はてなキーワード: 貿易商とは
日本人として誇らしい
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、何人かが暗闇の中を灯台の明かりをたよりに断崖を這い登って灯台にたどりついた[2]。
灯台には逓信省管轄下の雇員2名が灯台守として勤務しており、生存者の介護とともに大島村(現在の串本町)樫野地区の区長に急報した[2]。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[3]。
樫野地区の区長は島の反対側にある大島地区にいた大島村長の沖周()にも使者を送り、翌日午前10時30分頃に伝えられた[2]。沖村長は郡役所と和歌山県庁に使者を派遣し、村に居住する3人の医師とともに午前11時30分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と負傷者の救済を行った[2]。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、656名中、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明という大惨事となった。
茶道宗徧流の跡取りである山田寅次郎も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年、当時外務大臣だった青木周蔵の提案から、集まった義捐金を携えて一人でオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡った。
山田が民間人でありながら義捐金を持って訪れたことが判明するや彼は国民から熱烈な歓迎を受け、数日後には皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブールに貿易商店「中村商店」を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本の文化を教え、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。
「国民全体で負担することを視野に」とか「幅広い税目による負担が必要」とか、なに寝ぼけたこと言ってんだ?
そんなヘッポコな結論だったら、ちょっと偏差値高めの幼稚園児でも考えつくわw
防衛力を強化して戦争紛争を抑止できることによって、誰が一番利益を得られる(損失を抑えられる)のか考えろよ。その利益が大きいヤツから徴税すべきだろ。
有事が勃発したとしても、飲食小売医療介護食料品や日用品製造、あるいは農林水産業などの従事者は、平常通り働くしかなくて、だいたい平常通り給料ももらえる可能性が高いよな。大きく収支が悪化してダメージ受けそうなのは、貿易商社や輸出産業の大企業と不動産業や、それに出資融資している資産家富裕層だろう。
受益者負担の考え方からして、そういう層から「防衛力強化のための資金」を出してもらうべきなのは、ちょっと偏差値が高い中学生レベルのオレでも容易に考えつくんだぜw
とりあえず、利子配当や有価証券売却益などに課税強化するのが穏当だろう。今はどんなに高額な利益でも20%くらいしか課税されてない。ある程度の金額以上なら数%税率あげたりしてもバチはあたらないww
50年前には自給率100%だったのだから機械化された今ならもっと簡単
それはお前らがうまいうまいといって食ってる肉や卵を諦める覚悟だ
「マンション、車、家電はすぐに買え」ウクライナ危機が日本経済に及ぼす“甚大な影響” 経済評論家が予測する「半年後にはガソリンが220円」
221
コメント221件
文春オンライン
「小麦の価格があがれば、その代替物となるのがトウモロコシと大豆。例えば、小麦を使っていたお菓子が値上がれば、『じゃあ小麦はやめてトウモロコシを使おう』となるのは自然ですよね。だから小麦が高くなれば、トウモロコシも大豆も高くなっていくのが常なのです。
トウモロコシを食べるのは人間だけではありません。牛や鶏などの家畜も『飼料』として食べる。そうなれば肉も卵も値上がりし、牛丼屋の生卵セットも500円では食べられなくなるかもしれません。コンビニのお弁当は小麦も肉も全てを含んでいるので、確実に値上がりします。サンドイッチも同様で、すでに8日にはローソンが『たまごサンド』を228円から246円に値上げすると発表しています」
「ロシアへの経済制裁への対抗策で一部原料の禁輸の検討をしているいま、最も打撃が大きそうなのが蕎麦なんです。実はロシアは世界有数の蕎麦大国で、世界の蕎麦の3割以上を生産している。日本のそば粉も原料の多くをロシア産に頼っており、それがなくなると一気に消費に追いつかなくなる可能性があります」(対露貿易商社関係者)
こうした値上げラッシュに火をつけるのが、もう1つのロシアの武器「エネルギー」だ。エネルギー価格の上昇で、ビニルハウスで栽培するレタスやトマト、いちごなどへの影響は計り知れない。最終的には家電や車、果てはマンションにまで及ぶと指摘する。
