「共生」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 共生とは

2021-12-17

anond:20211217095519

世間クラスグループ、同期、いろんなものから排斥されてきた人たちが「社会協調共生」に共感持つわけない

2021-12-16

anond:20211216140442

元増田です。

環境への影響を考えるなら、化成肥料は間違いなく悪いです。

肥料は主に窒素リンカリの3要素からなります

窒素空気から合成するのにエネルギーを使います。全世界の消費エネルギーの1.2%だそうです。

https://www.asahi.com/articles/ASM594WBSM59ULBJ007.html

リンは主にリン鉱石という鉱物から作られます

火山灰土ではリンが反応して植物に吸われなくなるという現象があり、日本ではリンはとても大切な資源ですが、

残念ながら日本には資源がありません。100%輸入だったと思います

中国からの輸入が主で、これが今ストップしてしまいました。

一部では肥料工場も止まり、値上がりで済むのか、来年分が手に入るのかという状態です。

何にしても有限な資源であることは変わらず、リン枯渇という問題は随分前からあります

過去にはグアノというコウモリの糞がリンの主原料でしたが、取り過ぎて枯渇して国家滅亡寸前までいった島があります

カリちょっと知らないです。すみません

有機技術を使うと、例えば窒素マメ科栽培して共生である根粒菌空気中の窒素肥料に変えさせるという方法があります

稲作の前にマメ科であるレンゲを育ててすき込んで肥料にするという方法は昔からあります

リンは既に過剰投与と言われているので、共生菌などを利用して固定化されたリンを吸い出すなどができると思います

この共生菌が発見され商品化されたのは割と最近の話です。

近くで手に入るものは何より手軽で安い。カーボンフットプリントという観点では肥料成分が薄く量が多くなっても間違いなくエコです。

有機からというより、資源の乏しい日本で、近くで手に入るもので回していくと自然有機になっていくのです。

2021-12-13

地域共生

幼い女児を育てているお母さんと、障害のある成人した息子を育てているお母さんを、両方とも地域社会を考えるシンポジウムに招いて当事者の声を聞いてみてはどうだろうか。

シンポジウム主催地域運動を率いている大学教授支援団体リーダーからなる形。

子どもたちの安全を最優先するという名目で、児童の言うことを鵜呑みにして何でもかんでも不審者情報として流すのが、果たして共生社会と呼べるだろうか。

あるいは、障害のある人も地域社会の一員である以上、児童女性が抱く犯罪不安に寄り添うべきではないのか。

2021-12-09

宇宙には不可視の未知の物質が80%ある

その物質ダークマター名称が付けられているが3つの特性がある

1、不可視である電磁波で検知できない)

2、触れても検知できない(電子に反応しないため触れたことに気付けない、検知できない)

3、宇宙バラバラにならないよう結びつける繫ぎ止める役割のような性質を持っている

1と2は原因が同じである

ダークマター電子に反応しないため、我々の知ってるやり方では検知する術がない

検知できないので、存在してても見ることもできない・触れても分からない

3は原因はよく分かっていないが非常に似ている存在を我々は本能的に知っている

重力である

重力は見えず触れることもできない存在だが、存在することは地球上の生命体は知っている

実際にダークマターの正体が重力グラビトン)に関わる素粒子でないか提唱されている

宇宙というのはどうも大量の重力の影響を受けていてバラバラにならないように繋ぎとめられているらしい

それが現在提唱されている説である

研究者がなんとかダークマターを検知できるよう発見できるよう死力を尽くしているが結果は出ていない

宇宙の大半にダークマター存在する場合、一つ覆る可能性がある現象がある

空震である

空震超新星爆発などのタイミングで計測され、存在確認された現象である

真空状態振動を伝達するものがないのに揺らぎを感じたら、揺れているのは時空ではないかという考え方だ

宇宙の大半にダークマター存在する場合、実際には振動を伝達するものがあるようだということになるので、時空震の前提が崩れ考え直すこととなる

ダークマターは検知することもできずコントロールする手段も皆目見当もつかない状態だが概念的にはファンタジーであるエーテルスターウォーズであるフォースに近いとも遠いとも言える

例えばフォースは設定上はかなりダークマターまたは重力に近い

フォース(The Force)は銀河系のあらゆる生命を繋ぐエネルギーである。”

スターウォーズ世界では、細胞内に共生する微生物ミディ=クロリアンフォースを検知することができるため、それを通してフォースを感じ取れる操れるという設定になっている

次に

ファンタジーにあるエーテルは大体魔力と称されるエネルギー大気中や物質に内在してたりなどそこらに充満していると考えられる設定である

魔法使いモンスターエーテルを感知し操るすべを獲得しており、それで魔法超能力などの異能力を発揮できるという設定がセオリーである

ダークマターが検知できて操れる術を獲得できたらどうなるのかの回答は現代科学ではまだなんの見当も付いていない

うまくいけば重力操作ができるようになって低エネルギー消費で飛行できる乗り物が量産できたりするかもしれない

UFOはそういう発想で描かれていたりすることが多い

科学が発展し多くのことが分かるようになってきたと思っていたが、実際には宇宙の80%がなんかあるみたいだけど分からない・知ることができないというのが、現在人間限界であり、まだまだ宇宙には分からないことがたくさんあるという浪漫を示してくれている

2021-12-02

はてブユーザー植物は痛みを感じている!」←???

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DividedSelf_94/status/1465862459244298244

人間は「痛み」を感じます動物特に系統的人間に近い種ほど、人間と似た神経構造を持っており、人間に近い「痛み」を感じていると科学的に考えられます

また、植物動物と違って神経を持たないため、人間とその他脊椎動物が共有しているような意味での「痛み」をそもそも持ちません。

植物が傷つけれた場合にある種の化学反応を起こすことは知られていますが、それを人間哺乳類が共有しているような「痛み」とは根本的に異なるものです。

植物は痛みを感じている」というのは、ヒマワリの花がそのてっぺんに咲いてるのを見て、ヒマワリ人間キリンのように頭があるというようなものです。

一方、人気のはてなユーザは何を言っているでしょうか。

その理屈だと植物の痛覚が証明されたら詰む。植物の葉が虫に囓られると他の葉に刺激が伝わることは既に分かっている。植物にも痛覚はあるという前提で踏み倒す方が合理的だろう。もっと生物殺しの顔をしよう。

植物には痛覚があることが証明されることは永遠にないでしょう。神経がないのだから。もちろんヒマワリが歌を歌ったり、キリン原子力発電所を作る可能性を夢見るのは悪いことではありません。

痛みを感じるかどうかも科学的でもなんでもなく人間想像を基にした宗教だけどね。とはいえ、痛みが苦しみである共感を得られやす宗教ってだけで、異宗教虐殺していいがキリスト教含めた一神教原理主義

痛みを感じるかどうかが人間空想宗教なら、麻酔治療はおまじないなのでしょうか。

葉っぱちぎると植物全体から化学物質が出てくる。これを痛みを感じてるとしない理由科学的に教えて欲しい。嫌がって必死になってるなら広い意味で痛みを感じてると言えるだろう。文系の連中は度し難い

植物が痛みを感じてる」という感想の方が、どう考えても比喩であり文学領域でしょう。

何でこんな幼稚で非科学的な意見に☆が集まるのかといえば、「ヴィーガン動物愛護活動家非科学的・宗教的な信念を持っている。肉を食べている我々は科学である。」という強い偏見を多くの人が持っているからかもしれません。冷静に常識的に考えれば「植物は痛みを感じている」という主張はおかしいことに気づくとは思うのですが。

もちろん、事実認識科学的で正確かどうかと、その認識に基づいた判断倫理的に正しいのかは別です。

肉食を正当化するなら、「確かに動物植物と違って人間のような痛みを感じている。しかし、動物を殺すことは~~という理由正当化できる。」というような主張をした方が良いと思います

「『痛み』なんか人間想像しかない」みたいな極端なことを言う人もいますが、もう少し日常的なレベルものを考えた方がいいでしょう。他人に大きな「痛み」を与えることは一般的に法的に禁じられていますし、「痛み」を緩和させるために様々な医学知識が使われています

「痛み」だけを倫理基準になるのも明らかに良いとは思われませんが(安楽死さえすれば人を殺してOK?)、現代日本倫理物差しにおいて「痛み」が重要なのは言うまでもない。

