はてなキーワード: 楽屋とは
www.buzzfeed.com/kazukiwatanabe/gay-student-sued-hitotsubashi-university
ゲイのAくんは、周囲にカミングアウトする前に、Zくんに告っちゃったとのこと。ゲーム開始直後にラスボスに挑むくらい無謀。
カミングアウトだけならまだノーマルな人にも受け入れられやすいだろうし、それなりに賢い人達だろうからAくんが露骨に差別されるなんてことも無かったのではないだろうか。そこを飛び越えて、男と男の関係になってくれ、というのはあまりにハードルが高すぎる。ノーマルな人がゲイのパートナーになれと言われることは、すなわち「お前もゲイになってくれ」or「バイになってくれ」と言われていることである。
喩え話は、どこかしら齟齬が出るせいで、却って話を混乱させることもあって難しいのだが、あえて宗教にたとえてみたい。日本では宗教の自由が認められているし、隣人の宗教が何であろうとあまり気にしない人が多いと思うが、その隣人がその宗教に勧誘してくるとなると話は別だろう。だいぶ前の話だが、内村プロデュースというテレビ番組の楽屋で、おさるがレギュラー仲間に宗教勧誘&投票呼びかけをしたら、内村に怒られたという話について、みなさまはどちらに共感できるだろうか。
私は剛力彩芽の大ファンだ。彼女にはいろいろ批判がある。ネット何かを見ているとごり押しだとか不細工だとか範馬バキだとか言われる。
半ば暗澹たる気分になることもあるが、そんな批判は抜きにして、彼女のことを応援している。
そんな私が、彼女を応援しているがゆえに気になっているのが、彼女が日常的にどの程度ランチパックを食べているのか? という問題だ。
山崎製パンが提供するランチパックは長い歴史を有するパンで、初代のピーナッツは1984年に販売されている。
基本の六種類に加え、訳のわからない抽象的で特殊な味を提供することでも認知されている。
ランチパックのCM。剛力彩芽の魅力を56000%くらい最大限に発揮した素晴らしいCMだ。
ランチパックの手軽さ、ポップさと彼女のイメージが最大限にマッチし、火星圏を含めたCMの歴史の中で、個人的には最大の素晴らしいCMと言えよう。
ランチパックと剛力彩芽は、譬えるならば、シュワルツェネガーとコマンドーとの相性だ。
さて私は如上のように考えるから、剛力彩芽が普段どの程度ランチパックに親しんでいるか? という問題は切実だ。
別に食べていなくてもいいのだが、この剛力彩芽とランチパックとの関係性・程度を知ることで、私のランチパックと剛力彩芽との関係性への認識を深めることはまったく相違ない問題である。
そこで私はそれを知るために未来へのタイムワープを繰り返した。
かつてのSFではないが、未来へ行く可能性と過去へ行く可能性がもし五分五分だったなら、私はどんなに良かっただろう。賭ければいいだけのことだったのに。
そうそう。なぜ未来に行くかと言うと、剛力彩芽がランチパックをどの程度食べるか? という問いを解決するためだ。
未来においては、空間の成分や空気の振動をネットやテレビなど電子製品の電子から検出する技術が確立されていよう。
剛力彩芽の自宅や楽屋、近くのコンビニに、電子的に接続されたネット環境やあるいはカメラなどがない、全く無い、と言う可能性は低い。
未来のデバイスをもってすれば、剛力彩芽の挙動を様々なデバイスから検出することが出来るだろう。そこからランチパックと彼女との親和性を追究する、というわけだ。
それを求めて私は未来へと旅して、半ば当然のごとく2070年代の標準的なネット探知デバイス(新聞やカメラの情報を析出できる装置)を手に入れることが出来たわけである。
さてランチパックをめぐる旅は折り返し地点だ。
私は過去に行く方法を求めて、逆説的と思うがさらに時を進めた。
西暦でいうと225845年、私はいよいよ、解りやすく言うと不老不死の境地になり、継続して思索することになった。
やがて西暦でいう145290352年に、ほとんどありとあらゆる思索を繰り返した結果、過去に戻ることは不可能という認知に達した。
これは私に対して悲観的な感情をもたらしたかと言うと、全くそうではない。絡め手を考えていた。
ちょっとした挫折のあと、過去のあらゆるシチュエーションをシミュレイトする装置を23年かけて(取るに足らない年月だ)発明した。
これは円周率の応用だ。円周率は無限につながるので同じ数列が必ず無限回登場する。例えば1087という数字の並び。無限回。
これと同じことを剛力彩芽がランチパックをどの程度? に置き換えるわけだ。
答えはわかった。簡単なことだった。私はついに、過去には戻らずとも過去の完璧な様態を再現することを可能にした。
再現された剛力彩芽とランチパック、と周囲の環境。完璧な再現だ。
いわば過去に戻れたのだ。そこで剛力彩芽は・・・ランチパックを・・・
しかしこの結果ででた強力菖蒲とランチパックの関係は、はたして西暦2010年代の剛力彩芽とランチパックとの関係と全くイコールなのだろうか。
シミュレーションで再現されたシチュエーション。科学的には完璧だ。完璧に剛力彩芽はランチパックをああしていた。なるほどね~、という感じ。
しかしこれは・・・。西暦でいう145290300年代で再現したこれは・・・同じなのか?
シチュエーションを完璧に同じにして完璧に再現した。実験ではこれが望ましい。何度も試した。何度も同じ結果。正しい。正しい。科学的だ。再現性の問題。
しかし実験1と追試は同じなのか? 円周率で初めに現れた1087と次に現れた1087は同じなのか?
私は今でも、この時代にあっても、超企業山崎製パンのランチパックをコンビニで食べる。伝統の味だ。
そして終わらぬ思索を続ける。
いつもの。
お馴染みのあのアニメを見てるんだけど、このアニメ見てるとテンプレラノベっぽさっていかにアホの子を出すかなんだろうな…と大真面目に思えてきた。昔から「自分のことをかわいいと理解した上で色気を振りまいてくる娼婦のような女子高生キャラ」はいたんだけど、最近のテンプレラノベはそれよりも…ある時期までは「(自分がかわいい・お色気を期待されている理解してる)娼婦のような女子高生」が出てくるラノベが増えていると思うんだが、最近はそれをさらに突き抜けて「男子中学生の恥ずかしさを詰め込んだようなアホの女の子を入れる(むしろ、彼女達こそラノベらしさ)」になってない?
例えば、西尾維新(というよりも、この場合は物語やめだか)がラノベかどうかを議論する上で、ヒロインの娼婦っぽさとか設定の中ニっぽさに着目するならラノベよりもクサいから、ラノベにカテゴライズしてもいい。でも、ある時期からのハーレムラノベに出てくるアホの子はほぼ出てないから今の基準だと。僕が西尾維新が苦手(少なくとも、あんまり文学的だという評価をしたくない)なのはめだかボックスに代表されるような「読んだだけでお腹いっぱいになるような中二」なんだ。ある時期までラノベには多かれ少なかれそういう雰囲気を入れるものだったが、最近のは形骸的に中ニという作品が増えた? 落第騎士で学んだことはアホの子も萌えキャラにすると許されるというかいじりがいがあるという「可愛い子は正義」「オタクは本質的にはフェミニスト(女の子びいき)」ということだと思うの…。個人的感想だから、異論は認めるし、僕自身おかしな事言ってる自覚はある。落第騎士見てると頭悪くなりそーだけど、逆に言うとテンプレでラノベ書いている人がなんでそんなことをするかを考えながら見てると「あー読者的にはこうだから、こうなってるのか」と感じることがしばしばある。頭悪そーなことには変わらないけど、自分が好きな作品・ガチで語る作品はウケへんもん…
主人公が唐変木すぎてセクハラにも相手からの好意にも気づかないというラノベの主人公の設定って要約すると(というよりも、女性が身もふたもないツッコミをするとするなら)「ガキ」なんだろうね。それも悪い意味ではなく、煩わしい性欲がない代わりに性を隔てるデリカシーもないという両方の意味で。すご~く変な言い方かも知れないけど、落第騎士ってホモアニメだと思ったほうが(登場人物全員男子で、男子校的な場所にいると思ったほうが)ぶっちゃけしっくり来ると思うんだよなぁ…。ちゃんと女の子らしい視点とか、キャラを持ってる人がいないし、女性目線入れると簡単に崩壊しそうな意味で…。女の子を女の子として書く必要がなくなってると考えるとテンプレラノベって童貞でも…いや、むしろ童貞の方が書きやすい?男がかっこいい男を主人公とかすぐ死ぬキャラとして配置して、男子的な幼さは女の子に埋め込んでしまえばいい。あーそう考えると、女の子っぽさが何かとか考える必要ないわ。
ハーレムラノベでドンドンヒロインの影が薄くなって、主人公が他の女の子には親身になって行くという現象を学術的に言い表すと「クーリッジ効果(ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF…)」と言っていいと思うの。浮気は本能。新しい女の子は別腹!!
