はてなキーワード: 西洋化とは
右か左かの問題じゃなくて、「とりあえずアメリカだけが悪い事にしとけば全て解決」という思考停止が問題なんだと思う。
全部じゃないけどある種のリベサヨは、「戦争に反対している」というポーズをとりながら実は戦争そのものには反対してなくて、とにかく「アメリカの悪口を言いたい」それだけなんだよ。
しかしあいつらはアメリカが戦争でやった事だけはボロクソ貶すがロシアその他の国が同じ事をもっと大規模にやってもスルーか擁護する。
本当に戦争そのものに反対してるならどちらも平等に批判するはずだ。
だが、アメリカが学校や病院を誤爆で空爆すれば大騒ぎするが、ロシアやアサド政権が学校や病院を故意に狙って空爆してもスルーか擁護か、果てはなぜかアメリカのせいにする。
べつに「アメリカは誤爆しただけだから許してやれ」とは言ってない。
よって、ましてや故意に民間人を狙って虐殺したならもっと激しく批判されるべきだ。
つまり彼らが批判するのは「戦争」ではなく「アメリカ」なんだよ。
普通に考えて、特定の国家に対して異常な憎悪を燃やす人間が大勢いるのは、「戦争」に向かう第一歩だよ。
しかしクソなのはネトウヨだけどそれ以上のクソの上に「ヤベー」のはリベサヨの中の反米極左だよ。
マトモなリベサヨはヤバくないが反米極左はネトウヨよりヤバい。
ネトウヨどもの韓国や中国に対するヘイトスピーチは非常に醜く擁護する余地はないが、とはいえ奴らは「中国ともう一度戦争しよう!韓国を再び植民地にしよう!」とはけっして言わない。
なぜネトウヨが嫌韓嫌中になったかというと、韓国や中国が、過去の戦争や侵略の事で日本に反省を求め続けるのが「非常にしつこい」と感じてるからなんだよ。
加害者側がどう感じようが正当な主張だけどな。
しかも加害者側が「もう戦争も侵略もこりごりでござる」ってなったんだから、しつこく批判してきて正解だったわ。
他の国の極右やネオナチにつきものだけど日本のネトウヨにだけは無いのが「拡張主義」だ。
今ロシアがやってるように、過去に一瞬でも自国の領土だった土地は全て我が国が取り返す権利があるとして周辺国を威嚇するのがたいていの国の右翼なんだが、日本のネトウヨだけは、韓国中国の非常にしつこい(だが正当な)謝罪要求にウンザリしてて、
あんな国々を侵略してまたしつこく批判されるのは二度とゴメンだと考えてて、拡張主義の発想そのものが無いのが特徴なんだよ。
そこいくと反米極左は「チェ・ゲバラが、日本は原爆落とされてなぜアメリカにやり返さないんだ?と言った!」とかそういう話が大好きだよな?
そこまで行かなくとも、暴力を伴うヤベー動きをする危険性があるのは、ネトウヨよりも反米リベサヨの方だよ。
あとリベサヨのアホな勘違いは、これはそこまで反米極左でもないマトモなリベサヨでもやりがちな間違いなんだが、
ネトウヨはアメリカ嫌いだし、欧米とか白人とかキリスト教とかまとめて嫌いだぞあいつら。
ネトウヨは自由・人権・民主主義・反差別といった「近代西洋の価値観」に反発してるからネトウヨなんだよ。
上から目線で価値観を押し付けられてるように感じて嫌なんだよ。
だから「アメリカから押し付けられた憲法を変えろ」と主張してるんだし
ネトウヨが中国や韓国を嫌うのも、リベサヨが考えてるような「白人様に媚びへつらいアジア人を見下してる」とかの理由とは全く逆で
同じアジア人でありながら中国人や韓国人は家畜化された日本人と違ってデモとかで激しく自己主張したりいろいろ意識が「西洋化」してるように見えるから気に入らないんだよ。ネトウヨにとっては。
rateyourmusicで 1.68/5.0。AOTYで25/100。とレビュー投稿サイト(フィッシュマンズの評価が高いサイトもここ)で非常に悪いスコア。
「こういうサイトはK-POP自体評価しないんでしょ」と思うかもしれないけど、実はTWICEなどは中々の好評価なのでそれは的外れ(某評論さんはあのグループはJ-POPだと小馬鹿にしてましたね)。
レビューみると「どんどん西洋化して退屈になってる」「才能があったのにダイナマイトからおかしくなってる」みたいな批判もあって、成功とは裏腹にアーティストとして評価を落としてる現状があるようだ。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
日本の伝統でしょ?
