はてなキーワード: 愛すべき馬鹿とは
コンビニの冷蔵庫に入るのが良くないのと分かるのに自分たちを客観視できないんだろうな、オタクくん。
でも自分では客観視できてるつもりなのか余計にきつい…こんなことをしてしまう、こんなものにご執心な俺wという自意識から逃れられない。
いつまでも自主開催したイキりチキンレースから逃れられない。ギリギリヤバいことしてる俺wお前らw愛すべき馬鹿wって内輪で楽しんでチキンレースにいることにも気付けない。
世の中は多種多様な人と共生することを考えて動き始めてるけどもちろんそれに気づくことはなく…。
自分たちはオタク差別をされてきた一番の被害者というところから抜け出せない、抜け出す気もない。
https://anond.hatelabo.jp/20181104013756 の続き。
ねとらぼの本キャンペーン記事のブクマでオススメされてた短編集。SF多めだけどそうじゃないのもあってごった煮。どれも面白かったけど、頭抜けてるのが『バイパスの夜』。バイパスを走るタクシーが舞台であり、それが最初から最後まで最大限に活用されている。無駄がひとつもない完成品。
他には『悪魔の開幕』と『帰還者』がオススメ。『悪魔の開幕』は何を言ってもネタバレになるので騙されたと思って最後まで読んでほしい。『帰還者』はアレな言い方だけど、富樫のレベルE読んだような読後感。手塚治虫が天才で、本当になんでも描けるんだなということがよく分かる。
父の仇を追って新選組に入隊した深草丘十郎。そこで彼は後に親友となる謎の剣豪少年・鎌切大作と出会う。幕末の動乱を、ふたりの少年はどう生き抜くのか。
ブコメでオススメされてたから読んでみたけど、うーんこれは傑作だ。
ひとことで言うと美しい『アドルフに告ぐ』。物語を彩る様々な立場のキャラクターたち、実際の歴史を背景に躍動する主人公、そして全てはラストに結実する。美しい。圧倒的に美しい。子どものときに出会えていたら本当にたまらなかっただろうなー。これから何度も読み返したい一冊。
北村市郎、通称イッチはとある夜、幽霊の行進と出会う。偶然知り合った記者と情報交換することになるが、彼は交通事故で死んでしまった。本当にあれは幽霊だったのか? 駅のホームで見かけて以来、つきまとってくるようになった美少女の正体は?
これもブコメから。ホラーものかな? と思ったら斜め上に話が転がっていくのがさすがというかなんというか。気負わず笑いながら読んでいいやつだと思われる。「歓声とファンの数とは比例します」「ンン?」「これ歓声の法則」といった切れ味抜群のギャグもあったし。
これもブコメより。手塚治虫の自伝的な作品を集めた短編集。悲惨な戦争体験と、そんな中でも漫画を描き続けた戦中、ようやく悪夢のような戦争から解放され漫画家として立身していくぞ(でも漫画雑誌もない荒野でどうやって?)っていう戦後が主。
特に響いたのは表題作でもある『紙の砦』。時は戦中。特殊訓練所にいながらも隙あらば漫画を描く大寒少年はオペラ歌手を目指す美少女と出会う。
戦争って悲惨だしいいこと何もねーなっていう感じが色濃く描かれる。司馬遼太郎も終戦の時に浜で泣きながらなんでこんな馬鹿な戦争をしたんだって嘆いたらしいが、手塚のそれは叙情も何もなくただただ早く終わってほしい悲惨なものとされているように思う。
そしてラストが特に辛い。仮に――戦争で手塚が両手を失っていたら、手塚は、日本の漫画界はどうなっていたであろうか。
悲惨な戦争話が多い中で『という手紙がきた』は一服の清涼剤。『トキワ荘物語』はとてもしんみりさせてくれる。『動物つれづれ草』も好き。
人類が退化し、代わりに鳥類が惑星の支配者になった世界を描く。その新たな世界で鳥人は高度な文明を築き、ホモ・サピエンスは鳥人の家畜になっていた。そして鳥人たちはかつての人類のように相争い、滅亡の道をたどる。
短編連作の形を取りながら鳥人たちの誕生、栄華、末路を描くんだけど、風刺的な要素の強く出過ぎてて胸焼けする。『むかしむかし……めでたしめでたし』みたいなただの焼き直しにすぎない作品もあって、低調な短編はとことん低調。
ただそこは手塚神、すげー読ませるのもあって、『うずらが丘』は物語の展開力とオチの冷淡な語りおよび視線がさすがの一言だし、『トゥルドス・メルラ・サピエンス(ブラック・バード)』のような掛け値なしのイイハナシダナーにはホッとさせられた。
とはいえかなり疲れさせられるお話であることは間違いないかな……。
時は幕末。世渡り下手だが一本気な府中藩士・伊武谷万二郎と女好きだが顔の広い蘭方医の卵・手塚良庵は最悪の出会いを果たす。だがふたりは腐れ縁のように固く結びつき、ともに動乱の時代を駆け抜けていく。万二郎は下級武士ながらとある事件がきっかけで出世街道を上り、一方の良庵は大坂の適塾を経て江戸の種痘所開設に尽力する。ふたりの青年と、日本の未来はいかに。
