はてなキーワード: 全羅南道とは
https://digital.asahi.com/articles/ASQ6Y5FYCQ55POMB008.html
貧しさにあえぎ、親戚に誘われ、知らずに密入国
1959年に韓国の全羅南道で生まれた。兄姉7人の中の五男。父は早くに亡くなり記憶はない。母も小学生の時に亡くなった。兄弟を頼ってソウルに移ったが貧しい生活だった。小学校に通いながら、映画館でアイスキャンディーを売った。それでも貧しさから通えなくなった。
先の見えない中、親戚に日本行きを誘われた。「ガラス工場で、『運び』(材料を釜まで運ぶ仕事)をしないか」
「日本に行けば、技術を身につけて帰れるかもしれない」。そう期待してうなずいた。
だが、日本行きの道は想像もしなかった方法だった。パスポートも持たずに集められ、夜中、隠れるように小舟に乗った。言われるまま停泊していた中型貨物船に乗り込むと、窓もない船底に数人と押し込められた。入り口には釘が打たれた。1日2食。ごはんにみそ汁をかけたものが出された。「どうなるのか、悪いことではないのか」。頭は疑問でいっぱいだった。
3일
3日目
日本でいうところの令和2日目。
光州の朝は晴天だ。
香港で見た夢は習近平と麻生太郎が出てくるというぶっ飛んだものだったが、光州で見たのは同僚に「韓国旅行どうでした?」と聞かれて「良かったよ」と答えるという現実的なものだった。
今の所、インプレッションは上々だ。
今日はまず光州で起き、映画「タクシー運転手」のテーマにもなった民主化運動の記念碑が立つ、5.18記念公園に向かう。
オシャレだが簡素なhotel stay 53では朝食もない。
行きすがら何か食べようと、街を歩くが、朝9:30の光州では空いている店もまばら。歩いている人も多くない。
やっぱりノンビリした街だなぁ。
韓国ではキャッシュカードやT-money、普及中のバーコード決済でキャッシュレスが進んでいるという。
光州の街は人口で言えばちょうど京都市と同じくらいなのだが、緑が多さと人口密度の薄さを考えると、札幌市の印象に近い。
しばらく歩くと公園に到着した。
民主化運動の聖地というが、緑豊かな市民の憩いの場という感じで、丘状の公園の中腹にある人場では、設置された宙に浮いて足踏みをするタイプの運動器具でオバちゃんが健康づくりに励んでいた。
予想外に日常的で平和な光景に少し驚いたが、公園をグルリと一周すると、3人の男性が宙に手を伸ばす民主化運動のモニュメントに出会った。
筋骨隆々としていて、さすがにちょっと理想化されてるんじゃないかと思ったが、その自由を求めて闘う表情には迫力があった。
中に入って一瞬目を見張った。
この闘争で亡くなった人か。
平和な光景の地下に、この日常を目指して亡くなった人たちの記憶が眠っている。
さすがに空腹になったので、近くの店に入ってソルロンタンで昼食をとる。
オバちゃんの指摘は優しく控えめな感じだった。
エネルギッシュな印象のある韓国人だが、光州の人はどこか柔和な感じがする。
8000ウォンを支払い、歩いて行けそうなカラフルな集落、「青春発散村」に向かった。
20分ほど歩くと、川沿いの坂道にカラフルな集落が出現した。「青春発散村」だ。
坂道に張り付くような民家がカラフルなペンキアートで彩られている。
らしいと言えばらしいのだが、パステルカラーの家々ではどう見ても普通に生活が営まれており、どでかい少年のコンクリ像のすぐそばの家からは小学生程の少年が飛び出してくる。
学習塾か何かだろうか?
