はてなキーワード: 相互承認とは
それは、「男」という概念全体に対しての巣を守る昆虫のような連帯意識・帰属意識が、女よりもだんぜん薄いことにあると思うんだけどどうだろうか?
女は自分が所属するグループとかのサイズではなく女というデカい概念に対しての所属・相互承認意識がかなり強くあって、ゆえに
自閉症スペクトラムなどで女社会への適合がうまくいかないと自分は女というより女体持ちと称したほうが適切といった自意識を持ったり、
トランスジェンダーに対しての紛糾などがあるのだと思う
女体があるだけでは女ではない、女社会による審査と相互承認を通過してないヤツを女として扱うなという強烈なホモソーシャルが存在していて
男にも同様のものが当然あると前提したうえでホモソーシャルという言葉を用いるから、なんか違和感があるのではないか?
俺は平成生まれだけど、◯◯しないやつは男じゃねえ!みたいな風潮や同調圧力を感じてきた記憶は特にない
「俺達男だろ!」というニュアンスのことをレトリックではなく本気で言ってくるヤツにも出会った覚えはない
「男なんだから△△やれよ」の形式ならある。自分はたまたま体が男であり、ゆえに時たま義務が課せられることがあり、ただそれだけという感じ
「男」という概念全体への憧れや帰属意識はあんまりない。これが昭和や自衛隊やハードな体育会系とかに生きた人だと感覚が違ってくるのかもしれないがそれはわからん
あと書いてて途中で追加で思ったが、男が思う抽象概念としての「女」、女が思う抽象概念としての「男」、そして現実の男と女全体、それぞれギャップがあるよね
マチアプで女はまんべんなくいいねを得られるが男は上位数%が独占する、みたいな話があったとはずだけど
女が思う抽象概念としての男は上澄み数%の存在で、それは男が思う女のイメージが若くて化粧後のかわいい顔をしているのと似たようなものなのだと思う
こういう話を読むたびに思うのは、自分を弱者男性だと規定する人達は「強い男性」に救いを求めたり抗議することをもう諦めてるんだろうか、ということ。
現代社会が、弱者男性を抑圧したり搾取したり見殺しにするひどい社会だとして、そういう社会を設計・運用してる人達の少なくとも半分ぐらいが(日本みたいな国だったら大半が)男性なわけじゃん。ある意味、この問題の解決のキーを握ってるのは強者男性を主とした強者側全般なわけでしょ。弱者男性論の語り手が、そういう強者男性に声をあげる…たとえば労働運動をするとか、権力・権威を持つ男性に向けて弱者男性問題やメンズリブ的観点を啓発する、みたいな話にはあんまり行かなくて、女性やフェミニストに対する批判に帰着しがちなのは何なんだろう?
(経済的・社会的・相互承認的に)「強い/弱い」という軸と「男/女」という性別軸のマトリックスの中で「弱者男性」層が存在するのはわかるし、女性の社会進出や雇用機会の増大によって、経済的な意味での「強者女性」層が増加してるのも理解できるんだけど、その弱者男性論の批判の矛先が、主に女性やフェミニストに向かっていく理由がよくわからんのよね。
ツイッターには、男が女に説教したがるのには生物学的基盤があるからかもしれないと主張しただけで発狂して否定にかかるフェミニストがいるらしい。生物的基盤があるからこれは仕方がないとか許容されるべきとかは一切言っていないにも関わらず。
フェミニストはいつも、議論に社会的に構築された有害な男らしさを持ち出す。結婚したいと思うのも、競争して自分の地位を得たいと思うのも、有害な男らしさを社会から押し付けられたせいであり、降りれば楽になる。降りずに不幸になるのは馬鹿だからで、自己責任。降りるべきだと。いつだって悪いのは男なのだと。
一方でフェミニストは、女が出産とキャリアアップを両立できないのは制度が悪い!改善せよ!と叫ぶ。これは矛盾した態度ではないのか。
