はてなキーワード: 穏健派とは
ぺちというのは昔からあったわけではなく、令和に入ってから確立された定理ですが、昔はぷちくらとして知られていたんですが、ぺちというものになった。このぺちというのは東大工学部卒の
学生ですが、警察官と関係があるんですがこれがなんといっても役に立たないのが普段は警察社会の中に隠れているのですが、穏健派という内容の定理なんだけど何も補完しないわけです。
穏健派なので、出てくるだろうと思われるような事案には出てこないから機能しないし、だから半分は人気があっても半分は意味が分からないから嫌われてるんですね。実際、この穏健派
というのは何の役にも立たんのですよ。実物はジジイで、黙って聞いているけど、あーそろそろやばくなってきた生命にかかわるからこれ以上はむり、とかいって事件を補完しないようなタイプの
穏健派のジジイの集団をひとまとめにしたのが、ぺちという概念なので、実際にはにせものですよ。自分の邪魔になるものに対してはいくらでも手を出す。だから何が穏健派じゃおまえ
1980 年代、心理学者のリチャード E. ペティとジョン T. カシオッポは、説得がどのように機能するかを説明する「精緻化尤度モデル」を開発した。ここでの「精緻化」とは、その情報をどれだけ注意深く考えるかという意味である。人々に注意深く考える意欲と能力がある場合、「推敲の可能性」は高くなる。これは、人々が関連情報に注意を払い、メッセージの議論の利点に基づいて結論を導き出す可能性が高いことを意味する。
他人を説得するには少なくとも2つの方法がある。最初の方法は「中央」ルートと呼ばれ、聞くメッセージを注意深く熟考することから生まれる。中央ルートが関与している場合、提示された情報を積極的に評価し、それが真実かどうかを見極めようとする。一方で「周辺」ルートが関与している場合、実際の情報やメッセージの内容以外の手がかりにさらに注意を払う。たとえば、誰かのメッセージの実際のメリットを考慮せずに、その人の魅力や教育を受けた場所に基づいてその人の主張を評価する可能性がある。
周辺ルートを通じてメッセージを受け入れる場合、中央ルートを通じてメッセージを受け入れる場合よりも受動的になる傾向がある。
有名な心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーは、人間を「認知的守銭奴」と特徴付けている。彼らは「人間の情報処理能力には限界があるため、できる限り近道をするのです。」と書いている。
動機や議論を処理する能力が低下するにつれて、説得には周辺的な手がかりがより重要になってくる。
議論(中心ルート)の実際の利点を比較検討して信念を更新すると、周辺処理を通じて信念を更新する場合と比較して、更新された信念は持続する傾向があり、反論に対してより堅牢になる。慎重かつ思慮深い検討を通じて何かを信じるようになると、その信念は変化しやすくなる。
つまり、周辺ルートを通じてより簡単に操作される可能性がある。周辺ルートを通じて何かを確信している場合、操作者は周辺ルートをもう一度使用して最初の信念を変えることに成功する。
心理学者のレオン・フェスティンガーは、社会的比較プロセスに関する影響力のある理論の中で、人は自分の意見を他人の意見と比較することによってその意見の「正しさ」を評価すると示唆した。他の人が自分と同じ信念を持っているのを見ると、その信念に対する自信が高まる。
これらの考えを総合すると、人間の心の中には何らかのメカニズムがあることが示唆される。たとえそれが真実であっても、自分の地位を下げるようなことを言わないようにする。そして、たとえそれが嘘であっても、自分の地位を高めるようなことを言うように彼らを駆り立てる。
さらに、自身の評判がどうなるかという考慮が私たちの信念を導き、私たちの社会的地位を維持または強化するための一般的な見解を採用するように導くこともよくある。暗黙のうちに「この信念を保持すること(または保持しないこと)が社会にどのような影響をもたらすだろうか?」と自問する。
説得の周辺ルートに戻ると、多くの人がそれを信じている場合だけでなく、その信念の提唱者が権威ある人物である場合にも、何かを信じるかどうかを決定する。
オックスフォードの心理学者セシリア・ヘイズは、著書『認知ガジェット』の中で次のように書いている。彼らは、同じ年齢と性別の同じくらい身近な人よりも、大人が社会的地位が高いと考えるモデル、たとえば学校の校長を模倣する可能性が高い。