メルヘン大盛りの集落で少年時代を過ごしたあの子達は、どういう記憶でこの日々を振り返るのだろう。
路線番号518
当初の予定には無かったが、時間的に間に合いそうだったので、光州事件の犠牲者が眠る5.18民主墓地に向かう。
外国の市内バスは何が何だかわからないのだが、このバスに限っては間違いようがない。多数の路線の中でただ1つの3桁ナンバー、ズバリ518なのだ。
緑豊かな山の上に、モニュメントが建っている。
天を衝く槍のようなその下に、民主化に立ち上がって倒れた人々が眠る墓があった。
仄暗い空間を見渡す限りの壁一面に、額に入った遺影が並べられていた。
歩いたし、衝撃も受けたので腹も減っている。
コーヒーでも飲みながら友達とSNSで話そうかと思ったが、夜に早い光州のこと、急がないとまた行きたい店が閉まってしまう。
バスを降りてすぐに光州松汀駅に向かった。
途中、T-moneyカードをチャージしよう思ったが上手くいかない。
身振りぶりで行き先を示すと、切符の買い方や乗るべきホームまで教えてくれた。
相手が何語だろうと自国の言葉で臆せず押し切るのは、万国共通のオバちゃんフォームなのかもしれなかった。
俺は一体この旅行記で何回「オバちゃん」というワードを書いたのだろう。
店に入っても日本語メニューなどは無かったので、壁のハングルを指差して注文、相手はもちろんオバちゃんだ。
やがて、10皿ほどの小皿おかずと、牛モツ煮込みスープ、山盛りの青菜がやって来た。
やがて焼きたてのトッカルビがやって来た。
小皿のキムチなどをつまみながら、トッカルビを青菜に包んで食う。
トッカルビは肉の味なのか、一緒に練りこんだ調味料の味なのか、少し甘い。
いい意味で見た目通りの味がする。
そしてキムチは辛い。
全羅南道のキムチは辛いと聞いていたが、辛さのアタック力が日本で売られているキムチとは違うし、もっとシンプルな味がする。
韓国人からしたら、日本のキムチは辛くない上にしつこく感じるだろう。
テーブルに乗せられた料理は一瞬圧倒されそうな量だったが、空腹のためか、ついでに頼んだビールの作用かどんどん食い進めることができた。
食の都といわれる光州、これだけ食えば上出来だ。
2일
2日目
疲れて深夜のチェックインになってもいつも通り眠りは浅かった。
チェックインしたばかりの釜山東横INN2だが、10:00にはチェックアウト予定。
初日の釜山には1泊だけして、西部バスターミナルから、光州に向かうことになっていた。
「近代化している韓国だからなんとかなるだろう」と、ちょっと緊張感が薄いまま成田を発ったが、初日の予定外でやはり外国である事を思い出した。
今日はまず昨日手に入れることができなかったT-moneyカードを入手しないといけないし、西部バスターミナルに向かう前に、西面の両替所で両替しなくてはいけない。
ついでに西面でうどん風混ぜ麺、カルグクスで昼食をとろうと思ったが、予定通りに食事が取れるとも限らないので、いつもはスルーしがちなホテルの朝食をしっかりいただくことにした。
どこでも一緒の東横INNの朝食でもキムチがあるあたり、やはりここは韓国だ。
チェックアウトして釜山駅へ。
「近代化している韓国」ではあるんのだが、朝9:30の釜山駅前には路上にゴザを引いて人参やナムルを売っているクルクルパーマのオバちゃんがいる。
昨日は気づかなかったが大気汚染もまあまあだし、そこかしこが工事中で、全体的な印象としては1980年代後半から90年代前半の日本という感じがした。
ネット環境やK-popなど、一部は日本より先をいっている部分もあるものの、90年までは軍事政権だった国でもある。
絶賛工事中の釜山駅のコンビニに入って、クルクルパーマのオバちゃんに声をかけると、昨日とは違いあっさりt-moneyカードを購入できた。
これで移動が便利になって一安心だ。
釜山駅で一休みした後、レートが良いと評判の西面、ナヨン両替所へ。
西面で降り、繁華街の路地裏にある両替所に向かうと、行列の奥ではクルクルパーマのオバちゃんと作業服っぽいなりのオジちゃんの老夫婦が古びた紙幣カウンターと缶々を前に次々と客を捌いている。
路地裏の20㎡ないんじゃないかという店の夫婦2人が近代的な大銀行の向こうを張って大行列を作っている様はなかなか格好いい。
両替も済んだので、モウモウと湯気を上げている混ぜ麺の店、「キジャンソン カルグクス」で昼食。
