はてなキーワード: 遺体とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707473451257273570/comment/cinderella0720
「更年期障害が酷いからコロナワクチン接種の時行きも帰りもタクシー利用したけど、行きも帰りも住所言ってもすぐ分からない能無しにあたって最悪だった。日本人男たちはまともに仕事できないゴミが多い。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707426294104886978/comment/cinderella0720
「菅さんみたいな人が首相になれるなら、私みたいなお馬鹿さんでも首相になれる。むしろ汚いハゲ爺さんより、私みたいな可愛い系女子が日本の首相になったら各国の大統領や首相が大喜びしそうである。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707425185465934466/comment/cinderella0720
「私は日本人男の遺体処理をするために生まれてきたわけではないから、日本人男と結婚することを強要する奴らは全員自殺しろ。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707375978003544898/comment/cinderella0720
「気持ち悪い。日本人男を生んだババアどもは子育てもまともにできないんだね。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700024034567508258/comment/cinderella0720
「容姿関係なく、″おりんピッグ″なんていう意味不明なダジャレを言われても海外の外国人は困惑するけど、あえて実行してみてもよかったかもしれないと今では思うw」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700098962453839650/comment/cinderella0720
「子供のそういう苛めって結局テレビが原因だよね。テレビ局全部全滅させよう。テレビ局全部全滅しても困るのは知的障碍者集団の芸能人だけだし、テレビ局全部全滅させよう。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/4700306356856483138/comment/cinderella0720
「私は日本国内で集団嫌がらせされているけど、何故集団嫌がらせしているのか原因を直接面と向かって話した人は一切いない。だから被害者の私は一切悪くない。」
いや、何なんですかねこの人…
こういう差別発言や侮辱発言ばかりのアカウントが、特に何の措置もされずに放置されているのもびっくりなんだけど
それとも、自称として言及されている通りの属性の女性を貶める事が目的の釣りなんだろうか?
https://ameblo.jp/hiyoko-niwatori-oyako/entry-12448228784.html
祖母の死に関連して、自分の感じた後悔と、自分の気持ちに対する懺悔を、ただでさえ持ちの悪い僕の記憶が風化する前にどこかに残しておきたくてここに記す。
祖父が死んでから10年目のあの夏、言い換えればばあさんの一人暮らしが始まってからの10年目の夏。ばあさんももう結構参ってしまっていたんだと思う。
家からばあさんの家が近かったこともあって、何かあったらばあさんの家に遊びに行くほどのおばあちゃんっ子だった僕は大学に入って一人暮らしをしてからも暇を見つけてはばあさんに電話を掛けたりしていた。
そんな僕から見ても電話をするたびにばあさんがやつれていっている気がしていたのを今でもなんとなく覚えている。
そんな夏のある日に、いきなり親父から電話がかかってきたのを覚えている。
つい数日前にばあさんと電話をして、来週帰るからその時にあいさつに行くねなんて言っていた僕はその電話を聞いて信じられない思いだった。
その直後に教授とのミーティングの予定だったのだが、それをキャンセルしてすぐに帰省の準備を始めた。……はずだ。
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すごいね、人間の記憶ってのは大事なことに対してもすごく曖昧で、ここに帰省の準備を始めたって書いた瞬間に、帰省の準備を始めた記憶とその実感がわいてきてしまう。
出来る限り覚えている事実を元に書きたいけれど、あいまいな記憶をもとに手探りで書いていくからたぶん事実と違うこともたくさん書かれてしまうと思う。
なるべくあいまいな記憶をもとに書かれた文章には「はずだ」とか、注釈だったりをつけて対応していきたいと思うよ。
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そして帰るまでだったか帰ってからだったかのどこかで、父親から追加で連絡があったはずだ。
いつ連絡が来たかの記憶すら定かではないし、どのような媒体で連絡をされたのかも定かでないけれど、知らされた内容だけは覚えている。
「ばあさんが死んだ。それは自然死ではなくて、自殺だった。そしてこのことは秘密にしておいてほしい。」
どうやら、ばあさんは自殺を試みて、無事死ぬことができたらしい。今の僕の価値観だと自分で死を試みるほどにこの世界から去りたくて、これを完遂できたのならそれはもう僕がとやかく言えることじゃないのかなという気もするけれど、この時の僕はまだそこまで割り切ることができていなくて純粋に悲しんでいたのだと思う。
僕の叔母(つまりは父の姉)の元にばあさんからまるで最後の挨拶かのようなメールが届いたらしい.
それを見た叔母は父に連絡を取ってばあさんの家に行ったとのことだ。
そこでばあさんが首を吊っているのを見つけたという。
ばあさんをおろした時はまだ、ばあさんの体は温かかったらしい。
~~~
あぁ、たぶんこの話を聞いたのはまだ実家に帰る飛行機に乗る前だ。飛行機の中でどうしようもなく自分に問いかけていた覚えがある。さっきと一緒でもう今の自分の中には飛行機の中で自分に問いかけていた記憶ができてしまっているけれど、たぶん飛行機に乗る前だ。
当時の人との連絡の記録を後で見返そうかなとも思うけれど、自分がそれで死んじゃわないか心配。
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どうにかして実家に帰った後、ばあさんの家に遊びに行った。
ばあさんの家の机の上には遺書が置いてあって、そこには涙の跡もついていた。
この時、本当に涙の跡ってつくんだって思ったのを覚えている。
多分この涙の跡は叔母の涙の跡で祖母の涙の跡ではないのだけれど、それでも涙の跡のある遺書というのはなかなかに来るものがあった。
そのまま遺書を読み進めると、もう、一人でこの世界で生きていくのが辛かったらしい。
遺す人たちに対する謝罪のあたりで読んでいた僕まで泣いてしまった。
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遺書の内容は要確認。ほかにどんなことが書いてあったかは確認しておきたい。
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遺書を読み終えた後はばあさんの遺体*が安置されていた祖母宅の近くの葬儀社に向かった。どうやら叔母がばあさんの近くに付き添ってくれていたようだった。
*最初、無意識のうちに死骸と書いていた。どうやらあれだけいとしく思っていた祖母でも、死んでしまえば等しく死骸であるみたい。
丁度、父の従姉妹たち(つまりは祖母の姪)が到着したところみたいで、ばあさんを見てみんな泣いていた。僕が到着するのを見ると、みな僕がばあさんっ子だったのを知っていたみたいでせっかくだからと僕とばあさんを二人きりにしてくれていた。どうやら、泣かない僕を見て「他の人がいる状態では僕が泣くことができないだろうから」という思いやりかららしい。
せっかく最後にと僕と祖母を二人にしてくれたのに僕は全く泣けなかったのだ.
それどころか, その時の俺の心にあったのは, [首を吊った死体の首には本当に縄の跡が残るのか]という好奇心だった.
せっかくの首を吊った死体と僕しかいない状態で, 僕が部屋から出てくるまでは誰も部屋に入ってこないと約束されている状況である. そんなの今後の人生で二度と来ないであろうチャンスじゃないかと.
そこで死体の様子をうかがうと, やすらかな顔をして化粧をされている. そして肝心の首は, 状況が状況だからかしっかりと隠されていた. ここをめくるだけで僕は僕の好奇心を達成できる.
ただ, どうしてもなけなしの倫理観が邪魔をしてその覆いをとることはできなかった. やはり遺体を、それも僕が生前一番なついていたばあさんの遺体を自分がいじることはできない……と。どうしても僕の記憶に残すばあさんとの最後の二人きりの思い出をそんな穢れた好奇心で汚すことはできない……と。
せめてもの抵抗にと最後に祖母の頬を触った. ドライアイスに冷やされてとても冷たかった.