萌え豚はフェミニスト ※半分はネタだけど、もう半分はジブリ社屋のトイレが女性のモノのほうが広い理由を尋ねられた時に「それは宮さんがフェミニストだからです」と鈴木さん(だったかな?)が答えたのを元ネタにしてる
姫さんなんか言動の(斜め上な)色ボケっぷりを外して評価すれば、刑事モノとかアクション劇の“バディ枠”ですわね… 負けず嫌いが過ぎて時々逆噴射する熱血・正義漢だと思えばいいと。「男子中学生の小っ恥ずかしさを女の子に詰め込んでかわいいかわいいという系統のキャラの代表格は柏崎星奈だと思う」的なことを1,2週間前ぐらいにいったらヴァーミリオンが肉っぽくなり始めてきた…。予想どおりっつうかなんつうか
禁書からずっと続いてる、ラノベ世界に都合よく湧いてくる悪役のヤンキーってなんなんだろう?悪く言うつもりかどうか以前にあいつらの存在自体が謎。本来、フィクションの中で出てきたヤンキーって主人公一味よりは現実味を帯びたキャラクターのはずなのに、なぜかヤンキーの方が現実味がないキャラクターに感じて萎えるんだよなぁ…。アレなんでだろう?数日に一度は、近所でヤンキーらしき人見てるから「いない」とはおもってないんだけどなぁ。異能力使いよりも非実在性をヤンキーに見出してしまうのはなんでだろうか?NPC的な割に人間味を見いだせないラノベに出てくるヤンキーほど謎なキャラクターも珍しい。舞台装置といえばそれまでなんだけど、もっとうまくやれないのかが謎。いや、下手だと感じるライトノベルにしか出てきてないからヤンキーが出てきちゃう時点で下手くそなラノベなんだけどぱにぽにとかパンストみたいにヤンキーが楽屋裏で出演陣と楽しく盛り上がってないと整合性が取れないぐらいの舞台装置っぷりに困惑する現象を何と名付ければいい?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
実はこれは、「劇場のロゴのパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨そのものは組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。
しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。
劇場ロゴのパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。
前者は、著作権の問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。
後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美のポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。
要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴのパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。
その意味で、深津貴之 氏の見解そのものが意味を持たない。ありもしない仮想敵を攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物を攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象を否定しているだけにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。
このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要なものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg
なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。
このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。
(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーだからだ。)
さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。
とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)
3.専門家に任せるか?
深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。
しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html
ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人が勝手に決めてしまったからだ。(そして佐野最終案に決まった。)
また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインのジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。
デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。
・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。
・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)
・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)
・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)
・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。
(大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)
・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。
これらの問題が続々と判明した。このことから「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意を無視して、「専門家の判断に任せよ」というのは、問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題の所在を理解していないと言える。
自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。
今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場側だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)
今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。
最後に一つ。
深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターンの出来映えのような見方によって決まったのだ。
そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである。
専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。
追記。
id:sisya 参照元のエントリを全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。
本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨。
だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギーの弁護士だけだ。日本人のほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。
この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)
もちろん、本項でも、著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)
依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギーの弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮の記事に書いてあるので、そちらを読んでください。
一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性だけが問題となります。たとえば、ミッキーマウスの著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます。
なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。
id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です
それを前提とした上で、“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています。五輪エンブレムのデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。
端的に言えば、「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的な問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。
本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。
誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解を否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。
ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端や酒場でおしゃべりするための話題。
今回の騒動は、佐野デザインを五輪エンブレムに正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。
一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。
深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。
その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。
id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。
この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。
しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。
深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。
「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。
※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。
id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん。
まとめ:
この問題の本質は、最終案が劇場ロゴのパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまり、デザインの問題ではなく、法律違反をした作者のデザインを五輪に採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題をデザインの専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザインの専門家に任せよ」という主張は、今回の問題の本質からは外れている。
少年漫画か青年漫画中心に、面白いマンガ大人買いしたいから候補を挙げてほしい。
ぐらんぶる
ヴィンランドサガ(後半)
------------------------------------
【追記 & まとめ】
みなさんありがとう。全部買ったらいくらだコレ。
<kindleよりこれ使え>
eBookJapan
<この作者の全部読め>
うすね正俊
3月のライオン、BANANA FISH、BLAME!、BLUE GIANT、COPPERS、Dimension W、GIANT KILLING、Helck、HELLSING、HUNTER×HUNTER、MONSTER、SLAM DUNK、trash.、アイアムアヒーロー、アイアンナイト、アイシールド21、アカギ、アドルフに告ぐ、アバラ、イティハーサ、イムリ、インベスターZ、海皇紀、ウルトラヘブン、えの素、エマ、エリア51、エリア88、おおきく振りかぶって、かくかくしかじか、風の谷のナウシカ、ガンツ、ギャングース、きりひと讃歌、キン肉マン、クッキングパパ、ゴールデンカムイ、こち亀、ゴルゴ13、ザ・ワールド・イズ・マイン、さらい屋五葉、シグルイ、シグルイ、シドニアの騎士、シュトヘル、スピリットサークル、それでも町は廻っている、だがしかし、ダンジョン飯、ちおちゃんの通学路、ちはやふる、デスノート、テラフォーマーズ、ドラえもん、ドラゴンボール、ドリフターズ、ニンジャスレイヤー、ノラガミ、のんのんびより、バイオーグ・トリニティ、バイオメガ、ハイキュー、ハイスコアガール、バガボンド、はじめの一歩、バリバリ伝説、ハルロック、ハンターハンター、バンビーノ、パンプキンシザーズ、ピースメーカー、ヒストリエ、ヒナまつり、ピンポン、ブッダ、ブラックジャック、フリージア、ベイビーステップ、へうげもの、ベルセルク、ホーリーランド、ぼくらの、ボクラノキセキ、ポケットモンスターSPECIAL、マップス、マップス・ネクストシート、まりかセヴン、まんが極道、みなみけ、ミナミの帝王、モブサイコ100、ゆゆ式、リクドウ、レ・ミゼラブル、レッド、レベルE、ワールドトリガー、亜人、暗殺教室、宇宙兄弟、宇宙大帝ギンガサンダーの冒険、嘘喰い、横山光輝史記、王様の仕立て屋、乙嫁語り、俺物語、夏のあらし、火ノ丸相撲、火の鳥、覚悟のススメ、岳、楽屋裏、監獄学園、寄生獣、暁星記、極黒のブリュンヒルデ、銀の匙、銀英伝、軍靴のバルツァー、血塊戦線、喧嘩稼業、喧嘩商売、皇国の守護者、鋼の錬金術師、刻刻、国民クイズ、今日のあすかショー、殺し屋1、山賊ダイアリー、紫色のクオリア、七つの大罪、実は私は、宗像教授異考録、獣の奏者、祝福王、少年の国、食戟のソーマ、新世紀エヴァンゲリオン、深く美しきアジア、神戸在住、進撃の巨人、壬生義士伝、静かなるドン、石の花、蒼天航路、代紋take2、大使閣下の料理人、大日本天狗党絵詞、地獄恋、中間管理職刑事、鉄風、天、天空侵犯、度胸星、土竜の唄、東京グール、湯神くんには友達がいない、特攻の島、美味しんぼ、描かないマンガ家、風雲児たち、僕のヒーローアカデミア、墨攻、無限の住人、無邪気の楽園(?)、名無しはいったい誰でしょう、幽麗塔、惑星のさみだれ、聲の形、蟲師
お笑いコンビ『千原兄弟』の千原せいじさん。「悩みがない」ことで有名なせいじさんが、恋に悩める女子たちのお悩みに答えるイベントを開催するようなのですが…
果たしてせいじさんに、本当に恋愛に悩める女子たちの悩みを解決することができるのか、失礼ながら疑わしく思ってしまった我々Spotlight編集部は、直接せいじさんの恋愛アドバイス力を確かめるべく、特別インタビューを敢行してきました!
せいじ:はい、何でも聞いてくださいっ!
編集部:せいじさんは「悩むことがない」と伺っているのですが、例えば、弟のジュニアさんにTVで散々「うちの残念な兄がぁ~」とバカにされていることについて悩んだことなどは…(恐縮)
せいじ:いや、全然それで金になってるからえぇわ別に。それでスベってたらあれやけど。ウケてるからね~。
せいじ:そらスベってたらそらもう…
編集部:悲しくなる…?
せいじ:いや、悲しくなるどころちゃうで、そんなもん!!なにスベってくれてんねんちゅう話や!ほんなもん、悲しくなる程度なわけないやん、出るとこ出て訴えたるわ!!
編集部:失礼しました、そうですよね(苦笑)では、例えば…例えばですよ?その…お顔のことで悩まれたりしたことは…
せいじ:いや~金になるからね~
編集部:なるほど。例えば一重の人が二重にしたり、メイクをスゴイがんばったりして、顔のことで悩んでる女性って多いと思いと思うんですけど、何かアドバイスってありますか?
せいじ:女性がメイクしたりとかするのえぇなぁと思いますけどね。それでテンションもあがるやろし、自分に自信が持てるようになるんやろし。メイクはガンガンするべきでしょ。
編集部:では、“スッピンが好きな人”と、“お化粧した顔が好きな人”っているじゃないですか。せいじさんはどちらですか?