それでも、私たちが高い地位を持つ他人を真似するのは、彼らを模倣することで自分の地位が向上することを期待しているからだけではない。権威ある人ほど有能であると信じがちであるが、プロミネンスはスキルのヒューリスティックである。
研究者のアンヘル・V・ヒメネス氏とアレックス・メソウディ氏は、威信に基づく社会学習に関する最近の論文で、能力を直接評価することは「騒がしくコストがかかる可能性がある」と書いている。代わりに、社会的学習者は、モデルの外観、性格、物質的な所有物などから推測することによって、ショートカットを使用できる。
ここで、次のような疑問が生じる。周辺的説得による操作の影響を最も受けやすいのは誰か? 教育を受けていない人々のほうが操作されやすいと信じるのは直感的に思えるかもしれないが、研究によると、これは真実ではない可能性がある。
心理学教授のキース・スタノビッチは、「マイサイド・バイアス」に関する自身の研究について論じ、次のように書いている。「あなたはそれに属しているのは、それらはあなたの気質と生来の心理的傾向に適合しているからです。」
一流大学の学生や卒業生は、自分側の偏見に陥りやすい。彼らは「自分自身の以前の信念、意見、態度に偏った方法で証拠を評価し、証拠を生成し、仮説を検証する」可能性が高くなる。
アメリカのジャーナリストであり、『第三帝国の興亡』の著者であるウィリアム・シャイラーは、ナチスドイツの従軍記者としての自身の経験をこう語った。シャイラーは次のように書いている。「ドイツの自宅やオフィスで、あるいは時にはレストラン、ビアホール、カフェで見知らぬ人と何気ない会話をしているときに、一見教養があり知性のある人たちの突飛な主張に出会うことがあった。彼らがラジオで聞いたり新聞で読んだりしたナンセンスをオウム返ししているのは明らかでした。時には同じことを言いたくなることもあったが、まるで全能者を冒涜しているかのような不信感を抱かれた。」
同様に、ソ連崩壊に関する研究では、大学教育を受けた人々は高卒者よりも共産党を支持する可能性が2〜3倍高いことが研究者らによって判明した。ホワイトカラーの専門労働者も同様に、肉体労働者に比べて共産主義イデオロギーを支持していた。
今日の米国内のパターンはそのような調査結果と一致している。政治アナリストのデビッド・ショールは、「高学歴の人々は、労働者階級の人々よりもイデオロギー的に一貫した極端な見解を持つ傾向がある」と述べている。これは、問題に関する世論調査やイデオロギー的な自己認識にも見られる。大卒の有権者は穏健派であると自認する可能性がはるかに低い。
この理由の 1 つは、時間や場所に関係なく、社会の富裕層の方が地位を維持したり、地位をさらに獲得したりするために正しいことを言う可能性が高いためであると考えられる。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンが主導した最近の一連の研究では、社会階級が社会的地位への欲求と積極的に関連していることが判明した。より多くの教育を受け、お金を持っている人は、「他人の意思決定に影響を与えることを楽しんでいます」や「名声や社会的地位を得られたら嬉しいです」などの発言に同意する可能性が高かった。
ケイトー研究所がYouGovと協力して行った調査では、全米を代表する2,000人のアメリカ人サンプルを対象に自己検閲についての質問を行った。
その結果、高校教育以下の学歴を持つ人の25%が、政治的見解のせいで解雇されたり、雇用の見通しが損なわれることを恐れているのに対し、大学院卒の学歴を持つ人の割合は44%であることが判明した。
政治学者のジェームズ・L・ギブソンとジョセフ・L・サザーランドによる「口を閉ざす:米国における自己検閲のスパイラル化」と題された最近の論文の結果は、Cato/YouGovの調査結果と一致している。彼らは、自己検閲が急増していることに気づいた。マッカーシズムの絶頂期だった1950年代には、アメリカ人の13.4パーセントが「以前よりも自分の意見を自由に言えなくなったと感じている」と報告した。2019年までに、アメリカ人の40%が自分の意見を気軽に言えないと回答。ギブソンとサザーランドは、「自分の意見を言うことを心配している民主党員の割合は、自己検閲を行う共和党員の割合とほぼ同じで、それぞれ39%と40%である」と報告している。