動物愛護法」という法律があります日本の国法レベルで、植物動物は違う取り扱いをしてね、と言っていますから西欧日本倫理観にそこまで大きな違いはないように私は思います

「第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物共生配慮しつつ、その習性考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。」

「第四十条 動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物苦痛を与えない方法によつてしなければならない。」

やっぱり動物にむやみに苦痛を与えたらダメだよ~と言っていますね。

環境省はこういうお願いも出してます

苦痛とか痛みについて結構突っ込んで書いてておもしろい。

動物殺処分方法に関する指針(平成19年11月12日環境省告示第105号)

第1 一般原則

管理者及び殺処分実施者は、動物殺処分しなければならない場合にあっては、殺処分動物生理、生態、習性等を理解し、生命尊厳性を尊重することを理念として、その動物苦痛を与えない方法によるよう努めるとともに、殺処分動物による人の生命身体又は財産に対する侵害及び人の生活環境の汚損を防止するよう努めること。

第2 定義

この指針において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めると

ころによる。

(1)対象動物 この指針の対象となる動物で、動物愛護及び管理に関する

法律昭和48年法律第105号)第44条第4項各号に掲げる動物

(2)殺処分動物 対象動物殺処分されるものをいう。

(3)殺処分 殺処分動物を致死させることをいう。

(4)苦痛 痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安

及びうつ状態等の態様をいう。

(5)管理者 殺処分動物の保管及び殺処分を行う施設並びに殺処分動物を管

理する者をいう。

(6)殺処分実施殺処分動物殺処分に係る者をいう。

第3 殺処分動物殺処分方法

殺処分動物殺処分方法は、化学的又は物理方法により、できる限り殺処分動物苦痛を与えない方法を用いて当該動物意識喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的容認されている通常の方法によること。

もっといろいろ読むなら

https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/baseline.html

元ツイの人も人気のブクマコメントも、欧米日本意見世論の違いを強調し過ぎているような気がします。

2021-11-26

表現の自由戦士の方々がさ

フェミは全部焼き尽くす気だ。ここで許したらどんな表現もアウトにいずれされてしまう。こんな表現も許されないなんて頭おかしい。二次元表現で人に迷惑をかけてない。大した影響はない」

って言ってるのを見るけどこれって、

まり何がダメで何が良いかフェミ的な常識感覚を分かってないからだと思うんだけど、

しかに、表現単体を見ただけでは良い悪いの基準ラインが分からないし、何にそこまで過敏なのか分からいかもだなあ。女性社会から隔離されてたら分からなくても無理はない面はあるかも、と思った。

表現から汲み取るというよりは、今の女性日本での立場理解することでしかからないものから

今日ヴィーガンについて、野菜食べてるウサギって表現がなされてて、口が悪いとは思ったけど漫画で誰かがバーカと言ってる程度のような、大した事がない表現だと思っていてそんなに違和感を感じてなかった。

でもヴィーガン友達がそれを聞いて泣いてしまった。

肉食の人たちとも共生しつつ、必要以上の娯楽としての肉食に賛成できなくてクルーエルフリー商品を選んだり食生活自分一人変えてるだけの子で、過激に肉食を攻撃なんてせず自然を愛して自分の心情や食事を楽しんでいる子だから彼女ヴィーガンであることで誰かから攻撃される謂れは絶対にない。

でも、心ない差別的な人たちが、時々ヴィーガンに意地悪な質問をしたりヴィーガン攻撃する事があるんだって彼女は言っていた

その時に、野菜しか食べないウサギ=みたいに頭が悪くてバカ のような、ヴィーガン差別するいろいろな概念があるんだって

人によっては大きいヴィーガンへの攻撃的な運動をしていて、理解のない地域に住んでる人は無理やり肉を食べさせられたり酷いハラスメントもあるんだって

そんな社会的背景があることを知って初めて、野菜ばかり食べてるウサギ野郎って言う二次元キャラは、単なる表現とか倫理的でない冗談とか軽口の域を超えて、社会的に有害文化扇動するおそれがあり、人を強く傷つける非常識なあってはならない表現になるし、

その社会の外にいる人にはそれが全然ピンと来なくてわからないことだって学んだな

現代で多くの女性がどんな言葉日常的に浴びせられ、どれだけ性加害をよく受けていて性加害から身を守るために気を遣っていて性差別を受けているかという背景が分からないと、何が問題なのか、どれほどシビア真剣問題なのかをきっと共有できないかもなあ。

2021-11-23

anond:20211119203744

単なる性欲でかたずけられないだろうと俺も思うが、ブコメ散見される悪しき支配欲をなくせばいいというのは同意できない。

男はうっすらと嫌われる世界に生まれた中で、女性から承認され心を通じ合わせ、愛されたいという欲求が性欲と結びついて存在しており、単に性欲が無くなれば消える欲望ではない。

これを彼女らは、単なる男の女に対する征服欲求支配欲と呼んでそれを真に邪悪ものからなくせという。まぁ100歩譲ってそれを支配欲やら征服欲と呼ぶとしよう

しかし、世の中のパートナーを見れば、過半数パートナーにおいて暗黙的に男側が女性側をリードする(ある意味支配関係を双方が同意して構築されている。

同性愛者間のパートナーにおいてもリードする側(男役)とリードされる側(女役)がいて成立していることがほとんどである。これはホモサピエンスとして進化してきた中で培ってきたものなので役割けができたものなので、良し悪しはないと考える。

(余談だがフェミニズム思想を支持する人でもBLにおいては性行為以外の関係においても喜んで受け側と攻め側を設定して楽しんでいることがあり興味深い)

まり一部のDV等の犯罪を除いて、好意を持つ強いもの支配され、引っ張てもらいたいという欲求存在し、これがリード支配)する側と合致することによる共犯関係を作って初めてパートナーが成立しているのである

そもそも法治国家において支配欲一方だけしか存在しなければればパートナー制度崩壊するのは明白だろう。

よって彼女らは好意もつ強い男の支配欲とそれに対する彼女自身の被支配欲を透明化し、弱者男性らのパートナーを作りたい欲求を単なるホモソーシャル価値観の悪しき支配欲と断定し

その欲望を捨てれば楽になるだの、男同士で慰め合えば解決放言しているのだ。

本当に彼女らは弱者男性女性パートナーと番おうと足掻いているが嫌で、人知れず淘汰されてほしいんだと心の底から思っているのだろう。

その一方で男女の共犯関係無視して女性無罪性と道徳的地位を信じてやまず、ホモソーシャル価値観諸悪の根源だのを何の悪びれもなく真顔でいってみせる様子には絶句する。

だが、ありがとう共生可能ではないかという願望に近い希望否定してくれて。ただ前へと突き進むための憎しみをくれて。

2021-11-20

anond:20211120181340

植物は食っても絶滅することはないからな

・なぜなら美味いと人間栽培してくれるから

・あと二酸化炭素出してくれてうんちして種を遠くに運んでくれるから人間共生必要

・種の継続のためにもちつもたれつが植物、だから食ってほしいと思ってる

サカナ養殖があるけど、海で生活するものを無理やりケージで育てる

・そこにサカナの(牛豚鳥でもいいけど)恐怖心が発生する

・恐怖心の見分け方は、「つかまえようとすると逃げること」

・逃げるものは一切食わないで放す、逃がすというのが仏教の「放生」

植物は逃げない、だから殺人でもなんでもないし食ってOK


ポエムから無視していいぞ

2021-11-19

解決 温泉むすめ問題でわからないこと ブコメレス追記

anond:20211119084159

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20211119084159

数々の反応頂けてありがとうございます

掻い摘んでレスするよ

表現の話ではなくて老若男女向けのプロモーションで「女子高生をそういう風に扱う社会」でいいのかって話じゃん 建前だけでも「高校生性的対象として扱いません」という体は保たれててほしいよ

あれが老若男女向けのプロモーションとは思えないけど、唯一、法に触れてしまう部分は私も引っかかったので、そこの指摘は良かったと思うし、公式も速攻で修正したね

同様の声が一番多そうなのはいかなと思いました

ただそう思いつつも、表現の話として避けて通れないのも事実だと思った

フィクションキャラ設定にそれは犯罪だろと突っ込んで修正させたのだから

そこから逃げてしまうのは違うと思う

フィクション中で起きるのが殺人なら「それはダメ」って共通認識があるけど、セクハラ性犯罪は「別に問題じゃない、むしろ喜ぶ人もいる」と認識する人がまだ多く、その幻想(心理学用語投影)を強化してしまうんよ

