はてなキーワード: シニカルとは
http://anond.hatelabo.jp/20160321120853
トラバで1期2期本放送当時の空気や、それ以前のにこの扱いについてツッコミをいただいたが、これについては今以て反論のエビデンスが見つからないので、ここでは否定しないことにします。
今回また筆を執ったのは、それでもなお熱心なファンが、先日のファイナルでドームを埋め尽くすほどのマスを何故獲得したか、思うところがあったからだ。
きっかけは、元のエントリを書いてからいよいよ続きが待ち遠しくなって、程なくしてDVDレンタルで2期をチェックし、その勢いで劇場版も再チェックしたところ、久しぶりに心動かされるインプレッションに直面したことである。
元エントリで、自分は「あれだけの人気が出たのが不思議で仕方がない」と書いたが、これは撤回せざるを得ない。
我ながらこんなふざけた掌返しは、いわば「北風と太陽」を味わってしまったからである。
それくらい、2期のクライマックス(9話以降)から劇場版に至るまでの盛り上がりは熱く、そして眩しかったのだ。
今までこんなにやる気・前向きの熱気に溢れ、眩しすぎるくらい眩しい作品があっただろうか。
そりゃ話の筋書きだけ見たら全くパーフェクトではない。
てか2期だって、8話までは基本ほぼ早送りで見てもいいくらい退屈だった。
それこそ「1期でヘマやらかして批判を受け、制作側が必要以上に萎縮した結果、2期は美少女動物園」という、ありがちな体たらくじゃん・・・正直ゲンナリしていた。
でも話が終わりに近づいた所で大きな軌道修正が入ったのだろうか、そこからが本当に凄かった。
上に書いたようなツッコミや、その他シニカルな見方(例えば「ずっと一緒にいると、お互いの考え分かっちゃうんだよね」とかホントか?と思わなくはなかったり)を軽く吹き飛ばすくらいの、超ポジティブ展開で畳み掛けてきやがったと。
勿論「この1期があったからこそ、2期があった」と思わせるようなニクい演出もキッチリ作ってきてたし。あと神田明神が痛絵馬だらけになる事まで見越した話も挟むとかもヤバい。
そして、その勢い冷めやらぬまま突入していく劇場版は、2期まで見た後だと全く違って見えた。
まさに一面パーッと花が咲いた感じというのだろうか、目を見開かされたのは間違いない。
そして、この目の回るような展開が、少なからぬ視聴者の心を捉えて離さなかった結果の大ブレイクだったのだと、確信した次第である。
「皆が一生懸命頑張って頑張って、そしたらどこまでも飛べる、そして花は咲き続ける」
という、素晴らしく力強く、明快直截で、そして純粋なものだった。
そもそも「どこまでも飛べる」と何か1つでいいから思えるメンタリティこそが青春なので、ある意味では青春の輝きを体現したアニメなのかも。
しかしそれにしても、中高生以上がコアターゲットのアニメで、こういうメッセージをここまで最前面に打ち出し、押し通した作品を自分は他に知らない。
もしかしたら、こういうラブライブ!のような直球勝負な作風がブームになるレベルでウケるくらい、アニメがカジュアル化したということだろうか。
てか、もしそれを見越して本企画を思いついたのなら、考えた奴は神だと思う。
「アニキャラでアイドルユニット作ってPVもどきの形でアニメにして、アニメと全く同じパフォーマンスを中の人がライブで披露する」
と、要するに
ことがオリジナリティの核という、とんでもないイロモノ企画だったわけで、実際
と当時は思ったものだ。
それがこんな化物コンテンツに成長したのだ。
恐ろしい。
ニュースを見てもネットを見ても時の宰相は常に批判されている。権力は批判されて当然という理屈なのだがそれも変ではないか。歴代の首相を考えてみてあいつもダメだこいつもダメだ、全員ダメだと思うなら、それはスケールのほうが狂っている。常に首相を批判する人は、誰なら満足するのか?その選んだ人はそんなに立派な人か?完璧な人間などどこにもいない。結局現実にいる人物からしか選択肢はないのだ。歴代の首相の半数は、半分よりも上の出来だ。そんな観点から歴代首相を採点してみた。
安倍首相 ○
アベノミクスは失敗だのなんだのとずっと言われているが、株価は上がって有効求人倍率も上がってパートの自給も上がってるので上出来なのでは。外交は近隣との関係が悪すぎてダメ。経済成長重視、外交は協調政策の政党はないのかな?民主と維新の野合の党が名称だけでも経済外交党にしたらそれだけで票を入れたいですわ。経済か外交かひとつでも出来たので○としたい。なんのかんのと3年以上続いてまだ支持率高いしね。
野田首相 ○
近隣との関係悪化が顕著になったのは野田首相の時期だし、経済政策も財政再建重視しすぎて景気悪化させちゃって、結果的に外交も経済もいまひとつだったのだが、この方は自分に厳しく人格的に立派な人だと思いますわ。安倍現首相もタジタジの解散の演説は名演説だったと思う。謹厳実直な人柄も良く出ていた。ただし経済政策は謹厳実直なだけではダメなのだ。
菅首相 △
敗戦以来の、という言葉は安売りされがちだが、本当に敗戦以来の大事件だった3.11と原発事故のときの首相。東電や福島第一原発に乗り込んだトップダウンは、むしろ現場を混乱させたとも言われているが、では東電に任せておいたら良かった?原子力安全委員会に任せておいたら良かった?どっちも無責任でしょう。東電撤退したらつぶれる発言は恫喝だとか撤退じゃなかったとも言われているが、首相の覚悟は見えたよね。東日本に人が住めなくなる可能性だってあったのだ。少なくとも最悪の事態は免れたでしょう。首相の手柄ではなく現場の手柄だけど、首相の覚悟も必要だったよ。でもこの方は人徳がないというか、人から好かれないよね。そこがなんとも。
鳩山首相 ×
よくこの人首相に選んだよね。何言ってるかわからないよね。一目見て変だよね。周りの人だってそう思ってるだろうに、この人が首相になれるのだからまだまだ政治は金の力なんだね。民主党政権時代の悪印象って多くはこの方の印象だよね。
麻生首相 ○
漢字とかバーとかどうでもいいことで批判されたけど、英語も堪能だしオリンピック代表経験を生かして海外首脳と個人として親しい関係を築く力があったよね。あと切り返しの上手さもなかなかだね。在任中はバラマキ気味だったことしか記憶にないけど、まあ悪い首相じゃなかったよね。リーマンショックもあり1年未満。地合いが悪かったね。
福田首相 △
典型的な番頭さんタイプが首相になっちゃったという状況で、首相になってもサラリーマンの部長くらいにしか見えなかった。官房長官のときはシニカルなコメントが面白かったけど、首相がそれじゃ人ごとっぽくて困るよね。よくも悪くも印象に残っていないし、在任期間も1年ちょうど。もう少し何か。
安倍首相 ×
今の安部首相と同じ人かとおもうくらい当時は頼りなさと弱弱しさがあったよね。担いでた人たちも子供じみてたし。強烈な小泉首相の後だったという不運もあれど、当初からうまくいかないだろうなという雰囲気満々で、そのとおりちょうど1年で退任。
小泉首相 ○
強烈な個性で賛否両論あっても、平成の大宰相だよね。在任期間もさらに20年前に中曽根内閣を上回ってるし。郵政とか道路公団とか、国鉄民営化みたいな目覚しい成果はあがらなかったかもしれないけど、よくやれたものだと思うよ。郵政民営化の、殺されてもいい、それぐらいの気持ちでやっているという言葉は国民の心を鷲掴みにしたよね。北朝鮮電撃訪問もあったね。ブラジル移民訪問でのヘリ降下エピソードも感動したし、変人で信念と合致しない部分では冷たいところもあるのだろうし、構造改革のせいかはともかく在任期間の自殺者数が最高だとかもちろん負の側面も多いが、20年に1人の首相であるのは間違いない。
森首相 ×
彼の話をきちんと通して聞いてみると世間で言われるほどにはおかしな人でも頭が悪くもないとわかるのだが、それでも水準以上ではないよね。えひめ丸の衝突事故のときに各局で流されたゴルフの映像は当日のものではなかったらしい。失言癖は目の前の人に露悪的なちょっと面白いことを言いたい気持ちが抑えられない(というかそういうトークでのし上がってきたから今更やめられない)のだろうね。
小渕首相 △
人柄がにじみ出ていて良い人であったのでしょう。一国の首相は特に国際政治の場ではもう少し貫禄があってよいとも思うけど。在任中は株価2万円台も赤字国債で公共事業をやっていたので賛否両論ですかね。公明党と連立を組んだのが小渕首相の時代。それも若干いかがかと。娘さんはPCをドリルで破壊しつつも議員の座に留まれています。ご冥福をお祈りします。
いわゆる1990年代後半の金融危機の頃ですかね。住専への税金投入は批判を浴びましたが後世から見れば妥当な施策であったと思います。消費税増税で退陣となり経済失政の例として語られるようになってしまいましたが、当時はやむをえなかったのではないかと思いますし、それ以外は難しい時代を乗り切ったのではないかと思います。山一や長銀がつぶれ日本はどうなるのかと当時は思いましたが、3.11や少子化で社会インフラ維持不能な現代の日本から見るとまだまだ余裕があったなと思います。強烈なナルシスティックな語り口は近くにいたら仲良くなれるかは疑問ですが、首相としての貫禄はありました。首相指名選挙の討論で若き小泉潤一郎が橋本氏相手に空回りして負けていたのを思い出すと、安部首相の1次2次の違いと並び、人は成長するのだと知りました。ご冥福をお祈りします。
1. 『ライオンキング』(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994年)
2. 『ナッシュビル』(ロバート・アルトマン監督、1975年)
4. 『EDEN/エデン』(ミア・ハンセン=ラブ監督、2014年)
5.『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』(コーエン兄弟監督、2013年)
6.『アマデウス ディレクターズカット』(ミロス・フォアマン監督、1984-2002年)
7. 『はじまりのうた』(ジョン・カーニー監督、2014年)
8. 『アンヴィル! 夢をあきらめきれない男たち』(サーシャ・カヴァシ監督、2008年)
9. 『8 mile』(カーティス・ハンソン監督、2002年)
10. 『あの日のように抱きしめて』(クリスティアン・ペッツォルト 監督、2014)
1. ディズニー枠にしてミュージカル映画の精髄。アラン・メンケンが確立したディズニー・ミュージカル黄金律の完成形でもある。ポストメンケンではやはり『アナと雪の女王』が頭一つ抜けている印象。
2. ハリウッドに最も嫌われたアメリカ人監督ロバート・アルトマンがアメリカの保守層を体現する南部という土地、カントリーミュージックという文化をシニカルに活写することでニクソン政権下の母国をするどく批評した、というと小難しい社会派映画みたいだが、実際の中身ゆるゆるでお気楽でグダグダなカントリー群像劇である。歌声一つで嫌なことも苦しいことも大変なことも何もかもどうでもよくなる、という音楽の魔力を良くも悪くも見せてくれる映画。
3. 菊池セイコウさんの dis はこのさい放っておこう。すくなくともこの作品は『音楽映画』としての役割と魅力を十二分に発揮しているのだから。要するにパワハラ上司に対するリベンジ映画なのだが、(主人公と観客両方に対する)抑圧と解放の手際が実に﨟長けている。何よりリズムが映画だ。
4. ふらふら楽しくガラージュDJとして遊んで暮らしていたアンちゃんが30超えて「あれ? もしかしておれ、社会的にあかんくね?」と狼狽えるフランス映画。年をとるにつれ銀行員の対応がすげなくなっていくのが切ない。こんなダメダメな反社会人でも才能ある妹を持てば人生を映画化してくれるんだから、持つべきものは家族である。DJシーンの快楽は選曲面でもビジュアル面でもクール。