ただ, どうしても俺は, 祖母の首に縄の跡が残っているかいないのかを確かめたいという好奇心を消すことはできなかった. あれだけ僕を愛して, かわいがってくれていた祖母に対して孫が抱く最後の望みが, その死にざまが残す跡を見せてくれという穢れた好奇心で本当にすまないとは思っている. ただ, 本当に僕はただ好奇心のケモノとしてここまでの時を過ごして来てしまったからか, どうしてもその欲望を消すことができないんだ.
ばあさんの眠る部屋を出て叔母にあいさつをして実家への帰路に就いた。このとき、泣くことができた?という質問に対して僕は苦笑を返すことしかできなかった。きっと叔母は僕が照れていたと思っているのだろうけれど、僕としては泣けてないんだよなぁという思いしかなかったわけだから。
実家に帰った後は通夜と葬式に関する準備をすすめ、親族として葬儀の受付などを行い、最後に棺に花を添えてばあさんを見送った。この時、火葬場に送り出されるばあさんをみて泣けて少しだけほっとした。
そして火葬場で焼かれた祖母が出てきたときに俺が思ったのは, やはり[もう, 祖母の首に縄の跡が残っているかどうかを確かめることはできない]というおもいだった.
父と叔母に[祖母の首に縄の跡が残っていたか]ということを聞くこともできない俺にはもう, これ以上事実を確かめるすべはない.
この後悔は一生ついて回るだろうし, 祖母の死骸を前にそんな穢れた好奇心が湧き出してきたということに対する懺悔も一生続くことだろう.
最終章ではありますがまだやるべきことが残っているので第1篇となるでしょう。
- 母親の介護から逃げてから、その後 anond:20210322144223
- 母が精神病棟に入院した anond:20210403022555
以前に語ったとおり、母親は病気で自活が不可能となり父親による老老介護を受けた後に精神病棟に入りました。その後は体調不良のたびに転院を繰り返し、最後は実家からほど近い病院で息を引き取りました。最期を看取ることはできませんでした。そもそも職場から2時間近くかかりますし一報があった時点ですでに危篤状態でした。
その少し前から体調不良が続きいつ旅立ってもおかしくない状態でした。でもコロナにより面会はかなりの制限がついていたので、病院からほど近い父でも最期を看取ることは難しかったのとこと。特に第5波の現在ではまともに病院に入れることすら怪しいのですが。
母親に関しての良い記憶は殆どありません。私が子供の頃から彼女の周囲はストレスと負の感情が渦巻いていました。あらゆることに怒鳴り散らし厄介事を量産します。隣人、宅配業者や取引先とのトラブルは枚挙にいとまがありません。家族の中にあっても暴力と暴言は絶えず、幼いときから母親は嫌悪と畏怖の対象でした。常に誰かしらを敵に回すことでしか自分を保てず、最後は泣きわめいて八つ当たりを繰り返す人でした。機械音痴だったのが救いでしょう。彼女はスマホやPCどころか自身のケータイ電話すらもっていませんでした。仮にスマホを扱えたとしたらツイッターやらでどんなことを書いたかわかりません。
そんな母も亡くなりました。
一番最後に家族が聞いた言葉は「来てくれてありがとう」だったそうです。数すくない面会の中で唯一話せたのはそれだけだったとか。そもそも、4月以降の入院生活の多くで彼女は心を閉ざしていたようです。閉鎖病棟という空間が耐えられなかったのかもしれません。彼女自身が介護状態になってから父への依存がマックスになっていたこともあり、父に会えず家族の顔を見れない寂しさが彼女を内向的にしていったのでしょう。だから面会時に言葉を話したことに周りの看護師が驚いた、と聞きます。おしゃべりだった母親がおとなしく心を閉ざすということはよほど病院の生活が心を折るに充分だったに違いありません。
父はそれを後悔しているようです。
葬儀は直葬でした。リーズナブルで早いというそれだけの理由でしたがコロナ禍では最善の方法だと思います。母親の親戚縁者数名と私の家族だけで執り行いました。
葬式自体は何度か経験があるものの、直葬は初めてです。住職もなく火葬場に直接集まって遺体を焼いて納骨するだけというもので、移動時間を除けば1時間半で終わりました。
従来型のように通夜と告別式を執り行うことが悪いとは思いません。故人を悼む人の多さや気持ちの整理をつけるために必要な儀式もありますから。
高くとも50万せず、極めて簡易的でスピーディ。遺族の負担が本当に少ないのです。
なぜ喪主が大勢の人の前で挨拶をしなければならないのか。多くの時間とお金をかけて悲しみと疲れをふくらませる必要があるのか。ほとんど交流のない親戚や会社の人々に頭を下げなければいけないのか。お坊さんの固いお話。。。
それらをすべて省くだけでここまで楽になれるのかと感動しました。いままでの葬式は何だったのでしょう。
コロナは多くのものを奪いましたが、葬式に対する考えを改める機会をくれたことだけはメリットと受け取っています。
さて、旅立ちのあと家族と合流していくつかわかったことがあります。
母親はいくつか不動産を持っているのですが、その一つが少々どころかかなり厄介な物件だということ。保険嫌いだったのにいくつか保険に入っていたこと。預貯金はそこそこあるのですが、額よりその中身についてここで書くことが憚られるものであること。デパートの預け金が結構な額になること。そして、母親が成人後に殆ど健康診断等を受けていなかったということ。
母親が病院を嫌っているのはわかっていましたが、健康診断そのものをまともにしていないのは驚きです。歯もぼろぼろだったので長く歯医者にも行っていなかったのでしょう。
思えば母親の数々の病気は、去年の夏に倒れてからようやくわかったものですばかりです。糖尿病やガンなど、本当は健康診断で発覚するものばかりです。少なくとも献血でいいからしておけばなんらかの予兆を見て取れたかもしれません。
恐らく長いあいだ健康上の不安を抱えていたと思います。でもそれを認めずに騙し騙し過ごしていた結果がこれです。
さらに病気がわかっても頑なに医者を信用せずかなり説得が難しかったと聞きます。
自分の家族が崩壊寸前だった記憶が強いがために、幸せな家族という存在が実感できないのが本音です。配偶者の実家にお邪魔したとき、リビングに家族との写真が所狭しに飾ってあったのはかなり印象的でした。そうやって家族と記念写真を撮って飾っておく習慣が失われた家庭でしたから。実家で目につく写真といえば、唯一仏間くらいにしかありません。本当は以前にもありましたが引越しの際に殆どなくなってしまいました。