出産もキャリアアップも、べつに誰も誰にも強要していない。個人が社会的に押し付けられた偏見から来る欲望であって、それを無反省に受け入れているのは女であっても同じだろう。出産もキャリアアップもやめようと思えばやめられるし、なくても幸せになれるのだから、片方だけにせよ両立したいにせよ、やろうと思ってしまうのは自己責任であり、欲望を捨てられないお前が悪いと言うべきじゃないのか。降りて幸せになるべきじゃないのか。
フェミニズムは自分が仏教徒やストア主義者であることを自覚すべきだ。人間の全ての活動はどこかから押し付けられた人工的な欲望であると考える限り、人工的ならば解体されるべきだという考えに必然的に陥る。役割規範に限らず欲望に拘束されるのが不幸を導くのならば全て捨てるべきであり、何もせずとも精神的に充足した状態である解脱やアクラシアやアタラクシアを目指すぺきだと言うべきだ。反出生主義にも賛同すべきだ。子供を持ちたいなどと欲望を持つから不幸になるのだ。何もこの世でなせなかった自分の代品として人間ペットを作り出し、搾取はダメだけど自分の子供はより低い立場である保育士に預け自分はホワイトカラー労働でさらなるキャリアアップを目指し、多様性は大事だけど自分の子供は塾に入れて私立の上流階級の上品な空間で育て、生産性差別はダメだけど自分の子供は社会で貢献できる素晴らしい人材になってほしいと考えるような、そんな思考は今すぐ捨てるべきだ。やめるべきだ。さっさと全ての欲望から自由になれ。捨てられるんだろ?降りられるんだろ?降りないのは有害な男らしさにとらわれてるからなんだろ?嫌だとは言わせないぞ。
大体、昨今の生産性がなくてもいい!みたいな議論にも無理がある。社会の中で何の役割も果たせなかったら無力感で強い苦痛を感じるに決まっている。生産性とは社会の中で役割を果たすことに他ならないのだから。そんな人たちに居場所を与えない社会が悪いと言うかもしれない。だが、そんな居場所でやるべきことが何もできないからこそ弱者なのだと言うこと、誰かがその負担を引き受ける必要があるということを忘れている。生産性がなくても肯定されるべきというのは、あなたがバリバリ働く横でとなりのおっさんがもたもたもたもた、機械は苦手、ミスも多発で全体にダメージ、それでもその男を会社に必要な存在として同じ給料で受け入れることを意味する。精神的に受け入れるなんて絵空事で、カネがなければ生きていけない以上カネを払わないなら受け入れないのと同じことだからだ。同じ給料なのは、競争志向は有害な男らしさである以上それを促進する効果を持つ社会制度は撤廃されるべきだからだ。能力に応じた地位配分であるメリトクラシ―は撤廃すべきだ。そもそも能力なんて、生まれと育ちに大部分決定されたものである以上、個人にその果実を与えるのはおかしいのだ。もしこれを拒否するなら、フェミニストはこれを利用して、自分たちはフェミニズムという学問を修めた以上それにふさわしい支配階級としての地位を求めるに決まっている。他の人に競争させたくないのは、自分達こそが高い地位を独占してカネを手にし支配力と欲望を思うままに発揮しホストを侍らせ酒池肉林をやりたいからではないのか。そうでないなら、全ての人は全ての欲望を捨てろと言うべきで、男は有害だとばかり言わず女にもカレシ作るな、競争志向やめろ、そんなものはいらないはずだと主張しゆるやかな社会の滅亡を目指すべきではないのか。女の欲望はこれまで優先されてこなかったのだから優先して叶えられるべきだなんて差別論理で女が全肯定されるとでも思っているのか。女批判は全部ミソジニ―でマンスプレイニングだと言えば聞く必要がなくなるのか。男批判も女批判も平等にツイッターで叫ばないのはなぜか。生産性がなくてもいいなら、出産と労働への欲望だけ特別の地位を与える必要はあるのか。わきまえていないのは社会に対してでなく、自分の叶いもしない無際限の欲望に対してではないのか。