って言う統計なり、裏付けデータちゃんとした形で欲しいし、そのセクハラ性犯罪について「問題じゃない」とか思ってしまう人はそれが創作の影響なのかどうか、そう言うのも欲しいね

あとその言い分だと認識する人が減ってきたら描写しても良い感じなの?その判断は誰が

私は萌えとされる絵や、性的描写とされた絵が万人に明確な形で実際の犯罪へ影響力があり害悪だと示されるなら法で規制したら良いと思ってる

タバコなんかはわかりやすかったね。ただ嫌とかじゃなく、人体への影響として発癌性がある、しか副流煙により他者への害をも及ぼす。そりゃ規制されるよってね

色んなコメント読んでて、それこそ萌えが好きだから擁護するとかそう言う話じゃなく、同じ部分でもやもやしてる人は多いんだなと思った

そして、そこへの明確な回答が出てこないなとも。あったらすっきりしてるから

私はただ表現規制と言う視点で今回の批判に詰めの甘さを感じて、その穴を埋めたいだけなんだよ

同じ理論暴走して欲しくないからね

ちなみに性犯罪刑罰被害に対して軽すぎると思うし、性犯罪者は去勢したら良いと思ってるくらいです

数年で出てきて性犯罪を繰り返す性犯罪者とか目も当てられない

全国の温泉客がキャラを目にする以上「公式サイトに見に行かないといけない」点で公共性を免れるというのはちょっと無理あると思う。というかこの件はほぼすべて文脈問題では

以前萌え絵が燃えた時は街中のふと目につくような場所にあるのは相応しくないとか言う主張があったよね。それを気にした程度のものです

わざわざネットに行かないと見れないプロフィール公共性はあるのかと言う疑問だったけど、これもやっぱり意見割れるね

知らなかったと言う意見も少なくなかったし、5年目にして火の目を見てるのはその証左とも言えるかも

私は街中で目についたものについて気になったら検索する事もあるけど、そこまでPRからネットに飛ぶことはない

少なくとも街中のその辺にポスターと一緒に文面が貼られててふと目に入ってしまうよりは公共性は格段に落ちると思う

またPRなのにわざわざ未成年表記問題のある文章を載せてたのは問題と言うのは上に書いた通りごもっともと承知してます

でも速攻修正されたのでそれ以上の文句もない

既存作品とのコラボはその作品性格含めてコラボ適当判断するのが責任PR目的キャラ作るならその世界観キャラ設定だってPRする側の責任でしょ。そしてPR対象フィクションではないわけで。

PRは先ずターゲットを決めるよね

温泉むすめは間違いなく萌えフィクション作品が好きな層へ向けたものだと思うよ

そして同時に、家族向けは家族向け、女性向けは女性向け、カップル向けはカップル向け、それぞれPRに打って出てると思うよ

温泉むすめが老若男女対象の唯一のPRならそりゃ違うだろうけど、そんなアホな事はしてないと信じたい

物語において悪徳を与えられたキャラクターには作劇上に「報い」が設定されることが普通でそれを以てして作者は表現の公正を担保するが、単発のキャラではそれが難しい。設定は書いて終わりじゃない。使わないと

かに設定だけのキャラクターと、そこから成長する話では違うかもしれない

スカート捲りは昭和かってくらいには滅びて良い文化だな

温泉むすめも物語が付けばそれはそれで流行って良いPR目指せるのかと思ったけど、多分深夜アニメらしい深夜アニメしかならないな

プロフィールアップデートさせるだけが無難だと思う

すみません。色々と意見を目にしてレスしながら考えて、自分なりの落とし所が見つかりました

単にフィクション表現としては、実際に犯罪を起こさなければどんなフィクションであれその存在自体は是としてる

もちろん然るべきゾーニングもあっての上で

でもPRとして公共の場に出すものは、公の下として公序良俗に従うと言うのが妥当言葉かなと思った

特に未成年に関しては守りたい

思想表現は多様すぎるから公序良俗ライン曖昧でぶつかる事はあるかも知れないけど

今回フィクションキャラ設定外圧で変えた正当な理由としては腑に落ちた感じです

結局何じゃそりゃみたいな。基本に立ち返っただけみたいな、腑に落ちる言葉探しとなりましたが

色んなご意見ありがとうございました



※以下当記事ブコメへの追記です

"物語において悪徳を与えられたキャラクターには作劇上に「報い」が設定されることが普通でそれを以てして作者は表現の公正を担保する" よくわからん概念が。悪役が悪役のまま大成したら表現が不公正? 謎

創作では悪が悪のまま終えると言う話もありそれはOKだと思うけれど、PRと言う公的な場で仕事をするキャラクターにおいては公序良俗に従うのが道理と言う点を踏まえると、それに反する設定を付けられていたら、物語があればその点を克服しPRにも足る人物になり得るけど、物語がなければその余地がないから設定だけでは不適切になってしまう、と

あくま自分の納得のいく道筋が立ったと言う話で腑に落ちました

表現人権侵害助長する要素がないか犯罪容認になり得ないかという視点オタクは壊滅的に欠落している。創作物の内容と現実は地続きだよ。

よくあるけど乱暴すぎる雑な主張だと思う

オタクコンテンツに限らず古今東西無数にあるものを上げてオタクと言う属性文句つけるのはただの差別でしょう

壊滅的に欠落してると言うのは何から得られた実証なの?

創作物の内容と現実が地続きと言うのはまあ、わかるよ

から現実では犯せないことも創作で発散されてるかもしれないよね。その考慮は?

創作においても断固として異常な嗜好は許さないと言うのであればそれは新たな生きづらさや差別を生むよ

例えば自分の子供がそうした嗜好を持つ人間だったとしたら、そう言う嗜好だから仕方ないと子供人生諦められるか?

そうしたことまで考えることが多様性共生世界だと思ってるよ

囲碁漫画読んで囲碁始めたり、サッカー漫画読んでサッカー選手になるのに、エロだけ現実に影響しないというのはなあ。大学生男子の半数が創作物のポルノから知識得てる統計

エロと言っても犯罪、非犯罪ラインがあるよね

問題とされる箇所で言うならば色んな犯罪描写がある中で性犯罪だけ敷居が低くて影響されるからダメと言う部分を比較しなきゃいけないんじゃないの?

普通にやっていい職種と比べるのは詭弁でしょ

エロに限らず不快ものは表に出したら嫌がられるもんだとおもうけどな

不快定義千差万別から、どこかで線引きしなきゃいけない

公的な場においては公序良俗に従うと言うのは私としてはとてもフラットに納得できた線引きだ

これで納得するということは過去AV出演した方がプロモーション採用されるのはダメってことにも納得できるということにもなる気がするし連中は実際いちゃもんつけて来るぞ。普通差別理屈だよ

いちゃもんつけてくる人は付けてくるだろうけどそれはただの職業差別だし、そんな理屈に私は納得してないよ

私が言ってるのはセクシー女優でも公的PRでは公序良俗に従って服着るし下ネタで飾ることもないよなって話だよ

もちろん自作品PRを然るべき場所で行うならそれなりの売り出し方で良いと思う

2021-11-18

anond:20211118124030

コンビニ冷蔵庫に入るのが良くないのと分かるのに自分たち客観視できないんだろうな、オタクくん。

でも自分では客観視できてるつもりなのか余計にきつい…こんなことをしてしまう、こんなものにご執心な俺wという自意識から逃れられない。

いつまでも自主開催したイキりチキンレースから逃れられない。ギリギリヤバいことしてる俺wお前らw愛すべき馬鹿wって内輪で楽しんでチキンレースにいることにも気付けない。


世の中は多種多様な人と共生することを考えて動き始めてるけどもちろんそれに気づくことはなく…。

自分たちオタク差別をされてきた一番の被害者というところから抜け出せない、抜け出す気もない。

被害者でなくなったら自分たちが加害してる事実に向き合わなくてはならなくなるからな。

学ばない、反省しない、認めない、文化レベルも低いまま。

2021-10-28

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/noguchiakina/20211027-00263692

