はてなキーワード: sf作家とは
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 97 | 15114 | 155.8 | 61 |
01 | 91 | 9734 | 107.0 | 45 |
02 | 45 | 4322 | 96.0 | 58 |
03 | 9 | 2293 | 254.8 | 54 |
04 | 24 | 2373 | 98.9 | 38 |
05 | 22 | 2538 | 115.4 | 47.5 |
06 | 48 | 5837 | 121.6 | 56 |
07 | 92 | 8394 | 91.2 | 47 |
08 | 103 | 7768 | 75.4 | 34 |
09 | 94 | 14518 | 154.4 | 31 |
10 | 165 | 14376 | 87.1 | 34 |
11 | 152 | 15513 | 102.1 | 37.5 |
12 | 189 | 15071 | 79.7 | 45 |
13 | 211 | 20838 | 98.8 | 42 |
14 | 148 | 16162 | 109.2 | 54 |
15 | 225 | 18373 | 81.7 | 43 |
16 | 176 | 20124 | 114.3 | 43 |
17 | 195 | 16300 | 83.6 | 46 |
18 | 281 | 26128 | 93.0 | 50 |
19 | 263 | 24265 | 92.3 | 36 |
20 | 234 | 22544 | 96.3 | 39 |
21 | 196 | 27444 | 140.0 | 48 |
22 | 199 | 21479 | 107.9 | 52 |
23 | 162 | 17024 | 105.1 | 35 |
1日 | 3421 | 348532 | 101.9 | 43 |
クソカル(11), バックドロップ(16), 音楽監督(4), 10カ月(4), リスペリドン(3), 戦闘美少女(3), 金田淳子(5), デザインあ(9), 小山田(79), ブーレーズ(5), Cornelius(3), クイックジャパン(3), 実相(3), サブカル(33), カースト(18), いじめっ子(17), いじめる(16), 90年代(21), いじめ(135), ショタ(13), イジメ(31), ウンコ(30), 許す(33), アーティスト(23), 謝っ(16), 謝罪(40), 小(25), パクリ(10), オリンピック(80), 音楽(50), 五輪(38), 加害者(29), 障害者(35), 当事者(25), 反省(30)
■なぜSF作家は新型コロナを想像できなかったのか? /20210717000606(34), ■坂本龍一が許されるんだから小山田圭吾も許せ /20210717040231(28), ■[東京五輪] 小山田圭吾の代わりは誰がいい? /20210717162602(28), ■重症者数は増えていないから問題ない派の欺瞞 /20210717164711(20), ■なりって言葉さ /20210717000442(18), ■34歳童貞子供部屋おじさんが女性に縁が無さすぎて母親から怒られた件 /20210717133234(18), ■anond:20210716223902 /20210717080715(17), ■何でLGBTを自称する腐女子はあんなに多いんだろうか /20210717142751(16), ■あの謝罪文でちょっと楽になれた /20210716223902(15), ■小山田圭吾の音楽と人格は切り離して考えようという欺瞞 /20210717013634(15), ■俺(リア充既婚者)の休日生活がこれ 弱者男性達はどうすんの? /20210717095313(14), ■小山田圭吾を「謝ったから」と許す者は強姦魔も許さなければならない /20210717144651(14), ■二次創作やってるオタクだけどコミケもうやるな /20210715203113(14), ■めがねっ子好きのみなさんに一言。 /20210715113857(12), ■ /20210717172602(11), ■自分を馬鹿にした奴なんて特定してアレしたい気持ちくらいあるだろう /20210717183402(10), ■ゲリラ豪雨って言うのやめろ /20210716172951(10), ■anond:20210717013634 /20210717120744(9), ■弱い者いじめした者がスキを見せたらとことん叩くべき /20210716210918(9), ■ /20210716005343(8), ■2020東京オリンピックの記憶が始まってもないのに多すぎる /20210715205330(8), ■いじめの謝罪方法 /20210717071331(8), ■なんなんだ /20210717181742(8), ■日本共産党支持者は外交をどう考えているんだろうか /20210717123625(8)
ギランバレーだからといってコロナワクチン打てないという公式情報はないし、仮に夫がワクチン打てない体だとしても自分が打たない理由にはならないし(むしろ夫にうつさないために打つべき)、医療のメインストリームで言われていることよりもマイナーな情報を信用しようとしているところがね。
普通の人ならまだしも、SF作家なら、人類がどのようにして科学の知識を積み上げてきて、その正しさを厳しく検証してきたか知っているはずと思っていた。その過去の研究者たちの巨人の肩に乗ってその先の空想を描くのがSFだと思ってたから。
「SF作家」じゃないだろうけどTwitter医師団連中に叩かれてる岡田晴恵はコロナ禍前に「弱毒性」ウィルス感染症のパンデミックパニック小説を書いてるよ
隠されたパンデミック (幻冬舎文庫) | 岡田晴恵 | 医学・薬学 | Kindleストア | Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/B085H7D43N/
他にも細かく探せば弱毒性パンデミック小説見つかるだろ普通に専門家が想像できることなんだから
ただSF読者が「それじゃ物足りない」って手に取らないだけで
SF的想像力で扱われるパンデミックってだいたい「感染者の9割が死ぬようなヤバいウイルスが蔓延して人類文明崩壊」みたいな話ばかりで、
新型コロナのような「めちゃくちゃ危険なわけではないがさりとて放っておくわけにもいかない中途半端なウイルス」がそれゆえに「社会を変える」という話は無かったと思う。
いま「コロナはただの風邪だ」「いいや恐ろしい伝染病だ」と人類が右往左往しているのは、現状が「過去に例のない事態」だからで、すなわちフィクションの中で「予行演習」ができなかったという点において、これはSF作家にとっては一種の敗北ではないのだろうか。
いや「なぜ想像できなかったのか」というのは半ば挑発で、もしそういうSFがあったのなら教えてほしいというのもある。
SF作家たちはどう思っているのだろう?