5. ふらふら楽しく60年代のNYでフォーク歌手としてネコと楽しく暮らしていたあんちゃんが恋人を妊娠させてしまったことで「あれ? もしかしておれ、社会的にあかんくね?」と狼狽えメジャーデビューを目指すアメリカ映画。楽曲の質の高さもさることながら、さまよえる主人公を捉える画面も洗練されている。どうでもいいが主人公のオスカー・アイザックは次の『スターウォーズ』でけっこう重要な役をやるらしい。主人公の恋敵役を演じるジャスティン・ティンバーレイクが影のMVP。
6. 説明不要の超ビッグタイトル。要するに悲恋系BL。天才ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトに恋した乙女サリエリちゃんが才能のことを考えると胸が切なくなって毒殺疑惑をかけられちゃうの。
7. ギリギリミュージカルではないのに、歌のやりとりだけで物語が進行するクレバーな構成の音楽映画。「音楽っていいもんですねえ」ということを骨の髄まで叩き込んでくれる。Maroon 5 のアダム・レヴィーンがいい仕事している。監督の前作の『ONCE/ダブリンの街角で』も人生のすっぱさから目をそむけずにポジティブな救いを歌った佳品。
8. ドキュメンタリー枠。誰からもその才能を認められていたにもかかわらず、なぜか売れなかったメタルバンド、アンヴィル。しかし彼らは諦めなかった。副業のかたわらコツコツと三十年もアメリカの片田舎でバンド活動を継続しつづけていたのである。三十年周年を記念して世界ツアーを計画した彼らだったが、その道中をトラブル続き。しかし、そんな彼らがとある国を訪れたとき、奇跡は起こるのだ。
9. ヒップホップ枠。今週末公開の『ストレート・アウタ・コンプトン』の出来次第では入れ替わるかもしれない。負け犬が這い上がる系映画。
オッサンになると涙もろくなる。
(多少だが)苦労していると、「この人は真実を語っているな」ということは大体分かるし。
ネットの世界では凄そうな人がいるんだけども、身近な凄い人は案外そういうのと無縁で生きている。
少なくとも、四六時中ネットのリアルタイムの話題にリソースを割くなんて馬鹿な真似はしない。
「ネットはいきなり頂点の人が可視化されるので自信を無くす」という話はよく聞くが、
自分の体験からすると頂点らしいネットの凄い人も身近な凄い人も能力的にはあまり変わらない気がする。
要は「本人がやりたいかどうか(いや、「やるかどうか」)」が問題なだけであって、煌びやかさに惑わされて
能力が無いと思っている人も続けていれば勝手に能力はつく。連戦連敗でも「何割かは勝ち」の場合もある。
それを次につなげれば、逆境であるほどレバレッジがかかって能力が上がる。
ある時、凄く出来る女性プログラマーがいて「どうやればそんなに出来るんですか?」と聞いたことがある。
答えは、「デスマーチをくぐっていけばこれくらいの実力はつく」だった。
だから、能力が無いと嘆く若者も(オッサンも、あるいは女性も)絶望する必要は無いと思った。
単に守りの姿勢、ポジションが安定したので、後は受け身で人生守りに入ろう、となった瞬間に思考が硬直化
するだけの話であって。
とまあ、増田で書いた所で寝言なのだが、「ネットの人がそれほど凄くもない」ということは、
例えば、はてブで上がってくる書籍関係の記事はほとんどフィクション系でノンフィクション系が少ない。
いつだかの村上春樹のネット相談で、「小説をバカにする夫が許せない」みたいな話題があったが、
実際は逆じゃないかな?と思う。「ビジネス書を読んでいる人は意識が高い」と揶揄されるのが
本当のところではないのか。
しかも下らないライフハック系の記事はホットエントリになったりして、Kindleのセールで買えよと思う訳だが、
そんなことを言っても聞き流されるのがオチだと言うことも分かる。
それはともかくとして、最初の話に戻ると、真実を語っている人に弱い。
今日、ようやく仕事に区切りがついたので、ダラダラとネットを見ていたが、久々に再読してフリーでもいい文章が
落ちているものだと思った。上に書いたワイ氏の駄文の何千倍も役に立つ文章が落ちている。
リンクを貼っても読まれないと思うので、抜粋しながら以下に転載したい。
「ハッカーと画家」のポール・グレアムの抜粋だ。ハッカー以外にも役に立つと思う。
転載元:
http://practical-scheme.net/trans/hs-j.html
<版権表示>
本和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。
(「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。
Copyright 2005 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/hs.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
<版権表示終り>
(「知っておきたかったこと」より)
だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。 「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。
そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」 でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど
多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。 かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、 泥を
かき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、 これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。 それに、
これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。 「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?
風上
この問題の解法は、反対側からやってみることだ。 ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、
より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。 成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。
卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、 次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。
ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、 今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより
時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。 面白いと思えて、選択肢が
増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを 選ぶかなんて後で考えればいいんだ。
たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと 迷っているとする。この場合はね、
数学の方が選択肢がひろがるんだ。 数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、
経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、 数学の大学院へ進むのは難しい。
グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、 風上に向かって進もうとすると
高度を大きく失うことになる。 着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく
限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。 だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。
「風上をめざせ」。
でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、 高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。
もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。 風上を知る方法のヒントを
いくつかあげよう。 賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。
そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。 但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。
大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。 教授たちはみんな
手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を 発表している。でもね、確かに難しい考えが
いっぱい詰まっているせいで 理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように
見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。 こんなふうに言うと中傷に
聞こえるかもしれないけれど、 これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。
ある物理学者が、人文科学者の論文には、 知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものが
しばしばあると考えた。 そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、
一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。 小説を書くことは難しい。
小説を読むことは簡単だ。 難しいということは、不安を感じるということだ。 自分が作っているものが
上手くいかないかもしれないとか、 自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を
感じていないなら、それは難しくない問題だ。 ドキドキするスリルがなくちゃ。
ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。 不安を感じなくちゃダメだなんて。 そうだね。
でもこれはそんなに悪いことじゃない。 不安を乗り越えれば歓喜が待っている。 金メダルを
勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。 どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。
幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。 ただ、不安の中にも、
そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。
野望
「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」という ことだった。そして、
君は今日からそれを始めることができる。 ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。
たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと 思う。いわゆる現実社会では、
この要求はとても強い力なんだ。 しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。
やらされていることが偽物だからだ。 ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の
仕事なんだって思ってた。 だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、
学校でいい成績をあげることだと思ってた。
その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、 たぶん大人は生活のために
稼がなくちゃならない、と答えていただろう。 間違いだ。ほんとうの違いは、大人は
自分自身に責任を持つということだ。 生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を 昼間の仕事のようにあしらうだろう。
学校でなまけるということじゃないよ。 昼間の仕事のようにやる、っていうのは、
それを下手にやるってことじゃない。 その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。
たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、 自分をウェイターだとは思わないだろう。
同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。 そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。
高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、 たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに
無駄にしたってね。 君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと 思っているなら、
きっと後悔することになるよ。
これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。 ぼくはそうは思わない。
高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに
「遊んで」いたはずだ。 やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど
無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。
今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、 ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。
友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。 誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さな
ロボットに なるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。 時々食べるからおいしい。
毎食チョコレートケーキを食べていたら、 たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。
良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、 『課外活動』のことだと思うかもしれない。
でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。 チャリティの
寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、 それは難しいことじゃない。 何かを成し遂げるってこと
じゃないからだ。 何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、
コンピュータをプログラムできるようになるとか、 工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、
モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。 この手の活動は、大学入試願書に一行で
書けるようなものにはなかなかならない。
堕落
大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。 大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない
相手っていうのは、 概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、 きみの合否を決めるのは教授じゃなくて
入学管理者で、 彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。 きみがどれだけ賢いかなんて
彼らに分かりはしない。 私立の進学校が存在することが、その証明になっている。
入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。 私立の進学校は、入試に
受かるための学校であることを明示している。 でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、
ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、
君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるように なることだと思っているだろうね。
でもそれは、自分の人生を空っぽの プロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどの
プロセスに押し込めていることになる。 シニカルになるのも無理ないよ。 君が感じている不快感は、
リアリティTVのプロデューサーや タバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。 君の場合は給料を
もらっているわけでもないのにね。
じゃあどうしようかね。 ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。 ぼくは反抗した。それは間違いだった。
ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、 なにか臭いものを感じていた。
だから全部投げ出したんだ。 世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。
教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、 ぼくはこれでおあいこだと思った。
そんな授業でいい点数をもらって どんな意味があるっていうんだ。
今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。 これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、
おまえ反則しただろ、 ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。 反則はどうしたって
起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。 ただゲームを続けるんだ。
きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。 そう、きみが思っているように、
授業で習うほとんどのことはクソだ。 そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。 でも、
反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない。 だから、ただゲームを続けるんだ。
反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。 どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。
一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。 言われたからただやる、でもなく、
言われたからやらない、でもない。 かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと
考えれば 学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを 内職しててもいい。
好奇心
じゃあ、本当の仕事は何になるんだろう。 きみがモーツァルトでない限り、やるべきことはまずそれを
探し出すことだ。 やりがいのあることって何だろう。すごい発想をする人達はどこにいるだろう。
そして一番重要なこと:自分は何に興味があるだろう。 「適性」という単語はちょっと誤解を招きやすい。
元から備わった性質のように思われるからね。 最も強い種類の適性とは、ある種の問題に対する
どん欲な興味だけれど、 そういう興味は後天的に獲得するものが多い。
この考えの変化したものは、現代の文化においては「熱意」という言葉で 呼ばれている。
最近、ウェイター募集の広告で「サービスに対する熱意」を 持った人を求めている、というのを見た。
本物の熱意は、ウェイターくらいじゃおさまらないものだ。 それに熱意という単語も良くない。
むしろそれは好奇心と呼ぶのがいい。
子供は好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心は 子供のとはちょっと違う。
子供の好奇心は広くて浅い。 ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。
多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。 これは仕方無いことだ。
だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら 何もできないからね。でも野心を持つ大人では、
好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。 泥の庭が井戸になるんだ。
好奇心を持っていると、努力が遊びになる。 アインシュタインにとっては、相対性理論は試験のために
勉強しなくちゃならない 難しい式の詰まった本ではなかったはずだ。 それは解き明かしたい神秘に