多文化共生を掲げる大学教職員が多く住む地区で、こども園と強度行動障害支援施設を併設する形での制度設計をするのはどうだろうか。

こどもも物心がつく頃から多様な人と触れ合えるし、リベラルな学風の大学関係者であればそのような我が子の学習環境を受容しやすい。

まずは足元の共生から始め、うまく行けばモデルケースとして全国に広がるだろう。

2021-10-26

千葉6区共産党浅野ふみ子さんを当選させてやってくれ

彼女ジェンダーのこともオタク文化性的弱者共生のことも本当に真面目に考えてて今の国会に間違いなく必要な人なんだ

2021-10-22

水泳主催者は片腕選手に対してどうすべきだったのか

この記事ブコメでは主催者ボコボコ批判されているが、では主催者はどうすればよかったのだろうか。「人の心がない」とか批判している人は教えてくれ。

「両手タッチしていない」失格の片腕スイマー 共生遠いスポーツ

https://mainichi.jp/articles/20211021/k00/00m/050/308000c

方法1 片腕の人にだけ片手タッチを認める

この場合競技者によって違うルール適用されるということで公平性問題が出てくる。

両手タッチで負けた人は納得がいかないだろうし、片手タッチ世界記録が出た場合はどういう扱いにするのかで論争が生じるだろう。

「片腕なら速く泳げないか問題ない」と言う人がいるかも知れないが、それはどうだかわからない。

また、手のない部分が短い人をどう扱うのかという問題も出てくる。極端な話、中指第一関節だけない人はどうするのか。その人も片手タッチOKなら相当に有利になる。

方法2 この大会に限り全員が片手タッチでも認める

この場合国際ルールに反するということで非公認大会になる可能性があり、参加者全体が不利益を被ってしまう。

方法3 ない側の腕は肘の部分をタッチすることで両手タッチでゴールとする

これが最も現実的な解のように見える。

この扱いがどうだったのだろうか。この手段でもダメという扱いにしたのか。あるいは主催者は本人にこのルールを事前に説明したのかどうか。

片腕の人はこのルールを事前に認識していたのかどうか。事前に認識していたけれど、レースではど忘れして片手タッチしかしなかったのか。

記事では詳しい説明がないのでよく分からない。

個人的に一番ありそうだと思うのは、主催者も本人も深く考えてなくて、片腕タッチ試合が終わった後に主催者側が困って「これどうすんの…」と協議した上に、ルールを厳密に適用して失格を宣告した、というのが一番ありえそう。

もしそうだったとしたら、事前に深く考えてなかったことを反省して、これからルール整備しましょうねで終わる話。

スポーツ界の障害者に対する認識不足を責めるぐらいはできるだろうけど、主催者を人でなし扱いするのはどうなんだろうと思う。

2021-10-20

イギリス選択は正しい

英国の1日あたりの感染者数は4万人台と高水準が続いており、欧州で突出している。

ただ、入院者数や死者数がこれまでの流行時のように増えていないことからコロナとの共生路線は今のところ変えていない。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR18CGF0Y1A011C2000000/

2021-10-07

anond:20211007154956

該当の増田ブコメで、消し忘れを許せない人が結構いることに衝撃を受けた

正直「その程度のことで許せないとか言う?」って思った

こんなことで分断が起きるなんて、多文化社会とか共生とか尚更難しいかなって思う

2021-10-03

anond:20211003223645

腸内に窒素固定細菌共生すると、たんぱく質摂取しなくても

食物繊維から体内でたんぱく質が生成される。

ヴィーガンの人も腸内にどんな菌が住み着くかで、だいぶ変わるはず。

2021-10-01

anond:20211001084804

鉱物エネルギーに変換する微生物共生すれば生きていけるだろうけど、食う時以外は寝てないと生きられないナマケモノみたいな生活になると思うぞ

2021-09-20

anond:20210920161004

続き

https://anond.hatelabo.jp/20210920161004

8. 全面的3Dアニメ化チキン・リトル』(2005年から現在まで

おすすめ作品:なし

いよいよ作品は完全に3D化し、『プリンセスと魔法のキス』『くまのプーさん』を最後2Dアニメは公開されていない。アニメーションとしてのたのしさを感じることは少なく、かろうじて『塔の上のラプンツェル』のランタンや『モアナと伝説の海』のココナッツ妖怪のシーンが関心を惹く程度。個人の好みの問題ではある。劇場の大スクリーンで見ると印象が違うかもしれない。

きわめて雑な括りにまとめると、ここからオタク少年ポリコレ少女時代であり、2021年現在ネット政治談義の地獄絵図と完全な地続きとなる。もちろん、ディズニー作品上でそういった地獄の扉が開くわけではないのでその点は安心してほしい。

オタク少年物語は『チキン・リトル』『ルイスと未来泥棒』『ベイマックス』の3つ。ポリコレ少女物語は『プリンセスと魔法のキス』『アナと雪の女王』、あと『ズートピア』を入れてもよいかもしれない。ビデオゲームが題材であり、かつ社会問題とのつながりを思わせる『シュガー・ラッシュ』はその両方にまたがる作品と言えるだろう。

そのうえで言うと、『チキン・リトル』『ルイスと未来泥棒』『ベイマックス』は物語希薄で、率直に言ってあまり見るべきところがない。

チキン・リトル』はナードの息子との関係性に悩むジョック父親というキャラクター設定は興味深いものの、あまりアメリカ固有の事情がすぎるため感情移入しづらい。『ルイスと未来泥棒』は出来の悪いバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいなやつ。『ベイマックス』はあからさまな吊り目描写を控え、許容範囲内のアジア人描写採用した点では興味深いものの、お話は薄い。

逆に『プリンセスと魔法のキス』『アナと雪の女王』『ズートピア』はテーマ設定は高尚なものの、物語として十分に消化されているかというと疑問符をつけざるを得ない。

プリンセスと魔法のキス』は初の黒人プリンセスものだが、物語の大半で主人公王子様はカエルに変身させられており、カエル同士の恋愛模様を見せられる羽目になる。人種以前の問題で厳しい。

アナと雪の女王』は暴力を抑えられないエルサが他者との共生を諦め、山に引きこもるというかなり重たい話から始まる。すったもんだあり最終的には女王に復帰するものの、物語彼女が心を開いた相手は妹のアナ1人のみであり、(作劇上なんとなく誤魔化されているが)共生範囲は著しく狭く、また他者理解とも程遠い。

プリンセスものへのアンチテーゼとして悪役に王子のハンスが配され、アナクリストフとくっつかないという展開も、批判されやすポイントを表面上回避しているに過ぎない。ここではプリンセスを求める消費者欲望フェミニズム倫理が奇妙な連合を築いており、かつての植民地主義とはまた違ったグロテスクさがある。

続編の『アナと雪の女王2』は前作に対する心底意地悪な批評とも見れる作品で、エルサは女王の座を離れ再び山へ、アナクリストフは無事マイルドヤンキーバカカップルに発展と、前作でごまかされていた点を露悪的に展開させてしまう。

ズートピア』は『きつねと猟犬』同様に動物種を人種メタファーとして描いているが、生物学的に異なるものを示す種の概念と、生物学的には同一である人種を重ねることによる概念の混乱が拭えず、メッセージぼんやりしたものにならざるを得ない。

シュガー・ラッシュ』は卑しい職に就いたが最後、「これは社会必要仕事だ。だからどんなひどい待遇でも文句を言うな」と清廉潔白な人々に差別されるという現代社会欺瞞を描いた作品であるしかしヴァネロペは実は高貴な生まれだったので問題解決主人公ラルフもなんの理由付けもないままなんとなくハッピーエンドを迎える。解決策を示さないままハッピーエンドを迎えるというのは、なんと欺瞞的で残酷映画だろう。

なお続編の『シュガー・ラッシュ:オンライン』は話皆無・物量勝負典型的な続編映画だが、ディズニー/ピクサー/スター・ウォーズを使った物量作戦はなかなか侮れないものがある。ここに来て『アナと雪の女王2』『シュガー・ラッシュ:オンライン』と続編商法が続いているのはどうも社内の制作体制に関するゴタゴタの影響がありそうだが、詳細はよくわからない。