「そんなの面白くないから」は現実にコロナパンデミック下における社会の変化がかなり興味深い(という言い方は不謹慎かもしれんが)という点で否定できるね。
コロナパンデミックについてのノンフィクション小説を書いて10年前にタイムスリップして発表すれば間違いなく賞賛されると思う。
いまのところ「A Song for a New Day」がいちばんそれっぽそう。
早川書房のkindle1,500点以上半額を受けて、Amazonのリストから俺の興味のあるものをリストアップしたから、みんな見るとよい。
全部購入したいところだけども(全部買っても、たぶん1万円強に収まりそう。お得)、当の俺が何しろ吝嗇なので、気になったものは、まず図書館で検索 → 人気のため多量の順番待ち、もしくはそもそも在架なし、の場合にだけ、購入することにする。
…
『息吹』
おそらく、今回の目玉の一つだろう。『あなたの人生の物語(映画題名『メッセージ』)』を書いたテッド・チャンの作品集。
試しに図書館で検索したところ、予約待ちではあるものの待てないほどではない。ということでいきなりだけど購入×。
ちなみに、同氏の『あなたの人生の物語』はボルヘスの幻想小説にロードムービーを掛け合わせたみたいな素敵な雰囲気の作品が多くて良かった。おすすめ。
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『ザリガニの鳴くところ』
今回の目玉その2。図書館検索すると…すごい、100件以上待ち。ということで買います。
ミステリーは普段あんまり読まないんだけど、話題となると触れたくなるのミーハーなんだろうな。
あと装丁が良い。カバーってほんと大事。電子書籍が勢力を拡大する時代でも。
…
余談だけど、文庫で最近出た同じ作者の『文字渦』が面白かった。これもボルヘスっぽくて、あとは異様な世界をぎちぎち理屈と設定で詰めていくのが酉島伝法もちょっと入ってるかも。
…
同じタイトル、同じ内容で日本発だったら手に取らなかっただろうと思うのは、なんとなくラノベを基本的に卒業したつもりでいるから。
そんな中で、中国のラノベってどんなもんや、って動機で気になったんだと自己分析する。こういうところに自分の変ないびつさを感じる。
…
購入×。
ちなみに早川の戦争ものというと、『ブラックホーク・ダウン』の原作を思い出す。上下巻でサイズはあるけど、グズグズの市街戦で疲弊する現地部隊と混乱する司令部、隊員たちが基地で過ごす日常の描写が様々なコントラストを描いていて、それが果てしなく悪化して正義の上っ面さえまともに繕えなくなっていく様子が素晴らしい。激烈に面白いからおすすめ。
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購入◯。ケレン味◯。あと、何気に南方熊楠×SFって目新しい? めちゃ相性良いと思うんだけどな。
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『なめらかな世界と、その敵』『楽園とは探偵の不在なり』『月の光』『地下鉄道』『紙の動物園』『少女庭国』
×。どれも少し予約待ちすれば借りられそう。
気になってた本の半額セールが来る頃には図書館貸し出し予約もピークを過ぎている、ってことなんだな。と変テコなさとりを得る。
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『禅とオートバイ』
購入◯。タイトルで惹かれ、説明書きを読んでも何がなんだかわからないところにさらに惹かれ…。なんとなく予想はしていたが、図書館にも在架なしということで、買うことにした。
…
なんだよ、買わねー作品ばっかりじゃねえか、ってなんとなく心苦しくなってきたので、今回セールになっている作品の中で、すで購入して良書だった本のPR。
①『サルたちの狂宴』
twitter → Facebookと後の世の巨大SNS企業を舌先三寸で渡り歩いたウェブデザイナーのドキュメンタリー。当人は技術力や創造性よりも機転とノリで生きてるタイプで、ほんとに虚飾&虚業って感じなんだけど、イヤミじゃなくそれも生きてく上で本質的に重要なスキルだと実感させるところがある。最近ノってる『トリリオンゲーム』にもちょっと近いかも。
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②『オクトローグ』
新刊だからもっとプッシュすればいいのに。酉島伝法のSF作品集。
初期の弐瓶勉漫画みたいな、ダークで無機的な荒廃と有機的などろどろぐちゃぐちゃがミックスされた至高の雰囲気。全編、Steamあたりで即でゲーム作品に展開できそうなくらい個々の完成度が高い。っていうか、このレベルでそれぞれを長編として起こさない酉島伝法には創作におけるコスパって概念がないのか? と思ってしまう。どうかしている(褒めてる)。