「原油が高騰するペースや為替相場を見れば、半年後にガソリンが現在の1リットル170円前後から200~220円になるのは、決して大げさな予測ではありません。現在政府が議論する、ガソリン税を軽減する『トリガー条項』を発動しても下がるのは25円。輸入品を日本に運ぶには燃料代がかかり、原油高は食品の値上げにも直結します。
またロシアは世界屈指の『ガス大国』で、日本の発電の4割は液化天然ガス(LNG)です。LNGの供給が滞れば、電気代やガス代が上昇しますが、それだけではありません。例えば鉄を作るのにも、莫大なエネルギーがかかるのです」
鉄を含むものは家庭のなかに数限りなくある。冷蔵庫などの白物家電から、車、そしてマンションなどの住宅まで、鉄がなければ形になりえないものばかりだ。
「例えば昨年には原材料費や物流コストの上昇で、住宅設備大手のLIXILがトイレや浴室、システムキッチンなどの価格を最大4割値上げしました。ウクライナ侵攻で鉄が高騰すれば、こうした値上げラッシュに拍車がかかる恐れがあります。通常、こうした大型商品まで値上げが波及するには1年ぐらいかかりますが、今は『ウクライナ侵攻で原材料が値上げしている』と企業側も説明しやすく、もう少し早く波が到達するかもしれません。
こうしたインフレ直撃から家計を守る最善策として、車やマンションなど大金が要るモノは早く買った方がいい。食品が値上がるからといって、カップ麺1年分を買い溜めるのは大変ですし、大した節約にもならないと思います」
twitterで数年間つながりがあった人が「自称アニメオタクの人が結婚していているけど俺は恵まれない」みたいなことを書いた。
とはいえアニメ・ゲーム・ラノベ・Vtuberなどの文化やコミュニティに包摂されている人間は恵まれている。
自分はそういう文化にすら包摂されず排除され根無し草のように漂流している。
そういうことをリプしたら「何言っているの?(アニメとかで)救いを感じられないんだったら早く死んだら(※特定防止のため文言を変えてあります)」と返信がきた。
自分は中高時代創作系の部活に所属していたためまわりにアニメ・ゲーム・ラノベなどのオタクが多かった。自分も興味があった。
しかし親から「家で民放のバラエティやドラマを見ていることは家の名誉に傷をつけるから絶対に口外するな」と厳命されていた。
加えて『脳内汚染』を読んだことでメディアの悪影響について考えるようになった。このことから、オタク的なコンテンツには触れてはいけないと思うようになった。
もし図書室にあるライトノベルを読んだら高校や家の名誉に傷をつける。そう考えると自分の欲求のためにオタク的コンテンツに触れるのは悪であった。
大学のころ深夜アニメをちょっと見たことをきっかけにオタクになろうと頑張ってみた。
しかしアニメの内容というか面白ポイントがわからずに「なんで自分はこういうコンテンツに包摂されないんだろう」と不安と焦りに苛まれるようになった。
そして某アニメのイベントの前を通りかかったときに「自分は結局オタクになれなかった出来損ないだ」と思ってしまい号泣、翌日電車に飛び込みかけて会社はクビになった。
でも自分はオタクのふりをしたかった。twitterでオタクのふりをして数年、最初はオタク気分を手軽に味わえた。
しかしオタクが提示するアニメを見ても面白さを感じず、ラノベは内容が高度すぎて理解できず、ソシャゲもルールすら理解できずに投げだした。
結局オタクはある種の知的特権階級であり、自分のような愚劣な人間はオタクにすらなれないのだ。
おりしも親からは勘当され、医者からもモンスターペイシェントとして見放された(課題として出されたスキーマ療法のワークブックをやろうとしても強烈な不安感情に襲われて一切できないことを伝えたことが原因)。
友人は誰もいない。地元の人間は自分を集団でいじめて笑っていた人間だ。
そういう自分がオタクコンテンツからも包摂されないとなると、本当に「自死」という選択肢が現実味を帯びてくる。
ここ3か月ほど、なんでオタクになれないんだろうかということをずっと考えては息苦しくなる感覚があった。
警察に相談しようかとも思ったが、最悪精神病院に措置入院されて10年以上出られない可能性もある。
もとより自分は零細自営(貿易商に近い)である。仕事に穴が開けばほかの人に大迷惑がかかる。
当時私は二十五歳の青年で、丸まるの内うちのあるビルディングにオフィスを持つ貿易商、合資会社S・K商会のクラークを勤めていた。実際は、僅わずかばかりの月給なぞ殆ほとんど私自身のお小遣こづかいになってしまうのだが、と云ってW実業学校を出た私を、それ以上の学校へ上げてくれる程、私の家は豊ゆたかではなかったのだ。
二十一歳から勤め出して、私はその春で丸四年勤続した訳であった。受持ちの仕事は会計の帳簿の一部分で、朝から夕方まで、パチパチ算盤玉そろばんだまをはじいていればよいのであったが、実業学校なんかやった癖に、小説や絵や芝居や活動写真がひどく好きで、一いっぱし芸術が分る積つもりでいた私は、機械みたいなこの勤務を、外ほかの店員達よりも一層いやに思っていたことは事実であった。同僚達は、夜よな夜なカフェ廻りをやったり、ダンス場へ通かよったり、そうでないのは暇ひまさえあればスポーツの話ばかりしていると云った派手はでで勇敢で現実的な人々が大部分であったから、空想好きで内気者うちきものの私には、四年もいたのだけれど、本当の友達は一人もないと云ってよかった。それが一際ひときわ私のオフィス勤めを味気あじきないものにしたのだった。