フェミニズムは生産性を拒否した果てに、相互承認の相互ケア社会を夢見ているのかもしれない。そんなものは無理に決まっている。誰が、何日も風呂に入っていないホームレスの人間を受け入れ、肯定し、ひいては抱き締めるようなことができるのか。フェミニストはそれを積極的にやれているのか?誰も何の役割も求められない社会で、承認を得る手段として家族も労働も拒否するなら、相互ケアしか道がない。なら、キモくてカネのないおっさんおばさんクソガキ不良反社不潔人間障害者重病人外国人、ケアする能力を持たない不幸な孤独者を誰がケアするのか?女にだけ求められていると誤読される恐れがあるから、フェミニストも、男も、LGBTも、社会の全ての構成員が全ての構成員をケアする義務を持つ社会と化す、と強調する。解決策としてケア役割を職業にしようとするならば、結局自分はフェミニズムという上流学問を修めた以上上流階級がふさわしくそんな下品で誰もやりたくない仕事はフェミニストはやらなくていいはずだという傲慢ではないのか。社会から疎外された弱者がその役目を負うことになることに目を向けるべきだ。相互ケアなんてできるわけないのだ。誰もがケアされる側になりたいに決まっていて、他人のケアなんてまっぴらごめん、誰かに押し付けたいに決まっているからだ。念のため言うがカレシカノジョパートナーを作って承認を得るなんて可能性があるはずはない。好みの顔面や肉体による他者選別なんて、誰も配慮する必要のない社会的に構築された欲望でしかないからだ。欲望する存在としての人間は全て否定されるのだ。
以上見たように、「社会的に構築された欲望」理論からは、全ての人間は全ての役割規範と欲望を放棄し、全ての承認の根源を失い、静かに死んでいき社会を滅亡させるのが善だという結論以外はあり得ない。東京スカイツリーの展望台から、一人一人丁寧に飛び降りるのだ。環境問題も少子化問題も解決され、最高の未来が約束されている。死は救済だ。
一貫した価値観の体系をつくりだそうという動きが無い
アンチ自民、アンチ野党、アンチ保守、アンチリベラル、アンチフェミ、アンチオタク、アンチ新自由主義、まあいくらでもある
それぞれの発言単位で読めば、それなりにマトモなこと言ってることもあるんだけど
「で、我々はどういう社会作っていきたいの?」ってなると喧嘩になっちゃうから
仲間内では批判対象について延々批判を投げるというのがお決まりのコミュニケーションになる
そこに創造はない
細分化された各クラスター内で「アイツラが全部悪い」という世界観をずーっと相互承認している虚しい言論空間ばかりだ
どこにもいけない、なにもつくりだせない
これがインターネットの終着点なのか?
anond:20190413101216 を目にして、ああそういう季節かと思ったわけだが、前に厳冬の北海道で全裸男が……なんてのもあったよな。何故そこまでやってしまうのか、とふと考える。
全裸男だけじゃない。痴漢や盗撮も……冷静に考えると、それで何が得られるのか分からない。スカート越しに誰か分からない女の尻触って何が満たされるのか。それをしたかったとしても、風俗にでも行けば極めて安全に、何の危険もなくそれを行え、満たされるわけだ。それを公的交通機関や街中で行えば、触られる方にとっては心身共にこれ以上ない危険を感じ、傷を受ける行為なんだから、社会的制裁を受けるのは相応だよな。その危険を冒す意味が分からないわけだ。
盗撮……尻なのか足なのか、ショーツのクロッチなのか知らないけど、撮影、蓄積、閲覧して何が満たされるんだろう。海外にサーバ置いてる動画配信サイトでも使えば、その向こうにあるものが見放題なのに。今やスマホひとつでいつでもどこでも見られるし、あまり無茶なことをしなければそれで告発されることもあるまい。盗撮される方にとっては痴漢同様の危険、傷を伴う行為なんだから、これも社会的制裁を受けるのが相応の行為なわけだが、その危険を冒す意味がこれまた分からないわけだ。
まあ、メカニズムは分からんでもない。男には哀しい二つの特性がある。全裸徘徊、痴漢、盗撮……そういう性暴力的問題行動の病根ってのはおそらくそこなんだろう。
