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はてなキーワード: 虐殺部隊とは

2022-03-16

降伏したウクライナに起きたこ

ナチス降伏した時の話

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチスドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

2022-03-05

anond:20220305041820

ナチス占領下でこれが起こったのは事実なんだが?

歴史修正主義者か?

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチスドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305041515

戦死するかどうかも戦わないとわからんじゃん

こうなる可能性もあるから

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

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anond:20220305041307

そうなるとこうなるから

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

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anond:20220305041133

こうなるより一か八かで、日中戦争みたいになるのを狙ってるんでしょ

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

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https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305040940

からキチガイ降伏してもこうなるって

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

anond:20220305040241

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

anond:20220305035026

戦わないとこうなるけどな

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

2022-02-28

第二次世界大戦占領下のウクライナ

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

2022-02-27

第二次世界大戦ウクライナ歴史

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

はてなーってウクライナ歴史とか知らないの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/4715993805323770530/comment/hanajibuu

勝ち目無いならさっさと降伏しろ日本降伏たから今の繁栄がある。生き残ればやり直せる。

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

2021-07-23

アウシュヴィッツガス室への誤解

anond:20210718162617

人口数について簡単解説したけど、そのついでというかこんな話も。

 

大したプランもなしに始まったガス室

ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人ありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である現実の現地虐殺映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。

 

そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラーナチスドイツ計画的ユダヤ人大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的とあるから、何やらナチスドイツユダヤ人絶滅のために綿密なプラン策定してから絶滅計画推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅ヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。

 

しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からユダヤ人排除だった。そして当初のユダヤ人排除マスタープランであったマダガスカル作戦バトル・オブ・ブリテンでのドイツ実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ地域東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパユダヤ人ソ連地域追放するという東方移送計画生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。

 

しかし、ユダヤ人ポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットー悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さら移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域ユダヤ人危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。

 

このような流れの中、1939年から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮実施されていくのである。だから毒ガス代表であるとされる青酸ガス=チクロンB最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンから始まったのだ。もっとも、最初ポーランドポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域ユダヤ人殺害転用しただけのことである。そのうちに、ガスボン積載車地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジン排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。

 

このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのであるリッツマンシュタット・ゲットーユダヤ人絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人虐殺されたと言われる。

 

アウシュヴィッツビルケナウのガス室はどうだったのか?

これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的ものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツラインハルト作戦収容所ではなく、そもそも一般強制収容所捕虜収容所であり、絶滅機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘス証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初ガス室アウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのであるチクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態不明瞭ではっきりしない)。

 

そして、アウシュヴィッツビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所ガス室観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室1942年末で使われなくなった。

 

では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋ビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘス自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室操作技術である

 

ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題引き起こしたので親衛隊トップヒムラー命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしま事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺情報は外部へ漏れワルシャワ地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。

 

実は、ビルケナウのクレマトリウムガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点問題ありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所ガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連アウシュビッツ博物館資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュート1942年12月19日図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。

 

このややこしい経緯のあるガス室全否定する修正主義者

修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッドロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダ修正主義者エルンスト・ツンデル扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しか裁判から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツガス室とされる場所採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンB合法的使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味であるしかし、これは分析ルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いか害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。

 

その数年後に、ポーランドクラクフ法医学研究所アウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフ調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。

 

ガス室を正しく理解するのは難しいけれど

そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコースト勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通ホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害ホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。

 

でも、一部のネット民全然学ばないで修正主義に走るんだ、これが。なんでなんだろうね?

恐ろしく誤解されてるホロコースト犠牲者数について

anond:20210720153943

その割には、アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ、今はドイツ国公式見解100万人ということになっているが、その実態10万人である

なぜ600万という途方もない数字が出たのか回答していただけないだろうか?

 

強烈に誤解されることの多いホロコーストにおけるユダヤ人虐殺数。

 

600万人と言う数字にどうしても目が行ってしまうため、その途方もない数字に信じ難いと言う気持ちが起きるのでしょう。ちなみに、「アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ」や、「ドイツ国公式見解(何それ?)100万人」だとか実態が「10万」なんてどこから出てきたのか知りたいところですが、まぁそれはいいでしょう。一応全部間違いです、そんなの聞いたことありません。

 

先に、私は研究家でもなんでもなく、本やら様々なネット情報海外サイトが主)を色々と調べ回っただけの知識しかないと断っておきます

 

どうやって600万人と言う数字が出てきたのか。

これはまず、ナチスドイツ内でアイヒマンが語っていたとされる数字として、ニュルンベルク裁判である親衛隊将校が語りました。それによると「収容所で400万人、それ以外で200万人」という数です。これが最初に出た600万人ですが、実は別にニュルンベルク裁判では判決で触れられているだけで、別に認定などされていません。また、ニュルンベルク裁判起訴状に「570万人のユダヤ人ヨーロッパから消えそのほとんどがナチスに殺された」なる文言がありますが、これもまた別に認定などされていません。

 

そして、裁判以外で、1950年から人口統計学者によって600万人や550万人以上のユダヤ人人口が失われていると計算されるようになります。で、今度は歴史家ジェラルドライトリンガーの方から反ユダヤ主義意識して」極力最低限の数字計算し419〜458万人という数字を弾き出します。以降、有名な『ヨーロッパユダヤ人絶滅』の著者であるラウルヒルバーグが1961年に510万人という数字を弾き出しました。

以降様々な研究者が発表してきましたが、概ねの間違いない数字としてはユダヤ人600万人説が変わったことは実際一度もありません。以上のように、例えば「ニュルンベルク裁判勝手に決められた数字であるとか、「イスラエル公式数字である」とかは全然違うわけです。おそらく適当数字は一つも無く、近年は非常に膨大な資料を用いて推計しているようです。

