高校への進学はできない
高校を自由に選べない、また学校間の格差が大きい場合著しい問題が生じる。
つまり、地元のA高校が偏差値35のド底辺高校で、地元ではない進学校(偏差値65)のB高校を志望した場合に、
当落ライン上にいる生徒はほぼB高校を受験せず、1ランク落とした偏差値60程度のC高校を受験する。
なぜならB高校を不合格になっても地元のA高校には100%合格してしまうためだ。
A高校は数年に1度警察やマスコミに取り上げられるような事件が起きる高校で、
親は「B高校に落ちてA高校に回されたら高校には行かなくて良い」と言い切るようなところだった。
いやいや、テストで普通に点取ればいいんだろ?と思った人は正しい。
英数国理社は4倍、保健体育音楽美術技術は7.5倍して500点満点に
当日のテストを100点満点で合計1000点の順位付けをしていた。
内申点制度そのものは当日のテストでのばらつきをある程度是正するものだとは思うが、
俺の出身の中学では英数国理社のように明確にテストで点数が出ないことを良いことに
この副教科の数値をかなり生徒によって調整していた。
少し足りない、危ない生徒の評定を上げていたのである。
故に、学年1位の成績であっても平均すると10段階で8程度しかつかない。
「教師による学年全体の内申点(副教科の評定)調整」が組み合わさることで
本人の成績と意図しない高校に振り分ける可能性が生まれていた。
分かるなぁ、こりゃ出会いが悪過ぎるよw
なのにみんなしてドラクエドラクエ言ってるし、やらない奴はRPG好きじゃないみたいな風潮だもんな。
誰かに聞いて欲しいみたいのはあるだろうし、ドラゴンボールが駄作だって評論して滅多打ちになってた記事が少し前にあったけど、ああいう逆張りじゃなくて普通に嫌な記憶ばっかりなんだからこう感じるのは仕方ないと思うぜ?
ただまぁこれってDQ6が悪いんじゃなくて、セーブ方法が原因じゃん? 素晴らしかったって自分でも書いてるし、心の傷が癒えるまで待つしかないよな。
助けになるか分からんが、リアルタイムでRPGが拡まっていくのを思春期に経験してたオッサンの長ーーーい話でもポテチ食いながら読んでくれ。暇な時でいい。
「あー、ピコピコやるやつですごろくみたいの始めたのか。ちゃんと勉強もしろよ?」
「しょーがねえなぁ少年ジャンプとガキ共は。まーた欧米かぶれの下らないゲームで盛り上がって」
「まぁ子供の入門wwにはいいだろw RPGは難し過ぎるし、アラレちゃんの奴(笑)が絵を描いてるんだろ? エンガチョだよなw」
体感、一つ目が7割、二つ目が2割、最後の意見が1割弱って感じだな。尤もゲームを多少は知ってる人間の話で、半分以上の人はもっと批判的か無関心だ。
興味ないとか不良のやる物とか面白そうだけど目が悪くなるとか、どうせファミコンなんて一過性のブームだろうとか、放っておけば飽きる、とかな。
大人がどうしてファミコンを許してくれたかっつーと、ゲーセン行かせるよりマシだったからなんだよ。
ゲーセンってのは不良とヤクザと仕事をしないサラリーマンの営業と、後は風俗か水商売の女が男に連れられて行くもんで、要はインベーダー喫茶に毛が生えたヤツな?