ひとつは、男が事実を妄想で補完する能力に長けていること。これは男が優れているというより、不幸にしてその方向に暴走する傾向がある、とでも言うべきなんだろうが、スカート越しに見も知らぬ女の尻を触りながら「ああ、この女、結構感じちゃってんじゃないの?」とか考えてしまうわけだ。そんな筈ないよな。見知った男であったって、相互承認なしに、しかも通勤電車でそんな心情に至る筈もなかろうに、誰とも分からない男に尻触られた女性が感じる筈がない。でも、そこを妄想で塗り潰すことができてしまうわけだ。
そしてもうひとつは「行為の目的化」。普通に生きている上で、行為と目的をすりかえるというのは実は一種の社会適応能力なのかもしれない。仕事で、何故こんなことをやらされるのか分からないと思うような作業を山のようにこなさなければならないときに、その行為を為すことを目的にすりかえて業務に集中する……そういうシチュエーションもあるかもしれないから。しかし、この「行為の目的化」が、性暴力的問題行動に対して、妄想補完とペアになって機能するとどうなるのか。たとえば……
痴漢の話を聞く→自分がやっている情景を想像したら思いの外に興奮してしまう→通勤電車で手の甲が触れた女の尻に少し力を込めてみるが抵抗されない→「ああ、この女、結構感じちゃってんじゃないの?」と思い、その際のスリルも伴って興奮してしまう→後でその情景を思い出して興奮を反芻する→電車での行為を繰り返す→やがてその場のスリルや女性の歪む顔を見ることで興奮が喚起されるようになり、そちらがむしろ目的になっていく→際限もなく続け……
盗撮写真をネットで見る→誰のどんなショーツなのか、希望的脳内補完を行って存外興奮してしまう→通学途中の上りエスカレーターで見上げた前方の女性が短めスカート、こっそりスマホで撮影→画像を見返して更に興奮→何度も撮影を繰り返す→画像を見返す度にその場のスリル・興奮を反芻し、そちらがむしろ目的となっていく→際限もなく続け……
ってことだよな、おそらく。これ、女性が読んだら、何と傍迷惑な生き物だ……とか言われそうだなあ。脳科学的に言うと「報酬系が」ってだけの話なんだろうけど……
この私もですね、こんな話をしたのを中野信子さんに聞かれて、冷たい顔で「ああ、報酬系ですね」とにべもなく切り捨てられるところを想像すると、もう、そりゃ、興奮してしまうのですよ、ええ。
学校に通ってた時から今までよく分からないんだけど、なんで嫌なことを仕事にするんだろう。好きなことで食っていくと公私が切り分けづらくなってしんどいというのは聞くけれど、仕事はつまらないもの、仕方なくやるもの、更に言えば誰の得にもならないけれども生きるために仕方なくやるものという観念は一体なんなんだろうと思う。
生きるために仕方なく作られた車を選んで買うか? 生きるために仕方なく作られた料理を選んで食うか? 収容所じゃあるまいし。この嫌儲思想の人生への拡張は負の効果しか生んでいないと思う。別に、社員が嫌な思いをすることが仕事を達成する必須要件じゃない。社員の内部がどうなっていようと、仮に会社を心底軽蔑して片手間でやっていようと、元締のアガリが悪くなければ関係ない。居酒屋バイトのように何も意味のないことを楽しいと思い込み続けることで苦しみを軽減するのもどうかと思うけど、何らかの苦しみを個人が得ることを価値判断の基準に置く日本型労働観は薄気味悪いし、悪い文明だと思う。
苦しみから逃れることを動機として作られた成果物はなべて質が低い。投資効果が低い。運転免許試験場の食堂の飯はその辺の安い食堂より高くてまずく、しかしかかっているコストは同じだ。競争がなく楽しみがないことが改善を抑止し、右から左へ価値をただ流せばよいところで、一旦破壊してから渡すように仕向けてしまっているんだ。元増田が苦しんでいるような労働の本質は個人への拷問であるという観念では、労働者の受けている苦痛は同程度だから、過程の正当性があり、したがってここには何の問題もないと判断してしまう。
賃金はビジネスによって作られた価値の分配であり、労働は行動と相互承認によって価値を作り出す行為だ。構造の維持作業ではないし、拷問でもない。そろそろこういう現代の仕事観を広めてもいいんじゃないか?
はてなにしろ2chにしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトもゲスさは無かった。
2chは便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴン(オマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。
今はそうではない。
陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識(裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識(助け合いと相互承認)はほぼなくなった。
2chで「氏ね」ではなく普通に「死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。
ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞や他者へのアピール」でありふれている。
中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。
なんでこんなになっちゃったんだろう?
00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民のほとんどがネットの参加者になった。
社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。
平日昼間のネットを支配しているのは、無職、ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人系無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会に適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである。
もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。
そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上の快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。
火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・。
彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上が目的化する。
ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生はDQNのほうが受けやすい。
はじめしゃちょーやヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。
これはネットの言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間が承認されやすい。
熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。
つまり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブな言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。
問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネットの常識」とされて一般層へ輸出され、ネットの文化となり、新たな放火魔を教育してしまうことだ。
本来ただの過激派、愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。
現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。
誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか。
ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争だなのだ。ネットはそちらに向かいつつある。
東浩紀はネットにルソー的社会を求めたが、あんなものは絵空事である。
「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。
自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。
シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。
大人たちが壊れてしまう空間なのに、子供にリテラシーとかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?
ネットの治安を維持するための善意の言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。
それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題はネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。
ネットと現実はリンクしており、ネットは日本の未来の実験室である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。
大学で友達ができないことを、まぁ俺が悪いんだろうな、でも無理して周りに合わせることもないし適当に生きるわHAHAHAと、そう重要な問題でもないと捉えてやってきたのだけれど、事の原因となる精神上のバグは結構看過できないんじゃないかと思えてきた。
僕は物事をメタ的に考える癖があって(この文章もそうなんだけど)、何に参加するにしても、何を見聞きするにしても、務めて客観的に判断しようとしてきた。そうすると、どんな物事にもある長所短所を明確化してしまい、それをリターンとリスクに置き換えることで心の天秤にかける癖がついてしまった。するとリスクが怖くて一歩が踏み出せなくなって、でもそんな臆病な自分を認めたくなくて、結果的に物事をシニカルに批判することで、それをしようとしない自分の立ち回りを正当化してきた。
もちろんこういう態度は少しずつ改めなければならないと思うのだけれど、友達ができないことと性格を結びつけたとき、やっぱり「あんな遊び方をする大学生はアホだなぁ」と、見下して、滑稽にも自分の精神的優位性を何よりも大事に大事にしてきたのかな、と思っていた。
でも本当にそれだけが原因なのか?と感じたのは、何をしても楽しくないと気付いたときだった。
いつものように分析的になる前に、いや、よく考えなくてもやっぱりこれは楽しくないなと思ってしまったのだった。要するに今まで現状の原因は全て自分の自己形成にあったのだと思っていたのが、やっぱり先天的に集団に向いていないのではないかと思い返さざるをえなくなったのだった。
昔からなんとなく、僕は人に媚びるのも媚びられるのも嫌いだった。友達が描いた絵よりも雑誌で見る絵のほうがかっこよかったから、なんだか友達を褒める気になれなかったし、友達から来た内輪ギャグメールにも対応する気になれなくて全て無視してしまっていた。よく言えば、自分の中の評価ラインを持っていて、身内だからといって贔屓しようとは思わなかった、のかもしれないが。
けれども友情は相互承認から生まれてくるものだと思うし、相互承認の自覚も必要なのだから、きちんと承認を伝え合わなければいけないと思う。
さて、表題なのだけれど、自分が集団や相手に愛着を持てない原因は自己形成なのではなく育ち方にあったのではないかと、別方向の考え方を提供してくれたのが「愛着障害」という本でした。同じように悩む方は是非読んでみるとよいと思います。
例えば母親をなくした人が、例えば安心できる家庭環境になかった人が、愛着の持てるものを幼少期に与えられなかった人は愛着障害に陥り、過度な人間回避又は他者依存に陥るのだという。その他にも重度のトラウマを抱えたり、親に褒められたことがなかった場合など、多岐に渡るケースが取り上げられているので参照されたい。
要するに、まぁ前半の僕の自分語りはほんとどうでもよくて、すみません、人間関係で悩む方は自責するばかりではなく、別の視点からの問題を知ることで、解決に役立てればよいのではないかなと思いました。
最後に、この文章は結構痛くて、中二病っぽいんだけど、僕としてもそうであってほしかったというか、他人と違う自分を誇らしく思っていた時期もあったのだけれどそれは自己韜晦の上に成り立つ特異感だと思っていたからであって、いざその時期を過ぎると本気で悩みの種にしかならなかったのです。そういうことってありませんかね?