ところが、その半年ばかり前からというものは、私は朝々の出勤を、今迄いままで程はいやに思わぬ様になっていた。と云うのは、その頃十八歳の木崎初代が初めて、見習みならいタイピストとしてS・K商会の人となったからである。木崎初代は、私が生れるときから胸に描いていた様な女であった。色は憂鬱ゆううつな白さで、と云って不健康な感じではなく、身体からだは鯨骨くじらぼねの様にしなやかで弾力に富み、と云ってアラビヤ馬みたいに勇壮ゆうそうなのではなく、女にしては高く白い額に左右不揃いな眉まゆが不可思議な魅力をたたえ、切れの長い一ひとかわ目に微妙な謎を宿し、高からぬ鼻と薄過ぎぬ唇が、小さい顎あごを持った、しまった頬ほおの上に浮彫うきぼりされ、鼻と上唇の間が人並ひとなみよりは狭くて、その上唇が上方にややめくれ上った形をしていると、細かに書いてしまうと、一向初代らしい感じがしないのだが、彼女は大体その様に、一般の美人の標準にはずれた、その代りには私丈けには此上このうえもない魅力を感じさせる種類の女性であった。
内気者の私は、ふと機会を失って、半年もの間、彼女と言葉も交わさず、朝顔を見合わせても目礼さえしない間柄であった。(社員の多いこのオフィスでは、仕事の共通なものや、特別に親しい者の外は、朝の挨拶などもしない様な習わしであった)それが、どういう魔(?)がさしたものか、ある日、私はふと彼女に声をかけたのである。後になって考えて見ると、この事が、いや私の勤めているオフィスに彼女が入社して来たことすらが、誠に不思議なめぐり合せであった。彼女と私との間に醸かもされた恋のことを云うのではない。それよりも、その時彼女に声をかけたばっかりに、後に私を、この物語に記しるす様な、世にも恐ろしい出来事に導いた運命について云うのである。
その時木崎初代は、自分で結ゆったらしい、オールバックまがいの、恰好かっこうのいい頭を、タイプライターの上にうつむけて、藤色セルの仕事着の背中を、やや猫背にして、何か熱心にキイを叩たたいていた。
HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI ……
見ると、レタペーパの上には、樋口ひぐちと読むのであろう、誰かの姓らしいものが、模様みたいにベッタリと並んでいた。
私は「木崎さん、御熱心ですね」とか何とか云うつもりであったのだ。それが、内気者の常として、私はうろたえてしまって、愚かにも可成かなり頓狂とんきょうな声で、
「樋口さん」
と呼んでしまった。すると、響ひびきに応じる様に、木崎初代は私の方をふり向いて、
「なあに?」
と至極しごく落ちついて、だが、まるで小学生みたいなあどけない調子で答えたのである。彼女は樋口と呼ばれて少しも疑う所がないのだ。私は再びうろたえてしまった。木崎というのは私の飛とんでもない思違おもいちがいだったのかしら。彼女は彼女自身の姓を叩いていたに過ぎないのかしら。この疑問は少しの間私に羞恥しゅうちを忘れさせ私は思わず長い言葉を喋しゃべった。
「あなた、樋口さんて云うの? 僕は木崎さんだとばかり思っていた」
すると、彼女も亦またハッとした様に、目のふちを薄赤くして、云うのである。
「マア、あたしうっかりして。……木崎ですのよ」
「じゃあ、樋口っていうのは?」
「何なんでもないのよ。……」
そして木崎初代は慌あわてて、レタペーパを器械からとりはずし、片手で、もみくちゃにするのであった。
私はなぜこんなつまらない会話を記したかというに、それには理由があるのだ。この会話が私達の間にもっと深い関係を作るきっかけを為なしたという意味ばかりではない。彼女が叩いていた「樋口」という姓には、又彼女が樋口と呼ばれて何の躊躇ちゅうちょもなく返事をした事実には、実はこの物語の根本こんぽんに関する大きな意味が含まれていたからである。
この書物かきものは、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには、余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんで記すに止とどめるが、この偶然の会話を取交とりかわして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私達はちょくちょく帰りが一緒になる様になった。そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから、彼女は巣鴨すがもの方へ、私は早稲田わせだの方へ、その乗換場所までの、僅わずかの間を、私達は一日中の最も楽しい時間とする様になった。間もなく、私達は段々大胆になって行った。帰宅を少しおくらせて、事務所に近い日比谷ひびや公園に立寄り片隅かたすみのベンチに、短い語らいの時間を作ることもあった。又、小川町おがわまちの乗換場で降りて、その辺のみすぼらしいカフェに這入はいり、一杯ずつお茶を命じる様なこともあった。だが、うぶな私達は、非常な勇気を出して、ある場末ばすえのホテルへ這入って行くまでには、殆ど半年もかかった程であった。