おもしれーだろ? スペースハリアーとかグラディウスがあるのに世間はインベーダーなんだよ。それに毛が生えた程度にしか思われてねーの。
もうちょい詳しいとギャラガとかパックマンくらいか? ゼビウスもあったけど「まぁ若い子の一部には変なモノが流行ってるな、マイコンマニアは無害だしエレクトロニクスの時代だからそのうち使い物にはなるかもしれない、放っておけばいい」って感じだよ。
大人たちは高度経済成長からバブル真っただ中で忙しいんだけど、マジメな人がゲームは無害かどうか見守ってた空気だな。
っつーのはさ、『みんなそんなに遊ばない』んだよ。
子供だからピコピコやってても見逃して貰えるけど、基本的にまともな大人は遊びの話を人前でするものじゃねーワケ。悪い事だったんだよ、それ。
庶民の娯楽として市民権があったのはボーリングと映画だな。運動は身体を鍛える物だからスポーツはキホン除外で。
釣りは生活の一部(の延長)で、テニスとゴルフは限られた金持ちの趣味で、健全な奴はキャンプとか山登りとかか? いやネクラ君達には卓球もあったなw
まぁオッサンもガキだったから勘違いもあるかしれんが、遊びってのは『大人の許す範囲でやるもので、豊かになったから恵まれた子供達を好きにさせてやってる』って感じだった。街を作るのに忙しかったんだよ、大人は。後はその弊害を処理するとかな。あ、夜の遊びは例外な?
どう言ったらいいか難しいんだが、別に今を否定しようとかってんじゃなくて、大人と若者には明確な溝があって気楽に口を利いて貰えないっつーのかな?
俺は都会の人間だからかしれんが、道路も上下水道も電気もガンガン整備しなきゃいけないからガキはどいてろって空気なんだよ。日本中。
…んで、激しい仕事が終わった連中だけが飲んで騒いでよくて、仕事付き合いしながら店で歌ったり踊ったりしつつ駅とか公園とか会社で寝てまた仕事するワケよ。
それが当たり前なの。w スゲーだろ?
日曜日に休める幸運な大人はテレビだな。ちゃぶ台とビールで。だらしない人は横になって。
上に書いた娯楽は会社の許可が必要(申請書はいらない)みたいな感じでさ、家族サービスとしてデパート、遊園地、動物園なんかも認められてはいた。
長いけどジーサンバーサンと会話が弾むかもしれないから、もうちょい我慢して付き合ってくれ。
そういう中でのゲームってのは、娯楽のオコボレとしてひっそり発展してた。
例えばバッティングセンターの片隅に。
ボーリング場や温泉やゴルフ場の待ち時間潰しや、遊園地の片隅。
毛色の違うものにとしてLDゲームもあったが、まぁそれは置いとこう。
大人には相手にされない子供騙しのゲームは、ユダヤ人貿易商のテコ入れもあってインベーダーブームでヤクザの懐を大いに潤したが、“ほんの5、6年”で下火になって行った。
一部のエレクトロニクスマニアは自分で作ったり改造したりもしていたが、技術屋さんが変わり者なのは仕方ないってのと、将来のメカトロニクス産業を支えるかもしれないから、って見逃されてた感じだ。
あと、パチンコ産業も大きく関係してるが複雑過ぎるし知識が足りないからそれも省く。
ともかくそういう中でマニア(オタクじゃねーぞ?)の趣味としてブロック崩しが一時期売れたりしたんだが、それは大人の玩具って位置付けで高級パーティーグッズに近かったかな。8トラとかみたいにさw
めんどくせーから時系列を丁寧に整理しないが、縁日の射的や温泉卓球のオマケとしてブロック崩しが拡まり、インベーダーで日本中の100円が足りなくなり、家庭用単機能ゲーム機が玩具として売れ始め、パックマンやギャラクシアンやドンキーコングとかマリオブラザーズとかゲームウォッチなんかのブームもあって不良少年が社会問題化したので子供のゲーセン出入りが禁止され、ヤクザと無線屋とジューク屋と興業屋がシノギを削ってそこにマイコンブームが来て、玩具屋も巻き込んで産業スパイ使って殺し合いをしながら兎にも角にもファミコンは誕生した。
「一家に一台、ファミリーコンピューター!」
https://www.youtube.com/watch?v=gguhhdbXD7A (当時のCM動画)