見えていただろう。 だからたぶん、彼にとって相対性理論を見出すことは、 今の学生が授業で
それを学ぶことほど、努力とは感じられなかったんじゃないかな。
学校で植え付けられる幻想の一番危険なものは、 素晴らしいことを為すには自分に厳しくなければ
ならないというものだ。 多くの科目はあまりに退屈に教えられるから、 自律心が無いと全部に
出席することなんてできやしない。 大学に入ってすぐに、ぼくはヴィドゲンシュタインの言葉を読んで
びっくりした。彼は自律心が無くて、たかが一杯のコーヒーであろうと 欲しくなったら我慢することが
できなかったというんだ。
今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、 みんな同じなんだ。自分を律すると
いうことをほとんどしない。 延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようと
しても全くの無駄だ。そのうちの一人ときたら、自分の結婚式に 出席してくれた人へのお礼の手紙を
出してない。 結婚して4年経つのに。もう一人は、メールボックスに26000通のメールをため込んでる。
自律心が全くのゼロだったら困るよ。走りに行こうかなと思うくらいの 自律心は必要だ。ぼくも時々、
走るのが面倒だなあと思うけれど、 一度走り出せばあとは楽しめる。そして何日か走らないと具合が
悪くなる。 素晴らしい仕事をする人にとっても同じことなんだ。 仕事をしてないと具合が悪くなるし、
仕事を始めるだけの自律心は 持っている。ひとたび仕事を始めれば、興味の方に圧倒されて、
自律心は必要なくなるんだ。
シェークスピアは偉大な文学を産み出そうと歯を食いしばって 勤勉に努力したって思うかい。
そんなわけないさ。 きっと楽しんでいたはずだ。だから素晴らしい作品が書けたんだ。
いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する 大きな好奇心だ。アインシュタインに
とっての一番大事な瞬間は、 マクスウェルの方程式を眺めて、これはどうなっているんだろうと
自問したところにあった。
生産的な問題に照準を合わせるのには長い時間がかかる。 本当の問題は何なのかを見つけるだけで
何年もかかるかもしれないからね。 極端な例を言えば、たとえば数学だ。数学を嫌う人は多い。
でも学校で「数学」の名前でやらされていたことは、 実際に数学者がやっていることとはほど遠いんだ。
偉大な数学者のG. H. ハーディは、高校の時は数学が嫌いだったと 言っている。ただ他の生徒より
高い点数をとれたから選択しただけだったと。 後になって、彼は数学が面白いということに気づいた。
質問に正しく答えることのかわりに、自分で問題を見つけるようになってからね。
ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると 母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」
っていうんだとぼやいていた。 でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。
素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。 ただこの世界の中の、
ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。
これは学問だけの話じゃない。
「車はどうして贅沢品じゃなきゃいけないんだ? 車が日用品になったらどうなるだろう?」
これがヘンリー・フォードの発した 偉大な問いだった。フランツ・ベッケンバウアーの問いはこうだった。
京大ミス・ミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。
基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味でミスコン批判者側である。ミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプのキモい人間である。しかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通の意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。
注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的に肯定したい。この記事が特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。
11月16日に「京大ミス・ミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体は7月のようである)。
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これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。
「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由にコメントや編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b
.@kyotomissmr 京大ミス・ミスターコンテスト(京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体のコンテストについて違和感・疑問点を抱いています。生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。
正直に言うと私にはこの公開質問状の意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつの学生団体(企業が関わっているかどうかは本質的な問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザーに臨場感を提供できる」ことくらいしか得られないだろう。
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史と議論を認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題を認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似の問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生は留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなたが京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたのフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年のミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitterも存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論」などと言われても混乱するだけだ。
今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大の名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミス・ミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいます。ミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。
これは単なる団体の体力の問題だろう。7月にアカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可が必要という話は置いておくとして、京大の名前を冠しているかどうかは本質的に重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大の名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学のミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。
「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。
ちなみに「人を社会的に容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論も論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類の幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど
故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチの功利主義であることが明らかとなった。「普遍的な道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利と道徳の混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判はホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。
「容姿」という価値基準が絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大がミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、ミスコンは阻止しなきゃならん。マジで。
〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大が功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで。
今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかにおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしまう
良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画を弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的な理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである。
先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコンを功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだ。ホリィ・セン氏のツイートそれ自体が京大における 「多様性の維持」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。
さて、公開質問状に戻ろう。
突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである。
c. 所謂「女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?
大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています。
ミス・ミスターコンテストは、ほとんど容姿で判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性(男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性(男性)の中で1番」という「基準」が生まれてしまう。その「基準」は女性(男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。
同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンごときが出場者以外への特定の価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。
公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判・中傷によりミスコンは中止となった。
今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。
中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問に説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。
説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。
京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docsを作成しました。ご自由にコメント・編集下さい。 回答と議論: https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれから: https://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit
また、以下のような危うい意見もあった。
ミスコンの基盤となる差別的価値観は日常の模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト
このような発言をすることによって差別的価値観を再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。
ちなみに言っておきますけど、ミスコンの内包している問題的構造は日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンがミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコンは日常的にも起きている、というのはその通り。
同上。
moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。
以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃の意思はない。
わたしが精神科に通いつつ大学に戻るのって、傷口を消毒しながら新たに傷を作り続けているようなもので。
しかもその傷の正体が大学に住む魔物のような「なにか」かもしれないし、そもそも魔物なんていなくて、全て悪いのは「わたし」かもしれない。
ここが厄介で、世界(特に親)は、ただただわたしに優しいのに、わたしの頭がおかしいから魔物がいるだけって妄想してる、なんて医者は言う。
そんなわけない、わたしは見えるんだ、彼らの心の底から思ってることが。わたしは出来損ないで失敗作だと思ってることが。
どっちに転んだとしてもそれが怖くて傷をどんどん深くしていって、恐怖で震えるだけのわたしは、飛躍した思考で最終的に全世界にヘイトを広げて、Twitterで過激な人たちを身内他人問わずさんざdisっては、disでしか自分を守れない社会とわたしの醜さにケラケラと笑いつつ、アルコールに睡眠薬や精神安定剤を足して、クラクラしながら下品な話題をひたすらに喋り続ける。
医者が気づかないうちに処方量じゃ足りないくらいにベンゾジアゼピンに依存して、元気なうちに溜め込んでた薬をガバガバ飲んで。
社会が、世界が、そもそも社会に適合できない自分がもう嫌だから、酒飲んで薬飲んで死んでやれと思って、夏休みが終わる直前に、飲む薬の量、飲む酒の種類、アルコール度数、嘔吐せず大量にアルコールを摂取する方法、手遅れで親が気付くタイミング……と計算しながら、綿密な自殺計画を嬉々として立ててた。
しかし、全く自殺未遂とは無関係の部分で、救急車に乗ることになった。
デート中に、医者曰く「解離」で意識を失ってバスで突然倒れた。普段から過呼吸や脳貧血でよく目の前が暗くなっていたから、倒れる直前の行動も正しかったし、倒れ方もどうやらうまくて、どこもぶつけず怪我もせず、すぐ意識も戻った。
ただ、バスの運行異常だということで、わたしが意識を失ってる間に救急車を呼ばれていた。とっくの昔に意識を取り戻したわたしは、そこにヘラヘラ笑いながら乗り込んだ。テキパキと働く救急隊員の人にわたしは「ごめんなさい、こんな私元気なのに」って言ってた。
バスにはわたしが溺愛し、わたしを溺愛してくれる彼氏が一緒に乗ってて、倒れた瞬間も見ていたわけなんだけど、救急車に同乗する彼氏の手を握った。
真冬の京都でもカイロみたいな温度のうちの人の手が、凍るように冷たかった。
どっちが病人だよってまたわたしはケラケラと笑ったけど、彼の手をこんなに冷たくするくらいなら死なないほうがマシって思った。
その日から安定剤と酒を一緒に飲むのをやめた。眠れなくても薬だけにした。
自傷が治るまで気長に待つからね、お薬飲まずにいられるようになるといいね、もしも社会がダメなら一緒にカフェをゆっくり営もうね……そんなことを言われている。
そんなことを言われても、わたしは死のうとしていたんだけれども。
――誰かわたしを助けてください
結局のところメンヘラと呼ばれる人々の心からの願いはそれに尽きるんだと思ってる。
南条あやもメンヘラ神も私の友人の恋人も、現世では自分の心を救えず、救われず、薬物で、飛び降りで、死んでしまった。
そして現世で手の冷たさという救済をされたわたしは、自分に不適合な社会と社会に不適合な自分をシニカルに眺めつつ、今は安定剤のもたらす眠気と大学という現実に追われつつ、ひとまずはこの世に居座るしかないのである。
http://anond.hatelabo.jp/20150903155746
15年前くらいに、高校中退した者です。
親が説得できなかったら、奨学金など、他の手立てを頑張って探そう。
留学の手続きは本当に煩雑だけど、今すぐ取りかかればきっと間に合うよ。
今シニカルに構えるでしょう、で、多少マシな高校行けば状況違うかな、って少し思うでしょう。
全然変わらないよ。
失望が色濃くなって、ますますシニカルになって、けど周りはバカばっかりに見えるから、どんな助言も適当にあしらって、そうすると、ただでさえ薄い、自分のしたいことを、自分も他人もどうすることもできなくなって、しだいに何者でもない自分が嫌になって、自己嫌悪ばかり増していって、あっという間に輝かしいと思ってた十代は消え失せてしまうよ。
それは私のような怠け者で、馬鹿者で、皮肉屋の末路であって、元増田はそうならないと信じてるよ。
あれはもともとは国民皆兵の思想を植え付けるためのシステムだよ。
学校などで、他の人と協調することで学ぶことがある、という人が確実にいる。
それは正しい。
十代なんて、めいいっぱい自意識を高く、それに合わせて身体も飛び回らせて、かつ、性格は、ものすごくイヤ〜な奴でオッケー。
そのうち自分の嫌なやつさは、ある種の発達の遅さだということも、無理矢理気付かされることになるけど、そんなのをわざわざ自分から味わおうとする必要はなし。
・それができなきゃ元増田は私のように十代ムダにしてしまうかも
以上です。
私も、大変遅ればせながら、30歳直前にして、ようやく身体を飛び回らせてみよう、と思っている。
追記:
トラバもらって見返したら、たしかに海外万歳のめちゃ頭悪い文章で恥ずかしくなった…。
なんでもいいから、手っ取り早く分母を広げたほうがいいということが言いたかった。
万能感からでも劣等感からでも、現場に行き詰まりを感じたら、赤ちゃんレベルで扱われるようなところにいって環境をリセットするのがいい方法だと思う。
特別やりたいことないなら海外がいいのではないか、ということだったが、先走ってしまった。
でもそれなら、プログラミングでも起業でもなんでもいいのかもしれない。
とても自分の能力では敵わない!と思える環境にいると、自意識について考えるヒマもなくなって、元増田の才気がフルで活かされると思うよ。
俺はあまり洞察力もなく、思慮も深くないが、これまでの人生で「これは世の原理原則と言っても差し支えないのではないか?」と言えるほどの法則を見つけた。
それは「よく笑うやつは好かれる」ということ。
性別問わず、よく笑う人・表情豊かな人は好かれ、頼られ、仲間と認められ、出世する。少なくとも、そうなりやすいという法則だ。
好かれるやつは100%よく笑って表情豊かである、というのが成り立たないのが謎だが、人に好かれるため、人間関係を円滑にするために、「よく笑う」ことはとても有効なのだと確信している。
これはみつを的な戒めでも、自己啓発でもなく、ライフハックでもない。ただのよくある処世術のひとつだ。
笑いたくもないのに笑え、とか、終始笑顔で口角アップでモテ顔、という無理な話でもない。
ただ、相手の話に合わせて、自分でもちょっと大げさかな、と思える程度に笑い声を上げる。それだけだ。
それだけでいい。すぐに効果は現れないかもしれない。だが、それを癖付けると、周囲の反応が少しずつ変わってくる。相手と打ち解けるレベルが下る。俺はそれを実践し、その効果を少しずつ感じてきた。現時点で、その法則は成り立つ、と仮定し、自分の中では確信している。
思い出してほしい。合コンで人気のあの子は、相手の男の(どうでもいい)話にアハハと笑っていなかったか。サークルで中心人物を務めていたあの男は、お前らのくだらない笑い話にもガハハと笑ってくれなかったか。となりの部署の下っ端は、飲みの席や雑談でダハハと破顔し、愛嬌があるやつだと、少しずつ認められていなかったか。
お前らと来たら、昔の俺ときたら、そんなやつらを「なんだ大げさな。下品な。そんな低レベルの話題で笑ってんじゃねーよ」と孤高ぶって、話を振られても「フヒヒ」とか「フへッ」とか、息継ぎにしか聞こえない弱々しい笑い声を上げるしかできないんじゃなかったか。
人気者を眺めてみた。自分にとって好感が持てる人物を思い描いてみた。
どう考えても、自分が浮かべるシニカルな笑いしかできない人物ではなく、大げさにワハハと笑う男性、笑顔を見せて、口を手で押さえる女性がそれに当てはまる。自分の話題にそんなリアクションをされると、まんざらでもないんだ。きっと誰だってそうだ。
だったら俺もそうしよう。そうする努力をしよう。そう思って、実践した。
できないだって?難しいだって?クールで賢こぶってるキャラを捨てられないだって?
変われるよ、現に俺は変われた。
というネタはさておき、その法則に気づいてから、ほんのちょっと笑いのリアクションを高めてみた。
手を叩いて芸人のように笑うのは上級者しか許されぬ行為だし、現状との落差が大きく、ともすればDQNっぽく下品になるのでオススメできない。「フヒヒ」を「わはは」に変えるだけでいい。笑いたいときに、少しだけ大げさかな?くらいに笑ってみる。慣れないうちは違和感を自分にも相手にも与えるだろう。でも恥ずかしがることはない。素直に面白いと思ったら笑うんだ。それが相手を受け入れているというサインになる。自分にとっても、相手にとっても。最初は少し大げさに。続けていると慣れてきて、スタイルになる。それが継続的なサインになる。
結果、昔の自分よりは社交的になれたし、コミュニティにも打ち解けられたと感じている。初対面の相手であっても打ち解けやすくなった。気に入られることも増えた。仕事もうまくいくようになった。営業やプレゼンで結果を出せるようになった。
なぜこんなことを書こうと思ったかというと、最近「ブラタモリ」を観ていて桑子アナのリアクションがその法則を理想的に体現していると感じたからだ。あの笑顔、あの佇まい。タモリが面白いことを(たとえひとことでも)言ったあとに見せる笑顔と笑い声。作り笑いには見えない。毎回変わる案内人の一言にも応える笑い声。きっとみんな彼女をスキになるだろうと思う。その秘密はあの豊かな表情と笑い声だ。
俺自身、かなり彼女をスキになっている。恋愛対象としてではない。秘書にほしい。友だちになりたい。そばにいてもらって、話を聞いてもらいたい。同僚として笑いあいたい。そんな妄想が一気にほとばしる、すばらしい存在である。ぜひ番組で確かめてほしい。番組公式の写真からしてヤバイ。表情豊かすぎる。
他に好例を挙げるならば、「水曜どうでしょう」の藤村くんだ。大泉洋の話に律儀に笑い、出演者と視聴者の笑いを引き出す。カメラを超えて無遠慮に聞こえる「ガハハハ」という笑い声。彼のその姿勢は「水曜どうでしょう」が愛されるコンテンツになった大きな要因の一つであると確信している。無論、大泉洋の笑い声も素晴らしい(ただし真似するには大げさなので要注意)。
出演者は気持ちいいだろう。視聴者も気持ちいい。ガハハと笑ってくれる人。自分がそうあってもいいじゃないか。
笑わない桑子アナ、笑わない藤村くんが想像できないように、笑いはその人のキャラと雰囲気を容易に彩るファクターだ。それも、高い確率で、ポジティブに彩るのだ。それにより、あなたは今より少しだけ、世界に愛される。
その法則が分かったら、明日から、ちょっとおもしろい話を聞いたら、素直に笑い声を上げよう。シニカルなキャラ?世界への失望?そんなもの、快活な笑い声の前にはちょっとだけ薄まるだろうよ。
無理して手を叩いて笑おうなんて思わなくていい。つまんない話に無理して笑うな。
面白かったら、ちょっとだけ大きく笑う、それが鉄則だ。自分が面白い話なんてしなくていい。人の話に、心を込めて、素直に笑うんだ。常に笑ってる必要なんかない。
やがて、笑う門に福が来る。たぶん来る。
俺はあまり洞察力もなく、思慮も深くないが、笑いあう世間もいいもんだ。そう思う。
書きなぐった増田にたくさんのブクマ、コメントがついて大変うれしいです(ニッコリ)。
80ブクマ超えたあたりでキャズムを超えて、500ブクマ超えたあたりで人気から落ちて落ち着いた感じ。
話が長くなってすみません。おっちゃん話が長いんや。同じこと何回も書いてしまう。気をつけます。
もっと叩かれたり異論があるかと思っていましたが、同意いただけるコメントが多くほっこりしています(ニッコニコ)。
桑子アナかわいいよね~。大物になると見抜いた人がいた、なんてトラバあったけど、そのくらいのポテンシャルがある。
ヘラヘラ笑うのではなくて、笑いたいときに気持よく笑いましょう。自分が好きな笑い方ってあるはずなので、真似してみようぜ。
ではまたどこかの増田で。
ただひとつ言わせてくれ。
出すんだったら医療系だったな
医療系は実際妙なことが立て続けにおきてもそんなの構ってられないから放置するけどな
シニカルに言って理系がいちばん不思議を信じてるって思ってるんだろ
①不思議を当然のこととする日常を描画している様子を見るのが好き
②当然とするべき事柄を当然と受け止める立場からみた超常的な空想が好き
③関連性のない事柄を混ぜ合わせると新しい認識が生まれるという空想好き
⑤’破壊された事柄について他者が再構築に勤しむ姿を傍観するのが好き
最近まったく見かけない
⑥無知なものが世界を認識していく空想が好き(古い童話作家タイプ)
もあるが ほんとこれは絶滅したな
2. 暗い子ども時代を過ごした田舎生まれの根暗優秀はてな民の怨嗟
5. 横溝正史の読み過ぎ
9. 田舎=アウトドア、という短絡的なイメージを持つインドアもやしっこの勝手な恨み
11. 「田舎ぐらしっていいよね!」系エンタメの価値観に対するシニカルな視線
13. 田舎で何か嫌なことがあった
14. 肥溜めに落ちた
15. 被曝した
16. 大量殺人鬼に出くわした
17. 羆に殺されかけた
18. ある村に迷い込んだら不思議な力により出られなくなった
19. 田舎の家に泊めてもらえれば、その家の娘(処女)にサービスしてもらえるという雑な藤子不二雄A的期待感で行ったけどなんもなかった
21. 天狗が出る。
こういったことを書いたのが2年前。
で、yahooなんかだと最近一部ニュース記事に対するオーサーズコメントなんて物が見られるようになった。
その中にはやはり最近yahooの個人ニュースに進出した昔よく見ていたサイトの管理人さんの名前があったりする。
昔はマイナーネタを興味深い視点で面白おかしく伝えてくれた人のコメントが、どうにもある種の「大衆」に媚びたようなやたらと厭世的かつシニカルで、しかしごくありふれた陳腐な物に見えてしまうのだ。
しかも時事的に衆目を集めそうな記事ばかりにそれがあるのだからたまらない。
もちろん個人ニュースに出て来たってことはより知名度を上げたいのだろうし、
となれば、やはりみなが期待するようなあるいは強烈に肯定されそうな、そういったコメントになるのも仕方ないだろうとも思う。
ちなみにこれはyahooだけでなくtwitterやfacebookコメントを受け付けているニュースサイトではよくある「事件」だ。もちろん以前書いたようにはてブも。
そもそもこれは私自身に起因する問題で彼らは全く変わってなく、私自身の変質、一種の中二病とか高二・大二病みたいなものなのかもしれない。
それでも彼らのコメントの中にある、なんというか何かに対する漠然とした攻撃的なニュアンスに、私はなんとも言えないいやな気分になってしまうのだ。
あるいはただの自己憐憫なのかも知れないけど。
原爆なんて、原発なんて、最初からなかった—全体主義に怯える西洋の知識世界が総力を挙げて案出した虚妄の世界から脱出し、全人類を解放せよ!!
2015/4/25追記:ネタですた。詳細はぶくまこめ参照
SAOの色んな感想を見ていて気づいたんですけど、大雑把に分けて
まぁ、要はポジティブ思考かネガティブ思考かってところでしょうか。
前者の人は、ネットはそもそも悪意やネガティブな空気に満ちた空間であり、切り分けないとネットの悪意に現実の自身の人格が影響をうけるため切り分けることが良策であり、懸命だと考えている。
後者の人は、ネットを現実世界の延長上に考えており、悪意もあるが善意もあると考えており、きっちり使えば毒にもなるし、薬にもなると考えている。
ALO編キリト
殺したければ殺すし、奪いたければ奪う。
そんなふうに言う奴には、嫌ってほど出くわしたよ。
一面ではそれも事実だ。俺も昔はそう思っていた。
でもそうじゃないんだ。仮想世界だからこそ、守らなきゃならないものがある。俺はそれを大切な人に教わった。
GGO編シノン
「ええと……キリト、あなた言ってることがこのあいだと違うわ」
「え……?」
「仮想世界なんかない、ってあなた言った。その人のいる場所が現実なんだ、って。VRMMOゲームは一杯あるけど、その世界ごとにプレイヤーが分割されてるわけじゃないでしょ? いま私のいる、この……」
「この世界が、唯一の現実だわ。もしここが、実はアミュスフィアの作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実……ってことだと思う」
キリトは目を見開き、詩乃が気恥ずかしくなるほどの時間、ずっと視線を合わせていたが、やがて珍しくシニカルさの欠片もない――と見える――笑みを唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
上記の2つの台詞は共にSAOのテーマの根幹に関わるわけですが、後者(=キリト達)は電脳空間を現実の延長上にあると考え人格を分離させていません。
前者の人はALOやGGOで本気になったりトラウマを解消するという行為を個人を分離させずに社会的な自分をだすのがどうも馬鹿馬鹿しいと考えがちなようです。
この類の人はシノンがトラウマを克服するのにGGOを使用したり、ユウキの死に際にネット内で集まったりするのが馬鹿馬鹿しいと考える。
まぁ、ユイのパパ・ママ呼びが嫌いでSAOが合わないとかはあるようですが、根本的なところではどもう上記の2種類の対立をそこかしこで見かける。
ということは、YMO系ということだね。
このあたりの80年代的シニカル感覚っていうのは。およそ魂の叫び的なものとは遠く、小林克也先生の
「きんさいきんさいハワイにきんさい」
みたいなものも含めて、本気でやりたい人達から見れば、なかったことにしたいという感じがつかめてきた。
内藤理恵子 のブログ: 後藤明夫『Jラップ以前』+SEGA・ソニーの1996年作品+DAGANE
でも、その辺の感じが読み取れる。
書いてみるもんだね。いろいろ参考になった。
でも、行き着いた先が、母ちゃん有難う、俺本気でリスペクト、でよかったのかどうかはまた別の話なんだろうけど。
