もやっとする。
初回の「なぜいじめは無くならないのか?」の回を見る。
討論というのはであれば、
いじめの定義づけをしてほしい。
文部科学省が出されている定義をフリップ1枚出せばすむものを出さない。
評論家、社会学者ともにいるのに、定義をまったく触れない。
座談会・楽屋の駄話であれば、わかるんだ。
討論と銘打つのであれば、討論の体を保ってほしい。
「私はこんなに不幸なの(だったの)よ」と話すのであれば、討論の必要があるのだろうか。
また、評論家の宇野常寛が学校教育の流れおよび現場を見ない印象論だけのイメージを話す場面も
あったが、評論家でかつ学校教育について触れるのならば、それなりの知見のもと話すのが筋ではないのか。
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