ってな具合よ。
大してして話題になってねーけどな。
マイコンブームってのはまぁパソコンと同じで若者が勉強するなら仕方ないって面があってだな? アメリカから技術や文化を学ぶために赦されていて、ウルティマだのウィザードリだのをマイコン好きやその開発者がこっそり持ち込んで研究してたらしい。主流はパズルとアドベンチャーゲームな。息抜きにアクション、暇潰しにシューティング。変態野郎がエロゲ。
んで、ハイドライドやドラスレが出て、そういうのに関われない可哀想な子供の為に何とかごまかしてジャンプが無理矢理宣伝して売ったのがドラクエってワケだ。
いやー辿り着くまで長かった。ww
当時のマイコン誌とか全然詳しくないんだが、エロと一緒にRPGブームを作ろうって盛り上がってて人気はロマンシアだな。
都築和彦 大浦孝浩 山根ともお 佐藤善美 なんて出てるが、この辺が一流のイラストレーター様で鳥山なんざアメコミカブレのギャグ漫画家で、偶々アラレちゃんで当てたロリコン野郎だったんだ。
分かるな? 子供向けだから許される変態スレスレの漫画家ってポジションだ。
本人がどうかは知らんが小児性愛者スレスレの際どいシュール漫画をヒットさせてて、コメディだから許されてた。本格的な変態はうる星やつらを読んでたから、それで被害を免れてた部分もある。
宮崎事件はまだだから大してバッシングもされてないし、手塚や水木一郎みたいにグロくないからまぁ読ませといてやるかってレベルだ。
高尚なイラストレーター様達はマイコンゲームを上流の趣味として仕掛けていなさったんだよ。っつうか、それに加わってらっしゃった。
少なくとも俺や俺の周囲の視点ではそうだったって話かしれんが、テクノブームとゼビウスがなければファミコンはあんなに受け入れられてないし、マイコンマニアがそんなに御大層なモノかっつーとガキの遊びよりはマシだが「ちゃんと育ってくれればいいけどねぇ」ってのが世間の目。そして市場的にはキャプテンシステムの復興なるか? スーパー301条でまたやられなきゃいいけど…、ってのがあって家電を支えるから変人の趣味として黙認されてた状態だ。
そのごく一部だぞ? そういう不真面目な研究家っつかーの中のホンの一部が、西洋ファンタジーを輸入する事にした。
ガキの遊びで性能はそこそこだがアタリショックの後だから「どうせ消えるでしょw って言うかコンピュータじゃないじゃんww」みてーな。
結論としてはだな?
マイコンマニアが愉しんでいる残りカスを下らん少年誌の連中が怪しいソフトハウスと組んで出来損ないの子供騙しを売り出したのがドラクエで、当時は殆ど売れなかったんだ。
ファミコンを最強にしたのはスーパーマリオであって、それにビウスブームが加わり、ナゼか狂ったように売れたジャンプの力があってようやくドラクエ2が少し話題になっただけなんだ。
ゲームの出来としてはFFの方が上だし、ストーリーはヘラクレスの栄光の方が評価されてた。
ちゃんと世界背景が練られてないじゃないか、と。なんだこの雑なグラフィックは、と。
パスワードとか拷問だよなww でもマイコンプログラミングに比べたら単純だし、子供の文字を覚える勉強くらいにはなるだろww
ファンタジーなのにタケヤリが武器屋で売ってるんだから、やっぱギャグだよなぁ…。
まぁ鳥山は独自の味があるしギャグ漫画家だし、ともかくガキの遊びだから許してやろうぜ、と。
そうして大人と若いお兄さん達に見逃して貰いながら、戦後最大のパワー(他の世代の倍の人数だ)を持った団塊の世代の子供達は「きっと次はもっとすごくなる」とか鬱屈した思いを抱えつつ、ようやくセーブ機能を実装されたドラクエ3に狂喜乱舞する事になるワケだ。
この当時には受験戦争って言葉もあってな? まぁもうドラクエやってる時点で大半は負け組なんだが、そういうストレスが子供の逃避として機能してたのもあるかもしれねー。
それから小・中学生が初めて見るファンタジー世界の冒険を嬉々として大人に語ってたら、中々ぶん殴って勉強しろって言い辛いだろ?