江戸時代の人々は普段肌着で生活をしていたが、西洋化を進める明治政府から服を着るように強制されたみたいな記述をかつて教科書に載っていた柳田国男の著作で読んだ気がする。大人になって読んだ昔の風俗を紹介した本で、江戸時代の人は肌着どころか服すら着てないから時代劇は嘘っぱちみたいな記述も読んだことがある。たしかに、飛脚とかは褌に半纏を羽織って仕事しているイメージがあるし、大名行列を再現するときは足軽的な人は下に褌しか履いてない。力士は廻ししかつけてない。
だから、家の中で服を脱ぎ去ってリラックスするというのは日本では普通のことだと思っている。サンプル数2で申し訳ないが、うちの親父もそうだったし、配偶者の親父もそうだった。肌着でないにしても、外で着るような窮屈な服を脱いでパジャマみたいな服に着替える人は多いのではないだろうか。
...と書きながら、江戸時代はそもそも家に風呂がないのが当たり前だったのを思い出した。花火大会に浴衣を着ていくのは昔の名残だけれど、そもそもあれって風呂上りに着るパジャマで、要は湯屋に行った帰りに花火鑑賞していたのの再現なんだよな。その概念で見れば、通りを肌着や裸の人が歩いていたという話も合点がいく。そこは公共の場所なんかじゃなくて、風呂と寝部屋の間の廊下なんだから。
一話目が主観目線で希望のない荒野を映し出したのに対して、二話目は完全に客観目線なので感情移入より社会派を目指したのかな、という冷静な目線に立ち戻ってしまう。要するに突き放した目線で見てしまう。内容もナショジオなどで取り沙汰されたクマリの儀式を模したもので、作中の価値観は極めて現代的な「自由」を標榜したもの。
人身御供などの題材は普通、洗脳下における人物の感情の無情さ、無機質さ、怖さが必ず絡んでくる。あるいは逆に、そうまでして守りたい信心というあらゆる意味で多角的に文化を捉えなければならないものでもある。今回はそうした重みのある題材を軽々しく作品にしてしまった。こうしたものの取り扱いには現地の倫理観という優先すべき事項も存在するわけで、外人であるほぼ西洋化した日本人の感覚で語ることは、本来あまり歓迎すべきことではないように思える。タンクトップの女も民族衣装的ではなく、歴史を正視するノイズになっている。
一方(原作未読だが)二話以降は感情の伴わない神が送り出した物体と少女との不思議な交流がメインとなるわけで、感情が伴わないものと感情豊かなもの、死なないものと確実に死にゆくものの対比が描かれる。そう考えると歴史的に行われる人身御供や巫女の儀式は全くメインではなく、視聴者が感じる旅情感と作品のメインモチーフである「人であることとは」という現時点の問いかけに全力で振り切っていると言い換えたほうが適切なのかもしれない。それならなぜ重たい背景を持つクマリをあからさまに題材にしたのかという疑問点は残るが。
まとめたよ
自由の表現戦士はあらゆる常識を無視して女の股間とおっぱいのためにだけに今回も戦ってたろ。いい加減にしろ
しかも今回の件に関しては海外からyellow feverの二次元アイコンの外国人アカウントも参戦
『日本人女性が西洋化して嘆かわしい(フェミ化が嘆かわしい)』
『フェミニストに屈するな』
とか外国人がやってたけど
○ ゲイ向け下着ブランドの広告(YouTubeに垢BANされない非常にマイルドな広告)
関連増田:発達障害(特にASD)のマジョリティとかけ離れたセックス意識をキモヲタは空気読めで片付けない (anond:20201108165744)
1、
t.A.T.u.がオッケーだったからロシアならいけるかもだけどそのt.A.T.u.には
「アジアでは特に人気でした。わたしたちがステージで身につけていたような制服を着た女の子たちを扱ったポルノがとても多かったから」
とユリヤは当時を振り返る。
レズビアンのイメージで一躍有名になったポップスデュオt.A.T.u.の2人に何があったか? - ロシア・ビヨンド
https://jp.rbth.com/arts/81382-tatu-no-futari-ni-nani-ga-atta-ka
とか言われちゃってるけどな
2、
話の本筋に関係無いから書かなかったが、初コラボ時からタイツフェチ絵提供で絡んでいる よむ氏 は『男性』
これが公的機関ならばともかく、私企業の案件なので、断る理由が無ければ、仕事を受けて責められる理由も無い
もちろん燃えてれば自衛のために企業と距離をおいただろうがそもそもフェチアニメのコラボで燃えなかった
そしてアニメコラボは販促の関係でおそらく断れるヤツでも無かったろうし
いままで燃えずに過ごせた敬意から、みるタイツの作者も途中参加のクリエイターたちも、
平安貴族の男性は人前で冠を取って髪の毛を晒すのが裸を晒すのと同じくらい恥ずかしかった。
何故こんな訳のわからん羞恥心が芽生えたのか、おそらく大元はハゲ隠しではなかろうか。
多分帝か何かがハゲ隠しの為に部屋でも冠をかぶり続けた結果があのマナーなのでは。
実際清少納言の父親はお祭りで落馬して冠を落とし禿頭を晒してしまった逸話がある。
おっさんのハゲ隠しを自然に行うために若者達も頭を隠したと考えるのが自然だろう。
戦国武将はさらにハゲへの優しさが過激化し、若者までハゲのように頭髪を剃るようになった。