この増加は特に教育を受けた層の間で顕著である。研究者らは次のように報告している。「自己検閲に従事する人々が限られた政治的資源を持った人々ではないことも注目に値し、おそらく予想外である…自己検閲は最高レベルの教育を受けた人々の間で最も一般的である…この発見は、以下のことを示唆している。社会学習のプロセスであり、教育を受けた人ほど、自分の意見の表現を妨げる社会規範をよりよく認識している。」
興味深いことに、教育が自分の権力意識とマイナスに関連していることを示す示唆的な証拠がある。つまり、教育を受けていればいるほど、「自分が意見を表明しても、自分の意見はほとんど揺るがない」「自分の考えや意見は無視されることが多い」といった意見に同意する可能性が高くなる。
ミュンスター大学のリチャード・ラウ氏が率いる「他者の最良または最悪の見方:一般化された他者認識の尺度」というタイトルの論文を考えてみる。
研究者らは参加者に、ソーシャルメディアのプロフィールや動画に登場する人物を評価するよう依頼した。参加者は、「この人が好き」「この人は冷淡だ」などの発言にどの程度同意するかを尋ねた。その後、参加者は自分自身についてのさまざまな質問に答えた。
高等教育は一貫して、人々に対するあまり肯定的な見方に関係していなかった。この論文は、「人々の感情、行動、社会的関係を理解するには、彼らが他者に対してどのような一般的な見方を持っているかを知ることが非常に重要です…人々がより良い教育を受ければ受けるほど、他者に対する認識は肯定的ではなくなります。」と結論付けている。
したがって、裕福な人々はステータスを最も気にし、自分にはほとんど力がないと信じており、仕事や評判を失うことを恐れており、他人に対してあまり好意的な見方をしていない。
つまり、意見は、その真理値に関係なく、ステータスを与えることができる。そして、自分の地位を維持したり高めたりするために特定の意見を表明する可能性が最も高い人は、すでに社会のはしごの上位にいる人でもある。
くろんぼとかチョンとか差別に何も言わなくなった人というのは穏健派ではない。消極的加害者なのでそこは混同しないように
理解があろうがなかろうが、インセンティブがあろうがなかろうが、差別を看過してる人も差別の片棒担いでるので
そもそも反差別は既にある恩恵や社会規範や権益を壊していくものなので成熟とか高潔とか人間性の問題。インセンティブをむしろ手放していくものでインセンティブとは真逆に位置する思想
フェミとアンチフェミの間に中間層はいないので、どちらかしかない
フェミ(性差別反対主義)じゃないなら消極的セクシストでしかない
フェミというか差別についての知識が昭和レベルだなお前。高齢者か?
フェミ思想とか黒人差別反対思想とかに個人の好意を語るのがそもそもヤバい。黒人差別反対に好意的とか、好意的じゃなくなったとか、なんなんだ?お前は好意によって他人に人権を認めてやろうとか考えてるの?バケモンだな
元の話が
なんでネットってアンフェ男ばっかりなの?
後半何が言いたいのかいまいちよくわからんが、俺が言いたいのは人権とかフェミの思想に対する話じゃなくて「ネットでのフェミ」に対する好意の有無だよ
増田にも昔なにかの話を書いたら急に男は全員死ねみたいな狂ったフェミ連中が沸いてきて、それにリプ書いたら今度はこれは男のなりすましだからどうこう出てきて付き合いきれんから何も言わなくなったけど、
多かれ少なかれそういう経験をして穏健派な人ほど何も言わなくなる土壌はあると思っているっていう
フェミ思想に理解があろうがなかろうが、人権意識が高かろうが低かろうが、発狂されたあとでまともな人がわざわざ狂人に寄り添うインセンティブはないし、追加で発狂して言い返す過激アンチフェミくらいにしか掲示板に書き込む理由ないやろ
そやから正解も教えてくれない奴っていうかものに誰が興味もつの? もともとさー、いたばし花火大会って、昭和25年からやってるんだけど昔は、児童や学生が、天空に上がる
花火を見て、あれが正解だなあと思って、数学や物理の勉強をしたと思うんですよね
しかし、最近の花火大会って何のためにやってるか分からないじゃん、普通、 こどもに参考にさせるためにやるとおもうのですね、じゃないとあんな趣旨不明なものをなんで板橋区が
開催するのか分からない
どんって上がってぱってなるからきれいだなあ、じゃなくて、数学上の定理の発見の過程などもそれと同じだから、こどもは参考にするようにということではじめたんじゃないのか
