はてなキーワード: あげぽよとは
かかりつけの診療所は、ワクチン入荷の見込みがないとのことだったので、近いけど院長がドS過ぎることで有名な個人病院で受けることになった。
接種室はすごく最適化されていて、流れ作業でパッパと注射を済ませられるようになっていた。そして接種担当者は案の定院長で、予想通り
「お待たせしましたぁ」
と、すごいいい笑顔。この人、患者が苦しむ顔を見るのが大好きなんだ……。自分も経験あるけど、ちょっと大きめの怪我で受診すると院長すごく楽しそうに応対してくれる。「ほら、ここが痛いんでしょ、ほらほらほら痛いよね?」と笑いながら捻挫した足首にグリグリ親指を捩じ込ませてきたりとか。
そういう人なので、予防接種なんかもう飽きるほどやっただろうに、全然飽きが来てない顔で笑っていらっしゃる。
接種はシステマチックにすぱすぱと進んでいった。院長は楽しそう。今回の患者の中にはかつてこの病院に何かで通っていたらしい若者が二人いたらしく、院長は「そうだよねーみんな成長するんだ」と声を弾ませながら、注射針をぶっすー射していた。懐かしがられた青年二人は二人ともノーリアクション。いつかはお世話になりました! 的なテンションの上がりかたはしないらしい。
注射は思ったよりは痛くなかったが、針の刺さるところを見たら肩の皮膚に対して垂直に針が刺さっていて、なんかインフルの予防接種とはちがって、なんか心にくるものがあった。あと、昔、手術後に麻酔が切れたときに打たれたちっとも効かない痛み止めの筋注を思い出してトラウマがちょこっと刺激された。
15分その場で待機してから病院を出た。帰りにドラッグストアとスーパーに寄ったが、1回目だし何か対策をするほどの困難には見舞われないんじゃないかなという気がしたので、生活品と食料だけ買って帰宅。
注射後三時間までは、何ともなかった。針なんか刺したかしらん? というくらい、何ともなかった。だが、三時間を過ぎた頃に、急速にテンションが下がっていった。それが悪いというよりはむしろ、自分にとっては朝からのテンションの高さが異常だったのではないだろうか? 待ちに待った予防接種に、遠足前の小学生くらいに浮かれていた。
それが、スンッと一気に元の万年ダウナー系に戻った。と同時に、肩の注射をした周辺がじわじわ痛くなってきた。だが、痛さレベルは、点滴の、金属で出来た針に蝶々の羽みたいな黒いののついたやつで、盛大に失敗こかれて皮下にパンパンに点滴液が溜まったくらいだった。全然耐えられる気がした。数年前の手術後に試される二週間の入院生活を送った、あのときの点滴地獄よりはまだマシ。
夕方、気分がすっとんとんに低まったあとでチビッ子達の遊び相手をし、神経衰弱やハイ&ローで気分があげぽよになった頃、ちょっと肩の痛みが増す。そしてまた万年ダウナー系に戻る。
夕飯後にネットニュースを見ていたら気になるトピックに脆くもハートをへし折られ、人生の先行きが心配になってこの世の終わりを感じ恐怖に襲われる。いっそ、チビッ子達とトランプ遊びに興じたときのメンタル最高点でポックリ死んでいれば幸せだったのでは? という気がしてくる。今日は予防接種を打ったこと以外は特に珍しいことは何もしていないのに、ハード過ぎる8連夜勤残業ありで死にそうになった時くらいメンタルが堕ちてしまった。
気分を持ちなおせず、チビッ子達の前では空元気を出し、震える声と指をなんとか抑えつつ、絵本を読み聞かせる。
こう、メンタル激落ちした時にはよくあることだが、お腹がゴロゴロと嫌な音をたてはじめる。トイレに行くと緩くて臭いウンコが出た。なんならオナラも激くさい。メンタル激落ちのときのいつものパターンにすっかりはまり込んでいることを悟る。
メンタルが落ちているから腹が下るのか、腹が下るからメンタルが落ちるのか、びみょう。と、このパターンのときに必ず思うことをまた思ってしまっている。なんでこう律儀に、定石をなぞってしまうのか。
家族が寝静まった。チビッ子達に両サイドを挟まれているから、というだけでは説明のつかない、地味な体温の上がりっぷり。検温したら、36.9℃だった。同じ体温計で測る平熱は36℃にギリ届かないのを思えば、微微微熱かなあ? というところ。
誰かと不安を共有したい気分になって、スマホで愛用のSNSを複数訪れてみたが、こういう時に限ってタイムラインやスレッドの動きがとても鈍い。
そんななかで、Twitterで好きな絵師さんがたまたま、以下のようなツイートをしていた。