せいじ:そんなもん、化粧した方に決まってるやろ!そんなこと(「すっぴんの方が好き」)いう男に騙されたらアカンで!ウソついとんねんそんなもん。
編集部:「君のスッピンかわいいね~化粧しないほうがかわいいよ~」とか言われたら…
せいじ:そんなんご機嫌とってるだけや、後ろめたいことがあんねん、絶対!!そんなわけないやん!だって年間ナンボ程使うねん、金を、化粧に。な?日本経済のことも考えて。すっぴんの方がかわいいとか言う男クソやろっ。
な?スゴイで、何兆円産業やろ化粧品なんて。そんなもん「ノーメイクの方がえぇ、ノーメイクの方がえぇ」言い出して、みんなメイクせぇよんなってみぃ?日本、もう、アカンようなるで。
編集部:そ、そうですね…。
(す、すごい…いともたやすく固定概念を打ち破り、我々の想像の遥かななめ上を行ってしまった…。使い古されたありきたりな回答など、千原せいじの脳内には皆無…)
こ、この男、できるっ!!!!!
編集部:ここ最近、恋愛相談系の掲示板で一番聞かれているのが「セフレから本命になるにはどうしたらいですか?」という質問なんですけど。
せいじ:なんなんそれ!今、そんなんなってんの?ちょっと待ってぇ~(笑・前のめり)
編集部:くいつきましたね(笑)セフレから本命になるにはどうしたらいいですか?というお悩みが多いようなんですよ。
せいじ:ほぉ~っ、まぁまぁ、俺らで言うところのカキタレって言うやつやな。
編集部:(苦笑)
せいじ:それはな…正直…ホンマ、ホンマ悪いけど…昇格はナイのよね、申し訳ないが(笑)それは、ジャンルが違うんよね。それね、男性みんなに聞いてもそうやと思うねんけど…あのぉ~…ちゃうのよね(笑)
せいじ:もう、会うたときから決まってんねん。最初に決まってんねん。こっちのアプローチの仕方が違うから。“この人とちゃんと付き合いたい!”と思った時と、“こいつカキタレにしよっ”って思った時と、もう全然違うねん。
編集部:例えばせいじさんは…
せいじ:俺はそんなんナイ。俺はそんなことしたことないからナイわ。俺は嫁さんしか知らんからあれやけど、みんながそう言うてるから(笑)楽屋、楽屋やったかな?でなんか…みんな言うとったわ。
編集部:あ、聞いただけ…なんですよね?せいじさんはそんなことしたことないと。
せいじ:なんか~あれや、オリ、オリエンタルラジオが言うてたわ(笑)
編集部:(苦笑)じゃあ、セフレから本命に昇格しようというのはもうムリだということですかね…?
せいじ:けっこう難しいと思うわ。それこそミランの10番付けるより可能性低いと思うわ。
せいじ:もう、だって根本から違ってるんやもん。まぁ、来来来来世くらいでは結婚できるんちゃう?
編集部:私の知り合いにも毎回毎回セカンドになってしまう女性っているんですけど
せいじ:そういう人や、もうはなからそういう人(セカンド)やねん。そういう星のもとに生まれてんの。両親の育て方でそうなったのかどうなのかわからんけど、そういう運命やねん。
編集部:じゃあちなみに“本命にしたい”と思われる女子になるにはどうしたらいいと思いますか?
せいじ:あ、それはね、ほんまにあの~俺、スゴイな~思ったんやけど、道端ジェシカさんおるやん?F1レーサーと結婚した。F1レーサーってあれ国賓扱いやからさ。パーティとか呼ばれたらさそのマナーとかさ、どんなもん着て行くのとかさ、立ち振る舞いとかさそういうのがあるのよね。そこに対応できる教育を受けてたのがスゴイとやっぱ思って。
普通にその辺の、マナーとか知らない子に惚れて一緒になるって言ったって、パーティなんか連れて行かれへんやんか。だからな俺、多分そういうところでも(本命にしたい女になれるかどうかの)差が出ると思うねん。
逆に、俺の知り合いにもおるけど、成り上がりのやつって、そういうマナーとか全然知らんから、逆に嫁さんの方がコントロールしてるってことも多々あんのよね。一代目のやつって。だから、そういうマナーとかしっかりしてる人っていうのがやっぱ、本命になるんちゃう?少なくとも俺の周りはそうやけどな。
編集部:なるほど~
せいじ:だからもし、奇跡的に稀にカキタレから本命に昇格できるとしたら、チャンスはそっからやろな。例えば、圧倒的にその男性の苦手なものを補える能力を持っているとか。例えばマナーなのか、語学なのか、お金なのか、なんなのかそれはわからへんねんけど、なんか圧倒的に。そういうことちゃう。
編集部:それが何なのかも見極められないようじゃ一生カキタレだと(笑)
せいじ:そうそう、だから結婚式ではナンボ包むとかマナーで迷ったことは、大体俺はキム兄に聞いてんねんな。だから俺にとってのキム兄みたいな人が本命になるんちゃう?(笑)
ーーー第二弾に続く…
思ったより(←失礼)きちんとお悩みに答えてくれたせいじさん。今回初めてお話させていただいて、せいじさんになら「恋愛相談してみたいな」と心底思えました。
そんな千原せいじさんに悩みを解消してもらえるチャンス!!みなさんからの質問に答えてくれるうれしいイベントがあるというのです。
全ての悩める恋愛女子に捧ぐ!「千原せいじのお前らみんなまとめて幸せにしたるわ!」
現在『755』内でせいじさんに答えて欲しい恋愛アンケートを募集しているので、悩みを抱えている女性は是非是非ご投稿をおねがいします!!
いただいたお悩みは、4月17日(金)に新宿モリエールにて開催されるイベント『千原せいじのお前らみんなまとめて幸せにしたるわ!』にて千原せいじさんご本人が直接答えてくれますので、イベントにも是非足をお運びください。
心配したおじいさんは我慢しきれず楽屋を覗くと、一瞬にして最悪な気持ちになりました。
推しは布織りではなくキャスをやっていて、推しの横で若いイケメンの男が布を織っていたのです。
男はおじいさんに気付くと、
とシャウトしたおじいさんはあることに気づきました。
「きみこないだの現場の時フロア後方で腕組みながら見てたよね!?てかようなぴ作の似顔絵アイコンよくRTで回ってくるわ」
「はい。じいさんめっちゃ沸いてましたね。自分でサークル作ってモッシュに飛び込んでいく姿見て感動しました。
あとリフトされながらmixのカンペ掲げてるのもかっこよかったです!」
「うあああああああああああしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしのうしの」
おじいさんは140字では収まりきらない今の気持ちをつぶやくと、ショックのあまり2つの意味において他界しました。
「おじいさん!だめ!やだ!」
推しは今の一部始終がキャスでダダ漏れていることも忘れ泣き叫びました。
「私のせいだ。こんなことになるなんて...」
「じいさんならお前のTOになれると思ってたのに...」
そこへ部屋におばあさんがはいってきました。
「おばあさん!おじいさんが・・・」
「案外チョロかったな。」
「どういう意味ですか?」
「こうなることは分かってた。そしてじいさんの血圧が高いことも分かってた。」
「私が布の制作で病んでた時、おばあさんが彼氏でも連れてきて手伝ってもらえば?って言ってくれたのはありがたかったです。
おじいさんにばれないか心配でしたけど。。。おじいさん、具合悪かったんですか?」
おばあさんは語りはじめました。
ば「医者からはモッシュと推しのファボ欄は見るなと止められていた。あんまり興奮したりショックなことがあると危ないからって」
推「そうだったんですか。」
ば「現場ある日は薬の量多めにして参戦してたよ。行くなって言っても、いつ会えなくなるか分からないからって聞かなかった。」
推「私が彼氏と一緒にいるのを見たショックが大きすぎて、おじいさんは逝ってしまった。。。」
そこで推しの彼はあることに気づきました。
彼「つまりばあさんは最初から計画的に俺をここに呼び寄せた。わざとトラジックなシチュエーションを作り、指にも触れずにじいさんを他界させた。」
ば「あたしはもう限界だったんだ。」
そう語り出したおばあさんの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきました。
ば「今までは推し増しだとかお前が1番だとか言うからなんとか我慢してた。でも今回のははっきりと推し変だったから。」
推「どうしてそう思ったんですか?」
ば「じいさんあんたのところのグループのCDを物販にあるだけ買い占めて来てさらに「俺がオリコンにのせる」と言って、
タワレコで5000枚積んでたんだよ。私の出したLPだってそんなに買ってくれたことはなかったのに。」
彼「じいさん強ヲタすぎっすね」
ば「あたしの78回目の生誕で玄関の前に飾るはずだったスタンド花の発注忘れてたし、似顔絵ケーキがいいって言ったのに普通のだった。
メセカもオリジナルじゃなくてLOFTで買ってきたやつだった。あんたにはお手紙書いてたのにね。」
推「おばあさん。。。」
おばあさんはおじいさんの気持ちが自分から離れてしまったことが、何よりもつらかったのです。
おじいさんの遺体と2人っきりになったおばあさんは、
すると絶命したはずのおじいさんの口から微かに
「イエッタイガー...」
という声が聞こえたような気がしました。
おばあさんは満足した表情を浮かべると、サイリウムの液体をODしておじいさんの後を追い、2人の魂は空へと飛び立って行きました。
むかしむかし、あるところに、元アイドルのおばあさんとおばあさんTOのおじいさんが互いにガチ恋し合いながら暮らしていました。
ある日おじいさんはとある現場の物販で干されメンの鶴を見つけました。
一目見ておじいさんは、
「天使かよ、、、この子に推し変ワンチャンあるかも」・・・と物販列に並びました。
おじいさんは鶴に対してチェキ券を大量に購入し物販タイムのあいだ鶴を独占。
オマイツ達には「どこの界隈のヲタだよあのピンチケ」と相当厄介がられましたが、鶴には推してくれてありがとうと喜ばれました。
おじいさんは家に帰るとおばあさんに今日見つけた推しのことを話し、物販で買ったCDの配布芸をして布教活動を開始します。
開けるとマスクしてキャリーバックを引いてきた推しが目の前に立っていました。
おじいさんは思わずサイリウムをたいて「オレが生まれてきた理由!」と叫び出しましたが「DDだったのかよ」とおばあさんがガチで病んでいるのに気づき自粛します。
「おじいさんがいっぱい撮ってくれたおかげで注目され、あの後他のヲタさん達もチェキ撮ってくれて物販が長引き終電逃しちゃいました。お預かりチェキも今日書いてしまいたいので一晩止めてもらいませんか...」
推しと繋がったことに高まりなはむ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆なおじいさんは「神現場かよ。しかも無銭」と意味深なツイートを投稿し、推しとの非公式オフ会を楽しみました。
翌朝、ハタ織り部屋から出て来た推しは手作りの特典をおじいさんとおばあさんに
「グッズ化する鹿!!!」
物販メニューに加わった推し制作の布は現場で速攻で枯れ、在宅や地方ヲタからも注文が殺到。ヴィレバンでグッズ展開されるまでになりました。
毎日毎日布を織るうちに、推しは次第に病んでいきツイッターでも深夜に「つかれた」「しにた」とつぶやいてはツイ消しをする日が続きました。
そしてある日、心配したおじいさんは我慢しきれず楽屋を覗くと、全く盛れてない素の推しの姿を目にしました。
「病んだ。今から重大発表があります」と本人の口から卒業することが告げられました。
そして鶴は空へと飛び立って行きました。
おしまい。
「この業界周りで働く人たちは、皆、総じて、"愛"に弱い。」(辻村深月 ハケンアニメ!)