 

ではあのアウシュビッツは? というところですが、アウシュヴィッツについては最初は基本、二つの数字からまります。何故二つあるかというと、その出所が違うのです。一つは、よく言われる400万人説です。これはソ連の0018-USSRと呼ばれる戦争犯罪調査委員会報告書1945年5月)です。ここに、400万人という数字が登場しますが、この数字報告書上は火葬能力からの推計値と書かれていますが、それはあり得ないと言われています火葬能力があり得ないのではなく、火葬能力で推計値を出すということ自体があり得ないわけです。問題は実際に殺した人数だからです。では一体どこから400万人説が実際に出てきたかというと、それはおそらく火葬場で働いていたユダヤ人ゾンダーコマンド生存者の証言です。その中に400万人説が出てくるのです。おそらくソ連はそれを聞いて、火葬能力など何も調べずそれっぽく推定たかのように書いたのではないかと思われますしかし、奴隷労働をしていたゾンダーコマンドが正確な数字を知るはずもなく、単に囚人同士で噂話のように推計していただけの数だと思われます

 

ところが、1946年3月に、逃亡していたアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘス逮捕されます。ヘスはニュルンベルク裁判証人になったとき証言で「250万人を殺害し、50万人は病死餓死でなくなった」と証言したのです。ところがこの250万人という数字は実際にはヘスが現場で知った数字ではなく、アイヒマンに教えてもらった数字だと答えています。何故なら、犠牲者数の数を記録することを許可されていなかったのです。ただしヘスは司令官なので、それなりに犠牲者数の実感は持っていたようで、250万人は多すぎると自伝に書いています

 

なので、アウシュヴィッツ犠牲者数は、最初はこの250〜400万人説からスタートしたのです。が、実際にはすぐにこれは多すぎるとわかっていました。何故ならば、研究者によると、アウシュヴィッツへの囚人移送記録が出発駅や経由駅などにたくさん残っているので、それをもとに計算すると、いくらなんでもそんなに大勢ユダヤ人移送されたはずがないことが明らかだったそうです。それで、前述したライトリンガーなどは80〜90万人だろうとし、ヒルバーグは100万人とします。で、現在数字は、アウシュヴィッツビルケナウ博物館主席研究員であったフランシスゼク・ピーパー博士による研究成果として、110万人(ユダヤ人以外も含めて150万人)の犠牲者が出たとされているのです。

 

以上の通りなので、例えば「以前はアウシュヴィッツ公式プレートは400万人だったのに今では110万、なのに何故トータル600万人が変わらないのか?」が誤解であることはお分かりいただけるかと思いますそもそも600万人の数字計算の中に400万人説は含まれていないからです。

 

それ以外の収容所犠牲者数の細かい計算方法は存じておりませんが、最もわかりにくいのがソ連ウクライナバルト三国など)でのいわゆるアインザッツグルペン、移動虐殺部隊を主体とした現地殺害による虐殺数で、広い範囲でたくさんの場所で細かな殺害が行われたため、いまだによくわかっていないそうです。概ねの数字で言えば100万人から200万人の間だろうとされてはいます

 

さて、もちろんこんな数字修正主義者達は全く否定しております。はっきりした数を言わないのが修正主義者で、ないとも言っていません。修正主義者達は、人口調査すら自分達でした気配もありません。たまに適当なことを言って「600万人などあり得ない!」と主張するに留まります。でも、大勢ユダヤ人移送されたことは認めているのです。で、どっかに殺されずに消えたんだと。私には修正主義者が何を言っているのか意味がわかりません。修正主義者は、例えばアウシュビッツであるとか、トレブリンカ・ソビボル・ベウジェツなどのいわゆる絶滅収容所絶滅収容所とは認めず、「通過収容所」と読んでおり、そこまで移送されたことは認めるのに、その通過収容所から先を言いません。言ったとしても「ミンスク1000人移送されたことはわかっているから通過収容所であることは間違いない」であるとか、その程度です。実はこのことが、修正主義者の最大の問題であり、修正主義者達はこの件の答えを常に誤魔化していますが、絶対にはっきりしたことはいいません。もちろん一般歴史家は全員が「虐殺された」です。

 

ともかく、それら犠牲者数の数字は、色々な人たちが様々な資料検討した上で推計した数字であって、別に適当数字を言っているわけではありません。中にはよくわからない計算方法で算出している人もいるかもしれませんが、一般に言われている数字は全て研究者達が推計した数字です。ですから別に誰も数字を盛ったりしていることもありません。

なお、最新のユダヤ人人口統計でさえも、ユダヤ人人口数は第二次世界大戦中の最大値を回復しておりません。ともあれ、戦後様々な推計結果はあったとはいえ、概ね600万人という数字は一度も変わったことはなく、最近でもそれはありません(リビジョニスト達はしょっちゅう「600万人説は既に信じられていない」だとかのデマをばら撒いていますがね)。実は、ユダヤ人人口を把握している元は、ユダヤ人教会みたいなシナゴーグなのです。シナゴーグなしにはユダヤ教はあり得ないので、シナゴーグ管理しているユダヤ人数を集計すれば自ずとユダヤ人の数はわかるのです。もちろん近代的には国勢調査で把握される宗教人口もありますが、昔は主にシナゴーグ集計を使っていたようです。ですから戦前などの場合は、ユダヤ人協会に聞けばわかったので、ナチスもそれを元に殺すべき人数を知っていたわけです。

  

以上簡単ですが、おわかりいただけたでしょうか。それでは失礼いたします。

 
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