「注射後に接種箇所が少しだけ痛んで、なんか少し熱があるかな? と思って検温すると平熱よりも少し高いくらい。それから微熱の数時間が少しあるというのが、ファイザーを接種した人にありがち」
そういえば、自分の接種されたワクチンもファイザーのだった。予防接種を予約するとき、ワクチンの種類は選べない状態で、しかもどこ製のものを射たれるのかは知らされていなかったので、ワクチンの特性とか何も事前情報を仕入れていなかったので、へぇ……と思った。
今は足の裏と喉の奥がなんかほかほかする。たまに臭いオナラが出る。お腹は若干ゴロついている。注射あとは、点滴失敗よりも痛くなった。ちょっと寝返り打とうとするだけで痛い。手を真上に挙げるとかなり痛いが、「腕を挙げられない」というほどではない。激落ちメンタルは、こうして文字をポチポチ打っている間にやや平静になってきた。だが、もしも独居生活をしていたら、文豪でもないのに「漠然とした不安」に死なされそうなくらいには、ヤバい所をさ迷った。家族の誰にも激落ちぶりを悟られなくてよかったけど。
さて、好きな漫画でも読んで寝るか。
あのさ、
老若男女が集まるバシヨドでバシッと買い物をキメたついでに、
冷やした饂飩でもまたあわせてキメてこようと思って、
バシヨドではお使い頼まれたランのハブがバシッと故障したからって新しいの買ってきてってことで、
渡されたメモのままに従って買物に行ったら分かるようになってるからって言うの。
もう張り切ってテレビ番組の初めてのお使い級に
あのテーマ曲のなんて曲名なのかは分からないけどドーレミファーソーラーシードーイェーイイェーイ!ってノリノリのテーマ曲を歌を歌いながらお使いは超卒無く完了よ。
そんでそのついでと言っちゃなんだけどそのついでに、
食べてもうひと頑張りんぐ!って思ってた矢先饂飩をすすってキメた瞬間に
ああもういいや、
へなへなへな~
今日はもう帰ろうかナーって
なんか夜食とは言わないけど、
変に満たされて、
もいっかー!ってなるような気がするから
やっぱり満腹は敵でもあるし味方でもあるし、
いかにして満腹と付き合っていかなくてはならないのねって思ったわ。
その時間の中でしかモノを食べたりしてはいけないってダイエット戦法があるんだけど、
やっぱり夕方となると
スピードワゴン井戸田さんが大声で叫びそうなものを食べたくなるし、
まさに饂飩とかをもキメたいところじゃない。
でもキメたが最後!
もう満足してしてしまくりまくって、
もうさ歯に葱なんか挟まっちゃったりなんかして、
もちろんお店を出る時には葱は始末してしまうわよ。
いくら何でも私でも、
そんなほっぺに葱付けて歩けるわけないじゃない!
それうずまきナルト君!
バシヨドでバシッとキメてきた買い物ついでに食べた饂飩なんだけど、
本当はお蕎麦の方がまたツルっと行けるってもんよね。
なんであんなに白いの?
蕎麦とは違う!
蕎麦とは違う!蕎麦とは違う!って最後の節を2回輪唱の様にいうじゃない、
もっと私たちが知っている茶色いお蕎麦を東京でも食べたいんだけど、
あんまりお蕎麦が白いと何を食べてるか本当に分からなくなってきて、
白い細饂飩?って思ってやまないわ。
どこでも入ったら美味しいお蕎麦に出会い頭にありつけると思ったら最後、
白いお蕎麦が出てくると半信半疑でこれお蕎麦なの?ってやっぱりイナカ者は思ってしまうのよ。
お店に飛び込み前転でイキって入店して張り切って広島焼きをいっちょう!って注文発注したんだけど、
なんかメイン焼きそばみたいなのが出てきて、
焼きそばが入っていても、
お好み焼き要素の方が5割を超す誰が見てもこれってお好み焼きよね!って想像以下のお好み焼き要素がなくて焼きそば要素の方が過半数だったのよ。
店員さんはそんな、
これ本当に広島焼きですか?って私みたいなへんてこりんな広島焼きド素人相手にムッときたかも知れないけど。
まあその時と一緒のように
張り切って東京だからってお蕎麦頼んで白い饂飩みたいな麺が出てきたからっていって
これお蕎麦ッスか?って東京なのに横須賀風にすかして聞くんじゃないわよ、って思うの。
クレーム入れるのが野暮っていうか粋じゃねーってところよ。
だから東京のお蕎麦は白いところを出しているお店に当たると私は冷や麦でピンクや緑の麺をすくって、
やった!当たり引いた!今日は私が1日お姫様!って思うぐらい逆張りに外したなって思うの。
もちろん、
私がちょっと苦手なのは麺が白くて蕎麦蕎麦した雰囲気が出ないって言ってるだけで、
味は美味しいのよ。
ぺきかんのろんのもちで!
