はてなキーワード: 序列意識とは
すごいナチュラルに「東京=リベラル、地方=旧弊」という偏見と「地価による序列意識」が出てきてビビった
「地方のなかでも地価の高い中心部はリベラルですのよ」って何のアピールだよ
まったく悪気のないこの増田にそれこそ断絶を感じるわ
30年前くらいに小中学生だったけど、離婚家庭の子も愛人の子も別に噂にもならなければそれでいじめられる事もなかったよ
自分はそのままでいいけど、娘には選択肢を与えたいし、別にそれが何かの火種になるとも思わないけどな
昨日https://anond.hatelabo.jp/20210225122346を書いたけど、自分の周りの地域は昔からこうなので
https://toyokeizai.net/articles/-/385356
「「ゴミ屋なんて何回も回ってくるんだから、そこら辺に置いておけよ」
僕は世の中から「~~のくせに」という言葉がなくなればいいと思っている。「~~のくせに」という言葉がつけば、だいたい腹が立つ。男のくせに? 女のくせに? 子どものくせに? 「~~のくせに」という言葉には悪意がついてまわる。大概ヒステリックに飛び出すものだが、場合によっては潜在意識の中に序列が潜んでいることもある。」
わかったことは、
・ゴミを回収するのはいやしい仕事だと思っている(自分もゴミを出さないと生きていけないのに)
・他人がどんな職業であれ、すべて間接的にお世話になっていることを忘れている
・苦労せずに金持ちになったり安定した人生を送ると、苦労人の気持ちがわからないから傲慢になる
・年を取るとその傾向が強くなる(人生の積み重ねが増幅される)
ということである。
この記事をかいたゴミ清掃員の方は、実際に世の中をキレイにしつつ、仕事に関連した情報を発信して、世の中を啓蒙している。
すばらしいと思う。
「これはゴミ清掃だけの話ではなく、仕事の内容とそれに見合った報酬を何の引け目もなしに、堂々と受け取れる時代にしたいと思っている。」
ジョブ型の時代になっていくので、これまでのメンバーシップ型の社会は崩れる。
戦後、華族制度が廃止されて、階級を誇示できるものは「大企業への所属」しかなかった。
この前ツイッターで
「なんで運動や他の特技はアピールしても、それほど嫉妬されないのに、学歴だけ妙にみんな過敏に反応するんだろう」と
つぶやいていた御仁がいた
言いたいことはわからんでもない。
でも、学歴を他のスキルと同等に扱えないのはそれなりに明確な理由がある。
全入時代で、定員割れしてる大学も多いから、全員がガチで勉強して進学する訳でもない。
それでも中卒・高卒・専門卒・大卒(四年制・短期)・院卒と、基本的に誰もがどこまでの教育を受けたか区分けされる。
勿論、大卒の中でも、というより大卒の中でこそ、旧帝早慶・駅弁March(最近はSmartなんだっけ?)・日東駒専~なんやらかんやらと、細かいヒエラルキーというか、序列意識が存在する。
そりゃ、義務教育・高等教育期間と、正味12年(以上)かけた上でのレース結果である。
でもこれだとある意味、全員に"学歴"という属性が強制付与されてるようなものだ(非常に気持ち悪い表現だが)。
紙切れ一枚に夢託す
実際、紙切れ一枚で頭の良し悪しなんて、簡単に判別できるものではない。
そんなの、みんなわかりきっている。
わかりきってるし、学歴信仰・偏差値信奉者は一般的にはクソダサいので、学歴で頭の良さが決まるなんて、皆さん口に出して言わない。
でも、実際の所はどうだろう?有名企業の就職率は技術職の理系ならまだしも、文系でも明らかに全体のうん%しかいない一定以上の高偏差値層で固められている。
場合によっては、就職後の研修まで大学のランク別に分けられている。なんだよ、企業なのに、予備校と一緒かよ。という感想である。
学歴=頭の良さではないが、高学歴の方が勤勉性が高かったり、論理的な(座学的な)思考能力が高かったり、まあそれらを測るシグナルとしてはそれなりに信頼性は高いわけだ。
人間外見より中身のが大事だが、これだけ肥大化した社会ではそこまで丁寧に中身を見ることはできないので、大数の法則的に学歴を足きりの条件として使わざるを得ない。
これだけでも、お勉強できましたアピールは、運動できた、楽器弾けますという類のアピールとは、殊更性質が違うことはお解り頂けたであろう。
(優秀で高学歴な増田諸氏からはわかりきったことほざくんじゃねーよ、と切れ味鋭いツッコミが返って来そうであるが)
そして学歴がコンプレックスを非情に拗らせやすいのは、加えてややこしい要因があと二点程挙げられるからである。