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ヴォネガットというとSF作家のイメージが強いと思うが、それ以外の作品にも素晴らしい小説がある。『ジェイルバード』はその一つ。
年齢を重ねることで区別されてくる人間の類型の一つに、他人と感情をむき出しにして触れ合うことができない者がいる。いわゆる「心が冷たい」人。
俺は、文学の使命の一つはこの「心が冷たい人」を救うことだと思ってる。『ジェイルバード』はそういう本。漱石好きな人とか意外とハマると思う。
…
閑話休題。
『目を擦る女』
購入◯。最近亡くなった小林泰三の作品集。有名な『玩具修理者』しか読んだことがなかったので。
毒々しくも可憐な笹井一個の表紙が目を引く。装丁ってやっぱり大事だね(そういえば、この方も故人だ…)。
…
『死亡通知書 暗黒者』
×。中国ミステリだそうだ。俺の生活圏の問題か、SFと比較するとあまり話題に入ってこなかった印象がある。
『息吹』といい、早川はこういうデザインの装丁好きだね(良いとは思う)。
…
『華竜の宮』
×。椎名誠の『水域』といい、小野不由美の某作品のエンディングといい(ネタバレなので名前は伏せます)、文明は水没させてなんぼ、みたいなところが俺の中にある。
…
×。あんまり趣味はよくない、と知りつつ、孤絶した文明と足で暮らす人々の特異な体質というテーマが好き。
似たような切り口で面白かったのは、『眠れない一族――食人の痕跡と殺人タンパクの謎』。不眠症、クールー病(ニューギニアのある部族が罹患する風土病)、同族食によって体内に蓄積されるプリオンがテーマの本。
…
『透明性』
…
ふと思い出したのが、別の作家の『全滅領域』。あまりにダウナーなので続編の『監視機構』で挫折したが、知らない人で『ソラリス』みたいな内省的なSFが好きな人はハマるかも。
…
購入◯。そろそろル・グウィンに挑戦してみるか、ということで。
ただ、SFを露悪と飛び道具で評価するところが強くて思想性は最後に1%出てくればいいや、という性格なので、どうかな。合わないかもな。本当に一冊も読んだことがないから見当がつかない。
…
×。「そんなに黒くない」「毛がない」…なんのこっちゃ?(amazon説明文ママ)
興味はあるけど挫折する可能性高いよなあ…と思っていたら、見透かしたように「必ず読み通せる科学解説」とまで書かれていて笑ってしまった。
…
『100年予測』
×。国際情勢にフォーカスし、トランプ大統領誕生を予言したという本。
『紛争でしたら八田まで』が個人的に来ているのもあって、俺の中でいま地政学が熱い。
…
×。
わかるようでよくわかんねー概念を三つ挙げろと言われたら、エントロピー、不確定性原理の次にアルゴリズムを挙げる。ちゃんと理解している人からすれば何を頭の悪いことを…という感じなんだろうけど。ここらでしっかり説明できるようにしておきたい。
ちなみに、よくわからんと言っておきながらアルゴリズム関連で面白かった本に、『マインドハッキング: あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』と『ニュー・ダーク・エイジ』の2冊がある。前者は政治的煽動を目的として展開されたSNS経由のターゲッティングと思想誘導、後者はテクノロジーの発達が不本意に実現してしまった笑えないナンセンスとグロテスクがテーマだった。
…
結局、買わないでも借りればいいか、ってのがかなり多くなっちゃったな。最後に、今回のセール対象ではないけど早川から出ている本で「ちゃんと」買った良書を紹介して茶を濁しておきます。
類まれな想像力と合理性を持つ天才。強欲と自らでさえ使い捨ての駒のように扱うむなしさが同居する矛盾したパーソナリティ。「これをああしたらどうなるか」をプログラミングだけでなく現実世界に反映させてしまったエンジニアにして犯罪者、ポール・コールダー・ル・ルーを追ったノンフィクション。
犯罪ものであると同時に、この世界の構造の一端が見えるような錯覚を抱かせてくれる作品。
…
②『闇の自己啓発』
反出生主義、変態性愛、身体改造、犯罪など、アンダーグラウンドだったりインモラルなテーマについて、決められた課題図書を通じて参加者たちが議論する体裁の本。内容それ自体も面白いけど、紹介されてる本が豊富で、そこから派生して読書体験けっこう広がる。
読んでて、最初は「自意識過剰過ぎてわけわかんなくなっちゃった大学生みたいだなー」ってイライラすることもあったんだけど、段々、各人の痛切なところとか博覧強記ぶりが見えてきて後半は感心しきり。面白い。続編読みたい。
…
以上です。
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