そのほか『塔の上のラプンツェルはいわゆる毒親の話だが、劇中「みんな同じだ」と高らかに歌い上げてしまうのは問題本質を捉えかねている印象を覚える。毒親問題子供自分とは根本的に異なる個体であり、かつ尊重しなければならないという意識を欠いているからこそ問題なのだ。それが「みんな同じ」では困る。

モアナと伝説の海』『ラーヤと龍の王国』は頭を使わず見れる娯楽作で、とくに『モアナと伝説の海』はまあまあ出来がいいが、それ以上書くことは特にない。ポリネシア東南アジアがそれぞれ舞台となっており、現地のひとが見るといろいろ不満点があるのかもしれない。

以上がディズニー映画59作品歴史だ。個人的には『白雪姫』『ダンボ』『眠れる森の美女』『リロ・アンド・スティッチ』の4作品は見てよかったと思っている。

全部見るのは正直苦痛なので、気になったものだけでも見てみてほしい。最新作の『ミラベル魔法だらけの家』は今年の11月劇場公開されるが、歴史の流れを知って見れば、作品単体のおもしろさとはまた別の発見があるかもしれない。

ものすごくいい加減なディズニー映画史

ディズニー映画に埋もれた名作などというもの存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。

以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニーアニメーションスタジオ制作長編アニメ映画史を概観したい。

メイクマインミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。

1. ディズニー黎明期白雪姫』(1937年からバンビ』(1942年)まで

おすすめ作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ

ディズニー長編アニメ歴史アニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写ピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。

ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代価値観垣間見える。

例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心象徴としてジミニークリケットという名前コオロギが登場する。この「ジミニークリケット」という名前ジーザスクライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。

ピノキオ自体は退屈な作品ではあるものの、歴史時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。

ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。

2. 最初の低迷期 『ラテンアメリカの旅』(1942年からイカボードトード氏』(1947年)まで

おすすめ作品:なし

バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編物語映画はなく、とくにおもしろ作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリ総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。

この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観三位一体となった教育映画制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカ外交安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。

丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。

3. ディズニー復活期 『シンデレラ』(1951年から眠れる森の美女』(1959年)まで

おすすめ作品:『ふしぎの国のアリス』『眠れる森の美女

シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリードタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないもの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出成功する。

眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。

ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。

ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パン未成年淫行炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。

わんわん物語』では都市自由謳歌していた野良犬ペットとして不自由幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。

4. えんぴつ作画期 『101匹わんちゃん』(1961年からくまのプーさん 完全保存版』(1977年)まで

おすすめ作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』

眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフ描線作品構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。

技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。

『おしゃれキャット』は金持ちペット使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニー節操のなさがすごい。

5. 模索時代ビアンカの大冒険』(1977年からオリバー ニューヨーク子猫ものがたり』(1988年)まで

おすすめ作品:『オリビアちゃんの大冒険

この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。

前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワーク作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立メタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴である

『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。

シャーロック・ホームズ翻案であるオリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児パンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者集中力が乱される。

6. ディズニールネサンスリトル・マーメイド』(1989年からターザン』(1999年)まで

おすすめ作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン

この時期ディズニー批評評価興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニールネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。

しか作品クオリティ過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンス言葉通り、ある種の保守回帰時代に当たる。

おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術テーマ設定ではなく、安定して高品質作品を量産する社内の体制組織づくりの技術にあったのではないか

個別作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。

美女と野獣』でははっきりと他者理解テーマに打ち出し、また女性主人公男性から求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え他者尊重することを覚えた野獣が救われ、他者存在最後まで容認できなかった村のヤンキー破滅する。主人公読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解プリンセス側に一方的負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。

ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカン民族団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。

ターザン』もインディアンゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後白人研究者たちがゴリラ部落に居残ることでギリギリバランスを取っている。ここにはターザンポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。

ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画障害者活躍を描いた点は積極的評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本コンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。

そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術進歩を見て取ることができる。

7. 3Dへの過渡期 『ファンタジア2000』(2000年)からホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか農場を救え!』(2004年)まで

おすすめ作品:『リロ・アンド・スティッチ

みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり2D映画最後の全盛期に当たる。

作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスもの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要作品である

自分欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命スティッチが、貧困家庭ネグレクト問題SFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画からかい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。

残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観アップデート」を図ることになっていく。

アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディア宮崎作品みたいなものアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公オタク青年採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公イケメンマッチョではなく非モテオタク主体となっていく。

白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテ小人たちが「社会的にただしいとされる」物語主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本アニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板キャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。

ブラザーベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。

続く

https://anond.hatelabo.jp/20210920162554

2021-09-13

立民公約第二弾の絶望が深い。「人権救済機関設置法案」再提出か・・

立民 多様性認め合う政策を公約に “選択的夫婦別姓など実現” | 2021衆院選 | NHKニュース

流石に擁護しようもないほど酷い。何故、今これを出してくるのか?全く分からない。第一弾よりは内容はあるけど、およそ政権奪取を狙う政党公約ではない。

立憲民主党公約第二弾


各論については賛否があると思うけど、今は触れないでおく。

直近で公表された自民党岸田の、安保外交政策

https://www.youtube.com/watch?v=pBrAFFkpq-c


河野高市出馬会見で政策については述べているけど、小出しにしたものではなく纏まった単位なので立憲の公約第二弾とは比較しない。

第一弾と第二弾の一貫性

第一弾はこれを閣議決定しますという内容だったが、第二弾は明確に法案の制定を必要とするものだ。

問題粒度が揃ってない。報道各社は、これらを公約とか政策と報じてるけど、これはしょうがない事だろう。こんなものごちゃ混ぜにする方が悪い。

安保外交経済コロナ対策は?

立憲民主党が最優先課題として発表した第一、第二の公約には、いずれも含まれていない。第一弾に予算閣議決定するとあったくらいだ。

今、国民が知りたいと思ってる事に順位を付けるとしたら、

  1. コロナ対策
  2. 経済政策
  3. 安保政策
  4. 外交政策
  5. その他

と言ったところだろう。立憲民主党が第二弾で公約として法改正を訴えたのは、いずれもその他に含まれもので、有権者としては期待外れで肩透かしを食らったと言わざるを得ない。

自民党員内では動画内のグラフの様な配分になっている。立憲民主党共産党支持者に限った時に、人権問題首位に来るんだろうか?ないと思うんだがね。

https://youtu.be/1UwUlqG2fKY?t=146

自民党の各総裁候補の主張は、党員国民が最優先で対応を求めている問題への方策がきっちり入ってる。この差は馬鹿にならないほど大きい。

立憲の方はアベノミクス検証委員会なんか作ってて、過去批判するばかりで未来のことを語らないのだから、差があるという表現すらも立憲民主党に贔屓目なのかもしれない。

人権救済機関設置法案」を復活させる気か?

立憲公約の他の項目にも、例えば難民申請悪用されていたり、嘘を言ったり、病気を装ったりすることで入管負担をかけてる外国人の現状を鑑みず、入管批判するのか?とか言いたいことはあるが、そんな苦情が色あせるほどに酷すぎるのが三つ目だ。

人権擁護法案 - Wikipedia

どうやら人権救済機関設置法案を復活させる気まんまんらしい。

2012年野田内閣閣議決定された、人権救済機関設置法案は、恣意的運用される恐れがあり警察以上の権力がある組織誕生するという批判世間から受けて誕生しなかった。

この現代特別高等警察のような機関は、民主党時代から数度に渡って、何度も何度もゾンビの様に蘇っては提出されてきて、その度に世論の反発を受けて廃案になっている悪法中の悪法といっていい。

インターネット上の誹謗中傷を含む、性別部落民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別対応するため国内人権機関を設置

この言葉からは、どうやったって「人権救済機関設置法」を通すという意図を感じざるを得ない。これを支持する事は、俺には絶対に無理という領域公約だ。実現すれば、インターネットにおける表現の自由なんか一瞬で霧散するよ。

コアな左翼=はてフェミが、二次絵を規制する様な状態が容易に実現する事になるのだから、歯止めが効かないだろう。

そろそろ支持者ではなく、無党派層をみませんか?