兜で頭が蒸れないためとか言うが、平民までくまなく流行したのはそれだけでは説明がつかない。
若い頃から頭を剃りあげる事でハゲを隠し、いよいよ無理になった時は出家してツルッパゲになる文化はハゲへの優しさが溢れている。
anond:20191109191407で紹介されているやつな。機械翻訳にかけたあと適当に修正しただけなので誤訳勘弁。
大正ロマン(大正浪漫)。日本の大正時代 (1912〜1926)をロマン化した(romanticized)視点で表現する風潮のこと。
(中略)
本来、大正ロマンは韓国で特に批判される要素がなかった。しかし、2016年の『アイドルマスター ミリオンライブ!』右翼議論の後に、大正ロマンが間違っているという主張が一部のオタクの間で提起され、急速に伝播されて、いくつかのインターネットコミュニティを中心に大きな議論を呼ぶようになった。
韓半島の歴史的には、大正ロマンの前半は、日本植民地時代の武断統治期、あるいは文化統治期初期に該当していた時期で、躊躇なく野望を曝け出した民族抹殺統治期よりは相対的に良いが、知ってのとおり制服を着た日本の憲兵/巡査が韓半島で悪名を轟かせていたので、大正時代をひたすら肯定的にのみ見ることには無理がある。軍服だけ除けばどうかという人もいるが、明治以降の西洋化は日本政府と軍隊が主導して民間に広がったものであり、また大正ロマンにおいて日本軍と制服は概ね必須要素だ。それが無ければぎこちなく感じられる。少なくともマントを羽織った学ランは出なければならない。
これらの背景には、日韓両国の時代を眺める視点の違いがいくつかあるが、韓国は帝国主義時代の日本全体を否定的に見る傾向があり、日本は軍部が政権を掌握した昭和時代以前の帝国主義については一面的に否定的な評価をしない。そのために、日本のメディアでは「あの頃のように帝国主義に戻って大きく強く豊かな日本を作ろう」といった極端なメッセージを含んでおらず、単に「ユニークで美しい時代だった」という意味しかなくとも、周辺国では拒否感を覚える場合がある。
本来、韓国で大正ロマンは批判される要素ではなく、いくつかのインターネットコミュニティを除けば、大正ロマンの批判はない。特に植民地支配を擁護する要素がないのであれば、韓国の一般人にとって大正時代は何の変哲もない時代であるだけだ。ポン・ジュノ監督は、鈴木清順の大正ロマン3部作のブルーレイBOXを購入したとインタビューで述べたが、誰も問題にしなかった。日本へのパッケージツアーで大正ロマンのコンセプトカフェに行くこともあるし、大正ロマンを題材にした日本の文学作品が流通することもある。そもそも韓国でもこのようなものが存在することを知らない人が大半である。
韓国でもその時代を扱った作品を見ると、大正ロマンの必須要素がすべて登場する場合が多い。大正ロマンの説得力のある描写とされている要素が、日帝時代、特に1920〜30年代を舞台にした作品でも、同様に美化されて描写される。主に日本植民地時代を時代背景にした作品の中で、日本の悪行や独立運動のような重い素材ではなく、恋愛や芸術などの軽い素材を扱った作品で、このような要素が著しく現れる。パク・チャヌクの『お嬢さん(映画)』の衣装監督は、最初から大正時代の反物を探して駆け回った。しかし、これをもって、その時代を美化したと批判する人はいない。これは、韓国でも三・一運動後から太平洋戦争以前の時期までは、文化統治と経済の好況という流れがあったからだ。
実際、韓国オタクのなかでも、大正ロマンの批判をする風潮は、あまり古くからあるわけではない。2000年代後半、さらに2010年代初頭までは、韓国オタクたちも大正ロマンは良いという話を公然とした。この時期に、韓国でよく挙げられた代表的な作品としては『るろうに剣心』がある。ツイッターなどを検索すればログが残っているので確認可能である。大正ロマンが問題視され始めたのは2010年代中盤だと言うことができ、この時期に起きた事件は、2016年1月の舞台『あんさんぶるスターズ!』 右翼議論である。正確に何をきっかけに突然大正ロマンがタブーになったかはわからないが、概ね韓国の成長と民族主義化、日本の右傾化が原因と思われる。
とりあえず、昔からタブー視されてきた日本帝国と日本の軍服要素に対する批判が、大正ロマン全体に対する批判に拡張されたものと思われる。大正ロマンに批判的ではないコミュニティでも、日本軍の要素については批判的な態度をとる場合がほとんどである。
また、『ヘタリア』(ウェブコミック) 、『進撃の巨人』(作者がプライベートにおいて自分の政治的・歴史的な見解を発言した)などの後に、「避難所ドットコム」などの女性向けのコミュニティで、右翼的な要素が徹底的に検閲された影響もある。おりしも2010年代中盤に入って際立ったコミュニティの先鋭化も少なからぬ影響を及ぼした。現在は、男性の多いコミュニティでは日本軍服など軍国主義要素は批判しても大正ロマンに対しては問題を感じない人々が大半だが、ツイッターおよび女性の多いコミュニティでは大正ロマンは軍国主義の美化および戦争の美化と同一視して、徹底的に排斥しなければならない要素として扱われている。
(後略)