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実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
私は、歴史の専門家ではない一般人です。まず前提として、戦前・戦時中のアジア諸国へ与えた被害、南京虐殺や従軍慰安婦問題、米国人をはじめとする敵国捕虜に対する非人道的行為等々について、日本に責任が有ると考えている者です。
フィリップK.ディックというアメリカのSF作家の小説に『高い城の男』という作品があります。貴方は、これを読まれたことはありますか?もし無ければ、今から粗筋を紹介します。もし、既に読まれたことが有るならば、私が以下に書くことは釈迦に説法ですから、無視して貰って構いません。
= 粗筋ここから =
第二次世界大戦は、枢軸国側の勝利に終わった。世界は、ドイツ第三帝国と大日本帝国という2つの大国に支配され、アメリカも日独による占領・分割統治の下に置かれている(西海岸側が日本により占領されている)。
作中では、大戦終了直前にアメリカが、不利な戦況を覆す為に、非人道的戦術を用いたり、残虐な行為に走ったことなども語られる。しかし、そこまでしても敗戦に終わったことから、アメリカ国民の誇りは打ち砕かれている。西海岸で日本人相手に商売をしているアメリカ人は、敗戦国の人間として戦勝国(日本)に対する強い劣等感を抱いている。
戦勝国となったドイツと日本は、いまだ表面上は友好関係を保ってはいるが、アーリア人種至上主義の国と黄色人種の国は呉越同舟である。ドイツは密かに日本殲滅計画を目論み、日本もまたドイツに対して不信感を抱くようになりつつある。遠くない未来には、2つの大国は衝突を避けられないだろう。
このように敗戦国の人間も戦勝国の人間も等しく、将来に対して不安を抱いて生活しているアメリカでは、奇妙な流行が2つある。
1つは「当たるも八卦当たらぬも八卦」で有名な、古代中国の書『易経』に基づく占いである。物語の登場人物たちは、何か不安に駆られる度にコインを用いた占い(※本来は筮竹を使うが、陰陽2つの組み合わせで占うので、コインでも代用できる)によって『易経』の宣託に頼ろうとする。
もう1つの流行は、地下出版により流通する『イナゴ身重く横たわる』と題された1冊の本である。占領国の官憲により発禁本の指定を受けながらも、アメリカ国民は(そして、取り締まる側のドイツ人や日本人も)厳しい監視の目を逃れて、密かにその本を読み耽る。その本には「本当の歴史」が記されているのだという。「枢軸国側が敗戦国になり、連合国側が戦勝国になった歴史」が。
この本を執筆した作家を暗殺する為に、ドイツ当局の手の者が動き出す。また、この本に書かれたことは「本当の歴史」なのか?だとすれば、如何にして作家はそれを知って執筆したのか?それを確かめる為に、一人のアメリカ人女性も作家の下へ向かう。
「高い城」に居ると噂される作家の下へ。
= 粗筋ここまで =
私が知る限りでは、ディックが本物の日本人と実際に交友関係があったという形跡は有りません。しかしディックは、優れた作家が持つイマジネーションの力だけで、敗戦国の日本人の心情を見事に描き出します。「敗戦国の国民となって、戦勝国の日本人に対する劣等感を抱いているアメリカ人」の姿というパロディによって。
『高い城の男』の描く、敗戦国となったアメリカの人々は『イナゴ身重く横たわる』を読みながら夢想します。「非人道的な残虐行為を行わなかったはずの、汚れていないアメリカの姿」や「輝かしい戦勝国となったはずのアメリカ」という「本当の歴史」を。
これらのモチーフや描写を現代の我々が読むと、執筆当時のディックによる意図を超えて、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論に嵌まる人間を傍から見た姿を描く形になっています。
最初に書いたとおり、私は戦前・戦時中の日本による蛮行については、日本に責任が有ると考えています。しかし、日本による南京虐殺等を否定する説や、ドイツによるショア(ホロコースト)等を否定する説を信じる人たちの、それを信じたくなる心情も、『高い城の男』を読んだ私には何となく少しだけ理解できる気もするのです。人間は、弱くて愚かです。ちょうど犯罪加害者の家族が「自分の家族が、そんな酷いことをするはずがない。何かの間違いだ!デッチ上げだ!冤罪だ!」と言いたくなるのと似たような心理なのではないでしょうか。誰でも大なり小なり「祖国に対する愛着の心」が有り、その祖国が過去の歴史の中で蛮行を働いたという記憶は、犯罪加害者の家族の場合と同様「耐え難い現実」であり、可能ならば「違った未来」が実現して欲しかった、「デッチ上げによる冤罪」であって欲しかったという思いを抱かせるのでしょう。
『高い城の男』の詳細と結末については、実際に読んでもらうしかありませんが、それについて少し書きます。ネタバレされるのがイヤな場合、以下の記述を読まないで、書店に向かってハヤカワSF文庫の『高い城の男』をお買い求め下さい。