今一番不甲斐ないのは、遺産や死後の手続きの諸々を実家の家族に任せっきりだということでしょうか。でも多くがオートメーション化されているのでかなり手続きは簡単とのこと。いい時代ですね。
遺産の整理がついたら第2編を書くかもしれません。
阪神淡路大震災とオウム真理教をめぐる事件で騒がしかった1995年に起きた、文藝春秋の雑誌『マルコポーロ』を廃刊にしてしまった事件の、そのホロコースト否定の記事の著者である西岡昌紀氏がその記事でも使った文章がこれである。
「なんと驚くべきことに、ガス殺の遺体は一体も見つかっていないのです」
西岡はそれ以来、繰り返しこのセリフを語った。今回はこれについて考えてみよう。
上の西岡が使う常套句は、実は微妙に嘘なのであるが、ほんとでもあるというややこしい話でもある。嘘であるというのは、見つかっていたという報告自体は存在するからだ。知られているのは二つあり、一つはマイダネク収容所のソ連犯罪調査委員会による報告書であり、1944年10月頃という早い時期にまとめられた報告書の中に、ガス殺遺体の発見の事実がさらっと書かれている。マイダネクはソ連赤軍の急襲にあって終戦前年の1944年7月にさっさとソ連に解放されてしまったので、ガス室やその遺体の処理が間に合わなかった、とされている。もう一つはロシア南西部の黒海に面するクラスノダールでもガス殺遺体が発見されたと報告されている。こちらの方は1943年初頭にさっさとソ連に占領されてしまっているので報告(裁判)の時期も1943年7月と最も早い。ガス殺遺体の写真まである。
このように実際には見つかっていたという話を知らないネットの否定派は多いようだが(西岡も1995年当時には知らなかっただろう)、見つけたのがソ連であるという理由で信じないのが否定派である。実は個人的にもマイダネクの報告書はちょっと怪しいと思っているが細かい話になるのでそれはここでは言わない。クラスノダールの方は写真まであり、その写真自体に「一酸化炭素中毒の死体」とまではっきりコメントが書いてあって、信頼性はあるように思うのだが、ソ連の裁判という理由で否定派は認めようとしない。当時ソ連は見せしめ的な裁判をやっていたらしく、それが信じない理由とされているようだが私は詳しくは知らない。
しかしこれが、否定派が主たる攻撃対象としている絶滅収容所、中でもアウシュヴィッツ収容所の話になってくると、確かに解放後に連合国によって一体も発見されていないのは事実である。定説では、それらのガス殺による遺体は全部焼却処分してしまったからである。が、ここでは少し否定派側の視点に立って考えてみよう。
確かに、そう言われると奇妙な気もしてくる。一般的に言って、死体なき殺人は肝心の殺された死体が存在しないため、その立証は困難である。かつて日本で起きた北九州一家連続殺人事件では家族七人が殺されたが、その死体は一体も見つからなかったどころか、犯行現場とされたアパートからも血痕の一つも見つからず物的証拠は何一つ存在しなかった。その為、主犯格の共犯者である愛人と逃げて助かった生存者の証言で事件を立証する以外になかったのである。
しかし、アウシュヴィッツは七人どころではなく、約百万人がガス室で殺されたとされている。ニュルンベルク裁判時点では250万人〜400万人という膨大な犠牲者数が述べられた。なのに、ガス殺死体は一体も見つかっていないというのは極めて異常な話ではないのか? ガス室による殺人は全く立証されていないじゃないか、と言いたくもなるのだろう。特に、青酸ガスという毒ガスで殺されたという類例のない事実を立証するには、遺体の検死解剖の一つくらいあっていいはずなのにそれすらないのだから、疑惑を持つ人がいても不思議ではない、とは思う。
では一体どうやって毒ガスによる大量虐殺を立証したのであろうか?
流石にニュルンベルク裁判やその他の裁判で具体的にどのように立証していったのかという全貌は知らない。よほどの研究者でもない限り、膨大な裁判資料に精通している人は限られると思う。ニュルンベルク裁判資料ですら素人には手に負えない。
しかし、物証の一つである文書資料もそこそこ裁判で採用されているようである。ナチス親衛隊は徹底的に大量虐殺の事実を隠蔽しており、例えば直接「毒ガスで殺した」などと文書に記述したりしなかった。ガス室についても、残されている図面には「死体安置所」としか書かれていないし、アウシュヴィッツの火葬場に関する使用データも一切残さなかった。収容所解放前にガス室のあったビルケナウのクレマトリウムは全て解体撤去・爆破処分しており、火葬炉の一つも残っていない。それでも、ある文書の中には「ガス室」とついうっかり書いてしまったのであろう記述があったりもしたし、クレマトリウムの残存パーツからシアン成分も検出している。
さらに、裁判で採用された証言者は何百人にも上り、その多くは非常に具体的にガス室のことを証言しており、詳細な証言もいくつもあった。ガス室での殺害の目撃証言も多数存在したし、ともかく大勢の元囚人がガス室に関する証言を行なった。中でも、遺体処理を担当したゾンダーコマンドの生存者の証言は極めて詳細であった。最も衝撃的だったのはアウシュヴィッツ収容所司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言であった。彼は、他の多くの加害者側の人間とは異なり、無罪を主張しなかった。それどころか、自分から進んで積極的にそのおぞましい犯罪の全貌を裁判で語ったのである。さらに彼は、拘置所において自らの意思で回想録を執筆し、裁判時の証言よりもさらに詳細な内容であった(この自伝は日本でも普通に売ってる)。
細かい話をすれば、例えばナチス親衛隊による大量虐殺の隠蔽に関する証言でさえも、囚人は証言している。「ガス室での殺害については、「特別処理」という表現を記載していました」などの証言も何人もしている。これは事務的な部署でも囚人が働いていたからである。さらにそうした証言をしている法廷で裁かれていた加害者側の被告であった親衛隊員たちは、ガス室を全く否定しなかった。それら親衛隊員が裁判で反論したのは、自らの意思に基づく非道な行い等についてのみであり、指示・命令で行っていた任務であるガス室に関しては否定しなかったのである。
結局、後々のナチ犯罪裁判を含めそれら戦犯裁判では誰一人、ガスによる大量虐殺を否定しなかった。少数の「知らなかった」と語った証人や被告が存在しただけである。果たして、こうした証言状況で、「ガス殺死体が一体も見つかっていない以上、それらの証言は全て疑わしい」と言えるのであろうか?