カルグクスは刀削麺的な汁そばで、青菜、ニンニク、ゴマがトッピングされた麺が赤いスープに浮いている。
見た目ほど辛くはなく、塩味も薄め。
味の強い印象のある韓国料理も多くは辛味や酸味で、塩味は強くない。
良く韓国人が日本料理を「しょっぱい」というが、あれは多分本音だ。
韓国人がという問題ではなく、日本料理はアジア圏ではやはりかなりしょっぱい。
昼時ともあって客は引きを切らず、赤い麺は次々とサーブされ、店内では老若男女が麺をかっ込んでいた。
腹も満たされたので店内を出て西面の路地を歩くと、路地にはおでんの屋台が軒を連ね、おでんを煮るクルクルパーマのオバちゃんの前で、お姉さんがおでんを食っていた。
「屋台で出されたものを屋台の前ですぐ立ち食いする」という光景は其処彼処で見られ、それが小綺麗なお姉さんだったり、中高生だったりするのは面白い光景。
「社会を平すと1980-90年代あたりの日本」という印象はここでも感じるところで、「日本から見る韓国って、なんかある意味、変に期待値が高すぎるんじゃないかなぁ」と思った。
西面駅から地下鉄に乗って沙上駅で降り、最寄りの釜山西部バスターミナルで光州行きのチケットを買い求める。
メモを見せて買い求めると、指示されたバスの出発は10分後だった。
異国の地だというのに時間の余裕がなくて焦るが、なんとか乗車。
バスは直ぐに発進した。
窓の外に連なる緑の山々を見ながら、度々遭遇するオバちゃんのクルクルパーマや韓国女子のファッションについて考える。
若い子たちは男も女も洗練はされているのだが、どうもテイストが一緒で、オバちゃんの高いクルクルパーマ率にしても、どうも社会の均質性が高いように感じられる。
よく聞くのは熾烈な受験戦争や、男がひたすらに目指し、自慢するという高スペック。
この社会で、勝てる奴やハマれる奴は過ごしやすいのだろうが、そうでない奴にとって、韓国社会はキツそうだなぁ。
光州へ
3時間の乗車の後、バスは光州 バスターミナル U・SQUAREに到着した。
熱気と緊張感あふれる釜山と違って、降りた瞬間になんとなくユッタリとしたムードを感じる。
韓国第4の都市とは言っても、街の様子も釜山とはまあまあ差があるようで、バスターミナル最寄りの農城駅からホテルのある尚武駅まで地下鉄で向かうと、地下鉄も空いていて、街行く人もまばらなノンビリした地方都市という感じだ。
すれ違う人のファッションも違いがあり、釜山よりはリラックスしていて、素朴だが小綺麗なナリをしている。
「自分のしたい格好を勝手にしているという意味ではこっちの方がオシャレなんじゃないかなぁ」と感じる。
そしておそらくは、だが、光州、全羅南道の人は、きっと釜山と血の意味で、人種がちょっと違う。
かつて日本にやってきた渡来人は、この地方の朝鮮人だという話を聞いたことがある。
日本ではあまり有名とは言えないこの地は、実際はより日本に近縁なのかもしれない。
ラブホと見まごうばかりにオシャレなデザイナーズホテル hotel stay 53にチェックイン。
部屋もベッドも広くて清潔で、「この値段でいいのか」と思うほどリーズナブルだったが、オシャレすぎてアメニティがみつからなかったので、最寄りのロッテマートで買い出しに行き、ついでに市内散策。
地下鉄で数駅移動して見て気づいたのだが、光州は夜が早く、大方の店は22:00には閉まってしまう。
夕食にあてにしていた店もラストオーダーに間に合いそうもなかった。
予定を変更し、バスターミナルのあった農城駅に引き返して徒歩15分ほどの場所にあるらしい24時間営業の食べ放題の店に向かう。
地図を頼りに歩くが、沿道の小規模な店舗は尽く閉店しており、ほとんど人とすれ違わない。
「本当にここであってるのかな」と思った矢先に、ガソリンスタンド脇にその店があった。
どうも殆どタクシー運ちゃんや地元の人しか来ないような店らしい。
席に座ると、自動的にオバちゃんがご飯とスープとデジカルビを持ってきてくれる。
ビュッフェといういうにも素朴すぎるスタイルだし、店内もオッさんとオバちゃんしかいない学食といった雰囲気だが、食の都、光州の惣菜はどれも美味しく、食べ放題の白飯が進んだ。
初めて訪れた街の夕食としては上出来だろう、会計を済ませて、レジのオジさんに覚えたての韓国語で感想を伝えた。
「マシッソッダ(美味しかった)」
http://portal.nifty.com/kiji/160614196764_1.htm