もともと花火って天空に上がるけど、まあ加藤周一が日本人は天空に舞い上がるのを嫌うのでと言い出したのが昭和55年頃だからそれ以来、いたばし区民って、隠れるようにやってきたと
思うんだけど年に一回こっそり開催したり、別に現場にこなくてもいいようにしている、令和、2,3,4年は開催もしていないしね
佐藤はあえて、花火大会に対する魅力とかも言わないけど、結局、三平方の定理ってきれいだってことなんですよね 直角のときだけそれが成立するので
だからそういうのを花火でみせるのが花火大会で、それもいわなかったら誰もいかないと思うよ
それに、平成11ー19年の間に東大法学部に行って散々貢献していた俺を公共社会が認めていない時点で、限りなく昭和の社会に似ているにせものじゃん
その点についても、佐藤が、特に、いたばし花火大会をみることで、よつかどからコメントしないことも卑劣だと思うんですよね
あと史上最悪の性虐待事件って言われてもなんのこつか分からないし、それを森脇進一とその仲間の3,4人がしたことは理解できるがそれ以外は分からない
黒羽刑務所には、 加藤恵子と、安徳と、 佐藤と、色々いたけど、加藤恵子は、 色々言いたいことがあるんだよ、といっただけだし
黒羽出所の1か月前の平成26年3月に黒羽の風呂場で、森脇進一が、 いいことばかりしてきたのに裏切ったからな、といって怒りまくったが何言ってるのか分からなかった
やってることと言ってることが支離滅裂。 長谷川順一の場合は、終わりだ、としか言わないし、出所後どんだけ支離滅裂で
のえるいかくんや、びっくりからはきっしょとか言われて、ざーちゃんからは、やーいおまえんち実に虚無じゃありゃせんか(ねっとり)とか言われて
おぺちからは、穏健派だけどうるせえくそばっかりだし、でかぺちからは、こいつ大したことない奴だ、かえれかえれとしか言われてない
黒羽刑務所から出てきて平成28年4月に晴生がビビックのインターネットを解禁したのですが、それまでは低速度のポケットワイファイをしていたので、ビビックに解禁になってから
Twitterとかいう奴をみていたら、ざちゃんと連携しているのえるいかくんから、ねーわ死ね、白髪は捨てたんじゃとか言われ、もどきからは、きっしょとか言われてどうにもならなかった
状況で、ぷちくらというのがいて、穏健派で有名とか言って、ぷちくらを何回かApplyしたらそれが技術になってなんとか幼稚園の審査に通って入れてもらったというような経緯ですが。
それで本質的には流行っていないものが好きだから流行っていないところを転々としていたら今一番流行っていないところにいることになって、しかし実際に東京にきてみたら、昭和の人って
色々な技術を知っているだけで思っているだけで存在していないっていうのがつまらなくて、しかも、東京の街を見ても、どこが技術成り技法なのかが見えないというかそういうところは見えない
ようにしているので、あえていえば警察法において警官が貸与されている拳銃は一つの正解を与えるものであると思うが、それを超えて、自動車やマンションの製造工法とか、建築学に
おける工法の中に存在する超難問とかになると全然分からないしものの本も読む気もしないので、法律についてもそうですが、そういうものはあるんでしょうが、目に見えないので、
どこにあるか分からないので読む気もしないですね。
東大法学部を出たのに経済的ないし実際的に必要がないから迫害を行うようなクズは許さない。そういう意味で私は金が要らないといっているのでだから家で寝てるわけです。
そういう観点からみても、おぺちさんは穏健派でなんとかしてもらって、ぺちぐらいの生活費は出してくれるし、ざちゃんもいるので
それ以外にもそことつながりのある人として、もどきとかやもちとかびっくりとか色々いますが、おぺちさんは、白髪を捨てたという言動が聞かれましたのであまり相容れるかというと相容れない
大もぐら界の方をみてみますと、大モグラ界って、特大もぐらは黒羽にいましたが、佐藤は大もぐらで、高野伸が中もぐらですね。
あとはですね、多分、すじさんって話す内容を決めて適当に英語をつまんでるだけなので、サプリのきもいですが、980円で講義してるしね、中身が巡査だから980円の価値しかないからだと
思いますが。あとはなんですかね、私は文Ⅰ入る前に死ぬほど貢献して、それに対するものがですね、中島康弘が、働かなくていいっていうのしかないんですね
正義欲には正の発現と負の発現がある