ご麺なさい!って
チェーン店お蕎麦屋さんだと過去問を解きまくったからある程度傾向と対策とが分かるけど
その山岡さんがこのお店は家賃の味がしないなーって見破るぐらいコスト度外視した富士山盛りのマウンテンお蕎麦が出てくるところは、
だいたい家族経営の賃貸物件じゃないところの家賃分をまるまる食材にぶちこんで山盛り使えるってらしいのよ、
味というか味は美味しいんだけど、
マウンテン級の量には気を付けたいところね。
こないだ行ったかき氷屋さんなんか凄かったのよ!
もうアラスカかシベリアかグリーンランドにアイスランドを盛ってまるごとやってきたかのように、
いやこれ一人分?食べきれないわ!って
デスプレイの食品サンプル的なサンプルのかき氷はショーケースの一番下に置いていても先が天井に届いてしまう大袈裟にまさにふわふわ氷を盛ったイミテーションだと思ってたけど、
あれがそのまんまの見てくれで来たんだからたまったもんじゃないわよ。
こんなに大きかったら、
宇治金時とハワイアンビッグブルーとでお友だちと2つ頼むんじゃなかったーって
お友だちとシェアして食べて良いか否かを確認しなくちゃいけないわね。
流石に私はそのマウンテン級の富士山盛りのチョモランマお蕎麦には出会ったことないけど、
東京のそう言った量でも味でも、
前からも後からも攻めてくるお蕎麦屋さんには気を付けたいところね。
でも行き当たりばったりに出会うお店でそれに気付くかもまたグルメ鼻の利かせどころよね。
私はそんなに鼻が利かないけどさ。
何の話しかもう忘れちゃったけど、
まあとにかく夕方お腹を満たしたらそれで満足しちゃうマウンテンアンドチョモランマ!
あげぽよ!ってところかしら。
一緒に行ったお友だちに、
あげぽよよね!って言ってもぜんぜんノリ切ってなかったところがまた私が滑ったみたいでまさに滑稽だったけど。
まあバシヨドでバシッと買い物キメて美味しいお饂飩食べれたから、
この朝一番の9時に思っちゃったのよ。
え?なに?
老若男女が集まるバシヨドは朝の9時にはまだ開店していないって?
まったくそうね、
こりゃ一本とられたわ!なんつって、
満腹になってしまったことには充分に値する後悔であることには間違いなかったわ。
腹ごなしに腹ごしらえでもしてくるわ!
うふふ。
鞄に1つおにぎりを忍ばせているわよ。
これがあるのとないとでは
ションテンがぜんぜん違うのよね。
一晩漬けて冷蔵庫に入れて仕込んでおけば、
みんなも試してみてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
春はあげぽよ。
やうやうしるくなりゆくやまきは
夏もあげぽよ。
やみもなほ
ほたるのおほくとびちがひたる。
また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりてゆくもあげぽよ。
あめなどふるもあげぽよ。
秋はあげぽよ。
ゆふひのさしてやまのはいとちかうなりたるに、からすのねどこへゆくとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあげぽよ。
まいてかりなどのつらねたるが、いとちひさくみゆるは、あげぽよ。
ひいりはてて、かぜのね、むしのねなど、はたいふべきにあらず。
冬もあげぽよ。
ゆきのふりたるはいふべきにもあらず、しものいとしるきも、またさらでもいとさぶきに、ひなどいそぎおこして、すみもてわたるも、いとつきづきし。
ひるになりて、ぬるくゆるびもていけば、ひおけのひも、しろきはひがちになりてさげぽよ。
春はあげぽよ。
やうやうしるくなりゆくやまきは
夏もあげぽよ。
やみもなほ
ほたるのおほくとびちがひたる。
また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりてゆくもあげぽよ。
あめなどふるもあげぽよ。
秋はあげぽよ。
ゆふひのさしてやまのはいとちかうなりたるに、からすのねどこへゆくとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあげぽよ。
まいてかりなどのつらねたるが、いとちひさくみゆるは、あげぽよ。
ひいりはてて、かぜのね、むしのねなど、はたいふべきにあらず。
冬もあげぽよ。
ゆきのふりたるはいふべきにもあらず、しものいとしるきも、またさらでもいとさぶきに、ひなどいそぎおこして、すみもてわたるも、いとあげぽよ。
ひるになりて、ぬるくゆるびもていけば、ひおけのひも、しろきはひがちになりてさげぽよ。
野安ゆきおとかいう人は初めて知ったけど、ゲームジャーナリストってバカでも名乗れる職業なのかね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140402/262188/
日本で「恋愛を中心に据えた、女性をターゲットにゲーム」の市場が確立すれば、それは日本のゲーム業界が持つ大きなアドバンテージになるかもしれません。
なったらいいけど、ならないだろうね。
この野安とかいう人以外はみんな分かってると思うけど、あまりにひどい記事だったんで一つ一つ突っ込ませてもらう。
そもそもアンジェリーク自体がときメモだか同級生のヒットによって作られたんじゃなかったっけ?