増田のような過ごした田舎の公立校では、若くて楽しい青春時代に、机に齧りつくのはダサいと考え、学業に重点を置かなかった層も一定数(というかかなり)いる。
就職やその後、たかがテストの点数でこうも扱いが違うの?阿呆じゃね?ということを痛感したときには既に遅いのだ。
もう少しだけ、勉強にステ振り分けてれば、後の人生もっと楽だったのに。妥協して滑り止めに入るべきではなかった。
働きながら、資格を取ったり、通信などを含めて学び直すことも可能ではある。
が、正直それは、学業に集中することが許された時期に比べると、かなり余裕を持つことが難しいと言わざるを得ない。
特に通常の大学進学なら、合格後も4年間まるまる勉強に専念することになる。
結婚や育児、職場で責任あるポジションを任されると言った事情があれば、尚の事これは難しい。
なんだかんだで家庭環境や出身地など他のデリケート要素が絡んでくるからである。
文科大臣が新受験制度における教育格差について指摘されたときに、「身の丈発言」で物議を醸したことは記憶に新しいだろう。
だが、失言だったには違いないが、家庭環境及びその収入、或いは予備校や進学校の多い都市圏で暮らすか否か
都市圏に多い私学の中高一貫校は、難しい試験を課して入学者を選別する。
その試験を突破するにもやはりある程度家計に余裕がなければ、合格は厳しいだろう。
そしてレベルの高い生徒が集まる環境で、難関大学合格を目標に塾や学校で、合理的で進度の早いカリキュラムが組まれる。
無論、地方だろうが、世帯収入が低かろうが、ストイックに学習に励むことは可能だし、賢い子どもは幾らでもいる。
だが、都市圏でかつ富裕層の方がそれだけ選択肢に恵まれている。この点は否定のできない事実である。
そして、何よりデリケートな問題なのが、やはり不向きな人はそれなりにいる、という点だろう。
「ケーキが切れない非行少年たち」という児童精神科医が書いた本が話題になったが、
境界知能と呼ばれる、IQ70〜84の知的障がいに該当しない人の割合は実は人口の約14%に当たると言われている。
IQと学力の相関性は、増田は実際のところ門外漢なので、少し言いづらい部分もあるが、スポーツがどうしても苦手なタイプがいるように
勉強がどうしても苦手だという人もそれなりにはいるような気がする(公立小中で過ごした時期を振り返って)。
増田はスポーツがどうしても苦手だが、かろうじて学業だけは人並の成績ぐらいはおさめられた。
スポーツが苦手なのは、子供の頃からのコンプレックスだが、歳を重ねれば、学生の時に比べ、そう比較には出されない。
勉強だって基本的にそうだ。だが、別に努力しなかったわけでもなく(あるいは努力する機会がなかったために)、勉強が不得手であった人に
そうしたコンプの瘡蓋を刺激するようなことをすれば、話がややこしくなるのは当然である。
加えて、社会的な記号として、長い期間付いて回る問題でもあるから、二重にややこしく、なるべく人と比較しない方が無難な話題である。
https://www.tyoshiki.com/entry/2020/05/27/223701
長い。
箕輪研究室は時代の最先端を謳っているがその実態は時代錯誤のマイルドヤンキーがウェイウェイやってる空間。バカなマイルドヤンキーが調子こいて記事書いてくれたおかげでその空気がよく伝わった、だけでいい。
上のnote書いたやつは純度百パーセントのマイルドヤンキー。
学がなくて身内のノリがすべてで序列意識強くてフェミニストって何ですかっていう時代錯誤ぶり。一から十までマイルドヤンキーの手本。ネットばっかりやってる人間にはわかりにくいかもしれないが日本はこういうマイルドヤンキーが動かしてる。彼こそが日本の民度の標準って理解しろ。こういうマイルドヤンキーバリバリの人間に驚いてはいけない。
狂気のゲリラ的バブル型住宅高騰が発生している横浜市は、地価の高騰が社会問題になっている川崎市と隣接している。その川崎市に隣接しているのが東京都。再開発&地上げラッシュが起きている地域だ。通常では考えられない問題が、奇しくも同時期に、近所で起きている。
都市部と地方の格差拡大問題はすでに多くの人に取り上げられてきたが、ここにきて、大きな問題として浮上しているのが、都市問題である。見えてくるのは「負のバブル化する東京圏」という問題だ。
東京圏というと、日本の中心とか、観光地のすがすがしさや、文化情緒などをイメージするものだ。そしてそういう豊かさもあれば自然も文化もあるような、勝ち組の豊富さにひかれた人々が集まった結果日本国民の20%が住む人口の規模に発展を成し遂げたのも事実だ。
