はてなキーワード: 責任能力とは
これ控訴するとして、どういう主張になるんだろうな
それとも老人の過失割合が低すぎるって方向かね
ブコメにあるよな
しょーがくせーにばいしょーせーきゅーするなんてヒトデナシ
とは控訴できないじゃん
小学生の責任能力をあらそって、無能者(責任能力なし)と認定させて
はてな村の反応
当時小学生の2人に賠償命令 学校のグラウンドで女性にぶつかる | 毎日新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20240725/k00/00m/040/178000c
概ね二つで
1.小学校で小学生が他者を骨折させる時、子供に責任はない(親にだって無い)
2.小学校だろうが他人を負傷させたのだから、家族含め責任が発生するのは当然
【2】は語るまでもないだろう
当たり前の因果関係だ
「子供のしたことだから」などという大人が出た場合、はてな村民は非難するだろう
ではなぜ今回のケースでは、「子供のしたことだから」と多くの村民が言っているのだろう?
ちなみに民法では、子どもは責任能力がない場合、賠償責任を負わないと定めている
民法では、子どもは責任能力がない場合、賠償責任を負わないと定められています(民法712条)。
責任能力とは、自分の行為の責任を弁識することができるだけの知能を有している状態をいい、裁判例などでは12歳前後が責任能力の境界線になると考えられています。
元の記事では「男性2人に」とあるので、小学生の責任能力を認めている
【1】のはてな村民は、ここになんら注意を払わずに「子供がカワイソー」って言ってる
責任能力があると認められた人間が事故を起こしたのだから、責任が発生するのは当然で、「小学生は小学校内であれば他者への傷害において責任を免除する」などと言う事はない
では、その監督責任は誰にあるのか?という事になる
(1)監督義務を怠らなかったことを立証できれば賠償責任を免れる
子どもが責任無能力者である場合は、監督義務者の親が賠償責任を負います。
・監督義務を怠らなくても損害が生じたこと(因果関係がないこと)
ただし、親が監督義務を尽くしていたということの証明は、非常に困難であり、多くの裁判例などで親の責任が肯定されてきました。
小学校3年なら賠償請求されないかと言えば「そんなことはない」
ちなみに有名な「サッカーボール訴訟」では最高裁で親の監督責任は完全棄却されている
フリーキックの練習で過失によってボールが外に出たのは親の躾の問題ではないという判決
今回の件に「小学校で小学生が」を理由に掲げてる奴が居るが、だから「過失相殺」されているのだ
この日本では小学校でグランドの中央を歩くのは「6割の過失」に相当する行為とされる
小学校でグランドの中央を歩くのは10割の過失とでもいうのか、怪我したのが小3男子だったら?
グランドの中央を歩くやつが悪い、10割の過失だ、骨折させても小6男子に過失割合なしってか?
大丈夫か?
最高裁まで争った場合で、子供側への請求が無くなるのは2ケース
https://anond.hatelabo.jp/20240725094546
確定申告を何度も注意されても放置して多額の脱税をしたにも関わらず、周りからはよしよし、よしよし
裁判長(女性)からは「お金に興味が無い性格だったんでちゅよねぇ、仕方無いですよねぇ、反省ちてね❤」とよしよし、よちよち
仕事も無くならず、打ち切りにもならず、社会的にもあまり責められず、やれ出版社(男性編集者)が悪い、税金に不知な女の子に厳しすぎる逮捕をする社会(男性社会)が悪い、お金の事を注意しなかったパパ(男)が悪いと、よちよち、よちよち
36歳にもなっても、いつまで経っても女の子扱い、それが女性という性
例え成人しても禁治産者並に責任能力を問われない側の性は羨ましいでちゅねぇ
自由意思って何ものにも左右されない意志が存在するのかどうかって話で
それが存在するのかどうかは知らんけど
どうして成年と未成年間の交際がよくないかって理由を聞くとさ、みんな揃って倫理観が……って言うじゃん
でも、未成年と恋愛するのがタブーなら、そもそも未成年同士の交際もタブーになるべきじゃん?
あるいは、未成年だから、未成年の恋愛がタブーであることを理解していないためOKって整理なの?実際どうなの?
責任能力に関したってさ、そんなこと言ったら精神障碍者は交際できないことになるし、未成年同士なんて責任能力皆無の最たる例じゃん
でもタブーじゃないよね
要はこれらの理由なんか後付けなんだよ
年増女どもが若さで勝てないからって、成年以上の優良物件男を独占するために、未成年との交際をタブー視してるんだよ
本当に気持ち悪い ゾッとする 最もらしいことを言っておいて、結局は自分が得するようにしてるんだよ
結局は未成年になんかまともな人権はなくて、みんな成年にとっての都合のいい奴隷・資産なんだよ
未成年でも好きなようにしていいじゃん
自分がキャリアも男も欲しいからって、男だけいればいい女から男を奪って
自分勝手すぎるよ
見てなよ、そのうち経済的安定を得られる年代が20代、30代、40代と上がっていって、いつか30より下の女に手を出したらタブーとか言われるようになるから
本質論を言えば「人として接する」は具体的な行動指針に還元できるものではないよ。教会に行くことが神を信じることとイコールではないように。神を信じるとは、神の存在を前提した世界に生きることだ。何故とつぜん神の話をしたかといえば、「人として接する」は実際にひとつの宗教だからだ。「個人」や「人権」の概念はキリスト教に由来するところが大きい。坂口ふみ『〈個〉の誕生』は良い本なのでおすすめしたい。
だからこの信仰について言葉で語ることは本当はできないのだけど、あえてその教義を表現するなら
あたりになると思うけど、そう言われて分からない人は分からないだろうし、こんなふうに書いてもあまり意味はない。
断っておくけど、わたしはこれが分からない人を〈悪い〉とは考えない。たんにこの神の教えに入信していないというだけだ。もちろんこの教義に照らせば「悪」なんだけども。
とはいえ、「入信しているフリ」ができないわけではない。その方法をお教えしよう。これはわたしもやっていることなのだけど、その方法というのは、「人間を徹底的に、本当に徹底的に馬鹿にすること」だ。軽蔑にしすぎて愛おしく思えてくるくらい徹底的にね。愚かで、矮小で、醜悪で、しかも自分がそうであることに全く気付かすに自信満々に生きているおかしな生き物たち。ただの自然現象に過ぎない、川の流れの中に生じた淀みみたいな存在なのに、自分は自由意志を持つと信じる憐れな自己複製パターン。そんなふうに人々を見てみよう。言うまでもなくこれは先に挙げた教義のうち上2つの完全な否定だ。しかしここで重要なのは、3つ目の教義は維持すること。つまり自分もそういう憐れな淀みに過ぎないと思うこと。これがいちばん重要なことだ。「すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。」ある詩人がこんな事を言っていたけど、これは真理だとわたしは思う。
わたしも以前は「人を人と思っていない」と他人から嫌われたものだが、このような態度を取るようになってから、そういう批判はもらわなくなった。それどころか、いっぱしの人格者だとみなされているフシがある。「人として接する」がどういうことなのか、根っこのところではまだ良くわかっていないのにね。あるいは案外、みんなそうなのかもしれない。まあとにかく、徹底的に人を軽蔑するというこの指針を試してみてほしい。「徹底的に」やるのが大事だ。「人として接する」という抽象的な表現よりはだいぶわかりやすいのではなかろうか。