【【【注意!ネタバレ有り!】】】
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実は『イナゴ身重く横たわる』に書かれた「本当の歴史」は「『高い城の男』を読む我々の存在する現実世界の歴史」ではありません。連合国側が勝利する歴史ではあっても、現実の歴史とは食い違う記述が有ります。つまり、本作の中で『イナゴ身重く横たわる』を読み耽るアメリカ人たちが夢想している「あり得たはずのアメリカ」は「無い」のです。
SF論としては、作家フィリップK.ディックは「本物と偽物」「現実と虚構」というモチーフを書くことに取り憑かれ続けた生涯で云々と話を展開するところでしょうが、ここでは南京虐殺の否定論やショア(ホロコースト)の否定論に絡めて『高い城の男』の話を持ち出したので、別のことを書きます。
心情的には、否定論にすがる人たちの気持ちも分かるような気がすると、私は書きました。
しかし、南京虐殺否定論やショア(ホロコースト)否定論にすがる人たちの「間違いを犯さなかった、こんな歴史であって欲しかった」と夢想する歴史も、結局は『イナゴ身重く横たわる』の記す歴史と同じく「無い」のです。『高い城の男』は第二次世界大戦を下敷きにしていますが、ベトナム戦争のアメリカをはじめ、おそらく何処の国であっても大なり小なり「別の歴史があって欲しかった」という事は有ることでしょう。しかし、勿論それも日本やドイツと同様に「無い」のです。
では、我々は、どうすれば良いのでしょうか?実は、それを示唆する内容が『高い城の男』には書かれています。
『高い城の男』には、占領軍の日本人将校を相手に「アメリカの骨董品」の贋作を作って売るビジネスに関わるアメリカ人が出てきます。しかし物語の終盤に至ると、彼は「偽の歴史を付与した贋作の骨董品」を作って売るのではなく、新たなオリジナルの創作物を作って売ることを決意します。
『高い城の男』は教訓を学ばせる目的で書かれたとは思いませんが、それでも私は、このくだりを読んで思ったのです。「在って欲しかった歴史」「我々の願望を満たしてくれる、都合の良い現実」など有りはしない。どれほど不条理に感じても、動かし難く消し去ることのできない過去を「我々の現実」として引き受けるところから始めるしか他にないのだ、と。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
タイトルを失念したし細部は間違えているかもしれないが、アメリカのSF作家ロバート・シェクリイの短編小説で、こんな話があった。
= = = = =
ある日、主人公は、街中の交差点で歩行者信号が青色になったので横断歩道を渡ろうとしたところ、背後の誰かから「危ない!」と声を掛けられたお陰で、信号無視の車に撥ねられずに済む。
声を掛けて助けてくれた誰かにお礼を言おうと、主人公は背後を振り返ったが、それらしき人間は見当たらない。
その代わり、目に見えない何者かの声がして、主人公との会話が始まる。
その声の主は、謂わば異次元の存在だから、大多数の人間は、見ることも声を聞くこともできない。しかし、稀に主人公のように声を聞くことが出来る人間がいる。
そして、声の主は災難に遭う可能性が有る運命の人間を見分けることができるので、今回のように忠告の声を掛けて時折り助けているのだと言う。
声の主が「君さえ良ければ私がアドバイスをすることで、君が将来的に遭うかもしれない危険な目を避けられる。別に見返りを求めたりもしない」と言うので、主人公は謎の声の主をアドバイザーとして受け入れ、二人の関係が始まることになる。
声の主が予め危険を忠告してくれるので、主人公は危険を避けることができるようになる。例えば「明日の出勤は違うルートにしろ。いつものルートではガス爆発が起こるから」と言われて従ったところ、翌日の新聞にガス爆発事故の記事が載り、普段の通勤に使っているバスが巻き込まれたことを知るといった具合いである。
最初は主人公も「これは助かる」と重宝するが、二人の関係が続くうちに、危険を避けるために与えられる忠告の頻度がどんどん多くなる。
不思議に感じた主人公が、声の主に質問すると、次のような答えが返ってくる。「人間の運は、全体的にバランスが取れるようになっている。自力で未来の危険を察知したり避けたりすることができない人間は、大きな危険に遭遇する可能性が小さくなるようになっている。しかし、君は私の忠告によって危険を避ける能力が普通の人間よりも上がっているので、その分のバランスを取るために大きな危険に遭遇する可能性も上がっている」と。ちょうど、ヤジロベエの片腕を押し下げているようなものである。ヤジロベエが落ちないようにするには、反対側の腕も押し下げねばならない。