私が淋さびしがっていた様に、木崎初代も淋しがっていたのだ。お互たがいに勇敢なる現代人ではなかったのだ。そして、彼女の容姿が私の生れた時から胸に描いていたものであった様に、嬉しいことには、私の容姿も亦また彼女が生れた時から恋する所のものであったのだ。変なことを云う様だけれど、容貌については、私は以前からややたのむ所があった。諸戸道雄もろとみちおというのは矢張やはりこの物語に重要な役目を演ずる一人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室である奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であった頃から、この私に対して、可成かなり真剣な同性の恋愛を感じているらしいのである。
彼は私の知る限りに於おいて、肉体的にも精神的にも、最も高貴ノーブルな感じの美青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じている訳ではないけれど、彼の気難しい撰択に適かなったかと思うと、少くとも私は私の外形について聊いささかの自信を持ち得うる様に感じることもあったのである。だが、私と諸戸との関係については、後に屡々しばしば述べる機会があるであろう。
それは兎とも角かく、木崎初代との、あの場末のホテルに於おいての最初の夜は、今も猶なお私の忘れ兼かねる所のものであった。それはどこかのカフェで、その時私達はかけおち者の様な、いやに涙っぽく、やけな気持ちになっていたのだが、私は口馴れぬウィスキイをグラスに三つも重ねるし、初代も甘いカクテルを二杯ばかりもやって、二人共真赤まっかになって、やや正気を失った形で、それ故ゆえ、大した羞恥を感じることもなく、そのホテルのカウンタアの前に立つことが出来たのであった。私達は巾はばの広いベッドを置いた、壁紙にしみのある様な、いやに陰気な部屋に通された。ボーイが一隅の卓テーブルの上に、ドアの鍵と渋茶しぶちゃとを置いて、黙って出て行った時、私達は突然非常な驚きの目を見交わした。初代は見かけの弱々しい割には、心しんにしっかりした所のある娘であったが、それでも、酔よいのさめた様な青ざめた顔をして、ワナワナと唇の色をなくしていた。
「君、怖いの?」
私は私自身の恐怖をまぎらす為に、そんなことを囁ささやいた。彼女は黙って、目をつぶる様にして、見えぬ程に首を左右に動かした。だが云うまでもなく、彼女も怖がっているのだった。
それは誠に変てこな、気拙きまずい場合であった。二人とも、まさかこんな風になろうとは予期していなかった。もっとさりげなく、世の大人達の様に、最初の夜を楽しむことが出来るものと信じていた。それが、その時の私達には、ベッドの上に横になる勇気さえなかったのだ。着物を脱いで、肌を露あらわすことなど思いも及ばなかった。一口に言えば、私達は非常な焦慮しょうりょを感じながら、已すでに度々たびたび交わしていた唇をさえ交わすことなく、無論その外の何事をもしないで、ベッドの上に並んで腰をかけて、気拙さをごまかす為に、ぎこちなく両足をブラブラさせながら、殆ど一時間もの間、黙っていたのである。
「ね、話しましょうよ。私何だか小さかった時分のことが話して見たくなったのよ」
彼女が低い透き通った声でこんなことを云った時、私は已すでに肉体的な激しい焦慮を通り越して、却かえって、妙にすがすがしい気持になっていた。
「アア、それがいい」私はよい所へ気がついたと云う意味で答えた。
「話して下さい。君の身の上話を」
彼女は身体を楽な姿勢しせいにして、すみ切った細い声で、彼女の幼少の頃からの、不思議な思出おもいでを物語るのであった。私はじっと耳をすまして、長い間、殆ど身動きもせずそれに聞き入っていた。彼女の声は半なかばは子守歌の様に、私の耳を楽しませたのである。
私は、それまでにも又それから以後にも、彼女の身の上話は、切れ切れに、度々たびたび耳にしたのであったが、この時程感銘かんめい深くそれを聞いたことはない。今でも、その折の彼女の一語一語を、まざまざと思い浮うかべることが出来る程である。だが、ここには、この物語の為には、彼女の身の上話を悉ことごとくは記す必要がない。私はその内から、後にこの話に関係を生じるであろう部分丈けを極ごく簡単に書きとめて置けばよい訳である。