「アイドルマスターシンデレラガールズ」の第3話を見てこの一文を思い出さずにはいられなかった。思い返せば第1話冒頭。ニュージェネレーションから漏れた彼女たちをすでにデビューしたアイドルとして見せた「お願い!シンデレラ」。画面からあふれでる愛におぼれるようだった。それからはじまった物語も素晴らしく、決め台詞が差し込まれる話運びにただただ溺れるしかなかった。そして第2話の宣材の撮影。たとえ短くともまた漏れてしまった彼女たちが出演している絵に心が震えた。
そこからの第3話。ついにはじまるシンデレラストーリー。ゲーム本編をプレイしていないため彼女たちの衣装がどのイベント、レアリティのそれなのか判らないことが残念でならない。
ここまでアニメデレマスは漠然としていた「見たいもの」が予想以上の物語と絵をもって与えられる、天啓の甘露のようだ。まぶしいばかりの愛が散りばめられ、あふれている。まさにスターだ。
そして光が強ければ強いほどに闇が色濃く見える。
アニメ「艦これ」である。アニメ企画が発表された当時に当然の展開と受け止めていた。そして同時に口にはしなかったが漠然とした不安が芽吹いたのも事実だった。
時がたち発表されたPV第1弾。動く彼女たちを見て真っ先に感じたのは違和感だった。重い曇天、鈍色の海。それらを従えたなによりも黒い深海棲艦。立ち向かう艦娘たちにもどこか闇がつきまとう。戦争が舞台であることは承知していたが、これはあまりに暗すぎる。その色遣いは先立って感じた不安に塗り込められた胸の内を投影したかのように見えた。
そして第2弾PV。不安を拭い去るかのような明るい場面……の果てにでてくる秘書官長門。参戦本部なのだろうか、その色遣いはセピア色。軍楽隊が奏でるBGM。夕日の中飛行する戦闘機(九七式艦攻? というところに目が行ってしまう)。当然であるが戦争だと思い知らされる。美少女動物園の日常アニメではないと見せつけられる。
それが見たいわけじゃない。
そんな不安の中はじまったアニメ艦これ。なぜか舞台は現代でも未来でもない。過去だ。太平洋戦争当時なのだろうか。その説明はない。不安ばかりが募る始まりだった。
そして第3話。不安は形になり、姿を見せた。これは戦争なのだ。生きるか死ぬかの物語なのだ、と。轟沈と隣り合わせの青春なのだ、と。
艦これは強烈にデレマスとの対を感じさせる。
女の子が戦う世界を見せつけることで、全提督に冷や水を浴びせ続けるかのように。世界は絶望に満ちていると押さえつけるかのように。誰もが死ぬんだと殴るかのように。目をそらすなと睨むように。
ここに期待はないんだと叫ぶように。
俺は木曜に冷や水を浴び、金曜夜には愛を浴びる(BSは異なる、と入れておけばいいのか)。
艦これは物語世界にあまりに従いすぎている。物語の下に艦娘たちを配置している。だから戦争の影から逃れられない。すべてを支配する。
いっぽうデレマスは女の子たちが物語を従える。彼女たちの意思が物語を拓いていくのだと共感できる。
ただそれだけだと虚構のにおいが強いのだが、竹内Pとその上司たちがしっかりと世界を支えている。第3話で楽屋に現れた部長に川島瑞樹が挨拶をする場面などその真骨頂だろう。リハーサルでの音響さんのセリフ(ここの芝居がとりわけ印象的だ)、ステージ下のスタッフ。そしてライブ終了後の挨拶でスタッフの労をねぎらうセリフ。そういった細かいところがこれは「仕事」だと伝えてくる。言ってしまえば彼女たちだって戦っているのだ。みくにゃんの繰り返しの挑戦だって彼女なりの戦いだ。負けるけど。
デレマスのこの「愛し方」が判っている背景は突然のことではなく、これまでに連綿と繰り返されてきたアニメ化によって制作側に培われた技術なのだろう。つまり、もし艦これと同時期に「ゼノグラシア」が放送されいたらと思わないでもないのだ。
アイマスは愛し方が確立している。その頂点が先の劇場版であり、Febriの特殊号だろう。最新号は艦これ特集なのもなにか運命めいた存在を感じさせる。
小山高生がタイムボカンについて語った際に「天地人がそろった」と述べていた。同じことをデレマスに感じるし、いけないほうの天地人がそろったことを艦これに感じる。これまた偶然であり、運命の綾であろう思いたいが、第3話放映翌日から艦これアーケードのロケテストが始まった。三国志大戦撤去直後に発表されただけにその知らせに触れたプレイヤーが何を期待したのかは想像がつくし、その結果がどうなったかはご覧のありさまである。
「艦これではなく艦これ人気が好きだった」という増田には深く同意できる。残念だがいまのところ、艦これはすべて期待を裏切り続けていると言わざるを得ない。これから目をそらし、褒めそやすことは大本営発表を報道し続けた太平洋戦争末期の報道各社と変わりがないだろう。連想するなら艦これへの弓道からの批判は、本来であれば物語全体に向けられるべき「コレジャナイ」を局所的に言語化した結果なのだろうか。
竹内Pと提督の造形の違い、二次設定の使い方、ゲーム中の素材の扱い、表現……。あまりにデレマスと艦これは対をなしすぎる。恐ろしいほどだ。同時期に放送したのは両者の意地なのか、運命なのか、それとも他の何かか。私の心境としては、見届けるデレマスと看取る艦これ、というところだ。
「人為的に誘発された知能は,その増大量に比例する速度で低下する」(ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」)
女性の踊り子を集めて観客を集めるショーパブみたいな店がある。
ステージで見せる踊りに対しては観客からチップがつくので、女性達は互いに競い合っていた。
女性ばかりの店内でトラブルが起きたとき、仲裁するのはフロアマネージャーのK氏である。
彼は長年、本店のほうを取り仕切っていただけに、この店でも一定の信頼を得ていた。
この間も大阪からやって来た行儀の悪い踊り子Mが、路上でS組の構成員とその妻との間にトラブルを起こした際、K氏が踊り子に解決方法をアドバイスしたらしい。
そんな中、踊り子達の中で頭角を現したN子は、フロアマネージャーのK氏と内縁関係を結ぶようになる。
堅物で通っていたK氏がN子の手に落ちたことについては驚きと憶測が広まった。
そのうちN子は楽屋内で起こったトラブルをK氏に逐一報告するようになり、K氏は私情に引きずられN子にとって益となる処理をすることが続いた。
他のアイドル界隈がどうなっているのか私はしらない。
そしてこれから書くことはシステムの話ではなくて、感想文にすぎない。システムについて興味が出た人はグーグルに尋ねるかお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
タカラジェンヌが公演や、公演のためのお稽古に向かう時に所定の場所で待ち、やってきたタカラジェンヌにお手紙を渡す。
公演は細かいことを全部外してしまえば大きく分けて、宝塚大劇場(以下ムラ)と東京宝塚劇場(以下東宝)で行う。ムラでは公演のお稽古も行われておりそれは「お稽古待ち」という。ファンは公演を観る予定もないのにこの「お稽古待ち」の為にムラまで通う。片道1時間以上かかるファンなんて、たくさんいる。それでも、タカラジェンヌと会う一瞬の為に平気で通う。たまに自分で何やってるんだろうと虚しくなるけれど、虚しくなったら負けである。
東宝は所定の場所に並びお手紙を受け取ったらタカラジェンヌにそのまま「いってらっしゃーい」とお見送りする。タカラジェンヌが通るたびにしゃがむ大量の女性たち(時たま男性)はいつみても壮観である。
ムラだと所定の場所でお手紙を受け取ったタカラジェンヌは楽屋口までそのファンを引き連れてやってくる。そして、楽屋口で「いってらっしゃーい」とお見送りをする。大量のファンを引き連れて楽屋口まで歩いてくる男役スターをみると「うをぉぉぉ!!スター様が歩いてくるぞぉぉぉ!!!」と興奮する。ファンをたくさん引き連れているタカラジェンヌはそれだけで神々しくみえてくるし、圧巻で楽しい。
スターさんによっては「お隣歩き」と言ってこの所定の待機場所から楽屋口までお隣を歩いてタカラジェンヌとお話しできてしまうシステムがある。楽しそうにファンと話をしているスターさんをみながら「なんて優しい人なの!!」と勝手に感動することもよくある。話の内容なんて、当然聞こえやしないが。
以上穴だらけの入り出説明。ちなみにこの入り出は会を登録しているタカラジェンヌにのみ適用されるシステムである。まだ会登録していないタカラジェンヌはまた別のしきたりで入り出があるのだが書いていたらキリがない世界なので放置する。
この入り出。したいと思ってすぐに出来るものではない。まずはその生徒の「ファンクラブ」に入らなきゃいけない。この「ファンクラブ」は「非公認」のファンクラブなのだけど、宝塚システムに置いて凄く大きな位置を占めている。非公認の癖に「@@ちゃん会立てたんだって?」「うん、劇団に立てろって言われたらしいね」「そっか。まだ下級生なのに大変だねぇ」みたいな会話がヅカヲタの中ではよく繰り広げられる。繰り返し言う。ファンクラブは非公認である。