E3で発表された任天堂の『Splatoon(スプラトゥーン)』が各方面で任天堂らしいアプローチのTPSとして期待されているが、任天堂であるがゆえの以下縛りにより大成功が期待出来ない。
最も期待できない理由がこれ。任天堂のポリシーとして中途半端な出来のゲームはユーザーに提供しない。
ゲーム発売後のゲームバランスの調整、ステージの長期的な追加、武器の追加、ユーザーリクエストの受け入れ等はされないだろう。
(深刻なバク調整や予定通りの期間限定拡張コンテンツを除く。また、バグやバランス調整が仮にあったにしても些細な修正の提供に数ヶ月は要するだろう。)
想像してほしい、パッチや拡張がほとんど当たらないFPSを。TPSを。
また、あれだけ動いているゲームであるのに関わらず発売も来年であり、来年になったら皆この興奮を忘れるだろう。下手をすればアイデアをスマホのゲームにパクられるだろう。
理由は不明であるが、任天堂は実力を反映した公平なマッチングや長期的な順位付けをあまり好まない。
上手いプレイヤーも下手なプレイヤーも同時にそれなりにそこそこ楽しめるゲームバランスになるだろう。
その結果起きることは、ガチプレイヤーは雑魚とのマッチングにうんざりし、初心者はガチにボコられてうんざりするだろう。
「かんたん・あんしん・無料」が任天堂の掲げてるネットワークのポリシーである(かんたんだが不便、あんしんだが退屈、無料のせいで高度ネットワーク対応が出来ない)。
未成年を守るためにプレイヤー間のマッチングは以下のいずれかになる。
前者は直ぐにマッチングする反面、定形発言によるコミュニケーション以外不可。対戦プレイヤー履歴も残らず後腐れなく戦えるものになる。ボイスチャットなんてもちろん出来ないので高度な戦略はとれない。
後者はフレンドのみという事で事前登録した文面の発言や任意のユーザーによる対戦が可能ではあるが、相互承認済のフレンドのみという縛りがキツすぎて事実上は8人もプレイヤーが揃うことは無いだろう。
Miiverseというクローズドコミュニティはあるが、あれはお喋りかお絵かき掲示板であり密なコミュニケーションを行う場とはならない。
上記の理由からおそらくボンバーマン的な楽しさはあるゲームであるが、長い期間多くのプレイヤーに楽しまれるタイトルにはならないだろう。残念だ。
若い、幼い、政治的に未熟な連中が騒いでる、という程度で済めば少しはマシとも思えるんだろうけど、実際は中年層にも支持者が多い。
そして意外にも、ある程度の社会的地位を得た高収入の人間も決して少なくない。
もちろん差別や偏見は、理解の不足から起こる、知性で解決できる問題ではあるのだけど、知的な人間であっても、その偏見に対抗する知性が身についているとは限らない。
標準的な平衡感覚を持った人相手に差別的な話をすると、多くの場合嫌な顔をされたり、たしなめたりされてしまうが、ネットという同じ認識を持つ人同士での相互承認を得て、その偏見はより強固になり、一つの勢力となって露見したのだろう。
それは統合失調症などの、ごく一般的な精神病に見られる関係妄想という症状で、その症状に苦しんでいる人同士が、お互いの妄想を承認し合い、お互いの妄想をより強固にし合って、いつしか集団ストーカーと呼ばれる組織を創り上げた。