「いつかもお話した様に、私はどこで生れた誰の子なのかも分らないのよ。今のお母さん――あなたはまだ逢わないけれど、私はそのお母さんと二人暮ぐらしで、お母さんの為にこうして働いている訳なの――その私のお母さんが云うのです。初代や、お前は私達夫婦が若かった時分、大阪の川口かわぐちという船着場ふなつきばで、拾って来て、たんせいをして育て上げた子なのだよ。お前は汽船待合所の、薄暗い片隅に、手に小さな風呂敷包ふろしきづつみを持って、めそめそと泣いていたっけ。あとで、風呂敷包みを開けて見ると、中から多分お前の先祖のであろう、一冊の系図書けいずがきと、一枚の書かきつけとが出て来て、その書きつけで初代というお前の名も、その時丁度ちょうどお前が三つであったことも分ったのだよ。でもね、私達には子供がなかったので、神様から授さずかった本当の娘だと思って、警察の手続てつづきもすませ、立派にお前を貰もらって来て、私達はたんせいをこらしたのさ。だからね、お前も水臭い考えを起したりなんぞしないで、私を――お父さんも死んでしまって、一人ぼっちなんだから――本当のお母さんだと思っていておくれよ。とね。でも、私それを聞いても、何だかお伽噺とぎばなしでも聞かせて貰っている様で、夢の様で、本当は悲しくもなんともなかったのですけれど、それが、妙なのよ。涙が止めどもなく流れて仕様がなかったの」
彼女の育ての父親が在世ざいせいの頃、その系図書きを色々調べて、随分本当の親達を尋たずね出そうと骨折ったのだ。けれど系図書きに破けた所があって、ただ先祖の名前や号やおくり名が羅列られつしてあるばかりで、そんなものが残っている所を見れば相当の武士さむらいの家柄には相違ないのだが、その人達の属した藩はんなり、住居なりの記載が一つもないので、どうすることも出来なかったのである。
「三つにもなっていて、私馬鹿ですわねえ。両親の顔をまるで覚えていないのよ。そして、人混みの中で置き去りにされてしまうなんて。でもね。二つ丈け、私、今でもこう目をつむると、闇の中へ綺麗きれいに浮き出して見える程、ハッキリ覚えていることがありますわ。その一つは、私がどこかの浜辺の芝生の様な所で、暖かい日に照らされて、可愛い赤あかさんと遊んでいる景色なの。それは可愛い赤さんで、私は姉ねえさまぶって、その子のお守もりをしていたのかもしれませんわ。下の方には海の色が真青に見えていて、そのずっと向うに、紫色に煙けむって、丁度牛の臥ねた形で、どこかの陸おかが見えるのです。私、時々思うことがありますわ。この赤さんは、私の実の弟か妹で、その子は私みたいに置去りにされないで、今でもどこかに両親と一緒に仕合せに暮しているのではないかと。そんなことを考えると、私何だか胸をしめつけられる様に、懐しい悲しい気持になって来ますのよ」
彼女は遠い所を見つめて、独言ひとりごとの様に云うのである。そして、もう一つの彼女の幼い時の記憶と云うのは、
「岩ばかりで出来た様な、小山があって、その中腹から眺めた景色なのよ。少し隔へだたった所に、誰かの大きなお邸やしきがあって、万里ばんりの長城ちょうじょうみたいにいかめしい土塀どべいや、母屋おもやの大鳥おおとりの羽根を拡ひろげた様に見える立派な屋根や、その横手にある白い大きな土蔵なんかが、日に照てらされて、クッキリと見えているの。そして、それっ切りで、外ほかに家らしいものは一軒もなく、そのお邸の向うの方には、やっぱり青々とした海が見えているし、その又向うには、やっぱり牛の臥た様な陸地がもやにかすんで、横よこたわっているのよ。きっと何ですわ。私が赤さんと遊んでいた所と、同じ土地の景色なのね。私、幾度その同じ場所を夢に見たでしょう。夢の中で、アア又あすこへ行くんだなと思って、歩いていると、きっとその岩山の所へ出るに極きまっていますわ。私、日本中を隅々まで残らず歩き廻って見たら、きっとこの夢の中の景色と寸分違わぬ土地があるに違いないと思いますわ。そしてその土地こそ私の懐しい生れ故郷なのよ」
「ちょっと、ちょっと」私はその時、初代の話をとめて云った。「僕、まずいけれど、そこの君の夢に出て来る景色は、何だか絵になり相そうだな。書いて見ようか」
そこで、私は机の上の籠かごに入れてあったホテルの用箋ようせんを取出して、備そなえつけのペンで、彼女が岩山から見たという海岸の景色を描いた。その絵が丁度手元に残っていたので、版にしてここに掲かかげて置くが、この即席そくせきのいたずら書きが、後に私にとって甚だ重要な役目をつとめてくれ様などとは、無論その時には想像もしていなかったのである。
「マア、不思議ねえ。その通りですのよ。その通りですのよ」
初代は出来上った私の絵を見て、喜ばしげに叫んだ。
「これ、僕貰もらって置いてもいいでしょう」
私は、恋人の夢を抱いだく気持で、その紙を小さく畳たたみ、上衣うわぎの内ポケットにしまいながら云った。
初代は、それから又、彼女が物心ついてからの、様々の悲しみ喜びについて、尽きぬ思出を語ったのである。が、それはここに記す要はない。兎とも角かくも、私達はそうして、私達の最初の夜を、美しい夢の様に過すごしてしまったのである。無論私達はホテルに泊りはしないで、夜更よふけに、銘々めいめいの家に帰った。
分かるなぁ、こりゃ出会いが悪過ぎるよw
なのにみんなしてドラクエドラクエ言ってるし、やらない奴はRPG好きじゃないみたいな風潮だもんな。
誰かに聞いて欲しいみたいのはあるだろうし、ドラゴンボールが駄作だって評論して滅多打ちになってた記事が少し前にあったけど、ああいう逆張りじゃなくて普通に嫌な記憶ばっかりなんだからこう感じるのは仕方ないと思うぜ?