「冗談じゃない!」と思った主人公は、声の主との関係を解消しようと「私のところから立ち去ってくれ」と言う。しかし、声の主は言う。「君の傍から私が居なくなっても、運のバランスが直ぐに回復するわけではなくタイムラグがある。私の忠告は受けられなくなるが、君が危険に遭遇する可能性は暫くの間は高いままになる。私の忠告も無しに、それらの危険を君は避けることが出来るのか?」と。ヤジロベエの両腕を押し下げている力の片方が、急に消えるようなものである。声の主が消えれば、反対の腕を押し下げる力だけが残る。もし、そうなると……。
声の主は、主人公に対して「心配はいらない。私の忠告さえ守れば、君は安全だから」と言う。実際にその言葉どおり、主人公は様々な事故や事件を未然に避け続ける日々を送る。
やがて月日が経つと、声の主による忠告に変化が生じ始める。「主人公の住居であるアパートの玄関に✕✕を掛けておけ」とか「✕✕を肌見離さず持ち歩け」という具合いに。
まるで魔除けじゃないかと思った主人公が、声の主に尋ねると、やはり運のバランスの問題であることが判明する。声の主は言う。「異次元の存在にも、私のように人間を助けるのが好きな者もいれば、逆に人間に危害を加えるのが好きな者もいる。私からの忠告を受けられることで、君の運は相対的に良くなったから、その代わりに人間に危害を加えるのが好きな存在にも目を付けられるようになった。これらの新しいタイプの忠告は、それらの危険な存在を避けるためのものである」と。もちろん、声の主が居なくなったとしても、主人公が異次元の危険な存在に狙われる可能性は暫く高いままである。したがって、主人公に拒否権は無い。
声の主は言う。「心配はいらない。私の忠告さえ守れば、君は安全だから」と。ここに来て、ようやく主人公は悟る。声の主は、善意から主人公を助けていたのではない。単に、主人公を駒にしてゲームを楽しんでいるだけなのだと。しかし、関係を絶とうにも既に手遅れである。声の主が居なくなれば、主人公を待つのは破滅だけなのだから。
そんな或る日、またも声の主が忠告をしてくる。
この頃になると主人公も慣れてきていたので「今度は何だ?墓場の土を掘ってくるか?それともヒイラギやニンニクを玄関のドアにぶら下げておくか?」と、声の主にジョークを返す。しかし、声の主は言う。「いや、今回の戦術は『何かしろ』ではなく『ある禁止事項をしないようにしろ』という形になる。何しろ今度の敵は手強い。獲物にしようと狙いを定めた人間をずっと見張り続けて、そいつがミスを犯したところを餌食にするんだ。だから長期戦になるのを覚悟しろ。根比べで敵が音を上げて、君の傍を立ち去るのを待つしかない」と。
「いいか。絶対に『レスネライズ』するなよ」と声の主は言うが、主人公は理解できない。声の主が「あ、そうか。これは人間の言葉で言えば……」と説明しようとしたその時、突如として、アパートの部屋の中に獣臭い匂いが立ち込め、凶暴な唸り声が聞こえ始める。
「くそ!予想よりも早く現れた!」と声の主が言うのが聞こえると、目に見えない存在同士が格闘していると思しき物音が主人公にも聞こえ始めるが、その末に声の主の断末魔の悲鳴が響き渡る。
「おい!大丈夫か?」と安否を尋ねる主人公に対して、声の主は弱々しい声で「いいか……絶対に……するんじゃないぞ……」と言い残し、それっきり声も聞こえなくなる。
主人公は恐怖に震えながら、部屋の片隅にうずくまり、まんじりともせずに一夜を過ごす。
眠気に負けた主人公は少し居眠りして目を覚ますが、何事も無かった。だから、睡眠をとることはレスネライズではない。
催した主人公はトイレに行って用を足したが、何事も無かった。だから、これもレスネライズではない。
主人公は、喉が乾いたから水道の水を飲んだし、腹が減ったから冷蔵庫の中に有るものを食べたが、何事も無かった。だから、これらもレスネライズではない。
脅威の元である異次元の存在は、人間の目には見えないから、それが立ち去ったかどうかを主人公が確かめる術は無い。しかし、用心深く過ごしていれば、いずれ敵も根負けして立ち去ることだろう。それまでは気をつけるしかない。
= = = = =
今期のSF枠は円城塔脚本のゴジラSPがぶっちぎっていると思う。怪獣と「時空を越えて存在する異次元の物質」「特異点」を絡めたゴリゴリのハードSF。
数理SFとして極めてハードな一方で、怪獣モノとして(今のところ)スルっと見られる異色作。
ただ、いかんせん(文章は読みやすいが文系にはぜんぜんわからない話を書く)円城塔なので、外連味が難解さを越えずに最終回まで走ってくれるかちょっと危惧している。
リゼロ好きだからVivyも見てみるけど、ゴジラのリアタイでめちゃくちゃ盛り上がってるので、「久しぶりの」って言われると違和感がある。
既出だけど「デカダンス」とか、最近だと野崎まどが「正解するカド」、劇場アニメで「HELLO WORLD」やってたし、SFアニメは近年そこまでレアでもないと思う。