修学旅行にファミコン隠して持って行って旅館のテレビでみんなで遊んだとかどーしようもねぇバカもいたみたいだけど、そこまでするくらい好きなら勉強すれば許してやるかって笑いになるだろ?
うわーもう超なげーわw
軽く見直したけどなんだよコレw オッサンどんだけ語りたいんだよ?ww って感じだけど、でもまぁオッサン達にとってサクっとこれくらい書けるくらいの思い入れは結果としてできちまったんだ。ネットで対立煽りが盛り上がるように、苦労したり批判されると人間ってムキになるだろ? その方が熱意も強くなるんだよ。
それから人口比ってのはデカくてさ、マイコンのお兄さん達には遊んでばっかりでごめんなさいって部分もある(でもバブルは恨んでるけどなw)んだが、元増田みたいに感じてる若い子が出てくるんじゃねーかと最近不安になってたらやっぱりねって感じで、それでも思ったよりマイルドだし、きちんと自分だけの問題として語ってるから「もういい加減に叩くのやめてくれよ」って気分にならずに済んでて、俺達世代としては「ゴメン無理矢理押し付けたりしないから頼むからもう批判しないで」って言いたい。キミに、じゃなくて世間になんだけどな。
もしかしたらそれがメインでこんなに長く書いてるのかもしんねー。
感じ方は自由だし、言うのももちろんだし、それを否定する気はない。
ただ、オッサンらは戦争も知らないし高度経済成長には貢献してないし豊かさの頂点で育たせて貰ったから、負け組世代として罰を受けてるのかもしれない、とかもちょっと思ってる。
ゲームばっかりしてて悪かった。
マンガもたくさん読んでてすいません。
子供も作れてないし収入は低いし老いた親を満足に面倒見る蓄えもなくて申し訳ない。(っつってもそういうヤツの比率や世代差がどれくらいかまで知らねーけど)
だけど、それだからせめて精一杯楽しんだゲームで辛い思いをしたりして欲しくないってのは割とあって、スマホゲー禁止とか言わないし弾圧されるんだったら助けてやる。
助けてやる力は碌にねーんだけど、そうしたいと思ってる。
唐突だけど終わる。言いたい事は書いた。
同世代の人数がものすごく多い。そのため、節目の受験期は、まさに受験戦争だった。
私は中学時代までは、特に勉強を頑張らなくても成績は優秀だった。(1学年250人くらいいて、いつもテスト順位は30位以内)
子供だったから、単純に偏差値が高い高校に行けば、よりよい高校生活が送れるかな、などというバカな発想で、
自分の当時の実力も考えて、その地区の公立高校の中では三番目くらいの進学校に進んだ。(当時の偏差値は64くらい)
当然といえば当然なんだけど、高校に進んだあとは、周囲の人たちは、皆自分と同じくらいか、それ以上に勉強ができる人ばかり。
もう勉強についていくだけで必死にならざるを得ず、まったく楽しい高校生活ではなかった。
それで、そんな地区の三番手くらいの進学校から、当時、どんな大学に進むのが多かったかと言うと、
日東駒専 (第一志望) → 現実は、大東亜帝国 というのがボリュームゾーンだった。
当時、1学年300人くらいだった。(現代では考えられない人数だと思う)
でも、比較的成績が良い上位150人の、大半の「第一志望」は、日東駒専だった。
その当時は、日東駒専もかなりの難関と考えられていた。
上位150人のうち、第一志望の日東駒専に現役で合格できたのは、50人くらいだった。
合格できなかった人たちは、滑り止めに行ったり、浪人したりした。
もしくは、経済的な理由から、大学に進むことをやめた人もかなり多かった。
むろん、ポジティブな理由で、大学以外の道に進む人も多かった。
地区の三番手くらいの進学校(偏差値60~65くらい)であっても、大学への進学率がせいぜい50%くらいだった。
なんでこのような状況だったかといえば、同世代がものすごく多かったため、熾烈な過当競争になったからだ。