ただまぁこれってDQ6が悪いんじゃなくて、セーブ方法が原因じゃん? 素晴らしかったって自分でも書いてるし、心の傷が癒えるまで待つしかないよな。
助けになるか分からんが、リアルタイムでRPGが拡まっていくのを思春期に経験してたオッサンの長ーーーい話でもポテチ食いながら読んでくれ。暇な時でいい。
「あー、ピコピコやるやつですごろくみたいの始めたのか。ちゃんと勉強もしろよ?」
「しょーがねえなぁ少年ジャンプとガキ共は。まーた欧米かぶれの下らないゲームで盛り上がって」
「まぁ子供の入門wwにはいいだろw RPGは難し過ぎるし、アラレちゃんの奴(笑)が絵を描いてるんだろ? エンガチョだよなw」
体感、一つ目が7割、二つ目が2割、最後の意見が1割弱って感じだな。尤もゲームを多少は知ってる人間の話で、半分以上の人はもっと批判的か無関心だ。
興味ないとか不良のやる物とか面白そうだけど目が悪くなるとか、どうせファミコンなんて一過性のブームだろうとか、放っておけば飽きる、とかな。
大人がどうしてファミコンを許してくれたかっつーと、ゲーセン行かせるよりマシだったからなんだよ。
ゲーセンってのは不良とヤクザと仕事をしないサラリーマンの営業と、後は風俗か水商売の女が男に連れられて行くもんで、要はインベーダー喫茶に毛が生えたヤツな?
おもしれーだろ? スペースハリアーとかグラディウスがあるのに世間はインベーダーなんだよ。それに毛が生えた程度にしか思われてねーの。
もうちょい詳しいとギャラガとかパックマンくらいか? ゼビウスもあったけど「まぁ若い子の一部には変なモノが流行ってるな、マイコンマニアは無害だしエレクトロニクスの時代だからそのうち使い物にはなるかもしれない、放っておけばいい」って感じだよ。
大人たちは高度経済成長からバブル真っただ中で忙しいんだけど、マジメな人がゲームは無害かどうか見守ってた空気だな。
っつーのはさ、『みんなそんなに遊ばない』んだよ。
子供だからピコピコやってても見逃して貰えるけど、基本的にまともな大人は遊びの話を人前でするものじゃねーワケ。悪い事だったんだよ、それ。
庶民の娯楽として市民権があったのはボーリングと映画だな。運動は身体を鍛える物だからスポーツはキホン除外で。
釣りは生活の一部(の延長)で、テニスとゴルフは限られた金持ちの趣味で、健全な奴はキャンプとか山登りとかか? いやネクラ君達には卓球もあったなw
まぁオッサンもガキだったから勘違いもあるかしれんが、遊びってのは『大人の許す範囲でやるもので、豊かになったから恵まれた子供達を好きにさせてやってる』って感じだった。街を作るのに忙しかったんだよ、大人は。後はその弊害を処理するとかな。あ、夜の遊びは例外な?
どう言ったらいいか難しいんだが、別に今を否定しようとかってんじゃなくて、大人と若者には明確な溝があって気楽に口を利いて貰えないっつーのかな?
俺は都会の人間だからかしれんが、道路も上下水道も電気もガンガン整備しなきゃいけないからガキはどいてろって空気なんだよ。日本中。
…んで、激しい仕事が終わった連中だけが飲んで騒いでよくて、仕事付き合いしながら店で歌ったり踊ったりしつつ駅とか公園とか会社で寝てまた仕事するワケよ。
それが当たり前なの。w スゲーだろ?