ところが、そういう魅力のあった時代は、どれも2011年より前に偏っている。東京都内だって、2012年以降はハッキリ言って無機質な再開発が進むだけで、池袋にせよあるいは下町の極北として知られる23区東部にせよ、その時代は昔に偏っている。
東京圏には街ごとの序列意識がある。実際には、地価も安く店舗や交通網の多い郊外や下町地域の方が住むにはいい場所で、むしろ山手線の内側や中央線沿線の西側は治安リスクとインフラ事情の貧弱さによる問題や何より高齢化の問題を抱えているのだが、東京圏はとにかくそのような事情を無視するのである。
私は2011年以降を「東京圏の黒い時代」と名付けている。都市圏との境目までは延々と個性ある光景が広がる。境界線から都市側に行くと、ある段階で急にその流れが終わる。神奈川県を抜けたら、山手線周辺に入ったら、埼玉県や千葉県を抜けたら、急に、歴史ある土地柄とは思えないファスト的風景や無機質な風景になるのである。
地域性がハッキリしているのが日本の都市とは言われている。阿佐ヶ谷や亀戸のように、駅名だけでイメージがつく。八王子なら高尾山の風光明媚さ、立川なら公園みたいに。しかし、東日本大震災以降の、「東京圏の黒い時代」は、はっきり言って、似たり寄ったりのものが増え続けているのである。
私は東海道線で横浜から東京に行くたびに、電車を降りて駅を出て歩いたときに見かけるあの「同じ都市風景」に、思うことがあった。赤羽でも、秋葉原でも、新小岩でも、渋谷でも、練馬でも、そして東京都の外の川崎や横浜でさえも、既視感のある風景。特別な理由があるわけでもないのに妙に没個性化していて膨大な人や金が凝縮される感じ。
「たまたま職場に近かったから」「たまたま学校に出やすいから」「たまたま住みやすい家があるから」「たまたま生活に便利だから」という、都会人の生活に至る中継点としての、半端な利便性、関係性を抜きにすればあまり成立しないところに、いびつな成長を遂げた姿があるのである。
こういう場所で、このような社会問題が連鎖して起きているということが、私にはとても気がかりなのである。昭和の裏社会もののようなイメージもあるバブル期ではなく、アベノミクス時代の方が実は事態が深刻で、市民が悲鳴を上げていて、頻繁にクローズアップされる現実は、日本人として見過ごせない。
大阪などよりは景気がよく、おまけに賃金水準が日本でもトップクラスで、多様性もある。その代割り、それ以上の価値はあまりないという場所に生きる日本人たちは、いったいどのような意識を形成するのだろうか。私とその家族も、あなたたちも、ほぼ同じ環境にいるはずだ。
しかし、2010年代くらいになると、地方にしかなかったファスト風土的光景が一気に都市部に広がり、凝ったチェーン店や文化はより高次のニーズを満たす街中のそれらに客を奪われる形で潰れ、貧困の高齢化、多文化共生などのあおりを受け、都市部の繁栄の広がりは陰りをみせてきた。
オタクだったら池袋と秋葉原の関係。池袋の方が本来は規模が小さいが、力をつけている池袋側のオタク文化に歴史や多様性以外なにもない秋葉原は負けてしまう。オタク系企業も西に移っている。そして西側の方が多様化が進んでいて成長が著しい。結果秋葉原文化は6年ちょっとでどうなったか。もう、電気街さえ。
じゃあ池袋がいいかというと、多摩地域と同じで一定のインフラ群はあっても、妙にひっそりしていて、千葉の都市部をもっとオーラを悪くした感じなのである。昭和時代に無機質に造成された建物がくすんでいる。人口も減りかけているだろう。
限られた都会の極地以外は、過去のように「勝手に集まって勝手に増えて勝手にぎわう」流れは通用しないでいる。とにかく輝きといえるような流れも何一つない。
しかし、大阪と違うのは外からの「東京圏は人口が最も多く、資源に富んでいて、日本の中では一番豊かで洗練されていて上等な部類に位置している」というイメージはあるということで、やはりギャップに葛藤するのである。不都合な現実、分断、ゆるやかな荒廃。こういうのを一番痛感するのが私たちだ。
でもこの「東京圏の黒い時代」にこそ、社会の急激な流れを感じる人が多い。現在では過酷なセクハラが常態化し「セクハラされた男社会4ね」という女性の叫びがネット上に飛び交う。
この「東京圏の負のバブル化」を本気で考えなければいけないのが、今の東京圏の現状だと思う。これらの場所がオーラを改善させ、2000年代までのような自・他ともに認める固有の性質を各地が確立でき、いびつな偏りのない競争が起きるくらいまで調整する役割を、私たちは放棄してはいけない。