ネットに多い素人否定派程度では、まさかガス室・大量虐殺を認めることになる証言が何百件もある(裁判以外も含めれば何千件になるのか見当もつかない)だなんて知らないと思うし、それらの証言の一つもまともに読んだことすらないだろう。例えばその一つを任意に選び出してみよう。
証人:アウシュヴィッツで絶滅された子供たちの移送に関しては、ゾンダーコマンド(特別部隊)で働いていた同僚から聞いたことを繰り返すことができます。この子供たちはガスで殺されました。ビルケナウの最初の火葬場で行われたテストガスの犠牲者でした。
私は3週間の検疫を経て、クレマトリウム建設班に配属されましたが、そこで初めてグラブナーと出会いました。ある時、私の仲間が50キロのセメント袋を運んでいたのですが、その重さに耐えられず、グラブナーは私のカポーに向かってこう言いました。「あの犬にとどめを刺せ」と。カポーはシャベルの柄を折って、それと自分の足を使って囚人を激しく殴り、彼は本当に死んでしまいました。これはグラブナーの指示で行われました。
その後、私は火葬場から「カナダ」という兵舎に移されました。そこでグラブナーと再会しました。グラブナーは政治部の部長で、ガス処刑される人たちの書類をモルに渡していました。グラブナーはほとんどすべての輸送列車の到着に立ち会っていました。
ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(2)|蜻蛉|noteより
人間の証言には、しばしば誤りが存在する。記憶間違いであったり認識間違いであったり誤解であったり、場合によっては意図的な嘘であったりもする。個人的に、こうした証言をたくさん海外のサイトから翻訳したので、そこそこ誤った内容を含む証言があるのも知っている。しかしだからと言って「ガス室」に関する証言のその全てが嘘になることなどあり得るのだろうか? 知っている裁判証言だけで数百件に上るのだが。
しかもそれらの証言に含まれる「ガス室」に関する内容は、ただ単に「ガス室があった」と言っているだけでなく、上にあげたたった一つの例ですらも具体的な内容を持つ証言の中で示されているのである。しかもそれらは裁判の中での証言であり、被告が法廷に存在しており、被告には証言者への質問の機会も与えられていたのに、誰一人被告はガス室を否定しなかった。
でも否定派は、それら証言をどんな難癖をつけてでも否定する。上の例では、「連合国の陰謀者によって、ガス室の証言をするように脅迫されている可能性がある」等。また、否定派が最も証言に対して使うセリフは「矛盾があるものばかりである」である。ルドルフ・ヘスに至っては、ほんの些細な記憶間違いとしか考えられない証言上の矛盾を元に、証言の全て(もちろんガス室・大量虐殺に関することだけ、であるが)が連合国によって強制的に嘘を言わされていることにされた。私はそれをいうネット否定派に対して、「ではあなたは数年前の出来事について一つの誤りもなく証言できるのですか?」と質問したがまともに答えが返ってきたことは一度もない。ひどい場合には、単なる翻訳上の間違いを元にして「この証言には矛盾がある」と難癖をつけられていたことさえある。
少なくとも、マルコポーロ事件の西岡昌紀は真面目とは言い難い。その理由は、絶対にただの一つとしてもホロコースト否定説には欠陥があることを認めようとはしないからである。実は、稀にこの「否定説の欠陥」に気付く否定派がいる。中でも否定説の最大の欠陥は、では「一体、数百万人に上るユダヤ人はどこへ消えたのか?」に答えられないことである。ユダヤ人がナチスドイツの手によって大量移送されたこと自体を否定する人はいないので(それすら知らない人は別だが)、殺されていないのなら数百万人の消えたユダヤ人はどこかに生存していなければならない。古くは、ソ連だった。ソ連のスターリンが収容所に収容しただとか、移住させたのだとか、色々言っていたらしい。だが、冷戦が終わってなお、そんなユダヤ人は全く確認することは出来ない。旧ソ連に関するそうした情報も公開されているのだが、どこにも出てこない。
ほんの僅かだけど、ネットで議論しているとそこに気づいた否定派もいた。確かにその質問には否定派は答えられない、と。欧米では、著名な否定派が、さらに高名な否定派の誰にそのことを聞いても「知らない」と返答されるだけだったので、否定派を辞めてしまった人さえいる。この重大な欠陥を認めるか否かが、ある種の分水嶺になっているとは思われる。
増田でほぼ誰も読まないホロコーストネタを時々投稿してる私であるが、「サラダ油は燃えないネタ」がバスっていると、どーーーしても気になって仕方がなかった。というのはこんな話があるからである。
死体を焼却するための火葬場は溝の中に置かれ、その底には溝の長さに沿って水路が掘られていて、(液化脂肪の)通り道になっていました。この水路からは、2×2メートル、深さ4メートルの竪穴へと分岐していました。炉の上で死体を焼却している間に、脂肪がこの穴に流れ込んでいました。この脂肪を使って、よりよく燃えるように、焼却炉の上の死体に液化脂肪をかけたのです。
これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の火葬場で、ガス室で殺されたユダヤ人の遺体焼却作業を担当していたユダヤ人ゾンダーコマンドの、ヘンリク・タウバーという人が証言したものである。なおここで火葬場と言っているのは、有名なクレマトリウムという建物の中にある火葬場ではなく、野外に掘ったピットの中に作った簡易の遺体焼却場所のことである。こうした人間の液化脂肪を利用して遺体を焼却していた証言は他にもいくつもある。
ホロコースト否認論者は、ホロコーストの定説を認めてしまうことになる証言者は嘘つきにしなくてはならない義務があるようで、この証言を「そんなことは不可能である」として例えば以下のように否定する。
確かに火で焼かれた肉からは脂肪が出てくる。しかし、脂肪は非常に燃焼を起こしやすいので、脂肪を集めることはできない。また、脂肪は沸騰せず、一定の温度(184℃)を超えると分解して燃えてしまうのである。
同様の否認論理が何人もの否認論者によって語られている。要するに、遺体にある脂肪は野外焼却をしているピットの底に垂れて流れていったりはせず、野外焼却をしているのだからそのまま液体脂肪はその焼却の炎で燃えてしまう筈だ(からそれら証言はあり得ないことを語っており嘘である)と言って否定しているのである。別に、収容所で遺体を焼却処理していたこと自体は誰も否定していないし、ガス室も関係しない話なので、無理に否定する必要はないと思うのだが、証言は嘘ではないと思う私でも、そんなことが出来るんだとトリビア的にちょっと驚く感じの話ではある。
この話が興味深いのは、焼却中の遺体の脂肪が液化して燃えずに垂れてその液体状の脂肪をどこかに一旦溜めておき、それをガソリン燃料のようにして遺体の上からかけると今度は燃えるという点にある。燃えないのに燃える、というのをホロコースト否認者が大好きな「科学的」に説明するのはなかなか難しい。動物性脂肪の引火点は200℃前後であり、発火点が280℃くらいらしいが、そんなデータを知っていてもうまく説明することは私には出来ない。ちなみに話題のサラダ油の場合は引火点も発火点も動物性脂肪よりも100℃くらい高い。
今回の事件で、サラダ油が燃えない話を知った否認論者は今度は逆に「液化脂肪は燃えないのだから嘘である」と逆の論理を使い始める気がするけど、上の引用で示した野外火葬における液化脂肪の利用をうまく説明できる人はいるだろうか? 現象としては網焼きグリルの上での焼き肉を思い浮かべれば、肉から液化した脂肪が下に垂れるのも、その液化脂肪に火が着いて燃えるのもよく見るわけだから、現象自体に不思議はないとは思いますが、科学的にそれを説明しろったって難しくて出来そうにありません。
メール越しだった。
「したがって、今回のメールにあった喪女さんの想いに応じることはできません。」
大学の勉強とは別に私が教授のことを好き過ぎて、暇さえあれば研究室に足を運ぶようになった。
けどそれは向こうからしたら、教員と学生の人間同士の付き合いであって、教授自身の娘でもおかしくない年齢の学生を恋愛の対象として考えたことはないだろうし、これからもないと思う。(倫理的に)
在学中に何度か気持ちを伝えたり、毎年バレンタインにはチョコを渡したりしても、はっきり拒絶されないから卒業前に告白して先生の彼女になれるかも///とか思ってたらこのザマだよ。普通に振られた。
改めて思うけど自分、頭沸いてたなぁ。。
女子大生だけどジジイから告白された(怒)https://anond.hatelabo.jp/20210619063749を見たことに加え、最近ラブホ女子会を友人とした時、AVを見ようぜwwという女子寮にありがちなノリになり、そのAVに出た男優さんが例の教授に似ていた(特に髪型)ことがきっかけなのか、女優さんがとても羨ましくなり、思わず号泣してしまったため、改めて懺悔したく、ここに供養する。
多分教授はこのような学生のことは覚えてないと思うけど(そうであって欲しい)もし会って話が出来るなら、仕事忙しい中研究室に居着いたり、告白したことを謝りたい。。自分があたおかすぎて死にたくなる。。
年上教員が好きな喪女!!!大好きな先生に告白したら一生の黒歴史を作るぞ!!!若さもってしても喪女と教授は釣り合いません!!!法で捌けないアカハラです。社会に出たら割と何とかなるからそこまでやり過ごして欲しいと言いたい。
孤独死にはソファーがいいらしい。遺体の液が染み出してもそのまま捨てれるからだそうだ。
買おう(決心)
(追記)
ちなみにAVを見ようぜwwという女子寮にありがちなノリとは、メンバーの中のAVマイスター的存在が企画する、行為を実況し、だいたい挿入シーンで痛そうと悲鳴が上がり終了する、ごく稀に開催される最低最悪の行事のことである。
そして教授激似の男優さんが出た時、友達は「ちょww喪女が好きな教授に激似じゃない!?wwwマジウケるwww」と爆笑していた。
福岡市西区の住宅で6月、冷蔵庫の中から夫婦の遺体が見つかった事件で、夫婦と同居し、死体遺棄容疑で逮捕された次男の無職の男(59)が「アニメのいい場面のとき、父親に介護で何回も呼ばれ、文句を言われたので殺した」という趣旨の供述をしていることが、捜査関係者への取材でわかった。
捜査関係者によると、男は6月20日夜、自室でアニメを見ていたところ、博和さんからトイレの介護などで3回呼び出された。その際、博和さんの言葉に立腹。電気ポットのコードで首を絞めたという趣旨の話をしているという。
冷蔵庫に夫婦遺体、次男は「アニメのいい場面で呼ばれ…文句言われたので殺した」 : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン
人口数について簡単に解説したけど、そのついでというかこんな話も。
ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人にありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツがドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育の世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所と絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊(映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である。現実の現地虐殺は映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。
そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラー・ナチスドイツは計画的にユダヤ人を大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的」とあるから、何やらナチスドイツはユダヤ人絶滅のために綿密なプランを策定してから絶滅計画を推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ、最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家が同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的=意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅を引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅がヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。
しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からのユダヤ人の排除だった。そして当初のユダヤ人排除のマスタープランであったマダガスカル作戦がバトル・オブ・ブリテンでのドイツの実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ人地域を東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約を勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパのユダヤ人をソ連地域へ追放するという東方移送計画が生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから、最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。