1950年代に考案された最初のAIであるニューラルネットワークは、1990年代には実用化した。
2000年代に多層ニューラルネットの欠点を補完する深層学習が誕生すると、
やがて民生用の量子コンピュータが普及し始めると、AI の量子演算化研究は当時のホットトピックとなった。
だが、高度に複雑化した量子化AI理論を理解できる学者は世界に数人しかおらず、論文の査読に8年もかかったという。
その実用化にはさらに多くの年月を費やしたが、身の回りのあらゆる電子機器に搭載されるようになった。
量子化AI の導き出す結論は常に最善・最適なもので、人々は機器に言われるままに行動するようになった。
その方がいつも快適だし、無駄な思考コストも要らないので当然のことである。
電子機器の指示に従って暮らす人にとって、 AI は神であり、その言葉はご神託となった。
その昔、SF作家のアーサー・C・クラークは、
と言ったが、
という世界が具現化したのだった。
考えてもみてほしい。
ものごころつく前から、機器の指示に従うことが善とされ、それに逆らった人間には事故や病気という罰が与えられる。
祖父母も両親も私もそうやって暮らしてきたし、将来産まれてくる子や孫もそうするだろう。
今、私に与えられている指示は「ロウドウ」だ。
畑を耕し、野菜を育てる。
私の担当はトマトで、午前の担当区画では種まき、午後は別の区画で収穫をする。
水まきは週に1回なので今日は無い。
住人全員が食べる分のトマトを運ぶのはかなりの 運動 になる。
牧畜担当に憧れが無いわけでもないが、友人曰くミルクの運搬がかなりキツいらしい。
夕方には、その日食べられる食材を持ち寄って集計し、グループ単位で調理して食べる。
食事は1日2回。朝はパンとミルクだけの軽食なので、夕食が一番楽しい時間になる。
友人ともいっぱいおしゃべりできる貴重な時間。
食後の片づけを終えたら、睡眠室に戻り、私は「メイソウ」をする。
正直に言うと、この2時間に具体的に何をすればいいのかよく分からない。
お母さんは、何でもいいから自分一人で考えることが大事というし、
お父さんは、妄想でもしとけばいいという。
昔の人の暮らしを想像するのだと言って、なぜか神話を語ってくれた。
人々は神様のことが良く理解できず、勝手に悪い神様を創り出してしまったこと。
それを見かねた良い神様が「フネ」という新しい世界を創造したこと。
その「フネ」はいくつもあって、この「フネ」に宿る神様の名前は…
なんだっけ。一度はちゃんと聞いたんだけど、今はもう思い出せない。
ピピピピッ。
腕にはめられたリングが光り、「メイソウ 〇」の緑の文字が浮かび上がった。
すぐに「スイミン」の指示を示す青い文字へと変わった。
どうやら、今日の「メイソウ」も無事終えられたようだ。
昼間、体をたっぷり動かしたせいで、今夜もぐっすり眠れるだろう。
私は、どうしても思い出せない神の名を妄想しつつ、静かに眠りについた..。
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個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
だが、現代は再チャレンジの時だ、安倍総理は再チャレンジを掲げて勝利した、妨害するのはパヨクくらいだ
安倍総理は次も必ず帰ってくる!世の中は再チャレンジが勝つんだ!認めろ!
繰り返す!
はっきり言おう!これはゲーム業界にとってあらたなポリコレ棍棒となる!!
ただかがゲーム業界人が何故政治家のようにストーカーされねばならない?
皆が政治家のように追及され、政治家のように一挙手一投足を追われ!
そんな殺気立った世の中で才気あふれるゲームクリエイターがのびのびと創作が行えるか?
百歩譲る、馬場は記事通りクソ無能としよう、だがそんな無能は往々にして面の皮が厚い
効果→減
何かに似てるよね?!
そう、かのノーベル文学賞のカズオイシグロが懸念した自主検閲がこれから起ころうとしているのだ
そう、あのカズオイシグロだぞ!?世界が誇るカズオイシグロだぞ!
あの カ ズ オ ・ イ シ グ ロ 先生も怒っているんだぞ!
なお俺は読んだことない
そりゃその通りですわ、だが叩きの規模が大きければ委縮が起きる、言論弾圧が起きる!
滅ぶ!滅ぶ!滅びますぞ!
すべては灰燼に帰す!!
クソ作品を叩きつ続けるという事は、創作界の9割が炎上してすべて灰になってしまうんだ!
全部焼けちまうんだ!
ああ、まるでボーナスステージだな!
ハァ~
これ書いてる今もリベラルは差別叩きのボーナスステージを楽しんでいる、そう世の中の9割は焼けていくんだ
ポリコレ棍棒が世界9割の消し炭を灰にすべくドンドンドコドコ殴りつけてる、
きっと止められないんだ
最悪の二乗だ
ハァ~
ナカイドとかいう新星が現れて♪
世の中どんどんクソゲハ化するな~♪
もううんざりだろう?!!
