世の中には有象無象のネット記事や本やテレビ番組やその他諸々がある。そういった物から「正しい情報」を引き出す能力を磨くためにも皆人生で一度だけ「のばそうと思って」ブログを書くべきだと思う。
人生で一度だけでいい。それも2週間もやれば十分だろう。それ以上はいくらやってもアフィリエイト収入がガッポガッポでもなければ人生において大して得にはならない。
「のばそうと思って」ブログを書くと本やテレビを作る人間の心の中にある汚い面が自分の中に生まれてくるのが分かる。
自分の作ったものが素晴らしい物であるかのように見せたい。その為なら受け手を騙す事も厭わない。適度に炎上するぐらいの方が注目を集められて得な気がする。誰かを叩くことで共感を得よう。何となく得をしたという気分で帰らせるために悪い所は書かないでおこう。だけど他の大手が既に悪い所を隠した記事を書いていたら自分は悪い所を曝け出しまくった記事を書こう。よく分からない所は曖昧にごまかして受け手が想像で補って凄いと勘違いしてくれることに期待しよう。受け手が自分に都合が悪い解釈をしたらソイツの頭が悪いせいだ俺は悪くない。
こういった自分の作った物で衆目を集めたい人間の持つ卑しい部分が、「のばそうと思って」ブログを書く経験をするとはっきりと見えるようになる。
すると今度からは本や記事を読んで「なるほど、この辺りはよく分からないから誤魔化したな」「ふむふむインパクトのある記事タイトルが釣りであるとバレるのをギリギリまで引き延ばしたいようだ」と言った事を今までよりもハッキリと深く正確に考えられるようになる。
それは大きな財産となるはずだ。
皆、人生で一度だけでいい「のばそうと思って」ブログを書いてみて欲しい。
あ、それと一度がっつりブログを書こうとすると自分の文章力のなさにも気づけるぞ。現代人は何故かこの文章力って奴に関しては自惚れやすいようだな。
紙の本が大好きだ。
だが手汗が酷い。すぐ指紋が付く。雑誌や写真集のちょっと良さそうな紙の真っ黒なページに付くと非常に目立つ。
手汗が気になるあまり、写真集や画集みたいなものは買っても何回も見返すことができない。
読む前に手は洗う。きっちり拭く。基本的に側面と言ったらいいのか、面じゃない部分で頁をめくるように気をつけている。
でもやっぱり、うっかり触ってしまった頁にはうっすらと指紋が浮上がる。
電子書籍じゃ物足りない。大判の本や見開きのほうがサイズ面でも迫力があるし、画像を拡大するのと紙媒体をじっくり眺めるのは違う。
この間、ちょっとした立食の会に参加したのよ。
そこには会社の偉い人も来てて、でも仕事の話は抜きで、食べ物と飲み物を楽しみましょうというもの。詳しくは聞かないで。
偉い人は積極的に皆に話しかけてる様子だったのね。自分も話しかけられた。
でも全く接点も無いし、何を話していいのかわからなくて
本日はお招きありがとうございますとても楽しんでおりますーくらいしか言えなかった。
面白い話ができない時は聞き役になればいいとか言うけれど、相手が色々質問してくれるんだよ。
「あれ?ワイン飲んでないの?今日のワイン美味しいよ?」→「すみません、アルコールが全くだめで…」→「あ…そう」
「さっきの○○さんの話どうだった?」→「とても興味深かったです。私も☓☓が好きなんですよ」→「あ…そう」
こんな感じ。
まあ相手がつまらなそうにしてるのがひしひしと感じられたよね。
そう思って色々聞いてみたけど話が全く続かない
「このローストポーク美味しいですね」→「そうでしょ、僕これ好物なんだよ」→この後なんて返せばいいの?
もう何を言っていいのかわからない。わからないのでとりあえず相手を褒める。もちろん突然無関係な話を始めるわけではなく、グルメですねとか美味しい物が食べられてとても嬉しいですとかそんな感じで。
会の途中で一緒に話をした数人は、本当に話が面白かった。
私が話すと「お前の話なんか興味ないよ」って感じなのに、彼らの自分語りは本当に面白い。
特にオチとかそういうのは無いんだけど、俺は〜私は〜の話で十分楽しい。
絶望している。
カフェとかこじゃれた風のダイニングとか塚田農場とかででてくる、ああいうデザートプレート(実際デザートは鼻くそサイズ)を喜ぶ女がやりがちかつやったらぶん殴りたくなる行動。
「happy birthday Masuda」というチョコペン(デザートは鼻くそサイズ)のデザートプレートを顔の横まで持ち上げて写真を撮る。
さらにまだいうて出会って2年弱くらいの年上の人のこともすぐ「お兄ちゃん」とか「町田のねぇちゃん」とか呼ぶ。
感想Facebookのpostなんだけど、ただ休日にプラバンでキーホルダー作っただけ。ものづくりものづくりうるさい。
ネイルをやたら凝る。月1以上でジェルネイルを季節に合わせて変えてくる。
とかのハッシュタグををただ友達の友達とカフェ行っただけでワンプレートのサラダの写真につけまくる。
子どもは小さい頃の親のふるまいを憶えてるよ
自分に置き換えてみたら分かるだろうけど
良いことも悪いことも当時意味が分からなかったこともぜんぶ憶えてて
大人になるにつれ解釈が変わったり、理解できるようになったりする
自分に都合の良い愛らしい子に育てようとした親の行動も
息子ができても、同じように思う?中学くらいまでは一緒にお風呂に入りたい、とか。多少アホな方が可愛いとか。
個人的な感想を言わせてもらうと、「娘」と「息子」で態度を変える男親は、つまり娘に対して「異性」として期待しているんだという事を、娘自身が感じ取る。そしてそれを「気持ち悪い」と感じるようになる。思春期近くになると特に。
楽しくなって、他の人と打ち解けちゃうんだ
でもって酔いがさめた後で、「こんなこと人に言いたくなかったし、あいつと仲良くなんてなりたくなかった」って後悔する
ずっと酔ったまま生きいける訳でもあるまいし
http://anond.hatelabo.jp/20150903155746
元増田じゃないです。
海外行けば何とかなると思ってんのかよ。
両親は働くことができて便利だから作られたってだけの話。
二次創作の人が公式に問い合わせとかなんとかで話題になるけど、公式→同人のアプローチってどうなの?
原作者や声優が同人イベントに遊びにくるのは結構問題視されることが多い。
隠れていたい派の人は禁止どころか公認もされたくなくて、完全に別の世界のものとして棲み分けていたいんじゃないだろうか。
純なままとか、純粋で優しい子とかそういう自分の理想を子供に押し付けているところが気持ち悪い。理想の子供像じゃなくて目の前のたった一人の自分の子供を見てやれよ。
「ねずみ講」に似た詐欺の一種。高配当をうたって投資家から集めた資金を原資に、利益分配を繰り返す仕組みを指す。
資金流入が止まれば、途端に立ち行かなくなる。チャールズ・ポンジという20世紀初頭の詐欺師の名前に由来する。
ポンジは短期間に巨額の資金を集めたが、仕組みが破綻して最後には有罪判決を受けた。
日本では「出資金詐欺」という、投資詐欺の一種に分類される。日本語では、「ネズミ講」(あるいは「無限連鎖講」)などと
訳されること(訳されてしまうこと)が多いが、実際にはこのポンジ・スキームはネズミ講に特徴的な階層的なシステムに