このファンクラブに入ることのメリットとは色々あると思うけど(デメリットも正直あると思っている)大きく言えば「応援している人を明確にする形でチケットをかえること」「入り出が出来ること」なんじゃないだろうか。チケット難の公演でも会に入っていればなんとか観れたりもする。
けど、私がしたいのはこの話じゃないから、このシステムについて気になる人はお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
そう、入り出である。入り出。
私が今好きなタカラジェンヌ(以下贔屓)を好きになった時、ファンクラブに入ろうと思った。ファンクラブに入って、その人の名前を通してチケットを買って、お礼状貰って、その人のお茶会(トークショーのようなもの。一種のファンミーティングイベント)に参加できればうれしいと思っていた。
入り出なんてしたいと思わなかった。
だって、怖いじゃん!?自分がいかにその人を好きか書いたお手紙をちょくせつ本人に手渡しするんだよ!?ホラーじゃん!!って真剣に思っていた。
憧れは憧れの存在のままでいて欲しかった。お手紙を直接渡すことが繰り返されるうちに、純粋な憧れは必ず憧れと違うものになると思った。それに、入り出(ガードともいう)する人が怖かった。宝塚の宗教じみた世界の一端はこのシステムが担ってるに違いないと思っていた。事実私の友人の一人は宝塚大好きで何年も見続けているが「ファンクラブなんてあるから宝塚が気持ち悪いところだと思われている」と吐き捨てた。だから、宝塚ファンがみんなこんなことをしているのだと思ってほしくは無い。舞台の上で輝いているタカラジェンヌをみることだけが楽しみで、公演を楽しんでいる人だってたくさんいる。入り出をはじめとした会活動は確かに不思議で独特なシステムであって、未だに奇妙だと思うこともあるけれど、私がこの世界に入ってしまったから非難することが出来ないだけだ。
私が宝塚を好きになってから仲良くなった人は、入り出をする人だった。
「おいでよ」
とその人は私と贔屓が違ったがそういった。
「入り出は楽しいよ」
正直、興味はあったのだろう。後を押されたのか、押されたという言い訳が欲しかったのか私は入り出にいった。同じファンクラブに所属している知らない人に挨拶をしながら贔屓を待ち、やってきた贔屓の目もロクにみられずに消え入りそうな声で「オハヨウゴザイマス」と告げながら私はその場から消えたかった。見慣れた顔の中に知らない顔がいるからか、彼女は私の目をじっとのぞきこんだ、気がする。
もう、数年前の話なのであまり感想は覚えていない。覚えているのは誘ってくれた友人とお茶をしていたらその友人が楽しそうに「また来週も会おうね」と言ってきたことぐらい。その時は「行かないよ!?」「一度経験したのでもう満足しました」とその人に伝えていたのに、翌週には何故か私はそこに立っていた。
それから、毎週のように私はそこにいた。
何が楽しいのか、私は未だに分からない。あえて言うなら贔屓と会った後にファンの人同士やお友だちとするお茶が楽しいと言ってしまうかもしれない。長時間乗る電車の中でポストカードに手紙を書き、ムラについてから贔屓を30分以上待つこともザラだ。やって来た贔屓に「おはようございます」の一言だけを告げて、ほんの少し会話をやりとりして、楽屋口まで贔屓の背中をついていく5分足らずの時間の為に多くのことを費やしているという事実を数年かかっても未だに認めきれない。
おはようございますの一瞬で目を見てくれたかとか、笑ってくれたかとか、今日は機嫌が良かっただとか、なんだか疲れているみたいだとか、たった一瞬触れ合うだけなのにそういうことで喜んだり心配したりする自分が滑稽だと常々思っている。
贔屓と仲良くなんか、なりたくない。勿論ファンとして大事に思われたい。嫌われたくは、ない。でも、近付きたくは無いし、入り出をしてどれだけ時間がたっても私にとって贔屓は遠い存在だ。
笑い話みたいかもしれないけれど、私は入り出するようになってしばらくしてから友人に「贔屓に顔を覚えられてしまったかもしれない」と言って泣いた。贔屓をみるのは楽しかったけれど、贔屓が私の顔を覚えるのは耐えられなかった。贔屓が私の顔を覚えるということは、関係が蓄積していることに他ならず、それがいいことだとは欠片も思えなかった。送る手紙はいつだって適切なものとは思えなかったし、贔屓がそれを負担に感じていたらどうしよとばかり考えていた。
今は、贔屓がどう思っているかなんてわからないし、私がやりたいからやってるでいいんだよって笑っていられる。手紙も送りたいから送るのだ、贔屓に喜んでもらうために書いてるじゃないよと言い張ってる。時々それにも失敗しているけれど。
入り出はタカラジェンヌによって色々で優しく雑談をたくさんしてくれる人もいれば、視線も合わせずお手紙を回収してさようならの人もいる。たくさんお話してくれるタカラジェンヌの話を友人としながら「@@ちゃんさすがだよね」と笑いあうけれど、そこでガードすることはない。会のシステムが無くなったとしても、多分しない。私が入り出をしたいのは、贔屓だけだし、その贔屓が見せてくれる一瞬がどんな神対応よりも意味を持っている。
AKBの柏木由紀さんは握手会を「10秒の公演」と称したそうだけど、きっと宝塚の入り出も近いものがあるのだとそう思っている。
毎週5分の為に駆けつけて、直接お手紙を渡すことで愛が伝わっているのかは分からない。エゴだけが伝わっているのかもしれない。
それでも贔屓だけをみれる時間が嬉しい。舞台の上に立つ完全な男役ではなく、化粧を落し、ほんの少しだけ素の部分を見せてくれるその瞬間がたまらない。
少なくとも、贔屓が退団するまでは。
教養と言うのは無駄なもんであるし、無駄なもんを時間かけてやる余裕がある環境に育ったという事実が本質的に重要。
無駄な苦労はせず世の中は基本的に自分に都合よくできてるという実感があると、人の使い方とか仕事への取り組み方とかが違うんだよな。
ハイレイヤーの仕事はそういう人間じゃないと務まりづらいという部分があると思う。
こういう感じかなあ。お願いだから死んでくれって思うけど大体実話。
身内ノリ、楽屋ノリにイライラするんだな。児童小説の中の探偵団、おぎやはぎのいうところの6組軍団、クラブでオイコールする大学生。勝手に盛り上がってるのを傍目で見てる分には平気なの。でもふとした瞬間に肩を叩き「よー、何つまんない顔してんの?楽しも〜ぜ〜」だってさ。ひーーー、ゾワゾワする!「あ、うん、ゴメン、大丈夫」「ち、つまんねーやつ、このノリがわかんないってカワイソーに」 いやいやいや、勝手にやってるのはいいよ、気にもならない。だから【虚構】ってつけてくれ。ください。
プレステのネタも踏んでしまった。コメント読むと(記事は読んでない)前回の記事の天丼なんでしょ? その身内ノリコメント群が気色悪ーーーーーー。と、思ったのでそこが生理的に受け付けないんだろうなーと思いました。
-----------------------
追記です。
“それ「虚構新聞が」に限定されなくないか?内輪っぽい記事全部駄目ってことだし。”
そんな事書いてないですよね? 内輪ネタはいくらやって頂いても気にならないですよ。むしろ仲良くっていいなって羨ましさ半分に思っています。あと、退職エントリかどうか位ならいくら私でもタイトルで判断できます。
“虚構にイライラする人たちは何故虚構を踏んじゃうのか”
そこなんですよね。一応気をつけているつもりなんですけど踏んじゃう時があるんです。情報リテラシーが低くてすみません。例えばくだんのタイトルは『「PS4じゃない」 父親殴った息子を逮捕』なんですけど、私情弱なもので、元になった事件もパロディーにした事も知らなかったのです。実際にあった事件の記事『息子に残虐ゲーム無理やり…強要罪で義父逮捕』とかと同じ感覚でクリックしてしまいました。皆さんよく区別つきますね。
そうして虚構新聞が表示された瞬間です。私がなるべく避けてきた蓮コラ同様の不快な(失礼)ページが表示された瞬間、そこで待っているのは上記致しましたジョークの同調圧力です。そこで「イラ」っとしてしまうのです。ブラクラ踏まされた挙句アクセス数稼ぎに加担させられた気持ち、クリック詐欺、フィッシング詐欺にあったのと同様の気持ち、大げさに言えばそんな不快感です。
肩を叩かれて振り向くと私の頬にぶっ刺さる人差し指。指を立てたまま仁王立ちする虚構新聞。ニヤニヤ笑うクラスメイト達。さっさと部活に行きたいんだけどこういう場合どうすりゃいいんだっけ?笑うの?怒るの?あれ、どうするんだっけ?と。
“この文章の方がよほどイラッとするわ”
お気持ちお察し致します。気持ちを察して頂けましたでしょうか?