しかし、ユダヤ人のポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットーは悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さらに移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである。現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域のユダヤ人は危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。
このような流れの中、1939年頃から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮が実施されていくのである。だから、毒ガスの代表格であるとされる青酸ガス=チクロンBは最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンベから始まったのだ。もっとも、最初はポーランド・ポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域のユダヤ人殺害に転用しただけのことである。そのうちに、ガスボンベ積載車で地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジンの排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。
このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初の絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのである。リッツマンシュタット・ゲットーのユダヤ人を絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年に短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人が虐殺されたと言われる。
これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的なものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツはラインハルト作戦の収容所ではなく、そもそも一般の強制収容所・捕虜収容所であり、絶滅の機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘスの証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初のガス室はアウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのである(チクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態が不明瞭ではっきりしない)。
そして、アウシュヴィッツ・ビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所のガス室(観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月頃から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人が虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所の第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力に問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室は1942年末で使われなくなった。
では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋にビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘスが自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』である。
ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題を引き起こしたので親衛隊トップのヒムラーの命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしまう事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺の情報は外部へ漏れてワルシャワの地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。
実は、ビルケナウのクレマトリウムにガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点で問題がありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所のガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連やアウシュビッツ博物館の資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュートが1942年12月19日の図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。
修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室を否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッド・ロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダの修正主義者、エルンスト・ツンデルの扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しかし裁判所から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツのガス室とされる場所の採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンBの合法的な使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ)駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味である。しかし、これは分析のルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いから害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。
その数年後に、ポーランドのクラクフ法医学研究所がアウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフの調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず、死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。
そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコーストを勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通のホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害がホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。
同じ日の15時ごろ、農園の雇い主がリンさんの部屋の庭から「明日の10時ごろに病院に連れていく」と声をかける。リンさんは「病院に行かなくても大丈夫」と返事をした。雇い主は部屋には入っておらず、死産があったことには気づいていない。
11月16日。月曜日。10時ごろに雇い主が再び庭から声をかけ、監理団体の職員と共にリンさんを病院に連れていく。まだ、気づいていない。その後、病院に到着し、診察と検査を経て、リンさんがすでに出産していたことが発覚する。リンさんは混乱と恐怖の中で当初はその事実を否認したが、医師から警察に通報すると言われ死産したことを認める。
これは死体遺棄やむなしやろ
オリパラは国家的セレモニーで、普通そういうのはそつのない人選をするものだがかなり「挑発的な人選」をしてしかもその自覚が無い。こんな事会社勤めでやったら会社に居られるだろうか?能無し扱いされて人事の申し送りが延々と付くレベルの失態だろう。
でも社会一般ではバカ、ガキ扱いされるそんな能無し人事が政治とかTVとか社会の上の方では常態化していてその結果こんな見えてる地雷を踏む案件がしたんじゃなかろうか?
例えば西村博之がTVに出て若者に人気だったり、ネットデマにのせられて個人のデマを流布し訴えられたデビィ・スカルノがTVを追放されなかったり、パンデミック初期にコロナはインフル以下と世論を誘導したかと思えば自説の過ちを糊塗する為にPCRデマを流布して延々と防疫妨害を続けた医者がTVに出るようになったり、TVによく出ていた反がん治療論者が反ワクチンで荒稼ぎしていたり、パチンコやアムウェイのCMが流れていたり。
西村博之は揚げ足ばかりだが言う事はそんなにおかしくはない。揚げ足ばかりだけど寧ろ常識的な立場で人を揶揄論破するのがウケるのは判る。
でも脱税と民事裁判逃れの為に財産飛ばしと収入隠しをしている人物をTVに出すというのは本来かなりの冒険である。
昭和だったらヤクザに刺されたり、ボリビアの奥地で顔面を剥がされ指の指紋が全て切り取られ歯が全て抜かれ全身を焼くか熱湯が隈なく掛けられ体毛分布が判らない状態で見つかった遺体が西村さんと判明しましたというニュースが流れるようなレベルだ。
更に「2chを奪われた事実」というのは社会的には無い。合法的に事業譲渡してそう世間に発表しているのだ。
フィリピン在住の米国人極右と共謀して法的に事業譲渡するが実態は西村が配下の人間経由で管理権を掌握し続け利益もそのまま得る。
比極右ジム・ワトキンスもサーバ管理費に上乗せした利益を得る。サイト運営により発生する民事争訟は比極右持ちになるが、対米中韓の国際訴訟を扱える弁護士は多くとも対フィリピンではぐっと減るからリスクは減る。減ると言っても比極右方にはある事には変わりないが西村の方はゼロになる。
ところがクレジット情報が洩れる事件があって決済が停止してしまった。比極右方には経費が掛かっているがエサは無しだ。ふざけんな、となる。
そこで法的な契約通り、社会の体面通りに手下どもの管理権を剥奪した。広告出稿なども手を廻して西村方を干して自分らが主体となる契約にし直した。
そもそもこんなスキームにしたら刑事事件だって比極右の方に行く。更に児童ポルノなんかの放置があれば比極右は米国領に再入国すら出来なくなる。しかもサイト管理は西村の手下達がやるのにそいつらは法的な矢面に出ない。警察も欺むこうとするスキームだ。国税局もだ。舐めたもんである。
つまり悪人達が片割れにエサやらずに仲間割れしただけであって、刑事ドラマなら「仲間割れか検視室に放り込んでおけ」と死体を足蹴にするシーンでしかない。
こんな状況なのに西村は「2chを騙し取られた」と言い出したのだ。騙したのはおめえで世間と当局を騙そうとしたんだろ。法的に譲渡したけど実際はしてないという密約をしたんだろ。盃かわすだけでエサもやらないから密約の方だけ切られたんだろ。「のっとり」されても外部の社会的、法的にはなん~~にも権利関係が変わってないだろ。
こういう下剋上でもなく仲間に裏切られた悪人というのはその不幸に対する憐憫が発生しえないので単純にお笑いの対象である。
ところがこんな人間をTVに出してしまう。そして揚げ足や論破が面白いので人気が出てしまう。そして事情を知らない若者が慕ってしまう。あのさ、論破されてる人たちより間抜けでみっともない事してるんだから。ちゃんとTVもその辺の経緯を説明しろよ。ショーンkみたいな状態やんか。
「2ch創始者」みたいな肩書をテロップで出すのはやめて「共謀脱税執行財産隠蔽給餌放棄其儘法実行実権取上慌叫2ch漏所有皆笑 の西村さん」と書くべきだろう。この騒動の背景を説明せずにTVに出していい人間ではない。
政治の世界はもう非常識人事が常態化していて感覚がマヒしている。
例えばその中心人物の安倍さんは悪人ではない。彼が起こした事件で彼自身が利益を得た事は余り無い(さくらを見る会で招いた有権者を総務省の人間に接待させたという事はあるが)。
腰巾着にたかられて「良きに計らえ」と下命した事が事件化してる。逆に言うと立場が上がるに従い良きに計らえの効果が絶大になってくる事を理解しないままに社会の上に行っているのだ。
自殺者が出た責任は感じていても、組織で犠牲になり易い場所で自殺者が出るという事は得心出来ていないのではないか?経験が無いのではないか?