ネットの学歴厨さんたちの書き込みを見ると、日東駒専は、ボーダーフリー(Fラン)よりちょっとだけ上レベルだそうだ。
かろうじて同じ人間として扱っても良いレベルが日東駒専くらいまでで、それより未満は、ゴミらしい。
私は、うえの文章からも察しられるかもしれないが、地区三番手の進学校では、まったくもって普通以下に甘んじた。
日東駒専でもあこがれだったが、そのあこがれには届かなかった人間だ。
だが、中学時代に、250人中30位以内の人間だった私でも、ゴミなのだ。
ざっくり言って、自分と同世代のうち、70%以上は、ゴミだということになる。
ゴミである私が、社会に放たれた当時は、就職氷河期に突入していた。
そんな中では、幸運にも、比較的よいところに就職できたほうだと思うが、
現実ベースで、社会人も10年以上になると、学歴なんてものには意味はなくなる。
圧倒的に職歴や、実績の方が、強い。
こんなことは、私と同世代くらいの人間からしたら、当たり前なんだけれど…。
でも、30代前半以下の人たちにとっては、学歴がすべてらしい。
…ということらしい。
そういうことを考えることもしないで、思考停止した人たちが、私のことをゴミと言っている。
以上、ゴミでした。
2일
2日目
疲れて深夜のチェックインになってもいつも通り眠りは浅かった。
チェックインしたばかりの釜山東横INN2だが、10:00にはチェックアウト予定。
初日の釜山には1泊だけして、西部バスターミナルから、光州に向かうことになっていた。
「近代化している韓国だからなんとかなるだろう」と、ちょっと緊張感が薄いまま成田を発ったが、初日の予定外でやはり外国である事を思い出した。
今日はまず昨日手に入れることができなかったT-moneyカードを入手しないといけないし、西部バスターミナルに向かう前に、西面の両替所で両替しなくてはいけない。
ついでに西面でうどん風混ぜ麺、カルグクスで昼食をとろうと思ったが、予定通りに食事が取れるとも限らないので、いつもはスルーしがちなホテルの朝食をしっかりいただくことにした。
どこでも一緒の東横INNの朝食でもキムチがあるあたり、やはりここは韓国だ。
チェックアウトして釜山駅へ。
「近代化している韓国」ではあるんのだが、朝9:30の釜山駅前には路上にゴザを引いて人参やナムルを売っているクルクルパーマのオバちゃんがいる。
昨日は気づかなかったが大気汚染もまあまあだし、そこかしこが工事中で、全体的な印象としては1980年代後半から90年代前半の日本という感じがした。
ネット環境やK-popなど、一部は日本より先をいっている部分もあるものの、90年までは軍事政権だった国でもある。
絶賛工事中の釜山駅のコンビニに入って、クルクルパーマのオバちゃんに声をかけると、昨日とは違いあっさりt-moneyカードを購入できた。
これで移動が便利になって一安心だ。
釜山駅で一休みした後、レートが良いと評判の西面、ナヨン両替所へ。
西面で降り、繁華街の路地裏にある両替所に向かうと、行列の奥ではクルクルパーマのオバちゃんと作業服っぽいなりのオジちゃんの老夫婦が古びた紙幣カウンターと缶々を前に次々と客を捌いている。
路地裏の20㎡ないんじゃないかという店の夫婦2人が近代的な大銀行の向こうを張って大行列を作っている様はなかなか格好いい。
両替も済んだので、モウモウと湯気を上げている混ぜ麺の店、「キジャンソン カルグクス」で昼食。
カルグクスは刀削麺的な汁そばで、青菜、ニンニク、ゴマがトッピングされた麺が赤いスープに浮いている。
見た目ほど辛くはなく、塩味も薄め。
味の強い印象のある韓国料理も多くは辛味や酸味で、塩味は強くない。
良く韓国人が日本料理を「しょっぱい」というが、あれは多分本音だ。
韓国人がという問題ではなく、日本料理はアジア圏ではやはりかなりしょっぱい。