虚構相手に何マジになってんの?ってやつだ。きーーーーーーーーっ!イラッとする〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
女性声優はどうだかわかりません。緒方恵美さんとかベテランだとそういうこともあるのかな?
男性声優のラジオで、しばしば「つまんねー」「で?」みたいな空気が流れることがあって、とてもひやひやする。
ただ番組を楽しい気持ちで聞きたいのに、そういうことは裏でやってくれよ、とほんとうに思う。
どういうことかというと、ラジオに出ている声優のうち誰かがラジオ慣れしていないと、他の声優があからさまに不機嫌になる
ネタで不機嫌調なのではなく、ほんとに不機嫌になるのだ。
声のトーンは落ち、受け答えはおざなりになり、あげく説教をはじめる。
やめてほしい。そんなもの見たくない。ラジオは「番組」で「仕事」だから、やるべきことをちゃんとやってほしい。
仲良くしてほしいとかではない。聞かれたことはちゃんとはきはきと答えて欲しいし、説教する時間で作品のことを語ってほしい
そういうのは楽屋で、打ち合わせで、やってほしい。なんでラジオの場で説教はじめちゃうんだろ……リスナー置いてけぼりですわ。
声優のラジオは、プロ同士が番組を盛り上げようとかいうのよりは、日頃の仲の良さ(悪さ)をベースに台本を進めてる感じがする
低予算だからそんなこと言ってられないのかな……でも最低限不機嫌になったり説教はじめてるのやめてほしい。
Mステを見てたらタモリがぼそぼそしゃべるアーティストに本気説教みたいなさ……そこはスルーか、ユーモアに変えてほしいよ…
タモリが不機嫌になったり怒ったりするの誰も求めてないよ……
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
http://d.hatena.ne.jp/chuunenh/20131211/1386766614
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
私としてはサードブロガーとはただの承認欲求ゾンビであり、ブログ材料が承認欲求以外に無いので、すぐブログ論や仲間内の楽屋話に
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
承認欲求!
承 認 欲 求!!!!
また懐かしい言葉ですね。shとみたら勝手に指が承認欲求って打ち込んでしまうくらい、書いた記憶がございます。そう、はしごたんがはてな村に君臨していた頃のお話でございます。
はてなダイアリーがはてなブログに変わって人が流入し、何やら色々リセットされたようですが、基本的にやってることは昔のまま。サードブロガーとか洒落た名前を冠しておられるようですが、その昔にはてな村のステージで喧嘩をしていたあの人達が世代交代しただけではないかと村人は思うのであります。
昔のはてな村にはそんなものが溢れておりました。そしてそれこそがイナゴの大好物だったのでございます。隙をみつけたイナゴは、まず先陣三匹が隙から皮を食い破り、続く怒涛のイナゴたちがブロガーの自意識を食い破ってかれらを発狂させます。そうして何人のブロガーが腐海に沈んだことか…
ちなみに隙のない文章はプロでもそうそう書けないものなので、ブログが流行り始めた頃からネットには「隙だらけ」の文書があふれていました。当時のブログはどこもたいていトラックバック機能を有しておりましたが、これが機能していたとはいいがたく、また今よりもサービス間の連結は疎であったため、自浄作用がはたらきませんでした。しかし、2005年、はてなブックマークがリリース。これにより大量発生したイナゴがゴミを食い荒らし、ゴミをまき散らしうるブログを潰していったのです。これこそが、はてな村が敬遠された理由でした。イナゴにとってはゴミですが、ブロガーにとってそれは宝だったからです。
彼らが自分のブログ・文章を批判されると凄く傷ついてしまうのは、
彼らにとって、「自分のブログ・文章」は、「自分そのもの」だからなのではないかと思っている。
対してやまもとのような古参民は違う。「 自分の信念・感情・思考 → (変換) → 自分の文章・自分が提出したデータ 」にしている。
残念ながら、自分の信念や感情と文章を切り離せるのは一部のプロあるいは釣り師のみ。あのumedamochioでさえ書評を批判されて発狂したのです。基本的に人は、文章と自分を切り離せません。切り離せると思っているのは幻想に過ぎず、またかれあるいはかのじょがそれを無視するだけの尊大な人間であるためなのです。
しかしどうも新参ネット民やデジタルネイティブはそうではないようなのだ。
彼らはまず自分の人格・個人をババーン!と世界に大公表して、それから情報のやり取りを始めるのではないのだろうか。
これは明らかに誤謬ですね。
はてなイナゴとともにはてな村で踊り狂った一族は、個人の内面をまずさらけ出していました。イナゴはそれが大好物だったので、あっという間に飛びつき、貪り食ったものです。そしてそれに火を放つものがおり、さらにイナゴがどこかから飛んでくる。それがはてな村でした。この騒動のなかでひとつ残った言葉が、承認欲求。まるで南無阿弥陀仏を唱えるが如く、一時期は承認欲求の文字がどこでもつぶやかれていたことを懐かしく思います。
思うに、はてなブックマーク時代以前は、mixiのようなSNSで個人情報を垂れ流すか、オープンな全く自分の尻尾を掴ませないか、そのどちらかしかなかったのです。mixi似つかれた人々は穴蔵から這い出し、オープンな世界で自由を謳歌したかのように見えましたが、個人情報を守れど自分自身の中核を守るすべは知らなかったのです。個人情報さえ守れていれば、大丈夫。彼らはそんなふうに思い、SNSの中と同じような活動を使用としました。そしてネットイナゴに食いつくされたのでした。しかもネットイナゴは彼らにとって見ればまさに承認であり、欲求を満たしてくれる救いでもあったのです。
データのやりとりのみを行う方法を知っているのは、SNS発生以前、ブログ黎明期よりもまえにオープンな場所でそだった野生児だけでありましょう。野生児と非野生児はコミュニケーションが取れないものです。そして野生児は少数派なのです。
ちなみに2005年のはてなブックマークリリース後、2006年から2007年にかけてはてなが盛り上がった頃、はてな村界隈ではこのような人々が活躍していました。例に出したのは一部です。どこに入れたらいいかわからなかったネコプさんとかは省いています(あとはいろいろ忘れた)。あとはてな村の外側には大学生自治寮やギーク平原、狼集落などが点在しておりました。
この後、はてな村は別都市の興隆や再開発によって解体・分解しております。とくに2007年以降は、突っ込まれるのは面倒だが承認欲求がほしい人々は増田へ、キャッキャウフフしたい人々はTwitterへと移民していき、イナゴも人の流れに従ってあちこちへ分散していってしまいました。そしてはてな村は生き残った強者だけがつぶやく廃村となったのであります。
ココロ社さん
メレ子さん
はまちお兄ちゃん(Hamachiya2):猟師
てらじさん(TERRAZI):Operaの人だがたまにはてな村に絡む
シナ千代兄さんの場合はてなの図解まとめ人なのだが、なんかはてな村とは適度に距離をおいている感じがする。多分メタだからだろう。
http://d.hatena.ne.jp/wetfootdog/20060217/p1
http://d.hatena.ne.jp/wetfootdog/20060912/p1
あたりは今でもそのままって感じ。
パル氏(pal-9999):的の外れた男女論のためたびたびブクマで炎上。思想はマッチョ。本人は炎上商法のつもりではないのかも
萌え理の人(sirout2):ライフハック系。あんまりはてな村ではない気もする
タケルンバ卿(takerunba):ライフハック系。でもなんか非モテあたりと親和性が高かった気がする
にちのさん(nitino):メンタルヘルス
まさおさん(Masao_hate):非コミュ
ulululunさん:こじらせ
republic1963氏:非モテ
フルカツ氏(furukatsu):非モテ急進派
じゃんくま氏(junkMA):単著もないのに
ここらへんが動くとohnosakikoさんがメタエントリを生成
ともむん氏(tomo-moon):ミサンドリ→結婚後おとなしくなってたが最近は鬼女として復活か
えっけんさん(ekken):なんかよくわからないが炎上してるとまとめに飛んでくる人
蟹亭主さん(kanimaster):揉みごとの人