うーん、感想の言いにくい作品。面白かったけど、中盤から物語に暗い影が落ち始め、読むのがちょっとしんどくなってしまった。手塚作品にしては長く、それでいて物語が綿密に練り上げられていることは間違いないんだが、同時に間延びしてしまった感も否めない。万二郎を主人公に据えたがゆえの限界という面もあり、愛すべき馬鹿には違いないけど、もうちょっとどうにかならんかったのかというのはある。同じ幕末を扱った『新選組』が青雲の物語であるならば、『陽だまりの樹』は凡庸な人たちの物語、という感じ。
人生に思い残しがある者は死に場所でしか生きた証を残せない、という話はあって、彼女(名前だすとアレなのでボカします)にそれが与えられたのはしみじみ良かったなーと思う。ひきかえ万二郎はそういう悲愴さとも無縁で、さいごまで読者をすっきりさせてくれないやつだった。だけどやっぱり憎めない。
お気に入りのキャラクターは、平助、お紺、お品。三人にはいっしょに酒を飲んでもらって、生きてりゃそりゃ辛いことのひとつやふたつあるよなーって盛大に愚痴ってほしい。
2日目の昼ぐらいに気づき、結局それからひたすら読んでた。ああ、もっと早く知っていれば!(BJとか火の鳥とかが入ってないのは読んだことがあるから。火の鳥は再読しておきたかったけど、せっかくの機会なので未読作品を優先した)
全体的な感想を言えば、俺がおっさんだからだろうけど、青年向けの作品の方が読み応えあった。『ジャングル大帝レオ』や『海のトリトン』は当時革新的だっただろうけど、さすがにいま初読だと平凡って印象が拭えない。それらに並ぶ子ども向け作品の『リボンの騎士』は、今でもおもしろいし、男の子の心と女の子の心が入った王女様が王子様のかっこうをしなくちゃいけなくて……という設定を思いつく手塚神ほんと神ってるなと。
大人向け作品はやはり『アドルフに告ぐ』が文句なしの傑作。行き当たりばったりで連載していたというブコメがあったけどマジか。震える。
短編のイチオシは『バイパスの夜』かなー。「極限まで削ぎ落とした体に鬼が宿る(byライスシャワーCM)」じゃないけど、無駄が何一つ無い完成品とはまさにこのこと。
今回よんだ中で一番好きなのは『新選組』。あそこまで美しい作品はなかなかない。
一番好きなキャラクターは『リボンの騎士』からヘケート。容姿、性格、行動力、作中での立ち回り、どの要素も俺の心を惹きつけてやまない。心に残るキャラクターだった。次点で『陽だまりの樹』からお品さん。
それにしても本当に手塚神がいてくれてよかった。日本漫画界に残した足跡の大きさからしてもそうなんだけど、それ以上に何十年たってもその著作が色褪せずに面白いってほんとすげーこと。これからも多くの人に手塚治虫の諸作が読みつがれていくことを確信して筆を擱く。
偶然と言えばそれだけの話かもしれないけれど、まさか自分の人生の中で、
ブログはやってないし、SNSに書くのもプライバシーが気になるから、
普段は見るだけだった増田に書かせてほしい。
備忘録と言うか、まぁ書かなきゃ落ち着かないってことで、
長文になるだろうけど、吐き出したい。
俺は友人が少ない。
いや、正確に言うと、本当に友人と思えるヤツが少ない。というかいない。
友人以上という意味で、一人だけ親友がいる。幼い頃からの腐れ縁で、
お互い三十歳になったが、もう二十五年以上の付き合いだ。
そいつが五年付き合った二つ下の彼女と別れたのは去年の頭のことだ。
毎週末のように散々酒に付き合わされた。
帰り道にある行きつけのジャズバーで一人しっぽり飲むのが日課だった。
親友の拘束も落ち着き、久々に顔を出したその日、マスターに奇妙なことを言われた。
何のことだ?と思って話を聞こうとすると、
入り口から一人の女性、と言うには幼い見た目の女の子が入ってきた。
俺は彼女を見た瞬間、初めて見るはずなのに、妙な既視感に襲われた。
話を聞くと、彼女もよくこのバーで飲んでいて、
いつもカウンターでマスターと話す俺を見て、話かけたいと思っていた、とのことだ。
それが今年に入ってから俺が全く顔を出さないもので、ずっと来る日を待っていたらしい。
俺が一人飲みを始めて五年程たが、こういう話は意外に多い。
けれど若くて、且つ一人で絡んでくる女性は初めてだったので、正直テンションは上がっていた。
加えて彼女とはやたら話が合い、その日はマスターも含め三人で遅くまで飲んだ。
「また一緒に飲みましょうね!」
終電があると言い、最後に連絡先を交換して、彼女は足早に帰って行った。
俺も帰ろうと身支度を始めた時、マスターがボソッと
「でもなぁ、あの子に話しかけられるまで、正直見たことなかったんだよなぁ」
そう言ったのが少し気になった。
その後、金曜日前になると彼女から携帯にメッセージがくるようになり、
何故か彼女といると全く緊張することがなく、とても居心地が良かった。
会いたい、一緒にいたいけど、恋とは違う。そんな感情の中で揺れ動いていた。