この人は兎に角イノセントでその辺のイノセントさが腰巾着達にたかられた原因だろうし、その結果が事件になっている。フリーターの店員が友達タダで飲食させてるみたいな騒動ばかりだった。
シリアの難民問題が猖獗を極めていた時にプーチンが国連総会だかでシリア支援の声明を出し、直後に安倍さんが「ウラジーミル!」と親しげに挨拶していたのが彼のイノセントさを特に表していたと思う。この声明は米、NATOへの対立を明確化する覚悟を示したものだった。
社会の上の方では裁量が大きくなるが責任を自覚せず使ってはいけない、それが身に付いてない者は上に行かせない、という経験律を得ていないようなのだ。
とび職で喩えると、上から足場材を落とされたら下の者は死ぬから最初は足場の上には立たせない。「上の人間が手を滑らせたら自分は死ぬ」という事を理解してから上の作業を任される。
社会の殆どでそういう構造になっていて、例えば就職活動なんかは過剰にストイックで過去のSNSでの不行跡なども許されない。
なのに国家セレモニーでパラリンピックにピンポイントの不行跡の尻ぬぐいもしてない人間を任命してしまうのだ。社会の下の方の宮勤めならあり得ない事が上の方では悠々と起きる。
これは異常な事で職場がそんな事になったら事故や倒産は目の前だ。なのに国レベル、マスコミレベルになるとそんなクソ人事しか無い。
会社で経営者の消費を経費計上する時、経理の人間は家族的付き合いで抱き込んでおく。ぶっちゃけ抱き込まずに経費計上させても密告はリスクがあるのでバレないときはバレない。だがそんな事をしたら経理がユルユルになりどこで抜かれているか見分けが付かなくなる。西村博之を出すTVなどはそういう悪事をする時の覚悟も知らないような感じである。
小山田を据えた決定をした者も同じだろうと思う。上の方は実にイノセントだ。自分が乗る飛行機や電車が事故を起こさないのはどういう社会構造に立脚していると思っているんだろうか?
因みに反がん治療論者で反ワクチン商売っていうのは近藤誠の事。
近藤の影響力が大きくなったのはTVに出たせいであり、始めに出した番組は「たけしのTVタックル」である。財産隠しで脱税、民事裁判逃れしてた西村を最初に出したのもTVタックル。ここはオウムの浅原も出していて中沢新一などより大衆層への浸潤に影響力を持っている。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
<プロローグ>
その男は一度死んだはずだった。
満月は徐々に厚い雲に覆われ、辺りを漆黒の闇に塗りかえていった。
男の傍らには、無残にひしゃげたラップトップの残骸があった。
一瞬の激しい通り雨が降ると、ラップトップは怪しげな閃光を放ち、男はその刹那小刻みに身体を揺らした。
一度は止まってしまった男の鼓動が再び刻み始める。
男は自分の置かれている状況を最初は理解出来なかったが、身体中の痛みがそれを思い出させてくれた。
男の視界の先には数刻前に彷徨っていた山道があったが、それは既に崩壊して形を留めていなかった。
ーーーぼくは、復讐してやる……
ーーーぼくを馬鹿にした全てに……
男はゆっくりと動きだすと、拾ったハンチング帽を大事そうに抱え、闇の中に消えていった。
厚い雲が晴れた満月は、紅く鈍い光を放っていた。
つづく
まだ飲み続けているのは、NPO・TWOれいほくのスタッフ里木だった。
NPOは先日代表理事が殺害されたばかりだったが、何事もなかったかのように平常運転だった。
ーーーくそ、なんでこんなとこに俺は居るんだ?
ーーーちょっと夜風にでもあたるか。
そう考えてシェアハウスの外に出た。
周囲には他に何もない。
このど田舎の暮らしは最初こそ楽しかったが、段々と生産性のない連中との生活が嫌になりつつあった。
玄関の外階段に腰を掛けると、ポケットから煙草を取り出してジッポーで火を着けた。
暗闇に一筋の白い狼煙が上がると、背後に人の気配を感じた。
里木は振り返らず、声を掛けようとしたその刹那、背中に鋭い痛みを感じた。
熱く焼けるような痛みが次第に広がり、続け様に肩、腕、首筋と刺すような激痛が走る。
ーーーな、なんだ、何が起こってる?!
彼は碌に抵抗する暇も与えられないまま、階段から無様に転げ落ちた。
転げ落ちながら仰向けになった彼は、初めて背後の主の姿を捉えた。
部屋からの逆光で影となった背後の主の顔は、深く被られた帽子でよく見えなかった。
そして、今まさに影は鎌のようなものを振り降ろそうとしていた。
つづく
彼女は目覚めると里木が居ない事には気づいたが、普通に家に戻って寝たのだろうと思い、不思議に思わなかった。
リビングには、NPO職員の森と石渡、そしてムツミの3人だけだった。
森と石渡の2人は床に転がって寝息を立てていた。
シェアハウスにはムツミ以外に3人の住人がかつてはいたのだが、NPOの代表理事の谷野が惨殺された事件後しばらくして、事件のショックからかムツミ以外全員、シェアハウスを出て行った。
ムツミも一度は去ろうとしたが、NPOの皆が余りにも不憫だったので、一人残ったのだった。
彼女が偶然にも遺体を発見したのは、起きて自室に戻ろうとした時に、ふと玄関の扉を見ると鍵が掛かっていたからだった。
扉は両開きの二枚扉で、鍵は二枚扉の合わせ目に取り付ける閂状の鉄の棒が装置から飛び出るタイプである。
その鍵は遠くからでも開閉がわかるように開いていると青に、閉まっていると赤に光るようになっていた。
その鍵が赤く光っていた。
彼女は、里木はここの鍵は持っていないから外に出たなら鍵が掛かっているのはおかしいと思った。
彼女が玄関の鍵を開けて外に出た瞬間、真っ赤な階段と恨めしそうに天を仰いで絶命している里木の姿を捉えて、あの黒い虫を見つけた時のように悲鳴をあげた。
つづく
遺体の検死や現場の捜査が行われ、事件当時にシェアハウスに居たムツミ達三人は、リビングに集められ事情聴取が行われた。
当夜は三人共に泥酔してつぶれてしまったため、当然ながらアリバイもなかった。
「そう言えば、玄関前に防犯カメラがあります。もしかしたら何か映っているかも。」
森がそういうと、玄関内にあるボックスに入った装置からデータを取り出し自分のラップトップで映像を再生した。
カメラは玄関前のアプローチを映したものだったので犯行の瞬間は捉えていなかったが、真夜中に後ろ姿の人物が一瞬映っていた。
ハンチング帽の男、概念隼人は数日前から行方が分からなくなっていた。
クラインガルテンとその周辺を探したところ、山道が崩落した下に彼のものらしき壊れたラップトップが残されていた。
しかし、そこには彼の姿はなかった。
現場周辺の数日の捜索も虚しく、一向に足取りは掴めなかった。
つづく
<モノローグ>
片一方は鎌を振り上げ、もう一方に襲いかかっていた。
しばらく攻防が続いていたが、数分の後には抵抗も虚しく、襲われた側の影が無残に崩れ去った。
戦いに勝利した影は、相手が絶命したのを確認した後、物言わぬモノとなったそれを引きずり、近くの崖から落とした。
崖下には川が流れ、その濁流にかつて人だったモノは呑まれ消えていった。
争いの中で落ちたハンチング帽を拾い上げた鎌を携えた影は、それを大事そうに抱えて急いで山の中を駆け出した。
辺りは再び静寂に包まれた。
つづく
シェアハウスの面々が解放され、捜査員が引き上げた時にはもう午後8時を回っていた。
彼らは遅い夕食として作り置きのカレーライスを食べ、落ち着いた後も、なんとなくリビングに残っていた。
暫くは三人とも黙ったままだったが、森が口火を切って話し始めた。
「あの概念さんが里木さんを殺すなんて信じられない。確かに変わった人だったけど、人を殺すような度胸とかなさそうな人だったし。
ムツミが少し考えて切り出した。
「あの、気になってることがあるんです。朝、私が気付いた時に玄関は施錠されてたのですよね。おかしいと思いませんか?」
石渡が訝しげに聞く。
「なぜ?」
「里木さんは鍵を持ってないのにどうやって外に出たの?」
あっと言って、森と石渡は顔を見合わせた。
「何のために?また、ここに来るため?