こいつら実質クソリベラルの仲間だ!いい加減に一緒に叩かれろ!!!
うんざりだ!
つぶし合え!
消えろ!
現実を見るんだみんな!!
世界の9割が焼けるんだ、そんなディストピアに向かって突き進む気か?
未来を変えよう!未来を変えるしかない!!変えるんだ俺たちは!!!!
繰り返す!!!
これは新たなポリコレ棍棒だ!!!!オタクは直ちに足を止めろ!!手を止めろ!!!!
取り返しがつかなくなる!
繰り返す!!!!
これは新たなポリコレ棍棒だ!!!!オタクは直ちに手を止めろ!!足を止めろ!!!!
でもDWのソシャゲも馬場Pのゲームはこれまでもこれからも遊ばない
俺みたいな単細胞には4096くらいがちょうどいいんだ
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
『文學界』2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界』公式アカウントも反論のツイートをした。
【訂正のお願い】今日発売の『文學界』3月号に寄稿した新人小説月評の末尾が編集部によって勝手に削除されました(左:本誌、右:最終ゲラ)。消された「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」の一文を追記してください。 pic.twitter.com/EeFtgele6Z— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
文學界3月号「新人小説月評」の筆者・荒木優太氏が、編集部に月評の内容を編集段階で勝手に削除されたとしてTwitterで抗議していますが、編集部の認識はまったく異なります。ここに経緯を記し、荒木氏の投稿に反論します。— 文學界 (@Bungakukai) February 5, 2021
のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評の倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。
https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/
最初に荒木氏の①【訂正のお願い】ツイートは2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明のツイートを行なっている。
言及ありがとうございます。詳しくは長文にて説明しますが、とりあえず、①「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり、私はメールにて「岸さんの箇所は現状ママでよろしくお願いします」という指示をちゃんと提出しています。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。
2. 『文學界』が「批評としてあまりに乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。
3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。
4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。
5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実をSNS等で吹聴する』」と返答する。
7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。
以上である。
さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである。
先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。
1. (略)
2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。
3. (略)
5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。
7. (略)
『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。
荒木氏の立場としては、編集部の意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。
「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?
一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しかし命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである。
では荒木氏のツイートと時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。
言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現「勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである。
これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界』から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。
私には物理的に手出しできないのだから「お好きになさるとよいでしょう」と言うほかないではないですか。私の意志をちゃんと理解した上で、削除を強行するのは編集権の濫用だと思います。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式上同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかに真である。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。
ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態で刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である。
本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評の倫理」から考えてみよう。
荒木氏は「削除されなかった」場合に作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。
そもそも、作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家・樋口恭介がしたとおりウェブに反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。
ちょうど1年前の『文學界』新人小説月評に対し、作家の樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。
樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的な評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈がそもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷氏から不適切であったと謝罪・撤回を得ることに成功している。非常に健全な批評的やりとりだった。
ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈が提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示したこの事例との比較から、「反論の余地を与えない表現は批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。
荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己に責任をもつところの私自身にとっての大切な創造物であるということだ」と述べる。結論はこうだ。
私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。
荒木氏の論理では創造物なのは「(無)感動」である。解釈そのものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である。
だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である。解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身からの反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくその規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。
月評の制限字数がわずかであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。
解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。
ある意味で当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。
これは余談。批評の主体は愛や敬意、と言う人がいるが、必ずしもそうではない。それを必須条件にしたものは読み物としては心地よいが批評ではない。批評の主体は、テキストと論理と緊張感。対象作品の書き手の思いや反応や背景など気にする必要は一切ない。ちなみに小林秀雄は批評家ではなく評論家— 川上未映子 Mieko Kawakami (@mieko_kawakami) February 6, 2021
テキストも論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。
まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界』編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き上問題はないが、合理的ではなかった」というものです。
仮に削除せずに全文ママで掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます。
あるいはもし仮に改稿・削除提案が荒木氏自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木氏自身がSNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。
それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。
無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集の作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。
ただし荒木氏自身も批評を書こうとしているので(「「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります。
よって、時評の存在意義や読者の需要はコメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。
最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いています。コメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト・論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的な応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます。
https://www.sankei.com/life/news/210117/lif2101170022-n1.html
【書評】『1984年に生まれて』 みずみずしい「自伝体」小説
本書では、分量的にはごくわずかな、あるSF的な要素(オーウェル的な世界との接続)によって、ありえたかもしれない別の世界線が二重写しになり、主人公が生きる世界が相対化される仕掛け。
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO68417760S1A120C2MY5000/
父娘の人生の断片が交錯する視点、SF作家ならではの仕掛け構造に、時間と空間を哲学的かつ科学的、俯瞰(ふかん)的に切込む頴(えい)脱が光る。