きっと久々のロマンスだから、恋する感覚を忘れているのかも知れない。大事に育てていこう。
そう思い、親友には当面黙っておくことにした。
俺は友人はいないが、親友がいること。長い付き合いであること。
彼が最近彼女と別れて、相当参っていることを当たり障りなく話した。
ふと、そろそろこの子を紹介するか。と思い、
「良かったら今度連れてくるよ」と言うと、何故だか彼女は頑なにそれを拒んだ。
そして、まるでずっと言い出すタイミングを待っていたかのように、突然おかしなことを言い出した。
「その親友さんの彼女さん。本当は大事なことを隠していると思う。
是非彼女さんに連絡をして、それを聞き出して。それは私に言われたからではなくで、
しょっちゅう一緒に飯や旅行に行っていたので、とても仲が良かった。
二人が別れる時にも話をしたが、それ以降は連絡をとっていなかった。
「でもなんで君にそうするように言われたと言ってはいけないの?」と聞くと
「だってバーで知り合った女に言われた、なんて言ったら、嫌がられるでしょう」と彼女は笑った。
久々に親友の彼女にメッセージを送ると、意外にも早く返信が来た。
「今日本に帰ってきてる。良かったら会って話さない?」と書いてあった。
余りにトントン拍子に進む話に、何か変なことに巻き込まれているかも、と
このあたりから思い始めたことを覚えている。
約束の時間に少し遅れて、彼女が指定した都内の喫茶店に行くと、
彼女はやつれ切った表情で座っていた。
「久しぶり」と話かけると、みるみる内に彼女の目に涙が溜まり、急に泣き出してしまった。
まるで自分が泣かせてしまったかのような状態になり、あたふたしていると、彼女は
「まさか連絡が来るとは思わなかった。一人でずっと辛かった」と言った。
一昨年にある病気が発覚したこと。
その病気によって、時間が経つにつれて、日常生活が困難になること。
子供をつくることも難しくなること。
ずっと悩んでいたが、彼にはこんな風になってしまった自分ではなく、
別の健康な女性を見つけて幸せになって欲しいという結論に至ったこと。
彼にバレないように、親兄弟以外には秘密にしていたが、辛くて仕方がなかったこと。
全て聞き終えた時点で、正直俺は「こんな話ってマジであるのか」とかなり面食らっていた。
あまりにもショック過ぎて、その場では気の利いたことが何も言えなかった。
家に帰る道すがら、これは何か見えない力が動いている。こんな偶然はあり得ない。
きっと俺は何かしなきゃいけないと強く思い、自宅に着くと即彼女に電話を掛けた。
「知ってると思うけどさ、俺、すげえ口軽いんだよね」
そう伝えると、まだ彼女は泣いていたのだろうか。震える声で
「やっぱりあんたって最低だね」と言った。
よく聞き取れなかったが、最後に「ありがとう」と言った気がした。
その後すすり泣きのような音が聞こえたかと思うと
「サンキュー。悪いけど用事が出来た。また今度な」と言って彼は電話を切った。
その後、案の定というか、俺のたった一人の愛すべき馬鹿な親友は元鞘に戻った。
しかもその後、通常では考えられない速度で、彼女の難病が快方に向かい始めたというから驚きだ。
更に衝撃なのが、彼女の妊娠が発覚。子供をつくることも難しいと言われていたのに、
よかったら俺達が夫婦になる瞬間に立ち会ってくれ」
友人が見届け人的な役割で一緒に来ることは珍しくないが、
三人とも笑いながら号泣してるのを見るのは初めてだ。と役所の人に苦笑いされた。
バーの彼女にメッセージを送るも既読が付かず、バーで会うこともなく、
暫くし、また寒さが身に染み始めた頃、親友から「女の子だ!」と連絡があった。
「すまん。なんだかわからんが、俺と彼女で上げた候補の中で、一つだけ同じ名前があって、
偶然かも知れないけれど、運命っぽいから、その名前にすることにした」と、
その写真をみて俺は目を疑った。
相変わらず既読はついていなかったけれど、バーで出会った彼女の名前と
こんな話、作り話と言われてもおかしくない話だ。
けれど、実際に起こったことだから始末が悪い。
一体バーで出会った彼女は何者だったのか。何故、こんな奇跡を引き起こせたのか。
今となってはわからないし、きっとこの先彼女に会うことはないだろうと、なんとなく思っている。
いつかしようとは思うが、この話は未だ親友と、その嫁さんにも話ていない。
けれど、先日酔っぱらった勢いで、バーのマスターには一連の出来事を伝えた。
話をする中で、婚姻届を出した時に三人で酷い顔で撮った写真を見せた。
マスターはじっと写真を見た後で、またいつものようにボソッと言った。
「あのお嬢さんさ、よく覚えてないけど、アンタの親友と嫁さんにソックリじゃない?」
「勘弁してよ。もうお腹一杯だよ」
俺はそう返すのが精一杯だった。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。