日曜日に休める幸運な大人はテレビだな。ちゃぶ台とビールで。だらしない人は横になって。
上に書いた娯楽は会社の許可が必要(申請書はいらない)みたいな感じでさ、家族サービスとしてデパート、遊園地、動物園なんかも認められてはいた。
長いけどジーサンバーサンと会話が弾むかもしれないから、もうちょい我慢して付き合ってくれ。
そういう中でのゲームってのは、娯楽のオコボレとしてひっそり発展してた。
例えばバッティングセンターの片隅に。
ボーリング場や温泉やゴルフ場の待ち時間潰しや、遊園地の片隅。
毛色の違うものにとしてLDゲームもあったが、まぁそれは置いとこう。
大人には相手にされない子供騙しのゲームは、ユダヤ人貿易商のテコ入れもあってインベーダーブームでヤクザの懐を大いに潤したが、“ほんの5、6年”で下火になって行った。
一部のエレクトロニクスマニアは自分で作ったり改造したりもしていたが、技術屋さんが変わり者なのは仕方ないってのと、将来のメカトロニクス産業を支えるかもしれないから、って見逃されてた感じだ。
あと、パチンコ産業も大きく関係してるが複雑過ぎるし知識が足りないからそれも省く。
ともかくそういう中でマニア(オタクじゃねーぞ?)の趣味としてブロック崩しが一時期売れたりしたんだが、それは大人の玩具って位置付けで高級パーティーグッズに近かったかな。8トラとかみたいにさw
めんどくせーから時系列を丁寧に整理しないが、縁日の射的や温泉卓球のオマケとしてブロック崩しが拡まり、インベーダーで日本中の100円が足りなくなり、家庭用単機能ゲーム機が玩具として売れ始め、パックマンやギャラクシアンやドンキーコングとかマリオブラザーズとかゲームウォッチなんかのブームもあって不良少年が社会問題化したので子供のゲーセン出入りが禁止され、ヤクザと無線屋とジューク屋と興業屋がシノギを削ってそこにマイコンブームが来て、玩具屋も巻き込んで産業スパイ使って殺し合いをしながら兎にも角にもファミコンは誕生した。
「一家に一台、ファミリーコンピューター!」
https://www.youtube.com/watch?v=gguhhdbXD7A (当時のCM動画)
ってな具合よ。
大してして話題になってねーけどな。
マイコンブームってのはまぁパソコンと同じで若者が勉強するなら仕方ないって面があってだな? アメリカから技術や文化を学ぶために赦されていて、ウルティマだのウィザードリだのをマイコン好きやその開発者がこっそり持ち込んで研究してたらしい。主流はパズルとアドベンチャーゲームな。息抜きにアクション、暇潰しにシューティング。変態野郎がエロゲ。
んで、ハイドライドやドラスレが出て、そういうのに関われない可哀想な子供の為に何とかごまかしてジャンプが無理矢理宣伝して売ったのがドラクエってワケだ。
いやー辿り着くまで長かった。ww
当時のマイコン誌とか全然詳しくないんだが、エロと一緒にRPGブームを作ろうって盛り上がってて人気はロマンシアだな。
都築和彦 大浦孝浩 山根ともお 佐藤善美 なんて出てるが、この辺が一流のイラストレーター様で鳥山なんざアメコミカブレのギャグ漫画家で、偶々アラレちゃんで当てたロリコン野郎だったんだ。
分かるな? 子供向けだから許される変態スレスレの漫画家ってポジションだ。
本人がどうかは知らんが小児性愛者スレスレの際どいシュール漫画をヒットさせてて、コメディだから許されてた。本格的な変態はうる星やつらを読んでたから、それで被害を免れてた部分もある。
宮崎事件はまだだから大してバッシングもされてないし、手塚や水木一郎みたいにグロくないからまぁ読ませといてやるかってレベルだ。
高尚なイラストレーター様達はマイコンゲームを上流の趣味として仕掛けていなさったんだよ。っつうか、それに加わってらっしゃった。
少なくとも俺や俺の周囲の視点ではそうだったって話かしれんが、テクノブームとゼビウスがなければファミコンはあんなに受け入れられてないし、マイコンマニアがそんなに御大層なモノかっつーとガキの遊びよりはマシだが「ちゃんと育ってくれればいいけどねぇ」ってのが世間の目。そして市場的にはキャプテンシステムの復興なるか? スーパー301条でまたやられなきゃいいけど…、ってのがあって家電を支えるから変人の趣味として黙認されてた状態だ。
そのごく一部だぞ? そういう不真面目な研究家っつかーの中のホンの一部が、西洋ファンタジーを輸入する事にした。
ガキの遊びで性能はそこそこだがアタリショックの後だから「どうせ消えるでしょw って言うかコンピュータじゃないじゃんww」みてーな。
結論としてはだな?
マイコンマニアが愉しんでいる残りカスを下らん少年誌の連中が怪しいソフトハウスと組んで出来損ないの子供騙しを売り出したのがドラクエで、当時は殆ど売れなかったんだ。
ファミコンを最強にしたのはスーパーマリオであって、それにビウスブームが加わり、ナゼか狂ったように売れたジャンプの力があってようやくドラクエ2が少し話題になっただけなんだ。
ゲームの出来としてはFFの方が上だし、ストーリーはヘラクレスの栄光の方が評価されてた。
ちゃんと世界背景が練られてないじゃないか、と。なんだこの雑なグラフィックは、と。
パスワードとか拷問だよなww でもマイコンプログラミングに比べたら単純だし、子供の文字を覚える勉強くらいにはなるだろww
ファンタジーなのにタケヤリが武器屋で売ってるんだから、やっぱギャグだよなぁ…。
まぁ鳥山は独自の味があるしギャグ漫画家だし、ともかくガキの遊びだから許してやろうぜ、と。
そうして大人と若いお兄さん達に見逃して貰いながら、戦後最大のパワー(他の世代の倍の人数だ)を持った団塊の世代の子供達は「きっと次はもっとすごくなる」とか鬱屈した思いを抱えつつ、ようやくセーブ機能を実装されたドラクエ3に狂喜乱舞する事になるワケだ。
この当時には受験戦争って言葉もあってな? まぁもうドラクエやってる時点で大半は負け組なんだが、そういうストレスが子供の逃避として機能してたのもあるかもしれねー。
それから小・中学生が初めて見るファンタジー世界の冒険を嬉々として大人に語ってたら、中々ぶん殴って勉強しろって言い辛いだろ?