加野瀬氏(kanose):なにしてるかよくわからないが村長らしい ←すみません素で名前間違えました
花見川氏(ch1248):何故か炎上する武闘派。非モテ(非コミュ?)から後にニコ動画系へ
ふぁー/ぴーは/ぴゃーさん(pha):この頃はネオニート一年生だった
の、のぶたんのこと忘れたわけじゃないんだからね!でもなんとなくれぶたんとセットです。
もともと体調わる子氏は、私がここで語っているように http://b.hatena.ne.jp/masudamaster/20131209#bookmark-172528838
『身近な個人的体験を、みなが分かる普遍的な問題へと文章で昇華できる人』だと思っていた。
しかし11月になってから雲行きは怪しくなる。扇動的なインパクト重視の見出しが増え、
記事の内容も「で、結局なにが言いたい?」と首をかしげざるをえないようなものが増えた。
自身の偏見や思い込みを「何か」に変換することなく、ありのまま、そのままだだ漏らしているのである。
そのあまりの稚拙さに「これは釣りだ」「PV稼ぎだ」なる批判が噴出したが、私はそうは思わなかった。
私は少なくとも彼女が表出させているものに「悪意」感じ取ることはなかった。彼女は天然であり素なのである。
彼女がなぜそう変わってしまったのか。私は、彼女はサードブロガーの悪しき流れに飲み込まれて自分を失ってしまったのだろうと
考える。次に、サードブロガーとは何かを語る。
このブログの主「池田仮名」が10月頃にわけのわからないブログカースト論とブログ論を語り始めた。
彼のように、「はてなでの自分の立ち位置」と「ブログとは何か」を語りだすサードブロガーなる集団が突如現れ、はてなの中心となった。
彼らの醸し出す違和感は強烈であり、はてなユーザーの間でもたちまち話題となる。
サードとかフォースとか言ってる人たち
私としてはサードブロガーとはただの承認欲求ゾンビであり、ブログ材料が承認欲求以外に無いので、すぐブログ論や仲間内の楽屋話に
持って行かざるをえない、「ほんとはブログを書く必要の無い人」たちだと思っている。
ブログとは必要に駆られて書くものだ。何気ない数行のブログでも、誰にも見られていないブログでも、それが必要に駆られて書かれたもの、
自身の心のコップから溢れ出たものなら、その文章には価値がある。私はそういう生きたブログを読みたい。
サードだのなんだのと自分を規定してわけのわからない小手先の技術論、「これだけPV稼ぎました!」「ブログを書き続けるコツ」
そういうものを書くのは彼らの自由だが、間違ってもはてなの世界の中心に居てはいけない。
泡沫ブログ
サードブロガーの所業を見て、「ブログって、文章を書くって、そういうことだっけ?」とはてなユーザーたちも疑問を持ち始める。
自殺宣言をしたりはてなブログにふざけんじゃねぇとか言ったり、ブックマークコメントに全部返信したいとか、まぁ文章を読んでもわかるが
サードブロガーの中でも承認欲求が一番強いと思われる。とても人懐っこい。
この人はもしかしたらまつたけより酷いというか、「自分」を前面に押し出してる割には
ショッカーさん自身の「人間性」が全く見えてこず、そこらのまとめサイトとクオリティが全然変わらない。
彼らに共通するのは、
・「成り上がりたい」のが見え見えということ(自意識だだ漏れ)
・「文章を書けてない」ということ。
まつたけやショッカーの文章力は特に酷い。あれは文章ではなくお喋りである。匿名ダイアリーの方がきちんと文章を書けている。
私はときおりコンビニ店長が恋しくなる。彼に対する好悪はともかくとして、彼はきちんと文章を書けていた。
また彼の「書かざるをえない」情熱も伝わってきたし(晩節はそうでもなかったけど)、コンビニから世界を眺めるあの視点は我々にとってとても楽しかった。
ああいう貴重なブログ読み体験を我々はできなくなってきている。
続き→http://anond.hatelabo.jp/20131210194845
http://anond.hatelabo.jp/20131224125320
http://anond.hatelabo.jp/20131225120055
どうも、矢沢です。昔、キャロルで矢沢が日比谷でワオワオやってたころにさ、
楽屋でさジョニーなんかとスライム欲しいよね、つってたらボーヤが気を利かせて
「買ってきましょうか」っていうわけ。
「おおサンキュ」つって買いにいかせたら街中売り切れだったみたいでさ
「すいません、コンニャクで代わりで」ってそいつ、こんにゃく買ってきたわけよ。
オレやジョニーでこんにゃく顔に乗っけたり、ぶつけ合ったりしてね遊んでたんだ。
そしたらさ。ムッシュっていうの?かまやつがバーンと楽屋入ってきてさ
「おまえら何してんの?」。
「いやあ、かまやつさんコレだよ噂のスライム!」。
オレ、まだ駆け出しだったし、向こうはもうビッグネームでしょ?「はあ?」みたいな感じ。
「おまえ、矢沢、これはこんにゃくだろ?」って。ちぎって床に捨てた。
オレはそれを黙ってみてたね。
しばらくしてムッシュが帰ってさ。
そしたらジョニーがそのちぎられたこんにゃく持って震えてんのよ。
「エーちゃん、これ弁償モンだよ!」って。
「こんにゃく弁償してもらうべ!」ってさあ。
「あのさっきのこんにゃくだけど、絶対そのうち弁償してもらいますんで」。バッキリいってきた。
それから、1週間くらい後かな、モノホンのスライムが届いたよ。ムッシュから。
そのとき思ったね。「ああ、これがスーパースターのやることだな」って。
途中で汗すって粘液になってたーらたーらいと引いて落ちてくんのよ。
たまたま来日してたH.R.ギーガーがそれ見てエイリアン思いついたんだって。
これマジよ。エイリアンのあの頭、矢沢のリーゼントの形なんだって。
へえ、と思ったね。
横だけど、ある創作作品の「予定された読者」とは誰か? という問題は、普遍的で、かつ「答がない」ことに一定の共通理解のあるテーマ。
「一般読者」というと、予備知識のない素人の集団がその大半だが、そういう「素人に受けたい」と思って創作するクリエイターは確かに少ないかもしれない。「とにかく売れるのが偉い」と豪語する人もいるので、「素人向け」を狙う創作者が皆無というわけでもない。一方、「通」とか「評論家」のために創作するわけでもない。大多数の創作者は、ある種の「ファン」とか、頭の中で自分と何かを「共有できる人」とか向けに創作している、と想定しておおむね間違いはないと思う。ただし、一旦作品が世に出た以上、その「読まれ方」について作家の意図が最優先されるというものでもない。売れないクリエイターが世相を皮肉るつもりで作った軽薄な作品が、かえって軽薄な世相にマッチしてバカ売れ…その年を代表するような作品に…ということもある。この場合、何が「正しい」とも「間違っている」とも言えない。
また、評論家のために創作して「いけない」とも限らない。たとえば半可通なセミプロ作家が、共通理解を半可通に向けて創作することはよくあることだし、デビュー以前に同人誌という形でそういうことをやるのを責めるというほどのこともない。ただ、全部ひっくるめても、「楽屋落ち」というのは一般に「詰まらない」ことの代名詞ではある。
だから、その意味で個人的には「ブラックジャック創作秘話」が評価されるのも、「バクマン」が評価されるのも、2011漫画界の貧しい風景だなあ、と思って見てはいる。
いずれにせよこういう話は創作界隈ならどこにでもある話なので、元増田が言ってることが分からないとすると、個人的には、分からない方がちょっと勉強不足なのではないかと思う。
THE MANZAI って4時間くらいあったけど漫才部分だけ見たら単純に半分で済む量。とはいえ2時間で無駄なくやったら尺足らずだし、それはまあ説明部分もあるからよしとしよう。でもなげーよ。
他にももう、終わったな、と思わせる演出が多数あったが、とにかくキビキビとやってないんだよ。キビキビと。ダラダラしてる。
→参加意識を煽っているけれど、笑うたびにボタンを押すということは漫才の面白さに集中できない。仕様ミス。先にアプリを落として一斉に送信させるというのも、問題がある印象。フジの企画に問題がある。
ワラテンのグラフと一緒に、同じ番組内で同じ漫才を再鑑賞するのは、前半見ていなかった人向けのサービスのつもりだろうが、間延びしてしまいおかしい。参考にはなるが、「ほお」で終わり。ビデオなら絶対飛ばすところ。
問題2 慢心した優勝特典
フジテレビレギュラー番組、漫才師だが漫才の番組が貰えるわけではない。漫才の番組が貰えるのなら嬉しいだろうが、単なるトークタレントとしての役回りが回ってくるのであれば矛盾しすぎている。副賞の各番組ゲスト、っていうのも結局はトークで呼ばれるのが半分以上だから名前を売る以上の意味が無い。まったく売れなかった若い人ならそれが価値を増すが、パンクブーブーではドラマを作れない。