昼時ともあって客は引きを切らず、赤い麺は次々とサーブされ、店内では老若男女が麺をかっ込んでいた。
腹も満たされたので店内を出て西面の路地を歩くと、路地にはおでんの屋台が軒を連ね、おでんを煮るクルクルパーマのオバちゃんの前で、お姉さんがおでんを食っていた。
「屋台で出されたものを屋台の前ですぐ立ち食いする」という光景は其処彼処で見られ、それが小綺麗なお姉さんだったり、中高生だったりするのは面白い光景。
「社会を平すと1980-90年代あたりの日本」という印象はここでも感じるところで、「日本から見る韓国って、なんかある意味、変に期待値が高すぎるんじゃないかなぁ」と思った。
西面駅から地下鉄に乗って沙上駅で降り、最寄りの釜山西部バスターミナルで光州行きのチケットを買い求める。
メモを見せて買い求めると、指示されたバスの出発は10分後だった。
異国の地だというのに時間の余裕がなくて焦るが、なんとか乗車。
バスは直ぐに発進した。
窓の外に連なる緑の山々を見ながら、度々遭遇するオバちゃんのクルクルパーマや韓国女子のファッションについて考える。
若い子たちは男も女も洗練はされているのだが、どうもテイストが一緒で、オバちゃんの高いクルクルパーマ率にしても、どうも社会の均質性が高いように感じられる。
よく聞くのは熾烈な受験戦争や、男がひたすらに目指し、自慢するという高スペック。
この社会で、勝てる奴やハマれる奴は過ごしやすいのだろうが、そうでない奴にとって、韓国社会はキツそうだなぁ。
光州へ
3時間の乗車の後、バスは光州 バスターミナル U・SQUAREに到着した。
熱気と緊張感あふれる釜山と違って、降りた瞬間になんとなくユッタリとしたムードを感じる。
韓国第4の都市とは言っても、街の様子も釜山とはまあまあ差があるようで、バスターミナル最寄りの農城駅からホテルのある尚武駅まで地下鉄で向かうと、地下鉄も空いていて、街行く人もまばらなノンビリした地方都市という感じだ。
すれ違う人のファッションも違いがあり、釜山よりはリラックスしていて、素朴だが小綺麗なナリをしている。
「自分のしたい格好を勝手にしているという意味ではこっちの方がオシャレなんじゃないかなぁ」と感じる。
そしておそらくは、だが、光州、全羅南道の人は、きっと釜山と血の意味で、人種がちょっと違う。
かつて日本にやってきた渡来人は、この地方の朝鮮人だという話を聞いたことがある。
日本ではあまり有名とは言えないこの地は、実際はより日本に近縁なのかもしれない。
ラブホと見まごうばかりにオシャレなデザイナーズホテル hotel stay 53にチェックイン。
部屋もベッドも広くて清潔で、「この値段でいいのか」と思うほどリーズナブルだったが、オシャレすぎてアメニティがみつからなかったので、最寄りのロッテマートで買い出しに行き、ついでに市内散策。
地下鉄で数駅移動して見て気づいたのだが、光州は夜が早く、大方の店は22:00には閉まってしまう。
夕食にあてにしていた店もラストオーダーに間に合いそうもなかった。
予定を変更し、バスターミナルのあった農城駅に引き返して徒歩15分ほどの場所にあるらしい24時間営業の食べ放題の店に向かう。
地図を頼りに歩くが、沿道の小規模な店舗は尽く閉店しており、ほとんど人とすれ違わない。
「本当にここであってるのかな」と思った矢先に、ガソリンスタンド脇にその店があった。
どうも殆どタクシー運ちゃんや地元の人しか来ないような店らしい。
席に座ると、自動的にオバちゃんがご飯とスープとデジカルビを持ってきてくれる。
ビュッフェといういうにも素朴すぎるスタイルだし、店内もオッさんとオバちゃんしかいない学食といった雰囲気だが、食の都、光州の惣菜はどれも美味しく、食べ放題の白飯が進んだ。
初めて訪れた街の夕食としては上出来だろう、会計を済ませて、レジのオジさんに覚えたての韓国語で感想を伝えた。
「マシッソッダ(美味しかった)」