自民党政権問題を感じている人が多くなっている現状があり、これまで行われてきた選挙でも勝ってきた流れから横浜市長選を勝った事で政権交代は現実のものと考えられるまでになったというのに

横浜市長から短期間で立憲民主党支持率は大幅に下がった。

自民総裁選、河野氏33%、石破氏16%  朝日世論調査 [自民党総裁選2021]:朝日新聞デジタル

政党支持率を見ると、自民は今回、37%(同32%)。昨年12月調査の38%に次ぐ水準まで回復し、立憲民主の5%(同6%)との差を広げた。「仮に今、投票するとしたら」として聞いた衆院選比例区投票先は、自民は43%(同35%)。こちらも昨年11月の45%に次ぎ、立憲の11%(同15%)を引き離した。

この立憲民主党公約発表と、自民党総裁選の各候補の主張とが報じられるほどに諦めと失望が広がると思う。枝野を指して自民党応援団揶揄する声が出るのも無理はない。

立憲民主党の主張がまともであれば、自民党を見限ってもいいと感じていた無党派層は多かったと思う。現時点で、失望ウイルスのごとく広がっている。

これを食い止めるために必要なのは、まともなコロナ対策経済政策安保外交政策なのだが、立憲共産社民れいわに自民党と同レベルかそれ以上のものを纏められるんだろうか?

個人的には、人権救済機関設置法案がちらつくようでは比較対象にすら上がらない。比例票では国民民主党を育てるしかないのか?

から活動家じゃない野党が欲しい。自民党を支持すべきか揺らぐ人がふえても、これでは何も変わる事がないのではないか?と思うと絶望が深い。

2021-09-11

最近オタク作品はすっかりエロ同人共存関係にあるよな

作中で具体的なエロ恋愛を描かずに匂わせる。

同人作家がそれぞれのフィーリング二次創作する。

そうして生まれ同人誌を好む読者はエロ同人の前日譚や後日譚として原作を消費する。

恋愛エロに興味がない読者はそういった作品存在を忘れて原作を消費する。

これによって原作は「エロ恋愛に興味が一切ない読者」~「エロ恋愛への興味が凄い読者」のピンからキリまでターゲットとすることが出来るようになった。

これはまさに共生共存関係だ。

コンテンツ業界自然界の収斂進化だ。

2021-09-06

原始人がネックレスをつけた理由 パート1

概要

貨幣前身は、言語とともに、初期の現代人が他の動物解決できない協力の問題解決することを可能にした。これらの原型は、非フィアット通貨と非常に特殊な特徴を共有しており、単なる象徴や装飾品ではなかった。

お金

17世紀イギリスアメリカ植民地では、当初から硬貨の不足という問題があった。イギリスの考えは、大量のタバコ栽培し、世界的な海軍商船の船のために木材を切り出し、その見返りとしてアメリカ人の労働力として必要物資を送るというものであった。つまり、初期の入植者は、会社のために働き、会社の店で買い物をすることになっていたのである投資家王室は、農民要求に応じてコインで支払い、農民自身物資を買わせ、さら天罰として利益の一部を確保するよりも、この方法を好んだ。

植民地の人々の解決策は目の前にあったが、彼らがそれを認識するまでには数年を要した。原住民お金を持っていたが、それはヨーロッパ人が慣れ親しんできたお金とは全く違っていた。アメリカン・インディアンは何千年も前からお金を使っていたし、新しくやってきたヨーロッパ人にとっても便利なお金であった。しかし、ニューイングランドの人々は、銀も金も使わず自分たち生活に最も適したお金を使っていた。その代わりに、彼らは獲物の耐久性のある骨組みという、その環境に最も適した貨幣を使っていた。具体的には、ワンパムと呼ばれる貝(ホンビノスガイ)とその近縁種の貝殻をペンダントにしていた。

貝は海でしか採れないが、ワンパムは内陸部でも取引されていた。アメリカ大陸の各部族には、さまざまな種類の貝殻貨幣存在していた。イリコイ族は、貝の生息地に近づかずに、最も大きなワンパムの財宝を集めることができた。ワンパムを専門に製造していたのは、ナラガンセッツ族などほんの一握りの部族で、他の何百もの部族(その多くは狩猟採集民)がワンパムを使用していた。ワンパムのペンダントは、長さとビーズの数が比例しており、様々な長さのものがあった。ワンパムペンダントの長さは様々で、ビーズの数は長さに比例しており、ペンダントを切ったり繋げたりして、支払った金額と同じ長さのペンダントを作ることができた。

入植者たちは、本当のお金とは何かという問題を克服すると、ワンパムの取引に熱中した。貝(clam)は、アメリカでは「お金」の別名として使われている。ニューアムステルダム現在ニューヨーク)のオランダ人知事は、イギリスアメリカ人の銀行からワンパムで多額の融資を受けた。しばらくすると、イギリス当局もこれに同調せざるを得なくなった。1637年から1661年にかけて、ニューイングランドではワンパムが法定通貨となった。植民地の人々は流動的な交換手段を手に入れ、植民地貿易は盛んになった。

ワンパムの終わりの始まりは、イギリスアメリカ大陸に多くのコインを出荷するようになり、ヨーロッパ人大量生産技術を応用するようになってからである。1661年になると、イギリス政府はワンパムの製造を中止し、本物の金や銀、そして王室監査を受けてブランド化されたコインで支払うことにした。この年、ニューイングランドではワンパムは法定通貨ではなくなった。1710年にはノースカロライナ州一時的法定通貨となった。ワンパムは、20世紀に入っても交換手段として使われ続けていたが、その価値西洋の収穫・製造技術によって100倍にも膨れ上がり、貨幣発明された後に西洋で金や銀の宝飾品が行き渡ったように、よくできたお金から装飾品へと徐々に変化していった。アメリカ貝貨言葉は古風な遺物となった。百貝は百ドルになった。「Shelling out」とは、コイン紙幣で支払うことを意味し、やがて小切手クレジットで支払うようになった。我々は、自分たち種の起源に触れてしまたことを知らなかった。

収集

ネイティブ・アメリカンお金は、貝殻以外にも様々な形があった。毛皮、歯、そして後述する特性を持つ他の様々な物体も、交換手段としてよく使われた。12,000年前、現在ワシントン州で、クロービス族は、驚くほど長い角岩の刃を開発した。しかし、すぐに折れてしまう。これでは切ることもできない。火打ち石は「楽しむため」に作られていたのか、それとも切ることとは関係のない別の目的のために作られていたのか。後述するように、この一見軽薄に見えることが、実は彼らの生存にとって非常に重要であった可能性が高い。

しかし、ネイティブ・アメリカンは、芸術的ではあるが役に立たない刃物最初に作ったわけではないし、シェルマネー発明したわけでもない。ヨーロッパ人も、昔は貝や歯をお金にしていたし、牛や金、銀、武器なども使っていた。アジア人は、それらすべてを使い、政府が発行した偽物の斧も使っていたが、この制度も輸入していた。考古学者が旧石器時代初期の貝のペンダント発見しており、それがネイティブ・アメリカンお金の代わりになっていた可能性があるからだ。

1990年代後半、考古学者のスタンリーアンブローズは、ケニアリフトバレーにあるロックシェルターで、ダチョウの卵の殻やブランク、貝殻の破片でできたビーズキャッシュ発見した。これらのビーズは、アルゴン-アルゴン(40Ar/39Ar)比を用いて、少なくとも4万年のものとされている。スペインでは、この時期に穴の開いた動物の歯が発見されている。また、レバノン旧石器時代初期の遺跡からは、穴の開いた貝殻が出土している。最近では、南アフリカのブロンボス洞窟で、さらにさかのぼって7万5千年前に作られたビーズ状の貝殻が発見されている。

現代の亜種はヨーロッパ移住しており、紀元前4万年から貝殻と歯のネックレスが登場している。また、オーストラリアでは紀元前3万年から貝と歯のペンダントが出土している。いずれも高度な技術を要するものであり、もっとから行われていたと思われる。採集や装飾の起源は、解剖学的に現存する亜種の原産地であるアフリカである可能性が高い。人類が常に飢餓と隣り合わせの生活をしていた時代に、貝殻の製造には膨大な技術時間必要だったのであるから収集してネックレスを作ることには重要選択利益があったはずである