書店には恋愛をテーマにした少女漫画がたくさんありますし、DVDショップに女性向けの恋愛映画のコーナーがありますが、家庭用ゲームの売り場には、女性向けゲームのコーナーはほとんど存在しませんでした
全ての女性は恋愛テーマの作品しか楽しまないと決めつけている。
こういう、勝手に「女性向け」の嗜好を区別して押しつけてくる人間は本当に不快。「男性向け」を押しつけるのと同じく差別的。
ゲーム好きだろうとそうじゃなかろうと恋愛テーマが好きな女もいれば嫌いな女もいる。現実の恋愛への態度と架空のそれへの態度も違う。
「アンジェリーク」は、女性向け恋愛シミュレーションゲームは大々的には売れない、という印象を残してしまったのです。
アンジェ等の乙女ゲー愛好者=全女性ゲーマーではない。乙女ゲー嗜好は女性オタク全体で見ても少数派。男×女が好きなオタクでも乙女ゲ一好きとは限らないし、そもそも(女性は特に)ゲームやらないオタクも多い。時代がどうとか関係なく、「ハーレクイン設定で恋愛ゲームしたい女」は元から多くない。
ただしゲーム業界全体で見ればアンジェの売り上げは大きくなかったものの、女性オタクの一部に強烈なファンを獲得したのは事実。ゲームジャーナリストというならアンジェが開拓した市場について書くべきだろうに。
その結果、当時のゲーム業界は女性にターゲットを絞るのではなく、 これまでのゲームに「女性も楽しめるような要素を足す」という形で、 女性ユーザーの取り込みを狙います 。
なんでこの人の中では「女性にターゲットを絞る」=「乙女ゲー」になってんの?
上で書いたとおり女性ゲーマーだけに絞っても「恋愛シュミレーション」を好きな層は多くないんだよ。
なぜなら全ての女性が恋愛テーマの作品を好むわけじゃないから。「女性向け」と銘打って恋愛あげぽよ仕様にすれば女が食い付くとかそんなわけねーわ。
1994年のプレイステーションの登場以降、RPGなどの人気ジャンルには格好いい男性キャラクターが登場するようになるのです
ストⅡのケンとかリュウとか女性に大人気でしたが。93年以前の男性ゲームキャラは格好よくないと言ってるも同然。
ゲームを楽しむ女性が大集団であることが可視化されてきたのです。そんな時代の流れを受けて、ゆっくりとではありますが、女性向け恋愛シミュレーションゲームが作られ、宣伝される時代になりつつあるのですね。
なんでこの人の中では「女性にターゲットを絞る」=「恋愛ゲー」に(ry
女性ゲーマーが可視化されたら恋愛シュミレーションが作られるんですか、そうですか。
ネット普及するずっと前からあった言葉だバカ。詳しくないなら調べるくらいしろ。
だからなんで比較先が「恋愛コミック」限定なんだよ。あとBLコミックは「普通」の恋愛コミックじゃないって書き方は記者としてちょっと無防備すぎじゃないのかね。
いきなり何言ってんの感ハンパない。
じゃあ海外の腐女子は全員、自身が同性愛嗜好を持ってるんですか?
なんかこの人、ゲイのほとんどは外国人とかいう偏見持ってない?