正の発現は、正しいことを言いたい、正しいことをしたい、良いことをしたいというもの
負の発現は、間違ったことをしたくない、間違った者を糾弾したいというもの
正義欲で注意したいのは
ことである
「正義の安易な行使に問題が有ることを認識して正義欲を抑制」する人というのも存在する
メタ正義欲は、局所最適を避け、より大局における幸福を考えているが、それもまた正義欲であることに注意したい
これが発現する際に自己に向かう人も居るし、他者に向かう人も居る
例えば、悪人を過激に批判する人を落ち着かせるのはメタ正義だが、悪人を過激に批判する人を殴り倒すのはメタ正義の崩れである
ただし、メタ正義の崩れは判断が難しいケースが多いので注意が必要である
もちろんそれが良い効果を生むことも有るが、最悪死者が出ることも有る
正義マンによっては「死んで当然」と思う人と「死ぬほどではない、そんなつもりではなかった」という人がいることにも注意が必要である
まとめると
正義欲がある
となる
個々人が全てそれに当てはまるというよりは、行動ごとにそれらが変化すると考えていただきたい
なお、一番わかりあえないのが、メタ正義の人と過激派正義マンであり
メタ正義の人は「だから叩きすぎるなと言ったのに、これには正義マンも後悔するに違いない」と思うだろうが
となり、前提としてゴールがそもそも違うので理解し合うことはない
今考えた
※注 この記事は当該活動家の意見や活動を批判する目的ではなく、職業的な立ち位置が一転した経緯や理由の一例として考察し述べたものです。ご本人への凸は控えてください。
自分が追っていたとあるアイドル(女性)が活動を終えた後、活動家としての仕事を始めていた。
正直かなり驚きだった。なぜなら、アイドル時代のコンセプトはかなりキャピキャピ系というか、男性向けというイメージが強いものであったからである。もっとも時を経るとそのグループも彼女の意思で女性向けで媚びたりをしない色が強くなってはいたが。
活動家としては最もな意見や元アイドル、比較的若年だからこその視線を持ち、なかなか活躍されているように感じられる。彼女の主な意見は「恋愛には興味がなく、いわゆる媚びが嫌いなのにグループ時代には運営から強要されていた」「女性にも自由がある」といったものである。
だがその一方で、「恋愛には興味が無い」といった主張の反面で
・自身が過去に恋愛疑惑があったことやそれに対する意見(恋愛したっていいだろ!にしろそれはデマだった!にしろ)がない点や
・グループの同僚にも「いわゆる男性ウケを狙うことも1つの生き方だし尊重したいよね」と(直接でないにせよ)SNSで意見の相違を見せられたりしていた点
に違和感を覚える。
仲間にも穏健派がいる一方、何故彼女は毅然とした活動家の道を選んだのだろうか、という事について考察したい。
第一に彼女のグループ活動中最も語り継がれているのは初期時代である。つまり肌の露出が多めの男性向けの色が強かった時代だ。(追記するがこの時代はそもそも今ほど女性アイドルに女性ファンが付くことを想定していなかった。)
肌の露出も多かったもののメディアの露出も多く、そのカワイイ世界観は女性、女児のファンも多く獲得、今でも界隈のアイドルヲタの間ではちょっとした伝説となっている。しかし、運営側にはいわゆるパワハラ問題もあったらしく、無理なキャラ強要や過密なスケジュールがあるようだった。しかし人気は当時かなりのものであったし、売り出し期間だからかメンバーは踏ん張っていたように感じられた。
その人気時代が変化するのが前述のスキャンダルである。確固とした証拠こそないものの、「普通に考えたらこれは本当だろうね」と思える程度には怪しいものであった。複数メンバーが同時に疑惑を向けられたものであったのも特徴的だった。個人の意見だが恋愛に走ったのもパワハラまがいの扱いを受けていたことが理由であると考えられる。結局公式側でスキャンダルを認め謝罪することはなかったが、推されまくった期間から一転所謂「干され」状態に変化した。
そこからは人気メンバーの卒業や新メンバーの加入が重なり、長い干され時代が続いた。ブラックな体質だけはそのままで凄まじい数の握手会をこなす中、彼女は明らかに病んでいる状態になって行った。
その中で媚びる売り方を変えるよう訴えグループの色を変えたのもまた彼女であり、人気を安定させるほど復活させるなどグループにとって必要な存在になった。グループを確固たる場にした後に去り、現在に繋がっている。