実質的貿易を行っていない文化や、現代的な貨幣使用している文化であっても、事実上すべての人類文化は、ジュエリーを作り、楽しみ、実用性よりも芸術性や家宝としての価値を重視している。我々人間は、貝殻のネックレスやその他の種類のジュエリーを、純粋に楽しむために集めている。進化心理学者にとって、人間が「純粋に楽しむため」に何かをするという説明は、説明ではなく、問題提起なのである。なぜ多くの人が宝石を集めたり身につけたりすることを楽しんでいるのか?進化心理学者にとってこの問題は「何がこの楽しみを進化させたのか?」ということである

進化と協力、そして収集

進化心理学は、ジョン・メイナードスミス重要数学発見から始まる。スミスは、発達した集団遺伝学の分野から共進化する遺伝子の集団モデルを用いて、単純な戦略的問題ゲーム理論「ゲーム」)で使用される善悪戦略コード化できる遺伝子を提唱した。スミスは、これらの遺伝子が次世代への伝播を競っている場合競争相手提示する戦略問題に対してナッシュ均衡となる戦略進化させることを証明した。このゲームには、協力の典型的問題である囚人のジレンマ」や、攻撃とその緩和の典型的問題である「鷹と鳩」などがある。

スミス理論重要なのは、これらの戦略的ゲームは、近距離表現型間で行われているが、実際には、究極のレベルである遺伝子間のゲーム、つまり伝播されるべき競争レベルで行われているということである遺伝子(必ずしも個体ではない)は、あたかも拘束された合理性生物学原材料過去進化歴史考慮して、表現型が表現できる範囲内で、可能な限り最適な戦略コード化する)と「利己的」(リチャード・ドーキンス比喩使用であるかのように行動に影響を与える。遺伝子が行動に与える影響は、遺伝子が表現型を通じて競合することで生じる社会的問題への適応であるスミスはこれらの進化したナッシュ均衡進化的安定戦略と呼んだ。

性淘汰や血縁淘汰など、それまでの個人淘汰説の上に構築されていた「エピサークル」は、このより一般的モデルの中に消え去り、コペルニクス的な方法で、個人ではなく遺伝子を理論の中心に据えることになる。このようにドーキンスは、スミス理論説明するために、「利己的な遺伝子」という比喩的でよく誤解される言葉を使っている。

旧石器時代人間のように協力し合う種は他にほとんどない。雛の世話、アリ、シロアリハチコロニーなど、動物が協力するのは親族からであり、親族にある自分の「利己遺伝子」のコピーを助けることができるからである。非常に制約の多いケースでは、進化心理学者が「相互利他主義」と呼ぶ、親族以外の者同士の継続的な協力関係存在する。ドーキンス説明によると、好意の交換が同時に行われない限り(場合によってはその場合でも)、どちらかが不正を行うことができる。そして、普通はそうする。これは理論家が「囚人のジレンマ」と呼んでいるゲーム典型的な結果である詐欺師と吸血者の集団では、常に詐欺師が勝つ。しかし、「Tit-for-Tat」と呼ばれる戦略を用いて、相互作用を繰り返すことで協力するようになる動物もいる。この報復の脅威が継続的な協力の動機となる。

しかし、動物世界で実際にそのような協力が行われる状況は、非常に制約が多い。主な制約は、少なくとも一方の参加者が多かれ少なかれ相手の近くにいなければならない関係限定されていることである。最も一般的なケースは、寄生虫とその体を共有する宿主共生体に進化した場合である寄生虫宿主の利害が一致し、どちらか一方が単独活動するよりも、両者が一緒に活動する方が適している場合(つまり寄生虫宿主にも何らかの利益をもたらしている場合)、Tit-for-Tatゲーム成功させることができれば、両者の利害、特に世代間の遺伝子の出口メカニズムが一致した状態である共生体に進化する。そして、1つの生物となるのであるしかし、ここでは協力だけではなく、搾取も行われている。それらは同時に起こる。この状況は、以下で分析する人間が開発する制度、つまり貢ぎ物に類似している。

寄生虫宿主が同じ体を共有して共生体に進化するのではない、非常に特殊な例がある。寄生虫宿主が同じ体を共有し、共生生物進化するのではなく、同族ではない動物と高度に制限された縄張りを持つ、非常に特殊な例がある。ドーキンスは、クリーナフィッシュを例に挙げている。この魚は、宿主の口の中を泳いで出入りし、そこにいるバクテリアを食べて宿主の魚に利益をもたらす。宿主である魚は、クリーナーが仕事を終えるのを待ってから食べるというズルをすることもできる。しかし、そうはしない。両者とも移動可能なので、潜在的には自由関係を断つことができる。しかし、クリーナフィッシュは個々の縄張り意識を非常に強く進化させており、偽造しにくいブランドロゴのように、偽造しにくい縞模様や踊りを持っている。宿主魚はどこに行けば掃除してもらえるかを知っているし、もし不正をしたら、新しい不信感を持った掃除魚ともう一度やり直さなければならないことも知っているのだ。この関係入口コスト、つまり出口コストが高いので、不正をしなくてもうまくいくのである。それに、クリーナフィッシュは小さいので、それを食べることで得られる利益は、少数の、あるいは1匹のクリーニングで得られる利益に比べて大きくはない。

最も適切な例として、吸血コウモリがある。その名の通り、獲物である哺乳類の血を吸う。面白いのは、良い夜には余剰分を持ち帰るが、悪い夜には何も持ち帰らないことだ。彼らの暗躍は非常に予測不可能である。その結果、幸運な(あるいは熟練した)コウモリは、洞穴の中で幸運でない(あるいは熟練していない)コウモリと血を分かち合うことが多い。彼らは血を吐き出し、感謝している受取人がそれを食べる。

このようなレシピエントの大部分は親族である。屈強な生物学者G.S.ウィルキンソンが目撃した110件の血反吐のうち、77件は母親子供に食べさせるケースであり、その他のケースもほとんどが遺伝的な親族であるしかし、親族間の利他主義では説明できないケースも少なからずあった。これらが相互利他主義のケースであることを示すために、ウィルキンソンは2つの異なるグループコウモリ個体群を組み合わせた。コウモリはごく稀な例外を除いて、元のグループの旧友にしか餌を与えなかった。このような協力関係を築くには、パートナー同士が頻繁に交流し、お互いを認識し、お互いの行動を把握するような長期的な関係を築く必要がある。コウモリ穴は、そのような絆を形成できる長期的な関係コウモリを拘束するのに役立つ。

人間の中にも、非常にリスクの高い不連続な獲物を選び、その結果得られた余剰分を親族以外と共有していた者がいたことがわかるだろう。実際、人間は吸血コウモリよりもはるかに大きな範囲でこれを達成している。その方法が本論の主題であるドーキンスは、「お金は、遅延した相互利他主義正式トークンである」と示唆しているが、この魅力的なアイデアをそれ以上追求することはない。我々はそうする。

人間の小集団の中では、世間の評判が一人の個人による報復よりも勝って、遅延型互恵主義の協力を動機付けることができる。しかし、評判を信じることには2つの大きな誤りがある。どの人が何をしたかについての誤りと、その行為によって生じた価値や損害を評価する際の誤りである

顔や好意記憶する必要があるというのは、認知上の大きなハードルであるが、ほとんどの人間比較的容易に克服できると考えている。顔を認識するのは簡単であるが、好意を受けたことを思い出すのは難しい。また、好意を受けた人にとって、その好意がどのような価値を持つものであったかを思い出すことは、さらに困難である紛争や誤解を避けることは、不可能なほど、あるいは法外に難しいことである

パート2: https://anond.hatelabo.jp/20210906120933

パート3: https://anond.hatelabo.jp/20210906125926

パート4: https://anond.hatelabo.jp/20210906130017

パート5: https://anond.hatelabo.jp/20210906130125

パート6: https://anond.hatelabo.jp/20210906130158

2021-09-03

オーストラリアロックダウンを諦めつつある

デルタ株の蔓延ロックダウンをしていても感染拡大を抑え込めず、コロナとの共生に舵を切り始め、隣のNZでもデルタ株が入って来てロックダウンを延長している。

ロックダウン永遠に出来ないし、いずれ破綻するとは言え、ロックダウンでこれまで先進国では最小級の死者数に抑えて来たオーストラリアロックダウン重視の方針は正しかったと思う。