あと、概念さんはどうやって鍵を手に入れたの?私たちがいる隙にってこと?」
「里木さんが持って出たのかな。物騒だし施錠しておこうとして。」
「それでも、概念さんが持ち去る理由がないと思う。私たちも殺すつもりなら分かるけど。」
ムツミはそう言って背筋が凍るのを感じた。
つづく
シェアハウスのリビングでの話し合いは、結論が出ないまま御開きとなった。
遅い時間だったので、森と石渡もシェアハウスの部屋に泊まることになった。
ムツミは、凶器を持ち去られていることを考えると、やはり里木が防犯のために外から鍵を掛けた後、概念に殺されて鍵を奪われたと考えるのが妥当だとは思った。
だが、少し引っかかることはあった。
そこに辿り着きそうな矢先、焦げる匂いが漂ってきた。
おかしいーーー
彼女は鍵を開けて外に出ようとしたが、扉はビクとも動かなかった。
慌てて扉を激しく叩く。
大声で叫んだが、誰からの応答もなかった。
そうこうしているうちに、熱い空気と火花が部屋に舞い込んできた。
やはり燃えている!
つづく
<作者からの挑戦状>
ここまでの話で犯人を推理する全ての手がかりは与えられている。
また、そう考える根拠はどこか。
また、シェアハウスの失火は犯人の放火によるものであり、里木の殺人の犯人と同一人物である。
健闘を祈る。
<翌日の高○新聞 朝刊>
X日未明、本山町のシェアハウス「つんく」木造二階建てyyyy平方メートルが全焼し、焼け跡から2人の遺体が見つかったほか、男性1人が軽傷を負った。
軽傷を負った森さんの話によると、遺体は
石渡文太さんと永島ムツミさんと見られ、県警では現在身元の確認を急いでいる。
<森の回想>
厚い雲が晴れた満月は、紅く鈍い光を放っていた。
森は、ハンチング帽の男に悪態をつきながら、後をゆっくりと追った。
ーーーぼくは、復讐してやる……
ーーーぼくを馬鹿にした全てに……
ーーー先ずは、あんただよ!
捜査員がガルテン室内に入ると、その異様な臭いと光景で暫し立ち尽くした。
懐中電灯で照らされた暗い室内には、三つの乳幼児らしき死体が転がっていた。
腐敗が進み、白骨化が進んだ死体を見届けた後、奥の部屋から聞こえてくる打鍵音の方へ向かう。
奥の部屋には、物凄い形相でラップトップのキーを叩き続けるハンチング帽の男がデスクに座っていた。
捜査員員が声を掛けようとした刹那、ハンチング帽の男は突然金切り声で笑い始めた。
狂っている、そう感じつつもハンチング帽の男に語りかけた。
つづく
捜査員はハンチング帽の男に語りかけたが、男は不気味な笑みを浮かべたままキーを叩き続けるだけだった。
ラップトップの画面を覗くと、そこには何度も同じ文字が書き連ねてあった。
ーー何故、ぼくを置いて出て行った?
周囲には空の日本酒のビンが散乱し、ぷーんと酒の臭いが漂ってくる。
改めて懐中電灯で男を照らす。
崩れ落ちた男は白いシャツに花柄のスカートという異様な出で立ちをしていた。
「XXさんでよろしいですね?」
捜査員の問いかけに男はビクッと一瞬反応したが、そのまま動かなくなった。
顔を確認するため、ハンチング帽を取ろうとしたが何かで固定されているのかビクともしなかった。
少し力を入れて更に引っ張ると、鈍い音と共に大量の髪がハンチング帽と共に引き千切られた。
男の頭部が懐中電灯に照らされ、満月を思わせる煌々とした光を放った。
男はぶつぶつと呟き始める。
「ぼくの言う通りにやれば、サクッと月商百万は行きますねぇ。今ならこのnoteも貴方に百円で売ってあげましょう。
どうです?安いものですよ?」
つづく
ガルテンに捜査班が到達したのは、捜査員が連絡した1時間後だった。
ハンチング帽の男は、衰弱が激しいため救急車両に乗せられていった。
証拠品ではあるが、致し方ないだろう。
ハンチング帽の妻には直ぐに連絡が取れた。
麓の宗教団体の宿舎に世話になっているらしく、他の信者の付き添いがいる形での面会となった。
「あの人は家族を省みずパソコンに没頭していました。お酒が入ると豹変するんです。耐えかねた私は家を飛び出し、ここにお世話になりました。半年前くらいのことです。」
彼女は薄っすらと笑みを浮かべて、傍らの信者と寄り添っていた。
つづく
捜査員に鑑識からの連絡があったのは、宗教団体の宿舎を出て直ぐのことだった。
ハンチング帽の妻によると、娘が三人いるとの話だったが、おかしなことになった。
ーーーもう一人の女児がいない?