大学で友達ができないことを、まぁ俺が悪いんだろうな、でも無理して周りに合わせることもないし適当に生きるわHAHAHAと、そう重要な問題でもないと捉えてやってきたのだけれど、事の原因となる精神上のバグは結構看過できないんじゃないかと思えてきた。
僕は物事をメタ的に考える癖があって(この文章もそうなんだけど)、何に参加するにしても、何を見聞きするにしても、務めて客観的に判断しようとしてきた。そうすると、どんな物事にもある長所短所を明確化してしまい、それをリターンとリスクに置き換えることで心の天秤にかける癖がついてしまった。するとリスクが怖くて一歩が踏み出せなくなって、でもそんな臆病な自分を認めたくなくて、結果的に物事をシニカルに批判することで、それをしようとしない自分の立ち回りを正当化してきた。
もちろんこういう態度は少しずつ改めなければならないと思うのだけれど、友達ができないことと性格を結びつけたとき、やっぱり「あんな遊び方をする大学生はアホだなぁ」と、見下して、滑稽にも自分の精神的優位性を何よりも大事に大事にしてきたのかな、と思っていた。
でも本当にそれだけが原因なのか?と感じたのは、何をしても楽しくないと気付いたときだった。
いつものように分析的になる前に、いや、よく考えなくてもやっぱりこれは楽しくないなと思ってしまったのだった。要するに今まで現状の原因は全て自分の自己形成にあったのだと思っていたのが、やっぱり先天的に集団に向いていないのではないかと思い返さざるをえなくなったのだった。
昔からなんとなく、僕は人に媚びるのも媚びられるのも嫌いだった。友達が描いた絵よりも雑誌で見る絵のほうがかっこよかったから、なんだか友達を褒める気になれなかったし、友達から来た内輪ギャグメールにも対応する気になれなくて全て無視してしまっていた。よく言えば、自分の中の評価ラインを持っていて、身内だからといって贔屓しようとは思わなかった、のかもしれないが。
けれども友情は相互承認から生まれてくるものだと思うし、相互承認の自覚も必要なのだから、きちんと承認を伝え合わなければいけないと思う。
さて、表題なのだけれど、自分が集団や相手に愛着を持てない原因は自己形成なのではなく育ち方にあったのではないかと、別方向の考え方を提供してくれたのが「愛着障害」という本でした。同じように悩む方は是非読んでみるとよいと思います。
例えば母親をなくした人が、例えば安心できる家庭環境になかった人が、愛着の持てるものを幼少期に与えられなかった人は愛着障害に陥り、過度な人間回避又は他者依存に陥るのだという。その他にも重度のトラウマを抱えたり、親に褒められたことがなかった場合など、多岐に渡るケースが取り上げられているので参照されたい。
要するに、まぁ前半の僕の自分語りはほんとどうでもよくて、すみません、人間関係で悩む方は自責するばかりではなく、別の視点からの問題を知ることで、解決に役立てればよいのではないかなと思いました。
最後に、この文章は結構痛くて、中二病っぽいんだけど、僕としてもそうであってほしかったというか、他人と違う自分を誇らしく思っていた時期もあったのだけれどそれは自己韜晦の上に成り立つ特異感だと思っていたからであって、いざその時期を過ぎると本気で悩みの種にしかならなかったのです。そういうことってありませんかね?
みんな『SAY YES』だの『YAH YAH YAH』だの、大喜利のネタがいかにもありきたり。確かに『SAY YES』とか『僕はこの瞳で嘘をつく』は汎用性高いけど。
ということでファン歴5年(つまりほぼ新参だけど)の俺が、ASKAの曲の中で、薬物疑惑と絡めて聴くと味わい深い曲を紹介します。
自分達を犯罪者になぞらえて、もう後戻りは出来ない、俺たちはひとつに結ばれちまってるぜ、このまま進もうぜーと歌い上げる。
今聞くともう、薬物中毒でありながらCHAGEandASKAにとってなくてはならない存在であるASKAが、CHAGEや事務所の人間に語りかけてるようにしか聞こえない。
もう出だしが良い。
びくびくするな 顔を変えるな
何もなかった そのままでいい
誰も思わない 聴かれもしない
すべてを認めるな
今まさにこんな感じなんじゃないんですかねえ。
これに続く、
手抜かりは掃いて捨てるほど
あるにはあったさ
それでもここまで潜り抜けてきたさ
サビの
とか、CHAGEや事務所の人間が今聞いたらどんな気分になるんだろうと思う。
とりあえず俺は本当にこれぐらい開き直ってほしいと思ってる。
一番目のサビはそうでもないんだけど、
二番目のサビがいい。
Nothing will ever change. We are the ONE
俺たちの鐘の音がどこかで鳴るはずだ
Cracking open the cage. Close to the line
俺たちはひとつ名で結ばれちまってるよ
ケージ(直球)
開けるんですか。
いや、実際にはあけられないんだけど。クラックっていうか多分ただの保釈だけど。
そして、それに続くフレーズがこの曲で一番強烈だと思う。
だってまあ、CHAGEandASKAだもんね……J-WALKとかラッツと違うもんね……ふたりの名前堂々と載せたんだもんね……。
Ah みんなこっちだよ 素敵なとこだよ
出だしド直球
Ah みんなこっちだよ 他人同士さ
汗の出所と来た。
結局は尿でしたけどね。
楽しんだ人が勝ちです 怒った人が負けです
(略)
口を汚すケーキのようなもんだよ
納得する人は少ないかもしれないけど、この曲、何か詞の調子が『パラダイス銀河』とかの頃に戻ってる。変な敬語で。
これを歌ってる光GENJIとかアリだと思いますがどうでしょうか。
で、サビ。
みんなで行こう 仲良しこよしで行こう
裸足で行こう 行こう 行こう
何にそんなうきうきしてるんですかねえ。
この曲、詞がシニカルな分、メロディをポップにしたとASKAは語ってたんだけど、もう残念なぐらいマッチしてる。
そのピークがやはりこのサビ。
極めつけはCメロ
刺激好きですジャパニーズ
ブレーキなかったんだね(悲嘆)
一部週刊誌では渡英したときに薬物を覚えたとされてたけど、この『ONE』こそはASKAのソロアルバム唯一のロンドンレコーディング。
本場でキメてはしゃいでたんですかね。
と。こんな感じで、将来きっと『夢の中へ』に並ぶことになる名ネタ曲だと思う。
最後に言っておくと、
ASKAの詞はだいたい、クスリ決めながら書いたとか言われても仕方ないぶっ飛び方のものが多い(実際キメて書いてたの曲があるのか、それがどれなのかはもちろんわからん)。
コード進行も笑えるぐらい複雑だし。
薬物騒動を面白がってる初心者はどれ聴いてもげらげら笑えるはず。
まあそういう奴らを全員殺してやりたいけど今は我慢してやる。
他に味わい深い曲を聴きたいやつは、
『kicks』に入ってる薬物について直接言及してる『kicks street』を抑えるといい。
後は、最近の曲である『いろんな人が歌ってきたように』とか『birth』を聴けば良い。
2000年代後半以降のASKAは輪廻転生だとかめぐりあわせだとか宗教じみた思想を取り入れた末に、「すべては愛なんだ、君も認めたっていいだろう」と繰り返す地獄に踏み込んでた。