同時にワクチン接種率も日本よりは低いけど40%くらいで、今後の感染拡大がある程度は抑え込めることも確定してるし、オーストラリア経済ダメージを除けば上手くやった国だろう。

日本でも、ロックダウンしつつ、最速でワクチン契約して、速攻で承認して接種を加速させつつ、国内での治療薬とワクチンの開発に補助金をぶち込んで加速させるという事が出来たら良かった。

憲法のためロックダウン出来なかった事以外は出来たとは言えるけど、数か月ごたごた揉めてないで、ワクチンの特例承認もっと早く出来てれば、より完璧だった。

今後は日本ワクチン治療薬は海外治験結果でも、順次速攻で特例承認していってくれたらいいわ。どこぞに邪魔されても無視して欲しい。

2021-08-28

アイアンリーガーに騙された -1-

注 この文章は『疾風!アイアンリーガー』を第十三話まで鑑賞した人間が書いています

撒き餌に釣られた者の末路

 とんだ詐欺もあったものである

アイアンリーガー』というアニメを知る人ならば、この「初見人」の慟哭意図を察してくれるに違いない。

 これを呟いたのが、学生生活記憶もとうに色褪せ、メディアを賑わせる人々が自分よりはるか若いことに日々愕然とするようになった齢の人間であり、かつ令和の時代に『アイアンリーガー』というアニメを初めて目の当たりにし、そして今こんな文章を書くに至っているという事実を踏まえれば、なおさら

 何が詐欺か。何もかもである

 多少の表現の違いこそあれ、アイアンリーガーというアニメは「ロボットスポーツをする子ども向け熱血(スポ魂)アニメ」というような説明をされる。

 おそらく、それは間違いではない。間違いではないが――世に溢れる詭弁の数々が皆そうであるようにーー嘘を言っていないことと、それが真実であることは必ずしも一致しない。

 はじめに断っておくが、僕は別にアイアンリーガーというアニメについて「実はこういう真のテーマが隠されている」などと声高に主張する気は全くない。

現実世界に『テーマ』などないように、映画はそこに、ある物語にそった映像を映し出しているだけです。」と、かの伊藤計劃氏も述べているし(伊藤計劃:第弐位相「自腹は神様ではない」https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20060211/p1)、それはアニメも同じであろう※。僕がここに書き散らしているのは、アイアンリーガーというアニメ勝手情緒を乱された人間のお門違いの怨念に過ぎない。諸賢におかれては、どうか哀れみの心で受け止めて(あるいはスルーして)いただければ幸いである。

 話が逸れた。『アイアンリーガー』についてである

ロボットスポーツをする」。何ら間違ってはいない。この物語主人公ロボットであり、「アイアンリーガー」とはロボットスポーツ選手のことである。彼らはスタジアム(他の場所のこともあるが)でスポーツ試合をし、勝利を目指しながら、物語は進んでいく。

 だが、少なくとも十三話までを観て、それはこの作品本質ではないと僕は思っている。(ちなみに、なぜ十三話という中途半端な時点でこんなものを書いているのかと言うと、YouTubeでの無料配信十三話で終わったかである。)

心を持つ工業製品

 作中のロボットたちは、確かにロボットである。彼らはバッテリーで動き、金属身体にはギアが埋め込まれコードが張り巡らされている。外側は一応人間の姿形をベースデザインされているが、人間そっくりアンドロイドではなく、ひと目見て「ロボット」と分かる。大きさも、人間比較すると(その可愛らしい見た目とのギャップ唖然とするほど)かなり、でかい

 それでありながら、彼らには意思感情がある。人間と同じように傷ついたり喜んだりし、迷い、成長し、心を通わせる。彼らの持つ「心」は、ほとんど人間と変わりがない。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、限りなく人間に近い意思を持つアンドロイド人間の、それでも厳然と残っている(とされている)「共感力の有無」という差異も、『アイアンリーガー』では存在しない。

 そんなロボットたちが存在する世界の側も、彼らをほとんど人間と変わりのないモノとして扱っている。アイアンリーガーロボットでありながら、チームと「契約関係にあり、チームの所有物ではない。チームから脱退することも(少なくとも建前上は)、第一話でマッハウインディたちがそうしたように、契約が許す限りにおいては可能なのだアイアンリーガー金も稼ぐし、転職もするし、山にも帰る。

 そうしたロボットロボットを取り巻く世界の在り方は、作品内で自明の理とされている。それについて何ら特別説明をされることもないまま、当然のごとく物語は進む。ロボットたちはガショガショと金属音を立てて歩き、「オイルを飲んだり燃料を食ったり」しながら、人間と全く同一のレイヤーで生き、スポーツをする。

 そして、人間人間関係性の中で生まれる、いわゆる「人間ドラマ」を繰り広げている。

 そのあまりギャップ作品に可笑しみをもたらし、人間とそれ以外のモノがボーダーレス意思疎通しながら共存する世界観は、絵本おとぎ話のような「子ども向け」の空気を感じさせる。

 僕はいわゆる「ロボットアニメ」をこれまでほとんど観たことがないので、そうした世界観が『アイアンリーガー特有のものなのか、この手のロボットアニメではよくあることなのかは分からない。

 だがいずれにしても、この奇妙なまでの人間ロボットボーダーレス世界観こそが、『アイアンリーガー』という作品の(はまる場所、という意味での)「深み」である

アイアンリーガー』における人間ロボット関係性は、もはや「共生」というレベルを超えている。人間ロボットの違いはもはや生命の有る無し「程度」にしかなく、作中でも殊更に「人間ロボットの」違い(と共通点)や、その関係性に焦点を当てることは(少なくとも十三話の時点では)ない。

 もちろん、『アイアンリーガー』の世界には人間もいるので、人間ロボット交流も描かれる。第八話のキアイリュウケンオーナーの話などは、それがメインテーマだ。

 だが、そこで描かれているのは「人間ロボットの」交流ではない。あくまで「同じように意思(心)を持つもの同士」としての、オーナーとキアイリュウケン交流、つまり個人個人交流だ。

 人間ならではの心、ロボットならではの心、という概念は『アイアンリーガー』にはない。『アイアンリーガー』は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のように、アンドロイドロボットと似た存在と考えてよかろう)と人間の間で登場人物が苦悩する物語ではない。あるいは『ターミネーター2』のように、本来自分意思感情のない「はずの」ロボットが、人間との交流の中でそれらを獲得していく、という物語でもない。『アイアンリーガー』では、人間ロボット交流も、ロボット同士の交流も、人間同士の交流も、全く同じものであり、それが世界の前提なのである

 しかし一方で、人間と全く同じ「心」を持つロボットは、人間に「発注」され「納品」され――そして恐らく「売買」される存在であるということが、ブルアーマーの過去が明らかになる第三話、そして(よりにもよって)キアイリュウケンオーナーの絆を描いた第八話で明言されている。

 第三話では、なぜブルアーマーのバグを直さなかったのかという問いに対し「バグを直すよりも新しいリーガーを入れた方が早い」とエドモンドが答える。第八話では、キアイリュウケンが「空手リーガー」であり、本来サッカー野球「用」には作られていない、ということが明らかにされる。作中では明言されていないが、恐らく間違って納品された先がシルバーキャッスルでなければ、彼は工場に「返品」されていたはずである

 ロボットたちは、人間と同じ意思感情を持ちながら、同時に「工業製品」「商品であるという事実が、スポーツ試合の影で徐々に明らかになっていくのである

 彼らが工業製品であり、商品である以上、逃れられない宿命がある。ロボットは、人間役割を与えられ、それに相応しいように設計プログラムされて生み出される。

 その現実が、第九話から急激に深刻になっていく。トップジョイ、そしてS-XXXの登場である。彼らの存在が、今まで「人間ロボットボーダーレスに生き、スポーツをしている」という、どこか楽しげで夢のあるアイアンリーガー世界観を大きく覆す。

なぜか途中で切れてしまうので 2(https://anond.hatelabo.jp/20210828220400)につづく

2021-08-22

anond:20210820190158

弱い者、コミュニケーション能力に乏しい者、あるいは少数派に対して抑圧的に働く文化は滅んでも構わないし、なんなら滅んだ方がいい。

多様性共生を促進する文化のみ残せばよく有害文化は消えていい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん