はてなキーワード: 自傷とは
田舎で、車がないと生活がものすごく不便な場所で育った。電車は走っていたけど運賃がとても高かった。
14歳から自傷行為を始めた。母独裁の機能不全の家と学校での孤立がトリガー。
19歳から精神科に通った。週1回の通院が必要な状態。度重なる自傷行為で鉄剤を処方されるような貧血。母との関係は最悪。貧血と精神科の薬の影響で、バイトは半年も続けられない。
20歳で初めての自殺◯遂。トリガーはお金がなく、国民基礎年金が払えないことだった。世間では社保庁の使い込みが話題だった頃。
24歳で発達障害が分かった。作業所に通うようになっていたけど、通院頻度は相変わらず週1回から減らない。自傷も不眠も続く。母との関係も変わらない。親が負担してくれるのは通院費と住民税やら市民税やらの公的なところ。
国民基礎年金は猶予制度を使った。ハロワは家から遠く、片道800円の電車賃が出せなくて通えず。職業訓練とその給付金は親の収入がそれなりだったため利用できなかった。車の免許はお金が出せず、また親の反対もあって取れなかった。
28歳で障害基礎年金を受給し始めた。手続きは全部自分でやった。診断書料だけは母を拝み倒して受け取った。この頃は自分の口座残高が312円だった。
服もカバンも穴が空いて、下着はサイズが合わないものを使っていた。親は海外旅行に行っていた。兄弟はブランド品を買っていた。
29歳でグループホームに入所した。元手は一年貯めた障害年金。通院頻度はまだまだ週1回。これでやっと生活を立て直せるはずが、ホームの運営がどうも杜撰。
突然利用料が値上げされたり、面談の日にちや時間を間違われたり、無理やり引っ越しさせられたりした。いつ住む場所が変わるか分からないし、お金がないので1日1食、着るものも満足には揃えられない。衣食住すべてが不安定。
身長163センチに対して体重は46キロ。しょっちゅう熱を出して風邪を引いて寝込んだ。住民税やら何やらの公的な分は払えるわけもなく、住む場所は離れても親の世帯からは出られなかったため生活保護も申請できなかった。
もとより親の職業が社会的地位としてそれなりのため、申請しても通らなかった可能性のほうが大きい。
33歳でグループホームを出た。通院頻度はまだまだ週1回。軽量鉄骨のアパートに部屋を借りた。とはいえ名義は親だった。帰ってこいとは言われなかった。世帯を出ろとも言われなかった。この頃後の夫となる人と出会う。
最低賃金を保証してくれる作業所に入れたが、法をかいくぐって弱者ビジネスをやっているような場所だった。生産性のない作業で補助金を吸っているような場所。何度もいじめのようなことをされて状態が悪化。貯金も体重も増えない。
35歳で障害者雇用枠のパートについた。通院頻度は週1回から抜け出せない。客からのつきまといに悩んだ。体重は少し増えたが貯金は全くできない。
37歳で「もういい、もう頑張ったよ。これからはボーナスステージってことで、もういいじゃん」と言われて結婚した。その翌年、通院頻度は2週間に1回になった。体重も50キロを超えることができた。
42歳。現在。洗濯をして、掃除をして、買い物に行って料理をするだけの毎日。子供はいない。通院頻度は月に1回になった。
時々、この20年で縁が切れてしまった友人や、私と同じような状況で未婚の人のことを考える。余計なお世話かもしれないけど。
できるだけ簡潔にまとめようとしたけど、やっぱり難しい。20代の、文字通り血みどろの毎日と、30代の福祉制度に振り回された毎日はそう簡単にまとめられない。
書いてないけど結婚するまでの間は暴力や給料未払い、20歳の時以外の自◯未遂も多々あった。必死に生きてきたというより、死なない(死ねない)だけの毎日だった。
今日、厚生遺族年金のあれこれを見て久しぶりに落ち込んでしまった。私のケースだと、週1回精神科へ通院が必要な発達障害持ちの人間が、どうやって厚生年金に入れただろうかと思ってしまう。今だって睡眠薬がないと眠れない。
遺族年金が有期給付になって、夫がいなくなったら私はまた死なないだけの毎日に戻ってしまうのだろうか。せめてその時までに安楽死制度が整っていれば良いんだけど。
今は毎日穏やかだけど、時々、特に今日みたいな日は生きててごめんなさいという気持ちになる。
ごめんなさい、生きてしまって。
素直に海外旅行いきまちた、バックパッカーやりまちたやれば良いのにな
あとこれも再放送
で、下記に該当すんの?
しんど目の知的障害がある、カッとなったら人殴る・壊す・自傷する、虐待やいじめにあった
ブクマカやブクマ狙い嘘付き増田みたいなのが増えたら、マジで障害者手帳出なくなるぞ。下記みたいに厳格化される
絶対知的障害ないとダメ、絶対二次障害ないとダメ、絶対自傷暦・犯罪歴ないとダメ
嘘つきに言いたいこと
マジで発達障害のみでお仕事に困るレベルなら、学習障害や学業不信・成績不良の方で、まず引っ掛かるのですわ
あるいは発達障害で周囲とのあれこれで発動してしまった重たい二次障害、鬱病とか統合失調とか境界性人格障害とか社交不安障害(SAD)の方で引っ掛かるのですわ
上記のどちらでもないのなら、『発達障害だからお仕事困るんでちゅ~』『お友達関係困るんでちゅ〜』は端的に言えば嘘ですよね?
接戦が予想されているならともかく、どう考えても勝てる候補者が見えている中で負け確の候補者をなんで血眼になって応援するんだろう。最後は必ず惨めな気持ちになるんだよね?まるでDV男に依存してる女みたいで正直意味がわからない。
自分は選挙ではかならず勝てそうな候補者や与党を応援している。日本では自民党が与党でなくなることなんてこの先ないからどんな選挙でも気持ちよく過ごす事ができる。いくつかの選挙区の中で負けたとしても与党である限り「勝ち」であり野党は「負け」ってことは揺るがないんだよね。この応援の仕方をすれば必ずスカッとした気持ちで終われるのに、与党以外を応援士てる人って自傷癖持ちとかなの?(苦笑)。勝てない候補者を応援した人は今晩は涙で枕を濡らすのかな?このまま死ぬまで枕を濡らす人生を続ける意味とは...
で、下記に該当すんの?
しんど目の知的障害がある、カッとなったら人殴る・壊す・自傷する、虐待やいじめにあった
ブクマカやブクマ狙い嘘付き増田みたいなのが増えたら、マジで障害者手帳出なくなるぞ。下記みたいに厳格化される
絶対知的障害ないとダメ、絶対二次障害ないとダメ、絶対自傷暦・犯罪歴ないとダメ
上記のどちらでもないのなら、『発達障害だからお仕事困るんでちゅ~』『お友達関係困るんでちゅ〜』は端的に言えば嘘ですよね?
極端に苦手で<やりたくなかったからやらなかっただけ>で、別にやった人は発達障害でもできますよ
発達障害でも主婦もシェフも大工もスポーツ大好きもおしゃれ命もいる
だから、発達障害だからまったく料理できませんとか、発達障害だからまったくDIYできませんとか、
発達障害だからスポーツ出来ませんとか、発達障害だから人会わない時は顔も歯も洗いませ~んとか、
そういうこと言ったらフツーにブチ切れなのに、
途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が必要な特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。
また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと。
これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳を挫折する原因になったということ。
また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係を破綻させてしまったこと。
そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に、特性について適切なケアやトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。
これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分の特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記の不安に拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。
そして、冒頭の「あなたの言葉は感情を説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習を強要された経験から、自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。
また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳でパニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのは、あんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。
これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。
両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である。
上記の事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。
ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイトと精神的にまったく連帯できない状態でスパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。
そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケアは定型発達の子ども以上に必要で重要なことだったのだろうと思われる。
私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケアや社会的トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である。
正直なところ。
母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。
しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。
ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。
タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。
結論から言うと父はリストラを免れ、我が家の経済危機は回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。
父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。
悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。
母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランスな性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。
これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親からの被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的な加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係が破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解の可能性がないわけではない。
それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである。
これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。
ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分の恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。
ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者の予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。
ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である。
当然、持っていく予定である。
プラダリアの取捨だれかおせーて。
それはそう。
カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。
少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。
べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。
何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。
自分は言語理解が比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分を説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。
その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間はレトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
少しでも怯むとダメージ出力がガタ落ちするので、3射1突を5セット安定させたい
そこでこの7.5秒間を完璧にカバーできるのは、以下の3パーツだけ
鍾離は中断耐性じゃなくてシールドなので割られる可能性はあるが、魔偶3体直撃でもない限りほぼ問題ないのでOK
トーマはじめ他のシールダーは、仕事はするが「絶対中断されない」度合いは低い
ただしこの中で行秋+北斗に関しては、どうしても感電主体になってしまうため伸び悩む
激化もいけるんだが、激化まじりならセトスの方がフリーナ・ナヒーダ・白朮でいいダメージを出せてしまうし、1怯みくらいなら主力の重撃4発は打ち切れる、操作感も楽しい
クロリンデだと怯めば劣るから鍾離・フリ・ナヒで安定させればいい線はいくが、リンデ以外が自傷でジリ貧になる
クロリンデをキャリーするのにもっとも適した編成と思われるのが、シュヴルーズ・ディシア・裟羅
ディシアの完全中断耐性は9秒間だが、射撃7.5秒はなんとかカバーできる
ただしCTが18秒あるので、ローテを18秒ちょいにする必要がある
裟羅の爆発始動で射撃に入れば時間差バフにより7.5秒はほぼカバーでき、その後戻って裟羅スキルでバフを再付与からリンデ爆発を撃つことでローテを合理的に時間合わせできる
ただ、今度は裟羅爆発のCTが20秒というのが問題になるが、そもそも爆発重くて溜まりにくいので、2回に1回で妥協するというのでも十分か
バフ乗ってない状態で開幕にぶっぱなしても銃撃後には溜まっているので、開幕爆発からシュヴ爆発もしくはディシア爆発で過負荷を起こしてから、マグナムブレット消費でよさそうだ
開幕チャージ足りてない場合は裟羅のスキルを接近から当てて雷付着させる必要がある
ただ裟羅入りのローテは煩雑で面倒な向きもあり、その場合はフィッシュルでも良いとなる
より単体向けの性能になるが、単体なら耐久枠がトーマでも足りて通常15%バフを活かせるかもしれない
が、ディシアでも千岩4を起動できて松韻を(所持者なら)持てるという利点があり、個人的にはディシアの方が快適に感じる
医師以上に当事者としてリアルな知識があるため、同じ発達障害者はかなりの精度で見抜くことができる。
マフィンの件で問題になっている人は、私と同類、つまり発達障害だと推測する。
発達障害者は客観的な視点が弱いため、あのような身なりをしないし、チラシの書き方も明らかにソレだ。
しかし、「障害の話はタブー」「障害者扱いするのは良くない」などの的外れなお気持ちリプライがツイッターで飛んでくることがある。
そういったリプライには丁寧に障害のことを説明しているが、私はIQが平均より非常に高いため、伝える言葉がつい難しくなってしまい、相手に伝わらないことが多い。
私自身が一番障害の特性を理解し、知識も持っているのに、何も知らない定型発達の健常者は理解できないようだ。
障害をタブー視することは障害者に失礼だし、早く障害に気づくことは今後の人生に良い影響を与える。
障害については本人が不自由に感じていなくとも、周りに害を与えてしまうことがあり、その結果刑務所に行くことが多くある。
特にクソリプ送ってくるやつ、私は自傷衝動や自殺願望があるので、自分が送った文章で人が死なないか、自分が訴えられないか、よく考えてから発言してほしい。
追追記:何が怖いって「無責任に逃げろ」って言ってる俺より、3人の子供を確実に殺せるように別室に移動させて順繰りに絞め殺した奴に共感してるとこなんだよね。
子供がどれだけ親を信じてくれるか感じた事がないんだろうな。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d14dc3a4ae208d852841e604706cb8d7a0afdf24/comments
「育児に悩んでた」「追い詰められていた」ってあるけど、そこと子供を殺すことに論理的な整合性ないよね。
自分が母親に相応しくないと思ったら、押し付けて逃げたらいいじゃん。旦那もいて実家もあんだからさ。
産後うつの治療を何年も前に辞めてるし、自己申告でしかない。母乳への影響考えるなら粉ミルクでいいだろ。
責任感とかですらない。子供らは誰かの人生壊したりしてないんだから、わざわざ排除しなきゃ行けない理由ないし。
そもそも保護者の第一の責務ってまず子供の生命を守ることだからね。
警備員が自分の仕事果たせないからって施設に放火したら「責任感からやった」とはならんでしょ。
愚痴聞いてくれる実父と家事をサポートしてくれる義母がいてワンオペってことも無い。
まぁおかしいやつがおかしな犯罪おこしただけだから、この事件自体が全体の傾向を指すような証拠にならないと思う。
共感してる人の多いこと多いこと。
ちょっとした共通点から、おかしな自分語りが始まるのは仕方ない。人間は自分のこと語りたいし、これは害のない欲求ですわ。
自分語りから加害者叩きに繋げたコメントが高評価なのかと思ったらそんなことなくて、加害者に同情しっぱなしで終わりがち。
そんなことある?
こいつワンオペじゃないのに、ワンオペで育児してたおばさん(のようなやつ)まで同情しとる。
なんと言うか、まともな感性してたら、吐き気を催す邪悪にしか見えないよね。
だって自分より圧倒的に弱い相手を、信頼関係を使って騙し討ちにかけたわけじゃん。
しかも子供って親がなにしても大抵愛してくれるから、自分で築いた信頼関係ですらない。
こんな邪悪な生き物に、「自分も子育てで苦労した」くらいの感覚で共感してる。
犯人も子供に「ママと一緒に死のう」って話もしてない風じゃん。
1人1人場所移して絞め殺す判断はできるのに、自分は刃物で手首かいて洗剤ゴクゴクってなんだよ。
隣で首吊れば良いだけなのに。
敢えて子供たちと違う死に方選ぶのって、自分は死ぬ気なかっただろこれ。
「ぼーっとしながら子供を一人一人絞め殺しました、自分は目の前の凶器は触らずにいつもの死なない方法で手首を傷つけました、でも死ぬ気でした」ジョークか?
思い通りいかないガキども殺して、殺したストレスで自傷しただけだろ。
弁護士の入れ知恵なんだろうが、この後に及んで罪を軽くしようとしてる。
横恋慕したストーカーが相手強姦して殺した気持ち悪さより上なんだが。
全てこいつの頭の中のストーリーで、他人が自分のストーリーの登場人物でしかない。
一般論では母親って共感能力高いらしいが、子供の気持ちにはなれないのか?
珍しくジャンクフードを母が食べさせてくれて、ちょっと良い日だと思ってたら、3人姉妹一人一人別の部屋に連れてかれてく。母親だから不安に思ったりしなかったろうが、そこで抑え込まれて首絞めて来たんだろ。動けなくなるまで。
産まれた時から一緒で大好きで最近悩みがちな母親が、全力で自分を殺しにくる悲しさとか訳の分からなさとか、何分の一かでも想像して胸にこないか?
しかも1人目で後悔して辞めるとかじゃなくて、3人立て続けに殺してる。この嫌悪感がなんでこんなに共有されないんだ。
求刑が死刑じゃないのもおかしいと思うが、法律はわからんから置いとくとして、なんで同情できる奴がいるんだよ。
ひたすら自分の思い込みからくる、営利目的ですらない身勝手な殺人だろ。
俺がおかしいのかこれ。
たまたま拘りの強い母親の元に産まれて懐いたら、子供絞め殺す母親より同情される価値がないのか。
追記:
恋愛感情持ったことないやつはあんまおらんと思うが、ストーカーになろうと思ったやつは殆どいないだろうし、ストーカーに共感しないだろ?
「生活に潜んでる感覚だけど、味方になりたくない嫌悪感」をキモいって言った。コメントで同意してるやつも、悪い事だってのは重々承知だろ。
一応言っとくが「キモいとは」を説明しただけで、ストーカーは社会が産んだとかそんな話はしてないし思ってない。もののたとえだから、喩えから出てきて話をしてくれな。喩えだからストーカーじゃなくて何でも良い。
子殺しほんとに気持ち悪くてなんで擁護できる奴がいるのか理解できん。共感能力とかそんな話じゃねぇだろ。気持ち悪いわ。
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この犯人が3人殺したのは社会のせいでも何でもなくて、こいつが無能でバカで妥協を知らんせい。一人相撲で勝手に悩んで他人を傷つけただけ。
義母が定期的にきてんだから、母であることを辞めれたろ。全部捨てて新天地に逃げたら良かった。