彼女はアイドル史から見ても偉大な存在である事は間違いないと言える。ガチ恋勢をメインターゲットとしたアイドルから同性に好かれる生き様を示すアイドルへ転換したのは彼女の功績も大きいと言えるだろう。迷惑ヲタに注意したり意見をキッパリと述べるなど従順な女性像を真っ向から否定したのは今後のアイドル達にとっては素晴らしい先輩だと考えられる。
だが、スキャンダルの噂まで流れたほど「活動」とは遠かったの彼女がそこまでキッパリとするに至るまで、初期の純愛ソング(ファンからの支持が大きい)をもう歌おうとはしなくなるまでになった裏には過去の運営側への不信や閉じられたファン達の不信があったと思わずにはいられない。
過密すぎるスケジュール、目に入るのは偏った男性達、握手会で湧いたであろう多数の説教ヲタクや性的な視線(重要なのは彼女は「ブサイク」等と煽られるよりはいわゆる美人でビジュアル的な人気があったメンバーであったことである)、その割には姉妹グループよりもメディアの露出が少ない、スタッフのパワハラ、周りが知っていて褒めるのは初期のメンバーや路線……
こちらから見えるだけでもこれだけの問題が彼女の周りにはあった。上がり目を知りつつもグループを支えないといけない初期メンバーとして、相当辛かったのではないだろうか。
辛い経験を活かし、今の彼女には頑張ってほしいと思うし、性的な目で女性を捉えないことは当たり前で非常に大切だ。しかし怒りが原動力で過去の賞賛すら否定する、傍から見ると幸せそうには見えなくなってしまった理由には性別以前に未成年へのメンタルケアの不足があったことは否めないだろう。
今は彼女の功績もあり、業界全体でより気持ちに寄り添える女性ヲタクの増加(勿論同性だからこその鋭い批判もされるが)や成人済みアイドルの増加、男性向け路線でも割り切って活動するアイドルも多いように感じられる。だが、アルバイトすら出来ない未成年に知らない大人との握手を求める職業であるため、慎重な活動や応援が求められるだろう。
客商売のアイドルは勿論、全ての女性・男性が未成年のうちにのびのびと広い視野を持ち育つことの出来る環境を作る。それこそが、「何だか苦しそう」な人を減らす重要な手段になると考えられる。
最近の言論が非生産的とされるのは、政治に対する考え方が敵味方と関係していると判断されることにある。社会はどのような立場をとるかによって左右のスペクトルに位置づけられるという感覚に陥っている。
左端は「共産主義者」、左中央は「進歩主義者」と「リベラル」、中央は「穏健派」、右は「保守派」、そして右端は「ファシスト」である。従来の常識では、政治にはいろいろな立場があるように見えるが、その根底には「変革」「現実主義」「社会正義」など、一つの理念や主義があり、それを束ねるイシューがあるということだ。
多くの人がこの「スペクトル」モデルの政治を信じているが、左派や右派のあらゆる政治的立場が、根底にある一つの根源イシューから生じていることを示す証拠はあるだろうか。政治には、他のあらゆる複雑な領域と同様に、何千もの問題があり、それらについて考える方法はたくさんある。
では、一次元のモデルに魅了され、多次元的な政治的現実を見ることができなくなっているのだろうか。それともそのような一次元化がまさに本質なのだろうか。
例えば共和党が何をやっても、たとえ正反対の政策をとっても、必ず "右傾化 "と呼ばれる。自民党でも同じである。では、「右翼」というレッテルは、共和党の政策について何を伝えるのだろうか。まさに何もない。しかし、共和党を嫌う人々は、共和党をヒトラーと一緒にすることでレッテルを貼れるのである。
「左翼」あるいは「右翼」と呼ばれる一連の信条の背後には、統一的な原理や哲学が存在しないため、この左・右のイデオロギー観から生まれる用語(「進歩的」「自由主義」「保守」「反動的」)は、部族の意味以外には意味をなさないと心理学者は考える。ある人が保守派に属していると言うことはできても、それが政策的に何を意味するかは、その部族がある文脈で何を支持するかに完全に依存する。
では、なぜ「リベラル」や「保守」が信じていることの背後に単一の哲学や世界観があるという集団妄想が蔓延しているのだろうか。一部の人はある人を「ネトウヨ」と呼ぶかもしれない。それは、教育に対する不信感を表明するような態度から「低学歴」を想像するからかもしれないし、中国の脅威を叫ぶことが「差別主義」と同じように見える人もいるのかもしれない。「イデオロギーとは、ナルシスティックな時代における自己満足の道具なのだ。」という言葉そのものが、イデオロギー対立をする人々を敵と見做したナルシストであることは興味深い。
