大学で友達ができないことを、まぁ俺が悪いんだろうな、でも無理して周りに合わせることもないし適当に生きるわHAHAHAと、そう重要な問題でもないと捉えてやってきたのだけれど、事の原因となる精神上のバグは結構看過できないんじゃないかと思えてきた。
僕は物事をメタ的に考える癖があって(この文章もそうなんだけど)、何に参加するにしても、何を見聞きするにしても、務めて客観的に判断しようとしてきた。そうすると、どんな物事にもある長所短所を明確化してしまい、それをリターンとリスクに置き換えることで心の天秤にかける癖がついてしまった。するとリスクが怖くて一歩が踏み出せなくなって、でもそんな臆病な自分を認めたくなくて、結果的に物事をシニカルに批判することで、それをしようとしない自分の立ち回りを正当化してきた。
もちろんこういう態度は少しずつ改めなければならないと思うのだけれど、友達ができないことと性格を結びつけたとき、やっぱり「あんな遊び方をする大学生はアホだなぁ」と、見下して、滑稽にも自分の精神的優位性を何よりも大事に大事にしてきたのかな、と思っていた。
でも本当にそれだけが原因なのか?と感じたのは、何をしても楽しくないと気付いたときだった。
いつものように分析的になる前に、いや、よく考えなくてもやっぱりこれは楽しくないなと思ってしまったのだった。要するに今まで現状の原因は全て自分の自己形成にあったのだと思っていたのが、やっぱり先天的に集団に向いていないのではないかと思い返さざるをえなくなったのだった。
昔からなんとなく、僕は人に媚びるのも媚びられるのも嫌いだった。友達が描いた絵よりも雑誌で見る絵のほうがかっこよかったから、なんだか友達を褒める気になれなかったし、友達から来た内輪ギャグメールにも対応する気になれなくて全て無視してしまっていた。よく言えば、自分の中の評価ラインを持っていて、身内だからといって贔屓しようとは思わなかった、のかもしれないが。
けれども友情は相互承認から生まれてくるものだと思うし、相互承認の自覚も必要なのだから、きちんと承認を伝え合わなければいけないと思う。
さて、表題なのだけれど、自分が集団や相手に愛着を持てない原因は自己形成なのではなく育ち方にあったのではないかと、別方向の考え方を提供してくれたのが「愛着障害」という本でした。同じように悩む方は是非読んでみるとよいと思います。
例えば母親をなくした人が、例えば安心できる家庭環境になかった人が、愛着の持てるものを幼少期に与えられなかった人は愛着障害に陥り、過度な人間回避又は他者依存に陥るのだという。その他にも重度のトラウマを抱えたり、親に褒められたことがなかった場合など、多岐に渡るケースが取り上げられているので参照されたい。
要するに、まぁ前半の僕の自分語りはほんとどうでもよくて、すみません、人間関係で悩む方は自責するばかりではなく、別の視点からの問題を知ることで、解決に役立てればよいのではないかなと思いました。
最後に、この文章は結構痛くて、中二病っぽいんだけど、僕としてもそうであってほしかったというか、他人と違う自分を誇らしく思っていた時期もあったのだけれどそれは自己韜晦の上に成り立つ特異感だと思っていたからであって、いざその時期を過ぎると本気で悩みの種にしかならなかったのです。そういうことってありませんかね?
あなたはたぶん、頭の良い人なんだと思う。 一つ、聞いてみたい。 「貴方の人生はどんなものですか?」
ぶっちゃけて思うんだけど そんな小難しく考えなくても 「他人に何も与えてない人間が与えられるわけねーじゃん バランス考えろよ」ってお話に過ぎないと思うんだけど。 他人と接す...
この人親友いなそう
トラックバックありがとうございます。あなたの仰ることは正しいと思います。 もちろん自身の精神面の幼さがこの結果に繋がっているとは思っていますし、全てを育ち方や環境の...