修学旅行にファミコン隠して持って行って旅館のテレビでみんなで遊んだとかどーしようもねぇバカもいたみたいだけど、そこまでするくらい好きなら勉強すれば許してやるかって笑いになるだろ?
うわーもう超なげーわw
軽く見直したけどなんだよコレw オッサンどんだけ語りたいんだよ?ww って感じだけど、でもまぁオッサン達にとってサクっとこれくらい書けるくらいの思い入れは結果としてできちまったんだ。ネットで対立煽りが盛り上がるように、苦労したり批判されると人間ってムキになるだろ? その方が熱意も強くなるんだよ。
それから人口比ってのはデカくてさ、マイコンのお兄さん達には遊んでばっかりでごめんなさいって部分もある(でもバブルは恨んでるけどなw)んだが、元増田みたいに感じてる若い子が出てくるんじゃねーかと最近不安になってたらやっぱりねって感じで、それでも思ったよりマイルドだし、きちんと自分だけの問題として語ってるから「もういい加減に叩くのやめてくれよ」って気分にならずに済んでて、俺達世代としては「ゴメン無理矢理押し付けたりしないから頼むからもう批判しないで」って言いたい。キミに、じゃなくて世間になんだけどな。
もしかしたらそれがメインでこんなに長く書いてるのかもしんねー。
感じ方は自由だし、言うのももちろんだし、それを否定する気はない。
ただ、オッサンらは戦争も知らないし高度経済成長には貢献してないし豊かさの頂点で育たせて貰ったから、負け組世代として罰を受けてるのかもしれない、とかもちょっと思ってる。
ゲームばっかりしてて悪かった。
マンガもたくさん読んでてすいません。
子供も作れてないし収入は低いし老いた親を満足に面倒見る蓄えもなくて申し訳ない。(っつってもそういうヤツの比率や世代差がどれくらいかまで知らねーけど)
だけど、それだからせめて精一杯楽しんだゲームで辛い思いをしたりして欲しくないってのは割とあって、スマホゲー禁止とか言わないし弾圧されるんだったら助けてやる。
助けてやる力は碌にねーんだけど、そうしたいと思ってる。
唐突だけど終わる。言いたい事は書いた。
過去の私は何をしていただろうか。
十年前、私はエル・プラットに降り立っていた。仕事上の出張と言い訳したが、目的はあの彼女に会うためだった。
アナベル。
空港から街までのタクシーは、当時カタロニア語を解さない自分には物珍しかった事を記憶している。
運転手はコロンブ、コロンとアジア系の私を見ながら笑顔で塔の人物を指差していた。すぐに理解できなかったが、それはコロンブスの像であろうとは想像がついた。
コロンブスは私の記憶ではジェノバの出身であり、リスボン時代があったことまでは理解していたが、彼が当時のカタロニアにどのような関わりがあったのか、その場では分からず不思議に思ったものだった。
タクシーは、それがまるで南欧そのものであるかのような眩しい太陽を受けながら、ホテルとへと私を連れて行った。
バルセロナは街は計画された美しい都市であった。そして今もその姿は変わらないだろう。
その街はオリンピックやアントニオ・ガウディなどで有名である事は既に知っていたが、そういった一画とは対照的に、市内の一部の通りでは、服飾を扱う中国からの貿易商で溢れており、その姿が往年の歴史、そして地中海の今も変わらぬ姿を教えてくれるには充分であった。
私は彼ら貿易商達の傍らを通り過ぎながら、アナベルに会えることが待ち遠して仕方がなかった。
携帯で彼女に到着を知らせると、すぐに「会いたかった」の返事が返ってきた。
(続)
ん、「猛虎弁が日本語ベースでないという根拠を出せ」とか言っていたのはもういいの?
自分の読解力がないせいであなたの主張を勘違いしていましたごめんなさい、と謝ったということでいいのね?
猛虎弁の主要な話者は、2ちゃんねらーの中でも特に野球を愛好する「なんJ民」と呼ばれている部族である。
知ってのとおり、2ちゃんねらーは知能が低く、正しい日本語をろくに使えない。
誤用や書き間違いをもとにしたスラングと、コピペと呼ばれる定型文によって会話を成り立たせている。
一方で、猛虎弁のベースとなっているのは、日本の一方言である関西弁(大阪弁)である。
なんJ民はインターネットを用いて、関西のスポーツ新聞から野球に関する情報を得ている。
もちろん彼らは関西弁が分からないので、いわば「エセ関西弁」として理解し、また使用することになる。
現地人(=なんJ民)と貿易商人などの外国語を話す人々(=スポーツ新聞)との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた接触言語
こそが「猛虎弁」ということになるのだ。