結局は予算削減策でしかなく、フジも落ちる所まで落ちているとしかいいようがない。またフジは自分の価値を高く見い出しすぎ。
ただ控えめに協賛した、日清のどん兵衛はいいと思う。あんな数(10年分)本人が食べたら確実に身体を壊すけど、楽屋において後輩にあげる分には後輩が何年も食に困らないからね。
問題3 無駄な演出
フジの番組全般に生でやるとダラダラとした無駄な部分+小難しい説明だらけである。進行押しの間の時間調節なら、わかるのだが、入場演出で無駄にリムジンとか入れて、オープニングから30分以上漫才が始まらないってどういうことだよ。ワラテンの説明も長い、フジのサイトにこさせるための小細工とはいえ。投票トラブルを避ける意味では完璧な説明であったが、視聴者にはまったく無駄でチャンネルを変えさせるレベルの話。あんなの事前に別番組で説明して分散ダウンロードさせるとか、Dボタン側に逃がして文字で済ますとかできるだろ! 俺は一斉送信でサーバが落ちないかのほうが気になったよ。
あと、有名人を客席に散らせ「これくらい入れておけば受けるだろう」的な考え。
バブル期に入った人が作ってるんだと思うが、視聴者は漫才が見たいんだよ。モデルの顔が見たいんじゃねえんだよ。制作者側がバカにするのも大概にしろ。有名人を呼ぶならコメントを全員取れよ。メイクまで入れて客席で笑うだけで、ノーコメでギャラ貰って帰る奴を許すほど度量はこっちにはねえよ。
問題4 THE MANZAIの本来的な部分を踏襲していない点
初代のTHE MANZAIは元々洗練されてない舞台漫才をショー化するものであった。横澤さんが死んでいるとはいえ、当時のTHE MANZAIに敬意をはらっているのは西川さん位じゃないか…。2011年版としての進化がアレなのかもしれないし、余計なものを入れずに「4分見せている」ということは評価できるとはいえ、余計なものばかりつっこんでいる部分は「製作者側が漫才の力を信じていない」というようにしか取れないんだよ。
笑えるものを評価しよう、という意味合いでは、この矛盾があるものをあえて入れるという意味で審査は厳正であったのだろうが、全体には今回はコントっぽい物が多かった。コントであろうと面白いものを評価する、というのは正しいが漫才としてちゃんと漫才な作品をもっと増やさないと絶対的にダメだし、これも制作側がコントのほうが面白いと思っている証拠としか思えない。
あとたけしの茶番ダブルブッキング演出は不要。(いい訳としてはわかるが、別に漫才師がつっこみでいった通りOPが長くなければ全部の漫才を見れるわけだし、あとハラハラしないものを入れてどうするのかというか、単にたけしがTBSに入るまで、という尺を稼いだだけでしかない)
生で見なくてよかった。
また、15年くらい不遇な人たちが多かったので、それに光が当たるのはとてもよいことなのだが、雇用されない関係のため数百円のギャラからのスタートでも文句を言わず、売れないまま10年以上のキャリアが必要とされる日本では、漫才師として暮らしていくことが非常に難しいということがよくわかる。
皆主な仕事を漫才にして女の人に扶養してもらったりしているようだが、本来的な収入はある状態で、漫才は副業でやるのが適正だと思った。言ったらハングリーさがないといわれそうだが、べつに先輩たちが作ったストーリーに乗る必要ないだろ。黙ってればいいのだ。
特にチームKが好きだ。
去年だから、チームの発足からはかなり時間が経っている。AKBといえば劇場だぐらいの知識はあったので、とりあえずYoutubeやニコニコあたりでライブ映像を見まくった。CDやDVDを買うにしても、曲が多すぎてどれから手を付けていいかさっぱり分からなかったからだ。
で、「生歌」とタグがついている動画を見て、ああやっぱこれだけ踊ってたら生歌じゃないよな、と思って、生歌を聴いてみたいと思うようになった。
普段はあるバンド(全員男)を聴いていてライブに行くのが楽しみ、ライブのアレンジが楽しみでしょうがない、という感じなので、録音音源=その場のアレンジがなくて残念だと思ったのだ。ライブならやっぱ、一言のかけ声みたいなやつでもいいからその場で出してる声を聴きたいから。
Youtubeで生歌で探した結果、右におすすめとか関連動画って出るじゃん?あれにモーニング娘。が出てきたのだ。今現在のモーニング娘。
すごい!と思った。特に高橋愛と田中れいな。ファンが作った動画だったしコメントもファンが書いてたから、それ読んでテンション上がって余計すげえな!と思った。
AKBは生歌あんまりない、ということを知って残念だった。ものすごくものすごく残念だった。
俺はライブ=そこで歌ってる、だから、ダンスしてる姿も見たいけど、やっぱり自分がいる場所で同じ瞬間に、その場で出してる声が聴きたいから。
酷なことを求めてるなとは思う。
スケジュールは詰めまくりで、あれだけ人数がいて、あれだけ踊りまくって、なおかつうまく歌えというのは、惨いと言ってもいいと思う。なんか、ごめんなと思う。
AKBとモー娘。の動画をランダムに見ながら、色んな思いがわき上がってきた。アイドルに触れるのはほぼ初めてなので、ちょっと距離を置いた視点だったかもしれないけど、まだ十代〜二十代半ばぐらいまでのこの子達の将来が幸せであってほしい、というようなものに総括される思いだった。
AKBにはある種の痛ましさがある。今しかないのだ、今だけなのだというような、女性アイドルなら仕方のない刹那感。そして背後の操作が非常にうまい。楽屋裏も込みで売っている、そしてそれを皆暗黙の了解で呑んで今を追いかけている。
モー娘。にはそれがあまり感じられない。戦略上それを見せないということかもしれないが、タフでストレートなパフォーマンスだ。その場で見せられるもののみで勝負しているように見える。
また、モー娘。にはやはり「世間一般の目線は全盛期は過去であった」がつきまとう。あまりそこに悲しみがないのが不思議だが、世間の目やメディアの目はそうだろう。斜陽ながらも戦う王者だ。いや本当に、シングル曲のタイトルとかはマジでかわいそうになるぐらい酷いけど、ライブの彼女らは本当にかっこいい。乱れることもちょっと外すこともある、生の声の力はすごい。
AKBは今もまだ「これから」だ。後発が先発よりも優れているのは常に大前提(だと個人的には思っている)なので、もっと伸してくるだろう。まだ彼女らは挑戦者だ。展開も先発の成功/失敗に学んでがんがん行ける。バラエティや冠番組で見る彼女らは、側面をもっと見たい知りたいと好奇心をかきたてるし。
AKB vs モー娘。のバトルを見られたらすごくいいんだけどなと思っている。
楽曲面だけを見ればAKBがかなり勝っていると思うので、モー娘。のプロデュースをもっと頑張ってほしい、その上でアイドルの二強状態をものすごく見たい。
モー娘。というかハロプロ全体をざっと見ていて思ったが、本当に、本当に、残念なのである。つんくもうちょい考えろ。なぜだ、なぜお前は同じ男なのに分からない?
直接的すぎるんだ、モー娘。の歌は。いくらメロディーラインが美しくてもタイトルや歌詞で萎える。ど真ん中っていうのとそのままっていうのは違うんだよ…そしてなぜかやや古い。古典や青春の輝きぐらいまで古くなくて、絶妙に「思い出すと恥ずかしい」レベルの古さをなぜかずっと保っている。いくつなんだよお前は。
秋元康はそのあたりめちゃくちゃにうまい。ストレートなテーマを、その単語を使わずに思わせる、そういうのが本当にうまい。青春時代を鬱屈して過ごしました、かわいい女の子に憧れてしょうがなかったけどそれだけでした、そういう思いをワンクッション置いてぶち当てましたみたいな、まあ共感するのだ。有り体に言うと。
それが意図的なものだったとしても、気持ちよく乗っかってしまえるなら関係ないし。曲に乗らないでも詩として成り立っているというか。
俺は勝ち負けを笑いたいんじゃない。弱肉強食の世界だって言うのは分かるけど、ファン同士でワナに引っ掛けてライバルのアイドルを落とすようなのは嫌だ。
いい曲が聴きたい。アイドルにしか歌えないいい曲っていうのは確実にあるから、アイドルが歌うその姿に見惚れたい。歌に入れ込みたい。プロデューサーにはこっちの心をくすぐってほしいし、その歌にどっぷりハマらせてほしい。仕事の疲れいやしたい。
いつまで彼女達のことを、このアイドルグループの中で見られるのかなと思うと、涙が出そうになることがある。女性アイドルは後から後から幼い後釜が出てきて、活躍できる期間は大体短くて、そのことを思うと悲しくて仕方がない。