心理学者は長い間、人間には帰属意識と意味のあるコミュニティが必要であることを理解してきたが、イデオロギーのおかげで、我々は自分たちの部族が信じていることすべてに賛同し(それが常に変化しているとしても)、自分たちの部族が支持していることが実は「保守主義」や「進歩主義」の哲学に縛られていることを事後的に料理して説明できるのだ。このような話術は、占星術師が誇りに思うだろう。
二項対立のレッテル貼りはドーパミンを放出し、部族を結びつけるが、民主主義の健全性にとってはどうだろうか。スペクトルの観点から考えることは問題を通して考えたり、別の視点を考慮したりすることをできないようにするだろうか。
「もし二項対立のレッテルを貼るのをやめ、他のあらゆる複雑な領域でそうしているように、粒度の細かい説明を使うことができれば、現代の公的生活を特徴づけている混乱と敵意を払拭するために大きな前進を遂げることができるだろう。」と希望的観測を述べる人もいるが、部族主義よりももっと根本的なことがある。
それは、緊縮財政に陥った社会のゼロサムゲームがスタートしていることが挙げられる。その場合、「どうやってパイを分けるのか」についての騙し合いが始まり、その騙し合いこそが「イデオロギー」という最大の綺麗事に変換されるのである。
自称教養人は「スペクトル」を包括的に考えることを笑い飛ばすだろうが、そのスペクトルの背後の経済学(つまりゲーム理論)について真剣に考えるべきだろう。部族主義、なんて怪しい言葉を使うのは胡散臭い心理学者だけで十分である。
会話型AIの政治思想:ChatGPTの親環境、左リバタリアン志向に関する収束的証拠
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2023arXiv230101768H/abstract
暇空茜が青識亜論をパージしたのを「そこまでしなくていいのでは?」と思う人もいるのだろう。
そういう人は青識亜論を「対話重視の誠実な穏健派」だと、ふんわりイメージしているので「具体的な事実」でそれを否定する。
Twitterの複アカ(フェミのなりすまし)で、あぶぶ氏の企画を炎上させようとした。
女性を「家畜」として性的に消費する企画。「人権」が制限され、繁殖ために強制的にセックスをさせられるような描写を含むもの。いくらR-18とはいえ、pixivという万人が参加するプラットフォームの公開型企画としてやるのは、度がすぎるのでは。
https://togetter.com/li/1884753
(ちなみにログを掘り起こせたのがこれだけ、という意味で、他にどんなことをやっていたかは分からない)
創作者の表現を燃やし、批判者と対話せずにブロックし、なりすまして扇動する人間が「対話重視の誠実な穏健派」ですか?本当に?
創作者の表現を燃やし、批判者と対話せずにブロックし、なりすまして扇動する人間が、目的を共にしている関係者みたいに思われるのって、デメリットしかないと思いませんか?
最後に逸れるが、表現の自由を守りたいのなら青識亜論を排除(批判でなく排除)するのは前提条件で、
これすら実行できてない、もへもへ、手嶋、ヒトシンカのようないわゆる表自界隈は、
こいつらはこれを繰り返すだけ。
フェミもアンフェも別に暇空を嫌うのは良いだろうけどこの件で青識擁護するのやめたほうがいいよ。
青識はなりすまし垢を今も使って対立を扇動してるって明言してるし、知りもしない福祉の話で現場に立ってた人間に批判されたら「でもでもだってだって」を連呼したり同じ質問を何度も繰り返して揚げ足を取ろうとしてる。
フェミからしたらいつなりすましで言ってもないことを言ったことにされるかわからないし、女性の福祉や人権を踏みにじるような嘘を言われるか分からない。
アンフェからしてもいつの間にか荒唐無稽で変な主張を掴まされて扇動されてきたわけだし(パパミルク事件とか)。
あとついでに手嶋もそういう類だよね、自演はしないけど表現の自由先行でペド合法化みたいなあまりにも現実離れした主張を展開してる。
暇空がブロック連呼しててなんか見苦しいのは分かるけど、実際とんでもないクズが穏健派のフリして触手伸ばしてるんだからいい機会だしここできっぱり排除したほうがいいよ。