捜査員は意外な展開になったなと、急ぎ車を走らせた。
「春さん、遺体の検死結果はどうだった?」
袈裟春は神妙な表情で答える。
「ああ、遺体は三体とも他殺だった。
乳児は高いところから床に叩きつけられたようだ。死因は脳挫傷。
残る女児と男児は、共に斧の様なもので切りつけられたようで、死因は失血死だ。」
「他殺……ですか。」
捜査員は肝心の男児と居なくなっている女児について聞いてみた。
今、捜査班で手分けして女児の行方と男児の身元を聞き取り調査しているって話だ。」
袈裟春はそう伝えると、慌ただしく動く鑑識に指示を与え、部屋を出て行った。
捜査員はハンチング帽の男の様子を伺うため、取り調べ室に向かった。
つづく
取り調べ室の隣の部屋から、捜査員はハンチング帽の男の取り調べを眺めて居た。
ハンチング帽の男はうって変わって饒舌に取り調べに答えていた。
「やっこさん、ずっとあの調子なんですよ。
子供のことは全く知らぬ存ぜぬって感じで、自己責任とかよく分からないことを言うばかりで。」
ハンチング帽の男に依ると、子供は妻が連れて行った、自分へ全く知らないとのことだった。
男児のことも長女のことも全くわからないようで、ひたすらに自分の仕事の自慢を続けている。
「狂人ですね……。」
つづく
クラインガルテンから更に奥地にある荒地に建てられた小屋に、闇の中で蠢く何者かの姿があった。
人影が鈍く光る斧を翳すと、目の前の青年は驚きの形相でそれが振り下ろされるのを待つしか術はなかった。
あっと声をあげる間も無く、斧は青年の喉笛に一文字の醜い傷跡を刻みつけた。
その刹那、鮮血が宙を舞う。
崩れ去る青年は何かを掴もうとするように手を伸ばし空を握りしめた。
瞬く間に、物言わぬただの肉塊と化した青年を見下ろす人影。
ーーーこれは復讐……。プロブロガーは存在してはならない……。
そう呟いて、人影は返り血を拭いもせずに小屋を離れ、森の中に消えていった。
そして、荒地に再び静寂が訪れた。
つづく
その一報が入ったのは、捜査員がまだ寝室で静かに寝息を立てている時だった。
けたたましく携帯の鳴る音で安眠を妨害された彼は、不機嫌な声で応答した。
例のクラインガルテンの更に奥にある荒地の小屋に惨殺された遺体を発見したのは、同じNPO職員である森という男だった。
「猿さんが朝になっても戻って来ないので、探しに来たんです。
まさかこんなことになっているとは思わなくて……。」
彼の話によると、前日の夜にお世話になっている猟師の男のところに行くと言って出掛けたという。
死因は大量出血による失血死。
鑑識の話では凶器は周囲になく、犯人が持ち去った可能性が高いとのことだった。
念のためNPOの職員らのアリバイを聴取するも、時間が時間だけにアリバイがあるものはいなかった。
つづく
ハンチング帽の男は正気ではなかったし、その妻も他人事のようだった。
捜査線上に挙がった関係者のうちアリバイが成立したのはハンチング帽の妻のみであった。
三人の乳幼児の殺害方法について、まず脳挫傷の乳児は、ロフトの上から叩きつけられた可能性が高いことが分かった、
残る二人の幼児は、切り口に残った金属粉が荒地の小屋で殺害された青年の切り口のそれと一致したため、同じ凶器であると断定された。
しかし、誰が殺害したのか、行方不明の女児の行方や殺害された男児の身元については一向に掴めなかった。
荒地の小屋の事件の翌日、捜査員は殺害された青年が会いに行った猟師の家を訪ねたが長い間不在のようで彼の足取りも掴めなかった。
その後も、山奥の殺害現場では当然ながら目撃者もなく、徒らに時間が過ぎ去るのみだった。
つづく
衰弱はしていたものの、地下室には食料や水などが十分に用意されていたようで命に別状はなかった。
女児は血まみれの服を着ていた。
照合の結果、その血痕は殺害された三人の幼児のものと一致した。
しかし、女児の体力では斧を扱うことには難しく、殺害に関与することは難しく思えた。
「おとうさんが、みんないらないって。
おおきなぼうでみんなをたたいたの。」
女児の証言能力について認められ、ハンチング帽の男は緊急逮捕された。
彼は呟いた。
ぼくはずっとブログを書いてたのです。
早く、PCを返してください。
つづく
鬱蒼とした森の中、木の枝にぶら下がる人影が静かに揺れていた。
足元には黒光りする斧が投げ捨てられていた。
人影の顔が月明りに照らされると、そこには苦痛に歪んだ老人の顔があった。
その遺骸を見上げる人影が一つ。
彼は老人が確実に絶命しているのを確認すると、そこから離れた位置に落ちている猟銃を拾いその場を離れた。
男は猟銃を抱えたまま、また森の中に消えていった。
つづく
袈裟春は発見人の遺留品から唾液の入ったペットボトルを取り出して、軽くうなづいてみせた。
【作者からの挑戦状】
犯人は誰か?
解決編につづく
解決編1
「またお話をお聞きしたいことがありまして、お邪魔させて頂きました。」
ハンチング帽の妻は、少し怪訝そうな顔で捜査員の顔を見ていた。
ハンチング帽の妻はビクッと僅かに反応したが直ぐに冷静を取り繕った。
「我々がDNA鑑定したところ、長女はあなた方ご夫婦のDNA型と一致しませんでした。
貴女はご存知だったのでしょう?」
「あなた方夫婦に三人の娘がいるというのは、周囲でもよく知られたことだった。
しかし、何故か遺体には男児が含まれ、彼もDNA鑑定からはあなた方の子供である事実が判明しました。
ゴクリと息を飲む気配を感じる。
「多分ですが、生まれた時から女児と男児は入れ替わって暮らしていたのではありませんか?
一瞬の静寂の後、捜査員はこう告げた。
そう言って彼が目を合わせたのは、ハンチング帽の妻に寄り添う信者の男だった。
つづく
解決編2
捜査員は話を続ける。
そして、取り違えが起こった。
信者の男は少し怯んだが、直ぐに元の表情に戻った。
しかし、長女と男児が成長するにつれて違和感を感じるようになった。
そして、奥さんがDVを受けクラインガルテンから逃げ出してここに来た時に気づいてしまった。
そこに事件が起こったのです。
それをもう一人の娘が見ていた。
信者の男は不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「馬鹿馬鹿しい。では、男児も私が殺したと?私が殺す理由がない。」
捜査員は少しうなづいてこう返した。
奥さんと一緒になるにはハンチング帽の男の分身が邪魔だった。」
信者の男は凄い形相で睨み付けた。
「彼女は関係ない!私が彼女の安息のために自らの意志でやったことだ!」
ハンチング帽の妻が何か言おうとしたが、男がそれを遮る。
「神の啓示だ。プロブロガーがいる限り、私達家族に安息はないのだから……。」
つづく
解決編3
信者の男は告白するや否や、入り口のドアを開け部屋の外に飛び出した。
部屋を出た時には、別の部屋に男が飛び込むところだった。
彼が部屋の前にたどり着いたその刹那、部屋の中から銃声が響く。
扉を開いたそこには、猟師から奪ったと思われる猟銃で自殺を図った信者の男の骸があった。
しばらく立ち尽くしていると、ハンチング帽の妻がよろよろとその骸にしがみつき嗚咽し始めた。
つづく
<エピローグ>
事件の残る被害者については、ハンチング帽の妻から事情を聞くことができた。
NPO代表理事は、長女がハンチング帽の男の実子でないことに気づいたらしく、信者の男とハンチング帽の妻を強請ろうとしたために殺害されたとのことだった。
また、猟師の男については、罪をなすりつけるために自殺に見せかけて殺したようであった。
長女は責任能力のない年齢のため、当然罪には問われなかった。
また、ハンチング帽の妻も殺害に協力した訳ではないため、共犯の罪に問われることはなかった。
しかし、気が触れてしまったようで、クラインガルテンの周りを徘徊するのを度々目撃された後、ある日崖から転落してその人生を終えた。
つづく
<リ・プロローグ>
漆黒のクラインガルテンの中で、ハンチング帽の妻は自分の人生について悲壮感を感じていた。
まるで飯炊きの女中のような扱いが続き、自分の一生はこのまま終わるのかと思うと、涙が止まらなかった。
いつか白馬の王子さまが彼女を颯爽と救い出してくれる、そう願っていた。
そして、あの日。
ハンチング帽の男は一人で外出していた。