自身が同性愛者ではないのに、同性愛的嗜好を持つコンテンツを楽しむ、というのはキリスト教文化圏では発達しにくい趣味嗜好あり
海外=キリスト教文化圏と短絡しているのもあれだが、たとえばスラッシュ(海外の腐向け二次創作)は70年代末に生まれたというのが定説で、24年組や第一回コミケより少し遅いくらい。
それが今じゃスパナチュのディーン/サム萌え腐女子がドラマ本編でネタにされるくらいメジャー。
「発達しにくい」とか海外のスラッシュファンダム見てから言え。
今までもずっと成長してきたし、つーか『好きしょ!』がアニメ化される時代に何ドヤ顔で「女ってこういうの好きらしいですよ、こうすりゃ売れますよ」とかやってんだ。
誰も聞かねえよそんなの、って言いたいけど結構な割合で鵜呑みにする人もいるんだよなあ。
たしかに海外のゲームジャンルでは日本のアニメっぽい美形男性キャラが少ないと言われてるようだが、女向けにイケメンキャラ出しときゃいいだろみたいな主張には心底腹が立つ。
ゲームに限らず女性にも人気が出た作品は、世界観やストーリーがしっかりしていて男女問わず楽しめる質の高い作品だったからこそ売れただけ。
女性をターゲットにしていても手を抜いたら売れないし、むしろ悲しいことに手を抜かなくても女性は男性ほどゲームに金使わないってのはBLゲーで大敗した企業はとっくに分かってるはずだ。
乙女ゲー嗜好はニッチだし、BLゲーはニッチな上に好みが多様すぎて採算取るのが難しい。
だからほとんどのゲーム制作者は「女性向け」ゲームには進出したがらないわけで、その分そこをあえて挑戦してきた制作者には敬意を払いたい。
もうこれから先、一生、死ぬまで、彼女どころか女友達すら出来ないのではないか。と思う。
何故なら俺は現在27歳まで童貞であり、ウェーイ系男子でもないし、高収入系男子でもないからだ。
例えばウェーイ系男子ならば、学生時代、厳密に言うと大学時代に培ったサークルスキル(あげぽよトーク力)を社会人対応型へチューンナップすることで、ある程度の年齢までは穴ゲットに事欠かないのだろう。
あるいは、高収入系男子は完璧超人タイプもしくはガリ勉三さんタイプのどちらかに別れるにせよ、
いずれにせよ絶対的な『金』の力によって女を屈服させることは容易であろう。
対して俺はどうか。
見た目:しょっぱいおっさん、中身:真面目が取り柄のつまらんおっさん、年収:雀の涙。
これで喰いつく物好きな女がいるだろうか?
いやもしかしたらいるのかも知れない。
けれど、その女が俺の好みのタイプで現在フリーで尚且つ俺と出会う可能性はどれくらいあるのだろうか?
可愛いくてしっかりしていて愛想が良い。
何かいける気がした。
けれど、やっぱりというか何というか、彼氏持ちだった。
そうなのだ。この年で出会うそれなりにクオリティの高い女性はもれなく予約済なのだ。
もうそれは絶対の理のごとく。
つまり、
①まず俺の好みで
②更にフリーで
ということを俺は主張したい。
俺はもう27年なんだよ。
6年前に初めて出来た彼女(現状最後の彼女)が別れ際言い放った言葉を教えてやろうか?
「人としては好きだけど、男としては違った」
だぜ?
つまり、実質27年、俺は女性に男として好かれた経験がないのだ。
そんなんでどうやって希望を持てと?
会う女性のほとんどが彼氏持ちで、たまにフリーな女はどこかしらおかしいし(見た目も中身も)、
俺は俺でやっぱりどこかおかしくて、女性からするとどうしても受け入れがたい何かを持っているのかななんてことを
考えながら、否定しながら、それでも、次こそはなんて根拠の無いポジティブさを発揮しながらも
そんな駄目な自分に酔いしれることで何とか今日まで生きてきたけど、
自分に酔いしれている俺みたいな野郎はやっぱりとことん気色悪いなと気付き始めてしまって
自分の心の置所を見失ってしまっているようなそんな今日このごろだから
もういっそ全部投げ出してしまおうかと思うこと自体も単に駄目な自分に酔っているだけであって
結論としては、悔しいけど行動原理主義者の言うとおり、とにかく出会いの場に顔を出すしかないと思う。
何度もろくでもない目に遭いながら。周りの奴らは別にそこまで惨めな思いをしなくても割と普通に恋人くらい出来た(運転免許証を手に入れるくらいの難易度で)
俺は人よりどっかおかしくて、普通にしてたら彼女どころか女友達すら出来ないような人望しかなくて、そういう人格の保有者だけれども
そんなクソキモ中年かまってちゃんでも愛せるよという奇特な女性を探す極めて困難な旅に繰り出すしかないという圧倒的絶望感を胸に抱きつつ、
もう少しだけ生きるんじゃよ。